僥倖

 明朝。東の山から朝日が覗くと、溌溂とした陽光が、連なった針葉樹林へとぶつかる。黒い葉の隙間からこぼれる光は、風に揺れてきらきらと眩しい。水をいっぱいに含んだ空気が、木漏れ日を不規則に反射させると、黄金色の靄が放射状に伸びた。透き通る朝と幸福に包まれながら、私はひとり歩いていた。庭にある蛇口までの少しばかりの道のりを、下生えのようになった朝靄をかきわけ、噛みしめるようにゆっくりと。
「毎日五分は日の光を浴びたほうが良い」
 七日前、鬱々とした気分に毎日を支配されつつあった私に、医者は助言した。生来のマイナス思考である私は、暗澹たる日常が、精神の病という免罪符を授かることによって終わることを医者に希った。医者は、私の訴えを得心したかのように頷くと、不摂生に気を付けて、規則正しい生活をするようになどと全く見当違いなことを言った。私が、いいや違う免罪符をと食い下がると、
「あなたのは鬱ではなく、性格である。現状を嘆くだけ嘆き、それを変化させようと努力しないのは、怠慢以外の何物でもない。」
と、ぴしゃり。怒りと恥かしさで、言葉を紡ぐことができなかったのは、おそらく私が医者の言う通り怠慢だからだろう。口をへの字に曲げ、しょぼくれて押し黙った私を見て、医者は淡々と生活の仕方を述べた。
 帰宅。陽光でどうこうなるものなのかと半信半疑であったが、まあ何もしないよりかはましだな、と私、さっそく次の日の朝は早い。さて、すぐにでも日の光を浴びれる状態だが、数秒じっとしているのも苦になる質の人間に、ジーっと太陽へ体を向けておけというのは、土台無理な話である。と思って、ぼんやり。自室が眠気に満ちているような、どんよりとした空気。はっ、と私は天啓がひらめく。朝の歯磨きの時間で日光浴をする、という一つの石で二匹の鳥を落とすような妙案を思いついたのだった。私は自室の窓をがばっと開け放って、どんよりとした空気を外へ追い出すと、家の中の洗面台から歯ブラシと歯磨き粉をむんずと手に取り、外へ飛び出した。
 山がちの複雑な庭を抜けると、真新しい蛇口が見えた。そういえば、水漏れかどうだかで、新しく取り付けたのだったか。地面から延びるバター色の四角柱。天辺の誇張したような黄土色のカバーの真下、ステンレスの銀鼠に光る、痩せて硬直した象の鼻のような蛇口は、ポリエチレンの安っぽい洗面台に迎えられていた。首にタオルをかけた寝巻姿の私は、その淵の太い所へ歯ブラシと歯磨き粉を置くと、ひんやりとした蛇口を少しばかりひねる。キュッ、と金属のこすれる音を皮切りに、サ行の音が水道管の内側を撫で、細く冷たい水がポリエチレンへ滴り、柔らかくはじけた。お椀型にした自分の両手の平をそこへ差し出すと、同心円の波紋を描きながら、水がみるみるうちに溜まっていく。勢い私は手を平にしながら、顔へ水を浴びせた。少しばかりくしくし。こびりついた夢の残滓を拭うようにしてから、また、私は手を差し出す。顔に、いっそうひんやりとした空気を感じながら、私はその日の目覚めを自覚すると、歯ブラシを手に取り、歯磨き粉を塗りたくった。
 静謐な朝、暖かい陽光を浴びながら、歯を磨くというのは中々に心地が良かった。まだ残る冷たい夜気に身の締まる思いを感じながら、口腔内の不浄を落とすのは、ある種、清めの儀式の様なものだ。それでいて、朝日が体を温めてくれるので全くの苦行というわけではない。わだかまる鬱々とした気分は、この罪深いほど贅沢な習慣によってあっという間に忘却できるだろう、などと私は楽観していた。

僥倖

僥倖

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-04-05

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