夢日記 2021.3.27

 隣には先生がいた。だから僕は安心して砂浜を歩いていた。海辺は晴れていて、日差しはあたたかかったけれども、海から吹く風はすこし冷たくて、僕はコートを羽織っていた。先生が白衣を着ていたのは、僕がそういう格好をしている先生しか見たことがなかったからだと思う。けれども診察室とは違って、夢のなかの海辺は波の音が響いていた。
 最初に気づいたのは先生だった。あ、と言って、先生は波打ち際を指差した。南に広がる海は日差しを反射してきらきらと光っていたので、先生の指差す方を見たとき、目がちくっとした。波が打ち寄せて、さあっと引いたとき、なにか大きな箱のようなものが見えた。
「時計ですね」と先生は言った。「振り子時計だ」
 それは横倒しになって、波に打たれていた。なのに振り子は正確に一秒一秒を刻んで揺れていた。水平に、ゆらゆらと。へんだとはおもわなかったのは、夢のなかだったから?
「斉藤くん、M先生です」
 そう言った先生の隣に、女性が立っていた。M先生だった。
 じゃあこれで、あとはM先生、よろしくお願いします、というような身振りで、先生は去っていった。海辺に僕とM先生だけが取り残された。
 M先生は以前通っていたクリニックでお世話になった先生だった。大柄な女性で、水色のアイシャドウをつけていた。僕にとって「先生」はふたりいて、そのうちの最初の先生だった。転院した先のもうひとりの先生、振り子時計をみつけたほうの先生はもういなくなっていた。
「行きましょう」
とM先生は言った。僕たちは防砂林のなかを進んだ。
 防砂林を抜けて、大きな道路、国道134号線を渡ると工場があり、僕たちはそのなかへ入っていった。体育館ほどの広い空間のなかに何台ものミシン台が並んでいて、女性たちが服を縫っていた。蛍光灯がついていたけれども、薄暗かった。誰も僕たちには気づかずに、一心に服を縫っていた。ミシンの音が響いていた。先生は立ち止まって、
「戦闘服を作っているの」
と言って、また歩き始めた。え、戦闘服? とおもったけれども、先生が構わず奥の方へ進んでいったので、なにも聞かずに僕は彼女についていった。
 いくつかの部屋を通り過ぎた。そうして、たぶん工場のいちばん奥の部屋に着いたとき、先生は立ち止まった。だれかの書斎のようだった。ふかふかの椅子がいくつかと、窓際に大きな机が置いてあった。窓からはひかりが差していたけれども、弱くて、部屋のなかはやっぱり薄暗かった。その部屋の壁には僕の背よりもずっと大きな本棚が備え付けられていて、びっしりと本が、どれもこれも分厚い本が並んでいた。
 先生はそのなかの一冊を抜き取って僕に見せてくれた。でも暗くて表紙の文字がよく読めなかった。
「ブラックバード図鑑です」
と、先生は図鑑を開いた。そのページには、しおりのように、一枚のハンカチが挟まっていた。そのハンカチを抜き取って、先生は
「これで拭いてください」
と僕に言った。
 え、なにを、ですか、と、図鑑から先生の顔へと視線を移すと、先生は「手です、手」と言った。僕が掌を広げると、そこには茶色がかった青い液体が付いていた。においは覚えていないけれど、その液体はぬめぬめしていた。
「ブラックバードの血液は青いんです」
 先生は言った。
 僕は血が青い生き物のことを思い出した。高校の生物の授業で習ったことがある。ヒトとかの赤い血液とは成分が違って、ヘモグロビンがどうとか、鉄のかわりに銅が含まれているとかで、イカだったか、なにかの昆虫だったような気もする、とにかく青い血液をもつ生き物がいることを思い出した。でも、ブラックバードの血は青いの? そもそも、僕はブラックバードという生き物をよく知らない。名前だけは聞いたことがあるけど…
 そんなことを考えながら青い液体がついた掌を見つめていると、先生は持っていた図鑑を置いて僕の方へ近寄り、そのハンカチでごしごしと手を拭いてくれた。
「ブラックバードの血液は青いんです」
 先生はもう一度呟いた。先生の手はひんやりとしていた。
 手についた血を拭ってもらいながらぼうっと窓の外を見やった僕は、あっ、と声を漏らした。窓の外、月桂樹のような樹の隣に置いてあった振り子時計の上に、小さくて黒い小鳥がとまっていた。ブラックバードだ、とおもった。先生、見てください、と僕は先生の手をはらって窓の外を指差した。青い血液がついたハンカチが床に落ちた。
 先生はちょっと驚いた表情をしたあと、
「ほんとうだ」
と、やさしくほほえんだ。
 ブラックバードは飛び立った。次の瞬間、小鳥はクロアゲハに変身した。
「羽化」
 先生は呟いた。あまりにも自然で、あたりまえのことのような言い方だったので、僕はブラックバードがクロアゲハに羽化したことを不思議にはおもわなかった。そうか、羽化したんだ。その瞬間が見れてしあわせだとおもった。黒い蝶はふんわりと飛び去った。小鳥だった蝶が飛び立った振り子時計を僕たちは見つめた。今度は、振り子は垂直に揺れていた。

夢日記 2021.3.27

夢日記 2021.3.27

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-03-27

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