二月・二

 それから出汁とコーヒーの匂いが混ざる日々が、二月のあいだ続くことになる。冷たい空気、カランコロン、いつものドアのベルののち、温かい空気と鰹出汁の匂いがやってくる。行くたびにわたしは、ああ小料理店の匂いだ、昔を思い出す匂い、を皮切りに、この匂いはここの店には合わないな、やはりコーヒーの香りがしっくりくるな、という、一連の心情の変化を幾度も体験した。ひとつひとつ、それはしみじみと。しかし慣れとは恐ろしいもので、その流れはだんだん短縮されていった。四回目くらいには、それぞれが一瞬で脳裏を過ぎ去っていくだけになり、殆ど消滅したと表現してもいいくらいになっていた。
 その四回目の来店時、わたしは悩みを零した。マリオンに借りた恋愛小説を返そうと思っているのだが、中々鉢合わせないという悩みだった。ちょうど聖バレンタイン・デーが、目の前までやってきている頃だった。「そういえば最近、見てないな。」とは店主の証言である。「忙しいんじゃないか? ほら、もうすぐバレンタインだし。」
 確かにそうかもしれない、とわたしは思った。彼女の纏う雰囲気から、バレンタインという女子めいたイベントを大事にしていそうなことは充分わかる。キャンディ・ポップと自称する髪色にぴったりの、あまいかおりを漂わせる彼女。いつでも夢心地で、瞳にはハートマークが浮かんでいるのではないかと見紛うほど。リュカさんにあげるのかな。わたしはぼんやり邪推する。しかし、すぐに心の中で撤回した。リュカさんにチョコレートを渡すのは至難の業だろう。何故かというと、彼はこの時期になるととんと姿を見せなくなってしまうからで、渡せなかったと嘆く女性たちをわたしは今まで幾人も見てきたし、マリオンもそれは見てきているはずなのだ。
「わ、見て、ノラ。このお麩、ハートマークみたいだよ。」
 おたまを持つ店主から、嬉々とした声が上がる。今日は麩の味噌汁のようである。一方、水の入れたコップで不協和音めいた聖バレンタインの流行歌を奏でていたノラは、「いい歳して気色悪いこと言わないでくださいよ。そうやってまた婚期を逃すんだから。」と毒づいていた。

 舞う。クラブが、くるくると翻って。飛ぶ。ハートが、愛する人に吸い込まれるように。砕ける。硬度の高い、ダイヤでさえも。突き刺す。冷たく鋭い、スペードの剣先。

「ハートかな。」
 リュカさんは、風に舞うトランプを眺めながら回答した。意外ですね、とわたしは言った。
 数秒前、わたしは本当にくだらない質問をした。トランプのマークだったら自分はどのマークに相応しいと思うか、という質問だった。その質問の語尾に被せるように、突如として大きな風が吹き、広場を埋め尽くしていたトランプを舞い上がらせた。それはまるで、鳩が一斉に飛び立ったかのような景色だった。わたしの意識は荒々しく舞うトランプに注がれた、先だって口をついた質問のくだらなさまで吹き飛んでしまったみたいに。わたしは呆気にとられたままだったが、冷静なリュカさんは一瞬の沈黙のあと、律儀に答えた。
「そう。意外かな。」
「はい。勝手に、スペードだと思っていました。」
「スペードは、騎士。ぼくには、腕力はないからね。」
「ハートは……。」
「聖職者や僧侶を指すといわれているね。」
 そういう風に言葉を添えられてみると、確かにリュカさんにはスペードよりハートのほうがしっくりくる気がするのだった。知識を豊富に蓄え、白い法衣を纏い人を導くリュカさんの姿を、わたしはまるで見たことがあるかのように思い描けてしまう。
 一方わたしは、自分をクラブだと象った。消去法である。ハートやダイヤのような華やかさは、なんとなく自分にはない気がしたし、スペードのような洒脱な雰囲気も、残念ながら持ち合わせていないと思うし、そうしたらクラブなのか知ら、と思い至った次第である。「いいと思う。」リュカさんは肯いた。「とてもね。」
「クラブは、どういう意味があるんですか? ハートにおける聖職者のような意味合いでいうと。」
 わたしの追求に、リュカさんは少し困ったようになってしまった。
「先に伝えておくと、ぼくは、きみの答えがとてもいいと思う。でも、きみのその質問に素直に答えると、きみは悲しがるだろうから、言うのに少し勇気が要るよ。」
「リュカさんが言わないのなら、家に帰って司書さんに訊くだけです、それならリュカさんの口から知らされた方がいいでしょう?」
 リュカさんの前置きのせいで余計に不安になり、わたしは蓋をするように催促をしてしまう。するとリュカさんは漸く諦めて、「ハートが聖職者なら、クラブは労働者だよ。敢えて過去の社会階級で当て嵌めるならね。」と、やさしさを交えて教えてくれた。
「でもね、季節で当て嵌めるなら、クラブは春なんだ。トランプはそれぞれ十三枚あるけど、不思議なことに、一年を四等分すると十三週になる。ダイヤは夏、ハートは秋、スペードは冬。クラブは、春。だから、きみにぴったりだ。」
 眼前のトランプは、吹き荒れる風でまだ舞い続けている。毎年、二月になるとこういう風が増える。春の風だね、とリュカさんは言う。ほら、きみの季節だよ。
 それ以来リュカさんとは暫く会っていない。作ったチョコレートを自分で食べたと着飾った女性たちがぼやくのを聞く限り、この季節には、誰もが彼には会えなかったようだ。

二月・二

二月・二

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-03-26

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