栄えある行為

どこか遠いところへ行きたくなった。衝動的な思いを抱えながら今日も終電を待っている。あと10分もせずに今日が終わる。
 私は誰かの役に立てているのだろうか?
 手にぶら下げる通勤鞄のように、毎日嫌な仕事と面倒な人間関係にもまれくたびれて見る影もなくなってはいやしないか。
 夜になれば自分の惨めな影を見ることもない。その代わりに、自分の立ち位置すら曖昧になって、わずかに自販機の灯りに照らされて確認できる実態を見て落ち込むのだった。
 あと何分で電車は来るの?
 人生を清算できるくらい巨大な車両だろうか?
 今朝、このホームで人身事故があったらしい。隣の人の読む新聞を垣間見て、私はまるで自分ごとのように畏怖した。こうして自分の死は名もなき他人に知られて、使用済みの新聞ごと塵にされてしまうのか。
 塵にされるのはいいのだ。
 ただ、その前に数えきれない他人の目に晒されるのが怖いのだ。ひっそりと消えるように、静かに降りたいだけなのに。大衆は私に注目している。降りる際の私だけ、目に焼き付けるように凝視するのだ。
 そこまで人の死が好きなのか? それは私にも言えることで。
 どうせ一日二日経てばそのうち人身事故のニュースなど忘れてしまうのだ。
 たった一瞬のこと。死ぬのも、人々に注目されるのも。
 なのにその一瞬が怖くてたまらない。
 間違って一瞬が永遠に引き延ばされやしないか? 自分を知る誰かが死ぬそのときまで、自分のことを覚えているのでは、ダメなのだ。
 空き缶を捨てた直後からその記憶が流れてしまうように、私が死んだ直後からすべての人の記憶から私のことは抹消してもらわないと、非常に困る。
 静まりかえる駅のホーム。
 今朝と同じ場所だとは思えない、異質な雰囲気。
 笑っても泣いてもうずくまっても倒れても踊っても落ちても誰も気づかない。
 何をしたって誰にも知られない、寂しい場所。
「それなら意味がない」
「それなら、何も意味がない……」
 自分の吐いた言葉は無意識に消えていく。
 声は簡単に消えてくれる。
 それなのに体は死んだあとも処理が必要なんて、面倒くさくてため息が出る。だから毎日死ぬのすら面倒になるのだ。
 焦る必要はないけれど、明日もきっとこんな衝動が沸く。その都度こんなことを思う。

栄えある行為

栄えある行為

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-03-13

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