徒歩で測るきりん。走らない僕ら。






横に長い店内のBAR『サバンナ』はどうとでも良くなる広さで,激しさを増すバップ・ジャズが買い物し過ぎなコンビニレシートのように,主たる音楽の演奏リストに連なっていた。フリーな部分もあり,しかし基本的な約束も忘れない演奏スタイルはそのまま店内のルールにもなって,床下3cm浮いた底を足場にして雰囲気は中々落ち着かない。だからテーブル下で向けられた銃口から覗く死が,小さく見えても仕方なく,店内の行方不明者が今夜で5人になって空いた席に,来店した客が幸運に喜び座っても仕方ないと納得はできる。しかしそれでも僕は,遠くて行けない動物園の開園時間を気にして,多くのレタスを食べられなかった(サラダボールを持ってきたバーテンダーが珍しくきちんとフォークを添えてくれ,熟れたトマトが艶めかしく臀部の香りを漂わせたとしても。)。レタスは瑞々しく泣いていた。レタスは『口にもしないのは,何故?』と,マイナーコードを歌って震わせていた。
「君は良く眼鏡が似合うんだね。」
カウンターに座って背中越し,振り向かない器用さで聞き取れるきりんの声は青年よりは若々しく,幼さよりは老獪で,『マーブル模様のチヨコレート』と旧仮名遣いで書けそうな耳心地であった。振り返って見た全長は僕の膝で強く打てば多分壊せそうで,その四本脚はポッキーより苦手な前歯に意図も容易く折れる音まで兼ね備えている。斑目模様に困り果てて黄色い色は,警告音の1つも鳴りあげることなく,滑らかに地という地を掃けそうな華麗な尻尾を床に垂らして時折振り,グラスに写した光沢抱える2つの瞳は『どうなんだい?』と小首を傾げて止みやしなかった。
「小学校の3年生の時から掛けてる眼鏡は僕の下着と変わりないんだ。パンツが似合うことを褒められて,喜べる時分を知らない。それは通り過ぎた思春期に向かって恥ずかしげもなく叫んでも,青臭い薄闇のまっくらトンネルから素直な眉毛と縮れる陰毛が一緒になって,風に吹かれて流れても来ないと思う。だから僕には何とも言えない。眼鏡を乗せた軟骨が通る鼻すじも上手く通せない。」
きりんは傾げた小首を元に戻すはずの中央を過ぎ去り,今度は左側に疑問を留めて今度は『どうなんだい?』と前置きして続けた。
「下着を履いたことがない僕は君の感覚から鼓動を聞くことも叶わない。しかし,きりんである僕にとってはサバンナを横断する貴婦人にパラソルの陰間から覗かれ,『綺麗な斑目。そして素敵な配置ね?』と午後に言われても,丈夫なサボテンに咲く花より戸惑うだろう。その午後に近いのかもしれない。仮にこの仮定の橋渡しが上手くいっていれば『確かに。』。そうでなくても,『なるほど。』だ。だから僕は言おうと思うよ。君は良く眼鏡が似合う。そう思う。」
傾いだままで動かないきりんの首は壊れて時を止めた振り子時計のように,ピタッと左を変えたりしなかった。僕の言葉を待っているのだ。滑らかな油のように。歯車を動かすとろみのように。僕は言う。
「その午後には幾分近いのかもしれない。けれども決定的に遠いとも思う。でも,『確かに。』,で『なるほど。』だ。君の思うことには絹が淫らに滑り込む隙間も無いのだと感じる。だから僕は言おうと思う。有り難う。嬉しいよ。」
『そうかい?』とはぐらかすようにきりんの首は,正午の位置に戻った。BARサバンナの空で飼われてる禿鷹が一羽で,昼ご飯を食べに複数の観葉植物の葉をどんぶり勘定で揺らして飛んだ。僕はその対象にはならなかった。僕はまだ生きていた。
「それで,やっぱり君は僕の長い首を持って帰るのかい?」ときりんは,判子を押す前のチョットした確認事項のように聞いてきた。
じりじりとポロシャツが隠さない首の直ぐ下の肌が焼かれていき,かきやすい手汗は握る金属の真芯から溶かして活きつつある。僕は眼鏡を直してすべてに,たった一度の『フック』を掛けようとした。そして見つめ直した。鉈は右手で鈍そうだった。
「『なるほど。』で『了解。』だ。切り口は斜めが良いだろう。これでも意外と,筋肉があるんだよ。」
純度の高いきりんの何気なさに,周囲から吸い込む空気が肺を刺して痛かった。椅子から降りて僕は足りなかった左手を金属の柄に添えて,重力のせいにしてしまうために,鉈を両手で肩に担いだ。背中越しに捉えたきりんは,午後の一時を指すように,ほんの少しの傾きを残していた。
『黒いきりんなんて居ない。黄色いと言われるきりんは,目の前に居るとしても。』
反芻する回路の中で1フレーズは響いた。反転するのは僕の半身だった。
鉈は振り下ろすためにあった。だから僕は振り下ろした。









時代背景には説明を必要とすることにはならないと思う。そんなサイズの大きい話ではないし,大事な日常は一日だけ名前と一緒に意識を交換しても,見つけた靴下のほつれを夕食前に直すか直さないかという違いしか,例えば今日中に担当教授に提出できないだろう。起きていれば朝であったし,退屈で眠れば講義中の昼間であった。駅でトイレを済ませれば,それは帰社する時刻を抱えた夕方で,純な夜更けのセックスに爪先痺れる次の朝であった。 生地の違いはあってもパターンが合うパッチワークは、同じ見た目の着回しの良さで,絶えず世界を救っているのだ。
その日は午前9時から憲法の講義があって,担当教授は19条から21条辺りの自由について歴史的背景から有名判例を通じてその輪郭から中身まで熱心に教えようとしていた。しかし講義の場所は『良くも悪く』,大学構内に建っている建造物の中で最も運動場に近いため目に入る風景は空まで突き抜け,金曜日という週末前の夜明けを迎えた学生に,当たりたてで新鮮な日当たりはソワソワして気持ち良過ぎた。学生はとても自由に後ろからノートと一体化して突っ伏し(机と既に一体化している強者もいる。),起きてる者は担当教授の視線をサーチライト並みに受けてもう眠れない(タイミングはやはり大事だと実感した。)。かなりの後悔を維持しつつ,僕は眼鏡を必死にあげて踏ん張った。そのおかげか,振り返るノートで欠けていたのは内心の自由の後半,沈黙の自由を含んだ19条だけであった。
講義終了を合図に向かった学食は安くてとても美味しくはない,というのが僕らの大学の伝統だ。僕はその伝統の影響が最も少なく,そして最も安価な『シーザーサラダとサンドイッチのセット』の食券を手に入れた後で,実際にそれを配給をしてくれるおばさんに手渡した。実に無表情で実に荒く,多くをレタスで埋め,もうすぐ乾くことをその実で教えるトマトに,刻まれて時を止めた輪切のきゅうりと既に固い半熟の卵を,『器から零れよ!』と呪う(まじなう)かのように放り込んでいる『シーザーサラダ』に,ギュッと冷蔵庫で冷したばかりに眠りそうなパンと卵がマヨネーズベースの空間に挟まれた『サンドイッチ』が,ステンレスの置き場に跳ねて現われる。僕はぺこりと一応の礼儀は尽くしてその場をすぐに去り比較的空いている長テーブルを見つけて座った。そのテーブルの3分の2を占める何処かの各部の仲間達はその時,昨夜の流星群を見たか否か,見たのであれば何を思ったか,あるいは『ナニをしていたか』を披露しあっていた。『月見そば』を頼んでいれば,僕は七味をかけたクシャミをして,落ち着いた話のキッカケを近くで作ろうとした,かもしれない。しかし生憎,今朝の僕は『シーザーサラダとサンドイッチのセット』を食べようともう気持ちを作っていたし,目で確認しただけでも付近の瓶の中で待機中の七味は僅かにも足りなかった。だから仕方ないので個性が見えないナプキンの袋を破いた。その裂け目が綺麗であったかについて,僕には何とも言えなかった。
特筆すべき新鮮な味わいが器からもう漏れてしまっている『シーザーサラダ』を食べ進め,半熟卵にフォークの先端を食い込まそうと試みる前に自動ドアが開いた。自動ドアは基本的には親切だ。しかしそんな自動ドアがイラつきで,それこそ自動で閉まってやろうかと迷っていないかと訝るほどに遅れて,細身のタートルネックにスキニージーンズと分厚い黒ブーツを履いたキムラがゆっくりと現われた。手足が長く,首が太いキムラは歩くのが遅い。キムラは良く小脇に,講義に必要な本数冊とクッションみたく文庫本を挟んで持っている(今も持っている。)。その手に劣らず足も長く,首が意外と太い(最近スーツ量販店で知ったらしい。)。そしてやはりキムラは歩くのが遅い。だから今もこうして自動ドアに挟まれないか,心配させられるのだ(勿論いつも杞憂に終わる。根気強く自動ドアはキムラであってもソコにいる限り,そして不具合がない限り,キムラを無視して閉じたりはしない。)。「どうにか」と僕が呟いたタイミングでキムラは自動ドアをくぐり抜け,見つめていた僕と合わせた目で和かさと合図を僕にくれ,手を挙げこちらにゆっくりと歩みを進めて来た。僕はここで『シーザーサラダ』をその身に納めた器に添えていただけの左手を挙げ,合図を返し,眼鏡の位置を同じく左手で直した。繰り返すがキムラの歩みはゆっくりだ。それ以上に決して遅くはならない。





ようやく着いた正面の席に座って,キムラは「どうだい?」と聞いてきた。歩みが遅いのにキムラの出だしの質問はショートカットするのが通常である。この場合,「どうだい?」は僕の現在の状態について,僕の現行の気持ちについて向けられていた。
「君の歩みが遅いのを何かと心配せざるを得ないのを除いては,この『シーザーサラダ』の酸味よりも健やかで,次に食べようと思う『サンドイッチ』よりも暖かみをその身に湛えた体調と僕の気持ちだ。だから特筆すべきことは何もないよ。慎重に半熟卵をどうにか柔らかくする術を模索している。」
僕の返事にキムラはゆっくりと端正に,苦笑と安堵を面長で鼻が大きい顔に浮かべて笑った。そうして大事に「確かに。で,変わらずだ。」と言った。
キムラは昼食を食券に求めに行き,アボカドサラダとコーンスープを持って帰って来てからは一度も席を立たなかった。キムラのスプーンはゆっくりと食事を進めて,同じぐらいゆっくりと終わりを迎えた。次の講義までは休み時間に移動時間を加えても通常サイズの一番組を放送する余裕がある。その余裕を無碍に潰すべく,味を期待するべくもない2杯のコーヒーカップを対面に僕らは話をした。厄介な講義への対策,容易い講義の再確認とそこから生まれる余裕の費やし方から,どこかの漫画のような彼氏彼女の噂の事情(勿論専らキムラも僕もベテランの母親のように,『信じる』ということを抱いたまま寝かしつけていた。),そして自己を巡る近況の報告に話題は移って行った。
しかし話題は何処かで止まるものだ。話す僕らにも息継ぎが要る。だからだろうし,また次の講義のために彼が小脇に抱えた本の中でレヴィ・ストロース著の『野生の思考』が目立ったからだろう。キムラがゆっくりと『野生』をその口にしたのは。
「裸足で外を走ったとして,その人は野生的であっても『野生』に生きてる,とは言えないと思うんだ。」
キムラは最後のコーヒーを飲み終わる前に水を含み,そうして飲み干す前に済ませておこうと思い立ったように脈絡なく,だから僕を見ずに,しかしいつものようにゆっくりと僕に言った。
脈絡がない分,推測が働く隙間があり過ぎて,その発言の端っこにもキムラの像を上手く捉えることが出来なかった。こういう時に僕は何も言わない。しかしそれは無視や拒否を意味はしない。それをキムラは長くもない付き合いの中で十分に知っている。キムラはだから話を続ける。
「すごく気持ち良いセックスの,それこそ行為の真っ最中であったとしても,その人はまだ『野生』的と言わざるを得ないんじゃないかな。」
キムラはゆっくりと話す。
「快楽といった脳内物質の、単純で絶え間ない没頭を『野生』だと言うのは,『理性』的に対置させたからであって,」(ここでキムラはゆっくりとコップを回し),「『野生』の積極的な定義付けになっていないんだ。」と言った。
「しかしそもそも,定義付けってところからして大分『理性』的だ。」
僕は間を置かずに指摘を挟んだ。キムラはゆっくりと端正に,苦笑いしながら「確かに,でその通りだ」と言った。
「『野生』について何かを言おうとしたところで,つまり論理をもって語り,共にその見解を共有しようと試みても,」(ここでもコップはゆっくり回り),「それは『理性』の域を出ず,『野生』に足が向かないんだ。」と言った。そうして「そして少しずつでも近付いていると思っても,実は一歩も前に出ていかずに」(ここで水は渦めいてきて),「むしろ後退しがちで,その道程で石ころを蹴飛ばすことなんて決して出来やしなくなる。」と続けた。
言葉の機能が具体的な対象や事象を抽象化し,情報として他の個体との共有を論理的に可能にするものだとすれば,そして『野生』が論理で生き生きとする『理性』とすれすれで,しかしぶつかりやしない隣家のように決して相入れないものだとすれば,『野生』を語ることは前を向いて後ろ向きにスタートラインを発つことになるのだろう。『野生』は小さくなってその内に,暮れた陽の中で何もかもを見失う。キムラが言うように,石ころを前に蹴飛ばすことも出来ない。
「『野生』はやってみるしかないのかもしれない。」(と言ってキムラは水を飲み),「皮膚のような情報伝達器官が送信する情報をそのまま纏め,」(とここで僕の顔を見直して),「決して箪笥に整理することなく,埃が溜まり,汚れが増え,黴が活発さを増したとしても。」(と言って,躊躇う表情で),「…いや,これでもまだ『理性』っぽさがあるな。」(としっかりと頷き),「けれどもとにかく,やってみる。それが近いように思う。そしてそれは偉く個人的なものになりそうだ。」とさらに続けて言った。「検証なんて出来なくて,振り返って日記に書けるものにならなくても。」と,最後には言い終えてまで。
地面を掘り進め続けるときにスコップについて,その全ての材質や加工工程に自分がホームセンターで購入するに至るまでの流通経路,そして掘り終わった後の未来を語るより掘った方が早いだろう。途中で現実の地球のマントルに阻まれて,これまでに今までが無駄に終わったとしても。キムラはそういうことを言いたいのだ。しかし。
「君がその『野生』をしたがるのも,『理性』よりも『野生』が純粋だ,とかそういうことを気にしているのかい?」
今度は聞くことまでもゆっくりとなってしまったように,キムラは間を置いた。驚きを隠していなかった。面長で鼻が大きい顔にまた,苦笑いを浮かんでキムラは言った。
「驚いた。『確かに。』と思って,『いや違う。』と感じたよ。」とキムラ自身が一番再度確認してから「単なる好奇心なんだろうな。僕は色々と,してみたいんだ。」とゆっくりと,そして深々と納得していた。キムラが一番低くうなづくたびに,手が回すコップの回転が乱れた。いけないものが混ざったように。大きいものが飛び込んだように。
少し零れたとも思う。でもキムラは気付かず,それを拭き取らなかった。









僕らが通う僕らの大学はスポーツにも力を入れていて,構内の3分の2をスポーツ関連の施設が占めて立っている(これらのスポーツ施設の面積と容積は大学構内全体を押し広げていたので,この割合は決して研究室等を備える他の施設が粗末ということを意味しない。)。したがって,大学の学部及びそこで行われるカリキュラムもスポーツ面に特化したものも設けられている(一応メダリストのアーチェリー選手を始め,その未来は概ね体育の先生からスポーツメーカーの研究者,プロのアスリートを支える整体師や弁護士など幅のあるものになっているようだ。)。その当然の結果として,大学構内には屈強な筋肉と精神の持ち主が,チラホラどころじゃない機会で見かけられる。『順調どころか右肩上がり』と噂される購買部の利益は彼らが飲んでるプロテインによって賄われていて,裏で如何わしい本の取り置きも優先的に行われているという噂が,新入生の間で埃を散らして舞っていたりもする。
そんな彼らは後方に控える社会に足を引っ掛けて見てみれば,それは逞しい労働力だ。丈夫で安価で,それなりに働くサービスの担い手になる。よって僕らの大学には,体力重視を基本としつつ,それでもヴァリエーションが豊富な短期労働の依頼がチラシで舞い込むことになる(そしてその『恩恵』に僕やキムラのようなものも預かっている)。
毛羽だつ紺のツィードジャケットを手に,僕は自ら進んで歯車となるために,労働賃金とそれに対する労働の質と量を主観的な天秤に乗せては降ろし,乗せては降ろしを繰り返して,掲示板を左端から右端へ向けて大まかに進み,眼では細かく募集要項の期限を追っていた。今日から一週間後に設定された日にちがあったとしても,それは文字通りに信じてはいけない。必要とされている員数が1人ばかりの短期間労働のチラシ群には見知らぬ学友が,それこそ文字通り狭い事務室が入っている7号館の,今日3回目の水洗を終えたばかりの(であると確信できるほどの汚れのない)トイレに物凄く近い建物の壁際でひしめき合っている。チラシが伝える内容の働きは,背後で控える女性事務員への申し込みから始まっている。チラシは3分の2を奪い取ればいい。その裁定は公正に,かつ無関心に背後の女性が行ってくれる。僕らはそれこそ,都会にこなれた『野生』を揺すって起こし,ギラギラと眼光鋭くバイトを探して,噛み切るようにチラシを手に取ればいいのだ。
上を向いた意識は下半身を意識しない。そして僕らの下半身にある臀部は,狭い空間でぶつからない訳にはいかない。だから僕は逆方向からチラシを噛み締めた見知らぬ同胞と臀部をぶつけて(しかも相手との重量感から差があったため),骨の1本も残っていないと思っていた過ぎ去った過去の猟場に押し戻された。僕はそれほど大人しくなく,人も出来ていないので抗議文を書きつつ口頭で読み上げようと決意したつんのめった先で,たった1枚のチラシを目にした。募集しているのはやはり1人であった。労働内容は『動物園内で』とのことであった。時給で平均よりだいぶ上に設定された給与も漏らさずに捉えた(つんのめって,しかもイラだったところで集中力と貪欲さは途切れない。)。労働時間は『開園時間内』。開園時間が遅くて9時,閉園時間が早くて4時30分としてもそのトータルは7時間30分。長いようにも思えたが短いようにも思えた。基本的な要素を総合的に考慮して出した結論はもう決まっていた。チラシはもうもぎ取って,僕は近付く窓口に滑り込むように間に合った。






「すいません,このバイトの募集に申込みたいのですが。」
たとえ相手が女性でも,端的な用事を伝えるのに装飾は要らないと思って僕は,4つあるうち上部2つの角をピンとの間で引き裂かれて悲しむ暇もないチラシを見せながら意思を告げた。
窓口から見える黒白の,スーツとシャツを身に纏って女性は,二重で黒目がちな視線を返して来た。思わず確認してしまった目尻は下がっていて,『上がっていてはいけない。』と瞬時な確信を可能にしてしまうバランスの中で可愛いというより力強く,鋭いというよりは優しげに睫毛が揺れそうであった。『魅力的』が似合うのだ。その目と視線には。
「学籍番号と氏名,住所。それから電話番号をこちらの空欄に記して下さい。」
彼女は僕とチラシから外れた視線を横の棚から取り出した1枚の紙に維持しつつ,僕が滑り込む前から握っていたと思う鉛筆の頭で(消しゴム付きで)空欄を指し示して,明確な指示をした。
僕は受け取った紙を見るように彼女をもう一度見つつ,『狭い窓口の始まり』と言えるような端っこに置かれたペン立てから1本のボールペンを掴み取り,所定の記入欄に指示された必要事項を記載していった。酷く落ち着かない字になった。読めればいいと,書き終わった後でそう割り切れなかった。
「書きました。」と手渡した僕の字が載せられた紙を彼女は受け取り,僕を必要としない欄に彼女だけの文字を無駄なく記していった。逆向きからでも分かる綺麗な文字は躍動感に溢れているように思えた。
結構な量があるようで彼女の文字が増えて行く中,僕は全体的な彼女をやっと見れた。書道の綺麗さが余白で決まるように,彼女の顔も構成要素が生む余裕がその生き生きとした魅力になっていた。窓口から見える上半身の膨らみに,見えやしない下半身も含めて彼女は黒白のスーツをビシッと着こなしているが,その内部において従順に,抑えていると感じてしまうエネルギーのようなものがスーツの堅苦しさに合間って色気だつようだった。最も早いチーターの,知的な『伏せ』。隠してもいない,いつでも狩れるというゆとり。それが恐らく窓口の制限を抱えて知れる,総合的な彼女であった。その彼女は彼女だけの,必要事項を書き終えようとしている。ペンは最後の丸を書くだろう。そして顔は上げられるのだ。
「あなた,自分の健康状態をどう思う?」
彼女は丸に最後を打ちながら,それでも僕の顔を見ずに尋ねてきた。
健康状態を聞くこと自体は何の不思議もない。重大な結果を招きかねない疾病に罹っているのなら,雇用するにしても結果回避のためのできるだけの対策や予防を講じるのは単純なリスク回避の出発点だ。だから健康状態を聞く。『あなたの健康状態はどうですか?』と大まかにでも聞くのだ。
しかし彼女の尋ね方は違う。彼女は僕に,僕の健康状態について,僕が思うところを聞いているのだ。それは事実ではない。僕の内心の,思うことに関心を向けているのだ。僕はそれに誠実に応えてみたい。それが僕の気持ちだった。
「完璧な健康状態がありうるとして,そしてそれが一度も不調を自分自身に訴えた事がない経験であるとすれば,僕の健康は完璧な状態にはありません。物心から始めても,あるいはそれ以前から僕自身を始めても,僕は1年に1回は風邪を引きます。熱が出る時も出ない時もありますが,必ず喉から鼻の順番で不調を来たします。いずれにしても電話の上で僕は,その同一性を失います。回線を上手く渡れないようです。どこで落ちるのかも分かりませんが。
また,それなりの打撲と骨折も経験しています。小学生2年生の時に,隣接していた幼稚園の,人を乗せて前後に動く長い丸太の遊具で,僕は脇腹を強打しました。そこに至った経緯と理由は朧げな記憶に伏せられたカードのようですが,歩きにくくなったことは確かです。骨折は情けなくもはっきりと覚えています。バスケットでパスを受け損なった体育の時間に,僕の中指はあっさりとその一関節だけ折れてしまいました。保健室でガッチリと固められたまま帰る教室は遠い廊下の道程で,少しサボったトイレの時間でした。治っても動かなかった中指と,今も少しだけ折り合いは悪いです。
しかし僕は決定的には死んでいません。だから今述べた不完全性と,決定的な死を免れている未来性とで僕の健康状態は使えないことはないと思います。」
最初から継続していた敬語を維持することを忘れないように心掛け,僕は自分の健康状態について思うところを,内心のうちを言葉にして伝えた。所々を思い出すために,また言葉を正すために事務室内の蛍光灯ぐらいの高さで宙を見る以外はきちんと,彼女の目に僕の目を合わせた。
瞬きの同意と,『あなたは確かに私に伝えた』という笑みを薄くて素敵な口元に浮かべて彼女は,「良く分かりました。」と敬語で僕に言った。それは僕との距離を開いたのか,あるいは改めたのか判断出来なかった。彼女は手元に居る(と表現したくなる存在感を持っていた)灰色の像を象った,コンパクトなカレンダーを捲りながら何かをメモしていた。確か今日は11月22日で,『良い夫婦の日』らしかった。
再び目を合わせた彼女は僕の手に少し触れたメモを乗せ,『重要ですが,これはメモです。』という口調で僕に伝えた。
「出来るだけ早く,そう,出来れば明日にでもメモに書かれた場所に行ってください。そこに今回の募集の依頼者がいらして,あなたの面談を実施します。あなたが雇われるかどうかはその結果次第,ということになります。」
彼女が伝えたことを聞き終わってから,僕はメモに目を落とした。都内にしては短いように思える住所に,その場所の名称が続いていた。そこはBARであった。その名称を口にすれば,『サバンナ』と発音することになった。





短いお礼を伝え,少し残念にも思いながら振り返って去ろうとした時,彼女はもう一度だけ僕に声を掛けた。
「変な質問になっちゃうのを許してね。あなたはきりんが見る夢が長いと思う?それとも短いと思う?」
質問の奇妙さに振り返ると彼女が消えてしまうのでないか,と思いながら振り返った先で彼女は僕を見つめていた。その視線は二重で黒目がちで,瞬時な確信を可能にしてしまうバランスの中,可愛いというより力強く,鋭いというよりは優しげに睫毛が揺れそうであった。
「長いよりは短い方が面白いと思いますし,僕と同じ時間の長さだったら変な気持ちになると,今から確信しちゃいます。」
僕の答えに彼女はもう一度だけ聞いた。
「あなたの夢は長い方?」
それに僕はまた答える。
「きりんの首には負けそうです。」
彼女は薄い,再びの笑みを浮かべて仕事に戻った。
もう臀部をぶつけることなく,僕は窓口を後にした。



(第一章了。つづく。)

徒歩で測るきりん。走らない僕ら。

徒歩で測るきりん。走らない僕ら。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-25

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