願ったって

 いつもみたいに裾を捲って彼に服を着させているときに、裾から覗く手首の面積がすっかり大きくなっているのを見て、もう折返しは必要ないんだっていうことに気がついた。必要ないどころか、もうじきサイズアウトしちゃうかもというくらいに、それは今の彼にぴったり馴染んでいた。いつからこんなにお似合いだったんだろう。買ったのは五ヶ月前だ。あのときはぶかぶかで、すぐ入らなくなっちゃうから大きいのを買わなくちゃねと買ったものの、やっぱりジャストサイズを着させたい、本当は……とざんねんに思ったものだった。それがどうだろう、待っていたらジャストサイズが実現した。実現してしまった。見たかった姿を見ることができたのに、どこか寂しいのはなぜなんだろう。彼と暮らしていると、そんなようなことが無数に発生する。
 赤ん坊との暮らしは非常に淡々としている。それは時に、いやんなっちゃうくらいかもしれない。朝起きて、おむつを替えるのと同時に服を着替えさせる。ガーゼを濡らして、顔を拭く。ご機嫌な彼は一瞬たりともじっとしていてはくれない。米と同じくらいの重さのものが、あっちこっちじたばたしているところを想像してもらえるといいだろう(実際はもちろんもっと可愛らしいのだけれど……)。冷蔵庫に保存してある食事を温めて、手で掴んで一口で食べられる形状に整えてから、彼を椅子に座らせ一個ずつ出してやる。全部手の届くところに置くと、持てるだけ持って詰め込めるだけ口に詰め込もうとするので、わんこそば形式にしているのである。食事が終わったら嫌がるのをあやしながら騙し騙し手と顔を拭いて、急いで椅子から降ろす。そうしたら、散歩の準備をする……自分のご飯や洗顔は、隙を見て秒で終わらせる……それから洗濯機を回し始め、散歩、公園でちょっとまったり、買い物をして帰宅、また彼の食事を準備し、食べさせ、終わったら洗濯物を退治する。そのあと昼寝のために部屋を暗くして寝かせようとするが、大抵は寝ないから、三十分で切り上げておんぶにする。おんぶすると通常すぐ寝るが、まだ遊びたいのに! とぐずっている場合はスポティファイでYUKIを流して熱唱(わたしが)しているうちに彼はつまらなくなって寝る。ちなみに最近はまっているのはチャイムという曲だ。無事寝入ったら寝床に降ろして、そこでやっと、ふう、と一息つける。二十分で起きる時もあれば、運が良ければ一時間半寝てくれることもある。そのあいだにわたしは飲み物を用意して、お昼のようなおやつのような体力の補給をおこなう。十五時くらいに起きたら、やんちゃに遊ぶ。十六時くらいから、晩御飯の支度を始める。足にまとわりつかれながら、五分に一回くらい彼の悪戯を止める。タイミングが合えば十八時ごろにみんなで晩御飯。彼は夫とお風呂に入って、十九時半あたりにこてっと寝る。昼間、おむつは濡れていたら替えるようにしているが、大体四、五回ほど替えるだろうか、ただバタバタしていると後回しになってしまいがちで、よくないなと思っている。わたしはそのあと風呂に入って、泣き声が聞こえたら授乳しに行く。夜は二、三度起きる。そして、また朝がくる。少しずつ表情が異なるものの、おおよそこんな毎日が、平日土日関係なく平坦に続いている。それを五ヶ月やり通したら、気づかないうちに、ぶかぶかだった服がぴったりになっていた。本当に、ちゃんと、時間が経っていたのだ。
 毎日大体おんなじで、ちっとも状況が変わっていかない気がしていたけれど、五ヶ月前と今の端っこどうしはぜんぜん違う。いまとなっては驚きだけど、五ヶ月前は夜の寝かしつけに二時間かかっていて、わたしはいろいろと躍起になっていた。そんなふうに、端と端でだいぶ違うが、そのあいだも、頭上に広がる空模様やアイスボックスクッキーのようにどこを切り取っても様々だった。ひとは、それを思い出と呼ぶ。それらはわたしの心の底にぼやけながら沈澱していて、より鮮明には、カメラロールの中の写真が思い出させてくれる。
 時に、わたしは思い出しながら泣きたくなる。この過ぎ去った日を、わたしはちゃんと尽くし切れていたかなって。大きな声を出してしまった日もあったし、ひとりになりたくて片手間に本を読んだ日もあった。翻弄される日々に、擦り減っていたんだろうと思う、でもそんな日々はもう願ったって戻ってこないのだ。「願ったって戻ってこないよ、戻ってこない」五ヶ月前、夜の暗い部屋で泣きじゃくる彼を抱いて呪文のように唱えていたことを思い出す。思い出せるけど、もう過去のことになっちゃった。
 さいきんは、泣かれてもにこにこしていられるようになった。これはわたしが経験値を積んだからできるようになったんだとはじめは思ったけど、多分そうではないなと最近は思う。こちらがにこにこしていると彼もしだいににこにこすることが増えたことと、授乳や食事作りの手間がだんだんと減ってきて体力的な余裕が戻ってきたから、できるようになっただけなのだ。わたしのほうは変わっていなくて、おそらくタイムスリップしても同じことが起きるだろう。変わっているのは、成長していっているのは、彼なのだと思う。
 そんな、まだまだ成長する予定の彼に、このあいだ新しい服を買った。懲りずに、またもやオーバーサイズである。今度は、ちゃんと服の中の余白が減っていくのを感じようと思ってる。今は笑っちゃうくらいぶかぶかだけど……いつか、ぴったりになる頃には、もう走り回っているかな。願ったって戻ってこない日々だけど、願わなくても済むくらい、ちゃんと尽くし切れたらいいなと思う。

願ったって

願ったって

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-03-04

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