原発の儚1️⃣~1️⃣0️⃣

草也

原発の儚 1️⃣~1️⃣0️⃣  
 
1️⃣ 個別訪問

 一九六一年の盛夏の夕刻である。
 F町の町長選挙の熾烈な中盤である。ある原発作業員が住むアパートの一室だ。

 「毎度の事だが、今回はとりわけ激烈だな」「まさに死闘だな。戦前の下馬評では、現職再選説が大半だったんだが」「ここに来て、対立候補優勢で間違いないっていう話しもあるが。いったいどうなってるんだ」
 小太りの鼻髭の男がオンザロックを作りながら割り込んで、「全くだ。幹部連中の態度も異様だ」
 楢葉と呼ばれたやさ面にサングラスの、やはり四〇半ばの男が、「怪文書が出回っていた。反町長派が配ったんだろう」テーブルにその怪文書が置かれている。

《表面》
-原発利権の亡者-
現職町長61歳。元進歩党県会議員。35歳で初当選。当時は原発反対の急先鋒。55で町長当選後に驚愕変身。原発推進のリーダーに。原発利権漁りの数々。


《裏面》
-女達を食い物に-
巨根。性豪。浮き名数知れず。強姦疑惑?
妻の真の死因は?
淫乱後妻の不行跡の数々。


 「いつもの有り様だが、今回は特に酷いな」「俺達には、その方が都合がいいんじゃないか?ここらじゃ選挙はお祭りだ。上から命じられた通りに、やる事をやりゃ、色々ついてくるからな」「原発様々。仕事は安泰っていうわけか」
 「それにしても、今日はやけに暑かったなあ」「五〇軒ばかり。みっちりと個別訪問させられたよ」
 「俺もだ。でもな。悪いことばかりじゃないぞ」と、髭が思い出し笑いをした。「何かあったのか?」「聞きたいか?」「もったいぶるなよ」
 
 「鬼部落の奥まった一軒家に行ったんだ。庭から入ると、廊下が網戸になっていて。テレビの音がする。だが、声をかけても反応がない。すると、やがて、目が馴れたら、女が昼寝の最中なんだ」「ほう」「こっちに足を向けてな。スカートがめくれて…。青いパンティから陰毛がはみ出ててな。丸見えよ」「幾つくらいの女だ?」「四〇くらいだな」「それで?」「一緒に回っていた課長に呼ばれて。中断だよ。いいところだったのに」
 
 髭は原発作業員だ。サングラスは電気工で、やはり、原発構内で働いている。二人は、もう一人のタクシー運転手を待っている。 

🎆 落雷

 電気工の楢葉は、ある出来事を思い起こしていた。
 男は一週間前に、落雷で停電した、鬼部落の復旧作業に駆り出されていた。鬼神社という小さな社の近くの現場に着いた時には、既に雨はあがっていた。
 落雷で破損したトランスの交換を終えた電柱の上の楢葉は、ある光景に目が釘付けになった。
 ある家の風呂場が丸見えなのだ。そこで豊満な女がシャワーを浴び始めたのである。
電柱から降りると、通りかかった農夫の老人が通電の礼を言う。楢葉が業務を装ってその家の内情を尋ねると、数年前に夫を交通事故で亡くした四〇位の女の独り暮らしで、街のスーパーに勤めていると言う。

 翌日の昼に、楢葉がスーパーに行くと、女はレジにいた。楢葉が煙草とウィスキー、弁当を差し出して、思い付いた風に顔を近づけて、ある商品の置き場所を聞いた。
 鬼沢という名札をつけた女が、やはり潜めた声で離れた棚を指差した。その商品を持ってレジに戻り、「これでなきゃ駄目なんだ」と、言うと、「高いだけはありますよね」と、返して、「今日お使いになるの?」と、囁いた。「念のためだよ」「奥さま?」「一人だ」「私もだわ」

 その日の日付も変わる頃、楢葉は女の家の庭に忍び込んで、馴れた仕草で、音もなく二階のベランダによじ登った。
 蒸しかえって風はない。南に面した引き戸は案の定、網戸一枚だ。
 一間だけの屋内に忍び込むと、満月の明かりの中で、ベットにあの女が浴衣で横たわっていた。更に近付いて確かめても、間違いなく熟睡している。

 三面鏡の前に椅子を見つけた男が、ベットの脇に運んだ。
 その時に壁に架かった一枚の絵に気付いた。裸の死体が山積みになっている。その前で、真裸の臨月の妊婦が、ナチスの将校と性交をしているのだ。銅板画だ。こんな絵をを見たのは初めてだった。なぜ、こんな絵がここに架かっているのか。

 男がウィスキーの携帯ボトルのキャップを外していると、女が呻いて寝返りを打って、太股が露になった。
 ウィスキーが乾いた喉に染み通った。浴衣の裾を密やかに捲りあげる。陰毛が覗いた。パンティを着けていないのだ。更に捲る。下半身ががすっかり姿を現した。
 繁茂が臍まで延びている。
 浴衣の胸元が弛んでいる。息を殺した男が、更に浴衣の胸元を広げると、乳房がこぼれた。豊かな息づかいが、黄金色の月明かりに照り返っている。
 男が煙草に火を点けた。ゆっくりと煙を吐いた。その時、稲妻が煌めき、村な少し遅れて雷が鳴った。間もなく、雨が激しく叩きつけ始めた。
 
 いつの間に目覚めていたのか、やがて、女が、「夜這いみたいね?」「盆踊りの夜だもの」「避妊具なんて要らなかったのに」と、言った。
 

2️⃣ 黎子

状況は一九四四年の盛夏に遡る。あのスーパーに勤める女、黎子レイコがニ五歳だった頃である。二歳になる娘がいる。

 一九四四年の梅雨に入る頃に、ニ年の兵役を勤めて帰還した夫の浪江は、傷痍軍人に成り果てていた。脊髄に損傷を受けて、片足を無様に引きずるのである。浪江は、大陸の戦闘で負傷したと呟いたきり、口をつぐんだ。
 浪江と黎子の生活が、再び、始まったが、浪江は働こうとはしなかった。身体もそうだが、むしろ、神経を病んでいるのかと、黎子は疑ったりした。

 黎子は瓦職人の娘だったが、父は早くに病没していて、義母も二年前に脳溢血で呆気なく死んだ。三つ上の義姉は某所に嫁いでいるが、幼い時分から不仲だったから、行き来はない。
 黎子は国民学校を卒業すると、他県の紡績工場で働いた。即ち、黎子は、『宗派の儚』の、あの夏達とは同僚なのであった。彼女達が暮らした女の園、寮の出来事は、『宗派の儚』に詳細に記述したから、読者諸兄はご存じであろう。黎子もまた、夏達の洗礼を受けていたのであろうか。
黎子は義母の薦めで見合いをした浪江と、三年前に結婚したのである。

 浪江は町工場の工員だったが倒産して、今は跡形もない。
 結婚してからも、黎子は働きづめだった。一年前からは街の商店に勤めている。
 二人の新しい暮らし、とりわけて、閨房はどうだったのか。戦場から、しかも、酷く負傷しての帰還であり、若い夫婦の再出発の場面だから、描写は必然で、すべきなのだろうが、古稀を過ぎた筆者には、書く気力も失せているのである。こうした有り様なのだから、後は、読者諸兄の想念に任せるしかないのである。そもそもが、軟弱に成り果てた今日の小説作法なのだから、その方が好都合かも知れないではないか。

🎆 奥宗オウス

 あの忌まわしい盛夏の敗戦から遅れて数ヶ月、四五年の晩秋に引き揚げて来た、部下の奥崇オウスが、その足で命の恩人の浪江を訪ねて来た。

 奇跡のような再開を一、二杯のコップ酒で確認すると、「積もる話は…。お前、取り合えず湯を浴びろ。臭くて堪らん」と、浪江が笑った。街外れの農家の寂れた借家だが、五右衛門風呂がついていた。
 夜来から気狂いしたかの様に、酷く蒸し暑い昼下がりで、ついさっき、浪江が行水をしたばかりだったのだ。

 奥崇が水ともつかぬ温い湯に浸かっていると、歪んだ音を立てて引き戸が開いて、浪江の妻が現れた。
 「背中を流すようにいいつかりました」と、目を伏せた女が呟くように言った。 
挨拶もそこそこだった戦友の妻は、改めて視線を送ると、豊満な肢体にふくよかな狸顔なのである。迷わずに、奥崇は礼を言いながら、湯船を跨いだ。
 男が長身で頑健な広い背中を見せると、黎子が石鹸を泡立て始める。
 「浪江がお世話になりました」「とんでもない。上等兵は、いや、ご主人は命の恩人なんです」「あの人は大陸のことは何も話してくれないものですから」「私だって、そうです。話そうにも、余りに…。御門のためにした、正義の聖戦と思い込んでいましたが。まあ、一晩開ければ、民主主義の世になって。現人神といわれた御門が、人間宣言をした、今だから言えますが。大陸や半島の植民地は、悲惨や残酷、生き地獄の有り様でしたからね」

 「でも、奥さん。戦争は戦場ばかりではなかったんです」黎子の手が、男の首筋辺りで止まった。
「勿論、銃後の奥さんや、ご婦人達がご苦労されたのは、承知の上ですが」「驚いたのは、ある小説の話です。聞きたいですか?」女が頷く気配を察して、「一〇日ばかり前です。漸くたどり着いたばかりの首府の闇市は、戸惑うばかりの賑わいで。確かに貧しいには違いないが、顔色などは、つい、三月ばかり前まで戦渦の只中にいたとは、信じられないくらいに晴れ晴れとしていましたよ」「私などは、母国に帰還したとも思えずに、幻影に紛れ込んだ亡者の気分で…」「それでも、長らく飢えた腹を久し振りに満たして、雑踏を歩いていると。書店、と言っても、数個の木箱に古本を並べたばかりの露店ですが…」「こう見えても、私は中途で入隊はしましたが、哲学の学徒でして。眺めていると、『御門の儚』という真っ赤な装丁の一冊に目が止まった。だが、著者名がないんです」「初老の主人に聞くと、戦中に地下出版された綺談だと言うんです」

 「首府では、ふとした縁があって、青柳という侠客の事務所に寄宿していたんですが。帰って、早速読み始めると…」男の話が止まったから、手を休めた女も息をつめた。  「私などは初めて読む類い稀な綺談で。大陸の植民地に派遣された我が軍の、異様な場面なんです。いわば、私達の事が書いてあるんだ」「こんなところに、私達以上に、しかも、私などは信じて疑わなかったあの御門制と、決然と対峙していた作家がいたんだ。実に驚きましたよ」女の手は動かない。
 
 
3️⃣ 綺談『御門の儚』

 以下は、奥崇が首府の闇市で買い求めた、『御門の儚』のごく一部を抜粋したものである。

御門軍の伊勢大尉が率いる大陸第一部隊(注1)、別称「雷イカズチ隊」は、要衝の西京を難なく陥落させた。大陸正規軍は早々と退却、遁走していたからである。だが、伊勢にはゲリラの一群が大衆に紛れて、反攻を企んでいるという諜報がコダマ機関から届いていた。
 伊勢は一部の青年将校の反対を押しきって、壮絶なゲリラ狩りを敢行した。女子供を含む一般市民を悉く出頭させて尋問し、些かでも不審があれば拷問にかけたのである。 
とりわけ、コダマ機関から通報のあった者の縁者は凄惨を極めた。これは一兵卒として従軍していた筆者の知己が、あるルートを通じて密かに漏らした、戦争犯罪とも指弾すべき、御門軍の世にも憚る蛮行である。

 正面に鎮座した伊勢が副官に囁くと、幾人かの伝言を経て、歴戦の古年兵に命令が伝えられた。その中年太りの禿げ頭の男の眼前には、現地人の母子が地べたに座らされているのである。
 母親は四〇辺り。息子は一六、七。いかにも童顔だ。父親と兄はゲリラの一員だが、危機を察して既に遁走していた。逃げ遅れた母子も、勿論、通じてはいたが、決して口を割らないのだった。

 古年兵が母親を引き立てて衣服を剥いだ。もう一人が少年も丸裸にしてしまう。
 二人のこめかみに、それぞれ銃口が突きつけられている。やがて、母親が息子の股間にまとわりついたのである。

さて、読者諸兄は武田泰淳の『汝の母を!』をご存じだろうか。この『御門の儚』は、その以前に書かれたものと、筆者は認識しているが、真偽のほどは定かではない。

(注1)
この伊勢は『柴萬と磐城の儚』に登場した、あの伊勢と同一人物である。

(注2)
いま、読みつぎたいもの第5回 : 武田泰淳「汝の母を!」 http://www.labornetjp.org/news/2016/0201matu

(注3・参考文献)
寓話『柴萬と磐城の儚』

🎆 花畑

 奥崇が枯れた息を吐いて、「もう、これ以上は話せない」「あの時代に、あの作家は国家と、御門と、熾烈に戦っていたんです。特務に逮捕されれば獄門死の筈だ。我々と同じ様に命を賭していたんだ。あらゆるところが戦争だったんだと、痛感しました」と、切れ切れに言った。黎子の手は男の肩に留まったままだ。

 我にたち戻ると、蝉時雨が、再び、喧騒なばかりの、異様に気だるい昼下がりなのである。
 「その本は?」「リュックサックに入ってますよ」「後で読ませて貰いませんか?」「いいですけど。でも、いいのかな?」

 女が、また、奥崇の裸を洗い始めて、暫く蝉時雨ばかりが騒いでいたが、やがて、耐えきれないように手を止めて、「あなたもいたんですか?」と、黎子が絞り出すと、「どこに?」「その小説は実話なんでしょ?」と、また、女が切なく絞り出した。「いた」と、男の声も乾いている。
幾らか間があって、「浪江は?」と、女。男は答えない。女が、再び、男の背中を擦り始めた。そして、「いたんですね?」と、せがむと、喋る筈もない男の背中が、肯定していたのであった。

 それから、浪江と奥崇は、黎子が腕を振るった惣菜で、何事もなかった如くに痛飲した。

 夜中に尿意を催した奥崇が、外の便所に立った。済まして、見上げると黄金の満月である。
目の前には、ダリアやグラジオラスの原色の花花が咲き誇って、緩やかな風が艶やかな香りを噴霧している。
 ふと、妙な香りに男は気付いた。肉の香りだ。見回すと花畑の外れに人影があって、あの黎子だったのである。
 女は茫茫と何かを見ている。近寄って声をかけると、驚いた風に顔を向けた。

 「随分と大きな月だ」「落ちてきそうだわ」女の声は昼間の話し具合からは、雲泥の程に変化している。
「大陸の月は、もっと大きいですよ」黎子が大きな瞳で奥崇を見返した。
奥崇は、その眼が濡れているのではないかと、疑いながら、「竹取り物語の大本は大陸の話じゃないかと、思いましたよ」「宝物を探させる説話もそうですが。手を伸ばせば届くような月なんだ。これなら、あのかぐや姫も、巨大な梯子でもあれば、容易にあの月と行き来できるだろうと、感じたものです」

 「大陸は何もかもが大きいんです」「この国の蛮勇ばかりの軍隊などは、懐深く飲み込まれてしまって。勝っているのか、逆に包囲されているのかさえわからない。どこから狙われているかも知れない恐怖で、いつも気の休まることがなかった。あんなに広大な大陸なのに、我が御門軍だけが、狭隘な空間に押し込められているような気分で。発狂する者すらいた程です」

「銃後もそうでしたよ。お上はもとより、隣組で監視しあって。いちいちの発言はおろか、視線や息のやり取りまで気を遣って」と、黎子が囁く。「ある時などは、店の主人と歩いていたら、すれ違った軍人さんに、もっと離れろと、怒鳴られたんですよ」「そうでしたか。苦労を掛けました」「あなたにそう言われても…」二人は意外と明るく笑った。「あんな陳腐な玉音より、一言だけでいいから、謝って欲しかったわ」

 気丈な質なんだと感じながら、男が、「絢爛な花花だ」「戦争が終わって、反動みたいに植えたんです。戦時中はみんな芋畑だったのよ。こればっかりでは、親子二人でも困るくらいなのに。あの時節は、買い出しも来て。断ると罵られもしたんだわ」男は、次第にこの女と情が通うような気がしてきた。 


4️⃣ 蟷螂

奥崇には妻があった。戦死した兄の妻だった女である。いわゆる逆縁だ。子供はいない。
 僅かばかりの資産を絶やさずに成り立たせるための、接ぎ木の様な急こしらえの縁組みであった。奥崇は、些かも特別な関心など抱いた事のなかった兄嫁だった。だから、この狐顔の女には、幾度、閨房を共にしても、特別な情愛は抱けなかったのである。
 妻は極貧な農家の出なのに、農作業が得てではなかった。非力とか不器用というより、心底は労働が嫌いなのだと、奥崇は悟った。そう思い至ると、尚更、気が遠退くのである。

 敗戦を知ってからは、大陸軍に投降して、国土再建に協力する者もいたから、奥崇も帰国などせずに、そうしようかと迷ったくらいだったのである。
 だから、戦地から引き上げても、ぐずぐずと首府に長逗留をしたのだった。その挙げ句にも、家には戻らずに、この浪江の元に直行したのだし、再び、この地に長逗留も悪くはないなどと、思い始めてすらいたのであった。

 その時に、黄金の月の彼方で雷鳴が轟いた。「この時節は、いつもの雷なの」「海の模様と、高い気温が混濁すると起きるんだって、誰かが言っていたけど」「家に入りましょうか?」と、男が水を向けると、「雨になるまでには、未だ、小一時間はあるわ」女が毅然と退けた。

 男は、ふと、「ご主人は?」「あの人は一度寝たら、それっきり。脊髄が犯されたせいなのかしら。あちこちの神経が壊れてしまったみたいで。昼間の生活は随分と体を蝕むみたいで」 
 南からの風がいっそう生暖かくなった。「あれだって…」と、言いかけて、女が口ごもった。

 女の視線の先に男が目をやると、一メートルもあるダリアの大振りの葉の上で、二匹の蟷螂が絡み合っているのである。
 二人が息を殺して見ていると、遂には一匹が相手の頭を食い始めた。「あれが雌だわ」「食った方?」男が蟷螂の交尾を見るのは初めてではない。頷きながら女が、「あれでも、未だ、してるのよ」と、呟いて「しながら食われてしまうんだわ」と、言った。

🎆 不信

 妖艶な生殖と惨殺を終えた雌の蟷螂が去って、黄金の月明かりと二人だけが残された。
 月の裏側に稲光が走って、拍子を外したような雷鳴が後を追ってくる。
 「あの時だって」と、女が話を継いだ。「風呂の話だわ」女は月を仰いでいる。「いくら戦友だって、初めて会う妻に、裸の背中を流させるかしら?」奥崇には返答が見つからない。「私の操を、あの人は信じているのかしら?」沈黙と女の独白が交錯している。

 「戦場にいた人だもの。獣と変わらないでしょ?」「戦争が人間を変えてしまうんだわ」「でも、兵士が悪いんじゃないわ。みんな御門のせいなんだわ。まして、あなたを非難しているんじゃないの。あなたはあの通りの紳士だったんだもの。そうだったでしょ?」男が唾を呑んだ。
 女も深く息を吸って、「風呂から戻った後に、あの人が、どうだった、って、聞いたのよ」と、吐き出した。「疑っているんですか?」女が頭を振った。再び、息を吸って、「期待してるんだわ」また、頭を振って、「むしろ、強いているんだわ」と、一気に吐き出した。  

 稲光と殆ど同時に、雷鳴が轟いて、空一面が怪しく輝いた。裏手の小山から、おびただしい羽音が飛び立って、聞いたこともない獣の叫び声が天空を切り裂いた。
やがて、我に帰ると、女が腕の中にいるのである。黄金の輝きが薄れて、黒雲が月にかかり始めていた。雷鳴が近づいている。
 長くて静かな抱擁が解けて、「あの人は不全なの。脊髄のせいなのか、あなたが話してくれた小説の様な光景を見たからなのか、何もわからない」「私は幼子もいるし。長く留守にした夫の不全など、拘りも…。ないのかしら?どうなのかしら?」「でも、招集前は存外に淡白だったあの人が、今となっては、閨が最大の命題になってしまったの。男の人ってそうなのかしら?」奥崇には答えようもない。
 「何をするでもなく、妄想の世界に耽溺してしまって。奥に籠って、密かに何かを書いているみたいだけど。ひょっとしたら、狂ってしまったんじゃないかって…」「このままだったら、私までが、あの人の狂気の世界に引きずられて。我を失いそうなんだもの」

 浪江が黎子と奥崇の不義を望んでいて、三人での共同生活すら幻想していると、黎子は言うのである。驚くべきは、幼子の種を疑っているとも言うのだ。
 慌ただしかった出征と妻との閨房の記憶が、奥崇の勘定では符合しないのである。浪江は妻に不義を半ば強要しながら、過去の不義を疑っているのだ。狂気の沙汰なのか。不全がなす男の、雄の哀れな本性のなす所業なのか。奥崇には図りようもない、初めて知る浪江の現実なのであった。
 だが、浪江が望んだ黎子と奥崇の不義は、実行されつつあった。そして、浪江が拘泥し悶着の限りを尽くしている、幼子の真実の父親は誰なのか。浪江が言う通り、黎子の不義の娘なのか。黎子が否定する如くに、出征間際の二人の閨で受胎したものなのか。
 事実はどうだったのか。古今東西、永遠の謎なのである。仮に、その時にこの豊満な女が密通を図っていたとしても、子種が誰かなど、愉悦が錯綜する日々にあっては、女にすらわからないのだ。
 

5️⃣ 時効

 奥崇は家に戻った。妻は驚いたが、それ以上ではない。
 奥崇は、首府で、青柳の事務所に寄宿していた折りに、読者諸兄は拝読の事と思うが、あの『カムイの儚』に登場したシラオイアイヌの和一郎と友誼を得て、青柳の仲立ちで兄弟分の杯を交わしていた。
青柳とは、『宗派の儚』や『党派の儚』で、極めて重要な役どころを演じている、無頼にして、社会主義者である。即ち、奥崇は青柳と親子の杯も交わしていたのだ。その縁で、青柳から、ある男への紹介状を預けられていた。

 ある男とは、F県に隠然たる力を振るう与党の重鎮、副総統の廣山の、秘書の相馬である。廣山は、今までも『儚』の連作に度々登場した。田山の宿敵であり、総統候補と目された時節もあった。草也謀殺の首謀者とも疑われている。
廣山は戦後、保守党再建の中心人物の一人であり、コダマ機関の兒玉とは同郷のよしみもあって、盟友であった。廣山は駐留軍とも内通していたから、国有鉄道の労働争議の最中に、列車を脱線転覆させたとして、改革党党員や組合員活動家が大量に冤罪逮捕された、松山事件の関与も、著者は密かに疑っているのである。その真の実行者の一人が『平凡な死』の、石川と自称する所長である。

 奥崇が日を経ずに相馬を訪ねると、直ちに警察官の試験を受けさせられて、瞬く間にF県警に任官の運びになった。
F県は広い。任地は家から、大分、離れていたが、単身赴任は奥崇にとっては、むしろ、好都合だった。
僅かばかりでも田畑がある。畢竟、意には添わないが、妻が残って手をかける以外にはない。だが、奥崇の報告を聞いた妻は、存外に容易く納得したのである。女も男と同じ思いであったのか。或いは、それ以上に男との縁が疎ましかったのか。

 一五年後の一九六〇年のその日、奥崇は本部の公安の部署にいた。治安の中枢で、あの忌まわしい事件の時効を迎えたのである。
その事件とは何か。読者諸兄は未だ一切を知らない。筆者が意図的に書かなかったからである。いずれは、その詳細の全てを明らかにしなければならないのだろうが、この時点では、浪江の家のあの満月の夜に、奥崇に何があったのかとだけ、言い置いて、読者諸兄には旺盛な想像を楽しんで頂きたいのである。
妻はささやかに家を守っているが、今となっては戸籍ばかりの絆だった。子供はいない。

 翌、一九六一年の盛夏。F町の町長選挙が過熱して、選挙違反が相次ぎ、県政界にも波紋が及んでいた。
 県警本部の支援体制が組まれ、公安の奥崇は、反町長派の中心の、原発の強硬派の労働組合の担当になった。目指す相手はあの広野なのである。
 任官以来、廣山の意向から公安一筋を歩んできた奥崇は、それまでも労働運動の様様な情報を得ていたが、その中に、広野とある原発管理職夫人の不義を窺わせる密通があった。奥崇の食指が動いた。奥崇は F町に飛んだ。


🎆 繭子

 F町の盛夏の、鬱陶しいほどに蒸し暑い昼下がりである。
 選挙カーが反市長派の候補者の名前を連呼しながら、近付いてくる。
 玄関は網戸になっているが、チャイムを押しても応答がない。奥崇が煙草に火を点けた。間合いを見定めて再び押すと、暫くの間があって、艶やかな声に続いて、女が姿を現した。
完熟した身体を、青い半袖のワンピースで隠している。男と同じく四〇半ばに見える。

 「何のご用でしょうか?」髪が濡れている。 やさ面の男が長身を折って、「F県警です」と、手帳を示した。
 一瞥した女が、「ご苦労様です」「原発管理職夫人の繭子さんですね?」女が頷いた。「ある事案を内定していまして。お願いがあって伺いました」「何でしょう?」「何点か、奥さんの話を伺いたいのですが。ご協力頂けますか?」「どうぞ。お上がり下さい」

 ソファの男に麦茶を勧めながら、「それでなくとも暑いのに騒々しいわ」と同意を求める。シャンプーの香りが漂っている。煙草に火を点けて、「選挙もいよいよ終盤ですから」と、男が応えた。
 向かいに座った女が、「はた迷惑だわ」「形勢が拮抗して、反市長派は勢いづいていますから」女が、奥崇の続きを折って、「どんな話なのかしら?」と、訝しげに視線を送る。
 「実は、選挙違反の容疑で、ある事案を極秘に内定しているんですが…」
 
  
6️⃣ 取り調べ

 女が、意味ありげに足を組み替えた。桃色の豊かな太股の奥の漆黒が、僅かに覗いた気が、奥崇はした。
「選挙違反?」と、女が呟く。その息づかいを追いかけて、「反市長派のです。ご主人は原発の労務部次長ですから。奥さんは原発推進の立場ですよね?」と、刑事が補填した。「当然です」「すると、選挙は?」「もちろん現職の方です」「そうですよね。でも、あなたの名前が、突然に浮上したものですから。私も場違いだとは思っているんですが。職務上やむを得ず。私としては、ご主人の仕事が労組対策ですから。正直なところ、労組内の過激派の陰謀、すなわちデマではないかと疑っているんですが」

 女の頬がひきつった。「労働組合?」「原発には幾つか、労働組合があるんですが。穏健なのから、革命を叫ぶ過激派まで。ご主人から聞いてはいませんか?」「うちでは仕事の話は一切しないわ」男が煙草に火をつけて、紫煙を吐いた。
 そこに、黒猫が密やかに寄ってきて、素早くソファに乗ると、女に擦り寄った。すると、その毛並みに女が手を添えて、指を舐めさせ始めた。それが、丹念に一本が済むと、別な一本を与えるのである。黒猫は慣れた仕草で、女の桃色の指に、当たり前の如くに舌を這わせている。実に奇妙な光景ではないか。猫は雄に違いない、などと思いながら、奥崇は目眩がしてきた。

 すると、何も言わずに、黒猫を引き連れて席を立った女が、ウィスキーを用意して戻ってきた。男の分までオンザロックを作ると、黙ってグラスに口をつけた。

 「警察だの、労働組合だの、革命や過激派まで。思いもかけずに突然で、刺激的なんだもの。私、驚いてしまって。ほんの気付けだわ」「ごもっともです」「職務でしょうから、無理にお勧めはしないけど。この陽気だもの。私は一向に頓着はしないわよ」「私もこの銘柄しか飲まないんです」「ウィスキーがお好きなの?」「自然の不思議の賜物ですから」奥崇は礼を言いながら、グラスに手を伸ばした。
 
 
🎆 可視可
 
 「私が何をしたって言うんです?」「容疑という程の事ではありません。ある情報の提供があったものですから。あくまでも、任意の協力要請なんです」「どんな情報なのかしら?」
 男が煙草に火を点けて、「性行為が絡む選挙違反です。極端な場合は売春の疑いもあります」「売春?私が?」女の、いかにも重そうな胸が揺れた。

 「実に不届きな噂です」「誰が言ってるんですか?」「これ以上は捜査上の秘密なんで」「一方的に言われっぱなしなんて、不条理だわ」「私は断定などしてはいません。選挙と労組、ましてや、性行為が絡む微妙な案件ですし。それに原発役員夫人が関わるとなると。実に神経質な案件なんです。解りますね?」不承不承に頷く女に、「極秘の内定なんです。あなたの秘密は絶対に守ります。もちろんご主人にも。ですから正直にお答え下さい」女が頷いた。

 「ところで、今日はご主人は?」男は全てを承知しているのである。「本社に出張で。明日、帰ります」

 「ここに署名と押印をして下さい。任意の取り調べの承諾書です。それと可視化承諾書です」「可視化って?」「私の取り調べの適法性と、奥さんの権利を担保するために、これからの様子はビデオに録画をします」と、有無を言わさない。
繭子は微塵の疑いも抱かずに、納得した。

 果たして、奥崇が難儀しながら、海外製のデオまで準備した真の意図は何なのか。
 奥崇は相馬の密命も帯びていたのであった。あの『紫萬と磐城の儚』の磐城の動向の把握である。
 廣山が松山事件に関与した時に、相馬も現地で重要な役回りを演じた。相馬に駐留軍の指示を伝えた謎の男がいた。磐城はその男を追って、F町まで来たのである。駐留軍は本国からの密命を受けて、その男をF町に派遣していたのだ。
 相馬の話の節々から、駐留軍がF町の原発政策の現行維持に、並々ならぬ関心を持っていることを察した奥崇は、原発管理職の妻の女を籠絡しておくのは、一挙両得だと考えたのである。その為の、あの男、広野の情報は最後の最後まで隠し球にしなければならないのだ。

 女が身体を屈めて署名した。ワンピースの胸元から乳房が覗いた。男がカメラをセットして録画が始まった。そして、思い出した様に、「奥さん。玄関の網戸はやめて、必ず鍵を掛けた方がいいですよ」と、言った。
 
 
7️⃣ 密告

刑事の追求は止まない。「五日前に男が来ませんでしたか?」「どうだったかしら?思い出せないわ」と、女が汗を拭った。「選挙の運動員だと言って。反市長派です」「反市長派でしょ?」「そうです」「だったら、来ていないわ。来るわけがないでしょ?私の夫は原発の管理職なのよ。こんな狭い町だもの。誰もが周知でしょ?」「本当ですか?」「間違いないわ」女が声音を変えた。「思い出したわ。あの日は頭痛が酷くて。一日中休んでいたんだもの」「ご主人は?」「家にいたわ」女があからさまに嘘をついたから、男がほくそ笑んだ。

刑事は引き下がらない。「反市長派のある男が、個別訪問でこちらに来たという、情報があるんですが?」「その人が何て言ってるの?」「反市長派のビラをあなたと一緒に作った、と。しかし、これは、ある男が某所で漏らした、と言う類いの話で。まあ、噂話に毛の生えた様なものなんですが…」「ビラ?」「これです」
 
 刑事が取り出したビラでは、半裸の男女が絡み合っていた。顔は巧妙に隠している。

 『町長と前町長の娘の疑惑の密会-原発利権を許すな-』と、大見出しがついている。

 「三日前に、無差別に大量に撒かれたビラです。ここを見て下さい。男が女に挿入しているような、あるいは何かの影の様な、微妙な写真なんですが…」体を乗り出した女が、怪しい写真に食い入った。「この写真の女が、あなただと言っているらしいんですが?」「嘘よ。こんなの私じゃないわ」「あなたと、こうやって交接したと言ってるんです」「根も葉もない、出鱈目だわ」「あなたから誘惑されたと?」「してません」「ご主人が留守だったから、一晩中…」「酷いわ」
 男が姿勢を正して、「警察は不偏不党、中立公正ですが、現在の社会の体制を守るのが仕事です。必要不可欠で、安全なエネルギー。原発推進はもちろん。原発経営陣の夫人のあなただから、有り体に本音を言えば、私は市長派ですよ。あなたと、全く一緒の立場なんです。私は、むしろ、あなたがこの写真の女でない事を、証明したいんです」と、出鱈目な政治家もどきの長演説を打った。「本当に有り難いわ。よろしくお願いします」

この後、この二人が如何なる謀議を重ねたのか。
ただ、長い間、公安一筋の辣腕刑事の奥崇が、事件の真相を簡単に見逃す筈など、あり得ないのである。奥崇が今まで繭子にしていた話は、悉く出鱈目で、単なる導入なのであった。ビラは小道具に過ぎない。
奥崇が白状させたいのは、あの広野とこの女の密会の事実なのだ。即ち、原発経営陣の夫人と、原発に反対する、左翼労働組合幹部の情事なのである。
この一大事件の全容が手に入れば、廣山は、至極、満足するだろう。各方面への圧力の材料になるからである。だから、いかに気丈な繭子とはいえ、奥崇にとっては、最早、狙いを定めた獲物だったのである。

以下の記述は、繭子の自白によって明らかになった、この事件の全貌なのか。違う。これは、未だ、奥崇の鋭い推理に過ぎない。この非情で陰湿な公安の刑事は、この仮説に基づいて、手段を選ばすに、眼前の女を追い詰めていくのだが、女もただ者ではない。
 

8️⃣ 訪問者

 一九××年。F原発の立地自治体、F町。
 盛夏の昼下がり。夜来からの雨が上がった後は太陽の灼熱が容赦なく照りつける。海風も途絶えて鬱陶しいほどの湿潤な午後である。太平洋に面した零細な集落の外れに電力会社の役員の社宅があった。
 背が高くて頑健な、鋭い眼差しの男が、その玄関口で声を発した。応答はないが、男は在宅を知っている。おもむろに煙草に火を点けて、頃合いを図って再び声をあげると、少し遅れて微かに返事がする。ややあって、足音と共にガラス戸に人影が映り、慌ただしく鍵を外して戸が引かれて、その女がようよう姿を現した。
 
 「どなた様かしら?」女の厚くて紅い濡れた唇が、妖艶だが怪訝気な声を発しながらけだるく動く。
 未だ髪が乾ききっていない。半袖の青いワンピースに包まれた身体は豊穣の熟れた肉だ。それは男の趣向と情念を完璧に満足させているのである。

 「ご主人の下で働いている社外工です」と、広野が慇懃に名を告げると、「お世話になっております。いつもご苦労様です」と、女は微塵の疑念も抱かずに、初めて頬を緩めて恭しく頭を沈めた。
 その瞬間に、ワンピースの胸元から、豊かな白い乳房が僅かに覗いた。濃い湿気で澱んだ空気を揺らして、洗い髪の香りが、微かに男に向けて泳ぐ。女が湯浴みする豊潤な裸体の有り様が、男の脳裏をよぎり去った。
女は上がり框に端座している。「どのようなご用件でしょうか?」
その時に、蝉が飛び込んできた。女の膝が崩れて太股が開いた。

🎆 痣
  
 この小一時間ほど前には、男が先ほどの玄関をやり過ごして、足音を忍ばせながら、裏手に回っていたのである。電気のメーターを確認する。その回転速度で人がいるのは明らかだ。
男は更に忍び入る。居間とおぼしき部屋に、レースと分厚いカーテンが引かれて、テレビの音声が漏れていたのだ。僅かな風が起こっていて、硝子戸が開いている。
カーテンの隙間に目を当てた男が仰天した。あれほどに妄想した真裸の女が、長椅子に座って、扇風機の風を浴びているのである。これで、あの物語が完遂するのではないか。何という行幸なのだ。この女とは縁があるに違いない、とすら思える。
 湯上がりなのだろう、濡れた髪をバスタオルで拭いている。真っ白い乳房が放埒に揺れる。その乳房にある幾つかの斑紋に、男が気付いた。紫だ。男はその裸体の異様さに、さらに目を見開く。暫く凝視しているうちに、身体中にちりばめられた虎斑は、同衾の痕跡に違いないと、納得した。夫が出掛けたつい先頃まで、営みに耽っていたのか。嫉妬深い夫が、留守中の妻の不業跡を案じて付けたのか。その時に、四八と聞いているこの女の芳醇な肉体は、どのようにして身悶えしたのか。などと、男は妄念を逞しくする。

 視線の終着では、女が、やはり、斑紋が刻まれた豊かな太股をふしだらに開いている。濃密な陰毛が、脂肪が蓄積して膨れた下腹を覆っていて、三角の密林の頂上は、縦長の臍にまで届いている。その森の秘密がすっかり露になって、扇風機の風に揺れて、蠢いているのであった。
そこに女の指が伸びた。赤紫の股間の、その門戸がふしだらに弛んでいる。やはり、交接の痕跡なのか。女は、暫く、湿った陰毛をまさぐっていたかと思うと、やおら寝そべった。豊満な乳房を揉み始めた。乳首を愛撫する。手が股間に転じて、ついには、女の指が潜り込んで、下肢が痙攣を始めた。男の隆起が疼いた。
 女が声をあげた。黒猫が現れた。男は驚愕した。その猫が女の股間を舐め始めたのである。

 そして、蝉は飛び出して行き、再び、静寂が二人を包んだ。女は、些かも動じた風を見せずに、男の応答を催促する。

 
9️⃣ ベント室 
 
 「恋をしてしまったんです。あなたを好きになったんです。思い焦がれています。話を聞いて欲しいんです」男が一気に言う。女が重たい胸を崩して、「突然に何を言い出すのかしら。あなたには、思い当たる節が、一欠片もないんですけど?今、初めてお目にかかるんでしょ?」と、狼狽えた。
 「赴任の挨拶で工場に来ましたよね?」暫く思いを巡らせた女が、「…1カ月前の、あの時のことかしら?」「そうです。あの時に、全てを目撃していたんです」女の視線が揺れた。「目撃?何を見ていたと言うのかしら?」「察しが付いたようですね?」「あなたの話は、皆目、わからないわ。何の事かしら?」

「あなた方夫婦の交接ですよ」女が曇ったが、構わずに、「ベント室、原子炉の下ですよ。緊急対策の部屋だから、普段は誰も行かない。隔離された密閉空間だから、安心だと思ったんでしょ?」と、男が一気に攻め立てるのである。
「ちょっと待ってちょうだい。私、そんなところには行ってないわ」「せいぜい否定しなさい。いずれにしても、壁に耳あり。原発に迷路あり、なんだ」「確かに中央制御室には入ったわ。でも、その他にはどこにも行ってないのよ。嘘などじゃないわ。あなた。本当にそんなのを見たの?」「はい」「どこで見たの?」「だから、ベント調整室です」

「あなたはどこにいたのかしら?」「天井です。私の仕事は原発の電気保守なんです。あの建物は、壁の裏に保守用の通路が網の目に張り巡らされているんですよ。女の嬌声で気付いて。天井の通気孔から覗いていたんです」「ベント室ってどこにあるのかしら?」「地下2階です。中央制御室からエレベーターで降りて、南にニ〇メートル位です」「そんなところには行ってないわ。……そうそう。思い出したわ。あの日は、確か一八組もの夫婦が来ていたのよ」「一八組?」「そうよ。あなた?その内の誰かと、私を見間違えたんじゃないの?」「そんなことはない」「顔を見たの?」「はっきりと見ました」「確かに私だったの?」「間違いない」「嘘だわ。他の奥さんの誰かと、勘違いしてるんだわよ」
「本当に一八組ですか?」「私の記憶ではそうだわ」「嘘をついてますね?違いますよ」「どうして?」「調べてあります」「何組なのかしら?」「僅か四組です」「間違いないの?」「どんな人物だったかも、総務で確認してあります」「私の記憶違いかしら。でも、あなたが見たと言うその二人は、絶対に私達じゃないわ」
 「あなたは、そう言わざるを得ないんでしょうね。役員夫婦の原発施設内の交接なんて。何せ、原発始まって以来の、最大のスキャンダルですからね。そうでしょ?発覚したら、大問題になるのは不可避ですよ。ご主人の左遷はおろか、懲戒も免れない。あなたのこれからだって、破滅するかもしれない」

🎆 労働組合

 「奥さん。安心してください。そんな大事件にするつもりは露ほどもないんです。私は、いわば、あなたの味方のつもりなんです」
 果たして、男の主張は虚偽のいいかがりがなのか。女の抗弁が真相なのか。そもそも、男が女を訪ねた目的の真相は何なのか。  
 女の太股がじわじわと開いている。「…もしかして。あなた?…原発反対派の方じゃないのかしら?」「どうして、そう思うんですか?」「ふっと、そんな気がしたの。あなたの面持ちが、暗闇の槍みたいに精悍で。無頼な空気なんだもの。昔に、そんな人と縁があって。実に、似てるんだもの。ここは反対運動が激しいでしょ?特に、今度の選挙は対立が激しいんでしょ?」「そうですね」「社内にもそういう勢力があるって、主人から聞いていたもの」

  漸く思い至った如くに、「あなた?反対派の労働組合じゃないのかしら?」と、女が質した。「そうですよ」「まあ。怖いことをさらりと言うのね」「ここまで来て、あなたに隠しても仕方ないですから。それに…」「それに?」「政府のまやかしに騙されて、あの被爆者団体まで賛成しているが、原発ほど危険な代物はないんだ。この国の天変地異、地震と津波だ。そして、複雑で、考えられないほどの脆弱な構造。それに、ずさん極まる会社の管理体制。モラルが低下した従業員。格差と差別の労務構造。これらが複合したら、あの原子炉は、いつ爆発してもおかしくない。若しそうなったら、この地域は、再び三度、中央権力に凌辱されるんだ。そんなことを許す訳にはいかない」「大演説だこと。さしずめ、幹部なんでしょうね」「それほどでもありません」
 
 
1️⃣0️⃣ 攻防 
 
 この女、F原発総務部長夫人が、その会合に出席していたのは間違いないのである。男自身が出席者名簿を確認したし、関係者の証言もある。会議の後に、参加者が連れだって原発施設内の処処を見学したのも事実だ。記録も目撃証言もある。
最も肝心なベント室での不祥事があったのも、確固たる真実である。目撃者がいるのだ。ただし、目撃者はこの男ではない。 電気技師のFという男だ。そして、目撃者はこのFただ一人で、男の組合の秘密組合員なのだ。
しかも、彼は作業中だったから、天井裏にいて、情交が行われたベント室はその眼下にあり、もちろん、声は明瞭に聞こえたのだが、ベント室は全くの闇だったのだ。これでは、行為に及んだ不心得者達の容姿などを、判明できるわけがないではないか。

 ベント室はなぜ闇だったのか。F自身が、作業のために、電源を遮断していたのである。
 だから、公の証拠になるものは、何一つも存在しないのである。
広野はFが聞いたという声の体験談から推論して、映像を組み立てたのだ。その上に、都合よく脚色を加えて、あたかも目撃した如くに女を恐喝しているのである。
改めて、その内容は、原発総務部長とその妻が、業務中に、ベント室の煌煌たる照明の下で裸体をさらして、それを天井裏にいた男が目撃したというものだ。
  
 女の状況は、やや錯綜している。夫に誘われて、その会合に出席したのは間違いない。ベント室での抱擁も、事前に約束していた。
緩慢な夫婦生活には飽いていた二人は、夫がF原発赴任が決まった時から、施設内での行為を計画していたのだ。それまでも、様々な場所で交接してきたこの夫婦の、とりわけ、人の数倍も淫乱な妻の性癖にとって、原発は、たぐいまれな場所だったのである。
  
 では、この夫婦が、当日に、目論み通りに、あのベント室で確かに交接したのだろうか。そして、その相手は夫だったのか。
 女は何に戸惑い、苦慮しているのか。広野が告発しているという、その事実そのものだ。真実の解明はその後の課題であり、極端に言えばどうでもいいことなのだ。労務一筋に歩んできた夫を、見てきた女は、労働組合をめぐる状況の、深刻な複雑さを知っている。
 盛夏の昼下がりに、堂々と、革命的な労働組合の幹部が、総務部長宅を訪ねている事自体が問題なのだ。男の組合は、それほどに厄介な存在なのである。

 しかも、この男は恋愛感情を表盾にして、関係を迫っている。男の立場上は不整合にも見えるが、とりたたてて咎められることなのか。
仮に、女が反撃して、事態が白日の下に曝されたとしても、「組合活動のために、敢えて火中の栗を拾いに行った」と、男が主張すれば、組合員に、彼を批判する理由は何もない。
 そして、その根元は、原発施設内での役員夫人の情事なのだ。前代未聞のスキャンダルなのである。性交したのがこの女夫婦であろうが、女と他の誰かであろうが、あるいは別な一組であろうが、取り立てて、大差はないのだ。ベント室での秘密を、男の組合に目撃されたことが致命傷なのである。
 だから、女としてはこの事態を決して表沙汰にはできないのだ。男との二人だけの折衝で、夫が帰るまでには、決着をさせなければならないのである。
 そして、ベント室の真実は、女の記憶からさえ、消去されなければならないのだ。
 
(続く)

原発の儚1️⃣~1️⃣0️⃣

原発の儚1️⃣~1️⃣0️⃣

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  • 短編
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  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-02-26

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