金星の雲に消える

ニカ

 夏のあいま、シャツにぽっかり空いた穴のように、季節外れの秋の風が吹いた。澄んだ青に浮かんだ雲はすばやくかたちを変えて流れゆき、時計の針も寄り添うようにちくたくと進んでいくのだった。仕事を辞めた蟹は、そういうのを延々と眺めていた。延々と、えんえんと。仕事をしていた時とちがって、時間の流れが遅くなっていくようだった。でも、今日だけは違った。今日だけは、時間がさっさと立ち去っていってしまうような気がした。
 骨折はもうすっかり治った。全治何ヶ月だったかは忘れた(なにせ、えんえんとしていたので)が、仕事をしていたときの情を忘れるくらいには時が経っていた。部屋に飾っていた花は枯れたし、冷凍庫の急冷室からは過去にフリージングした灰が(そして、もう食べられはしない灰が)出てきたし、玄関に飾ってある土偶には砂埃が乗っていた。ひさしく音楽を聴いていないから耳がいたくなくて、代わりに空の唸る音や生活の息遣いが耳にぴったりとくっつくようになっていた。一番すきなのは、かちゃかちゃ、とフォークと皿が擦れる音。
 ザサとは入院以来連絡をとっていない。何やら外の人と入籍したとか何とかで、サボテン街の外に旅行に出かけているらしかった。「何処の国籍にすんの」入院中、点滴の管を指で弾きながら、蟹はザサに訊いた。ザサは見舞いの林檎を木っ端微塵にしながら、「無国籍」と答えた。つまり、はぐらかされた。そんな答えが通用するはずがなかった。
 いっぽう、蟹は彼氏とは別れた。ギター用品を取り扱わない蟹は彼にとって無価値であるらしかった。まず、此奴は見舞いに一回も来なかった。そして、退院した後もほとんど連絡を寄越さなかった。そして、このご時世である、電話で喧嘩になり、そのままおじゃんという感じだった。別れ際蟹は、ギターの弦を鋏でばちんと切るのを電話越しに聞かせてやった。さぞ嫌がることだろうと思った。腹いせに、めちゃめちゃ嫌がることをしてやりたかったのだ。そうしたら、何よりもギターをあいしている彼氏は、呻き声をあげて電話をがちゃ切りした。まるで、地獄からきた死者に首を締められたみたいな音声だった。いい気味だった。電話を切られた後、蟹は電話をベッドにぶん投げた。そして、そのまま枕に突っ伏して小一時間泣いた。
 それから朝がきて、あいかわらず窓の外は乾いた冷たい風が吹き荒れていて、もう地球じゃないみたいだった。でもここはかわらず地球で、仕事を辞めてやけになって屋上から落ちようとしてそれを止めた人に殴られて入院して退院して彼氏に振られて今に至る、朝起きたら何もかもリセットされていることを願ったが残念ながら今日は昨日の続きだった。最悪だ、と蟹は思った。最悪な気分だがやはり朝というものは清々しくて、朝がくるたびに本当は少しほっとしている。ずっと夜だったら、それこそ、地球じゃなくて宇宙の隅っこにでも追いやられた気分になって、思考回路がおかしくなって無になってしまう……何億光年も。まあでも太陽が登って今日も元気に快晴なのだから、蟹はまだ人間の続きをしていられるのである。とりあえず真っ先に身体にわるそうなフリージングの灰を棄てた。土偶の砂埃を払った。枯れた花は庭に葬った。腐りかけていた日常を無心に正した。次は洗濯物、お前を退治してやる。
 大量の白いシャツとベージュのチノを干し切った蟹は、今度は腹が減ってきた。灰を摘んで腹の足しにしてもよかったが、どうにも味が恋しくて、仕方なく街へ出ることにした。普段着は洗濯し尽くされていたから、ビーチに行くときにしか着ない麻のゆったりしたワンピースに、レースのガウンを羽織った。何日も外に出ていないにしては、きちんと洒脱を纏うことができた。外を歩くと、強い風にレースが翻る。ばたばたと舞い上がったと思えばだらしなく垂れ下がり、追い風を受け蟹より前にはためいたと思えば次の瞬間には横向きに鋭く跳ね上がった。蟹はそれを面倒に思い、ガウンを押さえたりせず、風の吹くままにさせた。自分だけは風に煽られないように、まっすぐ芯を保って歩き続けた。ひとつの店に辿り着いた。
 店の中は、いつも異様に涼しい。それもそのはず、店の中央に大きな氷の柱があるからだった。解けない氷に、有名人たちがサインをしていく。柱は透き通っていて、よく見ないと存在すら確認できないほどだから、ふと見るとたくさんの文字が空中に浮かんでいるように見える。蟹はそのすぐ脇の一人用の席に座った。麺料理をオーダーする。運ばれてきた皿の上では、麺が海老に絡み付いていた。蟹は海老だけ器用に残した。
 目線を上げて、氷の柱をじっと見つめた。サインを読もうとする。読めない。サインというものは、往々にして読みづらいものである。中には、その体裁でその文字として本気で読ませようとしているのか問い詰めたいものもある。わたしがこう書くのだからこれが正解なのだ、と最早芸術の域である。暫くしかめ面で眺めていた。すると、氷の向こうに見知った顔があった。あ、と口をぽかんと開ける。すると、ちょうどよくあちらも気がついて、同じく口を開ける。蟹が飛び降りようとしたときに殴って止めに入った、ビルである。
 しかし蟹はとくに挨拶をするでなく、バッグを引っ掴んで足早に店を出た。おい、と呼ばれた気がした、でも蟹は、ミス・クラブと呼んでもらえなければ振り向かないと決めていた。外は依然強い風が吹いていたが、その風は乾いた冷たい風から湿った温かい風に変わっており、あんなに青かった空が硫黄色の雲に覆われ今にも一雨きそうな具合だった。心がひりひりした。燃えて焼き崩れそうだった。いいこともいやなことも、全部過去として積み重なっていくのが人生のわるいところだった。それも全部笑い飛ばしてえがおで生きていくのよ、とかは言いたくなかった。いやなことを呼び込んでいるのも、間違いなく自分だからだ。
 そのとき、ぶわ、と一際大きな風が吹いた。蟹は身体が浮くのを感じた。側にあった銀色のごみ箱が飛んだ。紙屑が舞った。誰かのアイウェアがひしゃげながら空を横切った。たくさんのマスクと、洗濯物が街中から溢れてきた。そのまま、あらゆるものが風に流された。このことは翌日の新聞に載り、異国でも騒ぎになったらしく、ザサから一応電話がきた。
 どこか遠くに運んでもらいたいな、と、飛ばされている最中、蟹は思った。しかし蟹の身体はサボテン街の端っこで、レースのガウンにふわりと包まれながら、穏やかに軟着陸したのだった。

金星の雲に消える

金星の雲に消える

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2021-02-25

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