白紙を埋める方法

 夜、じゆうな時間ができると、キーボードをペアリングして白紙のメモ帳を開くのだけど、いつまで経っても白紙のままで、ついには泣き声に呼ばれて本日が終了してしまうので、すごくまいっている。きょうもそんな感じで、風呂から戻るなりすぐに準備をしたけれど、ただ紅茶を啜っただけでメモ帳はまっしろ、飲み終わる頃にカップの茶渋が気になり、またお湯を沸かして重曹でつけおくことにした。五年ほど愛用しているウェッジウッドのお気に入りなのだ。どんな日も、あたたかいお茶はこれに注いできた。手術入院から戻って養生していたあのしずかでかなしい日々にも、得体の知れない陣痛を待った臨月の長い三週間にも、夜泣きを鎮めた後の、あのぽっかり空いた夜の帳にも。
 またメモ帳の前に戻ってきたけれど、やっぱりなんにも思い浮かばなくて、このあいだ届いたものの時間がなくて放置してあった荷物を解くことにした。感じのいいお店で買った、感じのいいあれこれだ。マーチソンヒュームのクリーナーと、水切りマットに、耐熱ボウル。今まで、コンロの掃除に専用品ではないウェットシートを使ったり(それで取れない汚れが蓄積しちゃったり)とか、水切りに布巾を敷いていたり(布巾は軒並みかびが生えた)とか、レンチンするときにサラダディッシュを使っていたり(これについては、取り立てて何か問題があるわけではなかったけど、調理と食事の皿が一体であることが昔から気になってはいた)とかして、てきとうに誤魔化してたけど、さいきん台所仕事が増えて、何とかしなきゃなあ、と思ったから何とかし始めてみたのだった。捗るよりも先に、持つことの喜びを覚えた。モチベーションというのは、案外こういうところで保たれるものである。しかしながら残念なことに、不要な皿のせいでボウルが仕舞えなかった。だからもう絶対に使わないなという皿を取り除いて、段ボールを留め置いているところに一緒に置いた。こういう地味な整理が必要な場所が、家の中のあちこちにあるのをわたしは知っている。何とかしなきゃなあ、と日々の端々で思う。少しずつ良くしているけれど、なかなかどうしてキリがない。
 そして、思った。このキリのないものを追いかけているうちに、わたしはどんどん妻っぽくなって、母っぽくなって、役割の内に押し込められていくのかな、もしくは、カテゴライズされ(レッテルなんていう表現もあるのかな)そういう風に変わっていくのかな、なんてことを、思った。小説のなかで見つけたうつくしい表現を宝石のように取り扱ったり、自分の心の中のベビーピンクやペールブルーの渦から言葉を拾い上げたり、毎週金曜日に花束を抱えて深呼吸をしたりだとか、自分の中の少女性、そういうものからは遠ざかっていくのかな、と思った。べつに、切り離さなければいけない、というわけではないし、いつまでも傍にいてもいいのだけど、実感としては、やっぱり遠ざかっている。
 そして、別にいいやって、執着していない自分もいる。きっとわるいことばかりでもないのだな。むかしやったマザーというゲームのなかのママみたいなおかあさんに、わたしはなりたかったんだ、ずっと。だから、これからは、そういう感じの小説を書くことをおぼえたらいいのかもしれないよ。絵でもいいよ。母である自分も自分だし、妻である自分も自分だし、はたらいててもはたらいてなくても、少女っぽいところも、ぜんぶ自分だし。それは分類できっこないし、しなくてよいのだ。
 ひとつ怠ってはいけないのは、行動をやめてしまうこと。やめたら最後、なかなか帰って来れなくなる。だからわたしは、空っぽでも、とりあえず白紙の前に座って、なんでもいいから言葉を取り出すことに、挑戦し続けるのだ。

白紙を埋める方法

白紙を埋める方法

  • 随筆・エッセイ
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-02-19

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