バックネット

 七月の炎天下、球場には多くの観客が詰めかける。地方大会とは言え高校野球、根強いファンも多いのだろうか、バックネット裏の緑は、満杯の人で白へと変わっていた。
 笹原は、バックネット入口の真上で試合を眺めていた。第二試合で戦う母校を応援に来たのだが、どうせなら、と少し早く講義を抜け出して来たのだ。
 第一試合、七回表。地元の中堅公立校と甲子園常連の強豪私立がグラウンドで火花を散らせている。実力差は歴然であるのだが、スコアはそこまで開いていない。1-2、一塁側ベンチにいる私立校の選手達は、どこか焦っているように見える。ベンチ端でサインを出している監督は、一向にむくれっつらを崩さない。球場にいる多くが、ここまで緊迫した試合になるなんて想像すらしていなかったに違いない。これだから・・・、と笹原は含み笑いした。

 これだから、野球は面白い。

 笹原も、数年前はあのグラウンドに立っていたのだ。今でも、すっと目を閉じれば、グラウンドに立っている自分を簡単にイメージできる。打席に入り、18,44m先のピッチャーと対峙する。思い出すだけで胸が高まった。ピッチャーが振りかぶる、足を上げる、その足をおろしながら全力でボールを放つ。それを見て足でタイミングを取り、ボールに向かってバットを

 カキン。

 グラウンドから金属音が響き、笹原はハッとした。打球は二遊間を抜け、センターの前へと転がっている。センター前ヒット、球場が一気に湧いた。一塁を回って止まった打者は、ほんの小さくガッツポーズをしながら塁上に戻り、一塁側ベンチを見て監督のサインを待っていた。ここはセオリー通りバントだろう、などと考えていると、打者はすっとバントの構えをした。

 「となり、いいですか?」

 球場の喧騒にかき消されて、横から声をかけられたことに笹原は一瞬気づかなかった。ふっと顔を右に向けると、初老の男性が立っていた。少しの間、笹原の頭の上には疑問符が浮かんでいたが、すぐに解決した。少し体を寄せ、どうぞ、と笑顔で席をあけた。その男性はニコッと微笑み「ありがとう」と腰を下ろした。後ろにいる小太りの男は怪訝そうな顔でこちらを見ている。大丈夫、違和感の正体にはもう気づいている。

 笹原は再びグラウンドに目をやった。ワンボール、ピッチャーはストライクを取りに来る。さあ、バントの決め所だ。
 ピッチャーはクイックモーションから二球目を放った。カン、バットにボールが当たる。

 あ。

 おそらく、グラウンドにいる全員が思っただろう。ボールはピッチャー前に強く転がった。ピッチャーが素早く回収し、二塁へ放る。アウト。続いてショートが一塁へ転送する。アウト、ゲッツー。この場面では最悪だ。一塁側から、大きなため息が聞こえたような気がした。
 「ああ。やってしまった。」
 隣に座った男性が、本気で残念そうな顔をする。
 一塁側を応援ですか、笹原は思い切って尋ねてみる。男性はニコッとして「ええ、そうなんです。」と答え、息子がね、と続けた。
 「さっきのバッターですよ。」男性は苦々しい顔で話した。ああ、やってしまった、と、もう一度話したのも聞こえた。
 笹原はバックスクリーンに目をやった。前打者のところには『南部』と書いてある。
 「いやあ、最後だからねえ。」男性は、少し遠い目をした。
 それなら一塁側のスタンドで応援すればいいではないか、と言いかけて飲み込んだ。それができないからここに来たのだ。
 しばらく考えた。そして、うん、と、しばらくこの男性と会話することを決めた。自分にしかできないことだ。後ろの男は既にこちらを気にしていない。


  ◇◇◇


 「失礼ですが、」

 七回表が0点で終わり、攻守が交代するタイミングで笹原は男性に話しかけた。

 「南部哲郎さんですよね。」

 男性は少し驚いた顔をした。自分が有名人だとはあまり思っていないらしい。
 南部哲郎。このあたりに住んでいて名前を知らないものはいないだろう。地元の製菓会社の社長であるが、一代で会社を大きくし、また、地元への還元も忘れない。南部哲郎の寄付金に世話になった施設、団体は数多い。笹原の通う大学の研究室も、そのうちの一つである。

 「どうしてご存知で?」

 やはり、南部は不思議そうに聞いてくる。まあ、新聞とかで、と曖昧にだけ答え、自分の質問を続けた。
 「息子さんの応援にはよくこられるんですか?」
 ううんと、ね・・・。南部は答えに渋っていた。

 「恥ずかしながら、これが初めてなんですよ。今まで忙しかったもんで、言い訳なんですが、なかなか見に来れなくてね・・・。」
 そう言って、頭をかく仕草を見せる。地元企業とはいえ、一会社の社長なのだ。忙しくて当たり前だ。南部はそのまま言葉を紡いだ。

 「拓哉は、ああ息子の名前なんですが、あいつは小学校から野球をはじめましてね。小学校のうちは何回かグラウンドに足を運びましたよ。そりゃもう、楽しそうに野球をやるもんで。私も嬉しくて嬉しくてね。野球なんてほとんど知らなかったんだけど、頑張ってルールも覚えましたよ。でもね、中学校に行く頃には会社が忙しくって、全然見れなくてね。そしたら見ないうちにもどんどん上手くなっていったみたいで、野球をしに高校に行く、って言うもんだから。私としては野球も勉強もどっちもやって欲しかったんですが。」
 ここで、南部が言葉に詰まったようだった。何か、言いづらいことを言い表す言葉を探しているように見えた。

 「まぁ、ケンカ、しちゃいましてね。」

 言葉自身は、とても柔らかなものだった。しかし、彼の浮かべる微笑みから、確かにさみしさが漏れ出していた。
 「その時ね、言われたんですよ。『野球なんかしたことのない親父に何がわかるんだ!』ってね。確かにその通りで、最もなんだけども、私も頭にきちゃって。」
 で、そのあとはめっきり。寮生活だから会うこともなくてね。そう言って、南部はグラウンドを眺めた。その、もの悲しげな目でおそらく二塁を守る我が子を見つめているのだろう。

 7回裏、ツーアウト一塁。いつの間にか試合は進んでいた。バッターは9番で、小柄な選手だった。小さな体で少し重そうにバットを振り下ろす。ガキン、とバットの根っこに当たる音がした。詰まった打球はポテポテと二塁前に転がっていく。セカンドの南部拓哉が全力で前進し、ボールを掴んでそのまま一塁にランニングスロー。スリーアウト、チェンジ。

 とはいかなかった。セカンドの放った球はわずかに左にそれ、ファーストがそれをはじいた。ボールは転々と、一塁ベンチ前に転がっていく。その間に、一塁走者は三塁まで進んだ。ああ、またやってしまった、と南部はとなりで声を漏らしている。

 ツーアウト一・三塁、一気にピンチになった。電光掲示板には「E4」の文字が毒々しく光っている。
 「息子はね、私と一緒で気が小さいから、こうゆう大舞台では緊張しちゃうんだよね。」
 南部が顔を押さえながら話す。何もここまでになくていいのに、と小さく漏らす。
 「いや、今のはファーストがとってあげなきゃダメです。同じ一塁手として許せません。」
 笹原は力強く言う。南部拓哉を擁護するつもりではないが、現役の自分ならあれぐらい取れたはずた、という自負があった。
 「君も、野球をやっているのかい?」
 「まあ、元、一塁手ですね。」
 「そうか、元、か。」
 「菊池、ってピッチャー知ってます?」
 急に話を振られて、南部は若干びっくりしていた。それから、記憶を探るように、キクチ、キクチ、とつぶやいていた。
 「ああ、あのプロに行った」
 「そう、そのプロに行った菊池です。」
 「うん、キクチ、キクチ。」
 「僕はその菊池からホームランを打ったことがあるんですよ。」
 笹原は胸を張った。そのあとで、小さく「練習試合で、」とつぶやいた。

 「すごいじゃないか。どうやって打ったんだい?」
 南部は素直に感心しているようだった。
 「おじいちゃんが教えてくれました。」
 「おじいさんも野球を?」
 「はい、じいちゃんは一徹って名前なんです。」
 「おお、それはすごそうだ。それで、おじいさんにバッティングを教えてもらったんだね。」
 「いいえ。」
 笹原はにやっと笑った。対して、南部は訳のわからなそうな顔をしている。

 「じいちゃんは僕がちっちゃい時に亡くなっってるんです。」
 そう言うと、南部はますます訳のわからなそうな顔になった。
 「じゃあ、おじいさんが教えてくれた、ってのは?」
 「おじいちゃんが立ってるんですよ、ピッチャーの横に。それでですね、グローブの中を覗いて教えてくれるんです。こうやって。」
 笹原は手首をひねってみせた。「次はカーブだぞ、って。」
 南部はポカンとしている。それから、しばらくして「そんな馬鹿な」と笑った。おそらく信じてはいない。
 「それで、夏の大会でも菊池と対戦したんですよ。」
 「その時も教えてくれたのかい?」南部はまだ笑っている。これは完全に信じてないだろう。
 「はい。ストレートだぞ、って。」
 「それで?」
 「でも、球は曲がりました。」
 「おじいさんが間違ったのかい。」
 「いいえ、わからなかったんだと思います。」

 じいちゃんが野球やってた頃はツーシームなんて無かったですから。そう言うと、南部は吹き出した。
 
 それから、二人に会話はなく黙って試合を見守っていた。
 ピッチャーが少し浮き足立って、セットモーションに入った。


  ◇◇◇


 結局、7回裏は1点が入り、2-2の同点。8回は両者無得点、同点で最終回を迎える形となった。一塁ベンチからは明らかに焦燥感が見られる。当然、監督の飛ばす檄にも気合が入る。応援席から響いてくる吹奏楽の旋律も、どこかリズムが早くなっているようだ。
 9回表、打席に立ったのは5番打者。大きな体から放たれるスイングは、三回とも空を切った。三振、ワンアウト。
 右隣に座っている南部は、不安そうな面持ちでグラウンドを見つめている。打席には6番の打者が立っていた。彼が見つめていたのは、ネクストバッターサークルに膝をついている7番、南部拓哉であろう。

 「あの子は、大丈夫でしょうか。」

 ぽっ、とつぶやくように言った。かすかな声は、グラウンドの喧騒の中でもはっきりと笹原の耳に届いた。
 「今まで、ほとんど面倒を見てやることができなかった。それだけが心残りだった。忙しいと、言い訳して、ほとんどコミュニケーションをとってこれなかった。私は、息子のために何か出来たんでしょうか。」
 南部はゆっくりと言葉を発した。小さかったが、声には静かに感情がこもりはっきりと聞こえた。横目で彼の顔を覗くと、頬に光るものが見えた。

 「親ってのは、案外孤独なもんです。子が何かをしようとしてても、代わることもできない、横でアドバイスもできない。出来るのは、こうやってバックネット裏で手に汗握って応援するだけなんです。」

 南部は言葉を続けた。親は、子のために何かできるのでしょうか。その言葉には、笹原では量り知れない何かがあるような気がした。だが、黙ってはいなかった。この男に言いたいことがある。

 「そうかもしれませんね。」

 率直な感想を投げられたことに、南部は少しだけ意外そうな顔をした。笹原は、グラウンドから目を離さず、言葉を続けた。打席では、6番打者がツーストライクスリーボールまで粘っている。

 「結局、親なんかなくても子供は勝手に育ってくんです。親ってのは、やっぱり見ていることしかできないんですよ。」

 南部がこちらを覗いているのがわかる。自分の言わんとしていることを読み取ろうとしているのだ、笹原はそう思った。でも、と、笹原は続けた。
 
 「見ているだけじゃ不十分でしょうか。」

 思いが、言葉に乗る。

 「私は、十分だと思うんです。誰かが自分を見てくれている、それだけで頑張れたり、負けないでいられたりするんじゃないでしょうか。『見てるだけ』?、全然そんなことないです。十分、力になれていますよ。」
 以上、元高校球児の感想です。笹原は照れ隠しで、ニカッと笑った。それに呼応するように南部も笑った。その目には涙が浮かんでいた。

 ワッ、と球場が湧いた。6番打者も三振に倒れたようだ。ツーアウト。
 南部拓哉が打席に向かう。
 「応援してあげたらどうですか?」
 あまり気にすることないでしょう、そう続けた。

 「昨日は、彼とお話できたんでしょう?」
 南部はそれを聞いて、こくんと頷いた。
 「私がね、頑張れと言ったら、泣いてましたよ、あいつは。こんなことなら、高校に行くときも素直に送り出してやればよかった。」
 目を閉じて想像する。病床での父の最期の一言を、彼はどう思ったのだろうか。その言葉を背負って、彼は今どんな思いで打席に向かっているのだろうか。笹原は目を開けた。彼の心の中はきっとこんな感じなのだろう。横でボロボロと涙を流している南部を見てそう思った。

 「応援してあげたらどうですか?」
 もう一度、彼に言った。南部はすっと立ち上がり、大きく息を吸った。

 「拓哉あああ!」

 南部は大きく声を張った。涙で声がしわがれて、無様な声だった。でも、あたたかかった。彼の抱えているすべての思いが、声という形になって出てきた、そんな声だった。
 しかし、観客は誰も振り返らない。

 死者の声など、生者には届かない。


   ◇◇◇


 笹原が南部を見たのは今朝の新聞の一面である。
 『南部製菓社長 南部哲郎、ガンで死去』
 この名前には見覚えがあった。南部製菓は地元の企業で、教育機関や施設に多くの寄付をしていることで有名だ。たしか、うちの研究室も寄付金をもらったことがあるはずだ。
 ふーん、あの人がねぇ。母は、間抜けに声を漏らしていた。笹原も、惜しい人をなくしたものだ、位にしか思っていなかった。

 その南部哲郎が、今、横にいる。
 いや、より正確にはその幽霊、だろうか。

 「拓哉、頑張れええ!」

 南部は声を張る。力強かった。たくましかった。幽霊の声だとは思えなかった。
 だが、その声は、誰の耳にも届かない。
 死者の声が聞こえるのは、私のような、ごく一部の人間である。
 バットを握り締め、打席に向かう南部拓哉にも、その声は届かないだろう。

 だが

 ふっ、と

 こちらを見たのだろうか。

 打席に向かうさなか、一瞬、バックネットを見た。
 何かを探すようにではない。
 明らかに、視線は一点に固まっていた。
 笹原の、右隣。
 
 南部拓哉はすぐに視線をピッチャーに戻すと、バットの先をピッチャーに向け気合を飛ばした。
 ピッチャーと対峙する。

 一球目、外へのカーブ。見逃す、ワンストライク。

 彼にも見えるのだろうか、笹原はふと思った。いや、違う。
 きっと声は聞こえない。姿も見えない。
 でも、思いは届くのではないか。
 横では南部が声を振り絞っている。
 こんなになって応援しているのだ。

 二球目、再び外へのカーブ。これは大きく外れてワンストライクワンボール。

 むしろ、届いて欲しい。
 これは、願いであった。
 息子を想う父、どこにでもある光景。
 少し違うのは、この父は死んでしまったということ。
 ただ、それだけなのだ。

 三球目、インコースにストレート。だが、審判の手は上がらない。

 笹原は、いつの間にか両手を組んでいた。
 他から見れば、神頼みをしているように見えただろう。
 打ってくれ・・・
 南部哲郎のため、なのかわからない。
 だが、打ってくれ、南部拓哉。
 見ているのだ。
 お前の親父が、見守っているのだ。
 その思いは、届くだろ?
 
 四球目、ピッチャーが振りかぶる。
 足を下ろす。全力で球を放った。
 足でタイミングを取り、踏み込んで
 バットを

 カキン。

 その瞬間、観客はみんな空を見ていた。
 青い空に、白い点。
 球場は、痛いまでの静寂で包まれていた。

 その点は落ちてくることなく
 そのまま


 ――スタンドへ。


 直後、球場が一瞬で湧いた。
 一塁ベンチでも、監督がガッツポーズしているのが見えた。
 
 「大丈夫ですよ。」
 笹原は、呆然と涙を流している南部に声をかけた。

 「拓哉くんは、大丈夫ですよ。だから、安心して見守ってあげてください。」
 南部からの返答はなかった。もう、そこにいるのかも分からない。

 南部拓哉は、バットを置いてゆっくりとダイヤモンドを回った。
 思いは、伝わったのだろうか。
 死してなお、伝え足りなかった思いなのだ。
 南部哲郎の心残りだったのだ。
 彼の思いは―――いや、
 伝わった。そう信じたい。
 
 ゆっくり、大きく、ダイヤモンドを回る。
 その時間は、とてつもなく長く感じた。

 二塁を回った南部拓哉は、誰もいないバックネットの一席を目指して、大きくガッツポーズをした。

バックネット

読んでいただいてありがとうございました。
大好きな野球を題材に書かせていただきました。

バックネット

夏の高校野球、炎天下の中で起こったちょっと不思議な話。

  • 小説
  • 短編
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-23

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