魔弾の射手とマダムのシャツ


   ◇

 ここは高層マンションのある一室。その最上階ではないが、それに近いあたり。つまり地上からずいぶん高いところに位置していて、見晴らしも申し分なかった。
 高級な部屋だ、と思われるかもしれないが、室内はそう広くなく、つくりも豪華ではない。二人で暮らす程度なら不便もないだろうが、家族で暮らすとなると、少し窮屈になりそうだった。しかし一人暮らしをするぶんには、必要にして十分だと言えた。事実、そういう住人が多かった。
 この部屋の住人、藤本も、一人でこのマンションのこの一室に暮らしていた。藤本はもうすぐ三十歳になろうかという青年で、これといった特徴のない男だった。人目をひくような顔立ちでもなく、身長や体つき、声や仕草にも、印象に残るような点はみとめられなかった。初めて会う人は、どこかで見たことのある人だと感じるし、また、会ったことのある人でも、どこかで見たことのある人だと感じた。要するに、平均というものを具現化させたようなものだった。
 藤本の一日はこうだった。
 朝、目を覚ました藤本は、簡単な朝食をとり、身支度を整えて外出する。人ごみにまじりながら電車にのり、目的の建物に到着する。建物のあたりには、藤本と同じような人がいて、藤本もそのなかに紛れる。皆、建物の入口が開かれるのを待っているのだ。
「あなた、調子はどうですか」
「ここにこうして来ているのです。お分かりでしょう」
 藤本は、顔見知りとそんな会話をして、時間をつぶす。
 やがて時間となり、建物の中に入れるようになる。人々は静かに、その中に入っていく。藤本もそうする。
 この建物は、職業の紹介所。仕事を探している人に、それを案内するための施設だった。
 藤本は今のところ、まったく仕事を持っていなかった。人並みの大学を卒業した藤本は、当時景気の良かった企業へと就職した。友人は羨ましがったものだし、藤本も大船に乗ったような気持ちになったものだが、世の中の景気が悪くなり、たちまちその企業は倒産してしまった。失業となったが、一応、失業保険ももらえるし、景気の良かったときの高給はほとんど預金としていたため、藤本には差し迫った生活の不便はなかった。高層マンションも、好景気の時に買ったもの。預金はまだ十分にあり、細々と暮らせば、二年ぐらいは働かなくてもよさそうだった。
 問題は、当面の退屈だった。
 何せ、なにもすることがないのだ。若くして隠居したような毎日。預金を切り崩す生活は面白くないし、精神的にも良くないのではないだろうか。なまけものでも、年寄りでもない藤本はそう考えて、以来、こうして職探しをしていた。
 そこの係員と相談をする。
「何か、良い働き口はないでしょうか」
 見知った仲となっている係員は、リストを見て難しそうな顔をしている。
「やはり、わたしにこれと言った長所が無いのが問題でしょうか」
「いえ、そうではありません」
「ではなぜです」
 リストから顔を上げた係員は、藤本の後ろの方をボールペンで示した。
「ごらんなさい、おおぜいの人がいるでしょう」
「ええ、いますね。気のせいか、一月前よりも増えているようだ」
「事実、増えているのです。景気が悪化したためです。だからといって、働き口が増えるわけではない。いや、それどころか減っている」
「よほど有能でないと難しい、というわけですね」
 藤本は、少し卑屈に笑った。
「あなたは、どちらかというと優秀な方なのです。書類を送ると、たいていどこの会社も、あなたと会ってもいいと言う」
「たしかに、面接の機会は多いですよ」
「でしょう」
「でも、結果がついてこない」
 係員は申し訳なさそうに肩をすくめて、座り直し、藤本に訊ねた。
「あなたは自分でどうお考えですか」
「わたしの印象が薄いのが原因だと思います。多少礼儀が悪くても、何かをやってくれそうな人物に見えるとか、でなければ、とびぬけた才能でもあればいいのですがね」
 うんうん、と係員は頷いた。職務とは言え熱心に、藤本の力になろうとしてくれている。雇ってくれない会社が悪いわけでも、係員が悪いわけでもないのだ。景気が悪いのだ。焦ったところで、どうなるものでもない。
 帰るときになって、
「そういえば、この間の面接はどんな具合でしたか」
 と、係員が言った。
「あ、そう言えば、連絡がまだですね」
「それはおかしい。もう結果が出ているはずだが」
 係員は腕を組み、首を捻った。
「どうでしょう。今、それを聞いてみては。電話をお貸しします」
 あまり気は進まなかったが、藤本は係員の提案を聞き容れた。受話器を耳に当て、電話をかけた。
「…ええ…はい…いえ…どうも」
 受話器を置くと、すぐに係員が訊ねてきた。
「どうでした」
 藤本は肩をすくめて笑った。
「面接のあったことを、忘れているようでした。結果は聞くまでもありませんね」
 かくのごとく職探しはうまくいかず、藤本は夕方になる前にその建物を出て行く。
 面接のある時には、その会社まで行って面接を受け、無い時には気ままに散歩をして、自宅のマンションに帰っていく。それからは、読書をしたりテレビを眺めたりして、夜になるのを待ち、そして一日を終える。
 張り合いのない毎日で、ぬるま湯に浸かっているような日々だった。不満はないが、どこか物足りず、味気なく、波風立たず、変化に乏しく…。
「平凡な人間には、平凡な人生を、か」
 ある夜、寝るまでの時間にテレビを眺めながら、藤本は呟いた。テレビでは犯罪物の映画をやっていて、劇的そのものに画面は動いている。藤本はそれに、どうしても興味が持てない。あくびをして画面を消すと、暗くなった画面には、見慣れている自分の顔が、つまらなく映った。
 わたしはどこかで間違ったのかな。画面を見つめて、藤本は質問した。答えは返ってこず、藤本は目を逸らした。そして消灯して、ベッドにもぐりこんで、眠った。

 数日後。いつもと同じ時間に起きて、同じ時間に家を出た。
「あら、おはやいですわね」
 エレベーターで乗り合わせたのは、同じ階に住む若い女性。何でも芸術家として仕事をしているとかで、自宅をアトリエとしているらしかった。余裕の自由業というわけ。
 藤本は挨拶をした。
「景気はどうですか」
 彼女は、可笑しそうに笑って、
「わたしに景気は関係ありませんわ」
 そう答える彼女は、前衛の芸術家らしく、奇抜で人目を惹く格好をしていた。藤本はそれを見て、愚問だったことを詫びた。
「そうでしたね。では、どうです、近頃の…なんと言えばいいのかな」
「作品についてお知りになりたいのかしら」
 さほどそれを知りたいとも思わないが、藤本は挨拶の続きといった感じに頷いた。
「ええ、まあ」
「わたしの作品を正しく理解できる人は、限られています。最近などは、彫刻と絵画とを融合させた新しい形、これまでになかった、斬新で新鮮で、イマジネーションにあふれて、色彩と造形とが一つの芸術的…」
 エレベーターは地上に到着し、軽い音をたてて扉を開いた。小難しい芸術の話が続いていたが、藤本はいい加減な相槌を残して、その場を立ち去った。彼女の長い話には苦笑いを浮かべてしまうが、ああして自由業で暮らしていけるのは羨ましいな、と藤本は思う。
 その日もこれといった仕事が見つからず、また、面接の約束も取り付けられなかった藤本は、夕方、マンションに戻ってきた。疲れていると言えなくもないが、それは手応えの伴わない、むなしいものだった。
 夕飯を簡単に済ませ、ソファに座ってテレビを眺めていた。もうすぐ日が沈むという時間で、まだ寝てしまうには早い。久しぶりにバーにでも出かけてみるか。気晴らしも必要だろう。賑やかなネオン。きらびやかな女性。上等の酒。藤本はそれらを想像して、うっとりしかけたが、すぐにその想像を打ち消した。ストレスの発散の仕方として、それがあまりに平凡だったからだ。なんとありきたりな行動だろう。藤本は自分を笑いたい気持ちだった。
 その時、玄関の呼び鈴が鳴らされた。
「誰だろう」
 来客の予定などないのだが。おずおずとしていると、もう一度、呼び鈴が鳴らされた。
「はい、どちらさまでしょう」
「…お届けものですが」
 少し聞き取りづらい声だったが、玄関の向こうからは、そう返事があった。来客ではないと分かったものの、そのお届けものにも心当たりはない。といって、ありえないことでもない。ともかく、藤本は鍵をあけることにした。隣が留守なので預かってくれ、という場合だってあるのだ。
「どうぞ、お入りください」
 扉が開き、玄関先に素早く入ってきたのは、背広姿の男。その両手には、大きなトランクがあった。背広の男は、いかにも重そうに、そのトランクを玄関に置いた。
「はあ、これがお届けものですか。中には何が入っているのです」
 藤本は腰を屈めて、トランクをためつすがめつ見た。銀色の二つのトランク。そこには伝票の類は何も無い。
 ガチャンと音がして、藤本はしゃがんだまま、音のした方に顔を向けた。背広の男が、玄関の鍵を閉めたところだった。
「どうかしましたか」
 まるで警戒心のない声で、藤本は背中を向ける男に話しかけた。
「…いくつかお願いがあるのだが」
 男は振り向かずにそう言った。
「なんでしょう。あ、印鑑ですか」
「…いや、ちがう」
「しかし、荷物を届けに来たんでしょう。なにか、サインが要りますね」
「…サインも必要ではない」
 藤本は眉をよせて、首を傾げた。
「なぞなぞですか。わたしは暇ですからお付き合いしても構いませんが、あなたはそうではないでしょう。用件をおっしゃってください」
 男は、ゆっくりと振り向いた。藤本よりもいくらか年上に見えるその顔は、少し緊張していそうだった。話す声も、慎重そのもの。
「まず一つ、大きな声を出さないでもらいたい」
 妙なお願いだったが、大きな声が出したいわけでもない。藤本は頷いて見せた。
「二つ、動作はゆっくりとお願いしたい」
「いったい、何の話です」
「三つ」
 藤本の質問に構わず、男は続けた。
「あなたに恨みがあるわけではない」
 そこまで聞いて、藤本は腕を組み、ちょっと考え込むような仕草をした。男の指示に従い、ゆっくりとした動作で。
 どこかで見たことのあるようなやりとりだな。以前にも、こんなことがあったような…。
 やがて藤本は、次に男が言うであろう言葉を、ぱっとひらめいた。そしてそれを口に出すと、男の声とぴったり重なった。
「四つ、俺は殺し屋だ」
 男は驚いて目を丸くし、藤本は思わず笑ってしまった。
「そうだ、どこかで聞いたことのある言葉だと思ったら、これはまるで、こないだの夜、テレビでやっていた犯罪物の映画の中の台詞、そのままではないですか。あなたもご覧になったのですか」
 男はまだ驚いていたが、なんとか返事をした。
「あ、ああ、俺も見た」
「あれはつまらなかった」
「…そうかな、あれは良く出来ていた」
 男は変なところでムキになる。その様子を見て、藤本はにやりと笑った。
「ははあ、なるほど、それでこんな真似事を思いついたわけですね。しかし、他所では控えた方がよろしいですよ。トラブルになる。相手がわたしで良かった」
「まったくその通りだ。言われるまでもなく他所では控えるし、相手が君のような人なのも、好都合だった」
 次第に緊張がほぐれてきたような男は、そこで大きく深呼吸をした。
「ただ一つだけ」
「なんです。真似事が終わったのなら、お引取りいただきたいものです。わたしに暇はありますが、あまりからかわれ続けるのは面白くありません」
「君はさっきから勝手に決め付けている。これは真似事ではない」
 男の言葉を聞いて、藤本はまた首を傾げる。映画の中の殺し屋の真似事をしながら入ってきた男が、これは真似事ではないと言う。これは、つまり…。
「なるほど、つまりあなたは、自分を本物だとおっしゃる」
 男は頷いた。
「…そうですか。現実にお会いするのは初めてです。できればあとで、サインなどをお願いします。それにしてもあなたも大変なのですね。こういう練習もあるのですか」
「なんだ、君は何を言っているんだ」
「だって、あなたは本物の俳優なのでしょう」
 呆れてものも言えないといった顔をして、男は口を開けたままちょっと固まった。
「…驚いたな。君のように察しの悪い人は初めてだ」
「どういうことです」
 面倒だな、という顔をする男。
「簡単に言う。俺は本物の殺し屋だ」
 悲鳴や逃走という事態になるかもしれず、男は身構えたが、藤本は落ち着いたまま。さっき伝えた大声の禁止と、ゆっくりした動作のお願いを、忠実に守っているといった様子だった。
「…本物の、と言うと、余計に信じがたいのですが」
 藤本が静かにそう口にすると、男も頷いた。
「ああ、俺も今、そう思っていたところだ」
「ですよね。例えばですね…おい、あそこで火事がおきているぞ、本物の火事だ。…どうです。そこはかとなく怪しいでしょう。…消防車を呼べ、本物の消防車を。どうです」
「と言って、信じてもらうしかない」
「なにか無いのですか。名刺など」
 男は失笑した。
「名刺を持った殺し屋などあるものか」
 つられて、藤本も思わず笑ってしまう。考え込んでいた男だが、やがて思いついたように手の平を打った。
「そうだ。名刺代わりとなるものがある。これを見れば君だって信じざるを得ないはずだ」
 そう言うと男は背広の内側に手を入れ、出てきた手には拳銃があった。黒い鉄が鈍く光って、重みがあり、冷たそうだった。
「もうこれで分かっただろう。ああ、安心していい。君に向かって撃つ気はない」
「それは本物なのですか」
「また、その話か。もういいだろう。なんなら確かめてみるか」
 男はハサミでも渡すようにして、藤本に拳銃の差し出した。なによりも興味が先立って、藤本はそれに手を伸ばした。ずっしりとした重さ。美しい構造。秘められた非情な力。そのどれもが、この拳銃が本物だと言っていた。
 危険物を持っている感覚が心地悪く、藤本はさっさと返そうと、男に拳銃を向けた。
「お、俺に向けるんじゃない。危ないじゃないか。そっと渡せ。怖いじゃないか」
 丁寧すぎるほど丁寧に、男は拳銃を内ポケットにしまった。
「怖いのはわたしですよ。何の用事があって、殺し屋などが来ているのです」
「それだ。俺は早くそれを話してしまいたかったのだ。それを君がうるさく言うものだから」
「では、早いところ、お願いします」
「そう怖がることはない。俺はこの室を訪ねてきたが、君に用があるわけじゃない」
 わけが分からず、藤本は顔をしかめた。
「どういうことです」
「その話は、部屋の中にお邪魔してからにしたいんだが」
「立ち話もなんですからというわけですか、いいでしょう、お上がりください」
 来客用のスリッパを出して、男を迎える。男は靴を脱ぎ、スリッパをはいた。
「お邪魔します。あ、そうだ君、このトランクを一つ、運んでくれないか。俺も一つ持つから」
 言われたとおりに、藤本はトランクを運んだ。中身がずっしりと詰まっていることを想像させる重さ。何が入っているのだろう。殺し屋にトランクと言えば、やはり札束あたりが適当だろうか。
 このマンションの間取りは、広めのワンルームといった感じ。お互いに一つずつトランクを運びながら、二人はそこへ入る。
「ほう」
 室内を見回し、男は声をもらした。
「一人で住んでいるのです。殺風景でつまらないでしょう」
「いや、あまりに俺の思ったとおりで驚いているのだ。あ、トランクはその辺においてくれていい」
 藤本が自分で言うように、その部屋は面白味のないものだった。飾りはなく、最小限なものしかない。ベッドがあり、ソファにテーブル、あとはテレビやステレオのたぐい、本棚も小さなものだ。安ホテルのようだとも形容できるかもしれない。その部屋のすみに、トランクを二つ、並べて置いた。
「そこのソファにお掛けください。今、お茶を用意しますから」
「悪いね」
 しかし男はソファに座らず、窓辺に立って街を見下ろしている。しばらくその姿勢のままでいた男だが、お茶が用意されると、勧められるままにソファに腰をおろした。藤本はベッドのふちに座った。
「では、お話を伺おうと思いますが、あなたはさっき、この部屋を見て、思ったとおりで驚いたと言った。わたしをご存知のような口ぶりですね」
 男は落ち着いてお茶を口にする。
「ああ、知っている。君には悪いが、ここしばらく、君を調べさせてもらった」
「どんな風にです」
「俺が知りたかったのは、君の生活の規則と、君の人柄だ。それを知るため、君が外出する時にはそれを追いかけた。そして出来るだけ傍に寄り、君の話す言葉を聞いた」
「信じられない。並々ならぬ労力でしょう」
「労わりはありがたいが、信じてもらわなければならない。そうだ、一つ証拠をあげてやろう。君は毎日、職探しに励んでいる」
 得意げな様子の男に、藤本は馬鹿にしたような笑いを浮かべた。
「なんです、そんな程度ですか」
「早合点するな。君は先日、いつものように紹介所の係員と話し合いをしていたが、その帰り際、電話をかけただろう。そして相手が面接のことを忘れていたのが分かり、係員と失笑していた。どうだ。間違いないだろう。つまりだ、その時、隣で別の係員と話していたのが、俺なのだよ。…危うく、もう少しで転職してしまうところだった」
 藤本は驚いてしまって、言うべき言葉が思い浮かばなかった。
「万事、そんな調子なのだ。だから俺は、すっかり君という人の性格と生活を把握している。だからこそ、こうして上がりこめてもいるわけでね」
 得意気に肩をすくめ、男はお茶を飲んだ。つられて藤本をお茶を飲み、ようやく少し落ち着くと、次の質問をした。
「…ここまでは分かりました。では、なぜなのです。どこにわたしを調べる必要があったのですか」
「君がこの部屋に住んでいるからだ」
「いまいち要領を得ませんが」
 どうしたものかといった風に、男は考え込んでいたが、しばらくしてソファから立ち上がり、窓辺に近寄った。藤本を手招きする。
「ほら、あっちを見てくれ」
 男は窓から遠くの方を指差す。それが何を示しているのか、藤本にはよく分からない。
「何があるのです」
「あれだ、ちょっと遠いが見えるだろう。マンションの間からちょうど」
「あれですか。あの白い建物」
「そうだ」
 藤本と男が指差す先には、くたびれた白色の建物がある。
「君も知っているだろうが、あれは病院だ。もう活動はしていない。廃病院というやつだ。そこに、俺が目的とする人物が現れるらしい。もし現れれば、俺はそいつを、撃つ」
 緊張の横顔の男。自分に言い聞かせているように見えなくもなかった。
「つまり、こういうことですか。あそこを見張る必要があるあなたは、それにうってつけのこの部屋に目をつけた。そして住人であるわたしのことを調べた」
「いかにもだ。必ずしもこの部屋でなくとも良かったのだが、君が働いていないのと、単純な性格であることが決め手になった。君には気の毒だが、私には好都合だったわけだ」
 大きく頷いて男は説明をしたが、藤本は腕を組んで考え込んだ。そんな藤本に、男は声をかけた。
「信じていなさそうだな」
「当たり前でしょう」
「…まあいい。時間はあるんだ。君の疑問を解消しようじゃないか」
 男と藤本は、ソファとベッドのふちに、それぞれ戻った。藤本は組んでいた腕を解き、質問した。
「…あなたは殺し屋だ」
「その通り」
 ううむ、と藤本は首をひねった。
「しかし、それらしい雰囲気があまりありませんね。張り詰めた緊張感や、機械のような冷たさです。用心も少なそうだ。わたしの出したお茶を、うまそうに飲んだ」
 今まさに男はお茶をもう一口飲もうとしていたところだったが、その動作はぴったりと停止した。
「な、なんだ、何か入れたのか」
 隠そうともせず、大きく慌てる男。
「いえ、ご安心ください。ただのお茶です。でもやっぱりあなたは、殺し屋らしくない。殺し屋がどういったものかは、わたしは知りませんがね。少なくとも、そうも慌てたりはしないんじゃないでしょうか」
 言われた男は、決まりが悪そうに顔を伏せた。
「あなたの話をしませんか」
 下を向いていた男だったが、覚悟を決めたように顔を上げ、ソファに座り直した。
「いいだろう。いずれにしてもその必要はあるのだ」
「ではお名前から」
「それは言えない。これでも俺は、非合法の男だからな」
「でも、何かあるのではないですか。あなたを指す異名のようなものが。この間の映画では、殺し屋は…ええと、なんとかと呼ばれていましたよ」
「しにがみ、だ」
「そうそう。あなた、あの映画がよっぽど気に入ったのですね」
 男は少し照れたようだった。
「そういうの、ないですか」
「うむ…」
「ご自身ではそう名乗らなくても、いつも周囲に呼ばれている言葉ですよ」
「俺は、ある組織に属しているのだが、そこではいつもこう呼ばれている」
「それですよ。いいですね。で、何と呼ばれているのです」
 うきうきする藤本に、気乗りしない調子の男が答えた。
「…うすのろ、と」
「悪口ではないですか」
 思わず大きな声を出す藤本。しかし男はそれを咎めなかった。
「本当にそう呼ばれているのだから仕方が無い。おい、うすのろ、ちょっとこっちへ来い。こういった感じだ」
 どう反応していいのか分からず、藤本は黙り込んでしまった。
「何もかも話してしまおう。俺は非合法の組織に加わっているが、させてもらえる仕事といえば、いつも誰かへの連絡や、見張りばかり。気は長い方だから、張り込むのには向いているのだ。しかし、それよりも重大な仕事となると、任せてもらえない。気楽ではあるがね。…実のところ、拳銃に触ったのも、今日が初めてなのだ。持っていると落ち着かないものだな。ここに置いておくとするか」
 男はポケットからそれを取り出し、テーブルの上に置いた。ごとり、と重い音がした。
「分かってきましたよ。だからあなたは、ちっとも殺し屋らしくなく、迫力も今ひとつなわけですね。それをごまかすため、映画の台詞を拝借なさったんだ」
「まったくその通りだ」
 安心したように、男はちょっと笑った。藤本も微笑みかけたが、ふとテーブルの上の拳銃に目が止まった。
「でも、今日は拳銃をお持ちだ。それこそ、本物の殺し屋になれるというわけですか」
「俺の仕事は、さっきも言ったように、この部屋から、いつか現れるという標的を狙撃することだ。この拳銃を使うことはない」
「なるほど」
「それには、君の協力が必要なのだ。俺はそれを期待したからこそ、この部屋を選んだのだ。勤め人だと仕事があるが、君はいつも暇だろう。どうだ、俺の仕事を手伝わないか」
 藤本は考えた。断ってもいい。きっと男は残念がるが、何もせずに帰るだろう。手荒なことができるような度胸があれば、うすのろなんて呼ばれはしない。しかし…。
 しかし、付き合ってみても面白そうだ。少なくとも、明日以降も続く、つまらない職探しの日々よりは。わたしの人生にだって、こういう突拍子もないことがあったって、いいのではないだろうか。
 藤本は立ち上がった。
「いいでしょう。お手伝いします」
「本当か。それはありがたい」
 とても殺し屋を名乗った人物とは思えない笑顔で、男は笑った。
「あなたと話して小腹が空いた。どうです。何か食べませんか」
「一々ありがたい。俺も手伝うよ」
 それから二人は、談笑しながら軽い料理を作って食べた。包丁を握った殺し屋が、まさか野菜を刻んでくれるとは。藤本はすこし可笑しな気持ちがして、退屈を忘れた。

    ☆

 翌朝。
 藤本が目を覚ますと、男はすでに起きていて、窓辺に立ち外を眺めていた。航海士のように、双眼鏡を使っている。これが男の仕事なのだ。藤本は朝の挨拶をして、二人は遅めの朝食をとった。いつもなら出掛けているぐらいの時間だが、今日はそうしなくていい。藤本は気楽だった。
「さて、あなたの仕事の手伝いといっても、これといってやることがありませんね。いったい、わたしは何をすればいいのでしょう」
「俺と交代で、あそこを見張るのだ。あ、そうだ、君にも標的となる人物を覚えてもらわないとな。こいつだ」
 そう言って差し出されたのは一枚の写真。あまり鮮明ではないその写真には、一人の男が映っていた。写真の中の男があらぬ方向を向いているのは、この写真がこっそりと撮られたものだからだろう。
「これは誰なのです」
「それは俺も知らない。俺が知っているのは、そいつがあの廃病院に現れる可能性がある、ということだけだ。あの場所は時々、よからぬ取り引きに使われているらしい」
 藤本は、こそこそとした取り引きを想像して、あらためて写真を見た。
「…それにしても、この人の着ているシャツは趣味が悪い。品というものがまるでない。なんです、この柄は。やたらと色を使っているが調和がなく、模様もめちゃくちゃで、目が悪くなりそうだ。かといって芸術性も感じない。…きっと人格も同様なのでしょうね」
「ああ、おそらくそうだろう。俺の属する組織は、善良な人には決して迷惑をかけない。つまり、こいつは悪人に違いないということだ」
「このへんてこなシャツが目印というわけですね」
 なるほど、気長さの要る仕事というわけか。やりがいが曖昧だし、現れない可能性だってある。組織としては、一応、うすのろを配置しておくか、といったところだろうな。
「ただ待つだけではない。姿を確認すれば、撃たなければならない。そこでだな」
 男は窓辺から離れ、部屋の隅に置いていたトランクに近寄った。そして、その一つを手に取り、テーブルまで運んだ。
「このトランクには、狙撃銃が入っているのだよ。組立式だから、このトランクに収まっている。それを組み立てないと仕事ができない」
「そのトランク、二つともが狙撃銃ですか」
 ひょっとして、わたし用のも用意しているのだろうか。狙撃銃だって安くないだろうに、もったいないことだ。藤本はそう思ったが、しかし、男は首を横に振った。
「いや、一つだけだ」
「ではもう一つのトランクは何なのです」
「あれは、お泊りセットだ」
 冗談を言っている風でもなく、大真面目に男は言った。
「…お泊りセット…」
「そうだ、お泊りセットだ。中には俺の日用品のたぐいが入っている。衣類に歯ブラシなどで、俺の生活をまとめたようなものだ」
 そんな説明をしながら、男はトランクを開いた。
「ああ、間違った。こっちがお泊りセットだったか」
 男の言ったとおり、トランクの中にはきっちりと畳まれた衣類が入っていて、生活感にあふれていた。驚いたことに、ドライヤーまで入っている。
「本当に日用品ですね。これぐらい、わたしの家にもあるのに」
 藤本はあきれて笑い、ドライヤーを手にした。拳銃を持つよりよっぽど落ち着く。
「ま、まあ、いいじゃないか。これは仕事に関係ない。すまないが、君、もう一つのトランクを取ってくれないか。このテーブルで組み立てよう」
 お泊りセットは脇にどけて、もう一つのトランクをテーブルにのせる。そのトランクは重たかった。男がそれを開いた。
 工具箱のような印象をうけた。様々な部品がそこにおさまり、整然とならんでいる。なにがなにやらさっぱりで、一度取り出してしまえば、同じように仕舞うのは難しそうだった。
 男と藤本は互いの顔を見合った。どちらもが、相手に組立をお願いしたい、といった表情をしていた。

「弱ったな…」
「ええ、困りましたね。合っているのかいないのか、それさえ分からない」
 とにかく部品を取り出してみた二人だが、あっという間に行き詰まっていた。いっこうに狙撃銃らしくならないのだ。二人にとっては解けないパズルのようだと言えた。
「君は機械に明るくないのか」
「ご存知でしょう。わたしの情報として、そんなものがありましたか」
「いや、なかった」
「あなたこそどうなのです。組み立てや扱いについて、説明を受けていないのですか」
 藤本は、手に取った部品と部品をつなげようとするが、まるで合わない。男も同じようにしている。さっきからこの調子なのだ。
「君には分からないだろうが、この狙撃銃は高性能なものなのだ。単なる銃じゃない。狙撃の精度を高めるため、色々な計器が付属する。要するに、複雑なつくり。一度見せられたからといって、おいそれと再現できるわけがない」
 早い話、説明はされたが覚えていないというわけ。
それでも二人は、なんとか銃を組み立てていった。思い描く銃の見た目に向かって、全力で突っ走るといった感じ。部品は余るし、どう見ても嵌っていない箇所もあるが、分からないのだから仕方が無い。目を瞑った。銃は男の言うとおり、複雑な機構を備えており、電気的な配線の必要もあった。なんと贅沢な銃だろう。
「なんとか出来たな」
時間の経つのも忘れた作業の結果、とりあえず、狙撃銃の姿に完成した。男は満足そうだった。一人前の殺し屋らしい仕事ができたのを、喜ばしく思っているような様子。藤本もそうだった。
「ええ、こうして見ると、なかなかスマートですね」
 藤本がスマートと形容するように、それは機能的な美しさを備えていた。夜空の星を見上げる望遠鏡に負けないぐらいロマンチックでありながら、命を左右する厳粛な雰囲気も伴っていた。美貌の死神といったところだった。
「ところで、部品が大量に余っています」
「そうだな」
 二人の周囲には、散らばった部品が転がっている。
「本当に完成と言えるのでしょうか」
「それは今に分かることだ」
 そう言うと男は、銃を窓辺に運んだ。そして窓を開き、照準器を覗き込んだ。
「おお、すごいぞ、この照準器は。あんなに遠くまで見えるのか」
「な、なにをしようというのです。まさか…」
 楽しそうな男の後ろで、藤本は浮き足立った。こういうことになるのは分かっていたはずだが、やはり黙って見ていられるものでもない。銃声。近所の住民。通報。警察。取調べ…。
「完成かどうか、試しておかなければならない。そうしないと、いざという時に、俺は引き金を引けない」
「しかし…」
「大丈夫だ、安心しろ。俺はこの銃の引き金が引かれるところを見せてもらったが、驚くほど静かに弾が発射される。素晴らしい消音器というわけでね。そうだな、犬の鳴き声程度の音しかしないはずだ」
 そうですか、ではどうぞ、とはなかなか言えない。
「…犬の鳴き声といっても、色々あるでしょう。何犬の鳴き声かちゃんと決めるまで、引き金は引かないでください」
 変な抵抗の仕方を藤本はした。照準器を覗く男は、面倒そうな口調だった。
「知らないよ、俺はたとえで言っただけだ。一般的な飼い犬だよ」
「なんです、一般的って。それは犬を蔑ろにしすぎではありませんか」
「うるさい。じゃあアメリカンショートヘアーだ」
「ねこじゃないですか。…ねこのような音がするのですか」
 照準器から目を外し、男は藤本に注意した。
「いいか、俺は早く確認がしたいんだ。今にも標的が現れるかもしれないんだぞ。自宅で発砲されたくない君の気持ちも分かるが、テストが必要なのだよ。早いところ、引き金を引くぞ」
藤本は無言で部屋のすみに寄り、耳を塞いだ。男も緊張して、引き金に指をかける。
「何を狙っているのです」
「…遠くのビルの屋上だ」
「そこに何が」
「大きなクマの人形が捨てられている。あれでテストをする」
 男は気を張りつめ、引き金にかけた指に全神経を集中する。その緊張は藤本にも伝わり、藤本は部屋のすみで立ちすくんだ。
 しかし、いつまでたっても銃声は聞こえない。耳をふさいでいた手をゆっくりとおろして、藤本は男に声をかけた。
「…撃たないのですか」
 男の返答は遅い。
「撃つ。今に撃つ。これが俺の仕事なのだ。これは俺が一人前として認められるためのテストだ。そうだ。これは俺のテストでもある。撃たなければならない」
 自分に言い聞かせるような口調。
「よし、撃つぞ」
「どうぞ」
 男が引き金を引いた。
 思わず目を閉じてしまっていた藤本は、ゆっくりと目を開けたあと、耳をふさいでいた手も下ろした。妙な音が聞こえていた。
「ど、どうですか」
 男は不思議そうな顔をしていた。
「いや、何も起きていない。弾が発射されていないんだ。それになんだ、この音は」
 その音は、モーターの回るような音だった。聞き覚えがあった。音のする箇所を、二人で調べると、そこは銃口のあたりだった。
「なんだこれは」
 男がそこを指差した。藤本はその場所を覗き込んで、苦笑いを浮かべる。
「わたしはてっきり、消音機のたぐいかと思っていましたが、いや、これはひどい」
「俺もそう思っていた。いつの間に組み込んだのだろう」
「さあ、とにかく夢中でしたから」
 男と藤本は、声をあげて笑いあった。銃口に見事にくっついた、ドライヤーの音を聞きながら。

 午後の時間、まったく手のつけようのなくなった二人は、余っている大量の部品を、とりあえずトランクに仕舞った。するとトランクの底に、ちょっとした冊子を見つけた。
「これはなんですか」
 冊子を見た男は首を傾げたが、やがて手の平をたたいた。
「そうだ、それがあったのだ。それは説明書だよ」
「そんなものがあったのですか。今までの苦労はなんだったのです」
 藤本は肩の力の抜けるような気持ちになる。
「まあそう言うな。説明書さえあれば、鼻歌まじりで組み立てられるというものだ」
 男は早速冊子を開いたが、鼻歌どころか、ひどく顔をしかめた。
「これはなんだ」
「説明書ではないのですか」
「見てみろ」
 手渡された冊子を見る。そこには、外国の言語がいっぱいに記載されていた。図もあるにはあるが、書かれていることが分からなければ、図も参考にならない。何が何やらといった感じ。
「何語でしょうか」
「俺には、さっぱり分らないとしか分らない」
 藤本は、ひょっとしたら何とかならないかと、しばらく見慣れぬ文字を追ったが、これで何とかなるようなら、その分野の職に就いている。つまり全然だめだった。
 早々に解読を諦めて、双眼鏡で遠くを眺めていた男だったが、ふと、思いついたように言った。
「ああ、そうだ、フランスの言語じゃないかな」
「どうしてそう思うのです」
「その銃が、フランス製なのだよ」
「なるほど。しかしそれでも、問題の解決には程遠い」
 こんなことがあるのなら、フランス語を学んでおけばよかった。藤本は今更ながら悔しがった。そうだ、わたしは今まで、人と同じような学習をしてきたが、特徴のある方面の勉強も必要だったのだ。たとえば、フランス語とか。そうすると、通訳や旅行の付き添いなど、色々な仕事の需要にありつけるというわけだ。仕事でフランスに、か。藤本はそんな想像をして、うっとりとした。おしゃれの国、フランス。洗練され、芸術的で…。
「あ」
「おい、急に変な声を出すなよ」
「いい方法を思いつきました。この説明書を読めそうな人物がいるのです」
「なんだと、本当か」
 藤本は大きく頷いて見せた。
「ええ、同じ階の住人なのですが、なんでも芸術家らしいのです」
 自信満々に説明する藤本だったが、男はいまいち納得しない。
「フランス語が読めると言っているのか」
「いえ、そんな話は聞きませんが、しかし、いいですか、芸術家ですよ。フランス語の一つや二つ、朝飯前に違いありません」
 男の納得は得られなかったが、ともかく二人は連れ立って、芸術家の部屋を訪ねることにした。平日の昼間だったが、自由業だからきっと在宅だろう。扉の前で呼び鈴を押す。
「表札が出ていないが、何という人なのだ」
 男に問われて、藤本は歯切れ悪く答えた。
「さあ、実は知らないのです」
「知らないって、君、近所の人だろう。名字ぐらい」
「いえ、本当に知らない」
 そうこうしていると、扉が開かれた。
「あら、あなたですの」
 芸術家の女は、今日もまた不思議な服を着ていた。
「こんにちは。ちょっとお願いがあって伺ったのですが、今、お時間よろしいでしょうか」
「ええ、いいですわ。私も今、退屈していたところです。…あら、そちらの方は」
 問われて、男と藤本は慌てた。何の取り決めもしていなかったのだ。それぞれが、適当なことを答えた。
「友人です」
「親戚です」
「どっちですの」
 藤本は男をにらみ、任せてくれ、と目で訴えた。
「つまり、友人の親戚です」
 いくらか怪しまれたようだったが、芸術家は家に上げてくれた。おかしな関係ですわね、と言われはしたが。
 芸術家の暮らす部屋は、ペンキやキャンバスなどの画材がたくさんあった。作りかけの彫像や、描きかけの絵画などもあり、散らかっていた。
 それらを見回して、男が藤本の耳元で囁いた。
「…おい、このへんてこな絵や粘土細工は、美術品なのか」
「…分かりません」
「なにかおっしゃったかしら」
 芸術家は、驚いている客人の様子に満足そうだった。
「今、お茶がはいりますので。さ、お茶の用意を」
 そう指示されたのは、一人の若い青年。理知的な顔立ちをしていて、真面目そうな好青年だった。芸術家は、青年を弟子だと紹介した。
 お茶を待つ間に、藤本は世間話のつもりで芸術家の機嫌をうかがう。
「それにしても、独創的な作品ばかりですね」
 要するに、わけが分からないということ。
「芸術には斬新さが必要なのです。これまでにあったものを壊し、その上に新しく築くものですわ。誰かに分かってもらおうと創るのではありませんから、なかなか理解されませんけれど」
 芸術家は得意そうだった。
「なるほど、まさしく前衛的ですね。…これなどもそうなのですか」
 藤本が指差したのは、銀のトレイと、その上に積み重なって円錐のようになったいくつものお皿。
「え、ええ、そうですわ。…どうお感じかしら」
 と言われても、藤本にはそれの意味するところはさっぱり分からない。メッセージが受け取れない。そうして返答に困っていると、隣の男が語りだした。
「素晴らしいですな。清潔で美しい銀のトレイの上に、危ういバランスで積まれた皿。つまり、トレイが社会機構を、皿が我々人類を、それぞれ表しているというわけですな。我々は、輝かしい社会を底辺にしているが、そのうえに、こうも危険に積まれている。ちょうどピラミッドのようだ。下の方は重さで苦しみ、上の方ばかりが楽な思いをしている。この作品はそう言った怒りをも内包している」
 藤本も驚いたが、もっと驚いたのは芸術家だった。
「お、おどろきましたわ」
 男は当然といわんばかりの顔をしていた。
「どこか私の理解に、間違っているところはなかったですかな」
「…まったく、そのとおりですわ」
 目を丸くしていた芸術家だったが、次第に自信のある口調に戻ってきた。藤本をほっといて、男と芸術家は話をする。
「芸術を理解できる方が少なくて困りますわね」
「おっしゃるとおりです。しかしこの作品にはまいりました」
「心強いお言葉ですわ」
 ここの配置や、こういった点に苦心して、とかなんとか、芸術家と男はあれこれと言う。
 その時、台所から弟子の青年が、キョロキョロしながらやって来た。何かを探している様子。
「先生」
「何ですの。お茶はまだかしら」
 気もそぞろの芸術家。
「僕がさっき片付けていた、あれは…。あ、こんなところにあった」
 青年は小走りに近寄って、銀のトレイとその上の皿の山を持ち上げた。そして台所に帰っていこうとする。藤本が呼び止めた。
「あ、ちょっと。それは一体」
「ああ、これですか。これは僕がさっき洗ったついでに整頓していた、ただの皿ですよ」
 青年は一礼して、台所に戻った。
 気まずい雰囲気のなか、たくさんの咳払いが聞こえていた。

「そ、それで、お話というのはなんでしょうか」
 弟子が用意したお茶をすすりながら、芸術家は訊ねた。
「これなのですが」
 藤本は冊子を手渡して、説明をした。
「おそらく、フランス語だと思うのですが、どうでしょう、お分かりになりませんか」
「…どうして私に」
 冊子に目を通しながら、芸術家は言う。
「フランスと言えば芸術の国です。ということは、芸術家のあなたなら、ひょっとしたらフランス語が分かるのではと思いまして。…どうですか」
「え、ええ、おおむね分かりますわ。分かりますとも。でも、現物を見ないことには、解説のしようがありませんわ」
 残念そうに言って眉を下げた芸術家に、藤本は言った。
「でしたら、ここに持ってきましょう。わたしの部屋にあるのです」
「…ああ、あるのね」
「今、持ってきます。ちょっとお待ちを。…あ、もちろんこれは、おもちゃですからね」
 心配そうにしていた男は、藤本がおもちゃと言ったので、いくらか安心したようだった。
 一旦出て行った藤本は、すぐに戻ってきた。不格好な形の狙撃銃と部品を携えて。
「では一度、ばらばらにしてしまいましょう」
 男と藤本とで、それをした。テーブルの上には、たくさんの部品が並べられた。男と藤本は、芸術家の指示を待った。二人に期待された芸術家は、おもむろに指示をする。
「…それとそれをくっつける」
「こうですね。あ、見事にはまった」
「これはどうするのだ」
 男が芸術家に部品を見せた。
「…それは、この部分に、ええと、あれが接続できるかしら」
「おお、ぴたりだ。さすが説明書が読めるとうまい具合だな。…しかし、ここに何か注意書きがしていあるが、これはなんと言っているのです」
 芸術家は難しい顔をしてしばらく考えたあと、ゆっくり答えた。
「…お子様の手の届かない場所に保管してください、と」
 男は妙な顔をしていたが、そういうものかな、と一応納得したようだった。
「なるほど、もっともだ」
 芸術家の手引きによって、狙撃銃の組み立ては進んだ。今度は部品が余る事はなかった。完成させたという満足が、男と藤本を笑顔にさせた。
「やはり、さっきとは、見た目から違いますね」
「ああ、何とすらりとした造形だ。ほれぼれする」
 では試し撃ちをしようということになり、芸術家の部屋の窓を開き、銃を窓辺に運んだ。
「あら、いくらおもちゃでも、人にむけてはいけませんわ」
 芸術家は不安そうだった。
「いえいえ、大丈夫です。おもちゃの弾で狙うのは、人ではありません」
「その通り。安心していい」
 そう答えた男は、さっきと同様に、屋上に放置された大きなクマの人形を狙い、照準器を覗きこんだ。相変わらず、緊張してしまう。室内に、誰も喋るものはおらず、静かな時間が流れた。
 男は息を止めて、引き金を引いた。
「…ど、どうでしたの。…あら、これはなんの音です」
 おろおろとする芸術家。藤本は呆れたように笑いながら、その質問に答えた。
「ドライヤーの音ですよ。ご存知ありませんか」
 照準器から目を外した男は、銃口の方を覗いた。ドライヤーからは温かい風が吹き出していた。思いついて、もう一度引き金を引いてみると、それはピタリと動作を止めた。風が止んで静まると、気まずさだけが残った。

    ◇

 大きなクマの人形は、むくりと身を起こした。つい眠い目を擦ろうとして、ああと気付く。どうやら着ぐるみのまま、眠ってしまっていたらしい。
クマの中に入っているのは、大学で演劇をしている青年。芝居で使う着ぐるみだが、一度天日干しをしようと屋上に持ってきて、遊び心から身に纏ったところ、ふとんのような心地よさに、うっかりうとうとしてしまい、ついには寝入ってしまったというわけ。
青年は眠気眼で起き上がると、おずおずと屋上をあとにした。青年は、眠いな、平和だな、と心から思う。狙撃銃で狙いをつけられていたことなんか、まるで知りもしない。

   ◇

 芸術家は開き直って、ソファの上にふんぞり返った。
「私にはフランス語が分かりませんが、いけませんか」
 藤本は失笑してしまう。
「いえ、いけないことはありませんが、なぜああもわかっているみたいに振舞ったのです」
「…別に、なんでもありませんわ。気紛れです。芸術家というものは気紛れなものです」
「はあ」
 なんとしてでも、芸術家らしく見られたかったのだろう。藤本はそれ以上追及しない。
 一方、男は項垂れていた。
「しかし、これでまた振り出しだ。俺はなんて仕事のできない男だ」
 とむやみと落ち込んでいる。なんと声を掛けたものか、と言った様子の芸術家と藤本。
「あの」
 遠慮がちに言ったのは、芸術家の弟子。
「僕に任せてもらえないでしょうか」
「なんだと、君に銃の組み立てができるのか」
 頭をもたげた男は、どうせ無理だろうと言いたそうだった。弟子は恐縮している。
「いえ、銃の組み立てなんてやったことはありませんが、説明書には目を通しました。そう難しいことはありません。僕にもできそうでした」
 いつの間にか弟子は、説明書を手にしていた。
「それは素晴らしい。是非お願いします」
 藤本は立ち上がり、ホテルマンのように弟子を銃の傍に案内した。銃を眺める弟子、その姿はベテランの工作員のようだった。
「…うん、できそうだぞ。みなさん、出来上がったらそう言いますから、僕のことはお気になさらず」
「そうか、悪いね」
「いえいえ、先生のお知り合いの方がお困りなのです。弟子の僕が手伝うのは当然ですよ」
 なんてよく出来た弟子だ。藤本は、芸術家にもお礼を言った。
「ありがとうございました。助かりました。良いお弟子さんですね」
 複雑な面持ちの芸術家。
「…でしょう。私も色々と助かっておりますの」
 弟子の作業を眺めていた男も、芸術家に軽く頭を下げた。
「俺からも礼を言う。ありがとう。…ああ、そういえばお名前もうかがっていなかった」
 カチャン、と弟子が部品を落とす音がした。
「それは失礼いたしました。私、桜井薫子と申します」
「なんだか立派なお名前ですね。ペンネームですか」
 藤本は感心して訊ねたが、芸術家は聞こえなかったのか、それについての返答はなかった。
「さ、お二人とも、お茶のおかわりでもいかがですか」
 と、そわそわとして腰が落ち着かない。
その時、ピンポーンと呼び鈴の音が室内に響いた。それへの応対のため、芸術家は席をたつ。
呼び鈴を押した人物は、せっかちな性質なのか、扉が開かれるのを待ちきれなかった。さっさと自分で扉を開き、家主を大声で呼んだ。
「お届けものですが、いらっしゃいますか。山口さん。山口一子さーん」
 別人だ、ということもできない芸術家は、しょうがないから返事をした。
「は、はーい」
 藤本と男はくすくすと笑ったが、弟子は溜息をつく手前のような顔をしていた。
「…先生は今、たいへんなスランプなのです」
 作業の手を休めずに、弟子は呟いた。
「そうですか」
 芸術におけるスランプというものがどういったものか、藤本と男には分からない。
「でも、創作はしてるじゃないか」
 男が見回す室内には、作りかけに見える作品が所狭しと並んでいる。
「どう思われますか」
「俺には分からないよ」
 さっきは分かるふりをしていたのに、と藤本はこっそり思う。
「みんなだめですよ、新しいことや奇抜なアイデアにばかり気をとられて、それだけのものになっています。今の先生そのものだ。歯痒くてならない」
「ずいぶん言うな」
「あ、口がすぎました。すみません。でも、僕は先生に飾り気を捨てて欲しいのですよ。…名前についてもそうなんです。山口でいいじゃないですか。なにもいけないことはない。それなのに先生は、桜井なんて名乗っているのです。桜井薫子ですよ。桜井の方がいい名前だと思っているのです。薫子の方が素敵だと思っているのです。そんなことないのに」
 弟子は溜息をついた。見ると、銃は形になっていて、今まさに、弟子が最後の部品をはめこんだところだった。
「よし、完成です」
 部品は一つも余っていない。確認したところ、ドライヤーも接続されていない。
「見事だ。よくやってくれた」
 ほとんど羨望の眼差しを向ける男に、弟子は言った。
「すると、これはあなたのなんですね」
「ああそうだ」
 ちょうどそこに、芸術家が戻ってきた。手には今届いたばかりの、果物が入った小包を抱えていた。弟子はかまわずに続ける。
「ひょっとして、あなたは殺し屋かなにかですか」
 思わず抱えていた小包を落とし、その中から果物が散らばり、悲鳴を上げる芸術家、といった想像をした藤本だが、そうは進展しなかった。芸術家は素早くその辺に小包を置き、それから驚きの声を上げた。
「な、なんですって」
 芸術家は驚いた様子だったが、弟子は冷静そのもの。
「私に銃の知識はありませんが、それでも分かりますよ。どこにこんなに重厚な玩具があります。本物の銃に違いない。撃てば弾丸が飛び出し、標的にぶつかり、役目を果たす」
 男と藤本は言うべき言葉を失って、叱られた子供のようになってしまった。
「あ、いえ、だからどういうのではありませんよ。ただの興味です」
 弟子はにっこりと笑った。しかし芸術家は真面目な顔をしている。
「…あの、本当に、その、殺し屋なのですか」
 現に本物の銃、しかも高性能なのを持っているのだ。男は正直に答えた。
「ああ、実はそうなのだ」
 驚き、悲鳴をあげ、電話に駆け寄る芸術家。かと思われたが、芸術家の反応は違った。
「…素晴らしい。素晴らしいわ」
 芸術家は夢見るように歩き回った。
「社会におちた影、非情なる使者、魔弾の射手。命を金にかえる冷たい仕事。素晴らしいわ。いえ、素晴らしくはないんだけど…うん、でも、まあ、素敵だわ。劇的。そうね、インスピレーションを感じるわ」
 感心しきりの芸術家だったが、とうの男は困惑する。
「いや、あの」
「今まで何人ぐらい、その、仕事をしてきたのかしら」
 口ごもる男。
「そう、それは言えないってわけね。そういうものかも知れませんわね」
 芸術家は勝手に納得した。そして浮かれている。
「それについては、まあいいわ。さ、それよりも、銃が出来上がったみたいですわよ。それを試してみないと」
 一応は秘密の仕事のところ、すでに芸術家とその弟子の二人にまで事が知れてしまった。しかも銃の組み立ても結局人頼み。俺はとことん向いてないなと、男はつまらなく思った。こんなに人に見られながら引き金を引く殺し屋がどこにある。
「では、試すとしよう。いいか」
 弟子は自信をにじませて頷いた。
「ええ、万全です。でも消音機の具合が少し不安です」
 万全じゃないじゃないか。藤本は苦笑いを浮かべる。
「というのも、ここに注意書きがあるのですが、ほら、こう書いています。消音だと言っても、多少の音はする。注意されたし。…ですから、一度山奥にでもいって、そこで試すのがいいんじゃないかと思います。僕のミスで、大きな音がしてしまうかもしれませんし、山奥のほうが安全ですしね」
「しかし」
 そうは言っても、今日にも標的が現れないとも限らない。男は不満気だった。
「もちろん、無理には言いません。でも、僕は、突然近所から轟音が聞こえてきても、ああ発砲したんだなと納得できますが、他の住人はどうですかね。きっと良くない結果になります」
「…もっともだな」
 しぶしぶといった感じに、男は頷いてみせた。藤本はその肩を叩いて、
「じゃあ、今日のところはこれで帰りましょうよ。ともかく、組み立ては出来たんです。これでいいじゃありませんか」
「ああ」
 男と藤本は、二人に礼を言って、帰って行った。芸術家に、頑張りなさいよ、と応援された。

 銃のテストは後回しにするとして、監視は続けなければならない。二人は交代で、双眼鏡を覗いた。夕方だった。
「色々な人がいるもんだな」
 男は窓辺に佇み、双眼鏡から町を眺める。
「ええ」
「どうした。元気がないな」
「さっきのやまぐ、いえ、桜井さんを見てると、つくづく自分がつまらなく思えてきて…」
「俺だってそうだ。あんな青年に、銃の組み立てを教えてもらうしまつだ」
「わたしは」
 どこかで間違ったんでしょうか、と訊ねようとしていたら、男の声がそれを遮った。
「おい、あれはなんだ。デパートか」
 藤本は立ち上がり、男が指差す先を目でたどった。マンションのすぐ近くだ。
「ああ、あれは明日オープンするパチンコ屋ですよ。パチンコ屋というものはどこにでもできるものです」
「そうか、見てみろ、アドバルーンも上げている。試しているんだな。お祭りのようだ。どうだ、明日、行ってみるか」
「冗談でしょう」
「もちろんだ。言ってみただけだよ」
 二人は視線を上げて、夕陽に優雅に揺れるアドバルーンを眺めた。気ままに漂うアドバルーン。ほとんどあこがれに近い気持ちになる。アドバルーンの広告には、こう書かれてあった。
 堂々誕生。連日サービス。パーラー・イワイ二号店。
「あ」
 男が声を上げた。
「どうしました」
「あれはもしかして、花火の用意じゃないか」
「さあ、分かりませんが、開店のときにやる祝砲のようなものかもしれませんね。そういうこともあるでしょう」
「ああ、あるだろう。ということはだな、明日、その祝砲に紛らせて、銃を撃ってみればいいんじゃないかな。君はどう思う」
 男の思いつきに、藤本は膝を打った。
「なるほど、それはいいアイデアです。祝砲に紛れて撃てば、万が一に大きな音がしても、うまくごまかせるというわけですね。妙案ですよ」
 藤本が感心すると、男は照れて笑った。
 おかしな殺し屋だなと藤本は思う。本人は殺し屋を自称するが、しかし、まだその仕事をしたことがないのだ。男がこなしたことと言えば、わたしと知り合いになり、部屋に上がり、説得をし、協力を取り付けた、というおよそ殺し屋らしくないことばかり。言ってみれば、ここまでは準備段階であり、本当の仕事はここからなのではないだろうか。すなわち、標的を見つけて、引き金を引くこと。本物の殺し屋になること。命を吹き消すこと。
 それが、この人のいい男にできるのだろうか。監視を続ける男を見ながら、藤本は少し心配になった。
「ここからだと、ちょっと先のあのマンションの様子がよく分かるな…」
 男の独り言。どうやら、一区画ほど先にあるマンションのことを言っているらしい。
「だめですよ。家の中を覗くのは、法に触れる行為です。いけません」
「うん、そうだな。いけないな」
 素直な男は、すぐに双眼鏡を動かした。
やれやれ、こんな調子で、標的が現れでもしたらどうするのだろう。藤本の心配は深まった。
ふいに、テストは失敗した方がいいんじゃないかなと思った。弾が出ないとか、どうしようもなく外れるとかになると、男は仕方なく、一旦組織に戻るだろう。そして、うすのろ、役立たず、給料どろぼう、などと罵られて、きっとお払い箱になるだろう。非合法の組織にどろぼう呼ばわりされるのは変な話だが。とにかく、そうなった方が、男にとってはいいんじゃないかなと、藤本はなんとなく思った。
「腹が減ったな。今日は外食にしないか」
 男は暢気に言った。
「はあ、わたしはいいですが、あなた、監視はいいんですか」
「かまわんよ。どうせ今現れたって、銃のテストが終わるまでは撃てないんだ。だから監視にも意味は無い」
「そうですか。まあ、そうおっしゃるのなら。で、何を食べましょう」
「あそこがいい」
 男は近所の小さなレストランの名を言った。
「よくご存知ですね」
「この双眼鏡の高性能を見くびらないでもらいたいね。ここから、あの店のショーケースの中も見えるのだよ。オムライスが素晴らしくうまそうだ。どうだ、すごいだろう」
「威張ることですか」
 それから連れ立って、そのレストランへ行き夕食をとった。確かにオムライスは絶品だった。

 翌日午前十時前。
 マンションから見下ろパチンコ屋は、男が言ったとおり、確かにちょっとしたお祭り騒ぎになっていた。新規開店のサービスを当てにしてだろう、たくさんの人が行列を作っているのが見える。お祝いの花輪が並び、真新しい制服の店員たちは客の出迎えの準備に慌しい。間も無くの開店にざわつく声が、聞こえてきそうだった。
 そんな中、行列の客たちとは違った目的で、開店を待つ男と藤本。すでに銃の準備は済ませている。落ち着かずにそわそわとし、さっきから何度も時計を確認している。
「狙いは大丈夫ですか」
「ああ、あのクマの人形は処分されたらしいから、今度は別のものを狙う」
 男が新たに選定した的は、遠くの自動車だった。それはひどくおんぼろで、乗り捨てられているように見えた。
「あれなら、撃ったっていいだろう」
「そうですか。あ、もうすぐですよ」
 開店の時間が迫ると、音もなくアドバルーンが浮かび上がってきた。準備は万端、あとはもう、十時になるのを待つだけといった状態。
「いいですか、間も無くですよ」
「大丈夫だ。君は少し落ち着けよ」
「お、落ち着いていますよ。あなたこそ」
 男は返事をせず、引き金に指をそえた。藤本は、時計とパチンコ屋の様子を、交互に見ていた。口では落ち着いていると言っても、やっぱり緊張していた。
 そして十時になった。
 行列が一際ざわついたかと思うと、上空で白い煙がはじけて、それに続いて花火の破裂音が聞こえた。のどかに散発的なリズムで白い花火は上がった。
「さあ、今です」
 男が呼吸を止めたかと思うと、何か細い棒状のものを素早く振ったような音が聞こえた。銃口がわずかに動いて、そこから一筋、煙が立ち昇った。引き金を引き、弾が発射されたのだ。
 上空ではまだ花火が鳴っていたが、それもやがて静まった。
「…どうなのです」
 藤本は恐る恐る訊ねた。
「ああ」
 男は短く答える。まだ照準器を覗いたままだった。着弾をしっかりと確認しているらしかった。
 弾丸は男の狙いを外れなかった。もっとも、それは銃の高性能によるところが大きかった。長距離でも狙いを外れないような設計なのだ。発射された弾丸は、男の狙いであるおんぼろの車、そのタイヤに見事に命中した。男が覗く照準器のレンズのなかで、タイヤの空気が抜け、気絶するように車が傾いたのが確認できた。
「やった、命中だ」
「本当ですか」
 まるでもう仕事が終わったかのように、二人は喜びあった。藤本は浮かれた。
「一発で当てるとは、素晴らしい腕前ではありませんか」
「いや、運が良かっただけだ」
 謙遜したのではなく、男は本当にまぐれだと思っている。
「ともかく、これで仕事の準備が整ったというわけですね」
「そうだ。…ああ、忘れるところだった。ちょっと電話を借りるぞ」
 そう言うと男は、電話を探して室内を見回した。
「電話でしたらあそこです。しかし、どこにかけるのです」
 受話器を持ち上げた男は、
「組織にだよ。準備ができたら報告をするように言われていた」
 と答えた。その直後、電話が繋がったようで、男は会話をはじめた。それを見守りながら藤本は、まさか自宅の電話から非合法の組織へと繋がる時がこようとはと、複雑な心境になっていた。
 電話先の相手の声は聞こえないが、男の様子から、どうやらあまり上機嫌ではないらしい。
「…はい…はい…ええ、今…はあ、すみません…」
 男は叱られているのだ。遅すぎるとか、役立たずとか、うすのろとか、辛らつに怒られているのかもしれない。
「…はい…では…失礼します」
 そして受話器をそっと置き、ため息をついた。男のため息が部屋中に広がったみたいに、やるかたない雰囲気が漂った。
「公にできない組織だからといって、その仕組みはその辺の会社と何も変わらない」
 しょんぼりとした男の声。
「人使いの荒い上司がいて、出世競争があり、ぐちをこぼす同僚がいて…。人と違った道を行きたかった俺だが、どこを行ってもしがらみはあるんだな」
「分かりますよ」
 藤本には分かりすぎるぐらいだった。気まずさも広がりかけたが、それを振り払おうとするように、男は努めて明るく振舞った。
「おっと、俺がぐちをこぼしてしまったな。それより、どうだ」
「何がです」
 藤本は首をかしげた。
「今日の俺はついているらしい。狙いを外さない。好運だろう」
「そうですか。まあ、おっしゃるとおり、不運ではないようです」
「だろう。好運は活かさなければなるまい。つまり、パチンコに行かないか」
「感心しません。でも行きましょう」
 二人は連れ立って、オープンしたてのパチンコ屋に行った。男の好運は本物で、ほんの少しだけ勝つことができた。

    ◇

 閑静な住宅街を、二人の男が走っている。
「兄貴、うまくいきましたね」
「ああ、俺の計画通りだ。それよりもお前、もっと早く走れないのか」
 二人は息せき切って、やかましく足を動かしている。
彼らは泥棒だった。
たった今、以前から狙っていた家に忍び込み、金品を盗み出してきたばかり。しかし、首尾よく立ち去ろうとしていたところを近所の人にばっちり見られて、大慌てで逃げているというわけ。
「兄貴の言うとおり、午前中は案外と無用心なものですね」
「泥棒は夜、と皆思っているからな。思考の盲点だ」
 と言っても、まだ犯行が成功したわけではない。近所の人の通報で警察が呼ばれ、すでにこの辺りの捜索をはじめているだろう。二人は大きな鞄を抱えていて、セールスマンのたぐいにも見えない。それを怪しまないほど、警察も馬鹿ではないだろう。
「兄貴、もう走れません」
「おい、情けないことを言うな。あそこまで行けば大丈夫なのだ。それまでは何としても走らなければならない。すぐそこだ。走れ」
 午前中の住宅街の静かさを散らかしながら、二人は走り続け、やがて目的地に到着した。
「よし、急いで乗れ。これで追っ手を振り切れるぞ」
「あれ、兄貴、あの向こうからやって来るのは警官ではありませんか」
 まさしくその通り。兄貴と呼ばれた男は、焦った声で言った。
「猛スピードで向かっていけば、警官だって飛び退くさ。おい、何をしている、さっさと乗らないか」
「…あ、あ」
「どうした、のろのろするな」
「こっちに来てください。一体どういうことだ。これはひどい」
 ただならぬ様子に、そこに駆け寄った。
「な、何ということだ。これではだめだ…」
 二人は完全にパンクしているタイヤを見下ろし、途方に暮れた。警官はすぐそこまで近付いてきていた。

    ◇

 かくして、殺し屋の男と平凡な藤本との、監視の日々が始まった。
 監視の日々、といってもそれは男の仕事であり、藤本はそれの手伝い。男が休憩のときに、代わって窓辺に佇む程度。
 退屈な日常が変えられるかもしれないと、男の仕事に協力することにした藤本だったが、しかし日常は大して変わり映えしなかった。何ということもなく時間が過ぎてゆく。
 二人の生活は簡単だった。
 日中、男は窓辺に置いた椅子に腰かけ、双眼鏡を使って、遠くの廃病院を覗く。気長が唯一の長所というだけあって、男は根気強かった。そして夜は、たいてい監視をしていない。することもあるのだが、それは、たまには変わったことをという、男の気晴らしのようなものだった。
 藤本は、男から頼まれたときにだけ、男に替わって、椅子に座って双眼鏡を手にした。双眼鏡を手にしていないときはどうしているかというと、今までの毎日と何ら変わらない。殺し屋に留守番をしてもらって、上手くいけばラッキーといった気軽さで、職探しをしていた。それがうまくいかないのも、これまた変わらない。昼過ぎにさっさと帰ってきて、それから男と交代したりしていた。
 藤本と交代して自由になった時間、男はパチンコにばかり行っていた。手ぶらで帰ってくることもあれば、景品を抱えてのこともあった。
 標的は現れず、藤本の仕事は見つからず、男はパチンコ屋の常連となり、芸術家はスランプから抜け出せない。これが日常だった。

「しかし現れませんね」
 ある時、藤本は言ってみた。どうせ現れないんでしょう、といった感じをこめて。
「待つのが俺の仕事だ。待てば海路の日和あり、だ」
「熱心なのは結構ですが、少し休みませんか。果報は寝て待てとも言いますよ」
「…では、そうするかな」
 男は双眼鏡から目を離し、目頭を強く押さえた。そこに疲れがたまるらしかった。藤本の
淹れたお茶を飲み、男は一息つく。
「君は結婚はしないのか」
 藤本は少し笑った。
「ご存知でしょう。わたしにそんな人がありましたか」
「そうだったな」
「そういえば、あなたこそどうなのです。ご家族は」
 男の私生活について訊ねるのは、初めてだったかもしれない。まがりなりにも殺し屋という職業なのだから、詮索したって答えてもらえないと思っていたのだ。
 ところが男は、お茶をゆっくり飲んで答えを口にした。
「結婚していて、妻がいるよ」
「いらっしゃるんですか」
 藤本は驚いた。そういうことだってあるのだろうが、まるで拳銃がスーパーで売られているような、そんな違和感をともなう驚きだった。
「奥様はご存知なのですか。その、つまり…」
「妻には言ってない。妻は、俺が以前の仕事を辞めて、新しく探偵のような仕事をはじめたと思っている」
 なんだか家庭内が複雑になっていそうだった。藤本は腕を組んでその様子を考え、それから腕をほどいて、男に訊ねた。
「それを続けるのは大変じゃありませんか。ご家族は奥様だけですか。以前はどんな仕事をされていたのです。今の仕事を続けるつもりですか。お茶のおかわりはいりませんか」
 矢継ぎ早の質問に、男は困って笑った。
「そんなにいっぺんには答えられないな。一つずつにしてくれ」
「あ、失礼、ではお茶のおかわりはどうですか」
「いただこう」
 藤本はちょっと席を立ち、お茶のおかわりを持って戻ってきた。男はそれを一口飲む。
「家族は妻だけだ。子供はいない。だから、俺の本当の仕事を隠すのも、わけないよ」
「しかし、女の勘はするどい」
「ああ、そうだな。俺はこの仕事をはじめて、まだ一年も経っていないから、何とか隠し通せているが、いずれは知られてしまうだろうな」
 その場面を想像したのか、男はちょっと寂しそうな顔をした。
「以前のお仕事は何だったんでしょう」
 答えを言うと同時に、男は思い出したように笑ってしまう。
「ある工場の管理職だよ。何に使われるか分からない部品を、一日に何千個も作る工場のだ。俺はそこの副工場長にすげられていた。なにか事があったとき、まっさきに責任を負う役職、それが俺だった」
「それも立派な仕事でしょう」
「ああ、そういう人物も必要だろう。でも俺は、工場に勤めながら、これ以上ないぐらいに虚しくなってしまった。流れ作業で形作られ、ベルトコンベアに乗せられて次々と生み出される部品。この部品と、俺と、どこが違う」
 何度と無く自問してきた題を、男は久しぶりで持ち出した。やっぱり答えは分からない。藤本にも答えようがなかった。
「そして、俺の役割を果たす時がきた。つまり、責任を押し付けられて辞めることになった。不良の部品が流れから弾かれるのと、まったくそっくりだった」
「そんな」
 そんなことはないと言おうとした藤本だったが、口をつぐんだ。社会という機構から外れた部品。わたしも同じようなものだなと思った。
「俺は自棄になってしまって、ついにはこういう仕事に手を出した。そして、そこでも大した活躍ができないときた」
 ため息をつく男。
「俺はどこかで間違ったのだろうか…」
 二人は沈黙してしまって、お茶はとうに冷めてしまっていた。藤本もつい溜息をつきそうになったが、それを遮るように、男が腰を上げた。
「まあ、愚痴を言ってもはじまらない。任された以上、仕事はしなければ」
 監視をするための窓辺の椅子に座り、再び双眼鏡をかまえた。
藤本も退屈しのぎに、予備の双眼鏡を持って、男の隣に佇んだ。そこに見る街並みには、何の変わった点も認められない。細部を見れば悲喜こもごもあるのだろうが、眺める分には、全てが上手くいっているように見えた。上空にはアドバールがゆらゆらして、その先には雲が浮かんでいる。
窓ガラスには標的の写真がテープで貼られ、いつでも確かめられるようにしてある。怪しげなシャツを着た標的の男。この誰とも分からぬ人物が現れない限り、仕事は終わらない。藤本はその写真を見直して、そして廃病院の方へ双眼鏡を向けた。標的の男どころか、猫の子一匹いやしない。
その時、
「やってますわね」
 ふいにかけたれた声に、藤本と男はびっくりして振り向いた。そこにいたのは、山口だか桜井だか言う芸術家。いつの間に入ってきたのか、ソファに座っている。
「精が出ますこと。どんな調子でしょうね」
 きっと暇つぶしにきたのだろう。藤本は少し面倒くさく、そのため素っ気無く答えた。
「ご覧のとおりです。監視は徒労です」
「そうですか。殺し屋というからには、もっと派手な活動を想像したのですけれど、思いの外地味ですのね」
「映画の殺し屋とは違うのだよ」
 男は教え諭すような口調で言った。あなたはその真似をしていたじゃありませんかと、藤本は言いかけた。
「銃撃戦や困難な任務、非情な決断、味方の裏切り、爆弾の解体、赤か青か、生か死か、そんなものがここで見たかったのですけれど…」
「あなた、それはスパイと勘違いしてるんじゃないですか。それに、いやですよ、銃撃戦や爆弾のあるマンションなんて」
「でも、それぐらいの刺激がないと、私のインスピレーションが目覚めませんわ。…ああ、どうすればいいのかしら」
 芸術家は、ソファの背に寄りかかった。多少芝居がかってはいたが、スランプに悩んでいるのは本当らしい。
「あ、先生、やっぱりここにいらしたのですね」
 と言って入ってきたのは、芸術家の弟子。どうしてここの住人は勝手に部屋に上がってくるのだろうか。
「先生、今日は僕の作品を見てくれるんでしたよね」
 弟子は布で包んだキャンパスを携えていた。その布を解き始める。
「…そんなことも言ってたわね」
「お願いしますよ。僕はこれで賞に出品するつもりなんですから。…さあ、これです」
 芸術家はだらしない姿勢のままその絵を見る。その後ろから、男と藤本もその絵を見た。
「…どうですか。だめですか」
 何も言わない芸術家だったが、後ろの男と藤本は、その絵を見事だと思った。作者の表現がちゃんと伝わってきて、感情に訴えかける迫力があり、惹きつける魅力があり…。それらは、先生であるはずの桜井だか山口だかの作品にはないものだった。
「先生、はっきりおっしゃってください」
「…お前にしては十分でしょう。それで出品なさいな」
 弟子の顔は途端に明るくなった。
「本当ですか。ありがとうございます。嬉しくてたまらない。では、早速手配してきます」
 そうして、ばたばたと室から出て行った。
 残された芸術家は、居心地が悪そうにしていた。それを見ぬ振りして、男と藤本は監視を再開する。
「あの子は優秀なんです」
 芸術家はぽつりと話し出した。藤本は双眼鏡を覗いたまま、それに返事をした。
「そのようですね」
「あの子の通っている大学を聞いたら、あなたはきっと驚かれますわよ。誰でも知っている一流大学。そこを出れば、大手企業のエリートや高級な公務員、政治家などになるのが一般的らしいのです。ところがあの子は、何を思ったか、芸術に熱中している」
「いいじゃないか。その方面の才能もあるようだ」
 男はぶっきらぼうだった。
「ええ、そうなんですけれど…」
 どうしていいいのかわからないといった調子の芸術家の声。スランプに陥った自身。エリートコースを外れそうになっている優秀な弟子。責任や嫉妬など、心中穏やかではないのだろう。
 しばらくそうして考え込んでいた芸術家だったが、
「あら、お邪魔しましたわね。これで失礼しますわ」
 と言って帰っていった。それを見送って、
「やれやれ、だな」
 と男が溜息をつきながら言った。
「人それぞれ、色々と考えることがあるものですね」
「ああ、悩みの種は誰にでもあるさ。その種に咲く花はきっときれいだ」
 なるほど、と藤本は思い、そして言った。
「そう言えば、昨日の夜にやっていた映画で、そんなことを言ってましたね」
 男は空咳をして、もじもじし、何も言わなかった。

    ☆

 二人で並んで双眼鏡を覗く。時刻は夜の手前。
 男が棒読みの声で呟いた。裏返ったような調子で。
「あら、おかえりなさい、ご飯の用意をしましょう」
 隣の藤本も、同じような棒読みで呟く。こちらはいくらか声を低めている。
「いや、汗をさっぱりしたいから、先に風呂に入るよ」
「その方が良さそうね」
「ところで、あの子はまだ帰ってないのか」
「ええ、近頃いつも帰りが遅いのよ」
「年頃の娘だからな。しかしあまり甘やかしてもいけないな」
「あなたから注意して欲しいわ」
「むむ」
 藤本と男は笑い声を上げた。
 二人が今していたのは、ちょうど無声映画に声をあてるようなこと。すなわち、双眼鏡でその辺のマンションの一室を覗いて、そこに見える家庭の様子に、こうして声を加えているのだ。暇つぶしに思いついた遊びだったが、これが案外面白く、近頃の二人の楽しみになっていた。
 双眼鏡を向けるところも、いつも決まっていて、それはちょっと離れた場所の何と言うこともないマンションの一室。距離と角度が申し分ないのか、部屋の中の様子が、よく見えるのだった。
 そうした遊びを続けるうち、そこの家族構成なども分かってきた。夫婦と娘一人の三人家族。夫は毎朝規則正しく会社に行き、そして同じ時間に帰ってくる点から、公務員か銀行員と思われた。妻は家事に忙しく、いわゆる主婦としての毎日を送っている。娘は高校生で、あまり家にいない。
 さっき、男と藤本が勝手に声をつけた会話は、二人の想像だったが、あながち間違いとも言い切れなかった。
 その家庭では、娘の反抗期が唯一の悩みとなっているのだ。娘の帰りはこのところ遅く、待っていた母とそのことで口論している様子を見たこともある。
 ある夜には、
「いいじゃない、ほっといてよ」
 これは想像ではなく、娘の口がそう動くのを、はっきり見て取れた。娘は母の制止を振り切って、自室に逃げ込む。残された母は、ふっと息をついていた。
 夫であり父である男は、あまり娘と関わっていなかった。夜中に帰ってきた娘と出くわしても、おかえりなどと言っている。妻にまかせっきり、といった、ありがちな夫の態度だった。
 そんな様子を眺めながら藤本は、独り言のように呟くのだった。
「絵に描いたような一般家庭ですね」
「うらやましいのか」
 藤本はちょっと考えてから答えた。
「別にそうではありませんが、なんとなく微笑ましいですね。あなたはどう思います」
「そうだな、うちに、もし娘があったら、あんな風になるのかなといった感じだ」
 そうこうしているうち、夜になった。双眼鏡の先の家庭では、夫がテレビを見ながら酒を飲み、妻は洗い物を片付けている。娘はまだ帰らない。
「しかし、娘さんの帰りが遅いのは気になりますね。もう何時になります」
 心配する藤本をよそに、男は落ち着いていた。
「いや、近頃の女の子は、このぐらいでも平気で街で遊ぶだろう」
「いやに詳しい口ぶりですね」
「こう見えても俺は非合法の男でね。夜の街には馴染みがあるのだ。今ぐらいの時間、どう見ても未成年の子たちがたくさんうろついているよ」
「どうしてです。何かに巻き込まれでもしたらどうするのです」
「あるいは、巻き込まれたいのだろう。若者は刺激を求めるものだから」
「なんということ。犯罪の温床だ。危ない。治安はどうなっているのです」
 だんだん真剣になってきた藤本を、男はたしなめる。
「まあ、落ち着いてくれ。それに、俺に治安のことを言われても困るよ」
 そうですねと、一応は頷いた藤本だったが、納得しきれない気持ちで、再び双眼鏡を覗いた。
「まったく、どこをほっつき歩いているんでしょう。心配するじゃないか」
 心の中で思ったつもりが、全部口に出ていた。それを聞いて、男は隣で失笑した。
 夫がほろ酔いになって、妻の洗い物が片付いたころに、娘が帰宅した。誰よりも早く、藤本は声を上げた。まるでその場にいるかのように。
「遅い。今までどこにいたんだ。門限はどうした」
「…君はまるで父親だな」
 実際の家庭の様子はどうだったかというと、もう少し冷え込んでいた。
 夫は居心地が悪そうに新聞などを読み始め、妻は洗い物の終わったはずの台所で何かをしているふりをする。娘は両親のそばを素通りして、さっさと自室に入っていった。おかえりもただいまも無かった。
「おい、ちょっと待て。こんな時間までどこに行っていたんだ」
「君、落ち着けよ、聞こえやしないよ」
 何の関係もない藤本が、だれより怒っていた。
「まったく、どうなるのでしょうね」
「ああ、心配だな。…それよりも俺はあっちの監視をしなければ」
 そう言って男は、双眼鏡の向きを変えた。いうまでもなく、廃病院のある方向。
 まだ娘の心配をしていた藤本だったが、室内の時計を確かめてから、男に言った。
「お疲れでしょう。わたしが変わりますよ。少しは休まないと」
 遠慮していた男だが、藤本に説得され、双眼鏡を下ろした。
「ではお言葉に甘えるか。ひと眠りするとしよう」
「ごゆっくりどうぞ」
 男はベッドに横になり、藤本は黙って監視を続けた。

 別の日。
 藤本の家の電話がなった。もしかして職探しの努力が実ったのだろうかと、藤本はわくわくしながら受話器をとった。
「はい」
「…隣の男に代わってくれ」
 相手は低い声で話した。吉報どころか、電話の相手は良からぬ組織の偉い人。藤本はさっさと電話を取り次いだ。しかし、何の用事か知りたくなり、そばで聞き耳を立てることにした。
「はい、電話を代りました」
「お前か」
「はい」
「どうだ、仕事はしているんだろうな」
「それはもちろん。今もちょうど見張っていたところです」
 男は蕎麦屋の出前のようなことを言ったが、本当は見張ってなどいない。ソファに寝そべって、テレビを眺めていたのだ。
「それは結構。しかし、一点、訊きたいことがあるのだが」
 電話の相手は、低い声をさらに落として続ける。
「先日、お前の見張っている廃病院に、例の男が現れたと、別の者から報告を受けた。お前の話を聞きたい」
 男はびっくりしていた。
「え、なんですって、何時のことですか」
「それをこちらが聞きたいのだが」
 男は口をぱくぱくさせていたが、やがて、
「…見ていません。見落としたのかもしれません」
 と元気のない声で答えた。
「なんだと。おい、そんなことでは困るのだ。お前がやっている仕事は遊びではないのだぞ。こちらとしても、大して期待はしてはいないが、かと言っていい加減にやられては迷惑だ」
「はあ、すみません」
 男は長い説教を聞かされて、小さくなって受話器を置いた。
「た、大変ですね」
 藤本はそっと声をかけた。そういうほかないではないか。
「ああ、近頃はあの家ばかり見ていたからな。知らぬ間にあの男が現れていたらしい」
 うなだれる男の肩を、藤本は軽く叩いた。
「まあ、元気を出してください。また機会がありますよ」
 しかし男は深いため息をつき、何も言わずに窓辺の椅子に座った。双眼鏡を構える。
 藤本は男を一人にした方が良さそうだと思い、買い物に行ってくると言って、部屋を出て行った。

 その翌日。
 藤本はいつもの紹介所に顔を出す。時々、ここに通勤しているんじゃないかと錯覚することがある。
相変わらず人がたくさんいて、その人たちでくじ引きをしているようなものなのだ。しかも不景気は深刻になっているという。当たりを引く確率はどんどん低くなっているのだろう。
「おや、あなたは以前にも…」
 係員は藤本の顔を覗き込むように見た。
「ええ、何度か相談させてもらってます」
 本当はもう相当数、顔を合わせている。しかし藤本の印象は、係員の頭に残らない。
「そうでしたね。では、希望する職種から…」
 係員と相談し、妥協し、折り合いをつけ、検討する。
その日はうまい具合に、一件面接の約束を取り付けられた。運が良かったのだろう。早速これから会ってもいいと先方は言う。
藤本は係員に礼を言い、係員は、これが仕事ですからと、格好のいいことを言った。
午後の時間、藤本は約束の面接を受けに行った。そして出来る限りのアピールをした。手応えがあった。席上、話が弾んだのだ。仕事の内容も条件も、ほどほどといったところ。ここでだめなら、さらに望みを低くしなければならなくなる。藤本はひときわ力をいれた面接を終え、少しの満足を覚えながらその社を後にした。
 藤本の帰宅は夕方の終わりごろだった。日は沈み、夕方というよりは夜に近い。室内は暗かった。男はパチンコにでも行っているのだろう。藤本は部屋の明かりをつけようとする。
「あ、このままでいい」
 暗い室内に、影のように男がいたのだ。
「どうしたのです、明かりもつけないで。夕飯はまだなのでしょう。私もまだです。今日はちょっと豪勢にいきましょうか」
 面接の手応えが、藤本を上機嫌にさせている。
「…さっき君に電話があった」
 早く伝えてしまいたいような、黙っておきたいような、男の声。
「どこからで、用件はなんでしょう」
 男が言った会社名は、さっき藤本が面接を受けてきたところ。男はしばらく黙って、それから頼まれた言伝を藤本に話した。
「検討した結果、今回は人手の不足を埋めることはせず、既存の社員の努力によってその不足を…」
「つまり、早い話が…」
 促された男は、その先を言いにくそうにしていたが、やがてぽつりと言った。
「縁が無かったということだ」
 暗い室内に沈黙が広がったあと、藤本がソファに腰を降ろす音がする。さっきまでの上機嫌は、幻のように消えていた。わたしはどこかで間違ったのだろうか。そんなことを考えて、藤本はため息をついた。
「疲れているところ悪いが、俺はちょっと散歩に行ってくるから、できれば監視の交代を頼む」
 男の影が動いて、藤本に双眼鏡を差し出した。力の無い手つきで藤本がそれを受け取ると、男の手は藤本の肩を、軽く二度たたいた。そして男は暗い中を横切り、部屋を出て行った。玄関の扉の閉まる音。
 ぼんやりしていた藤本は、やがて立ち上がって部屋の明かりをつけた。テーブルの上に紙切れが置かれてある。そこには、走り書きのような字で、こう書かれてあった。
大したことじゃない。くよくよするなよ。

    ☆

 ある日に訪ねてきた芸術家は、ひどくお疲れの様子だった。目の下にはクマができ、髪はぼさぼさ。服装はいつものごとく、へんてこなものだったが、それもかなり乱れていた。用件を聞くと、新しい作品の感想を聞きたいとのこと。芸術家の手には、作品を仕舞っていると思われる箱があった。
 ソファに座った芸術家は、ぐったりとして、だるそうにあくびなどをした。
「どうした。ひどく消耗しているな」
 そう言う男は、窓辺で監視にあたっている。
「…ええ。あなたの方はどうかしら。標的は現れないのかしら」
 芸術家はかすれた声で、あまり興味もなさそうだったが、そんなことを訊ねた。
「現れていれば、俺はもうここにはいないよ」
「…それもそうね」
 藤本は芸術家にお茶を出し、ベッドのふちに腰を降ろした。
「作品でしたね。見るのはかまいませんが、でも、あなた、ちょっと休まれたらいかがですか。わたしはそっちの方が心配です」
「いいのよ。眠れないの」
「じゃあ、昨晩は徹夜ですか」
「ええ、もう二日は寝てないわ」
 空虚な感じに、芸術家はうっすら笑った。藤本は、それは大変ですねとかなんとか、おざなりなことを言った。
「…分からなくなったのよ」
「何がでしょう」
 聞いてもきっと力になれないだろうなと、藤本は思った。
「基本に立ち返らなければと思って、静物画を描き始めたの」
「いいお考えだと思います」
「モチーフはなんでも良かったんだけど、たまたまあったお野菜を使うことにしたわ。…こう、適当に配置して、それを描くのね」
「筆力が試されそうですね」
 芸術家はそこで肩を落とし、大きなため息をついた。スランプの真只中の芸術家のことだから、全然思うとおりに筆が運ばず、不満ばかりを抱えて、それで眠れなくなったのだろう。キャンパスを前にして頭を抱える芸術家の姿が、容易に想像できた。
「イメージとおりに描けなくてね」
 はたして然りだ。
「見たままに書くことは出来ますわ。私も一応プロですから。でも、それだけなの。何も感じるものがありません。あれなら写真で事足りますわ。私が描きたいのは、もっと、こう、野菜の生命力や、たくましさ、瑞々しさなのです。その作品に触れた人に、においまでも感じさせるような…」
 いつもの調子で、ぶつぶつと独り言のように呟く芸術家。
「それを考え、ああでもないこうでもないと思考錯誤して、連日の不眠ですわ。立体の手法を試みたり、彫刻や版画に手を出したり、色々と悩みました…」
 そのあたりで、監視をしながら聞き耳を立てていた男が、双眼鏡を置いて振り返った。少し興味をもったのかもしれない。
「…そして、完成したものがこちらです」
 芸術家は、いかにも大切そうに、小振りの箱をテーブルの中央に持ってきた。こうもうやうやしく扱っているところを見ると、どうしても期待してしまう。芸術家の手によって、それの蓋が取り外された。
 そこにあったのは、一皿の野菜炒め。その湯気と香りが立ち昇った。少しためらったが、箸が添えられてあったので、藤本は一口食べてみた。
「ええ、うまいです…」
 こう言えばいいのだろうか。たしかに野菜は瑞々しく、その存在を感じられたのだ。野菜炒めなのだから。
 さらに一口食べ、
「本当にうまいですよ」
 と藤本は感想を言った。
 様子を見ていた男も、どれどれとちょっとつまんだ。
「ああ、うまいな」
「ですよね。中々こうもうまい野菜炒めは作れない」
「同感だ。絶品と言っていいと思う」
「野菜の歯ごたえが程よくあり、それに香ばしさが加わって、本格的な中華料理の…」
「もういいですわ」
 藤本の賛辞を、芸術家はさえぎった。
「私は芸術作品として見てもらいたかったのです。…歯ごたえや香ばしさを褒められても、少しも嬉しくありませんわ」
 ふくれっ面の芸術家だが、そんなことを言われてもと藤本は思う。
「…もう、わけが分からなくなってきました」
 芸術家は肩を落としてうなだれた。
 そこに、芸術家の弟子がやって来た。いつものことながら、呼び鈴もなしに、上がりこんでくる。
「ああ先生、やっぱりこちらにいらした。あれ、お食事中でしたか」
 弟子はテーブルの傍に座った。そして、香ばしいにおいをいっぱいに吸い込んだ。
「うまそうですね。いただいていいですか。失礼…うん、うまい、よく出来た野菜炒めですね」
「おいおい、君」
 頬張る弟子に、男と藤本とが注意した。マナーを注意するような口調で。
「何を言っている。これは芸術作品だぞ」
「そうだよ、失礼だよ」
 弟子は目を白黒させて、実に慌てていた。
「え、先生、どういうことですか、ねえ、先生…」
 肩を揺すぶられる芸術家は、大きなため息をついた。

 監視は続く。男と藤本は相変わらず、近所のマンションの一室のある家庭を、覗き見ていた。これといって面白いことはないが、平凡でありふれた家族の様子を眺めるのは、気が休まるのだった。平凡で、そして平和だった。
「近頃のマダムはどうですか」
 藤本が、窓辺に佇んでいる男に訊ねた。マダムというのは、その家族の妻であり母である女性のこと。いつしかこう呼ぶようになっていた。
「元気に働いているよ。こうして見ると、主婦というのもたいへんだな」
 双眼鏡を構えた男は、感慨深げだった。
「早起きをし、食事を作り、掃除に洗濯、買い物にまた食事。まったくよく働くものだ」
「マダムの旦那さんは、しかし、仕事人間ですね」
 こうして見る限り、マダムの旦那、夫であり父である男は、決まった時間に仕事に行き、決まった時間に帰ってきて、家では新聞を読むかテレビを見るかして過ごし、そういう毎日を同じように送っていた。家をホテルか何かのように思っていそうだった。
「どこもあんな風だろう」
「あなたも家ではあんな風なのですか」
 藤本がからかうと、男は、俺の事はいいんだと言葉を濁した。
「それにしても、娘さんのことは心配ですね」
「ああ、ありふれた問題だが、それでも問題には違いない。しかも最近、それが深刻化している気がする」
 高校生の娘は、毎日帰りが遅いのだ。クラブ活動にしたって遅すぎる。そして、帰宅してそれをマダムに咎められると、決まって口論になるのだった。男と藤本には、もちろんその声が聞こえないが、口の動きで察するに、
「何時だと思ってるの」
「いいじゃない別に。放っておいてよ」
「待ちなさい。そこに座りなさい」
「いやよ、もう疲れたから寝るのよ」
 といった具合に、やりあっているようだった。その間、夫は知らぬ振りで狸寝入りをする。
「やれやれ、だな」
「年頃の娘さんですからね。一時的なものでしょうが、良くないですね」
「ああ、マダムも最近、よくため息をついているよ」
「困ったものです。反抗期というやつですね」
「そうだな。大人と子供の間で不安定なんだろう。そして子ども扱いされることに不満を感じ、素直になれない」
 男の言葉に藤本は少し笑った。
「なんだかいやに語りますね」
「娘はマダムとけんかしたあと、いつも歯痒そうな顔をするのだ」
「マダムが憎いんじゃありませんか」
「いや、あれは違うと思う。あれは、自分を責めているんだ」
 男によると、心にも無いことを言ってしまう自分に嫌悪している顔だという。
「わが子とけんかするのは、辛いでしょうね」
 藤本はマダムの心配をした。家の中で忙しく立ち働き、帰ってくるのは、冷たい夫と、反抗期の娘なのだ。掃除や料理は誰のためかと、疑問に感じたりしないのだろうか。
「辛いだろうな。それでも、毎日しっかりしているのだから、健気というか、偉いな」
 男が覗く双眼鏡の向こうで、マダムは室内の掃除をしていた。少し太った体を揺すって、掃除機を動かしている。これが終わると、買い物に行って、夕飯を作らなければならない。マダムの毎日はかくのごとく、平和にして、中々忙しいのだった。
 藤本は時計を確かめてから、男に話しかけた。
「あ、そろそろ交代しましょうか」
「そうか、悪いな」
 男は椅子から立ち上がり、背伸びをしてあくびをした。同じ姿勢を続けるため、ひどく肩がこるのだ。気の短い者なら、一日で参ってしまうだろう。
「いえ、わたしもマダムの様子が見たいのですよ」
 男から手渡された双眼鏡を持ち、藤本は窓辺の椅子に移る。いくらか疲れた顔の男は、散歩に出かけようとしていた。
 その時、藤本が声を上げた。反射的に、といった感じの声を。
「おや、あれは…」
 そして藤本は、一度双眼鏡を外し、窓ガラスに貼り付けてある写真を確認した。その写真は、標的を写したもの。それと、双眼鏡に映ったものとを、交互に見る。
「ど、どうした、まさか…」
 ただならぬ藤本の様子に、出かける準備をしていた男が、窓辺に近寄ってきた。藤本は真面目な顔つきをして、無言で双眼鏡を男によこした。男も無言でそれを受け取り、急いで目に当てた。
「…なんだ、なんともないじゃないか。俺はてっきり、標的のあいつが現れたのかと思った。驚かせるなよ」
 安心した男の声。
「どこを見ているのです。違いますよ。病院じゃない。マンションの方ですよ」
 ぐいっと男を引っ張り、例のマンションの一室の方角へ、双眼鏡を向けさせた。
「…どうした、いつものマダムじゃないか」
 藤本は自分の額に手を当てて、信じられないといった顔で、男に呆れた。
「あなた、今日一日見ていて気がつかなかったのですか。何ということ。冗談みたいだ。これですよ。これを見てください」
 そう言って指差したのは窓ガラスの写真。察しの悪い男に、藤本は続けて言った。
「見てください。この標的のシャツと、そしてマダムのシャツを」
 さっき藤本がやっていたように、男がそれをした。目を見開いて驚いている。
「気がつきましたか。そうです。同じシャツなんですよ」
 男と藤本は、互いの顔をうかがいあった。疑問符を交換するだけで、解答は得られない。どちらともなく呟いた。
「…どういうことだろう」

    ☆

 藤本は、長い時間をかけてまとめた考えを、男に説明した。
「これはつまり、こういうことです」
 標的の目印となるシャツ。そして、マダムが着ていたシャツ。これらは恐らく同じもの。男女兼用のシャツというわけ。
 標的の目印になりえるぐらいなのだから、そのシャツはとても珍しいのだろう。あまり流通しておらず、したがって販売経路も限られる。すなわち、その経路から、標的の男の情報が割り出せるかもしれない。男の名前や、生活拠点、ひょっとしたら、本人に会えるかもしれない。
その情報は、組織を喜ばせるだろう。
「そうすれば、あなたの株も上がるというわけですよ」
 話を聞いても男は半信半疑のようだった。
「なるほど、と言いたいところだが、そううまくいくかな」
「いきますよ」
 藤本は意気込んで、もううまくいっているような気になる。
「では、まずどうする」
 問われて、とたんに藤本は困ってしまった。
「シャツのことを調べるんだろう。君は、服飾関係に明るいのか。もちろん、俺にも分からん。最初から手詰まりだ。動きようがないんだよ。また誰かにお願いしに行くのか」
 男は冗談のつもりで言ったが、藤本は大きく頷いた。
「そうですよ。分からないことは人に訊ねればいいんです。今回は洋服のことです。洋服、つまり、おしゃれです。おしゃれと言えばフランス。フランスと言えば芸術…」
「君、またその流れか」
 男は呆れたように笑った。それから、
「だいたい、あの芸術家はフランス語が分からないと言っていたじゃないか。君が思っているほど、あの人はフランスに精通していないんだよ」
 と指摘した。
 まったく男の言うとおりだったのだが、それでも藤本は芸術家に相談しに行くといってきかない。強く引き止める理由もない男は、ダメで元々といった軽い気持ちで、藤本についていった。
 男と藤本を出迎えた芸術家は、相変わらずスランプから抜け出せておらず、元気がなかった。
「…今、お茶をいれますわ」
 そう言って、台所でカチャカチャやる芸術家。
「あれ、今日はあの青年はいないのですね」
 室内を見回しながら、藤本が台所に声をかけた。
「ええ、いつもいるわけではありませんから」
 運ばれてきたお茶を飲んで、早速用件を伝えた。
「これを見てください」
 芸術家に標的の写真を渡した。それを見た芸術家はぽかんとした表情になる。
「…これが、なにか」
「その写真の人物が着ているシャツなのですが、何かお気づきになる点はありませんか」
 藤本に促されて、芸術家は写真を顔に近づける。
「…中々おしゃれで、いいシャツだと思います。仕立ても良さそうですし、なにより、この柄が画期的ですわ。色彩が混乱し、線や渦が走り回り、目がチカチカしますわ」
 と、褒めているのかどうか分からない感想を口にした。
「他には何か分からないか。例えば、その服がどこ製だとか」
 ソファから身を乗り出して、男が訊ねた。芸術家は首をひねる。
「さあ、私の専門ではありませんから」
 そして、写真をテーブルに置いてしまった。
「しかし、芸術と言えばフランス、フランスと言えばおしゃれの国でしょう」
 藤本は食い下がり、芸術家は眉を下げた。
「なんと単純な考え方をなさるのです。それに、以前にも申し上げましたが、私はそれほどフランスに精通しておりませんの」
 隣に座る男が、ほら見ろ、といった顔で藤本を見た。仕方がないから藤本は、
「…そうですか、失礼しました」
 と写真を仕舞った。
「お力になれず、申し訳ありませんわね」
「いえ、そんな。もしかしたらといった程度の期待でしたから」
「それにしても、そんな柄のシャツ、初めて見ましたわ」
 男と藤本には不評だったシャツの柄だが、芸術家は気に入ったようだった。考えてみれば、なるほど確かに、芸術家の気に入りそうな柄なのだ。
「ひょっとすると、オーダーメイドの服なのかもしれませんわね。そうだとすると、これはもう、手がかりすら見つけにくいでしょう。一点ものというやつですわ。ヒントさえ掴めれば、答えまではあっという間でしょうけれど」
 藤本の期待していた展開は遠のき、浮かれてしまっていた恥ずかしさだけが残った。そんな藤本を、男が肘でつついた。
「しょうがない、気長に待つしかないんだ」
 男と藤本は、ずっと続く監視の日々を想って、少しうつむいた。芸術家は、長いトンネルのようなスランプを想像して、ため息をついた。三人は、それぞれ黙り込んでしまった。
 そんな時、玄関の方から声が聞こえた。お邪魔します、と言う、弟子の青年の声だ。
「先生、頼まれていた絵の具やペンキ、買ってきましたよ。あ、お二人もいらしてたのですか」
 弟子はたくさんの画材を、部屋の隅に置いた。芸術家と藤本と男の三人は、いい加減な挨拶をして、弟子の方をちらりと見た。
「あ」
 三人が揃って、短い声を上げた。三人の目は、弟子の服装に釘付けになった。そのシャツは、色彩が混乱し、線や渦が走り回り、目がチカチカし…。
「み、みなさん、どうしたのですか、僕がどうかしましたか」

 弟子は証言台に立たされた証人のようだった。男が質問をする。
「君、そのシャツは一体…」
 弟子はそれに答えた。
「ああ、これですか。これは柄が好ましくありませんが、なにせ安かったものですから、つい買ってしまったものです。僕は服装など、あまり気にならないのです」
 次に藤本が質問をした。
「買った、と言いましたね。店で売っていたのですか」
 不思議がりながらも、弟子は答える。
「ええ、もちろんそうです。買い手の僕がいるのですから、売り手もいます」
 最後に芸術家が質問した。
「その売り手は、どこなのかしらね」
 弟子は丁寧に答えた。
「すぐそこの洋品店です、先生。なんでも間違って仕入れたとかで、大安売りをしています。たいへんでしたよ、店の外まで黒山の人だかりで。何と言っても、ほとんどただ同然の大安売りでしたからね」
 弟子の話を総合すると、こうだった。
 そのシャツは近所の洋品店で、先日まで売られていた。しかも叩き売りと言っていいほどの値引きをされて。柄にさえ目をつぶれば、シャツには違いないので、それは良く売れていた。わけが分からないままに、あっという間の完売だ。つまり今、このシャツを持っている人は大勢いて、その一人一人など、調べようが無いということだった。
「…振り出しに戻りましたね」
 藤本はがっかりして言った。
「いや、そもそも振り出しから動いていないんだ」
 男は苦笑いしている。男の言うとおり、あれこれと考えてはいるが、確かに振り出しから一こまも進んでいない。それどころか、サイコロさえ振っていないような気がした。
「あの、もう行っていいでしょうか。今日は画材を届けにきただけですので」
 弟子は、なぜだか自分の回答が藤本や男をがっかりさせたことを感じとり、少し申し訳なさそうだった。
「ええ、いいわ。ごくろうだったわね」
 弟子はしっかりとしたお辞儀をして、帰って行った。残された三人は、気が抜けたようにぼんやりとしてしまう。
「株を上げようなどと考えるから、こういうことになる」
 男は卑屈になってしまっていた。
「こういうことって何ですか」
「どう言えばいいのかな、要するに、損をしたような気持ちだ。実際は、何も得られていないと同時に、何も失っていない。なのに俺も君も、なぜだか損をしたように思っている」
「それは仕方がないですよ。期待していたのですから」
「そう、期待したから、がっかりしているのだ。…期待などしてはいけない」
 男は捨て鉢だったが、かと言ってそれを覆そうと思うほど、藤本にも反論の意志はなかった。あてのない職探しの毎日が、藤本から前向きな考えというものを拭い去っていた。
「俺に出来るのは待つことだけなのだよ。誰が喜ぶでもないだろうが、それが俺の仕事だ」
 自棄になって、男はそんな、今さらながらの宣言をした。
「それなら、私の方がもっとひどいですわ。創作をしない芸術家。誰の気持ちも動かせません」
 芸術家は悲しく笑いながらそう言って、言い終わると、さっと笑顔を消した。
 なんとなく順番で考えると、わたしが次に何か言わなければならないのかなと、藤本は感じた。仕事の見つけられない求職者、社会に生かされる寄生虫、とかなんとか。頭の中で言ってみて、ちょっと卑屈すぎるかな、言いたくないなと、藤本は思った。
 そうして藤本がもじもじしていると、玄関の方で物音がした。足音が近付いてきて、部屋に入ってきた。
「お邪魔します、先生」
 そこにいたのは、帰ったばかりの弟子だった。走ってきたのか、息が上がっている。そして、これをどうぞと言って、紙袋を芸術家に手渡した。
「皆さん、さっきずいぶんがっかりされていた。このシャツが欲しかったのでしょう。ご安心ください。僕は値段につられて、ずいぶん余分に買っていたのです。皆さんに差し上げますよ」
 芸術家が紙袋から取り出したのは、今、弟子も着ている例のシャツ。目がチカチカとした。心の底からどうでもよかったが、弟子が息を上げてまで持ってきてくれたものだ。芸術家と藤本と男は、ぎこちなくお礼を言った。
「…悪いわね。いただくわ」と芸術家。
「…ありがとう」と藤本。
「…欲しいと思っていたのだ」と男。
「いえ、どういたしまして」
 爽やかな汗を浮かべた弟子は、会釈をして帰って行った。残された三人は、意味の無い笑いを交し合った。

    ☆

 日常は変わらなかった。男は不毛なる監視を続け、藤本は得るものの無い職探しの毎日。近所のパチンコ屋は賑やかで、マダムは家事に忙しい。芸術家は思考錯誤で頭を抱え、弟子は順風満帆に未来を想う。
「交代しましょうか。マダムの様子はどうです」
「ああ、変わったことはないよ」
 そんな会話をし、男と藤本は双眼鏡のやり取りをする。男や藤本と同様、マダムの毎日にも変化はない。家庭に無関心な夫、反抗的な娘、それでもこなさなければならない家事…。
「お邪魔しますわ」
 芸術家は息抜きのためなのか、よく藤本の部屋を訪ねてきた。何をするでもないが、手ごろな話し相手を求めてといった感じだった。事実、世間話をしては帰っていく。
 ただ一点、変わったところがあるとすれば、それは三人の服装だ。三人とも揃って、弟子が買ってきてくれた、例のシャツを着ているのだ。柄は気に入らないが着心地は無類、と弟子が言っただけあって、たしかに着心地だけは良かった。
「明日から雨が降るそうですわ」
「そうなのか。まあ、監視に影響はないが」
「勤め人でないのが嬉しいのは、こういうときですね」
 そんな話をする三人が、皆、同じシャツを着ているのだ。ちょっと滑稽だった。

 芸術家の言ったとおり、翌日は雨が降っていた。見通しは悪くなるが、双眼鏡の高性能はそれを上回っていた。
 出かけるのが億劫だった藤本は、ずっと家にいて、男とだらだらと話をしていた。そして夕方になった。
「今日も娘さんは帰りが遅いのでしょうか」
 ソファに寝そべり、眠たげにテレビを眺めている藤本。部屋の明かりを点けていないので、室内は薄暗い。雨粒の音に混じって、男の返事があった。
「そうだろうな。近頃は口げんかすらもないようだ」
「由々しき事態ですね」
「ああ」
 しかし口調はのんきそのもの。対岸の火事を見るようだ。
 やがて夜になって、男が大きなあくびをした。もう今日の監視はいいだろうといった風に、双眼鏡を下ろしかける。その時、
「あ、娘が帰ってきたぞ」
 と呟いた。
 藤本は壁掛けの時計を確かめ、
「今日はいくらか早いですが、それでも遅い。どんな道草をくっていたのだ、まったく」
 と独り言の説教をしゃべった。
「あ、おい、君、今日はマダムも説教をするつもりらしいぞ」
 男の言葉を聞いて、藤本はソファから飛び起きて、予備の双眼鏡を取り、急いで窓辺に駆け寄った。マダムのところにレンズを向ける。そこでは男の言ったとおり、マダムと娘の姿が確認できた。
 双眼鏡に見るマダムと娘の仕草や、口の動きから、その会話を想像する。それはこういった感じだった。
「ちょっと、話を聞きなさい」とマダム。
「…なに、早くしてよ」と娘。
「どうして母さんのいうことがきけないの」
「うるさいわね、そんな話なら聞きたくないわよ」
「まあ、うるさいですって。親に向かってなんて口のききかたをするの」
「お母さんはうるさいのよ。わたしのことはほっといて」
 娘は自分の部屋に戻ろうと、くるりと背を向ける。
「待ちなさい、あなたはどうしてそうなの。何が気に入らないの」
 マダムに引き止められ、娘は振り返り、大きな仕草で言った。
「わたしはお母さんみたいになりたくないのよ」
 マダムと娘の動きが止まった。娘の顔には、すぐに後悔が浮かんだが、それを隠そうとするように、急いで部屋に引っ込んでしまった。残されたマダムは、ため息をつくこともせず、黙って立ち尽くしていた。雨音がさみしく聞こえる。
「…ひどくやりあったな」
 男がぽつりと言った。
「ええ、険悪なムードが伝わってきましたよ」
「こうまでけんかするのは初めてだ」
「そうなのですか。さすがにあなたは詳しい」
 褒められたことではないがと思いつつも、藤本はそう言った。
「まあ、毎日見ているからな。それに、心配な点がひとつある」
「なんでしょう」
「実はもうすぐ、あのマダムの誕生日がくるのだ」
「そうなのですか」
 男が言うには、いつもはカーテンをひいている娘の部屋が、一度見えたことがあって、そこにあったカレンダーには、お母さんの誕生日、と記された日があったらしい。その日はもうすぐだった。
「娘さんとけんかしたままその日をむかえるのは、なんだかかわいそうですね」
「ああ、なんとか仲直りして欲しいものだ」
 藤本はその日を想像した。素直になれない娘は、その日も遅くまで帰ってこない。夫はそもそも妻の誕生日など忘れている。特別であるべき夜が、つまらない日常に塗り替えられていく。マダムは、自身でも気が付かない振りをして、洗い物などをするのだ。
「平凡な家庭だが、それなりに悩み事があるものなんだな」
「そうですね」
 さっきまでまるで他人事だった、マダムやその家庭のことが、藤本にはちょっと気がかりになっていた。男もそうだった。
「あなたはどうですか。家では良き夫ですか」
 なんとなく藤本はそう言ってみた。
「どうだろうな。…いや、考えるまでもない。俺がいい夫なわけがない。まともな仕事もできず、こんな仕事をしているんだから」
 男は双眼鏡を置いて、立ち上がった。そして、
「マダムのあの夫の方が、まだ俺よりもましだよ。少なくとも誰かの役にはたっている」
 と投げやりなことを言い、散歩してくると言って、傘を手に出て行った。藤本は薄暗い部屋で、窓辺に佇む。点けっぱなしにしていたテレビでは、天気予報をやっていた。
 雨は明け方にあがり、明日は好天になるでしょう。
 だからと言ってどうでもいいな。藤本は思って、それが少しだけ虚しかった。

    ☆

 紹介所の係員は藤本の顔を見ると、口に手をやり首を傾げた。
「おや、あなたか以前に何度か…」
 自信の無さそうな声の係員。以前に何度か、もなにも、つい何日か前にも顔を合わせているのだ。しかし係員の記憶に、藤本の印象は残っていない。
「ええ、このあいだ」
 事実を説明してもあまり意味は無い。どうせまた忘れられるのだ。
 それからは、いつものごとく、相談をする。何も得られないのも、いつものことだ。
「アルバイトならいくつかあるんですがね」
「いえ、わたしは定職を探しているのです」
「だけど、現実的に考えて、アルバイトも一つの選択だと思うのですが…」
 要するに、とりあえず何か仕事をしておけということ。藤本は、ううん、と呻った。
「失礼があればお詫びします。ですが、一度考えてみてください」
 係員は机の上の資料をとんとんとまとめた。今日はここまで、ということなのだろう。
「それほど難しいのですか」
「ご存知でしょう。あなた、新聞をご覧になりましたか」
「いえ、今朝のはまだ…」
「景気の悪化の進行と、失業者の割合の数字が問題視されていました。つまり今、仕事を探すのは大変な時期ということです」
 新聞に知らされるまでもなく、藤本には体感が出来る問題だった。できるだけ軽く聞こえるように、藤本は気をつけて言う。
「行列に並んでいるようなものですね」
 係員は首をひねった。
「と言うより、くじ引きですね。僅かな当たりくじを求めて、皆が殺到している。殺到して、並んでいる」
「だから行列じゃないですか」
 他愛の無い話に藤本は笑う。だが、人のたくさんいる建物を出て行きながら、その人の多さにうんざりする。これらの人たちみんなが職を探しているのだ。
 藤本はこの日常がまだまだ続きそうなのを知り、肩を落として建物から出て行く。

 同じ頃、藤本の部屋では男が、鳴り響いた電話を受けていた。
「はい」
 無言がしばらく続いてから、
「…お前だな」
 と低い声が聞こえてきた。男にとっては上司にあたる人物。
「はい、なんでしょう」
「特に用件があるわけではない。定期連絡のようなものだ。どうだ、まだ現れないのか」
 どこか試すような口調。
「…はい、現れません」
「ふん、そうか」
 不満をにじませる受話器の声。
「監視は万全なのか」
「もちろんです」
「もちろん、か。そうだといいがな」
 男は相手に伝わらないように、そっとため息をついた。このあと、受話器から聞こえるであろう言葉が予想できるからだ。はたしてその声が聞こえてきた。
「まったく、お前のようなやつを雇うとは、うちも考えが甘い。うちでなければ、お前などやっていけないぞ。そのあたり、分かっているのか。こんな簡単な監視ですら、安心して任せられないのだからな。お前のようなうすのろは、他にはいないだろうよ。せいぜいミスのないようにするんだな」
 と、手ひどく詰られた。
「…はい」
 力の無い声で応答して、連絡は終わった。自分でも分かっていることだが、人の口から言われると、やはり耳に痛かった。うすのろと呼ばれることには慣れている。仕事のミスで怒られるのも仕方が無い。しかし、誰の役にも立っていないと思えることが、何よりも男をつまらない気持ちにさせた。すべての仕事は誰かのためなのだろうが、だとすると、うまく仕事のできない俺は、誰のためにもなっていないのじゃないだろうか。つくづくそう思えた。ため息すら出なかった。

 そしてまた同じ頃、芸術家はキャンパスを前にして、ぼんやりとしていた。キャンパスは真っ白い。芸術家には、そのキャンパスが眩しいように感じた。こんなに白いキャンパスを、私の筆が、どうせ汚してしまうのね。どうしたって、絵の具と時間の無駄じゃないかしら。新雪の上を歩くのがはばかられるのに似た気持ち。キャンパスに対する芸術家の感情は、それを数倍にしたようなもので、ほとんど恐怖と言えた。
 そして、いつからかしら、とも思った。
 いつから、これほど窮屈に感じるようになったのかしら、と。
 昔はもっと自由だったわ。あふれてく創作意欲を抑えるのにたいへんだったぐらい。早く表現しなければ、早く筆を動かさなければ、早く形作らなければ…。作品に没頭し、それは認められ、一時期、名は売れた。それが今じゃ、どう。
 一つの作品すら生み出せない。一本の線さえ描けない。一つの形すら作れない。…何も伝えられない。
 何を恐れているのかしら。失敗作となること。駄作と批評されること。黙殺されること。傑作。それを目指すあまり、硬直してしまっているのかしら。
 芸術家は頭の中がごちゃごちゃとして、がっくりとうなだれた。
キャンパスはいつまでも白いままだった。

藤本が夕方に帰宅すると、芸術家が家に来ていた。
空は暮れはじめ、部屋の中は一日の終わりにふさわしい夕陽の色が広がっていた。明かりはついていない。芸術家と男はなにも話をしておらず、ただそれぞれの考え事をしているようだった。しおれた雰囲気だったが、藤本にはそれがちょうど良く思えた。
いつもなら取るに足らない話をするところ、今日はそうならない。三人は西日と沈黙の中で、ぼんやりとしていた。遠くのクラクションや、鳥の飛んで行く音が小さく聞こえる。
その沈黙を取り払って、部屋に入ってきたものがあった。弟子だ。
「これはみなさん、おそろいで」
 と上機嫌の弟子はほくほくと笑う。通夜に迷い込んだ獅子舞のようなものだったが、弟子はそのことに気が付かない。
「なんだか暗いですね」
 弟子が言うのは、単純に室内の明度のこと。室内の光源は夕陽だけなのだ。弟子はそして、壁のスイッチを押そうとした。
「…このままでいいわ」
「でも、先生」
「…いいのよ」
 師匠たる芸術家に制されて、弟子は手を引っ込めた。
「何か用があるのか」
 双眼鏡を覗いたまま、男は素っ気無い声で言った。用がなければ帰ってくれと言いたそうだった。
「ええ、実は今日の新聞を見せて欲しいのです」
「それなら、そこのテーブルにあるよ」
 藤本は目で示した。テレビのリモコン、コーヒーのカップ、ビールの空き缶、拳銃、そして新聞があった。
 新聞と聞いて、藤本は紹介所の係員の言葉を思い出した。景気の悪化について、失業者の割合の増加について、その問題の深刻化。弟子の青年は、それを知りたいのだろうか。いや、そうではないだろうな。有望な青年には、関係の薄い話だ。
 弟子の新聞をめくる音だけが、室内の音になった。藤本は、立ったまま新聞をめくる弟子をちらりと見上げた。
「…何を探しているんだい」
「僕の将来ですよ」
 弟子はちょっと肩をすくめて見せた。
「君の将来が新聞に書いてあるのかい」
「ええ」
 なおも弟子は新聞をめくって、記事のあちこちを目で追っている。弟子の言っていることがよく分からなかったが、藤本はそれ以上質問を重ねなかった。気持ちが沈んでいて、様々なことがらに対しての興味が薄まっていたのだ。感情が色褪せたような感じ。
 問いはなくとも、弟子は嬉しそうな声で言った。
「実は、先日応募したこの新聞社主催の賞の、一次選考の発表がされているはずなのです。二次選考、最終選考と続きますので、まだまだ先は長いのですけどね」
 その発表の記事を探し、弟子は紙面に目を走らせる。
「ああ、これですね。通過者の名前が書いてある」
 どれどれ、と新聞に顔を近づけ、自分の名前を探す弟子。新聞をめくる音も途絶え、室内は再び静かになっていた。カラスの鳴き声が、のんきに聞こえた。
 沈黙は長く続いた。弟子は顔を隠すように新聞を持ち、立ち尽くしている。
すると突然、弟子が窓辺に駆け寄った。そこで監視をしている男は、弟子の慌てた様子を見て不思議そうな顔をした。
窓辺に残る西日のオレンジ色のなかで、弟子は一心不乱に新聞を読む。顔からは先ほどまでの上機嫌が消えうせて、かわりに焦りの色が浮かんでいる。
そこでもしばらくの間、新聞とにらめっこをした弟子は、次に部屋のすみにそそくさと移った。さっき押そうとして芸術家に止められた、室内の明かりのスイッチが、そこにある。弟子はそれを押す。チカチカとしたあと、室内の翳りが取り払われた。
弟子はテーブルの上に新聞をひろげ、真上からの明るい光をうける新聞を、綿密な注意をもって確かめた。男と藤本と芸術家の三人は、さっきからずっと、弟子の様子をただ眺めている。
「…どなたか、僕の名前を探してくれませんか。僕には探し出せないようです」
 弟子は顔を上げ、藤本、男、芸術家、と順番にそれぞれと目を合わせた。そっぽを向いた芸術家。いかにも疲れたように目頭を押さえる男。弟子と藤本の目が、また合った。
「お願いします」
 今更ながら弟子が自分の名を言い、新聞を向けてきた。はなはだ気が乗らなかったが、こうも真剣な表情を見せられては…。藤本は新聞を受け取り、その字を拾う。
 弟子の名は無かった。
 もうそのことが分かった藤本だが、まだ顔を上げられない。なんと言えばいいのだ。あれほど自信を持っていた弟子に、この残念な結果。信じられないといった気持ちだろう。挫折。それも初めての。
「…どうですか」
 あんまり藤本の沈黙が長いので、たまりかねた弟子が訊ねる。藤本は顔を上げた。黙って首を横に振った。弟子は、ああ、と言ったつもりだろうが、それは声になっていない。
「あなたも」
 弟子は男に、新聞を確認するよう差し向けた。
「いや…」
 言葉をにごし、男は新聞を見ない。
「どうしてですか。お願いします。あなたなら見つけられるかもしれない」
 弟子は真剣だったが、男はゆっくりと首を横に振る。弟子は食い下がった。お願いしますと言い、探してくださいと言った。まるで本当の探し物をしているようにも見えた。そこにあったものが、ふいにどこかに転がって、それで失ってしまった、でもその辺にあるはずだ、といった風。実際には、転がってもいないし失ってもいない。最初からないのに。
「これはおかしい。そうだ、落丁だ。僕の名前が抜けている。電話をしなければ」
 弟子は立ち上がった。そして素早く電話を探す。
「よしなさい。座りなさい」
「でも」
「いいから」
 芸術家の声を聞き、弟子は固まった。芸術家は窓の外の夕暮れの空を見ているようだった。
 しばらくしてから、ぱさりと新聞を置く音がして、弟子がその場に腰をおろした。眠っているような、無表情。
 男は監視を続け、藤本はベッドのふちに座り、ぼんやりしていた。
 どれくらいか、夕暮れの時間が過ぎていった。
「…はじめて、やりたいことが見つかったのです」
 弟子はぽつりとこぼす。
「僕はこれまで、人に促されるままに勉強をしてきました。向いていたのでしょう、良い成績がついてきました。どうやら僕は、将来、有望な人材になれるらしい。…でもあるとき、今まで疑問に思っても押さえていた気持ちが、感情となって現れたのです。つまり、漠然とした将来の不安です。これではまるで、明るく真っ直ぐで、行き先の分かりきった道を歩くようなもの。それも、人に手を引かれてです。僕が選んだ道じゃない。僕の本当にやりたいことはなんだろう」
「それが芸術だったのか」
 弟子の方を見るでもなく、男が言う。
「…ええ。人生をかけるに値すると思いましたよ。事実、エリートコースを外れてまで飛び込んだ道なのです。それなのに…」
 語尾は小さくなって消えてしまった。また少し、沈黙が続いた。やるせない雰囲気が室内に漂った。
 弟子が呟いた。
「…僕はどこかで間違ったのでしょうか」
 誰に向けられたのでもない声。答えが返ってくるのに、時間が空いた。
「間違ってないよ」
 弟子は眩しそうな顔をして、藤本の方を見た。藤本は少し笑っている。
「君がやりたいことをやったんだ。間違ってないよ」
「…しかし」
「君はまだ大学生で、若い。やりたいことをやればいいんじゃないかな」
 それでも弟子は考え込むように、うなだれている。
「わたしなんて、仕事探しの毎日だよ。それも中々うまくいかない。貯金だっていつまでもあるわけではないし、いい加減、なんとかしないといけないのだが、でも…」
 テーブルの上に投げ出された新聞の記事が目に入った。そこには、景気の悪化が取りざたされていた。悪化。冷え込み。不況…。
 肩を落とす藤本を見て、弟子はちょっと困ったようだった。
 藤本はため息をついて言った。
「わたしはどこかで間違ったのかな」
 はっきり目を見て問われた弟子は、慌てふためいて、それから答えた。
「ええ、たぶん、少し…」
 その様子を見て、芸術家が少し笑った。

    ☆

 快晴の午後。
藤本と男は、いつものように部屋にいた。男は監視を、藤本はテレビを。時刻は昼下がりで、街は忙しく活動しているが、その賑わいは高層マンションのこの室までは届かない。穏やかそのものといった感じに風が吹き、部屋のカーテンを揺らしていた。ソファに寝そべりテレビを眺めていた藤本は、あくびをする。それが伝播したのか、男も眠そうなあくびをした。
「君、最近、職探しに行っていないんじゃないか」
 双眼鏡をちょっと外し、眠い目をこする男。男が言うことは当たっていた。藤本はここ数日、それ自体が仕事とも言えそうな、日課の職探しをしていなかったのだ。なぜか。
「ええ、ちょっと…」
 藤本は言葉を濁した。実は、少し諦めかけているのだった。あまりについてこない結果に、藤本の心は疲労を感じ始めていた。億劫というのが、まさにそれ。
「まあ、俺が偉そうに言えることじゃないな」
「いえいえ」
 退屈なテレビ番組にあきた藤本は、リモコンを適当にポチポチやった。このぐらいの時間というと、まったく面白い番組をやっていない。料理の作り方や、おしゃれのレッスンなど、眠気ばかりを誘う番組がどの局でも放送されている。
 思いついて、藤本は訊ねてみた。
「あなた、たまには奥さんのところに帰らなくていいのですか」
 思いがけない質問だったのか、男は咳き込んだ。
「あ、いえ、わたしが偉そうに言えることじゃありませんね。でも、心配じゃありませんか」
 呼吸を整えた男は、双眼鏡を床に置き、ぎゅっと目頭を押さえていた。
「電話は、たまにしているよ。君のいないときだがね」
「どうして、わたしがいないときなのです」
「それは、俺の殺し屋としての誇りだな」
 殺し屋としての仕事をしたことのない男だが、そんなことを言う。
「つまり、殺し屋が家に電話をかけている姿など、絵にならないというわけだ」
「絵になるもなにも…」
 とうに殺し屋としてのイメージはありませんが、と藤本は言いかけて口を閉じた。そのかわりに、
「ちょっと今、電話をしてみませんか。気晴らしにでも」
 と気紛れに提案してみた。こんなことでも言ってみないことには、気だるさは去ってくれそうにない。
「しかし…」
「いいじゃありませんか。ほら、テレビでも言ってますよ、夫婦円満の秘訣は会話だそうです」
 藤本が指差した先のテレビでは、確かにそんな内容を取り上げている。
 気乗りしない様子の男だったが、何より退屈に背中を押されて、電話機の前に立った。藤本はソファに寝転んだ姿勢のまま、その声を聞く。
「…ああ、俺だよ」
 淡々とした口調で、男は受話器と話しをする。
「…そっちはどうだ。…そうか。…まあ、大変だが、これが仕事だ」
 男の声だけ聞く分には、多忙な仕事の中からなんとか都合をつけて電話をした、といった感じに聞こえた。本当は、しようと思えばいつだって電話ぐらいできる。
「…え、いや、そんな余裕は…ああ、分かった、分かったよ、買って帰るよ」
 短い相槌を繰り返し、男は受話器をそっと置く。
「どんな話をしましたか」
「…妻は、俺が探偵をしていると思っているのだ」
「そうでしたね」
 そのことは以前、男から聞いたことがあった。
「俺は今、北の方の街で、殺人事件を捜査している、ということになっている」
「え、どうしてまた」
「適当な嘘をついていたら、こうなった。俺は事件の渦中で真犯人を探している、らしい。証拠を探し、トリックを見破り、偽証を暴き…」
 男は苦笑いをしてしまう。
「そこは雪が積もった街で、妻にそこの土産を買って帰るよう頼まれた。俺は、分かった、と言った」
 藤本は開いた口がふさがらない。
「…どうしたものかな」
「知りませんよ」
 男はそそくさと窓辺に戻り、再び双眼鏡を手にする。午後は時間の流れが遅い。

「ああ、もう明日なのか」
 ようやく日が傾きはじめた頃、男が呟いた。
「何かおっしゃいましたか」
 藤本はソファでうつらうつらしている。
「マダムの誕生日が、明日だ。そう言えばそうだった」
「へえ、そうですか」
 どうなるのかなと、藤本は思った。娘はまだまだ帰りが遅く、マダムとの口論は絶えない。夫は非協力的で、まるで他人事のように振舞っている。そんななか迎える、何十回目かの誕生日。マダムの切ない表情が見えるようだった。
「あ」
 マダムの家に双眼鏡を向けていた男が、短く声を上げる。
「なんです」
「いや、カレンダーなのだが…」
 男が言ったのはこういうことだった。
 娘の部屋の壁に掛けられたカレンダー。そこにあった記入から、男と藤本は、マダムの誕生日を知っていた。娘の文字で、お母さんの誕生日、と書かれていたの。
 ところが今、たまたま吹いた風で娘の部屋のカーテンがゆれ、そのカレンダーが垣間見えると、そこに、お母さんの誕生日、の文字が無くなっていた。そこにはただ、ぐしゃぐしゃと塗りつぶされた不格好な一日があるだけだった。
 藤本と男は同時に想像した。
 マダムとケンカした娘は、カレンダーの前に立つ。手にはペン。眉間には皺。お母さんなんて大嫌い、ぐらいのことは呟いたかもしれない。そして、その一日を塗りつぶす。そんな事をしている自分が歯痒くて、娘はちょっと涙をこぼすのだ。
「その誕生日が、明日なのですか」
「ああ」
「大丈夫ですか」
 何に対しての大丈夫なのかはよく分からないが、藤本は漠然と訊ねた。いつの間にかソファから起き上がって、窓辺の、男の隣に佇んでいる。
「マダムは寂しい思いかもしれないが、どうすることもできないよ」
「しかし…」
「仕方が無いんだ。俺たちが訪ねていって、お祝いをするか」
 男は投げやりに言った。
「そうですね。仕方ありませんね。…おめでとうぐらいは、言ってあげたいですけど…」
 藤本は残念な気持ちで、ため息をつき、空を見上げる。夕方の始まりの空は白っぽく、ちぎれた雲が漂っている。パチンコ屋のアドバルーンが、暢気そうにゆらゆらと揺れている。藤本はそのアドバルーンを、目を細めて見つめている。
 そのうち藤本は、小さな声で笑い声を上げ始める。思い出し笑いのように。
「…どうした」
「いえ、ちょっと、くだらない思いつきですよ」
 藤本は笑い続け、男は怪訝な表情をした。
「聞きたいですか」
「というより、言いたいんだろう。どんな話だ」
「退屈しのぎには良さそうな話です」
「よし、聞こうじゃないか」
 男は双眼鏡をおろし、藤本の方を向いた。そして藤本の説明を聞いて、やはり笑った。風が吹くと、カーテンが大きく舞い上がった。

    ☆

 静かな夜道に二つの足音が響く。一つは、素早く地面を蹴る軽やかな足音で、もう一つは、コツコツという、不規則に乱れた足音。足音が進むのは深夜の路上。辺りは静かな眠りに落ちている。
 乱れた足音は、ふいに止んだ。
「ちょっと待ってくださいませんか」
 先を行く足音も止まった。
「しかし、あまりぐずぐずもしていられません」
「私、そんなに早く歩けませんわ」
「どうしてそんな靴なのですか」
「それは仕方がありませんわ。これしかないのですもの。大体、芸術家は運動しないものです」
 芸術家は、手にした懐中電灯で足下を照らし、これみよがしにハイヒールの踵をカツンと鳴らした。
「とにかく、さっさと急ぎましょう」
 藤本はいかにも楽しそうに、くるりと背を向け、再び小走りになる。藤本の両手には大きなバケツのようなペンキ缶がある。重たいが、芸術家に持たせるわけにもいかない。
 立ち止っていた芸術家は、ため息をついて、ハイヒールの音を夜道に響かせながら、藤本のあとを追って行った。真夜中の街灯が、二人を見送った。

 明かりを消した室内。
 男はその暗闇のなかで、照準器を覗いていた。暗視の機能をも備えた高性能な照準器を。
 男が銃口を向けているのは、近所の、まだ真新しい建物。すなわち、暇つぶしに通っているあのパチンコ屋。そこの屋上と非常階段をつなぐ扉に、今、狙いが定められていた。
扉といっても、金網で作られた簡素なもので、そこには南京錠がかけられているだけ。男が狙いを定めているのはそこだった。
 男は指先が少し震えているのに気がついて、真っ暗な中で苦笑いを浮かべた。銃を撃つことぐらいで震えていてどうする。そうしてしきりに鼓舞してみたが、震えは止まらなかった。いつまでたっても慣れないな、と喜びとも悲しみともつかない気持ちで思った。
 男は深呼吸を繰り返し、大きく息を吸い込んでから、照準器を目に当てる。
 狙いは万全。弾道も完璧。夜になってから風は止んでいる。あとは引き金を引くだけだ。引け。男は息を飲む。集中と沈黙。引け。
 うるさいなと思ったら、自分の心臓の音だった。
 突然、なぜだか急に、あの芸術家の弟子の声が思い出されてきた。
「僕はどこかで間違ったのでしょうか」
 俺はどこかで間違ったのだろうか。
もちろん答えは返ってこない。
男はため息のような深呼吸をし、感情を透明にして、引き金を引いた。冷静な弾丸が発射され、わずかに火薬のにおいが漂う。照準器で着弾を確かめた男は、力が抜けたようぐったりとして、しばらく暗い部屋でぼんやりとしていた。

パチンコ屋のまわりをぐるりと回って、屋上まで螺旋に続く非常階段を進んだ。足音を忍ばせて、むき出しの階段を上っていった。藤本も芸術家も肩で息をしている。
屋上には金網の扉があったが、それは鍵がかかっていない状態になっていた。足元を探すと、弾け飛んだと思われる南京錠が、形を変えて転がっていた。
藤本はペンキ缶をその場に置いて、自分のマンションの方角を向いた。男が見ているのかは分からないが、大きく手を振ってみた。そして扉を開き、広い屋上へと出る。
広い屋上には、昼間に浮かんでいるあのアドバルーンが、網を被された状態で係留されてあった。捕獲された動物のようだ。そばでみるとそれは非常に大きく、藤本は思わず目を丸くした。
そうしてバルーンを眺めていると、遅れて芸術家が屋上にやってきた。ハイヒールは脱いでいて、片手にそれを、もう片手には懐中電灯を携えている。息は上がってしまっていた。
「ずいぶん大きいですわね」
「ええ、浮かんでいるときは、あんなに小さいのに」
 屋上には明かりが無く、芸術家の持つ懐中電灯と、わずかな月明かりだけが光源だった。空気はひんやりと冷たかった。
「ほんとうにやるのかしら」
 芸術家はバルーンを見上げている。
「ここまで来たのです。やってしまいましょう」
 ペンキ缶といっしょに持ってきた袋から、大きな刷毛を取り出し、それを芸術家に差し出した。芸術家と藤本は、刷毛と懐中電灯の交換をする。
「あなたが思っている以上に、大変なんじゃないのかしら」
 駄々をこねるような芸術家の言葉に少し笑い、藤本はバルーンのもっと近くに寄っていった。そこには、アドバルーンにぶら下がる、広告にあたる部分が、簡単に畳まれただけで、仕舞われずに置かれてあった。藤本はそれを、広げにかかる。芸術家が指摘したように、たしかにそれは、思いの外大きかった。しかし考えてみれば、遠くからでも字が読めるぐらいなのだがら、このぐらいの大きさは当然なのかもしれなかった。
「ねえ、これに意味があるのかしら」
 楽しそうに忙しく動き回っている藤本へ、ただ立ち尽くしている芸術家は言った。
 作業を終えた藤本が、荒い呼吸のまま答えた。
「さあ、何の意味もないでしょう」
「だったら…」
「いいじゃありませんか、意味なんてなくても」
 ペンキの缶のふたを外し、芸術家へ、どうぞ、と合図をした。ペンキの色は赤色。
 藤本の目を睨むようにして、芸術家は面倒なのを伝えたが、藤本は黙ってそれを受け止める。しばらくそうして、夜の静かさの中に佇んでいたら、芸術家がふっと息をついた。
「わかったわ。やりましょう。ペンキを持ってきてくださる」
「ええ、もちろん」
 藤本はペンキの缶を持ち、屋上に広げた広告の上をずかずか歩いていく芸術家の後をついていった。

 ペンキがだいぶ減り、作業が半分ほど済んだところで、芸術家が手を止めた。たまりかねたように息を吐き出し、空を見上げる。
「どうしました。少し休憩しますか」
 藤本のやっていることといえば、ペンキの缶を持って芸術家について回り、刷毛にペンキを供給し続けるという、楽な仕事。疲労は感じない。
「…これ、私じゃなくてもいいんじゃないかしら」
 あなたがやれば、という風に、藤本に刷毛を渡そうとする芸術家。
「いえ、あなたでないと。刷毛の扱いはお手の物でしょう」
「まあ、そうですけど…」
 しぶしぶ、芸術家は作業を再開した。藤本は片手に持った懐中電灯で、芸術家の手元を照らす。口笛でも吹きたいといった気分だった。
 作業は進んだ。
「…あなた、ずいぶん楽しそうね」
「そう見えますか」
 光が全然足らなくて、藤本の顔は見えないが、声には明るい調子がにじんでいた。
「ええ、楽しそうだわ」
「さすがに鋭いですね」
 夜風が少し吹き始め、屋上を静かに走り回った。
「なにが楽しいの」
「わかりません。ただ、なんだかくだらないのです」
 藤本は答えながらも笑ってしまった。芸術家の手は動き続けている。
「私もくだらないと思いますわ」
「でしょうね。誰にどう聞いたって、くだらないと言うでしょう」
 芸術家の作業が一段落して、場所を移る。藤本と芸術家は広告の上を並んで歩いた。
「それがどうして楽しいのかしら」
 藤本は間を置いてから答えた。
「初めてなのですよ、私の人生の中で、こんなことをするのが。仕事を早いところ探さないといけないのに、夜中に、こんなところにやって来て、こんなことをしている。何の意味も無い。…しかし、そんな自分が楽しいのですよ」
「…そうですか」
 よく分かりませんわ、と言いたそうな芸術家の横顔。
 二人は作業を続け、それはもうじき終わりそうだった。
 黙々と手を動かす芸術家と、ペンキの缶を持って懐中電灯を照らす藤本。あたりが寝静まった真夜中は、時間の流れが遅くなったようだった。風が吹くと、バルーンがわずかにゆっくり動いた。夜空に浮かぶ欠けた月は、音も無く、位置を変えていた。
 そして作業が終わった。
「終わりましたわ」
「はい。お疲れ様でした」
 芸術家から刷毛を受け取り、藤本はちょっと頭を下げた。
「本当に疲れました。もう、これでいいのかしら」
「ええ、ありがとうございました。あ、片付けをしますので、少し待っていてください」
 空になったペンキの缶の中に、刷毛などを仕舞う。そして、広げていた広告を慎重に畳んだ。広げるときよりもたいへんだったが、ともかくそれをやる。ペンキの乾き加減が心配だったが、速乾性のものを使っていたため、その点は大丈夫そうだった。
 藤本がそうしてばたばたしている間、芸術家はその様子をただ眺めていた。不思議そうな目をして。
「ねえ、うまく伝えられるかしら」
藤本は今、ちょうど広告を畳み終え、これでよし、と呟いたところだった。
「え、なにか言いましたか」
「ですから、伝えたいことが伝えたいように伝わるのかしら」
「さあ」
「さあって、あなた、伝わらないと意味がありませんわ」
「意味を探すのがお好きなんですね」
 片付けも済み、藤本はペンキの缶を持ち上げた。では帰りましょうと、芸術家を促す。
「わたしはさっき、これがくだらないことだと言いました。くだらないことに、意味なんてありません。わたしが面白がるためのものです。あなたには、ご迷惑をお掛けし、申し訳ありませんがね」
 ガチャンと、非常階段へ続く金網の扉を閉じた。
「いえ、私も、気晴らしにはなりましたけれど…」
「それは良かった」
 二人は、螺旋階段をおりてゆく。
「そういえば、近頃はどうですか、作品に関して」
 芸術家は肩をすくめて、ため息混じりに答える。
「…相変わらずですわ。何をどうしても、物足りない」
「そうですか、大変ですね」
 螺旋階段をおりながら、藤本は思いついて、自宅のマンションの方を向いて、大きく手を振ってみた。
「あの殺し屋の方が見てるのかしら」
 芸術家もマンションの方を向いて、そう言った。
「いえ、分かりません。たぶん見ていないでしょう」
「それなのに、そんなに手を振ったのですか」
「ええ、まあ、別にどちらでもいいのですよ。伝わろうが伝わるまいが」
 ふうん、と芸術家は応えて、考え込むような顔をしながら、階段を降りていった。
 マンションまで帰り着き、エレベータで上まで行き、そこで二人は別れた。深夜の通路はひっそりとして、そこに寂しい蛍光灯が灯っている。
「今日は本当に、ありがとうございました」
「…いえ」
「では、おやすみなさい」
「…おやすみなさい」
 扉の閉まる音が、二つ。

    ☆

 翌日。
 目を覚ました芸術家は、しばらくベッドの上でぼんやりとする。もう朝なの。眠いわ。いつものごとく眠りは浅く、すっきりとは程遠い。天井を見上げて、うつろな目をしていた芸術家は、今、何時なのかしら、と思う。朝ではなさそうね。光の角度がそんな感じだわ。その感覚は当たっており、時刻は正午を少しすぎたぐらいだった。眠るのが遅かったものだから、ずいぶん寝坊してしまったらしかった。もっとも、何の用事があるわけでもないのだから、寝坊と呼べるかどうか。
 そろそろ起きようかしらと思いながら、芸術家は寝返りを打った。視線の先に、真っ白なキャンバスがあった。まるで、誰かに何か描いてもらうのを待っているかのように。
ずっとあのままね。
芸術家は夢見るように思う。
 やがて目の覚めてきた芸術家は、上半身を起こした。頭がくらりとするのはいつものこと。小さくあくびをして、爽やかな天気らしい外に目をやった。水色の空。かすれた雲。高層マンションの列。アドバルーン。
 眠気は頭から去らず、ぼうっとして、なんとなく昨夜のことを思い出させた。
 はっとして、芸術家はベッドの上に立ち上がり、窓を開いた。途端に風が入ってきて、カーテンを大きくなびかせる。
 パチンコ屋のアドバルーンは、今日も変わらず浮かんでいた。その下にはもちろん、広告も吊り下げられている。ただし、広告のいくつかの文字には、赤い色が塗られている。それは藤本と芸術家がした、いたずらなのだ。文字はこう読めた。

 誕、生、イワイ。

 芸術家は声を上げて笑った。くだらなく、何の意味も無い、と言っていた藤本の声が思い出された。
本当にそうだわ、と芸術家は笑い続ける。その自分の笑い声を聞いて、懐かしい気持ちになる。私は、こんな風に笑うんだったのね。そして、胸の中でわだかまっていた、芸術や、表現や、意味などの考えが、何とでもなりそうに思えてきた。くるりと室内を振り返ると、真っ白いキャンバス。昨日まで、怖いとすら感じていたそれが、親しげに笑いかけてくるようだった。
あなたの筆で、あなたの好きなように、あなたの描きたいものを描けばいいのよ。
芸術家はベッドから飛び降り、キャンバスの前に座った。
私にまかせて。
パレットと筆を手に取った芸術家は、ためらうことなく、キャンバスに色をのせた。思うままに描かれていく絵は、まったくの駄作になるかもしれない。それでもいいわ。芸術家は笑う。
時間の経つのも忘れて、芸術家は筆を動かし続けた。カーテンを揺らす風が、部屋いっぱいに入ってきた。

 正午を過ぎても、男と藤本は眠っていた。いつもなら、二人とも起きていて、男は監視を、藤本は職探しを、それぞれしている時間だが、その日は昨夜の夜更かしのため、こんな時間まで眠り続けている。
 どちらともなく目を覚ましたのは、夕方の入口のような時間になってからだった。妙な時間に寝起きしたせいで、頭が鈍く重い。
「…コーヒーでも飲みますか」
 ベッドから起き上がる藤本の頭はぼさぼさ。服もよれよれになっている。
「…ああ、いただこう」
 そう言う男も、藤本と大差ない格好。
 室内にコーヒーの香りが立ち込め、それを黙ってすする。藤本はテレビを点けてみたが、まるで興味が無かったので、さっさとそれを消した。
「…腹が減りましたね」
「…ああ」
 コーヒーの作用はまだ追いつかず、二人の目は半分閉じている。藤本は大きなあくびをして、うっすら夕方の色が広がり始めている窓の外の空を見た。
「あ」
 そこに浮かんでいるアドバルーンを見つけた藤本は、短い声をもらした。男とも目が合う。しばらく固まっていた二人だが、そのあと、急いで窓辺に駆け寄った。双眼鏡を取り、競うように。
 アドバルーンに吊り下がっている広告は、藤本の予想以上の仕上がりだった。思わず声を上げて笑ってしまう。
「見事成功じゃないか」
 男も愉快そうだった。
「ええ、そのようですね」
「それにしても、なんというか、他愛ないというしかないな」
「まったくです」
「ばかばかしい」
「くだらない」
 そう言って、笑いあった。アドバルーンはゆらゆらと揺れている。
「あ、そうだ、マダムは気がついたでしょうか」
 藤本は双眼鏡をそこへ動かした。男もそうした。
「どうだろうな」
 マダムは、家事の合間なのか、くつろいでお茶を飲んでいた。掃除も洗濯も終わり、あとは、買い物や、洗濯物の取り込みといった仕事があるだけなのだろう。
「…気づいていなさそうですね」
 がっかりした口調で、藤本はつぶやいた。まさか自分に宛てたメッセージとは考えなくても、見て、面白がってくれれば、と思っていたのだが、マダムにはそんな様子もない。
「いや、がっかりするのはまだ早いぞ」
「なぜです」
「ほら、見てみろ。洗濯物があるだろう。今日は爽やかな天気だ。あれももう、乾いているだろう。つまり、そろそろ、取り込み始めるんじゃないか」
 はたして、男の予想通りになった。すなわち、マダムが腰を上げて、洗濯物を取り込み始めたのだ。
 今に気がつくかとわくわくしながら双眼鏡を覗く、男と藤本だが、マダムはせっせと、洗濯物を取り込んでいく。脇目も振らずといった感じ。そして、もう残るは、靴下などの小物を干すのに使う、円形に並んだ洗濯ばさみの集合体だけになった。
 それに手を伸ばしたマダムは、そこで、大きなあくびをした。まさか見られているとも思わない、大胆なあくびを。そして、ふと視線を遠くに向けた。アドバルーンのある方角だった。
 それからマダムは、軽いストレッチのような仕草をする。小太りの体を動かすその仕草は、ユーモラスでもあった。
「…どうです」
「さあな、君にはどう見えた」
「分かりませんが、ちょっと笑ったように見えました」
「俺にもそう見えた」
「ですが、たぶん違うでしょうね。あれは、単に夕日が眩しかっただけでしょう」
 男は少し黙ってから、
「いや、気がついて、笑ったのだよ。それでいいじゃないか」
 と満足そうにつぶやき、一緒に笑い合った。
 マダムはというと、円形に並ぶ洗濯ばさみから、靴下をリズミカルに取り外している。藤本はその様子を眺めているうち、あれは逆さにしたケーキのようだなと思う。そして、ほとんど無意識に口ずさんだ。
「ハッピーバースデー、トゥーユー」
 突然歌いだした藤本に男は一瞬驚いたが、すぐに理解し、歌に加わった。
「ハッピーバースデー、トゥーユー」
 うまくもなく、美しくもない歌声が、夕暮れ迫る室内に広がった。その間にもマダムの洗濯物取り込みは進み、もうそれは終わろうとしている。
「ハッピーバースデー、ディア、マダム」
 拍手と微笑み。
 その時だった。
 最後の靴下を外し終えたマダムが、手の平についた糸くずか何かを、ぱしぱしとはたいた。それでも取れなかったのか、マダムは息を吸い込んで、それを手の平に、ふうっとやった。まさに、ケーキの上の蝋燭を吹き消そうとするように。
 男と藤本は、思わず顔を見合った。そして、同時に吹き出して笑った。
 暮れていく空には、アドバルーンが揺れ続けている。

    ☆

 日常が、少し変わった。
 男は黙々と監視の仕事に励むようになった。監視者として、ようやく板についてきたといったところ。今までは、藤本も着ているあの柄の悪いシャツを着ていたが、それを着替え、以前の地味な服装に戻っている。仕事に集中する男は、口数も減ったようだった。
 ある朝。
 藤本が目を覚ますと、男はもう起きていて、窓辺で双眼鏡を構えていた。少し前なら、寝坊をやり、昼過ぎからようやく仕事に取り掛かるところだが、近頃はかくのごとくまじめなのだ。
「起きたか。おはよう」
「…おはようございます」
 眠気眼の藤本は、仕事をしている男をぼんやりと見る。熟練の航海士のような落ち着きで、双眼鏡を手にしている。
「今日はどうするんだ」
「…そうですね」
 カレンダーを確かめる藤本。どちらでもいいなと思った。
「一応、出かけることにしましょうか」
「ずいぶん、ゆっくりというか、何というか、余裕だな」
「焦って、それで仕事が見つかるようなら、とうに焦っていますよ」
「そういうものか」
 早い話が、諦めかけているということだった。
 藤本は簡単に身支度を整え、玄関を出ていく。エレベーターを作動させ、やってきたそれに乗り込もうとすると、そこで、芸術家の弟子である青年とはちあわせた。会うのは久しぶりだった。
「あ、おはようございます」
 弟子は、すぐに藤本に気がつき、そう挨拶をした。
「おはよう。先生のところに行くのかい」
「ええ、差し入れをしなければ」
 よく見れば、弟子の手には、食材の入った袋があった。
「今、先生は作品のこと以外、頭にありません。寝ても覚めても作品の世界にいるのです。話しかけるのが憚られるような集中です。ですから、僕がこうして食事を教えないと、いつまでも筆を離さないのです」
 まさに寝食を忘れた創作活動らしい。
「なんでまた、急に」
「さあ、僕にも分かりません。とにかく、長かったスランプから抜け出たのですから、僕はうれしいです」
 いかにも愉快そうに、弟子は笑った。
「君はどうするんだい」
 挫折からは立ち直ったのだろうか。すると弟子は、力強く頷いてみせた。
「ええ、きっぱりとやめました」
「…そうなのか」
 そういう選択も、勇気のいることだろう。
「これからは、芸術の道、一本でいきます」
「え、やめたのは大学の方なのか」
 藤本は驚いてしまった。たしか、弟子の通っていた大学は、将来安泰の一流大学ではなかったか。そこをやめたというのか。
 だが弟子は落ち着いたものだった。
「はい。思えば、どっちつかずの中途半端でしたものね」
「しかし…」
「いいのです。僕には少し、冒険が必要なのでしょう」
「そういうものかな」
 藤本はエレベーターに乗り込み、扉を閉めるようボタンを操作した。閉まる瞬間、
「いってらっしゃい」
 と弟子が挨拶をしてくれた。落下の感覚と共に、地上へと降りていきながら、あれだけ打ち込めるもの、一生を賭けるに値すると思えるものがあるというのは、うらやましいことだなと藤本は思う。

 紹介所の係員は、初対面の人だった。いつもの年配の人ではなく、いくらか若く見えるその人は、どこか事務的な態度だった。藤本へ向けた軽視と、自身への優越とが、見え透いている。そういう風に感じた。
「藤本さん、なかなか難航しているようですね」
 藤本の情報に目をやりながら、新しい係員は他人事に言う。
「ええ、まあ」
「仕方がない面もありますよ。今はどこも、人を雇う余裕を持てないのが現実ですし、それに…」
 係員はそこで、軽い咳払いをした。なにか藤本について、これといった特徴のないあなたですし、とでも言いかけたようだった。苦笑いをする藤本。
「…とにかく今は、雇用の機会というものが、希少とすら言えるのです。面接すら少ない。私たちも頭が痛いですよ」
 言葉の割りにあっさりした笑顔で、係員はリストをめくり、端末を操作する。藤本と係員を隔てる簡素なカウンターが、持つ者と持たざる者を区分けするラインのように思えた。堅牢で透明なガラスがあるようだ。
「ですが、ご安心ください。私たちは、ここを利用される皆さんの役に立てるよう、尽力しますから」
 藤本がぼんやりと頷いたところで、係員は電話に呼ばれ、ちょっと失礼、と言って席を外した。
 役に立てるよう尽力する、と係員は言った。
 わたしも、誰かの何かに役に立ちたいのだが。藤本は頭の中でそう呟き、背もたれに寄りかかって、周囲を見回した。
 人ごみと形容できるほど、あたりには人がたくさんいる。どの人も言葉少なにうつむいて、そのせいか、人数のわりに静かだった。図書館のような静謐な落ち着きではなく、それは消沈だった。カウンターでは相談と紹介が次々と取り交わされ、いくらか熱気がある。しかしその熱気は、おそらく何にもならない。藤本は、空回り、という単語を思い浮かべ、徒労、とすら思った。不毛、と思ったところで、係員が戻ってきた。
「失礼しました。まったく、人手不足で忙しくて…」
 ばたばたとした係員は、席に着くなり、そう不満をもらした。言葉ほど不満に思っていない、と顔に書いてある。
「それほど人手が足りないのなら、わたしを雇ってくれませんか」
「え」
 ちょっとした皮肉のつもりで藤本は言ったのだが、係員はきょとんとする。
「いえ、冗談ですよ。そんなことをしたら、カウンターのそっちはたちまち窮屈になる」
 結局その日も、何の収穫もないまま、そこを後にすることになった。予想していたこととはいえ、気持ちは晴れない。藤本はとぼとぼとマンションに帰った。

「おかえり。早かったな」
「…ええ」
「調子はどうだ」
「良ければ、こんな時間に帰っていませんよ」
 昼過ぎに帰宅した藤本は、何度も繰り返してきたそんな会話を、男とする。男は出掛けるときと同じ姿勢で、監視を続けている。尋常ならざる気の長さ。
「そう言えば、最近あの芸術家は来ないな。君は何か知っているか」
「ええ、今朝あの弟子の青年に聞いたばかりです。なんでも、スランプから抜け出せて、今は作品に集中しているとか」
「そうか、それは良かったな。一時は野菜炒めなど作っていたのに」
 男は双眼鏡を目にあてたまま、ふっと笑った。
 服を着替えた藤本は、お茶を飲み、テレビを眺める。こうして時間をつぶすしかないのだ。昼間からテレビを眺めることへの後ろめたさなど、とうに慣れてしまっている。
 ほとんど会話を交わさないまま、夕暮れの時刻となった。室内も薄暗くなってきた。
「あ、そろそろ交代しましょうか。お疲れでしょう」
 藤本に声をかけられ、男は壁の時計を確認した。
「もうこんな時間か」
 そして、目頭をぎゅっと押さえた。疲労を感じさせる仕草。
「わたしもテレビに飽きてきました。交代しましょう」
 男は少し考えてから、
「…そうか。悪いな。では、お願いしよう」
 と、双眼鏡を置いて、大きなあくびをした。二人は場所を入れ替わった。藤本は窓辺に。男はソファに。
 藤本が監視を始めてしばらくすると、ソファから静かな寝息が聞こえてきた。疲れた男は寝つきがよい。
 疲れるほど仕事をしているということか。藤本はそんなことを思いながら、双眼鏡をのぞいていた。羨ましさ七割に、焦りが三割といった感情。誰かの役に立つのは難しいなと、藤本はそっとため息をつく。

 数日後。
 電話が掛かってきた。すぐそこの部屋に住む芸術家から。用件を聞くと、作品が出来上がったから、ぜひ見てほしい、とのこと。なぜ電話なのです、という問いに、
「私、夢中で創作していましたら、知らないうちに、ひどく体が弱ってましたの」
 そう答える声も、困憊そのもの。通路を歩くのも面倒なのだろう。食事もろくにとっておらず、ひどく空腹らしい。うどんのようなものが食べたいですわ、とどうでもいいことを言っていた。藤本は、これから伺いますと返事をし、受話器を置いた。
 監視中の男は、一応は目を離せないと真面目なことを言ったが、藤本同様、芸術家の作品に興味を惹かれたのか、結局藤本についてきた。
 呼び鈴を鳴らしても、芸術家の応答はなかった。故障かと思い、数度鳴らしてみる。室内からその音が聞こえるため、故障ではなさそうだった。男と藤本は顔を見合わせ、
「いないのか」
「いえ、電話はついさっきですよ。いるはずですが」
 と言葉を交わす。
「ひょっとして」
「なんです」
「君に電話をしたあと、力尽き…」
「そんな馬鹿な」
「電話では、最後になんと言っていた」
「えっと、たしか、うどんのようなものが食べたいですわ…」
「それが最期の言葉かもしれない」
 男の言葉はまことしやかで、藤本は少し不安になってきた。その不安を消すため、藤本は玄関の扉に手をかけた。鍵は掛かっておらず、扉は開く。中に入ると、心なしか、ひっそりとしているように感じた。お邪魔します、の挨拶もそこそこに、二人は上がりこんでいった。
 満足のいく作品を描き終え、その途端に倒れこむ芸術家。そして、そのそばに残された一枚の素晴らしい絵画。そんな情景をイメージした。ドラマチックだが、面倒そうだ。二人は早足になった。
「あら、ずいぶんお早いですわね」
 だいぶ元気はないが、もちろん生きている芸術家が、一人がけのソファに座って、二人をむかえた。
「そんなに期待されても困るのですけれど」
 芸術家はそう言って、はにかみを浮かべる。どうやら、急いでやってきた藤本と男の様子を、都合よく勘違いしているようだった。
「いえ、別に…」
 そうではないと言おうとした藤本だが、否定する必要もないなと思い、
「それより、ずいぶんお疲れのようですね」
 と芸術家をねぎらって見せた。
「ええ、時間の経つのも忘れて、筆を動かしていましたから。でも、これほど陶酔するのは久しぶりでしたわ。いいものですわね」
 創作活動の陶酔というものが、藤本にはいまいち分からなかったが、そういうものですか、と分かった風な顔で頷いた。
「それで、その作品は」
 ドライな口調で訊ねる男は、それを見て、さっさと監視に戻りたいといった感じ。
「あれですわ」
 芸術家が指差す先の部屋のすみには、布をかけられた、やや大きめのキャンパスがあった。
「布を取っていいですか」
「…どうぞ」
 いくらか緊張した様子の芸術家。藤本はキャンパスに歩み寄り、そっと布を取り払った。
 それは、抽象画と呼ばれる類のものだった。計算された緻密な線が構成されたかと思うと、自然現象の無作為さを表したような大胆な線もあった。色使いは全体的に落ち着いたもので、それは絵に表情を与えていた。迫力というよりも、きらりとしたひらめきを感じさせた。あっと何かを思いついたときの、新鮮な驚きのよう印象を、その絵から受けた。何の絵かと問われても、答えようがないが、見ていて飽きず、形容しがたい感動を覚えるのは確かだった。
「…どうかしら」
 感想を求められても、すぐには言葉が出てこない。だいぶ間を空けてからようやく口にした感想は、
「素晴らしいと思います」
 という、平凡極まるもの。気の利かない感想だったが、芸術家は、素直に受け取っていた。
「うれしいですわ。ありがとうございます」
「そう言えば、この絵のタイトルは何というのです」
「まだ決めていません。これから考えますわ」
 満足そうに、芸術家はのんびりと言った。スランプから抜け出して、会心といっていい作品を生み出したのだ。それに伴う疲労は、きっと心地いいものだろうなと、藤本は想像した。
「先生、先生」
 玄関の方から声が聞こえてきて、足音とともにやってきたのは、弟子の青年。手には、食材が入っていると思われるビニール袋がある。
「あ、みなさんもご一緒でしたか」
「ああ、絵が完成したと聞いたから」
 藤本がそう言うと、弟子は、
「どうです、素晴らしいというほかないでしょう」
 と、先ほどの藤本の感想を見透かしたようなことを言った。あらためて、自身の平凡な感想に苦笑いを浮かべる藤本。それから弟子は、この絵のこういった点が優れていて、それがいかに斬新であるかといったことを、少し興奮した口調で語った。
 ソファで眠そうにしていた芸術家が、それをたしなめた。
「そういったことは、言わないほうがいいわ」
「しかし、先生」
「いいのよ。私はもう、この絵を描きあげて、それだけでもう満足なの」
 師匠にそう言われれば、弟子は従うしかない。
「…そうですか。でも、素晴らしいものは素晴らしいです」
「ありがとう。それより、私、おなかが減っているんだけど」
「それはちょうど良かった。今から適当に用意しますよ、ちょっと待っていてください」
 弟子は嬉々として腕まくりをし、台所で調理を始めた。
 用事のすんだ藤本と男は、いとまの挨拶を芸術家にする。
「それじゃあ、わたしたちは帰ります」
「そうですか。わざわざお越しいただいて、ありがとうございました。それに…」
 スランプを抜け出すきっかけをいただいて、と言おうとした芸術家だが、これはうまく説明ができそうになかったので、
「いいえ、なんでもありませんわ。とにかく、ありがとうございました」
 と微笑んで礼を言った。
 お邪魔しました、と言って帰ろうとしていると、男が台所で、弟子の青年に声をかけた。
「手際がいいな。何を作っているんだ」
 作業の手を止めずに、弟子は答えた。
「うどんですよ」
 
 部屋に戻った二人。男はすぐに監視を再開する。近頃ではもう、あまり藤本の退屈につきあってくれない。機械的とも言えるほど、監視をしている間それに集中するらしい。仕事に集中できるなど、藤本には羨ましいことだった。
 藤本はソファに寝そべりながら、芸術家と弟子のことも考えた。納得のゆく作品をつくることができた芸術家。そして、進むべき道を見つけたあの弟子の青年。きっと今頃、うどんを食べているだろう。
 それぞれが、それぞれの成すべきことを成した。あるいは、成そうとしているのだ。わたしは一体、何をしているのだろう。何を成すべきなのか、それさえも不透明だった。
 藤本は電源をつけていないテレビの画面を見た。そこには、見慣れた自分の顔が映っている。どうしたってつまらなく、これといった特徴のない顔。毒にも薬にもならないとは、わたしのような人間を指して言うんじゃないだろうか。
 何の役にも立てないな、と思ってため息をつこうとすると、それがそのままあくびになった。

    ☆

 のんべんだらりとした毎日。まるで、ひとごみの中で自分だけが立ち止まっているような、置いてきぼりの気持ち。藤本はそれをどうにかしようと、紹介所の係員のアドバイスに従うことにしてみた。つまり、アルバイトでもなんでも、とにかく何かの役に立とうと考えた。
 紹介され、面接を受けるためやってきたのは、町外れの小さな工場。油のにおいがして、がちゃんがちゃんとやかましい音が始終なっている。作業員は文字通り真っ黒になって働き、危険を伴う作業に従事していた。
 楽な仕事を、と贅沢は言ってはいられない。一日を甲斐のあるものにするためなのだ。
 機械の音に負けながら、藤本は大きな声で、来意を告げた。そして面接を受ける。すぐに終わった。簡単にして、的確だったのだ。藤本の面接をした年配の男性は、柔和な顔つきで、
「はい、よくわかりました。結果は後日ということで」
 と伝え、丁寧な手つきで履歴書を机にしまった。何気なく目にしたそこには、履歴書と思われるものが数枚あった。あの数枚の中から、採用が選ばれるのだろう。
「でも藤本さん、ここの仕事はアルバイトですが、良いのですか」
 少し申し訳なさそうな顔をして、男性は訊ねた。
「ええ、もちろんです。とにかく何かの役に立ちたいのです」
「お考えは立派です。しかし、そう焦ることもないでしょう」
 それはあなたの毎日が充実しているからでしょう、と藤本は言いかけたが、あまり意味のないことだとも思い、
「…よろしくお願いします」
 と頭をさげ、機械の音のする中、その場を後にした。
 結果の電話が掛かってきたのは、それから数日後だった。昼下がりの時間で、藤本は家にいた。監視をしている男と、取るに足らない会話をぽつぽつしているときだった。
 受話器を耳にあてると、すぐに相手が分かり、そしてその用件も分かった。受話器の向こうから機械の音が聞こえてきたのだ。
「藤本さんのお宅ですか」
「はい、そうですが」
 相手は丁寧な口調で名乗り、用件を伝えにかかった。できるだけ早く話を終え、受話器を置きたいといった感じが声に現れていた。
「たいへん申し上げにくいのですが…」
 そして藤本にそれが伝えられた。藤本は努めて冷静に話を聞き、相槌をうち、いえいえこちらこそ、と物分りのよさそうな返事をしてみせた。
「では、これで失礼します」
 相手はさっさと話を切り上げ、通話を終えた。そっと受話器を戻す藤本。
 どこかで、妥協さえすればそれでうまくいく、と思っていた。しかし、それはあまりに根拠のない思い込みだったらしい。藤本は、先日面接を受けているときに垣間見た数通の履歴書の中から、自分のそれがゴミ箱に捨てられる場面を想像した。誰かは選ばれ、わたしは選ばれなかった。簡単なことだが、感情はそれを受け入れにくい。
 またしても必要とされなかった。わたしにできることは何もないのだろうか。
 藤本はしばらく電話をみつめて、そんなことをぼんやりと考える。
「電話は君にか。俺へじゃなかったか」
 男の声に、藤本は我に返り、無理に笑顔を作る。
「ええ、わたしにです。先日の面接の件でした」
「…そうか」
 もう大体を察しているような男の声。
「またもや、だめでした。仕方がありませんね。何といっても、未曾有の不況ですからね」
「そうか」
「伝えてくれた相手の方が辛そうで、なんだか申し訳なかったですよ」
 男は監視中で、どうせ見えないのだが、藤本はへらへらと笑ってそんなことを言った。そして、できる限りなんでもない風に、ソファに寝そべった。テレビの画面に映る自分の顔から逃げるように、その電源を入れ、明るい画面を呼び出した。にぎやかな番組が流れ始めるが、その内容は頭に入ってこない。
 そして、いつの間にか眠ってしまった。
 目を覚ますと、オレンジ色の光があたりに広がっていた。眩しいと感じる。それから、ああ、眠ってしまったのかと思い、目をしばたいた。ソファから身を起こし、時計を確認する。夕方の時間。どうやら、二時間ほどは寝ていたらしい。外の景色は、夕暮れになり、それは室内にも及んでいる。
 男は相変わらず、監視を続けていた。まだ頭の冴えない藤本は、西日を見ながらしばらくぼんやりとする。どことなく疲労に似た雰囲気が、部屋中に漂っているような気がした。
「交代しましょうか」
 男へかけた声は、かすれてひび割れていた。
「…いや」
「でも、お疲れでしょう」
「それは、まあ、そうだが」
 ずっと同じ姿勢でいるのだ。肩こりや腰痛、熱っぽさなど、疲れの影響が体の節々に現れているだろう。男はそれらを振り払うように、体を大きく上へのばし、ついでに大きなあくびをする。
「やはりお疲れのようですね」
「まあな」
「代わりましょう。遠慮なさらずに」
 男は少し考えたようだったが、結局、
「じゃあ、お願いするとしよう」
 と、藤本へ双眼鏡を手渡した。手の空いた男は、立ったまま、軽い体操をする。動きはしなやかさとは程遠く、疲労と加齢と運動不足とを感じさせた。
「パチンコに行くのですか」
 男の行動を先回りするように、藤本は何気なく訊ねた。暇な時間に、男は大抵パチンコに行くのだ。
「いや、今日は止めておこう」
「そうですか。あ、お金でしたら、わたしに少し手持ちがありますが」
「いいよ、そういう問題ではないのだ」
「でも、時間を持て余すのではありませんか」
 男はまた大きなあくびをして見せて、ソファにどさりと横なった。
「俺はちょっと寝ることにする。疲れているんだ」
「そうですね。それがいいですね」
 どこか安心したように藤本は言い、監視は任せてくれと頼もしいことまで言った。
「…ああ、頼む」
 それきり男は静かになり、どうやらあっという間に眠ったらしかった。
 空は夕焼けになり、日が沈もうとしていた。その下には、家路を急ぐ人々や、活気を帯び始めた街並みがあった。一日の終わりによく馴染む、暖かな夕暮れ。
 ふいに藤本は、マダムの家の様子が気になった。しかし、双眼鏡をそこへ向けることはしない。遠慮のような気持ちがするのだ。これといって何も無い一日。マダムにとってはそのはずだし、昨日や明日と変わらない夕方の時間を過ごしているはずなのだ。もうすぐ夫が帰ってきて、夕飯を一緒に食べる。娘の帰りはまだ遅いのだろうか。
 …わたしは何をやっているのだろう。何度と無く考えてきた問いを、藤本は思った。そしてそれに伴い、わたしに何ができるのだろう、との考えが頭に浮かんだ。
 マダムのように、平凡ながらも確かな家庭を営みもせず、今そこで眠る男のように、熱心に打ち込む仕事もない。芸術家の情熱もなく、弟子の青年のような大志もない。ゴミ箱のなかの履歴書。不毛な職探しの日々…。
 問いばかりが思い浮かんで、答えは見つからず、藤本はため息をつきたい気持ちだった。しかしそれをすると、憂鬱が形になってしまいそうで、ようやくでそれを飲み込んだ。
 藤本はいったん双眼鏡から目を離し、振り返るようにして、壁掛けの時計を確かめた。そして、そろそろだなと思い、少しの緊張を覚えた。
 監視を再開する。
 双眼鏡の先の廃病院は夕日をうけて、オレンジ色に染まっていた。
 しばらくすると、そこに、人影が現れた。写真を確認するまでもなく、やってきたのは例の男。今藤本が着ているシャツと同じ柄のシャツを身に着けている。間違いなく、標的の男だった。
 やはりな、と藤本は確信した。

 まったくの偶然だが、藤本は標的の男の現れるサイクルを把握できるようになっていた。毎週、決まった曜日の夕方に、男は正確に現れるのだ。今日、この時間が、まさにその時だったというわけ。
 藤本は、何気なく男に交代を申し出て、そして標的を見過ごすということを、もう何度か繰り返していた。なぜか。男に引き金を引かせたくなかったのだ。
 拳銃をさえ、緊張なしで扱えない善良な男。そんな男だが、仕事への熱心に身を任せれば、おそらく引き金を引くだろうという気がした。すなわち、弾丸が発射され、命中し、役目を果たす。そのとき、男が平然でいられるかどうか。いられないのではないだろうか。取り返しのつかないことをした。男は自責の念に苦しみ、あるいは自首をするかもしれない。あるいは、それを恐れた組織に、巧妙に消されるかもしれない。いずれにしても、男にとっては良からぬ結果。できることなら、このまま、標的が現れなかったことにしておいた方がいい。藤本はそう考えたのだった。

 そっと双眼鏡を床に置いた藤本は、そばにある狙撃銃を手にした。音の立たないように注意しながら、それを構えた。照準器を目に当てる。標的の男に狙いが定まる。
 引き金に当てた人差し指を、あとちょっと動かせばいい。そのための銃なのだし、それが役割なのだ。今わたしにできることは、後ろで眠っている善良な殺し屋に代わって、仕事をすることだ。藤本は自分にそう言い聞かせ、全身を緊張させた。
 見つからない仕事。任されない役割。それらは喉の渇きのように、藤本の心を焦らせ、冷静さを奪っていった。
 わたしにだって、これぐらいのことはやれるさ。
 良心や常識といったものを押しとどめて、藤本は深呼吸をした。撃つ。それだけに集中する。撃つ。
 カラスの羽ばたきと鳴き声に背中を押されるようにして、藤本は引き金を引いた。思わず目を強く瞑ってしまう。突き刺さる弾丸、流れる血、そしてその結果の死…。
 恐る恐る、ゆっくりと目を開いた。
 妙な音が聞こえていた。何か小型のモーター音のような、風が吹き出しているような、まるでドライヤーのような…。
「やはりな」
 声に驚いて藤本が振り向くと、寝ていたはずの男が上半身を起こしていて、微笑んでいた。

「ど、どういうことですか、これは」
 慌てふためく藤本。まだドライヤーの音がしている。
「その前に、それのスイッチを切ってくれないか。やかましくて話もできない」
 男に言われるままに、藤本はドライヤーを黙らせた。
「たいしたことじゃない。君が標的の現れるサイクルに気がついたように、俺も、君が交代を申し出るサイクルに気を留めたというだけのことなんだ」
 男は、少し笑いながらそう言った。
「最近の君は、ひどく悩んでいるようだった。なんというかな、自棄になってしまいそうな、そんな危うさがあったんだ。自棄になった男に、銃だ。俺は君が引き金を引いてしまうような気がした」
「それで、こんなことを」
「ああ、ちょっとした、いたずらのようなものだ」
 藤本は呆然としてしまい、窓辺に佇んでいたが、やがてベッドのふちに腰を下ろした。夕暮れの室内に、沈黙が広がった。
「君は、なぜ引き金を引いた」
「お分かりじゃないんですか」
 力の抜けた、藤本の声。
「やはり、自棄になってか」
「それもあります。しかし、それ以上に、わたしも誰かの役に立ちたいと思ったのです」
「だが、その結果までは考えなかったのか」
「それよりも、焦っていたのです。それに、あなたには引き金は引けそうにないと思った。だから、わたしが代わりに、と」
「…そうか」
 再び沈黙。いつの間にか太陽はほとんど沈み、夕方というよりも、夜の気配が近づいていた。室内は、薄暗くなる。
「結局、わたしは誰の役に立つこともできませんでしたね」
 男は返事をしなかった。そのかわりに、
「電話を借りるぞ」
 と言って、ソファから立ち上がった。藤本は声を出さずに、小さく頷くだけだった。男が電話をかけようとしている間にまぎれさせて、藤本はそっとため息をつく。
「もしもし、私ですが」
 男の電話の声。
「ああ、なんだ、お前か。何か用か」
用が無ければかけてくるなと言いたそうな相手の声が、藤本にも漏れ聞こえていた。
「はい、大事な話があるのですが」
「なんだ、言ってみろ」
 標的を見つけたのだ。その報告の必要があるのだろうなと、藤本は力なく思う。しかし、男はなかなか話をしなかった。
「おい、どうした、何かあるなら、早く言わないか。お前は暇かもしれないが、こっちはそうじゃないんだぞ」
 電話の向こうの相手は、いらいらし始めたようだった。
「あの、実は…」
「なんだ」
「私をくびにしてくれませんか」
 藤本はそれを聞き、思わず立ち上がった。なんですって、という言葉が喉まで出かかる。
「おい、お前はなにを言っているのか、自分で分かっているのか」
 そのとおりだと、藤本は顔も知らない電話の声の主に賛同した。
「もちろんです」
「いいや、分かっていない。いいか、お前のようなうすのろが、これから何ができるというのだ。組織としては、お前ぐらい、いてもいなくてもどちらでも構わぬが、お前にとってこの仕事は、どうでもいいようなものではないだろう」
 まったくだ、と藤本はほとんど頷かんばかりに思う。
「拾ってやった恩を、などと言うつもりもないが、お前は、この仕事にしがみつくべきではないか」
 男は無言だった。相手も少し黙った。
「…お前に何ができるというのだ」
 再びの問い。
「私には…」
「なんだ」
「私には、何もできません」
 男は、まるで重苦しさを感じさせない、どちらかというと明るい声でそう言った。受話器を持っていない方の手で、後ろ頭などを掻いている。重圧や焦りといった気持ちを片付けてしまったような仕草。
「それで、どうするつもりだ」
「なにをです」
「これからの生活をだ」
 ここで男は、はっきりと笑い声を上げた。可笑しくてたまらないといった風に、肩を震わせている。
「おい、どうした、なにが可笑しい」
 受話器の向こうの声は、不愉快なのを隠そうともしない。
「いえ、まさか非合法の組織から、生活の心配をされるとはね。しかし、ご心配には及びません」
「心配などしていない」
「そうですか。まあ、いずれにしても、私の人生です。私の生活です。私がなんとかしないといけないのでしょう」
「あてでもありそうな口ぶりだな」
「いいえ、そんなものはありませんよ」
「後悔するぞ」
「でしょうね」
 電話の相手は、何か言うべき言葉を探しているようだった。しばらく、沈黙が続いた。
「…分かった。お前になど、最初から期待していなかったのだ。どこへでも行ってしまえ」
「ありがとうございます」
「与えた機材は、近日中に回収に行く。お前はそもそも、わが組織のことなど、大して知らないだろう。私の名前も顔も知らないはずだ。すれ違っても分からない。つまり、機材さえ回収すれば、組織とお前とのつながりは一切なくなるというわけだ」
「はい」
「では、規則にそって、最後に確認をする。お前は組織から外れる。それでいいのか」
「はい、そのとおりです」
「承知した。せいぜい後悔するといい」
 相手は電話を切ろうとしていそうだったが、それを男が、ちょっと、と呼び止めた。
「あなたには、これまでの後悔はないのですか」
 返事が聞こえてくるまでには、少しの間があった。
「…ない」
「後悔のない人生。それは素晴らしいものでしょうね」
「…無論だ」
 ちっとも楽しくなさそうな声で返事があり、そして電話は切られた。男は受話器を置いて振り返り、ちょっと肩をすくめて見せて、うっすら笑った。
「いいのですか」
「ああ」
 さっぱりとした顔をしていた。外の景色には、もうあまり夕日の光が残っておらず、室内は薄暗くなっていた。男はソファに腰を下ろした。ため息のかわりといった感じに、ぽつりと言う。
「…俺は引き金を引いていたかもしれない」
「どうですかね」
「これが与えられた仕事だとドライに考えれば、きっと俺は引き金を引いていた」
「そうですか」
「殺人者になるところだった」
 男の表情は影になってしまい、藤本にはよく見えなかった。
「ありがとう。俺は君に助けられたのかもしれないな」
 と言われても、なんと言葉を返したものか。藤本は曖昧な表情をして、ああ、と意味の無い、音声だけの返事をした。
 暗いなと感じ、藤本は部屋の明かりをつけた。時計を確認すると、いつの間にか結構たっている。
「腹が減りませんか」
「…無論だ」
 男がさっきのやり取りの口真似をやり、二人は笑った。

    ☆

 次の日の朝。
 藤本が目を覚ますと、男はもう起き出していて、なにやらゴソゴソとやっていた。目をこすりながら、藤本は声をかける。
「おはようございます。何をしているんですか」
「あ、起こしてしまったか、すまない」
 男はトランクを広げていた。よく見ると、窓辺の狙撃銃も片付けられている。
「ご覧のとおりだ。ここから出て行くよ」
「ずいぶん急ですね」
 ベッドから身を起こし時計を確認すると、午前の十時ちょっと。外は快晴で、たくさんのビルの上には、水色の空が見えた。男はトランクの中に様々な日用品を仕舞っていく。
「俺はもう、ここにいる理由がない。それに、君と同じなのだよ」
「何がです」
「早いところ、仕事を見つけないといけない立場だということだ」
「そうですか。…そうですね」
 ぼんやりと答えた藤本は、服を着替えて少し遅めの朝食をとることにした。男の分と二人前を作り、それを食べる。いつもと変わらぬ、最後の食事を。
 そして十一時ごろ。
「じゃあ、そろそろ行くよ」
 出て行こうとする男の両手には、トランクがある。
「重いでしょう、一つ持ちますよ」
「そうか、悪いな」
 男はすぐそこのバス停から、家に帰るのだと言う。どうやら来るときもバスを利用してきたらしい。今さらながら、殺し屋には程遠いなと、藤本は内心でからかいの声を上げた。
 一つずつトランクを持って、二人はマンションを出て行く。平日の午前中だからか、街並は静かで、穏やかだった。バス停のベンチに座ってしばらくすると、バスがやってきた。
「じゃあ、これで」
 男はそう言いかけたが、
「あ、わたしもついでに、このまま職探しに行きましょう」
 と、藤本も一緒にバスに乗り込んだ。バスは空席が多く、のんびりとしていた。客の乗降を終えたバスは、めんどくさそうに動き出す。
 次のバス停はすぐだった。降りる客は誰もおらず、数人が乗ってきた。なんとなくそれを見ていた男と藤本は、思わず、あっと短い声を上げた。顔を見合わせる。今の乗客の中に、あのマダムがいたのだ。
 二人が驚いていると、なんとマダムは、男、藤本と並んで座る座席の、その横に腰を下ろした。三人が並んだ形。
 もちろんマダムは、二人の心中など知りようもない。一方的に、双眼鏡のレンズを通して、二人が知っているだけなのだ。しかし、そのマダムが今、すぐ隣に座っている。二人は少しだけ緊張した。バスは再び動き出す。
 藤本は、なにか罪悪感に似たものを覚えて、そわそわとした。マダムのことが気に掛かるが、かといって、あまりじろじろと見るわけにもいかない。視線が泳いでしまいそうな藤本は、仕方が無く、興味のない車内の広告に目を落ち着かせることにした。週刊誌の広告が、車内上部にあったのだ。
 しかし、それにしても、どこかおかしな雰囲気だった。さっきまでと違い、空気のざわつきのようなものを感じた。そんな気がした。気のせいかもしれない、と片付けられない感じ。まるで、自分が周囲の興味の対象にでもなっているかのようだ。他の乗客の方に目を向けると、さっとすばやく目を逸らされたようだ。
 へんだな、と藤本は思いながら、何気なさを装って、マダムの方を見てみた。目が合った。
 その瞬間、マダムは楽しそうに、吹き出して笑いはじめた。
「な、なんです」
 藤本は呆然としてしまう。するとマダムは口に手をあてながら、
「こんなことって、あるのねえ。すごい偶然だわ」
 と笑い声を我慢した声で言った。
「なんのことです」
 マダムは自分の胸の辺りを指差し、そして、男、藤本の順に、同じ箇所を指差した。
「同じ柄のシャツなんですもの」
 まったくその通りだったのだ。乗客の視線を集めていたのも納得だ。藤本はようやくで驚き、何か弁明のようなものを言おうとしたが、それもどうでもよくなってしまい、結局、
「本当ですね」
 と力なく笑っただけだった。
 いくつかのバス停を過ぎた。新しく乗ってくる客は、三人の服装を見て、一様に訝しげな顔をした。不思議と不快ではなく、藤本は愉快だった。
 だいぶ街中に近づいたあるバス停で、マダムが腰を上げた。ここで降りるらしい。藤本と男の前を通っていきながら、軽く会釈をするマダム。そこで、チリンと鈴の音がした。
「あ、何か落としましたよ」
 藤本はマダムが落としたものを拾う。家か何かの鍵だろう。
「あら、ありがとうございます」
 マダムは丁寧に礼をいい、鍵を受けとる。藤本は何気なく言う。
「素敵な時計をされてますね」
 あまり高級ではないが、しゃれたデザインの時計が、マダムの手首に見えたのだ。マダムは嬉しそうに、顔の横でその時計を見せ、
「娘からの贈り物ですの」
 微笑。そしてバスから降りていった。
 男が肘でつついてくる。その顔は、子供のようにはしゃいでいる。

「ここで降りるよ」
「そうですか。ではトランクを」
 男は重そうにそれを手にして、少しよろよろしながら立ち上がった。
「重いな」
「そうでしょうね」
 あまり意味のない会話。バスが停車する。
「じゃあ」
「ええ」
「また、じゃないな。もう会うこともないだろう」
「そうですね」
 あまりバスを止めてもおけない。
「お元気で」
「ああ、君もな」
 そして男はバスから降りていった。扉を閉めたバスは、ゆっくり動きはじめる。
 何かが終わったというよりは、何かが始まったといった感じの、新鮮な気持ちがした。車窓に見える街並みは、いつもの景色だったが、それが少しだけ目新しく見えた。
 しばらくそうして、車窓を眺めてい藤本だったが、再び、見るともなく車内の広告に目をやった。ぼんやりと字を拾っていく。
 どこかで聞いた名前があった。ある雑誌の表紙の絵。その作者のところだった。絵、山口一子。
 藤本は席を立ち、爪先立ちになってその広告をよく見た。間違いなく、見たことのある絵だった。バスはそこで、信号待ちになり、藤本はバランスを崩し、ふらつきながら手すりにつかまった。
 男に伝えたいと思い、今バスが走ってきた道の方を見たが、もう男の姿は人ごみの中に消えていた。
 絵のタイトルはこうだった。
「平凡な人生」

    ☆

 それから数日後。藤本は家で電話を受けていた。
「はい…はい…いえいえそんな…はい、失礼します」
 電話はある小さな会社からで、用件は採用に関するもの。結果は良くなかった。つまり、またもや駄目だったというわけ。
 藤本はそっと受話器を置き、ため息を一つ。どうしたって慣れることのできない失望感。
 むなしさを感じた藤本は、自棄になった気持ちで、そのまま床にごろりと寝転んだ。不貞腐れた態度。もう愚痴をこぼす相手はおらず、それは少し物足りなくも思えた。つまらない気持ちで寝返りをうつ。
 その時、床に何か、紙切れの落ちているのに気がついた。テーブルの下だった。どうせゴミだろうと、寝転がった姿勢のまま、手を伸ばし、藤本はそれを取る。紙切れにはこう書かれてあった。
 大したことじゃない。くよくよするなよ。
 驚いた藤本はテーブルにしたたか頭を打ちつけたが、その後には笑い声が続いた。



 ――完

魔弾の射手とマダムのシャツ

さて、何をおいてもまずは、最後までお読みいただいたあなたへ、お礼を申さねばなりません。
ありがとうございました。
それなりに長くて、お疲れになったでしょう。


「いや、そんなに疲れなかったよ」そういった具合でしたら、わたしの気持ちも少し助かります。
「長くって、もうヘトヘトだぜ」すみません。今日は早くお休みになってください。


お読みになる方が、そう多くはないと思いますが、ここをご覧になる方はきっと、
小説というものに親しまれてる方でしょうから、もしかすると、
「おや? この文体は?」と、ある種の閃きを覚える方がいらっしゃらないとも限りません。

はじめの一行を書いて二行を書いて、三行四行と進むうち、
「ああそうだ、あの人の小説みたいな透明な文体を心がけよう」と、
わたしはそのことを留意して、その先も筆を進めました。

ですから、もしあなたが、「あの人の文体に似ている」とお感じになったとしたら、
それは慧眼、きっと正解です。

文体を誰かに似せよう。どだいそれは、あまりみっともない話です。
そしてそのことを、誰かに指摘される前に、こうして自白しておくというのも、
なにか逃げ道を用意しておくようで、みっともなさに輪をかける行為ですが、
不特定の方がご覧になる(可能性のある)場ですから、こうして一言、申しそえておく次第です。


真面目な小説もたいへん良いものですが、
気楽に物語の筋を追える、言ってみれば「感情の疲れない小説」が、わたしは好きです。
なんだか言い訳みたいですけど。

ともかく、それを目指して出来上がったお話でした。

ご覧になった方、ありがとうございました。
先にあとがきを読んでいる、あまのじゃくなあなた。どうしてもお暇のときにでも、お付き合いください。

では、また。

魔弾の射手とマダムのシャツ

平凡でつまらない人生だな。そうぼんやりとうなだれる主人公のもとに、ある日、一人の男が訪ねてくる。 男の手には銀色の大きなトランク。慎重な様子で話をはじめる。 「お願いがあるんだが…」 高層マンションの一室を舞台にした、シニカルでコミカルでお手軽な寓話。

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • サスペンス
  • コメディ
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2011-04-11

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著作権法内での利用のみを許可します。

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