守り神の宝(猫乃世星)

守り神の宝(猫乃世星)

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第一章 白い猫

 ――それは君にあげよう。
 男は子どもにそう言った。
 ――ただし、代わりに私の頼みをきいておくれ――。

 到着しましたよ、という呼びかけとともに肩を軽く叩かれて、アキははっと目を開けた。
 咄嗟に自分がどこにいるのかどういう状況にあるのかがわからず、どきりとした心臓を宥めるように、胸元に手をやって辺りを見回す。見慣れない景色を窓越しに見て、自分が馬車の中にいると気づいた。ほぼ同時に、アキは自分の今置かれている状況をようやく思い出していた。
 馬車はいつの間にか止まっている。窓からは立派な屋敷が見えていた。それを横目で見て、ほっとすると同時に少し気持ちが重くなった。
「寝ぼけていらっしゃるんですか?」
 共に馬車に揺られていた女中の真理子が、いつの間に馬車から降りていたのだろう、外から優しい微笑を覗かせて尋ねた。まだ会ったばかりだが、アキにとってこの女中はとても気安く思われる。彼女といるとどこか落ち着いた。
 親しみのこもった言葉と笑顔にアキも微笑を返し、ふるふると首を横に振る。その際身体が揺れたためであろうか。アキの膝の上で丸くなっていたカノが、ふわふわの身体をむくりと起こし、四肢を突っ張って伸びをしながら大きな欠伸をした。それを見て、二人の娘は一瞬顔を見合わせた後、くすくすと笑い合う。
「寝ぼけているのは、カノよ」
 笑みの滲んだ明るい声でアキが言うと、膝の上の白猫がむっとしたように三角耳を動かした。そんなことはないと言わんばかりに不満気な声で一つ鳴きかけたところに、そうかもしれませんね、と言う真理子の追い打ち。それに心がくじけたのか、カノの声は一気に萎れてしまい、二つの三角耳がぱたりと前に伏せられた。

 話は本人のあずかり知らぬところで着々と進められ、いつの間にか決まっていた。我が事をアキが知ったのは、話し合いや手続きが全て終わった後――翌々日出立という間際になって、母親から明かされたのだった。嫌だと拒否することは許されなかった。既に全ては覆すことのできない決定事項となっていた。
 母の口から自分のこれからについて語られるのを聞いている時、アキは頭に靄でもかかっているかのように感じていた。目の前にいる母の声がとても遠いところから流れてくるようで、どうにも現実のこととして受け止め難いと感じた。しかし母の説明が終わるや否や、アキの口はまるで他人事のような気軽さで勝手に了解の意を伝えていた。その上、母が部屋を立ち去ってから間を置かずに、アキの手は自然と荷造りの準備を始めていた。
 行李を開いて衣類を畳んでいると、母と入れ違いに二つ違いの姉がやって来た。ぎこちない笑みを妹に向けて荷造りを手伝ってくれようとしたが、彼女はすぐに手を止めて、後は俯き加減に透明な雫をぼろぼろと零しているだけだった。

 その日は先方が馬車で迎えを寄越した。迎えの者は御者を除けば、アキとさほど歳の変わらぬ女中ただ一人。話を持ちかけた当人の姿はなかった。家長であるアキの父親が尋ねる前に、女中は急な用事のため主人がこの場に来ることができなかったことを謝罪し、自分のような年若い女中一人を迎えに寄越したのは、まだ幼いアキへの主人なりの配慮によるものであることを、礼儀正しく匂わせた。
 当然彼女は口にしなかったが、これ程までに迎えが質素なのは、堂々と世間に公表できるものでもないから、目立たないようにするためであることは誰の目にも一目瞭然であった。
 柳行李一つに収まる荷と、母からもらった、毬と桜の刺繍の入った白地の筥迫(はこせこ)に愛猫一匹を抱えてアキが進み出ると、女中はふわりと微笑みかけて荷物を受け取った。一目見て、アキは歳の近いその女中に好感を抱いた。それまでつとめて何も考えないように、感じないように心がけていたのだが、彼女と友人になれるのならこの話もそう悪くはないかもしれない――とこのときになって初めて、小さいながらも希望を抱いた。
 馬車に乗る際振り返ってみれば、見送りに出ていた家族の、沈んだ表情が並んでいた。アキは一人一人と目を合わせ、無言で別れの挨拶をした。ところが父親にだけは、できなかった。彼は家を離れる娘の視線を避けて、絶えず女中や御者や、家族の者と話していた。しかしアキが視線を投げかけると身体が僅かに震えたことから、正面きって見てはいなくても、やはりアキのことをもっとも意識していたのであろう。子ども想いの優しい父親だった。家苦しさに娘を売るような真似をしたことで、相当自責の念に駆られていたと見えた。娘の前に立っているのもやっとの思いだったのかもしれない。
 馬車が動き出して家が見えなくなっても、アキには父の姿が窓のすぐ外に見えるような気がした。その幻影を打ち消そうとして瞼を下ろしても、頑なに虚勢を張る父の脆い姿が、瞼の裏側にちらちらと揺れていた。その見えない姿を見ているうちに、どうやら眠ってしまっていたらしい。馬車から降りて、アキは大きな屋敷を恐々見上げる。心の準備も不十分なうちに目的地に着いてしまったことを、少しばかり後悔しながら。
「明さま、お疲れでしょう。お部屋に案内いたしますので、夕食までお身体をお休めください」
 ぼんやりと立ちつくしていたアキは、その声で我に返った。カノを抱えなおし、真理子に続いて開いた扉の隙間に足を踏み入れる。その途端、隅々まで掃除の行き届いた、落ち着きのある贅沢な空間を目の当たりにして、思わず目を見開いた。
 アキはついそのまま呆けそうになったが、丁度カノが腕の中で身じろぎしたため、危ういところで意識を現実に戻した。自分の行李を持ってくれている真理子の傍で、下駄を脱いで上がる。広大な屋敷なのだから、大勢の人間の履物が散らかっていてもおかしくないのに、広々とした土間にはほんの数足しか出ていない。あれ、と不思議に思って視線を巡らせれば、なるほど、壁際に履物の並ぶ棚があった。
 空いている空間に、自分の下駄を勝手に押し込んでもよいものだろうか。アキは鳥渡悩んだ挙句、ひとまず下駄をその場に揃えておこうと前屈みになる。と、その様子を見て取った真理子が、横から遮るように慌てて腕を伸ばし、下駄の鼻緒を掴む。拍子に互いの指先が触れ合い、ほんの一瞬、脳裏に閃くものがあった。ぎくりと身を強張らせる。
 ――今のは……?
 瞬間的に生じて消え去った感覚に、アキは小首を傾げる。何か大切なことを忘れているような、そんな違和感だった。気になりはするが、
「明さま? どうかなさいましたか?」
 心配そうな顔でそう尋ねてくれる真理子に、迷惑をかけたくない。アキは慌てて立ち上がり、なんでもないと笑ってみせた。

 綺麗に磨きあげられた板間の廊下を、真理子に続いて歩いていく。
 屋敷の外観は純粋な日本家屋と見えたが、少し歩いただけでも障子や硝子戸もあれば洋風の扉もあるのが視界に入る。和洋折衷型の簡素だが美しく調和の取れた内装は、見ていて楽しい。歩きながらもあちこちに興味深く視線を走らせているアキの顔は、到着したばかりのときよりも輝いている。
 と、屋内なのに視界の隅に木の枝がちらついた。そちらに顔を向けると、これまた美しい中庭が見えた。真理子は中庭を囲う四つの廊下のうちの一つを進むつもりらしい。顔だけ中庭の方に向けたまま、アキは真理子の後をつかず離れずついていく。
 廊下にも掃除をしている女中がいたが、中庭でも熊手を持った女中がせっせと立ち働いていた。他にも庭師らしき人物が、長い鋏のようなもので小ぶりのサツキを剪定しているが、中庭にいる者たちは、左手首に赤い布らしきものを巻きつけていた。
 彼らの不断の努力の甲斐あってか、中庭の見栄えは見事だった。内心で感嘆のため息を漏らしてそのまま見つめていると、石の灯篭や小さなサツキの向こうに赤い棒のようなものが覗いている。どうやら小さな鳥居のようだ。何を祀っているのだろうと不思議に思い、アキは首を傾げる。その拍子に、中庭を挟んだ向こう側が視界に入った。
「……猫?」
 小声を零すと、腕の中のカノがアキを見上げる。しかしアキはそれに気づいていない風で、じっと目を凝らして一点を見つめていた。彼女の視線の先を追うようにカノも中庭を挟んだ向こう側へと顔を向け、目を細める。
 頭一つ分開いた障子の隙間から、白い猫の面が覗いていた。黒い線が目の上に一本ずつ、頬にも二本ずつ入っており、目尻と耳の先、額は朱色で塗られている。
 アキにはなんとなく、その面をつけた人物が自分の方を見ているように感じられた。見つめ返すと、向こうの方でも見られていることに気づいたらしい。面が狼狽えたように揺れたかと思うと、やけに慌てた様子で障子の向こう側へひゅっと引っ込んだ。アキは一連の動作を眺めていたが、面が見えなくなるや否や、興味を完全に失ったかのように顔を正面に戻す。そして何事もなかったかのように平然とした顔で、いつの間にか少し空いてしまっていた距離を縮めるため、こころもち小走りになって真理子の後ろ姿を追いかける。ただ彼女に抱かれているカノの方は、襖に遮られて見えなくなるまで、面が消えた空間に真剣な眼差しを注ぎ続けていた。

 右に曲がったり左に曲がったりしばらく直進したりをしつこいくらいに繰り返す。もしや妖術か何かで同じ所を延々と歩かされているのではないかと疑い始めた頃になって、ようやく真理子が一つの扉の前で立ち止まった。アキは心底ほっとして、気づかれないようこっそりため息をついた。
 扉を押し開けると、十二畳ほどの洋間に寝台と机に椅子、そして収納家具と書棚が置かれていた。床には肌色と桃色の間をとったような色合いの絨毯。窓は、擦り硝子の開き窓が一つだけあった。
 荷物を部屋に運び込んでしまうと、夕食までお寛ぎくださいと言って、真理子はさっさと下がってしまった。アキは、彼女がいなくなると途端に少し心細さが首をもたげるのを感じた。しかし彼女がすぐに下がったのは、自分に対して配慮してのことなのだから、仕方ない。
 カノを降ろして椅子を引き、腰かける。座るとどっと疲れが押し寄せてきて、我慢できずにアキは机に突っ伏した。
 だらしない動作を責めるように、白猫はにゃあんと高い鳴き声を上げる。それでも主人は顔を上げない。呆れた風に首を横に振り、立派な寝台に飛び乗る。身を横たえて小さく欠伸をしてから、猫は小さな口を開いた。
「アキちゃん、そのままそんな姿勢で寝るくらいなら、寝台で寝なさいよ。ほら、憧れの寝台よ。ふかふかしてるわ」
 アキが机に伏せた姿勢のまま顔の向きをずらすと、寝台の上ですっかり寛いでいる白猫の姿が目に入った。
「カノったら、他人事だからって呑気にしちゃって」
 頬を膨らませ、恨みがましくぶつぶつと言う。白猫は心外だ、とやけに人間臭い動きで目を瞬かせた。
「アキちゃんは私のご主人様だもの。全然他人事なんかじゃないわ」
「じゃあ、どうしてそんなにのんびりしていられるの」
「長く馬車に揺られて疲れたから、休息が必要なのよ」
 しれっと言ってのける愛猫に、アキはため息しか出てこない。言い争うのもなんだか馬鹿らしくなってきて、カノを視界から追い出すため再び机に顔を伏せた。
「アキちゃん、そんな風に寝たら顔に跡形がついてしまうわよ」
 無言で返すアキに、カノの長い尾がじれったそうに左右に揺れた。
「もう……夕食の時に変な顔で戸塚整に会うことになっても、知らないからね」
 ぴくりとアキの肩が揺れた。それからむくりと上体を起こし、とろんとした目を寝台の方に向ける。
「やっぱり、それはまずいよね」
 自分に言い聞かせるように呟いて、返事を待たずにアキはふらふらと立ち上がり、窓の真下にある寝台に這い上がると、ふと思いついて窓を開けてみた。窓に取りつけられた鉄柵越しに、美しく整備された庭の景色が広がっているのが見える。しばらく眺めてから再び窓を閉め、上掛けの上からぼふりと倒れ込んだ。枕元に座っていたカノは着物が乱れていると慌てたが、余程疲れていたらしい、アキは既に瞼を閉じ切って、眠りの淵をさまよいだしていた。
 しばらく前足で着物の皺を伸ばそうと努力していたカノだったが、思ったようにいかないので諦めのため息をつく。最悪の場合後で着替えればいいかと独り言を零し、娘のあどけない寝顔を少しの間見つめてから欠伸を一つ。自分も彼女の傍に丸くなって目を閉じた。

 頬にくすぐったさを感じて、アキは身じろぎした。
「起きて、アキちゃん」
 夢と現の狭間を彷徨うアキの意識は、睡魔の甘いささやきに包まれ、頬をしきりとなめて、呼びかけてくる声に抵抗する。まだもう少し眠っていたいという気持ちが勝って、うるさい声のする辺りに腕を動かすと「わわっ、ちょっと! びっくりするじゃない」と小さな悲鳴が上がった。
「アキちゃんったら! もう、起きないと駄目よ」
「んん……もうちょっと……だけ……」
 半分夢の水面に浮上した意識がなんとか返事をするが、後半はちゃんとした言葉になっていなかった。むにゃむにゃと口は動いているけれど、耳のよいカノにも彼女が何と言っているのかは判別できない。
「今すぐ起きて。足音がこっちに向かってるの。そろそろ夕食に呼ばれてもおかしくない時間よ。多分もうすぐ誰かが部屋に入ってくるわ」
 優しさに少し厳しさを滲ませて呼びかけながら、カノはしきりに前足でアキの頬をぺちぺちと叩いたり、小さな舌でなめたりする。その間も二つの三角耳はぴくぴくと動き、周囲の音を拾っていた。窓から差し込む朱色の陽光は既に弱弱しく、部屋の中は薄暗い。足音がすぐそこまで近づいてきているのを察し、カノは更に慌てた様子でアキを起こす作業に専念した。言葉で呼びかけるのはやめて、猫らしい鳴き声と動作で焦れたようにアキに働きかける。その度彼女は身じろぎして、時折薄目を開けかけるものの、すぐにまた眠りの世界へと落ちていってしまうのだから困ったものだ。
 疲れの見えるそのあどけない寝顔を見ていると、無理もないとカノは思う。馬車による身体的な疲労に加え、新しい環境に対する緊張と不安からの精神的疲労も色濃い。
 アキはまだほんの十四歳。周囲の庇護を受けて育った、世間知らずの幼いお嬢様だ。
 カノとしても、可愛いこの娘をできることならこのまま寝かせておいてやりたいものだが、彼女がこの屋敷にやってきた理由、そして彼女のこの屋敷での立場を思うと、これまでのように気ままでお嬢様然とした言動をとらせる訳にはいかない。
 その上今日は屋敷に来て初日。第一印象は大事だ。女中たちに陰口を叩かれる隙を最初から与えてしまうのは、何としても避けさせねばならない。とにかく今は迎えの女中が部屋に入ってくるまでに、せめて目覚めさせてしおらしい態度をとらせないと――とカノが悪戦苦闘した甲斐もなく、アキが目を開ける前にコンコンと戸を叩く音が静かに響いてしまった。
「明さま、入ってもよろしいでしょうか」
 驚きと焦りからびりりっと全身の毛を逆立たせて扉の方向を勢いよく振り向いたカノの耳に、聞き覚えのある柔らかな声が飛び込んできた。真理子だ、と分かると同時にカノは思わず安堵のため息をつく。アキと歳が近く、親しみやすいこの女中ならば、今の状況も素直に受け入れてくれる。そう判断して、カノは寝台から音もなく飛び降り、扉へと駆けていった。
「明さま?」
 返事がないため訝しく思ったらしい真理子の呼びかけが再度聞こえる頃、カノは扉の元に辿り着き、後ろ脚で立ち上がってカリカリと遠慮がちに扉を引っ掻きながら小さく鳴いた。すると、あら、と悟ったらしい朗らかな声。
「失礼します」
 さっとカノが脇に飛び退くとほぼ同時に、扉が遠慮がちに開かれた。傍目から見ても上等な着物を抱えた真理子は、寝台の上で着物をはだけて眠っているアキを見てくすりと微笑む。その眼差しが、まるで可愛い妹を見やる姉のように慈愛に溢れるものだったので、下から彼女を見上げていたカノの表情が柔らかくなった。
 やってきたのは真理子一人だけのようだった。彼女は後ろ手にそっと扉を閉めると、カノにも親しげな笑顔をちらと向けてから、寝台に寄っていって膝をついた。
「明さま、起きてくださいな」
 友だちにするような気軽さで、真理子がアキの腕を軽く数度叩く。それでようやく目を開けた少女は、焦点の上手く定まっていない目で女中を見つめ返した。みるみるうちにその目は大きく見開かれていく。
「わ、わあぁ! ご、ごめんなさい」
 あからさまに狼狽えた様子で起き上がり、自分がはしたない格好になっていることにはっと気付くと、アキは慌てて着物の端を正面に寄せ、俯いた。ゆでダコのように耳まで真っ赤になっている。
「大丈夫ですよ。ほら……女同士ですし」
 くすくすと笑いながら、真理子は抱えていた着物をさっと広げた。
「さあ、もうすぐ夕食です。整(ひとし)さまがお待ちですよ。こちらに着替えてから向かいましょう」
 楽しそうに声を弾ませる真理子を前にして、アキは鳥渡不思議そうな顔をする。それから女中の手に目を移し――そこに広げられた振袖に美しく描かれた牡丹や菊を前にして、またしても大きな目を真ん丸く見開いた。

 友禅染の振袖を着せられ、自慢の長い黒髪に櫛を丁寧に入れてもらったアキは、真理子に連れられて長い廊下を右に曲がったり左に曲がったりした後、座敷に通された。失礼します、と膝をついて頭を深く下げてから顔を上げると、群青色の着物を纏った男が、机を挟んで向こう側からアキに笑みを向けている。机の上には豪勢な食事が並んでいた。
「待っていたよ、明さん」
 そこに座ってと指示された位置にアキが腰を落ち着けると、控えていた女中が湯呑に茶を注ぎに来た。
「昼は迎えに行けなくてすまなかった。急な仕事が入ってしまってね」
「いえ、そんな」
 正面に座る整の目尻には柔らかい皺ができている。どう言葉を返したものか分からず、意味のない声を出してしまってアキは気が気でなかった。しかし他に何と言えばよいのやら。ここには頼りになるカノもいない。ひどく落ち着かなくて、誤魔化すようにアキは正座しなおした。真理子が後ろに控えていてくれているのがせめてもの救いだ。
「……この髪が珍しいかい?」
 無意識のうちにじろじろと眺めてしまっていたらしい。己の髪をつまんで整がおかしそうに尋ねたものだから、不意打ちをくらったアキはさっと頬を赤らめて狼狽した。ぶしつけだったろうか、いきなり相手の機嫌を損ねてしまったかしらんと泣きたい気持ちになる。が、正面に座る整は特に気分を害した様子もない。むしろ愉快そうにつまんだ自分の髪をいじりながら、もう片方の手で湯呑をとった。
「老人ならともかく、私くらいの歳の者には滅多に見ない髪色だろう。時を経てこの色になったのではなくて、生まれた時からこの色だったのだよ」
 笑んだまま語る整の髪は、雪のように透き通った輝きを持つ純白。まだ二十代後半という歳の者には、確かに珍しい。
「整さま――だけなのですか?」
 口に出してから言葉が足りなかったことに気づいたが、それでも問いかけの意味は充分相手に伝わったようだった。
「いや。不思議なことに戸塚の血を引く男児は皆、生まれつき白髪なのだ。……とはいっても、本家の者だけだがね」
 湯呑を下ろし、代わりに箸を手にした整に、食べなさいと促されたので、アキは手を合わせていただきますと頭を下げてから吸い物を手に取った。
 暫く互いに無言のまま箸を動かす。今までアキが口にしたこともないような贅を凝らした料理であったが、緊張と不安とでとても味わうどころではない。俯き加減に食べ物を口に運んでいても、ずっと正面からの視線を感じるものだから、食べづらいことこの上ない。もしやこれから毎日のようにこのように気詰まりな食事をしなくてはならないのかと思うと、ずんと気が重くなる。
「急なことで驚いただろう」
 静かな声音にアキが顔を上げると、穏やかな双眸と視線がかち合った。
「君にとって私は、初対面の得体の知れぬ男。そんな男の所へいつのまにか引き取られることが決まっていて、色々と思うところもあるはずだ」
 相手が箸を止めて話を始めたので、アキも静かに箸を下ろした。何か言うべきかと一瞬口を開きかけたが、どうやら相手はアキの返事を求めていない様子なので黙って傾聴する。
「私は度々、君のお父上と仕事上お付き合いがあってね。そちらにお邪魔する時に、何度か君を目にする機会があった」
 とそこでアキが完全に箸を置いていることに気づいたらしく、自身も箸を再び動かして、食べながら聞きなさい、と促す。整にそう言われては逆らう理由もないので、気まずい思いを抱えながらアキは素直に箸と椀を手に取った。
「初めて君を見たときから、なんと愛らしい娘だろうと思っていた。そして何度目かの訪問の際に、意を決してお父上に申し出たんだ。お父上は相当渋っていらしたが、先日ようやく了承していただけた。私のわがままだ。どうかお父上を恨まないでおくれ」
「恨むなど」
 自分が父に対してそのような感情を持つことは、決してありえない。アキには、よくわかっていたから。家が本当に苦しくなっていたことも、どのみち娘たちは嫁に出さねばならなかったことも。父が一人で思い悩んでいたことも、そんなときに名家の戸塚から声がかかって、父が更に悩み苦しんだことも。
 下手なところに嫁に出すよりも、名家の養女となる方が最低限きちんとした生活を娘に保障してやることができる。たとえ養女というのが表向きの約束に過ぎず、将来的には妾となることを見越したものであっても。結局はそう判断して娘を差し出すことに決めてからも、金のために我が子を犠牲にしてしまったと父が自責の念に駆られていたことも――全部、最後に見た父の顔に苦悶の皺として刻まれていた。
 そんな父を、どうして自分が責めることができるだろうか。アキが責めるまでもなく、既に十分過ぎる程父は苦しんだはずなのだし、父の選択に間違いはなかったのだから。
 そういった思いを目の前の相手にどこまで伝えるべきなのか、また伝えるにしてもどうすれば上手く伝えられるのかと悩んだアキは口ごもる。父親と整がどれ程親しい関係なのか、実はアキは何も知らなかったし、整の言葉自体、どこまで真摯な思いが込められているのやらわからない。
 そもそもアキが整について知っていることといえば、名門華族戸塚家現当主の嫡男ということと、彼がアキを引き取ったということくらいで、彼に関してほとんど無知だといっても過言ではなかった。そんな相手との距離の取り方や交わす言葉の選び方など、世間知らずな娘にわかるはずもない。
 そんな内心の当惑を知ってか知らずか、整は口をつぐんでしまったアキを追及することもなく、それならよかった、と軽く頷いた。どうやらこの話はそれで終わりにするつもりらしく、その淡白な反応にアキは少々拍子抜けする。
「ところで明さんは、読み書きはできるかな?」
 突然全く別の話題に飛んだので、アキは一瞬反応が遅れた。
「い、一年程前までは学校に通っていました」
 数度瞬きを繰り返した後に意味を呑み込み、やっとの思いで問いかけに答える。整は宙に視線を投げて、どこか思案深げな顔つきになった。
「ふむ……流石は風見さん。今のご時世、子女にも教育をつけさせておくに越したことはないからね。よし、落ち着いた頃にまた学校に通わせてあげよう」
 それを聞いて驚いた拍子に、運悪く湯呑を口にしていたアキは盛大にむせた。慌てて整に背を向け、できるだけ失礼にならないよう、床に屈みこむような姿勢で口元に手を当てがい咳きこむ。真理子がすばやく寄ってきて優しく背を叩いてくれた。大丈夫かい、という整の声に、はいと何とか返事を返し、ある程度落ち着くまでひとしきり咳きこんでから、目尻にたまった涙を指で拭った。真理子に礼を言ってから振り返り、居住まいを正す。
「失礼しました。……そこまで甘やかしていただく訳にはまいりません」
 とこれだけは申し訳なさからはっきりと辞退を申し出たのだが、整はやんわりと笑って首を横に振る。
「君はもう戸塚の者だから、遠慮することはない。少し先の話にはなるが、学校にしっかり通って学びなさい。それが私の望みだ。いいね」
 こう強く言われては、立場の弱いアキに断ることなどできるはずもない。手を膝の上にきっちりと置いて、アキは深く頭を下げて礼を述べた。そんな彼女の硬い態度に、はは、と軽い笑い声。
「そんなに畏まる必要はないよ、明さん。今はまだ慣れない環境で心細いだろうが、私としては、どうかここを我が家と思って、気楽に過ごしてほしいんだから」
「はい」
 一応頷いてはみせるが、気楽に過ごせる自信は全くない。強張った笑みがなかなかほぐれそうにないのを見て取って、整は苦笑を浮かべて一度軽く肩を竦めてから、湯呑を取り上げて口元へと運ぶ。
「家の者たちには、既に君のことを説明している。それから、基本的にこの屋敷内ではどこへでも自由に行き来してくれて構わない。ただし――」
 空になった湯呑を置くと、すかさず女中が注ぎ足しに来る。白く湯気を立てながら、緑色に透き通った茶がなみなみと注がれる様を、整はじっと見つめていた。女中が離れてからも、まるで続く言葉を忘れてしまったとでもいうかのように、身動き一つせず、黙り込んで湯呑の中を眺めている。かと思うと思い出したように湯呑を手にとり、ふうふうと息を軽く吹きかけてから一口すすり、
「ただし、北の離れの奥にある部屋――そこだけは障子の木枠が白く塗られているから分かるだろう――その部屋にだけは、立ち入らないでほしい。いいね」
 どこか懇願するような響きを備えた整の言葉に、アキは不思議そうに目を瞬かせながら、こくりと一つ頷くだけに留めておいた。

 戸塚家での新生活が始まった。
 それはアキが覚悟していた程息苦しいものではなかったが、それでも肩身の狭いことに変わりはなかった。
 整は家の者にアキのことを説明したと言っていたが、果たしてどのように説明したのだろうか。あれこれと想像してみても結局わからないものはわからない。笑顔で衣装や食事、その他茶菓子などを持ってきてくれる女中は、皆丁寧な態度でアキに接してはいたが、内心でどう思っているかと考えた途端、アキは心細くて堪らなくなる。
 この広い屋敷の中でアキが心を許すことができるのは、愛猫のカノと気さくな女中の真理子だけだった。
 アキが人好きのする真理子と打ち解けるのに、そう時間はかからなかった。屋敷に来て翌日には、アキは彼女を「真理子ちゃん」と呼んで、昔からの友人であるかのように慕っていた。真理子の方でも「アキさま」と呼びかけ、なんだかんだとアキの世話を焼いてくれた。
 整とは初日に夕食を共にして以来会わなかった。聞けば、その翌日から東京に出向いているとのこと。何の用事かまではアキも遠慮して尋ねなかったが、その脳裏には、病弱で入院中だという噂の整の正妻のことが浮かんでいた。

「それにしても、暇なものねぇ」
 欠伸混じりにカノがぼやいて、アキは針を動かしながらうーんと唸る。
「そうだね。特に何もすることないし……」
 言いながら針に糸をくるくると巻きつけ、その上から指で抑え込んで針を引き抜く。鋏で糸を切ってから、でーきたっ、と満足気に笑みを浮かべた。はしゃいだ声に、ベッドの上で暇だ暇だと気だるそうに嘆いていた白い塊がむくりと起き上がった。
「……何してるの、アキちゃん」
「え? お手玉作ってる」
 色とりどりの布の断片を広げた中に座りこみ、たった今完成したばかりの丸い玉を手でぽんぽんと交互に投げる。
「なんで、お手玉なんか作ってるの」
「えっと、端切れと小豆もらえたから」
 互いに静止したまま見つめ合い、沈黙が流れた。
 と思いきや、カノはそれまでのゆったりとした動きとは打って変わって俊敏な動作でベッドから飛び降りた。そして無言のまま勢いよくアキに飛びかかると、目を真ん丸に見開いている彼女の額めがけて頭をぶんと突き出す。ごちんと思いのほか鈍い音が鳴った。
「いたっ!?」
 お手玉をぽろりと取り落とし、額に両手を当ててうずくまるアキ。そんな彼女を、胡乱な目つきでカノは見上げる。こちらには被害がないらしい。
「そういうことじゃなくて。なんで端切れと小豆なんかもらって、呑気にお手玉作ったりなんかしてるの、って聞いてるの」
 幼い子に言い聞かせるような口調でカノが言うものだから、アキは涙の滲んだ目尻を拭うこともせず、ぷいと顔を背けて口を尖らせる。
「だって……何をすればいいのか分からないし……何もさせてもらえないんだもの」
 周囲によって勝手に決められたことで、心の準備がまだきちんとできていないままに戸塚家に引き取られた。自分が望んだことでないからと言って、アキには今更不平や泣き言を言うつもりなどもちろんないし、何もせず、ただ豪華な衣服や食事を与えてもらうだけでのんべんだらりと世話になるつもりも毛頭ない。
 しかしアキには自分が何をすればいいのか、今何を望まれているのか、さっぱりわからないのだった。
 アキを家に迎えた当の本人である整は、今はアキに対して特に何もするつもりがないようだし、暇を持て余した結果、思い切って真理子や他の女中に掃除や料理の手伝いを申し出てみても、担当の者がするからと全てやんわり断られてしまったのだ。まあ当然の反応である。
 弱り切ったのとふてくされたのと困惑したのとで、ここに来て三日間、風呂と用を足す時以外、アキはあてがわれた部屋から外に出ていない。
 食事は真理子がその都度運んできてくれた。その上風呂も手洗い場も部屋を出て廊下を右に少し歩けばあったので、アキはほとんど自発的軟禁状態にあったといってもいい。カノは当然、新鮮な空気を吸いに時折外に出ていたようであったが。
 本当に、一体どうすればいいのだ、とアキは眉をひそめる。何かしなくてはならないとわかっているのに、何もできない。もどかしさと焦燥の気持ちが募る一方だ。あまりにも強い焦りで、胸が悪くて堪らなかった。それを少しでも紛らわしたくて、材料をもらって手を動かしていたのだ。
 半眼でアキを見上げていたカノが、やれやれといったようにため息をついた。
「いつまでもこんな部屋の中に閉じこもっていたら、そのうち息がつまっちゃうわよ」
 その声が再び優しい響きを帯びていたので、反射的に情けない顔のままアキが顔を向ける。視線が合うと、妙に人間臭い微笑を浮かべて、白猫は愛らしく鳴いた。
「ね、これだけ広い屋敷だもの。何か面白そうなもの、一つくらいあると思わない?」
 小首を傾げるアキの姿が映りこんだ薄青い瞳をきらきらさせて、茶目っ気たっぷりにカノは片目を瞑った。
「そこまで戸塚家のみなさんに気兼ねしなくてもいいわよ、きっと。せっかくだし、今からアキちゃんも一緒に探検してみましょうよ」
 それを聞いたアキの顔が、花が咲いたようにぱっと輝いた。

 時刻は夜四ツをまわった頃。夜の帳に包まれた屋敷の中はひっそりとしていた。磨きあげられたガラス窓からは白銀の清光が差しこみ、室内の様子をぼんやりと浮かび上がらせている。
 夜目の利くカノは、薄暗い廊下でも構わず、魚が水の中を泳ぐようにすいすいと音もなく歩いていく。かといって歩みの遅いアキを置いていく気はもちろんなく、数歩進んでは振り返り、彼女がきちんと後をついてきているか確かめている。
 月明かりがあるとはいっても最初は暗さに戸惑って、アキは暗闇の中らんらんと輝く二つの目を道標に、おっかなびっくり歩いていた。そのうちに慣れてきて夜中の徘徊を楽しむ余裕が出てきたらしく、いたずらっ子のような微笑が口端に浮かぶ。
「静かね、とても」
 自分の耳にしか届かないくらいの小声でアキがささやく。
「どの部屋にも灯りがない。誰もいないみたい」
『人はいるわ』
 とカノの声がアキの頭の中で答えた。
『みんな早寝早起きなんじゃない』
 アキの足取りが滑らかになったのを察知したらしく、振り向かないままカノは足を進めた。
 そうなのだろうか、と内心でアキは首を捻る。確かに多くの人が眠っていてもなんらおかしくはない時刻ではあるが、それにしても灯りひとつ見当たらないのは妙な気もするし、不思議なくらい人の気配が感じられない。カノは人がいると言った。いないはずがないのは、当然アキにもわかっている。それでもなんだか自分とカノ以外生き物がいないように思われて、鳥肌のうっすら立った腕を袖の上から軽くさすった。
 右に曲がったところで、一段と明るい空間が行く先に見えた。壁や襖の代りに硝子戸が連なっているのだ。その向こうにあるものに気づくと、アキは思わず息を呑んだ。
「中庭――?」
 声に出して言ってしまってから、アキは慌てて口を手で塞いで耳をそばだてる。相変わらずしんと冷え切った静寂を破る物音はひとつもない。別に悪いことをしている訳ではないはずなのに、アキはほっと胸を撫でおろした。まるで泥棒にでもなった気分だ。
 それにしてもどういうことだろう、と胸の内に妙な気分が広がる。冷たい手に心臓を鷲づかみにされたかのように、ひやりとする。唾をのむ音がやけに耳につく。
 いつの間にか立ち止まっていた。数歩先で同じように足を止めているカノが、光る目をアキに向けている。
『驚いたでしょう?』
 頭の中に直接響いた言葉に、こくりと頷く。中庭は既に目にしているから、その存在に驚いたのではない。
 ――どうして。
「どうしてこんなに近くに、中庭があるの……?」
 アキの部屋から中庭までの距離が、明らかに短くなっていたのだ。
 とんでもなく広い屋敷だ、というのが第一印象だった。初日のことを思いだす。真理子に連れられて屋敷に上がったとき。玄関から中庭までも遠く感じられたが、それ以上に中庭から自室まではもっと遠かった。何度も右に左に曲がったし、飽きるくらい広い部屋の横を直進した。いくら戸塚家の屋敷が広大とはいえ、これ程長い廊下がたかが一家族の暮らすひとつの家屋にあるものかと、正直愕然としたものだった。終いには、妖術か何かで同じ所を延々と歩かされてでもいるのではと疑い出したりなんかして――。
 はっと顔を上げる。驚きに見開かれた目で、前方に輝く二つの目を見つめた。もしや本当に。
「妖術?」
『の類でしょうね、多分』
 頷いて、カノは向きを変えた。
『もしくは呪術』
 言い終わると同時に再び中庭の方向に向かって歩き始める。アキも一瞬遅れて後を追う。その顔には少し不安気な色が浮かんでいる。
「妖怪……いるのかな」
 さあ、とでも言うかのようにカノの長い尾がゆらりと揺れた。
「いたらどうしよう。だって……わたしには、カノしかいない」
『一応九字も切れるじゃない』
「わたしは普通の人間なんだもの。それだと自分を一時的に護ることしかできないよ。わかってるでしょう?」
 うう、とこめかみの辺りに両手を当ててアキがため息をつく。
「それにわたしなんかが九字を切るより、カノに退魔結界張ってもらう方がよっぽど確実だし……」
『まっ! 何も始まらないうちからそんな弱気になって、この子は』
 保護者口調のカノに、だってぇ、とますます弱り切った顔を俯けた。
「女の子だもん。いざという時は男のひとに任せます」
 中庭に面した廊下の中程まで来ると、カノがくるっと振り返った。硝子戸の傍らに満ちる光に照らされながら、呆れ顔を作っている。
『こんなときだけ性別うんぬん言いだすんだから!』
 普段は男も女もないんだーって私の前では言い張るくせに、と日頃の態度との矛盾点をついてくるカノに、こちらもむっと口を尖らせて不満気な表情を作ってから、
「今だって男尊女卑とか男女差別とかしてる訳じゃないもん。ただの区別。く・べ・つ」
 と必死にささやき声の音量を維持して切り返す。
『一緒よ』
「どっちにしても男のひとをたてているんだから、カノにしたらいいじゃない」
『よかないわよ』
 言ってから、カノは思いついたようにふふんと笑った。なによ、とぶっきらぼうに問う少女に、顔の角度を変えて流し目を送るその白い顔は、どこか得意げだ。
『それに私は人じゃないわ。残念ね、アキちゃん』
 それを聞いたアキは腰に両手を当て、挑戦的に目を細めた。
「じゃあ、男の子、って言えばいいの。それともやっぱり――雄猫さん?」
 これもまた軽く切り返されるだろうというアキの予想に反し、カノはさっと顔を怒りに染めて毛を逆立てた。
『お、雄猫とか……理性のない畜生みたいに言わないでくれるっ!』
 頭の中で突然大音量が響いて、アキはひゃっと小さく叫んで首を竦めた。
「そ、そんな大声出さないでよ。頭割れちゃうよ」
『アキちゃんが失礼なこと言うからいけないのよ。確かに今は見た目猫だけど、だからって私をそんじょそこらの猫と一緒にしないでほしいわ』
「別にそんなつもりじゃあ……」
 ぷりぷりと怒るカノを前に先程までの強気はすっかり鳴りを潜め、眉尻を下げてアキはしゅんと俯いた。悪気があった訳ではないのだが、本人が嫌がることを承知していたのは事実だ。少しからかってみるだけのつもりだったのに、まさかここまで怒らせてしまうとは――途方に暮れて、きゅっと寝間着の袖を握り込む。
「ごめん。ごめんなさい、カノ。そんなに怒る程嫌なんだって、知らなかったの」
 震える唇から零れる声は、ほとんど無声に近いささやき声から小声になっていた。アキの視界が歪み始める。
「もう言わないから、怒らないでぇ……」
 みるみるうちに溢れる涙を懸命に堪えようとしても、どうにもならない。こんなことで泣くなんて、とアキは自分でも不甲斐なく思う。しかし他ならぬ自分が大好きなカノに嫌な思いをさせてしまった。その上ひどく怒らせてしまったと思うと、ぎゅっと胸が締め付けられたように苦しくて、必然目頭が熱くなってしまう。泣くな、泣くなと心の中で自分に言い聞かせぎゅっと両目を硬く瞑ると、かえって綺麗な涙がすぅと頬を伝って流れてしまった。

「アキちゃん」
 肉声が直接耳の鼓膜を震わせて、アキははっと目を開けた。足元に視線をやると、いつの間にかカノがそこにちょこんと座りこんでこちらをじっと見上げている。二本の後ろ足で立って、甘えるように前足を自分の脚にかけてきたので、アキは途惑いながらも少し屈んで、横腹に手を当てカノを抱き上げた。大人しくされるがままになっているカノの顔に、直前まで見えていたはずの怒りは跡形もない。酸欠のような苦しみが困惑によって胸から押し出され、アキは泣くことも忘れてふわふわの白い身体をぎゅっと抱きしめる。腕の中で僅かに身じろぎして、カノは首を伸ばしアキの頬に鼻先を触れさせた。
「変わらない、透明な涙」
 白猫はとても小さく呟いて、涙の跡を小さな舌でぺろり、ぺろりとなめる。
「ああ。綺麗になっていく……」
「カノ……?」
 くすぐったそうにしながらアキが名前を呼ぶと、カノは顔を離して彼女の澄んだ瞳を見つめた。
『泣き虫はなかなか治らないわね、アキちゃん』
 口を閉じたまま青い目を細め、ふっと微笑む。
『ごめんね。さっきのは冗談よ、ジョ・ウ・ダ・ン』
「じ、じょ?」
『あんなことくらいでアキちゃんに怒ったりしないわよ。私そこまで心狭くないわ』
 ぽかんとした間抜け顔を至近距離から拝みながら、カノはくすくすとおかしそうに笑いだした。相手の態度が突然変化したことに当惑していたアキだったが、腕の中に小さな震えを抱いているうちに、事態を呑み込んでいく。からかわれた、という事実をはっきりと自覚した途端、さっと頬に赤みが差した。
「ひどい! わたし本気で……」
『だから、ごめんねってば』
 アキちゃんが可愛らしくってつい、と軽口をたたくような調子で謝るカノに、アキは魚のように数度口を開閉させる。
 ――ただあなたの涙が必要だったのよ、念のために……。
 カノは胸の内でだけつけ加えて、ほんの一瞬詫びるような表情を浮かべかけた。しかし耳がぴくりと動くと同時に、たちまちそれは掻き消える。してやられたと悔しがることに夢中のアキは、それに気づかず更に言葉を言い募ろうと口を開き、
「カノったら――むぐ!?」
 途中でカノの柔らかい肉球に口を塞がれてしまった。
 疑問符を浮かべる彼女を無視して、カノは少し俯き加減にじっと耳を澄ませている。不発に終わった文句の弾を口の中でもごもごとさせるアキの顔には、はっきりと不満が見て取れた。一瞬、落としてやろうかという気になる。驚きはするだろうが、怪我はしないし、着地するときに音も立てないだろう。そして実際実行しようと腕の力を緩めかけてから、ふとカノがやけに神妙な顔つきで三角耳をぴくぴくと動かしているのに気づく。何かあるのだろうか。うっすら不安の影が背後に忍び寄ってきたのを感じてアキは身震いする。
『……気のせい、かしら』
 アキの問うような視線を受けて、カノは前足を下ろして首を捻った。
「何か聞こえたの?」
 それには人間のように肩を竦める仕草で返答が返ってきた。
『さっき床が軋むような音が聞こえたから、誰か来たんだと思ったの。でも気のせいだったみたい』
「そっか」
 まぁ別に見つかったところでどうもしないはず、と言いつつカノが身をくねらせる。察したアキが屈み込んで腕の力を緩めると、カノは音一つ立てずに床にふわりと降り立った。柔らかい毛並をひと撫でしてから、膝に片手をつき顔を上げて立ち上がりかける。その時きらりと眩しい輝きが視界の中央に走った。驚いてはっと動きを止める。
 六坪程の広さを持つ四角い中庭が、月明かりにぼんやりと照らし出されていた。
 丁度アキのいる側から中庭に降りることが出来るらしく、飛石が三方に千鳥打ちされている。向かって左手に伸びる飛石の先には枝垂れ紅葉の添えられた枯れ滝、右手は欅やサツキ、景石の間を縫って石灯篭と手水鉢へ繋がっていた。そして正面には、中庭の添景物として目にすることはあまりないように思われる、小さな神明鳥居と祠。アキの目は、その祠に釘づけになった。
『どうしたの? アキちゃん』
 正面から視線を外さぬまま、アキは右手を上げて、紙垂の垂れた木造の祠を指さした。
「一瞬……あの祠の中が、光ったように思って」
 つられてカノもそちらに顔を向け、目を凝らす。しかしカノの目を以てしても、観音開きの格子戸の奥は闇に包まれていて何も見えない。もう一度問うようにアキを見上げた。
 アキの鼓動は、先程までより少し速くなっていた。なんだかあの祠が気になって仕方がない。そういえば初めて見た時も不思議に思った。一体、あの祠には何が祀られているというのだろう。
 本当に一瞬のことだったし錯覚でないとも言い切れない。けれどその光は、アキの中に強く印象を残した。月の光を反射したのか、それともひとりでに輝いたのかはわからない。とにかく光ったものの正体を知りたくて堪らなかった。
「ねぇカノ」
『なあに』
「わたし、あの祠がすごく気になる」
 言ってからちらとカノに視線を向けると、わかったわ、と頷きが返ってきた。
『アキちゃんの直感は侮れない。中庭に降りてみましょう』

 アキは目の前の硝子戸に手をかけて、力をこめた。慎重に横に引いたつもりであったが、それでも板の擦れる音が立つのはどうしようもない。就寝している家の者たちを起こしやしないかと内心はらはらしながら、自分の身が十分すり抜けられる分だけ隙間を開く。もう一度カノと頷き合ってから、そろそろと濡れ縁に出た。
 春とはいえ、寝間着姿だと流石に夜は肌寒い。だが自然の冷気にしては妙に冷たい空気に撫でられて、アキは肩を竦めて身震いした。視線を下に向けると、沓脱石に庭下駄が一足だけ揃えて置かれていた。縁側の縁に腰かけてそれを履く。アキの足には随分と大きくて、今にも脱げてしまいそうだったが仕方ない。立ち上がって祠の方へと一歩踏み出すと、飛石に向けて飛び降りたカノが傍らに寄り添った。かと思えば耳を震わせ立ち止まり、首を捻って後方を向く。それに気づかずまっすぐ祠を見つめて進むアキは、庭中程のあられこぼしの上に、上げた右足をとんと置いた。その時だった。
「!?」
 突風が吹いて紙垂がぐわっと持ち上がった。驚いたアキは思わず目を閉じて、腕で顔を庇う。つんと嫌な匂いが鼻を刺した。すえた匂いが急速に広がる。
『アキちゃん!』
 頭の中で叫び声が響き、アキは両目を開けた。驚愕に見開かれた二つの瞳に、大きく開かれた観音扉が映った。
 祠の中には、何もなかった。いや、違う――気づいたアキの額に嫌な汗が浮かぶ。風は止んでいるが嫌な匂いはますます強まっている。その匂いは、あの真っ暗な祠の中から漂ってきているのだ。
 祠の中には暗闇が収められている――。
『アキちゃん! 上よ!』
 きいんと割れそうな大音量に顔をしかめる余裕もなく、促されてアキはばっと頭上を見上げる。瞬間、彼女の顔は蒼白になった。
「な、なな……」
 ごくりと唾を呑みこみ立ち尽くすアキの脚を、焦ったカノが何度も前足で殴りつける。
 二人の頭上に、五丈はあろうかと思われる、黒々とした禍々しい怪物の巨体があった。
『ぼけっと突っ立ってる場合じゃないわよ!』
 そう叫んでカノが寝間着の裾を捲り上げてふくらはぎに噛みついた。頭と脚に走った痛みにぎゃっと悲鳴を上げ、アキの硬直が解ける。
「何あれぇ~!?」
 我に返るや否や、自分の顔を手で覆って情けない悲鳴を上げた。
 上空に浮かんだそれは、蛇のように細長い身体をしていた。
 下半身はとぐろを巻き、上半身が緩やかに婉曲して地上に立ち尽くすアキたちを見下ろしている。長い首の先から提灯のようにぶらさがっている頭部は、人間の骸骨そのもの。落ち窪んだ眼窩の奥に、狐火のように怪しげな光が二つ灯っていた。頭から少し下に目線を移すと、人間の腕のような形をした骨が二本生えており、互いに組み合わさったり離れたりを繰り返している。頭部から尾の先まで全身、墨と血の混ざったような不快感を催させる濁った黒一色。その不気味な身体は、月明かりを受けてぬめぬめと嫌らしい光沢を放っていた。もしやなめくじのように、表面は粘液にでも覆われているのかもしれない――と考えて、アキは全身にぶわりと鳥肌を立てた。両目に涙を浮かべて、考えるんじゃなかったと切実に後悔する。
「ま、まさか……ほ、祠に祀られてたのって、ああ、あ、あれなの?」
 顔を引きつらせ、涙に滲む視界の隅にカノを探してアキが喘ぐ。
『ば、馬鹿なこと言わないでよ……あんな気味悪いのが祀られる訳ないわよ…………多分』
 同じく引きつった顔で答えるカノ。最後の部分を小声で付け足すのとほぼ同時に、骸骨蛇がぱかりと口を開いて金属質の耳障りな鳴き声を上げたので、二人して竦み上がる。
 と、それまでゆらゆらと揺れていた骸骨蛇の手の動きがぴたりと止まった。まずい、と本能的にカノがアキの前に飛び出す。
『アキちゃん! 九字よ、九字を切りなさい、今すぐ!』
 叫びながら両目を光らせ、カノは呪文を唱え始める。その一瞬前に、ぐぐっと蛇の頭が仰け反った。で、でもと弱音を吐きかけるアキの脚を、カノは振り向かずに長い尾でぴしりと叩く。
 蛇が頭からアキ目がけて飛びこんできた。
『早く!』
「り、臨兵闘者皆……」
 流石に生命の危機を感じたアキは、必死になって震える右手の人さし指と中指を立てて刀を作り、指先で宙を左上から右下へと交互に縦横に切っていく。その間にもカノは呪文を紡いで必死に退魔結界を構築するが、しかしカノの結界は張るのに少々時間がかかる。アキの九字も一時的なものだし、その上恐怖で手元も舌ももつれていて、九字を切る所作が遅々としている。巨大な骸骨頭はもうすぐそこまで迫っていた。間に合わない――恐怖にぎゅっと目を閉じるアキの前で、カノは呪文を唱え続けながら、骸骨ががばりと大きく開いた口の中の暗闇を睨み上げる。
 結界では駄目か、と諦めかけた小さな鼻が、不意にすえた悪臭の中に混ざる甘い香りに気づいた。何だ? と頭の片隅でカノは訝しく思う。その時、すぐそこまで迫ってきた骸骨と自分たちとの間に飛び込んできた影があった。濃厚な香りが一層強く辺りに漂う。青い目を大きく見開いた。
 ――猫の面……。
 

 
「……鎮まれ」
 一向に何の衝撃も襲ってこない上突然聞き慣れぬ声が耳の鼓膜を震わせて、アキは驚きのあまり恐怖も忘れ、咄嗟に閉じていた目を開けた。その途端、思いのほか至近距離にあった巨大な骸骨に仰天する。アキは腰がすっかり抜けてしまって、不格好に尻餅をついた。大きく開いた口に両手を当てて、出かかっていた悲鳴だけはなんとか無理矢理押しこんだが。カノが胸に飛び込んできたので、右手は口を押えたまま、左腕でぎゅっと柔らかな身体を抱きしめる。その温もりに少し勇気を得て、眼前を見据えた。
「駄目だ。鎮まれ」
 透き通った輝きを放つ白銀の髪をなびかせながら、アキに背を向けて立つ人物は静かに言った。その落ち着き払った声は中性的だったが、どちらかと言うと少年のものようだった。元結で一つにまとめられた白髪は、下ろせば肩に届かない程度の短さかと思われる。藍染文人絣の長着に合わせられた木綿羽織の袖の先から伸びる右手には、白い猫の面が笑っている。裾から覗く足は、下駄どころか足袋すら履いていない。
 その人物を前に、巨大な骸骨は口を閉じて小さく唸り声をあげている。躊躇しているのだ、とアキは気づく。つい先程まで自分たちを襲う気であったはずなのに。この人を前に、躊躇っている――。
 もう一度口を開きかけた黒い怪物に、その人物は鋭く「鎮まれ」と繰り返す。
「戻れ……この者たちには手を出すな」
 一段低くなった声に、渋々といった体で骸骨頭が離れていく。そうして怪物は長く巨大な身体をうごめかせて、上空でとぐろを巻き始める。その様子を見て、アキがほっと息をついて右手を下ろした。しかし安心したのも束の間、上空に戻りかけていた頭部がぴたりと動きを止めると、再び口を開いてこちらに降りてこようという素振りを見せた。ぎょっとするアキを守るように、目の前の人物が面を持った右腕を横に突きだす。そのとき、こちらを向いた猫の面から、仄かに甘い香りが漂ってくることにアキは気づいた。
「戻れと言っているだろう。それとも――《宝》である俺の言うことが聞けないのか?」
 宝? アキは内心で首を傾げる。この人は、戸塚家にとっての宝――大事な人なのだろうか。そういえば髪が白い。整さまは確か、白い髪を持つのは本家の者だけだと言っていた――。
 今の言葉が効いたらしい。今度こそ化け物は大人しくアキたちから頭部を遠ざけると、そのまま闇夜の中にすうぅっと溶けていった。ぽかんと口を開けたままそれを見送るアキ。その両目から、とめどなく涙が零れていることに、本人はどうやら気づいていないようだった。
 黒い巨体が異臭と共に完全に姿を消したのを見届けると、カノが振り返ってアキの頬をしきりになめる。それにすら無反応で、アキは冷たい石の上にぺたりと座り込み、脱力している。
 少年は手に持っていた面を顔につけると、ぺたぺたと裸足で飛石を渡り、開け離しになっていた祠の扉をそっと閉めた。それからアキの前まで戻ってくると、
「何故中庭にいる?」
 と、先程化け物に対したとき程ではないが、強い口調で訊いた。その声にアキもようやく焦点を面に定める。数秒見つめてから、今の質問は自分に対するものだということを呑みこんだ。いまだ恐怖の後味が消え去らない舌は強張っているが、必死に口を開いた。
「た、立入禁止だった、ですか……? でも、整さまは、駄目だとは」
 言わなかった。初日の会話を思い出しながら口にした言い訳は、途中で「そうじゃない」という相手の声に遮られてしまう。
「言い方を変えよう。どうして君は、この中庭に入れたんだ?」
 どうして? 相手の言葉の意味することが上手く理解できず、アキは小首を傾げる。その間もまだひっきりなしに涙は零れていて、カノは無言で時折それをなめている。首を傾げているうちにふっと思いつき、アキは口を開いた。
「……この中庭、何か怖い言い伝えでも、あるんです?」
 さっきの化け物が出てくるなんて知っていたら、確かに入る気にはなれなかった。そう思いながらの発言だったが、そういうことでもない、と相手はまたしても首を横に振って、会話がかみあっていないことを示す。
「この中庭には、猫はともかくとして……」
 面の奥から聞こえる少しくぐもった声に、カノはなめるのを止めて面に顔を向けた。
「人間は、許可の下りた一部の者しか、入ることができないはずなんだ」
「え?」
 アキは目をしばたたかせた。脳裏で、使用人の手首に巻かれた赤い布が翻った。
「でもわたし、普通に入れましたよ? ……許可なんてもらっていませんけど」
「うん。君が何の支障もなく庭に踏み出すのを見て、俺は最初、もしや君が許可を得たのかと思った。でも君は印を持っていないようだし、なにより《閂》が……さっきの骸骨蛇のことだけど、あいつが姿を現したから、やっぱり違ったんだと分かって。すごく慌てたよ」
『やっぱり。私たちが中庭に入るところから、見ていたのね』
 アキにだけ聞こえる声でカノが呟いたので、彼女は腕の中にカノがいたことを思い出した。
『この猫の面、見覚えがあるわ。あのときも私たちを、いえ、アキちゃんを見ていた』
 それにこの匂い、とカノは言葉にせずに思う。かつて嗅いだことのある濃厚な甘い香りが、どうして面から……。
 思いに耽るカノを抱きながら、カノの言葉に何かもやもやとするものを意識しだして、アキも自分の記憶を辿っていた。カノの言う「あのとき」がわからない。じっと目の前の猫の面を見つめ、どこかで見ただろうかと考える。
 突然黙ってしまったアキに、面で顔を隠した相手は小首を傾げる。今更のように屈んで、冷たい石の上に座り込んだままのアキに手を伸ばした。身体が冷えてはいけないと気遣ったらしい。
 記憶の奥を夢中で探っていて、どこか上の空になっているアキは、特に何も考えずに反射的に右手を伸ばす。掴んだ手は硬かったが、温かい。ぐっと引っ張られて、勢い立ち上がる。その瞬間思考が現実に戻ってきたので、驚いて左腕の力は緩んでしまった。放り出されたカノは、なんなく地面に着地する。それを横目で見て、ついと近くなった猫の面に視線を移した時、待ち構えていたとでも言うように、面と関係のありそうな記憶がぽんと脳裏に飛び出してきた。
 

 
「そういえば、初日に……中庭を挟んだ向こうに、見たような」
 今しがた思い出したことをそのままぽろりと零してしまうと、面の向こうで相手が息を呑んだ。
「覚えて……いやそもそも、見えていたの?」
「え、見えていた?」
 オウム返しに問うたアキに、面が慌てたように左右に振られる。
「あ、いや、何でもないんだ……」
 と先程までの落ちついた声音から一変して、狼狽えたような声。しばしの沈黙。面に開いた二つの目穴から、しげしげと観察するような視線を感じて、真正面に立つアキはなんだか気まずくなる。いつの間にか涙は止まっていた。我慢できなくなって、顔を僅かに逸らせる。な、なんですか、とふやふやした声で尋ねれば、面からうーんと間延びした声が漏れた。
「不思議な人だな」
 そう言って、うん、と自分で頷く。アキは思わず顔を戻して、ぽかんとした。
 不思議な人から不思議って言われた……。なんだかとても、複雑な気持ちだ。何か言い返そうと思考を巡らせる。しかし彼女が仕返しを達成する前に、猫面は一度空を見上げて、一歩前に出るとアキの肩に軽く手をかけた。
「とにかく中に入ろう。また《閂》が性懲りもなく出てきても困る」
 またあの骸骨蛇が出てくることを思うと、アキは素直に言うことを聞くしかなかった。下駄を脱いで元通りに戻し、カノに続いて廊下に上がる。
 最後に入ってきた面の人物は、硝子戸を音一つ立てずに滑らかに閉じる。それから戸と戸の間に向けて、人さし指と中指を立てて刀の形にした右手を宙に何か文字を書くように動かすと、最後にぐるぐると時計回りの円を数度描いて、前方に突きだす仕草をした。それを興味深げに見守っていたアキの耳に、きゅいんと不思議な音が聴こえた。何をしたのか問うてみたかったが、結界の一種かもしれないと思い至ったのと、踏みこむと迷惑かもしれないという気がしたのとで、結局口には出さなかった。
「あ、あの……助けていただいて、ありがとうございました」
 振り向いた相手にすかさず腰を折って礼をする。
「あなたが来てくれなかったら、わたしたち、危なかった」
 カノの結界も間に合いそうになかった。あのまま骸骨にばりばりと食べられていたらと思うと、心底ぞっとする。
「いや……よかったよ、間に合って」
「本当に本当に、ありがとうございます。お礼に今度何か」
「お礼なんていいよ」と慌てたように面の前で相手が手を振った。
「……助けたくて、勝手に助けただけだ」
 ぼそりと付け足された言葉が、面のせいもあってくぐもっていて聞き取れず、アキは顔を上げて申し訳なさそうに眉尻を下げた。
「え? すみません、今なんて……」
「何でもないよ。それよりもう遅い。早く部屋に帰ったほうがいい」
 後ろに一歩下がりながら、穏やかに言う。そのまま闇の向こうに消えてしまいそうな気がして、アキは手を伸ばしかけた。なんだかまだ、この人と話していたいような気がした。猫の面で顔を隠した、名前も知らない不思議なこの人と……。そうだ、名前。
「あの!」
 去っていく相手の背中に向けて、思い切って少し声を大きくしてアキは呼びかけた。あまり広くはないその背中がびくっと驚いたように震えた後、面がこちらを振り向く。
「お名前を、教えてください。わたしは明……風見明といいます」
 名乗ってからじっと待つと、相手はもう一度身体ごとアキに向き直った。そのときアキにはわからなかったが、聴覚の優れたカノの耳は、知ってる、という掠れたささやき声をしっかり拾っていた。
 振り返ってからも、相手は暫く返事を返さなかった。ただ突っ立ってアキを見つめるだけで、口を開く気配すらない。持ち主の表情を隠してしまう、笑んだ猫の面を見つめ返しながら、もしや言いたくないのかもしれないという可能性にアキは気づく。
 それもそうか。自分は新参者で、しかも血縁の者でも、正妻として来た訳でもないのだから、良く思われていなくても当然だ。
 第一、整さまは全員に知らせてくれたとは言ったが、顔は知らないということもあり得る。見たところ、相手は白髪。戸塚本家の方なのだから、見慣れない下働きの者と思われて、そんな相手に自分が名乗るなど考えられないのかも――とあれこれ思い巡らせ始め、自分が失態を犯したのではとアキが焦り始めた頃になってようやく、
「……れい」
 猫面の人はそっけなく答えた。
「えっ」
「俺の名前。玲だよ。ただの……玲」
 それだけ言ってしまうと、くるりとアキに背を向けて、アキの部屋がある方とは反対の方向へ、すたすたと暗い廊下を歩いていってしまう。途中で角を左に曲がって、それっきり姿は見えなくなってしまった。
「……」
 相手が消えていった先をじっと見つめて、動く気配のないアキ。その足元で、猫のカノはふわぁ、と大きな欠伸を一つ。
 ふぅん、と心の中で思う。
(あの男……)とここでもう一つ欠伸。胡乱そうな目つきで最後に一瞥してから、アキの頭に直接呼びかけ、部屋に戻ることを促す。
(まぁ、いいけどね)
 しなやかに長い尾をふわりと揺らして、アキと共に、白猫はあてがわれた洋間へと足を向けた。

第二章 赤い目隠し

 翌日アキは、また皆が寝静まった頃に自室を出た。
 カノは一緒に廊下に出たものの、ちょっと散歩してくると言い置いてふいとどこかに一匹で行ってしまった。ついてくるかと思っていたアキはちょっと拍子抜けしたが、ここに来る前だって四六時中一緒という訳ではなかったので、別段珍しいことではない。大して気にもとめず、アキも一人で歩きだす。当てはないが、知らない場所を探検してみようという気分で、昨日とは反対の方向へと向かっていく。
 正直に言うと、一人でいるのが怖くない訳ではなかった。
 昨日中庭に出た怪物のことを思いだすと、背中が粟立つ。不気味な相手を前に、死ぬかと思った。やはり一日経ったくらいでは、恐怖は簡単には消えてくれない。
 何故屋敷の中庭にあんな怪物がいたのか。屋敷の中には、他にも怪物がいるのか――初日に廊下を引き延ばしたくらいなのだから、きっといるだろう――そんなことを意識し出すと、ちらちらと後ろを振り返りたくなる。それなのにこんな夜に、一人で屋敷を探検しようと、どうしてもしたいと思ったのは――。
 そこまで考えて、足を進めながらもふとアキは首を傾げる。はて、なんでだったか。
 そういえば、昨日自分たちは、どうやって怪物を追い返したのだったか。そこのところがよく思い出せない。眉間に皺を寄せて、アキはこめかみをぐりぐりと指先で押してみた。無理に思い出そうとすると、記憶に靄がかかったようになって、頭がぼんやりとしてきたのだ。
 カノが退魔結界を完成させて、怪物が怯んだ隙に、室内に逃げ帰ったのだったかしらん? でもとても結界を作り上げる時間はなかったような気がするけれども……。
 そんな風にぐるぐるとまとまらない思考を続けながら、アキは足を真っ直ぐに向けたり時に気分で角を曲がったりする。完全に何も考えずに直感に従って行く道を選んでおり、自室からどのような道筋を選んできたのか、本人は自分で全く把握していなかった。
 猫のように気ままな徘徊。これでは帰る時に相当苦労すると彼女が気づいた頃には、時既に遅し。足を止めた彼女の愛らしい顔がくしゃりと歪む。黒々とした双眸に、みるみるうちに大粒の涙が溢れた。
「……迷った……」
 アキはそろそろと口元に手をやり、おろおろとあたりを見回す。そして暗さのせいで昼とは違って見えるというだけでなく、確実に自分の知っている場所や事物が視界に入る範囲に全くないことを再度確認すると、
「……まよった…………」
 同じ言葉を、言ったところで何も変わらないというのに、さっきよりもたどたどしい口調で繰り返して喘いだ。ぽろりと涙が零れる。
 自分がどこにいるか分からないという状態は、人を一層不安にさせる。ただでさえ怪物の恐怖や誰かに見つかって怪しまれるという懸念を、胸の内で好奇心とぎりぎり拮抗させていたアキは、これで完全に狼狽えてしまった。
 どうしよう、どうしようと焦りばかりが募る。今はカノも傍にいない。こんなときに怪物に出くわしたりなんかしたら、ひとたまりもない。その上不安や恐怖といった負の感情は、妖怪や魔といった怪物を引き寄せる。そのことがわかっていても、胸の内を占め始めた落ち着かない気持ちは、なかなか引いてくれない。
 アキはぎゅっと下唇をかみしめた。こうなっては仕方がない。迷惑をかけるのは申し訳ないが、怪しまれるのを覚悟で、不審者と驚かれるのも覚悟で、どこかの部屋で眠っている人を起こし、元の部屋まで連れていってもらうしかない。
「……よし!」
 指先で目尻を拭って涙を払い、小声で小心者の自分に気合いを入れてから、アキは左右に並ぶ障子戸を眺めた。どの部屋もしんと静まっており、本当に人がいるのかどうか、外からではわからない。戸を開けてそこに誰もいなかったら、また閉めて誰かがいる部屋を探し当てるまで開けたり閉めたりを繰り返さなくてはならないだろう。しかし怖いと意識し出すとなおさら怖いもので、あまり無駄に開け閉めして、自分しかいないひっそりとした空間の中音を立てるのは、できるだけ避けたいように思われる。
 となると開ける前に外から中の気配を窺って、目星をつけてから行動を起こした方が無難だろう。そこまで考えて一人で頷き、早速アキはその考えを実行に移すことにした。
 まずは自分の右隣にあった障子戸に耳を寄せる。……寝息ひとつ聞こえない。次は廊下を挟んでその部屋の正面にある部屋――左隣の戸に顔を近づける。……人の気配は全く感じられない。少し前に歩いてから、また同じように耳を当てて気配を探る。
 時折妙なしかめっ面を作って背後をばっと振り返ったりしながらその行動を繰り返し、しまいにアキは廊下の突き当たりにまで来てしまった。
 僅かに障子戸の開いた丸窓から廊下に漏れる月明かりを鳥渡見つめてから、アキは右隣の障子を見つめる。どうやらそこの障子は、他の部屋のそれとは木枠の色が違うらしかった。暗いのでよく判別できないが、茶色よりもずっと明るい色――恐らく白に近い色をしているらしい。
 どうしてここだけ、とつくづく不思議に思いながら見つめているうちに、はっと気づいてアキはまた妙な表情を作って固まった。自分の愚かさを知ったというような、しまった、という顔だ。本人は頓着していないが、戸塚家嫡男である整に見初められる程の、せっかく整った愛らしい顔だちが見事に台無しである。
 アキは、外から障子越しに中の様子を窺う行為をさんざん繰り返した今になって、ようやく気づいたのだった。このあたりは左右に障子戸がずっと連なっているのだ。いちいち廊下の外から耳を澄ませて気配を探るよりも、どこでもいいから一つ障子を開けて中に入ってしまえばよかったと。恐らくどの部屋も襖で仕切られているだけであろうから、その襖を開けて部屋の中を移動していった方が断然早かったに違いない。
「馬鹿だ……」
 言ってくれる存在が傍にいないので、仕方なくアキは自分で評価した。馬鹿なことをしてしまった。でも思い至らなかったのだから、しょうがないじゃないの。そう割り切って、もう最後の部屋は外から窺うのをやめにして、さっさと開けてしまうことにする。目の前の白い取っ手に向けて、すっと手を伸ばした。

「駄目だよ」
 急に横から声をかけられて、心臓が飛び出しそうな程強烈な驚きのあまり、アキは叫び声を上げて卒倒しそうになった。しかし結局、どちらもすんでのところでせずに済んだ。というのも、アキが次にとる行動を瞬時に悟ったらしい相手が、アキの口を片手でふさぎ、もう片方の手で背中を支えたのだ。悲鳴を無理矢理押し込められたアキは、斜めに傾いた身体を支えてもらいながら、んぐぐっ、とくぐもった情けない声を発しつつ、すぐ傍らにいる人物を見上げた。
 最初に目に飛び込んできたのは、その目元を完全に覆った細布だった。それから、さらさらと流れる色素の薄い髪。細く差しこむ月明かりの中で見ると、白く透き通って見える。まるで水晶を糸にしたような輝きに目を奪われたが、髪より更に目を引いたのは、目隠しをしていても隠し通せていないその端整な顔立ちだった。
 アキは言葉もなく、ただ間近にあるほっそりとした顔を、食い入るように見つめる。と、その人はアキを自分で立たせてから、僅かに顔を背けた。その頬が微かに上気している。
「……駄目じゃないか、こんなところまで来て」
「え?」
 理解できずにぼんやり首を傾げるアキ。しかし駄目と言われる理由について考えるよりも、今彼女の意識は、目隠しをした相手のその声自体に囚われていた。
 どこかで耳にした、穏やかに透き通った声。はて、どこで聞いたのだったか――。
「この部屋に入ってはならないと、整さまに言われなかった?」
 再び問われてアキの意識がぐいと引き戻される。整の名前を聞いて、そういえばひとつだけ立ち入ってはならない部屋を指定されたような、と思い至る。その部屋は確か北の離れの奥にあり、障子の木枠が白く塗られているとか。
 ……木枠が白く?
 はっとすぐ傍らの障子戸を確認すると、目につくのは色の薄い木枠。自分が今しがた開けようとした扉がまさに、禁じられた唯一の部屋のそれだったのだとようやく理解し、アキは慌てて弁解を試みるべく口を開く。
「す、すみません……! 迷って部屋に戻れなくなって、あの……恥ずかしながら怖くなって、それで、部屋まで誰かに案内してもらうだけのつもりだったんです。誰かいないかと探していて、それでここまで来て……この部屋が、その入ってはいけない部屋だということを分かっていなくて……だからえっと、その……」
 大急ぎで馬鹿正直にまくしたてる。もう少しきちんと整理した言葉で謝るべきなのではと自分でも思うものの、口から出る言葉は理想とは程遠い。こんなものはただの言い訳でしかない。もっと、もっと他に言い方が――と焦れば焦る程、あまり会話の上手くないアキの口は重くなっていき、これ以上何も言えないような気がして、うぅ~と最後に小さく唸ってから、とうとう押し黙ってしまった。
 少しの間沈黙が下りる。気まずいアキは足元に視線を落とし、こんなときに限って傍にいないカノを恨めしく思う。
 不意にくくっと押し殺したような笑い声が鼓膜を打った。
 不思議に思ったアキが上目遣いに相手を窺うと、ごめん、と断って相手が顔を斜めに向け、口元を抑えるのが見えた。その身体が小刻みに震えている。それを暫しぽかんと見やってから、相手が笑っているのだということに気づいた。
「な、何がおかしいんですかっ」
「いや、ほんとごめん」
 俺にもよく分からないんだと震える声を発する合間にも、目隠しをしたその人は何とか笑いを鎮めようと努力している風であった。
「別に何も、おかしいところはないはずです!」
「うん、そうなんだけどね。なんでだろうね。……不思議だな」
 アキの抗議を否定するでもなく、首を傾げる。その最後にぼそりと付け加えられた言葉に、どくんとアキの心臓が大きくひとつ鼓動を打つ。
 不思議という言葉に、聞き覚えがあった。つい最近、言われたことがあったような気がした……とそこまで考えた瞬間、記憶の蓋が突然ぱっと開いて中身が明らかになり、アキは目を大きく見開いた。
 そうだ。この人、この声は。つい最近どころか――昨日。どうして忘れていたんだろう。
「玲……さん?」
 記憶の奥底から浮かんできた名前を恐る恐る口にすると、彼は笑いを収めて息を呑んだ。
「玲さん、ですよね? 昨日、わたしたちを助けてくれた……」
「驚いた。本当に……覚えているんだ」
 独り言のような呟き。相手は目隠しをしていて見えているはずがないのに、布越しにしげしげと見つめられるような感じがして、アキは困惑した。
「あの、どういうことなんです?」
 尋ねながら、ついさっきまで自分が昨日の出来事を忘れていたのはこの人の仕業なのではないか、とアキは直感する。一方玲はその問いには答えず、鳥渡ここで待ってて、と言い置いてから、なんとあっさり木枠の白い戸を開けて中に入っていった。呆気にとられて一瞬立ち尽くしたアキだったが、自分には駄目だと言ったのに! と悔しさと不可解さが一気に胸の内で膨らみ上がって、指示を無視して自分も後について中に入った。
 中は薄暗かったが、窓の障子戸が半分開いていたので十分様子は把握できた。十二畳程の空間で、書物のぎっしり詰まった書棚が壁二面をほぼ占拠しているのが目につく。奥には布団が一組敷かれており、他にも生活用品や家具が細々と置かれているようなのを見ると、どうやら誰かの居室らしい。

 一歩入ったところでアキが好奇心に胸をときめかせつつぐるりと部屋の内部を見回していると、奥の方で入口に背を向け、なにやらごそごそとやっていた玲が、手に何かを持って振り向く。瞬間、ぎょっとしたように両目を硬く閉じ、慌てて手に持っていた物で顔を覆った。その一瞬、目隠しを外した玲の瞳と、アキは視線がばちりと合ったのを感じた。
「な、なんで入ってきたんだ」
 猫の面を装着した玲が慌てて寄ってきて、肩を掴むや否やアキをぐいと押しだす。ふわりと不思議な香りがアキを包んだ。
「だって、わたしには入っちゃ駄目だって言ったのに、玲さんが入ったから」
 既に二度目にしたことのある猫面を肩越しに睨んで、アキは口を尖らせる。もう少し部屋の中を見ていたかったが、首を伸ばす前に玲が後ろ手に障子戸をぴしゃりと閉めてしまったので、それは叶わなかった。
「君は駄目でも、俺はいいんだよ」
 玲がぶっきらぼうに答えた。それはどうして、とアキが詰問する前に慌ててつけ足す。
「だってここは、俺の部屋なんだから」
「……玲さんの部屋?」
 目をぱちくりとさせて、自分の目線よりも少し高い位置にある猫の面と、禁じられた部屋の障子戸とを見比べる。立ち入るなと示された部屋が、玲の部屋だった。これは一体。
「どういうことです?」
 そもそも、先程まで玲がつけていた目隠しは何だったのだろう。それにどうして今は、目隠しを外して猫の面を。そういえば昨日も猫面をつけていた。祭りでもないのに室内で面をつけている人なんて目立つに決まっているのに、何故か昨日玲と会ったことを、自分はさっきまで忘れていた。それはどうして。
 いくつもの疑問をぐるぐると頭の中で巡らしているアキの肩に、玲はそっと手を置いて、彼女の身体が廊下を向くようにくるっと動かした。きょとんとしているアキに、
「とにかく戻ろう。部屋まで送るよ」
 と声をかけてから、先にすたすたと歩き始める。遅れてアキも慌ててついていく。
「俺は本来、君と関わってはいけないんだ」
 アキが横に並ぶと、玲は真正面を見据えたまま、感情の読み取れない声で呟いた。
「どうして?」
「君だけじゃない。本当は、あの人の許しを得た者以外の誰とも、口を利いてはいけないはずなんだ。それなのに……」
「あの人?」
 玲はちらとアキを一瞥してから、うーんと唸った。
「この面を被っていれば、こちらから接触しない限り誰にも見られないし、会話したところですぐに相手の記憶から消えていくはずなんだけど……君は多分覚えているだろうし」
 そう言ってこんこんと指先で面を軽く叩き、腕を組む。玲と一緒に角を右に曲がりながら、やはりこの面には術か何かがかけられていたんだ、とアキは好奇の眼差しを面に向けた。
「やっぱりこのお面のせいで、わたし、あなたのことをなかなか思い出せなかったんですね」
「……普通なら、思い出せなくて当然なんだよ」
 二人は母屋へと繋がる渡り廊下に足を運ぶ。隣を歩く玲の様子を窺いつつ、屋根つきの細長い廊下を見て、こんなところを来るときに通っただろうかとアキは眉を潜める。頭の片隅で考えてみても、記憶にないように思う。どうやら来るときは相当ぼんやりしていたらしい。
「君だけだよ……面をつけた俺のことを覚えていたのは」
 そこで足を止めて、玲はアキの顔をひたと見据えた。
「君は、何者なんだ?」
 一歩先で立ち止まり、アキは静かな表情で振り返って、猫の面を正面から見つめた。意識する度、どこか懐かしい、甘い香りが面から濃厚に立ち上る。
「わたしは、この度整さまに引き取っていただいた、ただの人間の娘です」
 さあと風が吹いて、腰まで届くアキのつややかな黒髪が緩やかになびいた。
「あなたこそ、一体どういう方なんですか?」
「俺は……」
 玲の右手がすっと上がり、面をくいと少しだけ上に持ち上げた。顔の下半分が、面の影から露わになる。
「……座敷童、さ」
 整った唇がにやりと弧を描き、一段階低い声を作って、怪しげな調子を出した。
「えぇっ!?」
 予想もしなかった答えが返ってきて、アキは驚愕の声を上げた。思わず一歩後ずさりし、まじまじと目を瞠る。怖くなったのかと思いきや、そうではなかった。むしろ頬を微かに上気させ、にやにや笑いを浮かべる少年を頭のてっぺんからつまさきまでじろじろと無遠慮に眺めまわしてから、
「ほ、本当ですか!」
 と瞳まできらきらとさせて、両手に拳を作ってぐいっと身を乗り出す。
 そんな彼女の反応がおかしかったのか、玲は一瞬呆気にとられた後、口元を少しばかりむずむずさせていたかと思うと、堪えきれずにぷっと吹き出す。左手を口元にあててくつくつと笑い、面を元通りに被り直して、笑いながら首を横に振った。
「ごめん、嘘。冗談」
 ぱちくりと目を瞬かせるアキの小さな頭をぽんと軽く叩くと、止めていた足を前に出した。
「本当に、おかしな人だなあ。どうして今ので信じるんだ」
「ふえ?」
 玲の手が触れたあたりに無意識に右手をやりながら、アキは途惑った声を上げる。ちょっと考える素振りをして、さてはと口を開いた。
「玲さん……わたしのこと、馬鹿だって、思ってますね?」
「そんなことは思わないよ。不思議な人とは思うけど」
 おかしそうに言う玲に、アキは言い方が違うだけで同じことでしょう、と頬を膨らませた。
「わたしなんかより、玲さんの方がよっぽど不思議です」
 これはアキの本音だった。彼の存在は謎に包まれている。座敷童と言われてアキがすぐに疑わなかったのも、玲の纏う不思議な雰囲気が、その言葉をいかにも本当らしく見せていたからだ。カノが傍にいてくれること以外は平凡な少女だと自認しているアキからすれば、不思議そのものである玲から不思議と言われるのは、やはり納得がいかない。

「俺自身は別に、不思議でもなんでもないよ」
 どの口が言うのか、とアキが胡乱そうな目つきで横を見ると、これは本当だって、と玲は言い添える。
「例えるなら、君は木に注目するあまり、森が見えていないようなもの。不思議というならそれは俺ではなくて、この戸塚家の方さ。昨日君が中庭で経験したことだけでも、そう思わない?」
 言われてアキは昨夜のことを思い返す。一度玲のことを思い出してしまえば、記憶に靄がかかっていた時のことが嘘のように、全てを鮮やかに記憶の棚から取り出すことができた。不気味な黒い骸骨の蛇。あんなものは初めて見た。と、アキの中で疑問が生じる。
「そういえば、どうして整さまは、中庭に入るなとわたしに仰らなかったんでしょう」
 危険な怪物がいるならば、せめて注意ひとつくらいしてくれてもよかったはずだ。それとも整は自分が骸骨に食べられても構わなかったのだろうか――と恐ろしい考えがぽんっと生まれて、アキは苦虫をかみつぶしたような顔をつくる。
「わざわざ立入を禁ずる必要がなかったからだ」
 角を曲がったところで急に声の音量を大幅に下げ、玲が淡々と答えた。人さし指を口元にあてがい、横目で一瞥をくれてアキにも声を潜めるように促す。それを見て彼女も素直に頷いた。恐らくこのあたりにある部屋には、人がいるのだろう。逆に言えば、これまで横を通り過ぎてきたいくつもの部屋は無人だったということだ。
「昨日も言ったけれど、あの中庭は許可を得た者しか入ることができない。結界を張っているからね。人に入ろうという気すら起こさせないように、術を施されているんだ」
 そんな術がかけられていたなら、どうして自分は中庭に入ろうなどという気になったのだろうとアキはなおさら不思議に思ったが、考えたところで答えは出そうになかった。部屋に戻ったらカノに話してみよう。そう考えてとりあえずこの問題は脇に置いておく。
「そうだったんですか。……あの祠には、何が祀られているんです?」
 ついでとばかりに重ねて問うと、玲は口を開く前に、微かに躊躇う素振りを見せた。
「……戸塚の守り神の、宝物だよ」
 重々しい口調で返ってきた答えに、戸塚家には守り神がいるんだ、と素直に感心する気持ちと一緒に、変だな、という印象をアキは持った。
 祠に祀られているのが守り神そのものではなく、神の宝物だなんて。そんな祀り方もあるのだろうか。そもそも神の宝物とは何なのだろう。眉を潜めて思い巡らすアキの隣で、補足が必要と感じたのか、玲は更に続ける。
「君を襲った怪物――《閂》は、祠の番人だ。普通ありえないんだけど……万が一君みたいに許可を得ていない人間が中庭に入ったときは、昨日みたいに実体化して容赦なく侵入者を襲う」
 思い出して、アキの背筋にぞくりと悪寒が走った。ぶるぶると頭を振って、脳裏に浮上しかけた怪物の姿を追い払う。ぎゅっと一度強く瞬きをして何度目かの角を曲がると、不意に見慣れた空間がアキの眼前に現れた。あてがわれた部屋の扉が見える。無事に帰ってこられた、とほっとすると同時に、残念な気持ちが胸の中にくすぶった。
「さて、ここでもう大丈夫だよね」
 足を止めてアキに向き直り、玲はそっと彼女の頭に手を乗せた。
「もう中庭に入ろうとしたり……俺の部屋に来たりしては、いけないよ」
 そっと撫でながら、幼子に諭すような柔らかい声をかける。目穴の向こうにある二つの瞳からの視線をひしひしと感じつつ、アキは切なさにきゅっと胸が締めつけられたように思った。
 もう少し、この人と一緒にいたい――。
 思わず頭上に手をやって、柔らかな温もりをそろそろと与えてくれている玲の手を両手で掴む。硬い手は一瞬びくりと強張ったが、特に抵抗はしなかった。掴んだその手を、ゆっくりと自分の顔の前まで降ろしてくる。自分のよりも一回り程大きく、優美な手をじっと見つめてから、何を思ったか、アキはその手を自分の頬にぺたりとつけた。途端、面の下で玲がぎょっとしたように目を見開く。
「!?」
 明らかに狼狽えている相手の様子を気にした風もなく、どこか宙に視線をやりながら、玲の手に頬をくっつけアキはじっとしている。

「あ、明……さん?」
 どうにかこうにか、といった調子で喘ぐように玲が声を絞り出すと、アキは面の目穴に視線を移してにこりと柔らかく笑った。
「こうしていると、なんだか落ち着くんです」
「……?」
 意味がよく飲みこめていない様子の玲に、言葉足らずと自分で気づいたアキが、思案顔で、自分の気持ちを伝える言葉を頭の中に探す。しかしどうもぴたりと当てはまる言葉がないように思われて、仕方なしにアキは一番印象が近い気のする言葉を、何の考えもなしに選び出した。
「上手く言えないのですが……どうやらわたしは、玲さんに惹かれているようです」
「えっ」
 びくりと大きく震えた玲の手を、頬から離してアキは両手でそっと包みこんだ。
「わたし、玲さんにもっと、近づきたい」
「そ、それは……」
「お願いします。明日も会いに行きたいです」
 とアキが澄んだ瞳でじっと見上げてくるものだから、玲は言葉にぐっとつまってしまった。
 この可愛らしい口が発したお願いに、言葉以上の意味なんて恐らくないのだろうと玲は頭ではわかっていた。出会って間もない彼にもそうと分かる程、アキは信じられないくらい純粋無垢で、恐ろしく無知な少女だった。彼女の言動や表情、纏う雰囲気、そして何よりその瞳が、馬鹿正直に、周りの者に娘の本質を伝えているのであった。
 しかし頭でわかっていることと心に生じる気持ちとの間には、時折ずれが生じることがある。面をしていて本当によかったと切に思いながら、玲は小さな咳払いをひとつして、どうにか気持ちを落ち着ける。自身の心ではなく頭の方に従うべく、手に力をこめてアキの小さな両手を振り払おうとして――逆にぎゅっと握ってしまった。
「あ、あれ!?」
 自分で自分の行動に驚き、アキ以上に目を丸くする。慌てて当初の予定通り手を振り払い、誤魔化すように小さく手を振り、
「ご、ごめん。今のはナシ」
 と動揺のあまり自分でもよくわからない謝罪を述べる。照れのせいか、面の下の頬が熱い。それを感じて、こんな風に自分が取り乱すのは初めてじゃないかと、玲は新鮮な驚きに打たれる。
「明日も会ってくれるんですね!」
 今の「握手」を誤解したらしい、アキが小声を弾ませて向日葵のような笑顔を浮かべた。はっと我に返って、そんなつもりではなかった、と修正するべく口を開くが、
「昼だったら」
 と頭で考えていたのと全く異なることを言ってしまって、更に愕然とするばかり。思っていることと真逆の言動を続けてしてしまった自分で自分が分からない。
 そんな玲の当惑など知る由もなく、アキは頬をほのかに染めて、わかりましたと嬉しそうに頷く。
「今日も、本当は玲さんに会いたかったんです」
 部屋を出た時は面のせいか忘れていたが、誰にも見られずに玲と会うため夜の探検に出たのだと、今ならアキにも思い出せた。
「お礼を言いたくて……昨日は本当に、ありがとうございました」
 腰を折ってアキがぺこりと頭を下げる。
「いや、お礼なんていいって、昨日も言ったじゃないか」
「いいじゃないですか。わたしは言いたいんです」
 ふふ、と笑うアキにつられて、いつしか面の下で玲の口端も少し上がっていた。本当はいけないと分かっている。でも、この少女は面をつけていても自分のことを覚えていてくれた。もしかしたら、特別な娘なのかもしれない。もう少しだけ、関わってもいいだろうかと欲が芽生えた。
「明日昼八ツ頃、お部屋に遊びに行きますね」
「道もう覚えた?」
「……はい、ばっちりです」
「……迎えに来ようか?」
 一瞬笑みの強張ったアキに、玲はついそんなことまで申し出てしまった。言ってしまってから、できるかなと自分で内心首を捻るが、幸いアキは慌てたように首を横に振った。
「そっ、あ、いえ、大丈夫ですっ」
 そう言って再度軽く頭を下げる。
「遅い時間に訪ねてしまって、ごめんなさい。ここまで送ってくださって、ありがとうございます」
「気にしないで。俺普段夜遅くまで起きてるし」
 言いながら玲は面に手をかけ、そっと外す。面の下から美しく整った中性的な顔が現れて、アキは息を呑んだ。玲は何故か目を閉じていた。
「俺の部屋は基本的に立入禁止だから。……これを被って来れば、誰にも見咎められない」
 両の瞼を下ろしたまま面を片手でアキに差し出す。もう片方の手は袂から赤い細布を取り出していた。アキが受け取ったのを感じ取ると、玲は両手で手早く目隠しをする。
「……どうして目を隠すんです?」
 面を胸に抱いてアキが問う。
「そういう約束だからね」
 儚い微笑を顔の表面に乗せて、玲はアキに背を向け、おやすみの言葉を残して元来た道を戻っていった。

 玲が部屋に戻って深いため息をつき、敷かれた布団にごろりと横になってから暫くした後。
 かたんと音を立てて障子戸の開かれる気配がした。仰向けに横たわったまま玲が感覚を研ぎ澄ませると、慣れた気配が近寄ってくるところだった。小さくため息をつく。傍まで来ていた気配がふっと揺れた。
「あら、起きてたの」
 玲は上半身を起こして顔を相手に向けた。
「……あと二、三日は来ないと言っていませんでしたっけ」
「気が変わったのよ」
 頻伽の声が玲の耳元で悪戯っぽくささやく。同時に目の位置に巻いた布がつと引かれた。しゅるりとか細い音を残して、布が取り去られる。それでも瞼を下ろしたままでいると、冷たい指が瞼を撫でる。
「あたしのいない間、この綺麗な瞳に、誰も映していないでしょうね?」
 指が瞼から頬へと移動し、やがておとがいにかかる。玲が閉じていた瞼をそっと開くと、つくりもののように美しい顔が、真紅に輝く二つの瞳に小さく映った。
「ずっと目隠しをしていましたから」
 表情のない玲の頬を、玉のように滑らかな両手がそっと包み込んだ。
「可愛い可愛い、あたしの玲」
 女は壊れやすい大切な物を扱う慎重さでもって、顔を寄せると少年に頬ずりした。目を細めて艶やかな笑みを浮かべる。
「大事な大事な、あたしの《宝》」
 玲は無言でされるがままになっている。相変わらず顔には表情という表情は浮かんでいなかったが、暗闇の中音もなく閉じられた瞼の縁で、長い睫が微かに震えた。

 今日は朝からアキが妙だ。
 元々のんびりぼんやりとしていることが多い娘だけれど、今日はいつも以上に上の空。特に早めの昼食を終えてから、一層そわそわとして落ち着きがない。縫い物をしては立ち上がってうろうろし、しばらくすると座り直して再び布と針を取り上げる。呆けた顔で布に針を刺していたかと思うと、時折顔をしかめて肩を縮める。左手を目の前まで持ってきて、たまに赤い玉の浮いた指先を、潤んだ目をしてくわえる。
 そんな彼女を、白猫カノはおかしさ半分気に入らなさ半分、複雑に入り混じった気持ちを抱えて、自慢の長い尾をゆらゆらと左右に振りながら半眼で見つめている。
 またアキが布と針を唐突に置いて立ち上がり、小さな部屋の中を半周してから元の位置に座り直して布を手に取る。もうこれで何度目かわからない奇行。呆れた気分を抱えて、カノはあくびをした。そろそろうっかり指を刺す頃合いじゃないかと思うのと寸分違わないタイミングで、アキがまたしてもひゃっと痛そうに首を竦める。やれやれ、と揺らしていた尻尾を寝台の上にぱたりと倒した。
「アキちゃん、変よ」
 ぼそっと言うと、指を口から離してアキが心外だ、と言わんばかりに目を丸くした。
「いきなり何言うの」
「だって、変だもの。すっごく」
 本心からカノは言ったのだが、アキはどうやら自分の今の状態を把握していないらしい。単なるカノのいじわるだと解釈したのか、再び手元の布に糸を通し始めた。
「すっごくは余計! カノったら、ひどい」
「ひどいと思うなら泣いてちょうだい」
「なんで!?」
 投げやりなカノの台詞に、アキはばっと振り向いて大げさなくらいの反応を見せる。その拍子に、針で指を突いてしまったらしい。ぴゃっと小さな悲鳴が上がった。
 はぁ、とカノの小さな口から人間臭いため息が漏れる。身体を起こして寝台から降りると、アキの元まで駆け寄り、彼女の顔と手元に交互に視線をやった。
「……やっぱり、変過ぎるわ」
 真顔で落ち着いた声音を放つ猫を、アキはじろりと睨んだ。目尻に涙が光っている。
「変、変、変って三回も言わなくっても!」
「だって……」
「なによ」
「アキちゃん、巾着作ってたんでしょ?」
 アキの膝の上に垂れた紺色の布にぽすっと前足を置いて、カノはひたとアキを見据えた。
「これどう見ても大きすぎるわよ。不格好よ。これじゃずだ袋よ」
 アキの身体がびしりと固まる。何故だか雷が落ちる幻聴が聞こえたような気がした。平然としているカノの前足が踏みつけている布を見下ろす。いまだ製作途中のそれは、言われてみれば確かに、巾着にしては異様に大き――くないこともない。どうして今まで気づかなかったのだろうと、我に返った今では自分でもおかしく思うが、長さを測ったときアキはそれをおかしいとはちっとも感じなかったのだ。上の空にも程がある。
 しかし自分で自分を変だったと認めるのは癪なので、アキはそっぽを向いて
「大は小を兼ねる、っていうでしょ。これは大きめの巾着なの」
 非常に無理のある言い訳を口にする。カノは何か言いたげな視線を向けていたが、何も言わずに扉を見やった。折しもコンコンと二度ノックの音が鳴り響き、扉の向こうから真理子らしき声がする。どうぞ、と声をかけると間もなく扉が開き、にこにこ顔の真理子が現れた。
「頼まれていたもの、お持ちしましたよ――あら?」
 紫色の風呂敷に包まれた小さな包みを手に入ってきた真理子の視線が、アキの手元に流れていく。間を置かずに、得心がいったという風に、優しい女中はひとつ頷いた。
「アキさまは本当に裁縫がお上手ですね。そのずだ袋、たくさん物が入りそう」
「……っ!」
「ぶっ……!」
 針と布を取り落してしまったアキの横で、カノは慌てて猫らしくない表情を浮かべた顔を後ろに向け、身体を震わせながら笑いをかみ殺す。
 悪気など全くない真理子が笑顔で扉を閉めて部屋を出て行くのと、顔を真っ赤にしたアキがほろりと最初の涙をずだ袋の上に零すのとは、ほぼ同時のことだった。

 昨夜も来たばかりの、離れの奥にある特別な部屋。その白塗りの障子戸を前にして、アキはまるで、未知なる不思議なものを見ているような心地で、立ち尽くしていた。ここが立入を禁止されるような特別な場所である、ということが雰囲気で理解できた。
 足元に寄り添うカノも、無言ではあるが、青い双眸になんとも形容し難い、こみ入った光を灯している。きっと自分と同じように妙な感慨に包まれているのだろう、とアキは面の下で神妙な面持ちをつくる。
 それにしても――とアキは考える。昨日は特に何とも思わなかったのに。どうして二度目の今になって、不思議な心地に囚われるのだろう? どうして今になって、中に入るのを躊躇っているのだろう? 冷や汗を垂らしながら、アキは昨夜ここに来たときと今との違いを脳裏に思い浮かべ、比べてみようとした。
 昨夜は迷子になった心細さと恐怖、玲に会えた興奮のために、見逃していたのかもしれない。それとも今は明るいお昼で、夜には見えなかった、欄間に掘られた松や鶴までくっきりとよく見えるからだろうか。もしくは貸してもらった、不思議なお面をつけているから?
 そんなことを考えてみるが、しかし結局混乱の末答えを出すのを諦めて、アキはごちゃごちゃと絡まり合った思考の渦を丸投げした。
 多分、単に気持ちの問題なのだ。部屋に入りづらいと思うのは臆しているだけで、別に入ろうとするのが危険とか、そういうものであるはずないのだ。だって昨日も入ったのだから――と思うのに、アキは何故か障子戸から二歩程下がった場所から、足を踏み出すことがなかなかできないでいる。冷や汗を垂らして途方にくれて立ちつくし始めてから、既に相当の時間が経とうとしているのではと思われてならない。あまり遅くなるのはよくないし、第一ここにいるのを誰かに見られでもしては、と考えると不安が募る。そんな中、どうしよう、と今まさにアキが情けない声をかけようとした瞬間、それまで同じように固まっていたカノが一歩分部屋に近づいた。
「解けたわ」
「え?」
 何が、と尋ねる必要はなかった。カノが口を開閉させてそう言うや否や、アキたちを押しとどめていた妙な圧力がふっと掻き消えたのだ。驚いてアキは目を瞬かせる。さっきまでの妙な空気が、まるで錯覚だったかのように跡形もない。
『結界の一種よ』
 疑問符を大量に浮かべて首を捻っているアキの脳内に、カノの優しい声が響く。
『侵入や攻撃を防ぐ類の結界じゃなくて、出入りする者の存在を検査するような――強いて言えば、門番みたいな結界よ』
「け、結界にも色々あるんだねぇ……」
 面を押し上げて口の動きだけで感想を伝えるアキの口元は、少し引きつっている。そんな彼女に、そりゃそうよ、とカノは大真面目な顔をつくって深く頷いてみせた。
『無視してそのまま入っていたら、私たち目をつけられていたでしょうよ。アキちゃんもいい加減、護身のために最低限の結界術くらい学んで修行しなさいな。面倒臭がらないで』
「そ、それより結界破れるなんて、すごいねカノ。そんなこともできたんだ」
 アキは都合の悪い話題からカノの意識を逸らせようと、無理矢理話題転換を図る。アキとしては単にそれ以上勉強の話をしたくなかっただけで適当に口走った言葉だった。しかしそんな他愛のない言葉に対し、カノはアキの予想していなかった反応を示した。何を言っているのか、と訝しげに瞬きをした後、はっと何かに気づいたような冴えた表情を浮かべたのだ。それから一瞬後にはいつもの穏やかな微笑に戻ってしまったが、その表情の変化は鮮やかな印象をアキに残した。
『すごいでしょ。まぁ、それはともかく、部屋の主に挨拶しましょうよ』
 今受けた印象は矢文のようだ、とアキは頭の片隅で思う。いきなり飛んできた、直感からの知らせ。何が書いてあるかは読めなかったけれど、その見えない手紙には何か大事なことが書かれていたのだ。
 ――カノは何かをわたしに隠している。
 天啓のように閃いた一つの考え。それはアキにとってひどい衝撃をもたらすものであった。だが表面に出すまいとなんとか堪えてアキは笑んで頷く。被った面の顎部分をつまんで持ち上げながら、戸に顔を寄せて玲の名を呼んだ。
 
  8
 
 それから毎日のように、アキは玲の部屋に遊びに行った。
 真理子に用意してもらった茶菓子を紫の風呂敷に包んで、それを片手に意気揚々と離れへと出向く。あの不思議な猫面を貸してもらっているので、廊下で誰かとすれ違っても、誰もアキに気づいた様子はない。玲に会うことを目的に離れに赴いているのは確かだが、行き帰りに面を被ったまま誰かと行き合うのも、最近ではアキの密かな楽しみのひとつ。なんだか自分が透明人間になったみたいで面白くて、ついつい寄り道をしてしまったりもする。
 カノはついて行くときもあれば、行かないときもあった。
 元々自由を好む気まぐれな猫であるし、アキだって束縛はしたくない。戸塚に引き取られる前から、別に四六時中一緒にいた訳でもないのだから、今更それを気にするのもどうかと思う。それでもアキは、寂しいような不安なような、落ち着かない気持ちを持て余すようになった。初めて二人で玲の部屋を訪れたとき以来、カノが自分に背を向けてどこかに行ってしまうときは、知らず知らずのうち縋るような目で見送っている。
 玲の部屋ですあまをちびちびとかじるアキの口から、うぅ、と小さな呻き声が漏れた。
「どうしたの、アキ」
 薄桃色をした菓子の最後のひとかけらを口に放りこみ、文机の上に開いていた本の頁を右手で押さえたまま、玲が尋ねる。アキは彼から少し離れたところで、壁に背をもたせかけて膝を立てて座っていた。両手の指先で食べかけの菓子を唇に当て、上目遣いに視線を玲に向ける。
「なんでもない」
 拗ねた調子でそう言って、ぎゅっと一度目を硬く瞑って開く。脳裏にちらつくカノの大きな後ろ姿を無理矢理意識の外に追いやった。
 玲は目隠しの布越しにじっとアキの様子を窺っていたが、ふっと微笑んで肩を竦める。
「ところで、どうしてそんなに離れたところにいるんだ? こっちに来たら」
 手招きされて、アキが嬉しそうににこりと笑った。すあまの残りを口の中にしまい込み、足元に置いていた湯呑を取って立ち上がる。文机の上に湯呑を置いて、人一人分のスペースを空けて玲の隣に腰を下ろす。
「あそこから」
 アキが今まで自分が座っていた位置を指先で示す。
「玲さんが本を読んでいるのを見るのが、好きなの」
 見えている訳ではないだろうに、指し示された方向に顔を向けていた玲の白い顔に、僅かに赤みが差した。
「……見ていて面白いものでもないと思うけど」
「面白いとかじゃなくて。本を読んでる玲さん、好きなの」
 ふわりとした笑顔で、綿あめみたいに柔らかく甘い声で、アキが訂正する。玲は鳥渡妙な表情を浮かべた。咄嗟に本から離した右手を額に当て、顔をアキから背けてはあぁとため息をつく。解放された本は、ぱたりと自然に閉じてしまった。
「直球すぎだ……」
 アキは目ぱちぱちと瞬かせる。
「ちょっきゅ?」
「しかも無自覚」
 わかっていない様子の彼女に、恨めしそうに口を曲げた顔を向ける玲。左手を無造作に彼女の額に近づけると、丸めて親指で抑えていた中指を、勢いをつけてぴんと弾いた。額に走った衝撃にアキはひゃっと飛び上がる。
「な、なにする!」
 片手を畳について、じんじんと痛む額をもう片方の手で撫でさすり、涙目で憤慨する。そんなアキからふいと顔を背けて、玲は机に頬杖をつき、指先で閉じてしまった本の頁を捲った。
「深い意味ないからって、男に対してそういうこと、気軽に言うもんじゃありません」
 ぶっきらぼうな口調で諭される。アキは痛みも忘れ、きょとんとして玲の横顔を見つめた。今言われた言葉と自分の発言を暫し頭の中で反芻し――ぽんっと音が聴こえてきそうな程、一気に顔を真っ赤に染め上げた。
「ふ、深い意味など!」
「わかってるよ……アキは考えなしに言ってるだけだって」
 頭ではね、と心の中でだけ呟いて、玲は先程まで開いていた頁を探り当てる。むー、と不満気な声と視線をひしひしと感じたが、それは敢えて無視する。続きを「読もう」としたところで、自分の発した言葉が毒矢のように胸に突き刺さって、じわじわと効力を全身に及ぼしていっているのに気がついた。

 深い意味。そしてアキ。
 アキがこの戸塚にいるということがどういう意味か、玲には痛い程よくわかっている。そして当然、次期当主であり、アキを引き取った本人である整にも。
 アキの生家である風見家の人々は、アキを引き取ったのは、他ならぬ整の意思だと思っていることだろう。表向きは養女としていても、それはアキの年齢を慮ってのことで、実質的には妾にするつもりでアキを「買った」のだと。
 風見家は金銭的な問題を抱えていた。最悪の場合娘二人を遊郭に売ることも考えねばならないような状況だったと玲は聞いている。家族思いの家長は、何としてでもそれを避けたかった。
 そんなときに名門華族の嫡男が声をかけてきた。金はいくらでも払うから娘を欲しいなどと言われれば、たとえ妾という扱いであっても、郭よりはずっとマシだという思いで、大事な娘を泣く泣く手放したに違いない。
 確かにアキは、妾とするために引き取られた。しかしそれが整の意思によるものではないことを、玲はよく知っている。
 整はアキを引き取ったことに、できることなら深い意味など見出したくないだろう。彼は、可能ならアキを単なる養女として済ませたいと思っている。
 この時代には珍しく、整は恋愛結婚をした。一途で誠実な男だから、愛する妻を裏切りたくないと考えている。本当ならアキを引き取りたくなどなかっただろう。だが戸塚の者が決して逆らうことのできない存在に命じられては、流石に整も我を通すことができなかった――。
「本当に不思議。目を布で覆っているのに、どうして見えているの?」
 思いのほかすぐ近くで可愛らしい声が聞こえて、玲の思考は崩壊した。反射的に身を引きながら慌てて顔をそちらに向けると、丁度アキが手をそっと伸ばしてくる気配がして、更にぎょっとする。いつの間にか、二人の間の距離が縮まっていた。指先が赤い細布に触れる寸前で、玲はその小さな手を掴んで止めた。
「触るな」
 自分でも驚く程、低く鋭い声が出た。左手の中握り込んだ彼女の手がびくりと震える。その反応に、しまったと自責の念に駆られる。玲が解放してやると、アキは膝の上で小さな拳を二つ作った。
「ご、ごめん。言い方がきつかった」
 布を通して接する暗い世界の中で、目の前にいる小さな少女が、浮かしていた腰を下ろして俯くのが気配で分かる。はっきりと視認はできないから、その表情は分からない。ただ視覚を封じている間、他の感覚が一層鋭く研ぎ澄まされている玲には、強い感情が肌を刺すようにひしひしと伝わってくる。その感情が彼女の中で一部に集まっていって凝縮されて、今にもじわりと溢れ出しそうに感じた。泣いてる――? 玲はぎゅっと胸を強く締めつけられたように思った。
 考えるよりも先に手が動いていた。頬の辺りに触れると、丁度熱い想いの込もった一滴が落ちてきて、玲の指先を濡らした。慈しむように優しく頬を数度撫でると、アキの顔が少し持ち上がる。目尻を指先で拭ってやると、アキは大人しくはらはらと涙を零してじっとしている。
「怒った?」
 語尾が少し震えていた。玲の中で、熱い感情がぐいと首をもたげた。言葉の代わりに、衝動に身を任せて彼女の背中に腕を回しかけ――すんでのところでぐっと思いとどまって、頭の上にぽんと手を置く。
「怒ってなんかないよ」
 ぐりぐりと少し乱暴な扱いで頭を撫でる。身体の中で行き場のない衝動が暴れまわるが、完全に無視して笑みを浮かべた。
「ごめん。怒ってないけど、この布には触らないでほしい。これは特別なものだから」
 玲の笑顔を見て安心したのか、アキの顔から強張りが消えた。
「とったりしないよ」
「うん。でも、一応ね。……俺はこれで、目を隠してないといけないから」
 少し考えてから、アキは恐る恐る口を開く。
「……『そういう約束』だから?」
 出てきた言葉に、玲の手の動きが一瞬だけ止まった。アキを部屋に送り届けた際、玲はそう答えたのだった。そのときのことを思いだしながら彼は、そう、と頷く。
 アキは単純でどこか抜けたところはあるが、人を気遣うことのできる娘だ。本当はもっと色々と聞き出したいだろうに、玲が嫌がるだろうとこれ以上追及するのはやめにしたようだった。そっかと納得して、カスミ草の花みたいに、儚げに笑う。それでもまだ涙は止まっていない。玲は、まるで見えているように、滑らかに動く指先で優しく拭い続けてやる。おかしいな、と照れと焦りの入り混じった声で呟いて、アキは涙を止めようと頑張っているらしい。
 えらく泣き虫な娘の傍にいると、玲は堪らない気持ちになってくる。
 
10
 
 これは自分の問題だ――彼は自分に言い聞かせる。アキを巻き込むべきではない。それは分かっている。あまり話すと、優しい彼女を苦しめる結果になりかねない。
 それでも、あと少しだけ。少しだけなら……構わないだろうか?
「この布は、俺から視界を奪うために巻いてるんじゃない」
 蒸し返すように玲がぽつりと呟いたので、アキは驚いた。目隠しに関する話題は嫌なのかもしれないと思って、これ以上は聞かないつもりだったのに。
「といって、もちろん物がはっきり見えている訳じゃない。ただ……気配や雰囲気はわかる。本は――これは術をかけてもらったからだけど――文字を読むんじゃなくて、触れれば内容を『みる』ことができるんだ」
 驚いた拍子に涙も引っ込んだらしく、アキの目尻から新たに零れる気配はなくなった。それを感じとったのか、玲の優しい指も静かに頬から離れていく。アキはそれを惜しいと思った。そしてそう思った自分に気づいて、何故だか気恥ずかしさに視線を泳がせた。
「ねえ、アキ」
「な、なに?」
 不意に名前を呼ばれてアキが視線を玲に戻すと、彼はどこか自嘲気味な薄笑いを浮かべていた。初めて目にする彼のそんな笑顔に、アキは胸を突かれる想いで硬直した。
「何のために、俺が目隠しをしていると思う?」
「何のため、って……」
 知っていたら尋ねたりなんかしない。それは当然、玲もわかっているはずだった。
 アキは、赤い細布に覆い隠されている玲の目元に視線を注ぐ。問いの答えを見つけ出そうとして。玲がどうしてそんな問いかけをしたのか、その意味を探ろうとして。
 何らかの答えが出るまでそうしていたかったが、ふと玲が戸の方に顔を向けて、小さく首を横に振った。その仕草を見て、アキは心の中でため息をつく。
「ごめん。時間だ」
 予想していた通りの言葉。なんとか笑みを浮かべて、折り畳んで床に置いていた風呂敷と面、自分の湯呑とを手に立ち上がった。ちらりと部屋の隅に置かれている枕時計を見れば、夕七ツを回っていた。アキもそろそろ戻らないと、カノや真理子に心配をかける。
「明日も来るね」
 そう言うと、今度は玲も穏やかな笑顔になった。
「大丈夫なときは、また障子の間にこれを挟んでおくよ」
 玲の指先に、小指程の長さの赤い絹糸がつままれている。うん、とアキが頷く。
「駄目なときは白い糸だよね」
 二人だけの合図。そう思うとどこかくすぐったいような、胸がほっこりと温かくなるような。尋ねなくても、簡単なことだから既にお互い承知し切っていることだ。それなのに、アキはそのくすぐったさを少しでも長く味わいたくて、わざわざ口に出して確認する。
「そう」
 うるさがる様子も見せず、しっかと頷いてくれるのがまた、アキには嬉しい。
「また明日ね」
 本当ならもう少し一緒にいたい。だけど明日また会える。その楽しみが、笑顔で別れを告げさせてくれる。
 面を被ってから戸を開けて廊下に出る。閉めるときにもう一度視線を投げると、アキの目に、座ったまま軽く右手を振っている玲の姿が映った。
 トンと微かな音を残して戸が閉まる。本の溢れる部屋に、玲一人。再び静けさが押し寄せてくる。
 玲は本を開いたまま、暫くアキの去った障子戸に顔を向けていた。やがて本を閉じ、布の上から瞼に、手でそっと触れる。先程アキの涙を拭っていた手。まだ少し指先が濡れていて、布に薄く染みができた。
「アキ……」
 玲は掠れた声で名前を呼ぶ。口にした瞬間自己嫌悪に襲われて、玲は膝を立てて顔を伏せる。白く輝く細い髪が、さらさらと流れて零れ落ちた。
 どうして謎かけみたいなことをしたのだろう、と重いため息をつく。どうしてアキに、あんなことを言わずにおれなかったのだろう。言うべきじゃなかった。アキは知らなくていいことなのだ。それなのに、我慢できなかった。
「アキ。ごめん」
 瞼を閉じると、少女の泣き顔が思い浮かんだ。言ってどうなるというのか。教えて何かが変わるとでもいうのか。いや、何も変わらない、と玲は自答する。ただきっと、ひどく涙もろい彼女を困惑させて、しまいには泣かせてしまうだけだ。それを理解していて、もう少しで言ってしまうところだった。
 この布は、自分の目を人から隠すために覆うものだと。
 この目隠しは、戸塚の繁栄と引き替えに守り神につけられた所有印であり、「物」の証なのだと。

11

 のんびりとした雲が、群れをなしてたゆたう秋空の下。母屋の屋根の上に、風に吹かれて長い尾をなびかせている小さな白い姿があった。
 空よりも青い双眸を見開いて、先程からカノは、一匹きりで特に何をするでもなく、ただ静かに眼下に広がる人工的な自然を見下ろしているのだった。
 戸塚家敷地内に広がる広大な庭園。全体の五割程が野芝を利用した芝地になっており、開放的で明るい空間に、中島を備えた大小いくつかの池がある。西側には築山が築かれ、ふもとには池の一つを眺められるように小さな茶屋が配されている。そこから視線を南に移せば、丁度見頃の季節を迎えた紅葉林が紅く色づき、東に移せばツツジや花菖蒲、イソギクといった四季折々の草花が、風に吹かれて微かに揺れているのが見える。
 母屋の屋根の上からそんな美しく整えられた庭園をぐるりと見渡し、ふとカノは口を開いた。
「まったく、惨いくらい贅沢な生活をしてるのね」
 目をすっと細めて、小声で吐き捨てる。すると、それに答える声があった。
「戸塚は二百年も前から、豊かな生活を約束されていますから」
 女性のものと思われる明瞭な声。だが屋根の上にはカノの姿があるだけで、声の主と思われる者はどこにも見えない。
「よくもまぁ、二百年も付き合ったものだわ」
 唐突に返ってきた声に驚いた様子もなく、カノはまるで人間のように肩を竦めてやれやれと首を振る。
「ところで、アキちゃんのことは上手くやってくれているんでしょうね?」
「辻褄合わせは問題ありません。今日はお部屋で、私と繕いもののお手伝いをしてくださったことに」
「大丈夫そうなら、いいのよ」
「『宝』の部屋への行き帰りに関しても、あの面もありますし、人払いの結界も一応念を入れて順繰りに張っていますし、屋敷の者には知られていませんよ」
 声がそう続けて、カノは憮然とした面持ちになった。
「そんなこと別に聞いてないでしょ」
「アキさまのことが心配なご様子だったので……」
 どこか笑いを含んだ返答だった。カノの尾がひゅんっと大きく左右に振られる。
「心配なのは……そこじゃないのよっ!」
 くわっと大きく目と口を開いて、カノは声を荒げた。
「……《宝》と会うこと自体が心配なのですか?」
「それ以外に何があるっていうの!」
 ああ、と呻いて、両の小さな前足で顔を覆う。いかにも人間染みた行動だったが、妙にカノには不自然さがない。
「《宝》との接触は、むしろ望んでいたことじゃありませんか」
 淡々と指摘されて、そうだけどそうだけど、と前足で顔を覆ったままカノが顔を振った。
「でもアキちゃんは可愛くて馬鹿だから、色々と心配なのよ! ああ、今もあの男と二人きりだなんて……大丈夫なのかしら。いっそ邪となれば私の角で突き倒してやれるのに」
「……過保護ですね」
「困ったことに、アキちゃんがそうさせてくれるのよね」
 ひとまず落ち着いたらしく、顔を上げて嘆息する。そんなカノに、声はくすりと笑った。
「本当にお大事なんですね、彼女が。近頃はあれ程避けていらした血の穢れに、身を染めてまで護ろうとなさる程」
 カノは両目を閉じて、静かに息を吐いた。少しの間沈黙する。次に瞼を開けたとき、その目には覚悟を決めた者特有の、芯の通った輝きがあった。
「……アキちゃんの涙がある限り、穢れなんて怖くないわ」
「涙欲しさに、あまりアキさまをいじめないでくださいね」
「可愛くてつい度を超……」
 そこでちょっと黙って、頬をほんのり染めてごほんと一つ咳払いをした。
「そんなことより、仕込みの方はどうなってるの」
「はい。カノさまのご助力のおかげで、戸塚敷地内にいた『守り神』の僕は、一匹を除いて全て封じることができました」
「殺してないわね?」
「一匹たりとも。ですが封じただけでも、気づかれるのは時間の問題かと」
 そうね、と頷いてカノは立ち上がる。ちらと広い前庭を一瞥してから、屋根の上を器用に駆けて移動する。長年歩き慣れた縄張りを見回るように、周囲に気を配りながらも迷いのない足取りで目的地まで進むと、そこから首を伸ばして中庭を見下ろす。
「ほんと、惨い」
 中程に設えられた小さな祠を見つめる。すると嫌なものを見たとでもいうかのように、カノの顔がぐしゃりと歪んだ。
「もうすぐ、終わらせてあげるわ」
 カノの言葉を乗せた風が、祠の紙垂をなぜていった。

第三章 黒い守り神

 アキが寝台に寝転がりながらカノの毛並をそっと撫でていると、ノックと共に真理子の声が聞こえた。どうぞ、と返事をしつつ慌てて身体を起こす。
「あらあら」
 いつものように紫の風呂敷を抱えた真理子が、入ってきざまくすりと笑う。
「お二人は本当に仲がよろしいですね」
 言われてアキはちょっと瞬いて、すぐに満面の笑みを浮かべてこくんと頭を縦に振る。真理子の視界の隅で、カノがふわあと大きな欠伸をした。興味がないとでもいうように顔を逸らし、二人の娘に背を向けて丸くなる。真理子は扉を後ろ手に閉めて、アキに悪戯っぽく微笑みかける。
「アキさまにとっても、カノさまは大きな存在なんですね」
 カノの耳がほんの少し揺れた。
「うん」
 振り向いて、丸まっている白猫に向ける眼差しは温かい。
「とても大切で、大好きな――かけがえのない家族だよ」
 そう言って真理子に向ける笑顔が本当に愛らしい。アキの向こうで、眠ったフリでもしているつもりかカノは頑としてこちらを見ないが、しかし耳の動きをみれば、アキの言葉をしっかりと聞いているのは確かだった。内心おかしく思いながら、家族ですか、と真理子は少し考える素振りを見せて、
「じゃあ……お兄さんか弟さん、といったところですか」
 と思いつくところを言ってみる。まさか父親ということはないだろうから、家族というならそのどちらかだと思った。
 しかし真理子の予想に反し、アキはうーん、と納得いかないらしい声を上げた。同時にカノがはっと顔を上げてこちらを見る。
「お姉ちゃん……」
 突然のカノの動きに真理子が思わずそちらに視線をやりかけたとき、ぽつんとした呟きがアキの桜色の唇から零れ落ちた。
「言ってくれたの……お姉ちゃんになるから、大丈夫って……」
 口を小さく開閉させてささやくアキの顔からは、表情という表情が削げ落ち、目は虚ろになっている。真理子はぎょっと目を見開いて、自分の失態を悟った。
『アキちゃん!』
 痛切な響きを帯びた叫び声が、頭の中にきぃんと響く。瞬間、びくりと身体を震わせて、アキは我に返った。下に視線を向ければ、いつの間にかカノがそこにいて、少し青ざめた顔をしている。
「カノ、どうしたの? あれ……わたし、今何か言った?」
 カノと真理子のただならぬ様子を感じとって、アキはおろおろと二人を見比べた。いつものアキだ。よかったと真理子はほっと胸を撫で下ろし、にこりと完璧な笑みを顔に乗せた。
「いいえ、何も。それよりも、これを見てください」
 じとっと粘りついてくる、何か文句を言いたそうな視線を注いでくる白猫を必死に無視し、真理子は机の上に持っていた風呂敷包みを置いた。結び目を解いてふわりと広げると、つやつやと輝く黒塗りの井籠が姿を見せた。なあに、と顔を寄せるアキに片目を瞑ってみせてから、両手で蓋をぱかりと開ける。中から現れたものに、思わずアキは感嘆の声を上げた。
「可愛い……!」
 井籠に詰められていたのは、見るだけでも顔がとろけてしまいそうなくらい愛らしい、猫の形をした練切だった。だるまのようにふっくらとした小さな猫が二匹、とぼけた顔を上に向けて、仲睦まじく並んでちょこんとおさまっている。白と桃色の二色の猫たちを食い入るように見つめたまま、これどうしたの!? とはしゃいだ声を上げるアキ。つい先程のことは、和菓子の前にすっかり忘れ去ってしまったようだ。
「思いついたので、試しに作ってみたんです」
「真理子ちゃんが作ったの!?」
 真っ黒な瞳をきらきらと輝かせてアキが問う。
「ええ。アキさま、猫がお好きかと思って。今日のお菓子はちょっと頑張ってみました」
「好き! すごい。すごく可愛い。あんまり可愛いから食べるの勿体ない」
 心からの賞賛と喜びが溢れ出した言葉をまくしたてられて、真理子は頬を染めてはにかんだ。ここまで喜んでもらえるとは予想していなかった。こそばゆいが、真理子はとても満ち足りた想いで一杯になる。
「ふふ、ありがとうございます。でも折角作ったので、アキさまに食べてもらいたいです」
 このままだとアキがいつまでも菓子の猫を見つめたまま動きそうになかったので、真理子は手早く蓋を閉めて、手製の菓子を風呂敷に包みなおした。きゅっと結んでから、それをアキに手渡す。
「分かった。勿体ないけどいただくね。大事に味わって食べる。ありがとう真理子ちゃん。すごく嬉しいよ」
 ほくほくとした笑顔で心底幸せそうに礼を述べるアキの頭には、玲の顔が浮かんでいる。目を隠して、部屋からあまり出ることのない彼は、笑顔にさえ影が差す。ろくに苦痛の経験もなく、人の闇に寄り添う言葉も持たない自分には、彼の強張った心をほぐすことができない。でも、綺麗な景色や可愛らしい物は、凍りついた心でさえ溶かしてしまう、温かい光を人に注いでくれる。
 だからこの可愛らしい、食べられる猫を見てもらうことができたら、とアキは思う。なんとかして玲に目隠しをとらせて、見る者の心を和ませてくれるこの色鮮やかなお菓子を見せてあげたい。そうすれば、玲の心が沈んでいる暗闇にも、一筋くらい優しい光が届くかもしれない。

 居ても立ってもいられなくて、アキはいつもより少し早めに面を被り、すっかり覚えてしまった道のりを辿る。菓子の包みを片手に落ち着いた足取り。曲がり角で屋敷の者とぶつかりそうになっても、もう慌てたりすることはない。すっと身を横に引けば、面をしている限り相手にはアキの姿が見えていないから、何事もなくすれ違える。
 自室から玲のいる離れの部屋までをこうして行き来し出してからの日を数えれば、一週間が過ぎたことになる。玲と会い始めてから一週間ということは、アキが戸塚家に引き取られてからは十二日が経ったということ。それらの日数を頭のなかで反復していると、もうそんなに経ったのかとしみじみ思う反面、まだそれだけしか経っていないのかと驚く自分がいる。
 初日以来整と会うこともなく、何をするでもなくただ飯を食わせてもらっている状態を思えば、十二日という日数は長い。だが玲と出会い、こっそり逢瀬を重ねるうちに成長していたらしい、自分にとっての少年の存在の大きさを思えば、七日という数値はあまりにも短い。
 アキは玲のことをまだ何も知らない。どうして目隠しをして、アキは立入を禁じられた部屋に閉じこもっているのか。関わってはいけないと言いながら、どうしてアキと会い続けてくれるのか。そして何より、彼は一体、どういった存在なのか。何ひとつとしてわからない。
 最初は知りたいことが両手に余る程あって、尋ねたくてうずうずするあまり苦しいくらいだった。だが時間が経つにつれて次第に、知らなくてもいいや、とアキは思うようになった。
 玲はアキが質問を山ほど抱えていることくらい、とうに知っている。それでも彼が、アキが聞きたがるような話題に触れようとしないのは、言いたくないから。もしくは言えない事情があるからだ。アキにとって玲は、まるで小さい頃から一緒に生まれ育った相手のように近しい、大切な相手のように思えるが、玲にとっては、自分はまだ余所から来た他人くらいの位置づけかもしれない。そんな遠い存在に、自分の根幹に関わる部分や、影の元凶に関する深い話などしたくないと思うのは当然だ。
 だからアキはもう自分からは尋ねないことにした。彼が話したくなったら、話してくれればいい。他愛のない話でもしながら傍にいることができれば、それでいい。
 ぼんやり思考の海に浸かっている間も歩き続けていたので、我に返ったアキは、玲の部屋の前に立っている自分を見出した。敷居に視線を下ろして印を探す。戸と戸の隙間に、それはすぐに見つかった。風に吹かれて偶然ここまで飛ばされてきたごみのように、赤い糸が挟まっている。いちいち呼ばなくてもいいと言われていたので、アキはひょいとかがんで糸を抜き取り、周囲に人がいないことを確認してから、無言で戸を開けた。
「あれ?」
 踏み出しかけて、アキは小首を傾げる。戸を開けた瞬間、玲がこちらを振り向いて笑って名を呼んでくれるのを期待していたのだが。いつも玲が座っている文机の前の座布団は空だった。まさか出かけたのだろうか、と思いかけ、それはないだろうと打ち消す。玲は自分で、この部屋からはほとんど出ないようにしていると言った。屋敷から外には絶対に出ないと。大方手洗いか風呂か、そのあたりの用で部屋をちょっと空けただけだろう。文机の上には本が広げられたままだし、湯呑からはまだかすかに湯気が立ち上っている。待っていればすぐに帰ってくるはずだ。
 中に入って戸を閉める。思いついたことがあって、アキは人知れずにやりと笑った。
 面を外して広々とした視界を確保してから、かがんで赤い糸を元通りの位置に置き、注意深く戸を閉め直して挟む。部屋に入るときはいつも印を持って入っていたので、こうして元通りにしておけば、玲はまだ自分が来ていないと思うはずだ。
 きょろきょろと部屋の中を見回し、隠れるのに都合の良さそうな場所を探す。無防備なところに自分から飛び出て驚かせたいので、すぐには見つからない方がいい。そう思って探す目にとまったのは、入ってすぐ右手にあった押入れ。初めて見たときは妙な位置に収納があるものだと変な気がしたが、悪戯をするにはむしろありがたい。そこに隠れられれば、障子戸に背を向けて文机に向かう玲を、後ろから驚かすことができる。
 一人おかしく笑みを浮かべながら寄っていって開けてみると、中は二段になっていて、上の段は布団や毛布の類が押し込まれている。下の段は、本や湯たんぽや使っていない座布団など色々な物が雑然と詰め込まれていたが、それらをちょっと移動させれば、小柄なアキならばなんとか隠れられそうだった。
 座布団や丸められた掛け軸を布団の上にぽいぽいと移し、細々としたものをぎゅっぎゅっと奥に押しやる。膝をつき頭を低くして後ろ向きに入ると、ぴったり収まった。ますますおかしくなって、思わずくすくすと笑う。
 持ってきた風呂敷と面も引っ張り込んで、三角に立てた膝の上に置き、中から戸を引いて閉めると、暗くなった。しかし完全な暗闇にはならない。笑いを引っこめて、おかしいとアキは首を捻る。戸がきちんと閉まらないのだ。
 開ける前は隙間などなかったのに。頭を下げたまま心持顔を上に向けてみると、上の段に押しこんだ座布団が、どうやら置き方が悪かったらしく傾いて、房が戸の間に挟まっている。押入れの中に座りこんだままなんとかしようと、必死に腕を伸ばして手を動かしてみるがうまくいかない。
 面倒だったが、ここは無精していないで一度押入れから出て、座布団をきちんと移動させた方がよさそうだった。仕方なしに指二本分程空いてしまった隙間に手をかけ、戸を開こうとした。そのときだった。
 カラリと障子戸の開く音がして、部屋の中に誰かが入ってくる気配がした。恐らく玲が戻ってきたのだ。力を込めかけた手をぐっと押しとどめ、アキはぎくりと動きをとめる。間に合わなかった。こうなったら隙間のことは諦めた方がいい。どのみち、文机の前に座った玲を脅かすまでのかくれんぼだ。それくらいの時間なら、隙間に気づかれずに済むかもしれない。そう自分に言い聞かせて、どきどきとする胸のあたりに手を持っていった。そんなアキの耳に、聞き慣れない声が飛びこんできた。
「あら、なあにその赤い糸。ごみ?」
 艶っぽい、美しい女の声。女中だろうか。
「みたいですね。落ちていました」
 答えた声は玲のものだった。アキが聞いたことのない、丁寧な口調をしている。
「それより驚きましたよ。いきなり昼間に来て、玄関まで迎えに来させるなんて」
「たまには明るいうちに、玲の綺麗な顔を見ておきたいのよ。それに、どうせ部屋にいてばかりでつまらないでしょ。気分転換させてあげたんだから、感謝してほしいくらいだわ」
 気配が移動して、二人が座ったのがわかった。かちゃりと陶器同士を当てたような、小さな音が鳴る。
「あら……お茶は急須にたっぷり入っているし、座布団がちゃんとあたしの分も敷いてある。不意打ちしたのに、今日は用意がいいわね」
 でも湯呑が足りないから不合格、と声は笑った。
「……お茶はたまたま、丁度用意してもらったところだったんです。座布団は、ナカバさまからの言伝を聞いて、慌てて出しましたけど。湯呑は後で持ってきてもらいましょう」
 聞いているアキはなんだか胸がざわついて堪らない。心臓がうるさいくらいに暴れていて、着物の上から手でぎゅっと抑えた。
 気になって仕方がなくて、音を立てないよう慎重に動きながら、恐る恐る顔を隙間の前まで持ってくる。指二本分の隙間から、丁度角度が良かったらしく、少し斜めに座っている女の顔が見えた。見た瞬間、アキはこっそり息を呑む。直感的に恐ろしいと思った。
 黒い着物に身を包んだ女は、恐ろしい程整った美しい顔と長くつややかな黒髪をしていた。しかしその細面の顔は、あまりにも完璧な美しさを備えているがために、かえってつくりものめいた印象があった。見る者に感動よりも、落ち着かない不安な気持ちを押しつけてくるかのように、女の美しさには迫力がある。肌が雪のように白いだけに、黒い着物と髪の中でさらに凄惨な存在感を放っている。
 何者だろう、とアキは不安に眉を顰める。着物も見たところ上等の物だし、どう見ても女中ではない。といって戸塚本家の者でもないような気が、アキにはした。玲は彼女を「ナカバさま」と呼んだ。彼は恐らく戸塚本家の血筋なのだから、本家の者に敬称をつけて呼ばれる者とは一体――。
 と目を凝らして見つめていると、ナカバがきめ細かな白い肌の、ほっそりした腕をすっと上げた。そして少し身を乗り出して、すぐ傍らの玲の後頭部に手をやる。どうするのかと思えば、なんとアキの驚いたことに、その手で目隠しの結び目をしゅっと引いた。頭のてっぺんから雷に打たれたかのような衝撃が、アキを貫いた。
 玲はほとんどアキに対して背中を向けているので、表情は見えない。だが少なくとも、アキが触れようとしたときのように怒鳴ることはなかった。ただ大人しく、布がはらりとほどけ落ちるままに座っている。ナカバの手から赤い細布がふわりと放たれて、やがて畳の上に落ちた。
「あたしの《宝》。……どうしたの? 難しい顔をして」
 甘えるような声でささやきながら、ナカバの手が玲の眉間あたりを撫でている。
「……もうちょっと、声を落としてもらえませんか」
「あら、どうして」
「外に……昼間なので、外を誰かが通ったとき、聞こえたりしたら」
「なあに。恥ずかしがっているの? 玲」
 くすくすとさもおかしそうに笑って、女は玲にしなだれかかった。それを盗み見るアキの胸に、疼痛が走る。これは何の痛みかと不思議に思う気持ちもあったが、それよりも眼前の二人が気になって仕方がなかった。
「おまえはあたしの《宝》。《宝》がどういうモノかなんて、戸塚の屋敷に住む人間なら、みんな知ってることじゃないの。なにを今更……」
 顔の位置を変え、じっとしている玲の背に手をやりかけたところでナカバの目が押入れの方を見た。女の動きがほんの一瞬止まる。アキは心臓をわしづかみにされたように思った。まさか、ここにいることがばれたか――? 
 しかし女は特に何かを気にした風でもなく、一秒後にはゆるゆると動きを再開して玲を抱きしめる。ふっくらとした唇が、弧を描いた。
「そういえば、一人だけまだ知らないコがいるかもね」
 それまで身じろぎ一つしなかった玲が、肩口に頭をもたせかけている彼女を見やった。
 そのとき玲の横顔がアキにも見えた。
 目を、開いている。初めてきちんと目にする赤い輝き。ずきんと胸が痛んで、目頭が一気に熱くなったが、歯をくいしばってアキは堪える。
 自分の前では決して開いてくれなかった目。同じその目で、ナカバという女には抵抗もなく視線を注ぐ。
 悲しみがどっと胸の内から溢れ出して、アキは膝の上に載せた包みと面を抱え込む手に力をこめた。甘い香りが鼻をくすぐる。今ではすっかり嗅ぎ慣れて時折忘れるくらい親しんだ、カノとアキだけが反応する、面から漂う香りだった。不思議なことに、玲と真理子には感じ取ることができないらしいが、アキにとってその香りはどこか懐かしい。優しく濃厚な香りに慰められて、少しだけ胸の痛みが弛緩した。
 だが次の瞬間には、香りの効果が一気に霧散する程の衝撃がアキを襲った。
 玲を抱きしめたままナカバが玲に顔を寄せ、口づけたのだ。
 まっすぐその光景を見てしまって、アキは言葉にできない苦痛に喘いだ。先程堪えたばかりの涙がみるみるうちに目尻に溜まる。叫んで飛び出したい気持ちに駆られたが、そんなことをすれば困るのは自分よりも玲だ。今はただひたすら、握り拳を作って胸をぎゅうぎゅうと抑え、うずくまって衝撃をやり過ごすことに徹するしかなさそうだった。そしてそれがまた情けなくて、悔しい。気力が失せて、アキはそろそろと隙間から顔を離した。もうこれ以上見ていたくなかった。

「……もう行くんですか?」
 感情が欠けたような、淡々とした玲の声。衣擦れの音が、暗闇の中震えるアキの耳に届く。
「ふふ、寂しいの? 玲」
 その優美な笑い声がアキの胸を抉る。耳を塞ぎたかったが、手を離して膝の上の荷物が落ちてもいけない。下唇を噛むだけに留める。
「今日昼に屋敷に来たのは、本当は整に用があったからなのよ。あの人、今朝になってようやく病院から戻ってきたんでしょう」
 まったく、熱心に病院に通いすぎ、と呆れ声をつけ加える。
「ナカバさまが義姉さんにかけた呪いを解いてくださったら、整さまは病院に行かなくなりますよ」
「それは駄目。そもそも、あたしはあの女との結婚は認めていなかったのよ。なのに整ったら……。あんな不細工。あんなのの腹から生まれる子なんて、あたしは絶対嫌よ。気分良く愛せないわ」
「ナカバさまがそうお考えでも、整さまには義姉さんだけです」
「わかってるわよ。だから子を産めない身体にしてやったんじゃない。代わりにあのコに走るように。……だけどなかなか上手くいかないものね。ちょっと言い聞かせてくる」
 ぞっとする言葉に、アキは先程の衝撃を上回る恐怖を感じた。おかしい。女が言っていることはおかしい。嫌な汗が額に滲んだ。狭い空間の中で短時間のうちに悲しみやら恐怖やらを経験して、アキはすっかり消耗している。だから女の言うことを理解できないのか?
 いや、そうじゃない。ナカバ自体が理解できないのだ。彼女の口から出た言葉は、とても人の言うこととは思えなかった。
「整の説教で疲れるだろうから、明日の夜までは来ないわ。それまでいいコで待っていなさいね、あたしの《宝》」
 最後にそう言い置いてナカバが廊下に出て行く気配がした。戸の開閉音が聞こえ、再び部屋の中が静かになる。
 暫く玲は無言のまま動く様子がなかったが、やがてナカバが十分部屋から離れた頃になってようやく、深いため息をついて、目を開けたままごろんと畳の上に仰向けに寝転がった。玲もまた部屋から出ていってくれないだろうかとアキは思ったが、その期待はどうやら見事に外れそうだと悟る。できれば玲に気づかれず、今日はこのまますぐに部屋に戻りたかった。戻ってひとしきり泣いて、衝撃をやり過ごしたかった。だがこの調子だと、下手をすれば夜までずっと押入れに隠れていなくてはならないかもしれない。暗い気持ちに沈んで、アキは荷に覆い被さるようにそっと顔を伏せた。
 それにしても、硬い所に座っているので、おしりが痛む。少しでも楽な姿勢をとろうと思って、左手を床につき身じろぎをした。拍子に背後にあった物にぶつかり、がたんと物音を立ててしまう。熱いような冷たいような感触が全身を駆け抜け、アキは首を竦めて硬直した。
「……なんだ?」
 身を起こして、玲が起き上がる気配がした。まずい――と思って必死に息を殺したが、時既に遅し。次の瞬間にはがらりと戸が開けられて、突然眩しい光に当てられたアキは、反射的に目を瞑って縮こまった。
「アキ!?」
 驚きに真紅の目を見開いて、玲が叫んだ。すぐにはっと表情を強張らせ、後ろを振り向いて畳の上に落ちたままの目隠しに手を伸ばす。明るい世界になんとか慣れてアキが目を開けた頃には、玲は既に目隠しを素早く巻いた後だった。それを見て、アキの両目からぼろりと大きな粒が零れる。
「アキ、どうしてここに……いやそれよりも、さっきの話を全部、聞いて」
「どうして?」
 沈痛な面持ちでこちらを向いた玲の言葉を、アキは震える声で遮った。
「『どうして』はわたしの台詞だよ。玲さん、さっきの女の人の前では、目を開けてたのに」
 指摘されて玲は息を呑んだ。
「見ていたのか……」
「さっきの女の人は何なの?」
 一度言葉を吐き出すと、後はもう止まらなかった。
「どうして玲さん、あの人は見るのにわたしは見てくれないの? どうしてあの人とあんなにべったりしてたの? あの人の《宝》ってどういうこと? 《宝》って何なの?」
 とめどなく流れる涙と一緒に、尖った声音で声をぼろぼろとぶつける。顔がぐしゃぐしゃに歪んで、鼻がつんとする。しきりに零れる涙が風呂敷と面を濡らしたが、そんなことに構っている余裕などなかった。
「ねえ、どうして黙ってるの。なんで何も教えてくれないの」
 自分が怒るのは筋違いだ。そうわかってはいても、アキは声を荒げずにはいられない。胸が痛くて熱くて重くて、このままでは中から押しつぶされてしまいそうだった。少しでも楽になりたいから、涙と一緒に強い言葉で吐き出す。それなのに、言葉をぶつける度翳っていく玲の白い顔を見ていると、どんどん息苦しくなっていく。アキにはもうどうしたらいいのか、わからない。
「なんとか言ってよ!」
 顔を覆って叫んだ。
「アキッ」
 手首を掴まれてぐいと引っ張られた。アキは咄嗟のことに反応できず、腰を浮かす。拍子に後頭部を押入れの上の段にぶつけてしまう。その痛みに意識を一瞬向けている間に、気づけば抱きしめられていた。面と風呂敷が床に音を立てて落ちる。がしゃんと割れる音は、恐らく井籠と一緒に包んだ湯呑の立てたものだ。しかしそれどころではなく、状況に頭が追いついていないアキはただただ驚きに目を見開く。
 そんな彼女の硬直を解いたのは、頬に触れた柔らかい感触だった。
 何をされたのか理解するや否や、アキの全身がかっと熱くなる。腕に精一杯の力を込めてぐいと相手の胸を押しのけ、顔をきっと睨み上げると、衝動のままに頬を張った。
「……ッ!」
 真っ赤な顔をして涙目で玲を睨みつけ、口を小さく開閉させるが言葉は出ない。玲は張られた頬をアキに見せた姿勢で、無表情に佇んでいる。
 こんなことをしてほしかったんじゃない。頭がかっかとして今にもはち切れそうで、一発叩いたくらいでは全然足りなかった。侮辱されたような気持ちだった。煮えたぎる想いをどうにかして目の前の相手にぶつけてやりたくて、アキの身体がわなわなと震える。
 駄目だ――と頭の中でアキは自分に言い聞かせる。このままだともっと酷い言動をしてしまいそうだという予感があった。今はもうこれ以上ここにはいられない。アキはぎゅっと下唇を噛みしめ、新しく悔し涙が再び溢れ出す前に、無言で部屋を飛び出して行った。

 アキが部屋から出て行った後も、玲は暫く同じ姿勢で立ち尽くしていた。
 そのうちのろのろと顔を正面に戻す。そこでふと気づいたように開け放しになっている戸の元へ行き、力なくそっと閉めた。きっちり戸を閉めた後も、すぐにそこから離れようとはせず障子に手を当てて項垂れる。そしてずるずると膝から崩れ落ちると、戸に軽く背をもたせかけて座り込み、下を向いて長いため息を落とす。
(何を、しているんだろう……)
 ゆらりと右手を頭の後ろにやり、ぐいと赤い布を引っ張った。ほどいた目隠しには一瞥もくれず、無造作に脇に放ってふわふわと落ちるに任せる。赤い布の下から現れた同じ色の光が二つ、虚ろな視線を畳の上に投げた。
 と、視界に紫色の風呂敷と白猫の面が入り込んで、のっぺりとしていた玲の顔に少し表情が戻る。手をついて立ち上がり、傍まで行ってそこに膝をついた。見慣れた面をそっと一撫でしてから、風呂敷包みの結び目を解く。布を広げると、中から割れた湯呑と黒く輝く井籠が顔を覗かせた。湯呑の欠片を慎重に取りのけ、傷の入ってしまった蓋を恐る恐る開けてみる。そして中にあったものを目にしてとうとう耐え切れなくなった玲は、眉間に皺を寄せて顔を手で覆い、目を閉じた。
「……アキ……」
 狭く暗い箱の中。小さな和菓子の猫たちは、愛らしかった顔を大きく歪め、互いに背を向け合って転がっていた。

 二階の一角にある小さな書斎では、二人の者が向き合っていた。
 机に向かい積んだ書類を一枚一枚確認しては、時折万年筆を走らせている整の前で、墨色の絣を纏った女が、一人がけのソファに深くもたれかかって、眉間に皺を寄せていた。
「何度も言っていますけれど、私の考えは変わりませんよ」
 机から視線を上げず、手を動かしながら整がはっきりと発言する。ナカバはそれに、大げさなため息をついて空を仰いだ。
「ほんっとうに、頑固ねえ」
「失礼ですが、央(ナカバ)さまこそしつこいですね」
 言いつつ整は手にした紙束の頁を捲り、机の引きだしを開けてそこからまた別の書類を取り出し、机の上に置く。そこで手を止めて、流し目でこちらを見ているナカバに真っ向から視線を返した。
「私の妻は房ただ一人。他の女性と子をつくるつもりは断じてありません。ですから、早くあれに施した呪いを解除していただけませんか」
 真剣な表情に必死の目。ナカバはそれを、鼻で笑った。
「どこがいいのよ、あんな女。さっぱりわからないわ。……でも本当に邪魔ね。死に至らしめる呪いをかけてもいいのよ」
「房が死ねば、私もすぐに後を追います」
 二人の視線が交錯した。場に緊張した空気が張りつめる。互いに引き締めた顔つきで睨むように見つめあっていたが――先に緊張を解いたのは、ナカバの方だった。
「――ま、今更だしそれはしないわ。あたしとしても、整に死なれるのは残念だし」
 寛いだ笑みを浮かべて、でも、と続ける。
「わかっているでしょう。戸塚の繁栄は、あたしの力あってこそよ。二百年前に契約を交わして以来、あたしはいくつかの条件と引き替えに戸塚を栄えさせることを約束した」
「もちろんよくよく承知しております」
「おまえの大切な奥方を、幸せにしてやりたくないの?」
 整は口を引き結んで、僅かに顔を俯ける。
「簡単なことよ。あたしの提示した条件を飲めばいい、それだけ。そうすればあの女にかけた呪いも解いてあげるわ」
「しかし……」
「変わった男ね、整は。あんなとびきりの上玉を妾に用意してあげても、一途な姿勢を曲げないなんて。他の男だったら自分から喜んで飛びつくところよ」
 緩慢な動作で、整は目を伏せながら首を横に振った。その仕草は嫌だという意思表示か、それともナカバの言葉に不快さを覚えてのことなのかはわからない。ただひどく弱弱しい抵抗ではあった。
「ねえ整。戸塚本家の嫡男として、おまえは男の子どもを最低二人はつくらなくてはいけないのよ? 跡継ぎ用と、《宝》用と。そういう契約だもの」
 楽しそうに笑いながらナカバは続ける。整は言い返す気力を失くしたのか、机にひじをついて組んだ両手に額を預け、俯く。
「前にも言ったけれど、房に子はつくらせないわ。……少なくとも、引き取ったあの娘――明とかいったかしら、あの娘に二人、産ませるまではね」
「……明さんはまだ子どもです」
「あら、中身はどうか知らないけれど、身体はもう立派な女よ。心配しなくても大丈夫、母親にはなれるわ。育てるのはおまえの房に任せてもいいし」
「今は玲がいるでしょう。何も急ぐ必要はないはずです」
「それはそうだけど、でもいいの? 必要な分の子どもが揃うまで、死にはしなくても、あの女は呪いに苦しみ続けることになるのよ」
 俯いたまま整は黙りこんだ。その頭頂部を見つめてナカバはほくそ笑む。それからその笑みを消して、そうそう、と思い出したように甘い声を出した。
「玲といえば……《宝》の部屋で、その娘を見た気がするわね」
 その声にはっと整が顔を上げる。訝しげな表情を浮かべ、まさかと呟く。
「明さんには入ってはいけないと禁じましたし、それに彼女が離れの方に行ったのを見たという報告は受けていません」
「禁じたからって、あの年頃の子は好奇心の権化だから、言う事を聞くとは限らないでしょう。上手く隠れながら忍んで行ったんでしょうよ」
「それにあの部屋には、央さま直々に施された結界があるではないですか」
「そういえばついこの前張り替えたっけ。すっかり忘れていたわ」
 だったら、と言いかけた整を遮って、
「それにあれは、侵入を拒むものじゃないのよ。その上何故か破れていたし」
 と言い足すと、整の顔がすうと青ざめていく。
「ねえ整。……これは立派な契約違反よ。違反すれば、現在生きている戸塚家一族は全て《閂》に喰らわせ、魂は先祖も含めて全て地獄をみることでしょう――これもわかっているわね?」
 整はそれに答えなかったが、蒼白になったその顔が、ナカバの言ったことを理解している何よりの証拠だった。少しの間、整の顔をじっと見つめる。それから不意にナカバは、似合わない無邪気さを装って、にっこり笑った。
「そんなに怖がらなくてもいいのよ。玲も契約のその部分は知らないし、明に至っては来たばかりで何も知らない。無知ゆえの過ちだもの、仕方ないわ。だから今回は見逃してあげる。……整に免じて、ね」
 すっと身軽な動作で立ち上がって、ナカバは着物の皺を手で軽く伸ばした。扉の所までやけにもったいぶった仕草で歩いていって、真鍮のドアノブに手をかけ、肩ごしに振り返る。整の顔からは完全に血の気が引いている。
「見逃すのは今回だけよ。だから――そうね、三日のうちに期待しているわ」
 三日後にあの娘と三人で食事でもしましょ、と凄惨な笑みで言い添えて、漆黒の女は扉の向こうに消えていった。

 アキの部屋では、つい先程まですすり泣きが響いていたが、今ではしんと静まっていた。目を閉じて寝台に横たわっているアキの枕元で、カノは沈んだ表情を浮かべている。アキの目元は赤く腫れ上がって、頬には涙の跡がくっきりと残っていた。
 玲の部屋から帰ってきたアキは、あまり多くを話さなかったが、僅かな情報からカノにはなんとなく事のあらましについて察しがついている。しかしわかったところで、アキの心を軽くすることができなかった。ごめんね、という気持ちをこめて、アキの頬に自分の頬を軽く摺り寄せる。顔を上げると同時に口を開いた。
「入って」
 ノックの音はなかった。しかしその言葉を待っていたとでもいうように、言われてすぐに扉がかちゃりと開く。顔を出したのは真理子だった。
「アキさまは……」
 素早く戸を閉めて寝台まで寄り、心配そうな表情で彼女は問うた。カノは真理子に一瞥を投げた後、すぐにアキの寝顔に視線を戻して嘆息した。
「もう泣いて泣いてしょうがないから、宥めて寝かせて、ようやく寝ついたところ」
 言葉の内容は素っ気ないが、声は思いやりに溢れている。その様子に真理子は思わず微笑を浮かべた。すると視界の端で目ざとく見ていたらしく、なに笑っているのよ、と不満気な声が上がる。
「あんたはもう少しでアキちゃんの記憶を引きだしてしまうところだったのよ。反省してるの」
 真理子の笑顔が固まる。刃物のように鋭い視線が痛い。首を竦めて、すみません、と大人しく小声で謝った。
「まあ……私もアキちゃんに変に思わせちゃったこと、あったけどね」
 初めて二人で《宝》の部屋に行ったときのことがカノの脳裏にあった。
「……そろそろ記憶が戻りそうですか?」
 真理子が尋ねると、わからないと首を横に振る。
「あともう少しは大丈夫だと思うけど」
「一応、急いだ方がいいですね」
 カノは頷いた。会話が途切れて、沈黙が部屋の中に満ちる。
「『お姉ちゃんになる』」
 少しして真理子が唐突に言い出した。
「カノさまのことをお尋ねしたとき、アキさまが仰っていましたよね。『お姉ちゃんになるから大丈夫』と言ってもらったって」
 小首を傾げて聞き入っていたカノの目が少し和らいだ。
「あれはどういう意味なんです? もしかして、カノさまのその口調と関係があるのですか?」
 カノは淡く笑って眠るアキを見た。どこか遠くを見るような眼差しをしている。
「今はずっとマシになっているけど。私と出会ったばかりの頃、アキちゃん、男性恐怖症とまではいかなくても、嫌悪症みたいなものになってしまっていたの」
 真理子はアキの寝顔を意外な気持ちで見やった。初対面のときから屈託のない笑顔で話してくれた。整と対するときも、遠慮や礼儀のことで緊張はしていたみたいだが、嫌そうな気配はちっともなく、落ち着いて食事を共にしているように見えた。《宝》ともすぐに親しくなって――とても人懐こい少女だというのが、真理子の中でのアキの第一印象だった。
「ほら、子どもにとって一番身近な異性って、やっぱり家族でしょう? アキちゃんには、異性の身内が三人いた。父親と兄と、弟。弟はともかく、この父親と兄がもう、酷くってねえ。アキちゃんはこの二人のせいで色々と苦労したのよ」
「まあ……」
「アキちゃんはそこそこいいところ――武家のお嬢様だったの。あの子の父親はこれがもう、昔気質の武士を絵に描いたような男で。自分にも他人にも厳しい人だった。躾と称して、幼い子を物のように殴ったりもした。その厳しさに耐えかねて、アキちゃんのお兄さんは反抗するようになったんですって」
 厳しく抑圧されてきた反動で、一気に不真面目な側へ跳ね返る。珍しい話ではなかった。
「長男が理想通りの息子にならなかったので、諦めて父親は次の子に期待したの。折よく母親が妊娠していたから。……でも産まれてきたのは男じゃなくて女だった――」
 軽く言葉を切って息継ぎをする。
「当てが外れて激怒した父親は、産まれてきたばかりの我が子を斬り殺そうとまでしたそうよ。母親や周囲の人がそれを必死に止めて、なんとか思いとどまったけど。……ねえ、そのとき父親がなんて言ったと思う?」
 声に微かに憤慨の色を滲ませてカノがいきなり問いかけた。咄嗟に答えられずに、真理子は目を泳がせて、さあと曖昧に笑う。
「俺は男児を望んでいたから、女児など認めない。本当なら今すぐ殺してやりたいところだが、情けをかけて生かしてやる。ただし男として育てることが条件だ――そう宣告したのよ。……だから女の子なのに、アキちゃんは『明』って名前なの。酷い父親でしょ」
 真理子は絶句してまじまじとアキを見つめた。確かにそれは酷い話だ。産まれてきたばかりの我が子を殺そうとした上、性別を否定するなど。
「もっとも、アキちゃんが男として育てられたのは弟が産まれるまでの話。弟が産まれてからは、父親はアキちゃんの存在を無視するようになったそうよ」
 カノの口から語られることをこの少女が経験してきたのだと思うと、同じ女として真理子はつらいと感じる。この時代、男性に比べると女性の立場は確かに低い。それにしてもあんまりだ。
「お兄さんの方は、ある程度成長するとろくに家に帰らなくなった。たまに帰ると父親と喧嘩になる。すると気分が悪くなるから、お酒を入れて、まだ小さな妹と弟を苛めて気分転換する。そんな幼少時代だったから、心が男を拒絶するようになってしまっても、仕方ないことよね……」
 カノの目が伏せられる。真理子は何も言うことが思い浮かばなくて、ただ耳を傾けていることしかできなかった。
「そんなときに、アキちゃんと私は出会った。あの頃初めて下界に降りてきた私は、本能のままに角を揮わずにはいられなくて、沢山殺した後だった。血の穢れに悪酔いしていて酷い有様だったはずよ」
 そのカノの姿もまた、真理子からすると想像しがたいものだ。理性的で無闇に力を奮うことを厭う今の霊獣カノは、もしかするとアキあってこそなのだろうかと頭の片隅で思う。
「あのときの私は、人間には邪な者しかいないのかと嘆きながら、自分で被った血にあてられて、死にそうになっていた」
 高位の霊獣はあまり人間界には降りてこない。免疫のない状態では人間界の空気はさぞかしつらかっただろう。口ぶりからすると、ただでさえ空気に参っていたところに、血を大量に浴びたに違いない。血の穢れはすぐに浄化しなくては、天上界の生き物の身体を蝕んでいく。むしろそんな状態でよく生き延びられたと真理子は感嘆せざるを得ない。
「そこを、アキちゃんが助けてくれたの。浄化の涙を流して」
 話していると、当時の感動がカノの胸に蘇ってくる。
 天女かと思った。こんなに清らかな魂を持った人間が――涙で穢れを浄化することができるほど気高く、心根の優しい人間が地上にいたのかと驚愕すると同時に、安堵と感動に打ち震えた。少女が涙の滴を一つ零す度、鉛のように重かった身体が軽くなっていき、息苦しさや胸のむかつきが薄れていった。すぐそこにまで見えていた三途の川が、みるみるうちに遠のいていった。
「私はアキちゃんに惚れこんで、忠誠を誓った。二重の意味で、私を救ってくれた彼女に」
 命を救い、絶望と諦念の暗闇から掬い上げてくれた。主人に値する存在だと思った。
「なのにアキちゃんったら、私が男と知るや警戒しちゃって。人ではないから、警戒といってもちょっぴりだったけど、でも悲しかったわよ」
 それまでの真面目な口調から一転、冗談を言うような軽い調子になったので、真理子はついくすりと笑ってしまう。
「アキちゃんの家の話を聞いて、その上実際目で確かめてみれば理由はすぐにわかった。その頃唯一頼りにしていた母親が亡くなって、アキちゃんは同性の保護者を切実に求めていることも知った。だから言ったの。これからは私がお姉ちゃんになるから、あなたは大丈夫、って」
「それでその口調ですか」
 堪えきれなくなって、真理子は声に出して笑った。
「言葉づかいを女らしくしただけでは、女性にはなれませんよ」
「別に実際女になれなくていいわよ。なるつもりないし。アキちゃんの心を誤魔化せたらそれでいいの」
「よくまあ、今までそれで通してきましたね」
 呆れたような感心したような声でしみじみと真理子が言う。
「子どもって単純じゃない。それに、アキちゃんは輪をかけたお馬鹿さんだから」
 真顔で深く頷いてカノが答えると、眠っているアキが眉根を寄せて小さく唸った。

 どことも知れない景色が広がっていた。様々な色が抽象的に混ざり合って、輪郭のない世界を作り上げている。
 いや――とアキはあたりを見回しながら考え直す。よく目を凝らせば、色が、形が、はっきりしてくる。あちらには柿の木。そちらには中程で折れた木の門。振り向くと、瓦があちこち剥がれ、半ば崩れ落ちている屋根がある。少し下に視線を向ければ、半壊した家屋に赤々とした炎が躍っていた。それを認めて、アキは目をいっぱいに見開く。じりじりと数歩後ずさりしたところで踵が何かにひっかかって、尻餅をついてしまった。
 起き上がろうとして手を地面につく。するとその手にねちゃりと妙な感触がまとわりつく。ぎょっとして両手を持ち上げて顔の前まで持ってくると、どぎつい色の赤い液体がべったりと付着していた。下を見ると、地面に倒れている人間の頭がすぐ傍にある。見開かれた目が虚ろにアキを凝視している。死んでいると認識すると同時に、アキの喉からひっと詰まったような声が出た。
 慌てて立ち上がって、転がるようにその場を離れる。途中いくつもの死体を目にしたが、強いて意識の外に追いやろうとする。時折石や木材や陶器の破片なんかを、踏んだり蹴ったりしたものの、不思議なことに音は一切立たなかった。今アキがいるこの世界に音自体が存在していないのだと気づくには、それからまた少し時間を要した。
 走りながら、何がどうなっているの、と混乱し切った頭で思う。その次の瞬間には、これは夢なのだ、とどこか冷静な声が、麻痺した頭の向こう側で答える。ここはどこなのだ、と胸の内で叫べば、記憶の中のおまえの生家だ、と同じ声が叫び返す。それに対して、わたしの生家はこんなものではない、と精一杯怒鳴った。燃え盛る家に背を向けて走る。不思議なことに他には何も具体的な景色が見えなかった。
 不意にアキは足を止めた。そろそろと口元に手をやり、何かに気づいたような表情を浮かべる。それからゆっくりと後ろを振り返った。かなりの距離を走ったつもりでいたが、炎に喰われる家は、同じ速度でアキを追いかけてきたとでもいうかのように、すぐ目の前にあった。それに関しては驚いた様子もなく、アキは家を食い入るように見つめる。屋内に目を凝らすと、ぼやけていた視界が晴れるように、屋内の景色がはっきりしてきた。
 一人の幼い少女と、黒くて大きな獣がいる。獣は引き締まった体躯をした、羊のような外見をしていたが、額からは長く立派な銀色の角が一本、天を貫くように生えていた。一人と一匹の周りには、数人の人間が血にまみれて倒れ伏している。少女の身体は、見たところ擦り傷や打撲傷があるくらいで綺麗なものだが、羊に似た獣の方は、角にも体毛にも血糊がべたりとついている。
 ――娘よ。おまえは、俺に名をくれた。
 無音だった世界に、どこからか声が反響した。厳かで深みのある声。普段耳にしているものよりずっと低いようだが、アキはこの声をよく知っている。
 ――だからおまえは俺の主だ。これは俺の誓約の証……おまえはもう自由だ。
 毎日耳にしている聞き慣れた声に、アキは思わず口を開いて名を呼びかけた。
 そこで場面が唐突に切り替わり、気づくと火や死体が掻き消えていた。場所が変わったのではなく、時間が経過したらしい。みすぼらしく荒れ果てた家の残骸が傾きながらも立っている。その家の外、庭と思われる場所には、先程の少女と黒い獣が、横に並んで何かをじっと見つめている。視線の先を辿ると、そこにはアキの両腕でなんとか抱えられるくらいの小山が三つ、てっぺんに石を乗せた形で築かれていた。それを見るともなしに見ていると、少女がすっと小さな両手を合わせて目を閉じる。その仕草に、小山が一体何なのかを悟った。
――そのカイチは元々、私の部下だ。
 別の声が聞こえてきて、アキははっと周囲に視線を走らせた。甘い香りが漂っていることに気づく。懐かしい、濃厚な香りだ。
――珍しい瑞獣だし返してもらいたいところだが――この酷い張り切り具合を見ると、これは君のことがとても気に入ったようだね。
 視線を少女と獣の方に戻すと、いつの間にかそこに新たな存在が増えていた。透き通った輝きを放つ白銀の長い髪に、鮮やかだが落ち着きのある深緋の瞳。女性のように柔らかな顔立ちをしたその人物は、かち色の羽織の下から何か白い花を取り出すと、少し屈んで少女に差し出した。泣いた後なのか、顔を赤く腫らした少女は少し迷った素振りを見せた後、恐る恐る腕を伸ばして花を受取る。濃厚な香りが一際強くなったかと思うと、少女の小さな手の中で花が泡のように弾け、白い光の玉となって少女の中に吸い込まれていった。
――正義を司る瑞獣に気に入られるとは、なかなか見どころのある娘さんだ。
 不思議そうな顔をしている少女の頭にそっと手を当て、彼は獣に一瞥をくれた。
――カイチは君にあげよう。ただし、代わりに私の頼みをきいておくれ。
 少女の頭を優しく撫でながら、白い髪をしたその人は、不意にアキの方を向いた。驚いて固まるアキの視線を捉え、彼は真剣な面持ちで言った。
――ある人を救うために、君の力を貸してほしいんだ。

 不思議な心地でアキが目を覚ますと、既に夕食の時間になっていた。
 ぼんやりとした気持ちをひきずったまま身支度を整えて、真理子が運んできてくれた豪勢な食事をカノとつついた。それから入浴を済ませて部屋でのんびりしていると、真理子とは別の女中が部屋を訪れたので驚く。珍しいことだと思って用件を聞けば、出先から帰ってきた整が呼んでいるとのこと。カノと顔を見合わせた後、既に寝間着姿なので着替えてから伺うとアキは丁寧に返事をした。しかしその中年女性は急いでいたのか、寝間着のままで構わないからと有無を言わせぬ口調でアキを追いたたせ、呆気にとられるカノを放ってアキ一人を部屋から連れ出す。
 何事が起っているのかよく分からないアキは、ただ腕を引かれるままに廊下を早足で進み、二階の一室に通されて、そこで待っているように言われた。
 それ程広くない部屋には誰もおらず、家具の類も、ランプのついた小さな棚が一つあるきりでがらんとしている。いや――もう一つだけ、家具はあった。
 アキは薄暗い部屋の中、できるだけ部屋の隅に縮こまって正座し、不安そうにそれを見やった。部屋のほぼ中央に敷かれた一組の布団。この状況でそれが意味するところを、いくら精神的に幼く世間知らずとはいえ、アキとて想像がつかないことはない。自分がこの屋敷ではどういう立場なのかも、分かっているつもりだ。
 しかし、まさかこんな唐突に、とアキは心臓がうるさいくらいに音を立て、嫌な汗が流れるのをひしひしと感じながら恐怖に身を縮める。一度会ったきりだが、整はそんなそぶりは見せなかった。一体、顔を合わせていない間に、何があったというのだろうか。
 と戸の開く音がして、アキは大げさなくらいに跳び上がった。
「ああ、明さん――」
 怯えた目でそちらを見ると、薄暗いのではっきりとはわからないが、整もどこか苦しげな顔をしているらしかった。それに気づいて恐怖を一瞬忘れる。よくよく見れば、整の顔がやつれている。妻の看病や仕事によるものだろうか。
「突然呼び出して、すまなかったね」
 近づいてきて困ったように微笑む。アキは目を見開いて、反射的にいいえと小さく呟いた。
「あの、整さま……」
 おろおろと視線を泳がせながら、不安な気持ちを隠そうともせず呼びかける。アキから二歩程離れたところに腰を下ろして、整はぎこちない微笑を浮かべて首を傾げ、続きを促す。口を開きかけて、アキは自分が何を言うべきなのか考えていなかったことに気づく。
「わたしは、その……自分の立場を分かっているつもりですけれど。でも……これは」
 必死に何か言おうとするが、自分の胸の内に溢れる想いや考えを、上手く言葉に表すことができない。途方に暮れてアキは俯いた。こういうことは嫌だ、とはっきり言うことができれば、それが一番いいのだが。しかしそれでは、アキがこの屋敷に引き取られた意味がなくなってしまう。
「……本当は……明さんのことは、最後まで養女で押し通すつもりだった」
 口ごもってしまったアキに代わって、整がぽつりと嘆いた。予想外の言葉にアキは内心驚く。
「私は妻を愛しているんだ。彼女を幸せにしたい。彼女を裏切るようなことは何があってもしたくない……そう思っている」
 アキは顔を上げた。訥々と語る整の顔からは、仮初の笑みが拭い去られて、苦痛の色を帯び始めている。
「だが戸塚の守り神が、許してくださらない。あの方は恐ろしい力を持っている。私が妻を裏切りたくないと突っぱねる限り……妻は幸せにはなれない……」
 あまりにも苦しそうな顔だった。つい心配になったアキが膝立ちになってにじり寄る。と、整が突然動いてアキの肩をぐいと押した。驚く間もなくアキは床に押し倒される。
「房。明さん。許してくれ」
 歯の隙間から絞り出された声には切実な願いがこもっていた。
 世界が突然反転して、狼狽のあまり思考が停止しかけたアキだったが、帯がするりと音を立ててほどかれたのを感じた瞬間我に返る。太ももに骨ばった手が這ったのと同時に、全身にぞわりと鳥肌が立った。男の手。嫌いな感触――。
「い、いや……」
 嫌悪が全身を駆け巡る。たまらずアキは泣き叫んだ。
「やめて!」
 途端整の身体が硬直した。
 それが何故かと考える余裕もなく、アキはその隙に整の下から必死に這いだす。ぼろぼろと泣きながら、はだけた寝間着の前を掛け合わせて戸に張りつき、勢いよく開けて廊下に飛び出す。もう何も考えられず、ただ逃げることだけが頭にあった。後から後から涙は溢れ、それはまるでとどまることを知らないかのようだった――。

 突然身体の自由がきかなくなり声すら出せなくなった整には、死にもの狂いで逃げ出すアキを引き留めることはできなかった。一体自分の身に何が起っているのかわからない整は、不自然な姿勢のまま目を見開く。指一本動かせない。金縛りとしか思えない。しかし、何故。
 整の周囲で、こういう芸当が出来そうな者はナカバ一人だった。だがけしかけた当の本人である彼女が、今このような邪魔をするはずがない。ならば一体何が――。そこまで考えたところで、整の背筋にぞくりと悪寒が走った。
 ランプがふっと掻き消える。窓も閉めているので、部屋の中は真っ暗になった。整はごくりと唾を呑む。その耳に、何か声のようなものが聞こえてきた。
 ――よくも……。
 おどろおどろしい、低い声。さああっと一気に顔が青ざめていく。
 ――貴様、よくもよくも……。
 声は徐々に近づいてくる。と、いきなり窓がひとりでに開いて、冷気が部屋の中に勢いよく吹きこんできた。
「よくも俺の主人を襲ってくれたな貴様ァ――ッ!」
 何か黒くて大きなものが、怒号と共に窓から飛び込んできた。同時に金縛りが解け、整はみっともなく倒れ込んでから慌てて後ろに引き下がる。
 黒い獣は銀色の角を見せびらかすように首を動かし、青い瞳に怒りを煮えたぎらせて整を睨みつけると、二本の後ろ脚で立ちあがって前脚を大きくふりかぶった。
「貴様なぞ踏み潰してから突き殺してくれるわ――っ!」
「ひ、ひいぃっ!」
 腕で頭を庇うようにして首を竦め、整は硬く目を瞑った。そのとき、
「カノさまカノさま」
 この場にそぐわない、穏やかな声が鼓膜を打つ。
「我慢ですよ。この方を傷つけては、本末転倒です」
 痛みが一向に襲ってこないので、整はそろそろと瞼を開ける。月明かりに照らされた室内で、漆黒の獣は相変わらずこちらを睨みつけていたが、攻撃を加える様子はなかった。
 ついで獣の隣に視線を移し――そこにあった顔に、整はぎょっとする。
「ま、真理子!?」
 髪を高い位置で団子状にまとめ、着物の裾を大胆にたくしあげて二の腕や太ももを晒す形の妙な格好をしていたが、それは間違いなく真理子だった。女中はにこりと整に微笑みかけてから、獣に向き直る。
「カノさまったら。もう鳥渡他にやり方があったでしょうに」
「いや、ない。こいつは邪だ。絶対に許さん。俺の角がこいつの血肉を求めて騒いでいる。今すぐ血祭りに上げて――」
「カノさまカノさま」
 手首から先、右手をちょいちょいと上下に振って真理子は冷静に遮った。
「地。地が出てます」
 獣の全身から殺気が消失した。目をぱちくりとさせて、真理子と整に交互に顔を向ける。少し間があいて、
「……アキちゃんには黙っといて」
 先程までとは百八十度異なる口調で、気まずそうに懇願する。その豹変ぶりにぽかんと口を開けている整の前で、真理子はにこにこと頷いた。

 整の元から逃げ出して、アキは無我夢中で走った。
 どこをどう走ったのか覚えていない。途中で人とすれ違ったかどうかもわからない。だが気づけば見慣れた白い木枠の障子戸が目の前にあった。
 両手で着物の前を抑えつけ肩で荒く息をしながら、涙に滲んだ目で戸を見上げた。
(どうしてここに来てしまったんだろう)
 呆然と立ち尽くす。昼間の出来事を思い出すと、また悔しさがこみあげてくる。しかしそれは、今受けたばかりの衝撃に比べると、小さなものに思えた。
 なんとなく視線を下に降ろして印を探してみた。暗いせいでよく見えないが、多分糸はどちらの色もなさそうだ。それもそうか、とアキは自嘲する。会うのはいつも昼だった。しかし今日みたいなことの後では、明日の昼にもここに糸が挟まれることはないかもしれない。そう思うと、胸のあたりに鈍い痛みが生じた。小首を傾げて、痛んだ辺りに手を当てる。この痛みはなんだろう。玲と会えなくなる、そのことを考えると、生じるこれは。
 そもそもどうして自分が咄嗟にここに来てしまったのかもわからない。今までなら、何かがあればカノの元に駆けこんだ。
 ――それなのに今日は。
 整にあんなことをされて、すごく嫌だった。とても怖くて気持ち悪かった。そこまで考えて、アキははっとした。昼間、玲に抱きすくめられたとき。あまつさえ頬に口づけを落とされたとき。侮辱されたように思って悔しかった。でもそれだけで、嫌悪や恐怖、気持ち悪さの類は一切湧き上がってこなかったことに気づく。どうして――。
 おもむろに戸が引かれた。自分ではない。はっと顔を上げる。
「……アキ?」
 目隠しをした少年の顔を見た瞬間、アキの中で何かがほどけて、広がっていった。
「玲、さん……」
 名前と一緒に、涙が零れる。見えているはずはないのだが、玲が僅かに眉根を寄せた。
「また、泣いてるの?」
 穏やかに澄んだ声。指摘されると、余計に涙が溢れ出した。
「れ、れいさ……」
「ああ……とにかく中に入ろう。おいで」
 伸ばされた手を自然に取った。きゅっと握った瞬間にアキは、ああ、と心の中で呟いた。
 そうだったのだ。触れてみてわかった。玲に会いたくて夜に部屋を抜け出した理由も、昼間自分が感じた色々の想いの原因も。それらは全部、たった一つのことに帰結するのだ。
 手を引かれて中に入り、言われるままにアキは文机の前の座布団に座った。玲は戸を閉めてから戻ってきて、アキの正面に腰を下ろす。敷かれた布団の傍に置かれたランプが、部屋の中をぼんやり照らし出していた。枕元の猫面が、灯りを受けてほのかに黄色く染まり、浮き上がって見える。
「昼間は、その……ごめん」
 玲は密かな声で言った。
「ううん。わたしこそ、ごめんなさい」
 涙声で謝り、微かにアキは微笑する。玲は少し逡巡した後で手を伸ばし、アキの頬を包んだ。親指で涙を拭いながら、
「泣いてる」
 と呟く。顔を暗くしたのを見て、アキは慌てて違うの、と否定した。
「これはね、さっき整さまに呼ばれて、それで……」
 そこまで正直に言ってから口を噤む。思い出してかっと身体が熱くなり、震えが走る。玲に言うのは抵抗があった。だが言わなくても玲にはわかったようだった。はっとした表情になってから、眉間に皺を寄せる。何かを言おうと口を開き――しかし何も言わずに閉じてしまった。
「玲さん」
 アキが名前を呼ぶと、悔しそうに俯く。
「ごめん……俺には何も、何もできなかった……」
「あ、その、大丈夫だよ……大丈夫じゃないけど。逃げ出してきたから」
「逃げ出してきたの?」
「うん。怖くて、嫌だったから」
 玲はあからさまにほっとしてため息をついた。
「そうか。よかった……いや俺がよかったと言うのは違うな」
 アキは答えずにじっと見つめた。
「俺は《宝》だ。戸塚家の繁栄のために、守り神に捧げられた人身御供。守り神が望むことを否定するなんて、そんなこと……」
 戸塚の者として、してはならないはずだ。玲は重々承知していた。――だが本当にそれでいいのかと、自身の内に問いかける声がある。
「玲さん」
 頬に当てられたままだった玲の手を、アキは優しく両手でとって、そこに唇を寄せた。固まる玲に、笑いかける。
「玲さんが何者でも、わたし、玲さんが好きだよ」
 その時玲はしがらみも立場も何もかも全てを忘れ、この少女を強く欲した。自分の生まれ育ったこの牢獄を、壊したいと切実に願った。
 アキは手を伸ばして、枷となっている赤い布に触れた。以前のように玲は抵抗しなかった。少し身を寄せて、玲の頭の後ろにある結び目を探る。少し力をこめれば、それは拍子抜けする程いとも簡単にほどけていった。
 布が完全に取り去られると、玲は閉じていた瞼を開く。目が合った瞬間アキをきつく抱きしめ、唇を合わせた。今度はアキも、嫌だとは思わない。自分から玲の背中に手を回し、目を閉じて応えた。
 気の済むまで繰り返してから、二人はそっと身体を離した。途端に玲がぎょっとした表情になる。アキが小首を傾げる前で、頬にみるみるうちに赤みが差した。どうしたのか、と問う前にふいと横を向く。
「アキ。君……服、どうしたの」
 ちらちらと様子を窺いながら、やっとの思いで玲が言うと、きょとんとしていたアキは自分の姿を見下ろした。帯を失くし、はだけられた着物から素肌が覗いている、あられもない格好。
 ぼんっと一気に顔が真っ赤に染め上った。
「きゃあああ! みっ見ないでぇ!」
 前を必死に掛け合わせて慌てて少し後ろに下がり、叫ぶ。そのとき障子戸を突き破って飛び込んできた影があった。
「この野郎――! 兄弟揃いも揃ってえぇ!」
 怒鳴り声に驚いた二人がばっと振り向く。
「羊!?」
「カノ!?」
 憤懣やるかたないといった様子で、自慢の角をぶんぶんと振り回していたカノだったが、アキに名前を呼ばれて動きを止めた。青い目を驚きに見開く。
「……アキちゃん? もう思い出したの?」
「え? ええと……思い出す……?」
 何のことかわからずオウム返しに尋ねたところで、ふっと自分の中でシャボン玉が一つ弾けたような感覚がして、それと共に閃きのように一つのことを思い出す。驚いたが、違和感はなかった。少し、とアキは無意識のうちにカノに頷いてみせる。頷きながら、今日夢に見た情景は、自身の過去の記憶だったのだろうと実感した。
「……わたしが記憶を塗り替えられて、風見家の娘ということになって戸塚家に来た――というのは今、わかっ……思い出したよ」
 数日前にカノは何かを隠していると感じたのは、もしかするとこれだったのか。
 戸惑いながらもカノをまっすぐ見つめてアキがはっきり答えると、隣で玲がこちらに視線を向けるのがわかった。少し心に影が差す。アキは玲が何者でも構わないと思った。しかしその他ならぬ自分が、何者か分からなくなってきた。もしや自分は玲を騙していたことになるのではという予感が、背後から忍び寄ってきてアキは不安になった。
「……ということは、いよいよ時間切れが近づいているのね」
 声に緊張を滲ませてカノが戸の方を見る。すると真理子がひょっこり顔を出して、真剣な顔でそれに頷いた。
「人払いの結界は張り終えました。ナカバもいい加減事の異常さに気づいている様子ですよ。こうなったらもう、思い切って正面からいくしかないですね」
「真理子ちゃん?」
 予想外の顔に驚いたアキが声を上げると、部屋に入ってきた真理子はいつもの優しい笑顔を浮かべた。
「私もアキさまと同じで、白浪さまの指示でここに来たのですよ」
「ちょっと! アキちゃんはまだ全部を思い出した訳じゃないのよ」
 ぎろりと青い瞳に睨まれて、真理子はしまったという顔をする。アキが困惑を露わに二人を交互に見やると、大胆な格好をした女中は再び笑顔に戻り、両手に抱えた物を掲げながらアキの傍まで寄った。
「さあ、アキさま。お着替えをお持ちしましたのでこれにお召し替えください」
 何気なく真理子の手元を見たアキの顔が引きつる。
「そ、その袋……」
 見れば真理子が今着物を取り出した袋は、アキが縫ったずだ袋――ではなく巾着だった。取り出した着物を手早く広げながら、真理子はふふ、と笑う。彼女に悪気はない。
「このずだ袋、丁度いい大きさだったので。すみません、勝手に使わせていただきました」
 アキは絶句してから、何かを言い返そうと口を開きかけ、結局閉じる。真理子の純粋無垢な笑顔と言葉が、アキの小さな胸にぐさりぐさりと刺さっていた。ずだ袋じゃないのに――とアキが涙目でしょげる。そんな少女に着物を着替えさせようとしてから、ふと真理子は傍らの玲に顔を向けて苦笑した。
「殿方は当然、外に出ていてくださいますね?」
「あ――」
 放心していた玲はそれで我に返り、少し顔を赤くしつつ慌てて頷くと、素直に立ち上がって部屋を出ていく。それを見届けて、真理子はいつまでも突っ立っている黒い獣の方にも同じ笑みを向けた。
「急いでるんで、カノさまも早く出て行ってくださいません?」
 その台詞に、カノの目が心外だと言わんばかりに見開かれる。これまで数年アキと一緒に暮らしてきたカノには、真理子の言葉に従う理由はないと思われた。
「なんで私まで! 今更じゃないの!」
 しかし結局カノも部屋から放り出された。

 アキの着替えが完了すると、三人と一匹は揃って中庭へと向かった。
「やはり中庭が核なんです」
 早足で進みながら、真理子がアキに説明する。
「正確には、恐らくあの祠が。よくわからなくて困惑なさっているでしょうけど、今はとにかく私たちについてきてください」
 カノの背に手をかけて、アキは不安げに瞬いた。
「これから何が起きるの? わたしは何をすればいいの?」
「アキちゃんは何もしなくていいの」
 静かな声でぴしゃりとカノが言った。
「私たちを中庭に通してくださるだけでいいのですよ。アキさまにはその力が授けられていますから」
 微笑んで真理子が補足する。釈然としなかったが、アキはひとまず小さな頷きを返す。
「それより、なんで《宝》までついて来ているのよ?」
 カノは不満気に鼻を鳴らした。
「はっきり言って邪魔よ。真理子、なんで結界に閉じこめておかないの」
「アキが行くんだから、俺も行く」
 カノを挟んだ向こう側で、玲が真面目な顔つきで答える。
 彼の中では一つ決心したことがあった。アキを見ると、彼女は気づいて微笑んでくれる。その笑みを見ると胸が締めつけられそうに思ったが、なんとか表には出さずに堪えた。
「アキちゃんは私が守るからいいけど、あんたは守らないからね!」
「カノさま。男の嫉妬は醜いですよ」
 冷静な指摘に、うるさいわよ! と瑞獣は叫んでから押し黙る。アキはその背を優しく撫でた。その目にふと映るものがある。
「玲さん。それ、持ってきたの?」
 ああ、と呟きながら玲が面を持った手を軽く持ち上げた。懐かしい濃厚な香りが溢れる。今はいつにもまして香りが強いように、アキには感じられる。
「目隠しをしないで外に出るときは、いつもこれをつけていたから。つい癖で持ってきてしまって」
 ふうん、と相槌を返す。と、つい最近別の物から同じ香りを嗅いだことがあることを思い出す。アキは訝しんで記憶を探った。少しすると、つい最近どころか、今日の昼に見た夢の中で、同じ香りに触れたことに気づいた。ああそうか、と思った。
「その香り――あの花の香りなんだ」
 手の下でカノの背が一瞬強張る。もの問いた気な玲をぼんやりと見返しながら香りを確認する。間違いないと確信した。
「その面からクチナシの香りがするの。……あの人の匂い――」
 最後はぼそりとつけ加えたので、玲に聞こえたかどうかは怪しい。
「この面は――」
 顔を上げて、先に見えてきた中庭を見据え、玲は少し遠い目をした。
「昔、まだ正式に《宝》になる前に、もらったんだ。不思議な、白い人から」
 それって――とアキは思い当たる人物を脳裏に浮かべる。しかし意識はすぐにそこから離れた。中庭に着いたのだ。
 アキはカノと頷き合って、硝子戸をぐいと引いて開けた。三人と一匹は顔を引き締め、中庭に足を踏み出す。途端肌を撫でる空気の質ががらりと変わったのが感じられた。
「――なあに、あなたたち」
 声が頭上から降ってきて、アキたちははっと顔を上げる。同時に背後で大きな音を立てて戸がひとりでに閉まった。しかしそれを振り返る余裕もなく、アキは呆然として立ち尽くす。あのときの骸骨蛇が、前と同じように宙にとぐろを巻いて、こちらを見下ろしていた。前と違うのは、その頭部に一人の女が立っていることだ。
 周囲の空間がぐにゃりと歪んで、屋敷や中庭が飲み込まれて消えていったかと思うと、代わりに周囲は白と黒の奇妙な斑模様の世界に包まれた。祠と鳥居だけがその場に残る。
 驚愕に息を呑むアキの遥か頭上で、女が美しい顔を訝しげに傾げる。
「混ざった……? おかしいわね。……もしかして、お嬢さん方のどちらかが、結界を張るのが得意なのかしら」
 そう言って見下ろしてくるその瞳は、冷たく鋭利な輝きを帯びている。その凶暴な目つきに、アキの背筋が粟立った。
「玲……どうして目を開けているの?」
 大げさな程に感情を込めて女は眉を顰める。アキの隣で玲が僅かに後ずさった。
「どうして? どうしてあたし以外の人を見ているの?」
「ナカバさま……」
「ねえどういうことなの? 玲、おまえ自分が何をしているか分かっているの? 契約の内容はよく知っているでしょ?」
 玲は下唇を噛み、手にぐっと力をこめた。そうして後ずさった分前に戻り、更に一歩足を踏み出して、険しい顔で上空の女を睨む。
「その契約は、戸塚の愚かな先祖が結んだもの――」
 言葉を切って、深い呼吸を挟んだ。一度身体が震えたが、眼光の鋭さは変わらなかった。
「契約を破棄してください――代わりに俺の全てを差し上げます」
 右手に持った面をぐっと握り込む。これこそが、先程とうとう固めた玲の決意だった。
「玲さん!?」
 アキが甲高い声を上げたが、玲はそちらを見なかった。ただ戸塚の守り神を睨み、右手の面に強く意識を向ける。
 《宝》とされてから、この面が玲の心の拠り所だった。つらくなると、これを被ってこっそり外に抜け出た。被っている間だけは、戸塚の人間でも《宝》でもなく、ただの玲になれた。そしてこれがあったから――アキと出会えた。それこそが玲にとっての宝だ。充分だと思った。
 アキと出会えて、玲の心は解放された先を夢見ることができた。しかしそれは、契約に縛られた戸塚の者にとっては裏切り行為だ。たとえ間違った契約であっても。
 だから玲は、裏切り者として責任を取ろうと決めた。自身と引き替えに、戸塚の者たち――兄や義姉たちを解放してもらうことを願った。
 ナカバは感情のよく読み取れない目で玲を見下ろしていたが、すっと目を細めて口を開いた。
「おまえと引き替えに契約を破棄――? 何を言っているの、玲。おまえは《宝》なのよ?」
「確かに、《宝》は元々あなたに捧げられた贄。……でも俺が言っているのは――死後も含めて、という意味です」
 それは恐怖や嫌悪といった想いを全て押し殺して、決死の覚悟から出た言葉だった。
「……そうね」
 ぽつりと呟きが空から落ちてきて、玲は上手くいったかと身体を緊張させる。しかしナカバが次いで洩らしたのは、つまらなそうなため息だった。
「おまえは知らないのね。あたしも今までの《宝》の中では、おまえはかなり自由にしてやっていたし」
 僅かの間目を閉じる。再び開いたとき、その瞼の下から現れた瞳に、玲は息を呑んだ。
「《宝》になるということは、既に死後も含めて全てをあたしに捧げられた、ということなのよ」
 蛇に似た黄色い目をぎらぎらと不気味に光らせて、ナカバは地獄の底から湧きあがってくるような低い声で、嘲るように笑った。それからその目を玲から少し離れたところに向ける。まさに蛇に睨まれた蛙といった様子で、アキは思わず身を竦ませた。
「あたしの玲をかどわかしたのは、おまえだね」
 強い風が吹いた。アキは咄嗟に目を閉じてしまったが、慌てて薄目を開ける。だがそのときには、アキの目前に巨大な骸骨頭が迫っていた。
「え――?」
 アキの身長の三倍以上はあるそれが、大きく口を開く。
「アキちゃん!」
 カノの悲鳴が、遠くで霞んで聞こえたように思った。
 巨大な黒い影に全身をすっぽり覆われて光が一切見えなくなる一瞬前、アキの身体に横から衝撃が走った。誰かに突き飛ばされたのだと気づいたときには、光が全て掻き消えて、アキの世界は暗転した。

10

「な――な……なな、なんで」
 しなやかな身体をぶるぶると奮わせ、カノは信じられないというように青い目を丸くした。
「なんであいつがアキちゃんと一緒に喰われてんのよ――ッ!」
 うがーっと絶叫するカノに、真理子は背後から冷静な顔つきで声をかけた。
「カノさまそれはどういうお怒りですか。救う対象である戸塚の人間が自ら危険に飛び込んでいったことに対するものか、それともアキさまをお救いできなかったことか、それとも彼がアキさまと二人きりで」
「阿呆か! そんなこと言ってる場合じゃないでしょ! 全部よ!」
 怒り狂う猛獣さながらの形相に、真理子は真面目になるほどと頷く。それから鋭い目つきになって、怪物と女の方を向いた。
 ナカバは怪物の頭の上に乗ったままだった。少し目を見開いて呆然としていたが、しばらくすると半眼になってゆるゆると首を振る。
「玲まで食べちゃうなんてね。まあ、どのみち食べる予定だったけれど……まだ次の《宝》も産まれていないのに。ちょっと早まっちゃったわ」
 屈んで怪物の頭をそっと撫でる。骸骨蛇が頭をもたげて、残ったカノと真理子を見下ろす姿勢になった。
「《宝》を食べるつもりだった……?」
 冷や汗を流しながら、真理子が怪訝な声を上げる。アキと玲のことが心配だが、下手に動けなかった。
「そうよ。それも契約のうちだもの」
 女は平然とした顔で頷く。
「《宝》は生きているうちはあたしの人形。次の《宝》が決まったら、前のはこの《閂》に食べさせる。そうやって二百年やってきたの」
「どうしてそんなことを……」
 真理子はおぞましさに身震いする。この女は一体、何を思ってそんなことを繰り返すのだろう。理解できないし、したくない。そう考える真理子の耳に、そういうことか、と小さな呟き声が聞こえた。
「元天人とはいえ、天上界を追放された堕天が、下界でどうして二百年も不老でいられたのかと思ってたけど――」
 ナカバの美しい眉がぴくりと動いた。
「その妖に喰わせた人間たちから、あんた、魂ごと気を吸い取っているのね」
 真理子はそれを聞いて唖然とした。人間の身も心も、魂も喰い尽して。その気を吸収することで、自分の寿命と若さを維持しているというのか。人の命を犠牲にして。そんなことが許される訳がない。ましてや、仮にも人間よりも高位存在である天人だった者が――。
 しかし今はナカバのことよりも、喰われたアキと玲の安否が気がかりだ。あの怪物に喰わた者の気が吸われるとなれば、なおさら。真理子はちらとカノに視線を投げて、大丈夫だろうかと目で問うた。
『アキちゃんには白浪が《絶対防御》の術を施している。自分に害なす結界や攻撃は全て消し去る、強力な護りの力よ』
 ですが、と懸念の色をこめると、わかってる、とカノも不安そうに頷いた。
『あれが発動したところで攻撃はできないから、妖の腹の中からは出られない』
 黒々とした長い巨体。今アキたちは、その中のどのあたりにいるのか。助けだせるか――ぎりりとカノは歯をくいしばる。
『それに効果が発揮されるのは無知の状態――つまり自分にその力が宿っていると知らない間のみ。アキちゃんは記憶を取り戻しかけている……今発動してくれているかどうか』
 ああ、とナカバが何かを思い出したような表情をした。
「おまえ、カイチね。初めて見たわ。……でも高位の瑞獣であるおまえが、どうして邪気溢れる下界、しかもあたしの領域内にいるの?」
 カノは真理子に意味ありげな一瞥をくれてから、ふっと挑発的な笑みを浮かべる。
「さあ、どうしてだと思う?」
 ナカバの蛇の目がすっと細くなる。その視線がなめ回すように身体中を這い回り、最後に堂々たる角に止まったのを、カノは感じた。
「善悪を判別し邪を突き倒す、正義と公正の霊獣――自慢のその角で、あたしを殺しに来たの?」
 カノが何も言わないでいると、やれるもんならやってみなさい、と女は高らかに笑った。ヒステリックな高い声が響き渡る。自分が邪でない自信があるのか、それとも何か仕掛けがあるのか判別しかねて、カノは顔を僅かにしかめた。焦ってはいけない、と自分に言い聞かせる。その視界を、さっと小柄な影が横切った。確認してぐっと足を踏みしめる。
 光の残像の如きごく淡い白の光を両手に纏い、黒い怪物目がけて真理子は飛び出した。傍までくると力強く見えない地を蹴り、素晴らしい跳躍を見せて怪物の頭の上まで飛び上がる。骸骨と女を上から見下ろし、両手を前に突き出して真理子は一声叫んだ。
「封!」
 真理子の手から勢いよく白く輝く鎖のようなものが幾本も飛び出す。それは鞭のようにしなやかにしなり、光の速さで怪物と女に絡みつく。もがく対象物をぐるぐると包囲し、一際明るく輝いたかと思うと、真理子は落下しながら肩越しに後ろを見やって叫んだ。
「カノさま! 今です!」
 言われる前にカノは既に飛び出していた。一瞬のうちに敵との距離をつめ、飛び上がって骸骨の頭部と蛇の胴体の間めがけて、頭をぐんと突き出し、角を巨体に刺しこむ。確かな手応え。根本まで突き刺してから、今度は勢いよく角を抜いて、呻く怪物の身体を四肢で蹴飛ばして離れた。
 それが邪なものであれば、どれ程硬いものでも巨大なものでも、カイチの前には一切関係がない。全てを貫き、切り払う破邪の角を前に、敗れない邪などあろうはずもなかった。――だが。
 たんっと小気味良い音を立てて地面に着地し、瞬時に振り返って体勢を整えたカノは、目前の光景を見て瞠目した。
「無傷――!?」
 カノから少し離れたところで構えている真理子も、信じられないと目を見開く。互いに協力して、妖に痛恨の一撃を加えたと思ったのに、妖は傷一つない黒々とした身体を誇示するようにくねらせて、平然としていた。
「馬鹿な! 俺の角で傷つかない邪など……! ましてや妖だぞ!?」
 確実に手応えはあった。それなのに、どうして。
「残念ねえ」
 媚びるような調子でナカバは叫んだ。顔を優美に傾けて流し目でカノ、そして真理子を見る。それから鎖に縛られた状態で、右手の指をぱちんと鳴らした。その瞬間、ナカバと怪物に巻き付いていた鎖が、弾かれたように吹き飛び、消滅した。
「わ、私の術が」
 真っ青な顔の真理子。口から震えた声が漏れる。
「あたしは天女よ。人間の小娘が張った結界なんかに、縛られたりしないの」
「……おまえはもう天女なんかじゃない。天上界に追われた堕天だ」
 下から睨みつけ、カノは唸った。
「あたしは天女よ。まだ御印があるもの」
 言って、自慢するように着物の袂をぐいと引っ張り、肌を露わにした。着物の下から小さな黒い痣が覗いた。雲の奥に四本の直線で八等分された円。天上界に召された天人の証であり、天術を使用する際には力の源となる御印だ。本来ならば天人の資格剥奪の際、この御印も返却する決まりなのだが――恐らくこの女は、返却せずに逃げてきたのだろう。だから堕天と追われ、今も天術を使って戸塚家を支配している。
 これは厄介だ――とカノは内心舌打ちをする。御印を持つ者相手では、今はまだ人間である真理子に勝ち目はない。自分の角も、何故か妖に効かなかった。どうする――。
「ふふ、どうしたの? もう手詰まりなのかしら」
 動かなくなったカノと真理子を見て、おかしそうにナカバは笑う。
「そうよね。そこの小娘は人間だから天女のあたしには敵わない。カイチの角だって、邪に対しては、これ以上ない程有効な武器になるかもしれないけれど、妖でも邪でもないこの《閂》には効果がない――おまえたちに勝ち目はないわ」
 その言葉にカノは少し顔を上げた。この怪物が妖でも邪でもない――? 一体どういうことだ。人間を喰らい続けて、このように人間を無理矢理支配して。邪でないはずがないのに。そもそも規律を破り罪を犯した、堕天の支配下だというのに。
「さて――そろそろ片づけないとね」
 ナカバの声に反応して、骸骨蛇の巨体がゆるりと動いた。
「娘は《閂》に食べさせるとして……カイチはどうしようかしら。《閂》は人しか受け付けないし。珍しいから殺すのも勿体ないし……折角だからあたしの玩具にしようかな?」
 言いながら、何がおかしいのか、肩を震わせくすくすと笑い出す。その笑いは段々と大きくなっていって、やがてナカバは腹を抱えて、耳障りな甲高い声で笑い出した。
「ああ、楽しい、楽しい。久しぶりにウキウキしてる。若返った気分だわ」
 虚ろに聞こえる声でひとしきり笑った後、艶めかしい仕草で《閂》の頭をひと撫でした。
「さあ、あれを食べなさい――仲間が増えるわよ」
 歪んだ笑みの下で、巨大な骸骨が悲鳴のような鳴き声を上げた。

11

 アキは暗闇の中で意識を取り戻した。少しの間気絶していたらしい。ここはどこだろう、と首を巡らして周囲を見渡すが、辺りは寒々しい闇一面。何も見えない。
 そこでアキは怪訝な顔をする。光のない暗闇の中何も見えないというのはわかる。ならばどうして、自分の身体はこうもはっきりと見えるのだろう。おかしいと首を捻りながら、自分の手をまじまじと見つめた。じっと目を凝らしていると、どうやら身体がぼんやりと淡い光を発しているようだ。再び周囲を眺め回してみる。上も下も、右も左も分からない空間の中。自分以外の何者も見当たらない。
(わたしは……)
 右手を伸ばして眉を顰めた。
(食べられてしまったんだ。あの骸骨に)
 ということは、ここはあの怪物の体内ということになるのだろう。周囲に何かが触れている感触はなく、痛みも熱さや冷たさも何もない。一体自分はあの巨体のどのあたりにいるのだろうかとアキはしばらく考えてみたが――考えてみたところでわからないので諦めた。
 そこでふと思い出す。そういえば、食べられる前に誰かが自分に触れなかったか。
(そうだ、玲さん――)
 顔に手をやって、アキはさあっと蒼白になった。玲が自分を突き飛ばして助けようとしたが、間に合わず一緒に飲み込まれてしまったのだと悟った。ならば玲も同じ空間のどこかにいるはずだと目を凝らす。しかし闇は変わらずどこまでも続いている。涙が溢れてくる予感がした。慌てて歯を食いしばり、ぐっと堪える。泣いている場合じゃない、と強く自分に言い聞かせた。
(玲さんを、探さなきゃ)
 二人で一緒にここから出る――強く、強く思って、眼前の闇をきっと睨みつけた。
 するとその目に、何かが映る。きょとんとした顔になってから、何だろうとアキは目を細める。小さな光がぼんやりと瞬いているようだった。距離があるらしく、光の正体はわからない。ただ、どこか懐かしいようにアキは感じた。あそこに行けばいい――そう考えると、両手両足を懸命に使って、水の中を泳ぐように進んでいく。
 いくら手足を動かしても、光はなかなか近づく気配がなかった。それでも確かに進んでいるとアキは何故か強く確信する。これでいい。このまま進んでいけばいい。手足を早く動かしたところで、どうやら速度は変わらないらしいと直感し、アキは手のひとかき、足のひと蹴りに真剣な想いを込めて着実に進んでいくことにした。
 と、視界の隅でぼんやりと何かが見えたように思う。四肢の動きを止めずに顔だけをそちらに振り向けると、四角く切り取られた光の中に、景色が――人が見える。はっとして声を上げようとしたが、思いとどまってもう一度目を細めて見つめる。四角い景色の中で、白い髪に赤い目隠しをした少年が、祠の前に立っていた。一瞬玲かと思ったが、顔が全然違う。
 ――兄上に二人目の男児が生まれた。私もじきにお役御免になる。
 頭の中に直接、声が響いた。少年の声だとアキは悟る。
 ――ご先祖さま。もうじき……そちらに参ります。
 そこでふっと景色が消失した。今のは何だったんだろうと思う間もなく、また視界の隅に光の気配があったので、そちらを振り向く。今度は、白い髪の男と黒い髪の女が、ごちゃごちゃと物の溢れる部屋の中で向かい合って座っていた。
 ――守り神さま。実は……。
 言いさした男に、女は片手を差し上げて首を横に振った。ナカバだと知れた。
 ――何も言わなくていい。あたしがいる限り、《宝》をあたしにくれる限り、戸塚の繁栄は確実なのだから。心配は要らない。
 女の言葉に、男はあからさまにほっとしたようだった。ふと、アキは景色の中にもう一人人間がいることに気づく。物が本当に多いので見落としていたが、箪笥と屏風の隙間に隠れるようにして、小さな男の子が一人、縮こまって息を潜めている。白い髪に赤い目をした子。恐らく《宝》なのだろう。
 ――裏をかえせば《宝》をあたしに提供しなくなったときが、戸塚の終わりよ。戸塚の生者も死者も関係なく、全て《閂》の中で永遠にあたしの養分となる。それはひどい苦痛よ。魂の痛みは、肉体の痛みとは比べ物にならないから……。
 にやりと笑う女の顔が見えたとも思わないが、隠れている少年は蒼白な顔で息を呑んだ。そして景色はまた唐突にふっと掻き消えた。
 アキはそれからいくつもの景色を道中に見た。一つ一つは短い場面で、一つが消えたと思うとまた別の景色が浮かび上がる。それらを見ながら、アキは悟っていた。これらは全て、この《閂》に喰らわれた生贄の少年たちの記憶だ。中にはほんのいくつか、戸塚の血筋でないらしい者の記憶もあったが、いかなる理由でかそれも恐らく《閂》の犠牲になった者なのだろう。
 恐ろしいことをする、とアキは顔を歪めた。涙を押しとどめるのはもう限界に近かった。景色を一つ見る度に、暗闇の中に苦悶の気配が一つ浮き上がってくるように感じられた。《閂》の中に残った意思の残滓のようなものが、自分たちの苦しみや悲痛を知ってほしくてアキに記憶の一部を見せているのだと思った。生きている間ナカバと契約によって苦しめられ、死んでもなおそれらに苦しめられ続ける。情景を見れば見る程、アキは心も体も重くなっていくように感じる。四肢のひとかきが、進めば進む程つらくなっていく。それでもアキは景色から目を逸らさない。手足を動かすのをやめはしない。歯をくいしばって、荒く息をしながらも丁寧に目を向け、真剣に進んでいく。
(あのナカバという人は、どうしてこんなことができるのだろう)
 沈痛な面持ちで、玩具のように扱われる《宝》の一人の記憶を見ながら、アキはつらく思った。
(何が楽しくて戸塚の人々を苦しめるのだろう)
 アキにはその理由がわからない。誰かを苦しめて喜ぶなんて想像もつかないが、ナカバはそれで戸塚との契約を履行し続けるのだろうか。単に人の不幸を見るのが楽しくて。
(ううん、きっと違う)
 また一つ場面が消えていき、光り始めた反対側に顔を向けてアキは真顔になる。
(何か理由があるんだ)
 アキには想像もつかないが、必ずこの契約の裏には何か事情があるとしか思えなかった。アキはナカバのことを何も知らない。だがどうもナカバが戸塚の人々を苦しめることに目的を置いているとは思えない。――そもそも、周囲の苦しみに気づいているかどうかも怪しい、と景色を見ているうちにアキはぼんやり思い始める。
 目指す光までには、まだ距離がある。またひとつぼんやりと景色が浮かび上がった。そちらに顔を向けてアキは目を凝らす。《閂》の中の無数の意識がアキに見せたがる記憶。自分は知る必要があるのだと彼女は真剣に受け止める。
 そのとき浮かび上がってきた景色に、アキは少し驚いた。どこかの山の中だ――今までは室内の記憶ばかりだったのに、妙だ。大抵記憶の主は軟禁されていた《宝》だから、室内ばかりになるのは致し方ないのだが。と訝しく思うアキの目に飛び込んできたのは、一人の女だった。
 ――どうして……?
 振り向いた女の顔を見て、アキは今度こそ驚愕に打たれる。清楚な美しさを持つ若い女。雪のように白い肌に墨色のつややかな髪を垂らしている。今とは見目も印象も異なるが、どう見てもナカバとしか思えなかった。
 ――どうして、あたしを見てくれないの……?
 目を引く儚げな美しい顔を歪ませて、ナカバは縋るように右腕を伸ばした。その頬に一筋の涙が伝い――そこで景色がふっと消えた。

12

(今のは)
 アキは景色が消えても、しばらくそこから目を離せなかった。先程から生じる記憶は《閂》に喰われた犠牲者たちのものだったはずだ。今の情景は、どう見てもナカバの過去。どうしてこの空間の中で、アキの前に現れたのか。次の景色が現れる気配がしたので、アキは勢いこんでそちらを見やる。今度の場面では、薄汚い長屋の前でナカバが、貧しい身なりをした一人の男と向かい合っていた。ナカバの腕には一人の赤子が抱えられている。
 ――うちの坊を助けてくれて、ほんにありがてえ。恩にきるよ……。
 男はしきりに頭を下げ、目尻に溜まった涙を拭った。男の身体はあちこち傷だらけで、あざや血が滲んでいる。ナカバは曖昧な笑みを男に向けた後、腕の中の赤子に視線を落とす。赤子はふわふわとした白い髪の子で、ナカバを不思議そうにじっと見つめるその双眸は赤かった。その子もまた怪我をしているが、こちらは男程酷い怪我ではない。
 ――その子は、ほれ、人と違ぇだろう。だからなあ、不吉だ妖の仔だってぇ言われて……殺せ殺せ、となあ……。
 男の言葉をナカバがきちんと聞いているかは怪しかった。彼女は食い入るように赤子の可愛らしい顔を見つめている。
 ――白い髪に赤い目……。
 ナカバの口は動いてはいない。今のはどうやら彼女が心の中で思ったことのようだった。
 ――あの人に似ている……。
 何か面白いことでも見つけたのだろうか。不思議そうな顔で見知らぬ女を見上げていた赤子が、不意に無邪気な笑みを浮かべた。それを見て、ナカバが息を呑む。大きな黒い目から、ほろりと涙が零れた。
 ――あたしを見て、笑ってくれた。
 ナカバの顔に、仄かに泣き笑いのような表情が浮かぶ。
 ――同じ……赤い目で。あたしを見つめて、笑ってくれた。
 ナカバと同様に赤子を見つめていた父親が、腕を上げて目元を隠す。
 ――殺せる訳、ねえよ……色が違うだけで、なあんの罪もねえ。何もしてねえのに、なんで……。
 震える声で呟く男を、ナカバは見上げた。涙に濡れたその顔に、どこか強烈な意志の輝きがある。
 ――あたしが、守ってあげましょう。
 力強くナカバは男に提案した。男が腕を顔から離して、ぽかんと口を開けて見つめる。その反応に臆する様子もなく、真面目な顔で彼女は続けた。
 ――この子もあなたも、あなたの一族もみんな、あたしが守ってあげる。あたしにはその力がある。……代わりにこの子を……あたしに頂戴。
 言い終るや否や、すうっと景色が消えていく。アキはごくりと唾を呑んで、薄れていく記憶を見送った。今の場面が、ナカバと戸塚の契約の始まりなのだ。白い髪に赤い目を持った子が発端だったのだ。
 しかしナカバは何故、あの子を欲したのだろう。その答えを求めてアキは次の場面に目を移す。恐らく、この闇はそれに応えてくれるのではないかとうっすら思った。
 見えてきた光景は不思議な場所だった。明るい空間の中、見たこともない植物が生い茂っている。ごつごつとした岩壁には薄く発光している苔がむしている。なんと地面すれすれに雲が通り過ぎて行く。
 そんな世界の中に、ナカバの黒い後ろ姿が見えた。ナカバの前方にもまた別の人物がいる。長く白い髪を後ろで一つにまとめている細い後ろ姿を見ると一瞬女かと思われたが、よく見れば体つきは男のものだ。
 二人は少しの間無言で立っていたが、やがて白い髪の人物が、よろめくように数歩先に歩いて――そこでその姿が音もなく消えた。
 ナカバははっと顔を上げて右腕を伸ばしたが、その手は何も掴めない。ゆるゆると力なく下ろし、男がいた方向に背を向けて、俯いた。アキの目に、まるで少女のような可憐な顔を歪ませて泣いている顔が見える。
 ――拒絶された……。
 心の中でそう呟き、ナカバは手で顔を覆って咽び泣いた。
 ――あたしの想いは、あの人に届かなかった――。
 見ているアキの胸に、引き裂かれるような苦痛が走った。思わず顔をしかめてよろめきながらもアキは光景を見つめ、手足を動かして光へと進み続ける。また景色が朧になって消えていくようだったので、アキは素早く顔を巡らして次の景色を探す。それは反対側にすぐに見つかった。アキが振り向いてくれるのを待っていたかのように、みるみるうちに鮮やかな光景が浮かび上がった。
 ナカバは膝をついて、手を腰の後ろにまわしていた。どうやら手首を何かで縛られているらしい。
 真っ白な、人工的な空間だった。石柱のような物が立ち並ぶ円形の部屋の中に、ナカバ、そして幾人もの男女が見える。それらの人々は皆険しい面持ちで、互いにひそひそと言葉を交わしていた。ナカバは一人、部屋の中央に晒される形で俯いている。
 ――これは大罪だ。七賢の許可もなく私欲で下界に天術を行使した上、人の争いに関わって大勢の人間を天術で殺めるとは……。
 静かなざわめきの中、いくつかの声が聞こえる。恐らくナカバがこの時耳にした言葉だろうとアキは見当をつける。
 ――央は白浪に想いを告げ、拒絶されたと聞く。
 それまで呆然として俯いていたナカバがはっと顔を上げた。
 ――どうして広まっているの。
 ぐるりと見回すと、ナカバの目に一人の人物が映る。白い髪に赤い瞳を持つ、中性的な美しさを持つ男。彼はナカバから顔を背けて、離れた所にひっそりと立っていた。
 ――なんと。まさか天人ともあろうものが、恋などにうつつを抜かして我を忘れ、掟を破ったというのか……。
 彼女は耳に入ってきたその言葉に歯を食いしばる。悔しそうに顔を歪めて、軽蔑の眼差しを注いでくる老人たちを睨みつける。
 ――あの娘は、戦に出た想い人を案じていた。
 口にはせずに心の中で呟き、きっと顔を引き締めて胸を張った。
 ――結ばれないと分かっていても、彼女は身を案じていた。訴えてくる彼女の真摯な気持ちに、応えたいと思って何が悪い。
 アキの胸の中に、やり場のない熱い想いが膨れ上がっていく。これはナカバの想いだ。凶暴な獣のように暴れ回る熱は、ナカバの悔しさだ。
 ――戦場に行ってみれば想い人は敵に囲まれ、殺されようとしていた。助けようとして何が悪い……!
 涙を流しながら、ナカバは口を開いた。
 ――女の想いを、恋を馬鹿にするな、この……頑固者ども!
 しんと場が静まり返る。一瞬、その場にいた人々は呆気にとられたような顔で、みっともなく膝をつく女を見ていた。しかしその顔のどれもが、みるみるうちに赤くなっていく。
 ――反省の色一つ見せんとは! 央を闇牢へ入れることを提案する! 百年閉じこめてもなお反省が見られぬようなら、正式に御印を剥奪して天上界を追放するのは如何か!
 誰かが荒い語気で叫ぶと、周りの者はみな同調して口々に賛成の声を返した。その中でただ一人、口を引き結んで何も言わずに佇んでいる者がいる。ナカバはその男に悲しげな、そして悔しそうな目を向けた。
 ――白浪……報告したのは、あなたね。
 血が滲む程きつく唇を噛み、嗚咽を堪えた。無理矢理立たされ、数人の天人に引立てられていく間も、ただ一人を彼女は見つめ続けた。
 ――どうして、あたしを見てくれないの……。
 美しい男は、最後まで一度もナカバの方を見なかった。
 
  13
 
(苦しかったんだ……)
 片手で胸を抑えながら、アキは嗚咽した。せき止めていたはずの涙が、熱く頬を伝って闇の中へと溶けていく。
(ナカバさんは、ずっとずっと、苦しかったんだ)
 アキは息苦しさに喘いだ。胸が酷く重くて、痛い。これは今まで見てきた記憶の持ち主たちの苦悶が、アキの心に救いを求めて手を伸ばし、残していった傷だ。想いだ。助けてくれという懇願だ。なかでも最後にアキの心に一太刀を加えていった、ナカバ――。
(みんな、苦しい)
 この闇は妖なんかじゃない。怒り、怨み、悲しみ、苦しみ、恐怖、絶望――人々の心を覆い尽くしていた闇そのものだ。以前アキが祠の中に垣間見た、深い闇。救いを切望する魂の、苦しみや嘆きといった想念の集合体が、この《閂》という怪物なのだ。
 助けてほしいと泣き叫ぶ無数の意思が、アキに追い縋り景色を見せていたのだ。
 この中には、ナカバの闇もある。いや――恐らくナカバの闇こそが、この《閂》の核なのだとアキは感じる。《閂》の中で、ナカバの意識もまた救いを求めて、アキにあの記憶を見せたのだ。
 助けて、と声が聞こえた気がした。美しい涙声だった。
 こんなことをしたかった訳じゃない。それでもせずにはいられない。もう自分ではどうしようもない。苦しくて身動きが取れない。助けて。
(ナカバさんの心が、悲鳴を上げている……)
 涙が後から後から溢れ出してきて、止まらない。目指していた光は、いつの間にかすぐそこにまで近づいていた。もう形がはっきりと見てとれる。輝いているのは、白い猫の面だ。玲がそれを握って、闇の中で倒れている。面に触れているせいか、玲の身体もまたアキのように闇の中浮き上がって見える。
 速度は上がらないともうわかっていたが、気が急いて仕方がなくて、アキは四肢をかく動作を速めた。景色はさっきのもので最後だったらしく、これ以上浮かんでくる気配はない。
 玲の元に辿りついて、アキは見えない床に膝をついた。仰向けに横たわる玲の頬に右手で触れ、左手を猫の面に伸ばす。指先が触れた瞬間、強いクチナシの香りが面から溢れ出し、アキの脳裏に何か映像が浮かんだ。
 ――その面は君を自由にしてくれる。君の味方だ。
 深みのある懐かしい声。
 ――それは君にあげよう。ただし、代わりに私の頼みをきいておくれ。
 白い髪に赤い瞳を持つ、まるで女性のように線の細い顔をした男が、子どもの目線に合わせて屈みこんでいる。
 ――頼み?
 向かい合う小さな少年もまた、白い髪をしている。ただしこちらは、目の色は赤ではなくて灰色じみた黒だった。猫の面を両手で握りしめて、不思議そうに小首を傾げている。玲だ、とアキには分かった。
 少年に、ああ、と穏やかに笑いかけて、男――白浪は小さな頭に手を載せた。
 ――ある人を救うために、君の力を貸してほしいんだ。
 その言葉に、少年は顔を曇らせる。
 ――俺、自分も、守れないのに……。
 大丈夫、と白浪は子どもの頭を優しく撫でる。
 ――君は強い。強くなれる。……あの頃の私よりも、ずっと……。
 映像はそこで力を失ったように、急速に消えていった。ぴしりと音がする。見れば、面の額部分にヒビが入っていた。それを見て、急がなくては、とアキは感じる。今自分たちを守ってくれている力が、弱まっていっているのだと直感していた。ぴしり、ぴしりと割れる小さな音が鳴り響く中、玲の肩に手をかけて少し乱暴に揺する。
「玲さん。玲さん、起きて」
 肩を揺すったりぺちぺちと頬をはたいたり、鼻をつまんだり最終的には腹に拳を沈めたりと少々乱暴なことをし出すと、ようやく玲が苦しそうに眉を顰めてうう、と唸った。睫が震えたのを見て、新たな攻撃を加えようとしていた手を止める。
「玲さん」
 うっすらと瞼が開いた。覗きこむアキの顔を、しばらくぼんやりとした表情で見上げる。その瞳に徐々に光が戻っていき、完全に覚醒すると、はっとした表情を浮かべて玲はむくりと身体を起こした。
「アキ」
 また泣いてる、と玲が言う。はらはらと涙を落とし続けながらも、アキはほっと微笑を浮かべ、頷いた。
「よかった。目が覚めて」
「ここは」
 きょろきょろとあたりを見回す玲に、《閂》の中だと説明する。
「どうして俺たちは何ともないんだ?」
 困惑した表情を浮かべて首を傾げる玲。そのときまたぴしりと音が鳴って、彼は自分の手元に視線を移した。その顔が強張る。
「面が……」
 細かな亀裂が縦横無尽に走り、傍目にも修復不可能とわかる状態になっていた。かろうじて全体の形が崩れていないのがおかしいくらいだ。玲は一度それを持ち上げようとして、崩れてしまうのを恐れて諦めた。そっと面から手を離す。と、それを見つめていたアキが手を差し出した。
「面を貸して」
「駄目だ、持ち上げたら崩れる」
 玲は少し悲しそうな顔をして首を横に振った。だが、アキは差し出した手を引っ込めようとしない。
「大丈夫だから」
 確信のこもった声。じっと見つめると、アキは真面目な顔で頷く。大丈夫、ともう一度繰り返して。訝しく思いながらも、玲は一度離した手で面に触れた。恐る恐る力を込めて持ち上げると、細かに亀裂が入っているというのに、面は崩れる様子もなくひょいと持ち上がる。玲は目を見開いた。まじまじとそれを見つめ、アキが急かすように手を出すので、半ば放心状態で手渡す。ぴしぴしと割れる音を立てている白い猫の面。それを両手で持ち、上から覗き込むようにしてアキは見下ろした。するとアキの顎を伝って、雫が落ちていく。ぽたぽたっと面に着地した涙は、不思議なことにすうと面の中に吸いこまれてすぐに消えた。と、面が仄かに輝き始める。言葉もなくそれを見ている玲の前で、アキはそっと両手を頭上に掲げた。
「大丈夫だよ」
 優しく、闇の中に語りかける。上を見上げて、アキは泣き笑いを浮かべた。
「今、助けるから」
 その言葉を言い終るや否や、アキの手の中から面がふわりと浮きあがり――亀裂の音が止んだかと思うと、細かく砕けて、破片が四方に飛び散っていった。
 反射的に玲がアキに覆い被さる。しかし破片は二人を傷つけることなく、周囲の闇に溶けこんでいく。そして破片が溶けていったあたりから、徐々に白い光が滲みだし――。
 一瞬の後には闇の中に光が溢れ、アキと玲は眩しさに思わず目を閉じた。

14

「――なんだ?」
 真理子を背後に庇いながら、カノは異変に気づいた。《閂》の動きが随分と鈍くなっている。それに何だか、苦しさにもがいているような――。
 カノの声に、真理子は一時的な効果しかもたらさない、新たな結界を張る手を止めた。カノの後ろから《閂》を仰ぎ見ると、妙だ、と感じる。
「身体の色が淡くなっています……」
 カノは目を細めて観察した。
「いいえ――中から光が漏れているんだわ」
 その通りだった。今や完全に動きを止めた《閂》の身体のあちこちから、中から突き破るように光の筋が溢れ出している。骸骨の頭部の上で、ナカバが焦ったように屈みこんだ。
「《閂》? どうしたの、おまえ」
 華奢な手で何度も叩く。その叩いたところからも光が飛び出して、ぎゃっと女は後退した。驚いた拍子に頭部からずり落ちてしまう。一瞬顔が驚愕に染まったが、両手をさっと脇に払う仕草をすると、落下の速度が緩くなった。そのまま羽のように軽やかに地に降り立つ。それとほぼ同時のことだった。
 全身から溢れ出す光が合わさって柱となり、《閂》の巨体を包みこんだ。一際甲高い鳴き声を上げたかと思うと、やがてその身体が光の中薄れていく。それを、カノと真理子、そしてナカバは声もなく見つめた。
 その光は、見る者の心をも優しく和らげてくれるような温かさを持っていた。光に包まれ、最初は苦悶の声を上げていた《閂》だったが、姿が薄れていくにつれ、その声の質が穏やかなものへと変わっていく。最後には安堵のため息のような声が残り、そして――怪物の姿は跡形もなく消滅した。カノには、最後骸骨の落ち窪んだ眼窩に、一粒の輝きが見えたような気がした。
「そんな……」
 ナカバが呆けて立ち尽くしている。何か大切なものを失ったかのように、虚ろな表情。その視線の先で、光の柱が唐突に消えた。《閂》に代わってその場に現れた姿に瞠目する。
「アキちゃん!」
 少女の姿を認めるや否や、カノは高く跳躍して一跳びでアキの傍らに降り立った。玲の下から、アキがへにゃりと笑う。
「カノ……戻ってきたよ」
「アキさまも玲さまも、よくぞご無事で」
 後ろから駆けてきた真理子も、安堵して泣き笑いを浮かべる。起き上がったアキと玲がそれに頷き返し、それから二人してナカバの方に顔を向けた。
「アキちゃん、怪我はない?」
 顔を寄せてきたカノに、立ち上がってアキは穏やかな視線を投げた。そっと身体を撫でて、その同じ視線をナカバに注ぐ。
「大丈夫だよ。わたしも玲さんも、《絶対防御》がギリギリ保ったから」
「記憶が……」
 ナカバを見つめたまま、アキは頷いた。
「アキさまはともかく。……玲さまも、とはどういうことです?」
 怪訝な顔でアキと玲を見比べる真理子。
「あのお面に、かけられていたみたい」
 振り向かずアキが答えると、カノはなるほどねと呆れた声で呟いた。
「あの面は白浪の術の香りが濃かった。《絶対防御》をかけていた訳ね」
「はく……ろう?」
 カノの言葉に反応して、ナカバが虚けた状態から戻る。その瞳が徐々に意志を取り戻し、やがてアキに焦点を結んだ。
「今、白浪って言った? ――どうして、その名が、今」
 アキは一歩前に進む。カノが反応して何か言おうと口を開きかけたが、気配でそれを察して腕を横に伸ばし、制する。
「白浪さまが、わたしたちをここに遣わしたんです。あなたを救うために」
 ナカバの身体がびくりと震える。もう一歩、アキは足を進めた。黒い着物を纏う女は、思わず一歩後ろに下がる。その顔はただでさえ白いのに、アキの言葉に一層青白くなっていた。
「な――何を言っているの? あたしを救う? 白浪が?」
 おののいたように唇を震わせるナカバの姿が、アキの目には以前とは全く異なって見える。初めて玲の部屋で覗き見た時は、恐ろしい女だと思った。でもそれがとんだ誤解だったことが今ではわかる。
 一歩一歩とアキが前に進む度、ナカバはその分後ろに下がる。完璧な程に美しいその顔には、数々の感情がごったがえして、複雑な様相を呈している。
「今更、何を言い出すの……?」
 不意にナカバがその場に立ち止まり、震える声に怒りを滲ませてアキを睨みつけた。
「三百年前、あたしを拒絶した上、あたしを牢にぶちこんだ――。あの時一度もあたしの方を見なかった。三百年も放っておいて、そんな、今更……いまさら……」
 ――この人は、とても長い間苦しんできた。アキは静かな目で彼女を見つめる。
 ナカバはずっと一つの想いに囚われてきた。たった一つの想いにがんじがらめになって、もう他に何も考えられなくなって、身動きがとれなくなっていたのだ。それだけしか見えなくて、ずっと苦しみしか見えなくて――だから前に進めなかった。果てのないその苦悶が暴走して、周りを巻きこみ、更に深みにはまっていったのだ――。
「今になって、勝手なこと言わないでよっ!」
 ヒステリックな叫び声が上がった。それと共にぶわりと黒い影のようなものが、ナカバを中心に立ち上る。強い風が吹いて、アキは顔を庇うように腕を上げ、目を細めた。後ろでカノたちが呼ぶ声が聞こえるが、今アキの頭にあるのは、ナカバを闇から引きずり出すこと。ただそれだけだった。
「謝れば済むとでも!? 今になって手を差し出せば、それで過去が洗い流されるとでも!?」
 冗談じゃないわ! と怒鳴るナカバの両目は、ぎらぎらと黄色く輝いている。
「あたしがこの三百年、どんな想いをしてきたことか! 二百年前、どんな想いで牢を抜けだし、天上界から逃げ出したことか! どんな想いで……この人間界で、生きてきたことか……!」
 アキはじりじりと近づいていった。黒い影が風と共にアキに襲いかかったが、しかしそれはアキを傷つけることも、ましてや後ろに押し返すこともできなかった。ナカバはそれに気づいて更に狂ったように何か様々な術を放ってきたが、そのどれもが狙いを外し、あるいはアキに到達する直前で消滅した。それにアキは確信を深めて、迷いなくナカバを見据えて歩みを進める。
 闇の中で、アキはナカバの心の一端に触れた。彼女の苦しみを、それはほんの一部だけれど、この胸に感じた。救いたい、と思った。それが傲慢な願いであることは、アキにもわかっている。アキはまだ十年と少ししか生きていない。彼女はまだ、人生をほとんど知らない。苦しみも悲しみも、ナカバの十分の一も経験していない。そんな自分が、ナカバのために何ができるというのか。
 それでも――放っておけない。ナカバは救いを求めているから。苦しみの沼から引きずり出してほしいと望んでいるから。無意識のうちにアキへの攻撃を避けてしまうのが、何よりの証拠だ。
 ついに目の前まで辿り着いて、アキは自分より少し目線の高い顔を見上げた。
「大丈夫です」
 黄色い目が、無言でアキを睨みつけた。
「ナカバさんの苦しみも、想いも、そして罪も、全部なかったことになんかなりません。それは全部、ナカバさんの生きてきた証です」
「何を言うの、小娘が」
「ナカバさんは、精一杯生きてきただけなんです」
 ぽろりとアキの両目から涙が零れだした。一度溢れると、それは止まらない。ナカバは怖気づいたように身を引いたが、その前にアキが両手を伸ばして彼女を抱きしめた。
「ごめんなさい……」
 離して、ともがくナカバの胸元で、アキは呟いた。
「あなたの苦しみも悲しみも、分からなくて、ごめんなさい。それなのに偉そうなことを言って、ごめんなさい。でもわたしは……白浪さまは……」
 ナカバの抵抗が弱々しくなる。腕がだらりと垂れ下がり、目の色が元の黒に戻っていく。アキは身体を震わせて、声を押し出した。
「あなたにもうこれ以上、苦しんでほしくない。前に進んでほしい、笑ってほしいんです」
 ナカバの膝の力が抜けて、二人はがくんと地に崩れ落ちた。呆然とした顔を俯ける。アキは彼女を抱きしめたまま嗚咽し、黒い着物を涙で濡らした。いくら泣いても言葉を尽くしても、自分の気持ちを完全に伝えることはできないと思うと、アキはなおさら悲しくて涙が一層零れるのだった。純粋な心から零れた涙が、ナカバの着物に染み渡って溶けていく。
 と、その肩に温もりが触れた。はっとしてアキが目を見開き、顔を上げると耳元に顔を寄せてきた者がある。
「ありがとう、アキ。後は私に任せて」
 ささやき声に振り向くと、女性的な顔立ちをした、白い髪と紅い目を持つ男が、いつの間にか傍にいた。こくりと素直に頷いて、アキはナカバから身を離す。数歩下がると、カノと真理子が静かに駆けてきた。玲の姿はない。あたりを見回しても、少年はどこにも見えなかった。もしやと思ってアキは白浪に視線をやる。見た目は白浪そのものだが――はたして着物に見覚えがあった。
「――央」
 女の身体に震えが走った。おずおずと顔を上げたその両目に、驚愕の色。
「白浪……」
 真紅の瞳に自分の姿が小さく映っているのを見て、ナカバは静かに涙を落とした。

15

「どうして」
 言いさしたナカバを、白浪は腕の中に包みこむ。小さく息を呑んだが、彼女は抵抗しなかった。
「謝っても、許されないことはわかっている。でも言わせておくれ――すまなかった」
 ナカバはじっとして聞いている。言葉を差し挟む様子はなかった。
「あのとき、君の気持ちに応えられなくて、すまなかった。牢に入れられるときも、救えなくてすまなかった。そして二百年もの間――何もできなくて、すまなかった」
 それに顔を上げてナカバは白浪を見上げた。気づいた白浪が、彼女の視線を真っ向から受け止める。ナカバの顔が歪んだ。
「どうして、あたしを見てくれなかったの――?」
 その声も顔も、闇の中アキが見た時と同じ美しさをたたえていた。二人を見ているアキの胸が切なく痛む。ナカバは白浪への想いに囚われてきた。自分を見てくれない、恋しい人の目が恨めしかった。《宝》に目隠しをしていたのは、白浪の赤い目に自分の姿を映してほしかった、その強い想いが根底にあったからなのだろう。
「……恥ずかしいことだが、私は怖かったんだ」
 白浪が絞り出すように答えた言葉に、ナカバは戸惑いの表情を浮かべて小首を傾げる。
「君を、人を好きになることが怖かった。君が牢に入れられるときは、裏切ったという罪悪感に苛まれて、君の目を見るのが怖かった」
「……そう」
「だが後から後悔した。央が牢を抜け出して、そして下界で何か良くないことをしていると知って……私は……」
 ナカバは手を上げて、指先で白浪の口を軽く塞いだ。驚く白浪に、それ以上はいいというように首を小さく横に振って、口の端に薄く微笑みを乗せる。
「あたしを殺しに来たのでしょう? 白浪」
 それを聞いてアキは、そんな、と青ざめる。足を踏み出しかけたが、その手を真理子が掴んで引き留めた。振り返ると、真理子は真剣な表情で見つめ返してくる。カノに視線を移しても、返ってくるのは同じ視線。不安な面持ちで再び二人を見やるアキ。
 白浪は答えなかったが、この場合沈黙が肯定を意味しているのは明らかだった。
「この隠れ家は、天人には見つからないよう念には念を入れていたのに……よく見つけられたわね」
「百五十年近くかかってしまったけれどね」
 ふふ、とナカバは力なく笑う。
「見つけたところで、天人はどうあっても入れない……あまりにも汚れたこの地だもの。……だからこの子たちを寄越したのね」
 言って、ちらとアキたちの方に一瞥をくれる。
「あのカイチは、あたしを確実に仕留めるために、わざわざ捕まえたの?」
「ああ」
 カイチの角は邪を一撃で突き殺す。無駄に苦しませないための、白浪なりの思いやりだったのだろうとアキは思う。
「ねえ、白浪。お願いよ……」
 白浪の肩口に頭をもたせかけて、ナカバが呟いた。
「カイチじゃなくて……あなたがあたしに止めを刺して頂戴」
 白浪が押し黙る。その顔には沈痛な表情が浮かんだが、ナカバは相手の想いに気づかないフリをして、穏やかな表情で続けた。
「酷いことを頼んでるって、分かってるわ。堕天のあたしを殺したところで、天上界では決して裁かれないとはいっても……あなたを血の穢れに染めてしまうことになる」
 それでも、と切実な声。
「終わらせるのは、あなたじゃないと嫌なの。……いえ、言わないで。わかってる。この身体は玲のものなのでしょう」
 今にも壊れそうに儚い表情が美しかった。
「そうね、あの子にも穢れを強いることになるのね。でも……お願いよ。その身体が玲のものなら、なおさら。戸塚の因縁を断ち切る役は、《宝》だったあの子にこそふさわしい……」
 そんな悲しいことを言わないでほしい、とアキは痛切に思ったが、何も言うことができなかった。
 白浪はしばらくじっとナカバを抱きしめていた。その表情は苦しそうで、悲しそうで――アキは彼が口を開くのが怖かった。聞きたくないと耳を塞ぎたい思いだったが、それでもじっと耐えて見守っていた。やがてアキたちの見守る中、白浪は一つため息をつき、わかった、と頷いた。
「皆は先にここから出ていなさい」
 言って、白浪が軽く右手を横に振る。するとアキたちの足元から白い光が沸き起こり、何かを言う間も与えられず、二人と一匹の姿は光の中に呑みこまれて消えた。それを見届けた後で、白浪はナカバの肩に手を置いてそっと離し、何かを握る風に右手を形作る。光が手の中に収束していき、細長い棒状のものを形作っていく。ナカバはそれを静かな湖面の如き目でじっと見守る。光が消えてなくなる頃には、白浪の手の中に一振りの刀が握られていた。
「玲の意識はあるの?」
 立ち上がる白浪を見上げて唐突にナカバが尋ねた。
「あるよ。彼の了解もあったから、カイチに頼らないことにした――だけど何故?」
 刀身を鞘から抜くと、澄んだ音が鳴る。白銀の刃の切っ先をナカバの首筋に当て、白浪が尋ね返すと、ナカバは正座をして、静かな顔で目を閉じた。
「玲……今ここであたしが謝ったところで、何もならないのはわかっている。でもこれだけは言わせてほしい」
 すっと背筋を伸ばし両手を膝の上に載せて、彼女は目を開いた。白浪の真紅の瞳の中に玲を見る。
「ごめんなさい。そして、ありがとう。あなたはあたしのようになっては、駄目よ」
 そうしてナカバは再び目を閉じた。どこかすっきりとしたような、淡い微笑が浮かんでいる。その顔をじっと見つめる白浪は、一瞬悲しそうに目を伏せた。だが意を決したように真剣な顔になり、ひとつ深呼吸をして刀を構えた。
「央――」
 名前を呼ぶと、ナカバの閉じた瞼からつうと一筋の光が流れる。
「どうしたの、白浪。早くして頂戴」
 ああ、と答えて白浪は刀を振りかぶる。刀が風を切る音を耳にしながら、この一瞬の間に、ナカバは今までの自分の生を瞼の裏に見ていた。
 長く、苦しみに満ちた人生だったと改めて思う。泣いて怨んで苦しんで苦しめて、そればかり。長い暗闇の中をずっと彷徨い続けていた。
 しかし楽しいこと、嬉しいことがひとつもない訳ではなかった。白浪と出会えたことも、後々苦しみに囚われる結果になったとしても――それでも自分にとっては幸せなことのひとつだったと、死を迎える瞬間にようやく思うことができた。
 これで罪が贖われるとはナカバも思っていない。償いはこれから永い永い時をかけて果たさなくてはならないだろう。これは始まりに過ぎない。
 ――白浪。
 鈍い音が鮮血を散らした。
 ――あたしを見てくれて、ありがとう――。
 微笑が宙を舞い、一人の女の闇を抱えた世界は消失した。

16

 一人の少女が、丘の上から町を見ていた。ふっくらとした薔薇色の頬を持つ、愛らしい少女だ。穏やかな風に黒い髪をなびかせ、着物が汚れるのを気にした風もなく、草の上に直に腰を下ろしている。
 少女の傍らには一匹の白い猫が寄り添っていた。丸くなって頭を身体にうずめ、目を閉じて微睡んでいる。
 と、少女が首を伸ばした。何かを見つけたらしい。視線の先には、丘を駆け上がってくる一人の少年の姿があった。彼は少女が見ていることに気づくと、破顔して片手を上げる。少女もつられて笑みを浮かべ、同じように手を上げて挨拶をした。
「アキ――」
 白い髪に黒い瞳をした少年が名前を呼ぶと、彼女は立ち上がっておしりをはたいた。
「久しぶり、玲さん」
 足元で猫が頭をもたげ、ふわあと大きな欠伸をひとつした。

 二人と一匹は穏やかな丘の上を並んで歩く。
「それでね、真理子ちゃんったら。白浪さまに叱られる度に、家に逃げてくるの」
 言ってくすくすとおかしそうに笑うアキを、玲は優しい眼差しで見つめる。
 玲の手がナカバの首をはねたあの日。戸塚家は守り神を失い、契約から解放された。
 正直なところ、二百年にもわたって先祖代々受け継がれてきたしきたりを、すぐに忘れて新しい生活に踏み出すことは、玲にも整にも難しいことだった。
 幼い頃から何よりも守り神との契約を重んじるよう叩きこまれて生きてきたのだ。その心の抑圧や見えない鎖は、簡単には消え去ってくれない。
 それは整や玲に限った話ではなく、戸塚の者――特に本家とその周辺は、しばらくの間守り神のいない生活をなかなか信じられないでいた。
 だがあれから二月の経った今。戸塚の者たちは、ようやく新しい世界への一歩を踏み出そうとしている。
 守り神は恐ろしい存在ではあったが、戸塚に害だけではなく益をももたらしていたのは事実だった。実際彼女の力の効果がなくなった今、戸塚は仕事や世間的な立場の面で立ち往生している。
 しかしそれでいいのだと整も玲も思う。完全に神任せでいたら、自分たちで切り拓いていく楽しみがなくなってしまう。
 ナカバがいる頃は、彼女に脅えてあまり目立ったことはできないでいた整だったが、彼女亡き後急速に生き生きとしだして、立ちはだかる困難にもめげず、むしろ楽しそうに乗り越える方法を探している。その彼の変貌ぶりには、恐らく愛妻が健康を取り戻したことも大きく関わっているのだろう。仲睦まじく幸せそうに笑い合う二人を見ていると、玲も嬉しい。
 全てが終わった後、玲はアキからいくつかのことを打ち明けられた。
 アキが本当の記憶を消していたのは、《絶対防御》という術に必要だったということ以上に、アキが演技下手だということを考慮しての対処だったという話には思わず笑ってしまったが、それ以外は真面目な内容だった。
 彼女が記憶を塗り替えてまで戸塚の屋敷にやってきたのは、天人白浪の指示で、戸塚一族とナカバとを救うためであったこと。真理子も同じ目的で、アキよりも先に屋敷に来ていたこと。二人は、無事目的を果たすことができれば、天上界に召し上げられる予定であったこと――
「アキはどうして、真理子と一緒に白浪についていかなかったんだ?」
 ふと思い立って、玲は隣を歩くアキに尋ねてみた。アキは天人になる道を選ばず、今は下界の白浪の友人という女性の元、住みこみで働いている。
 彼女は不意を突かれた顔をしたが、すぐに笑って前を向いた。
「さあて、どうしてだろうね」
 アキはそれでその話を終わりにするつもりだったようだが、カノがふんと鼻を鳴らして玲を見上げた。
「そんなの、あんたのせいに決まってんでしょ!」
「カ、カノ」
 慌ててアキがカノを抱え上げ黙らせようとするが、カノは身を乗り出して玲を半眼で睨む。
「アキちゃんは恵まれた素質を備えていて、天上界でも期待の星だったのに。天人になったらあんたと一緒に歳がとれないから嫌だのなんだの」
「カノォ~」
 顔を真っ赤にしてアキは情けなそうに眉根を下げる。カノはぷいとそっぽを向いて知らん顔をした。アキとカノに対して申し訳なさはあったが、アキのその反応とカノが今言ったこととが嬉しくて堪らず、玲は笑ってしまう。その様子を横目で見て、でも、とカノが再び口を開く。
「もうちょっと成長したら、アキちゃんは天上界に昇るわよ。私はそう思う」
「どうして?」
 頬を赤く染めたままアキが尋ねると、カノはぽすりとアキの胸元に頭を預けて、淡く笑った。
「別に根拠なんてないけど。ただ、そう思うだけ」
「もしかして、カノは天上界に戻りたいの?」
 玲が思いついたことをそのまま口端に乗せると、カノは呆れたように目を閉じた。
「天上界だとか下界だとか関係ない。私はアキちゃんの傍にいられれば、それでいいの」
「俺も、そう思う」
 すると玲の同意が不本意だったのか、カノはかっと目を見開き、
「ちょっと! 真似しないでよね!」
 と怒鳴った。理不尽な言いように困惑してええ、と眉を顰める玲。そんな彼らの様子に、アキは思わず吹き出してしまった。
 アキの笑いにカノは憮然とした顔を向けるが、しかし彼女が本当に楽しそうに笑うので、終いにはカノの顔にも笑みが伝染する。それは隣の玲も同様だったらしい。やがて穏やかな風に包まれる中、三人の明るい笑い声が響き渡っていった。

守り神の宝(猫乃世星)

 読んでくださってありがとうございます。『守り神の宝』はいかがでしたでしょうか。
 作者としてこの作品について思うことは――とにかく無事に完成させることができてよかった、ということです。予定より文字数が多くなってしまって、考えていたシーンをいくつか削ったり簡略化したりすることにはなりましたが、最低限書きたかった部分は詰め込むことができました。大満足、とまではいきませんが、満足はしております。
 ちなみにこの作品にはコンセプトとテーマがあります。コンセプトは「王道」と「ボーイミーツガール」、テーマは「がんじがらめ(からの解放)」と設定して書いています。
 目を通してくださる方に楽しんでもらいたい、その一心で作ったお話です。
 ほんの少しでも届いていたら、とても幸せです。
 ありがとうございました。   猫乃世星(個人サイト→http://yuriaimoto.web.fc2.com/)

守り神の宝(猫乃世星)

華族の嫡男、戸塚整に見初められ、引き取られた 十四歳の少女アキ。守り神の加護を受けているという戸塚の屋敷内で、ある日アキは不思議な少年と出会う。白い髪の少年は、何故か赤い布で目隠しをし ていた――。 少女と少年を巡る、明治時代をモチーフとした和風ファンタジー。

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 恋愛
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-22

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted
  1. 第一章 白い猫
  2. 第二章 赤い目隠し
  3. 第三章 黒い守り神