宇宙展望デッキより

 さすがに今回ばかりは男が最低だと、春子はなんのためらいもなく思った。

『俺、三半規管が弱いの忘れてた。ごめん俺の分はキャンセルで』

 メールが届いたのは、出発二時間前だった。一円も出していない男にこれまでの春子の努力など理解できようもなかった。
 脳内に、入り口で踏みとどまったあのカフェが、安売りを探す日々が、光熱費にすら気を使ったあの日が、よみがえる。
 二枚のスペシャル記念デザインチケットのためにそこまでする必要が果たしてあったのか、今となっては春子にはわからない。行ってみたいと言ったのは男だったのに。

『宇宙行きのお客様は三番ゲートまでお越しください』

 空港にアナウンスが響く。
 それを合図に立ち上がった春子を含めた数人を周囲は珍しそうに眺めた。値段も高い上に競争率も激しい宇宙へのチケットを手に入れたのはどんな人間なのか、春子は品定めされている気分だった。
 ゲートを通過して進むと、カプセル状の乗り物が円形に並んでいた。入るとなかなかに居心地が良い。シートはきっとファーストクラス並みのものだろうが、乗ったこともないしおそらくこれからも乗ることはないから春子の想像でしかない。

 座席右のひじ掛けにあるパネルを触ると目の前に画面が現れる。到着まで映画が見られるらしい。最新のものから名作まで幅広く用意されていた。適当に『エイリアン』を再生し始めたが、どう考えても宇宙へ行く前に見る映画ではなかった。

 気づけば春子は眠っていた。夢をみた。

「宇宙着いたらまずさあ、地球は丸かったって言いたいよなあ」

 男が言う。
 そこも魅力だと、かわいいと思っていた。感情が正常な判断を邪魔していたと今ならわかる。そして、男の日頃の行動がひとつひとつ浮かんでは消え、また浮かんでは消えていく。例えば、店員への尊大な態度。汚い食べかた。箸の持ちかた。電車で隣を圧迫する座りかた。言い訳をするときの粘ったしゃべりかた。
 男にはスペシャル記念デザインチケット一枚分の価値はなかった。三分の一もない。

「いや、地球は青かった、だろ」

 そこで目が覚めた。

『まもなく宇宙へ到着いたします』

 ちょうどアナウンスが流れた。
 本当に、ちょっと来た、くらいの気軽さで到着したことに驚く。値段は全く気軽ではないが、飛行機の離着陸のほうがはるかに体に負担が掛かるくらいだ。

「展望デッキでは、インターネット・電話は無料でご使用になれます。分からないことがありましたらお気軽にお尋ねください」

 各自端末を取り出して、思い思いに展望デッキで過ごし始める。写真を撮ったり、誰かに電話したり、SNSに書き込んだり。

 春子は座り心地のいい一人掛けソファに座って宇宙を前にする。
 夢をみて気づいた。春子には価値がある。少なくともチケット二枚分の価値はある。そうだ、それを証明しに宇宙に来たのだと春子は思った。

 端末で男の連絡先をタップしてメッセージを書いた。

『別れてください。私は付き合っていたつもりだったので一応送ります』

 すぐに返事が返ってくる。

『たすかった。また連絡する』

 最後まで最低だった男にむしろ感心した。男の連絡先をブロックして電源をオフにする。

「地球に帰ったらなにをしようか」

 展望デッキのどこかで誰かがつぶやいた声が、春子には妙に大きく聞こえた。もしかしたら春子の心の声が幻聴となって聞こえたのかもしれない。

 なにをしようかな。

 しかし、今は目の前の美しい青い地球を思う存分眺めていたい。

宇宙展望デッキより

宇宙展望デッキより

『宇宙行きのお客様は三番ゲートまでお越しください』 空港にアナウンスが響く。

  • 小説
  • 掌編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-01-24

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