三月の覚醒

2019/3/27(加筆修正済み)

 私は京香ちゃんの寝顔をじっと見つめた。京香ちゃんに触れている部分から薄い布団にじわじわと染みていた水分は、その面積の大部分を占めていた。隣に座る私の髪からも、同じような液体が断続的にぽたぽた落ちて、シーツに灰色のしみを作る。ひどい塩素の匂いがする。薄暗い私の部屋は殺風景で(私は家具を多く持ちたい人ではなかったから)、時計の秒針の音だけがさみしく大きく鳴るのが聴こえていた。私は、規則的な音が長い間人の頭のなかに滞在すると、やがて意識の外の方に追いやられてしまって本当の静寂を作り出してしまうということを知っている。いまこの部屋は、ただ耳いっぱいの秒針の音と、二人分の呼吸音で、本当の静寂だった。私は目を瞑って、いろいろなことを思い出そうとした。

 どこかに行ってしまいたいと泣きじゃくる私を校庭のジャングルジムから連れ出して、京香ちゃんは走り出した。京香ちゃんは足が速いから、手を繋がれた私はついて行けなくて何度もつんのめった。怖かったから、京香ちゃんの背中でばたばた鬱陶しそうに揺れる真っ黒い髪とか、短調に過ぎ去るアスファルトの模様とかをぼおっと見ていた。狂ったように走って走りまくっているうちに、涙なのか汗なのかわからない液体で私の顔はめちゃめちゃになって、やがて立ち止まって振り返った京香ちゃんは私の顔面を見てげらげらわらった。二人とも息を切らしていて、はあはあと中身のない浅い呼吸を激しく繰り返した。むだに酸素を使っているなとただ思った。軽く貧血を起こしたみたいに目の前が鈍い虹色にきらきらひらめいて、吐きそうだった。
「笑わないでよ。死ねよ」
「ねえ、見て」
 私の呪詛など聞こえていないかのように――本当に聞いていないのだろうが――京香ちゃんは凄絶なまでに明るく笑って、私の目の前からさっと身をひいて景色を見るよう促した。私とお揃いのセーラー服が彼女の細い白い腕に従ってはためいた。もうすぐ春なのに、その紺はあまりにも深くて、肌の色とのいっそチカチカとして見える対比に頭がくらくらした。つんと鼻をつく、慣れた薬品の匂い。眼前に広がっていたのは無人のプールだった。
「なあに。ここ」
「綺麗でしょ」
 そこは確かに綺麗だった。去年の夏から長い間使われていないはずなのに、その25メートルが湛える青緑はありえないくらい澄んでおり、やや錆びた鉄のフェンスが真上に昇った太陽の光を受けて白く光っている。その向こうは森のように樹々が茂っていて(そもそも私はどこに連れてこられたのだろうか)……たまにビリジアンの欠片がひらひら落ちてきて水面や白いプールサイドに落ちてゆく。そうしてそれらに溶け込むように、華奢な京香ちゃんのシルエットが映りこんでいた。宗教画かと思った。私は宗教画は嫌いだった。京香ちゃんはローファーと白い靴下を見せつけるように脱いで、地面に散らかした。短い布から京香ちゃんの足の裏がゆっくり姿を現すのが、妙に艶めかしくてどきどきした。棒きれみたいに細い脚が、無垢なざらついた素材の地面をひたひたと踏みしめる。「何してるの? おいでよ」京香ちゃんの声はやや高くて耳に心地よい。言われるがままによたよたついていくと、京香ちゃんはプールの角のところに設置されている銀色の梯子のようなものに近づいてゆき、しゃがみこんでまるくカーブした取っ手に掌を沿わせた。そのままつかんで、躊躇いなく足先を水面に潜らせる。私はプールサイドに突っ立って、降りていく京香ちゃんの背中を見ていた。膝まで、スカートの縁がつくかつかないかの所まで体を沈めてから、梯子を軸にして京香ちゃんは私の方を向いた。私は京香ちゃんの方を見ないようにして、エメラルドの水面が京香ちゃんの脚によってかき乱されて、生き物のように波紋をたたえて揺れるのを眺めていた。ひどい罪を目にしている気分だった。
「こっち向いて」
「嫌」
「きみの顔が好きなの」
 京香ちゃんの言葉は呪いみたいに私の耳にまとわりついて残る。引っ張られるように頭を上げて京香ちゃんに目線を合わせると、京香ちゃんはまた笑った。私は全然笑わないのに。京香ちゃんの瞳は、黒いと言うのを憚ってしまうくらいに黒い。すこしひるんだ私の頭の中を見透かすように、京香ちゃんは私と目を合わせながら、悪戯っぽく顎を引いた。顎を引いて、握っていた銀の梯子をあっけなく手放した。ぐらっと振り子みたいに京香ちゃんの身体がななめになって向こう側に倒れる。向こう側は……美しい青緑の、ただ広いだけの水面だ。あ、とか不明瞭な言葉を口走りながら、私は手をのばして、京香ちゃんの細い左手首を右手で握った。ゾッとするくらいに、京香ちゃんの肌は冷たかった。私は、京香ちゃんをプールサイドに引っ張りあげるなどといった救済のつもりで、そうしたのではなかった。痩せていて筋力がない私には、そんなことはできるはずがなかったのだから。ただ、私の目の前で落ちていく京香ちゃんがあまりにも美しくて、つらくて、一種、宝石を取り零したくないような、もったいなさのような好奇心に衝かれて、私は京香ちゃんを引き留めていた。私の身体の重心が、京香ちゃんと繋いだ手に向かって移動して、視界がぐらりと傾く。一面のきらめく青緑、青緑、青緑と、それから、すごく近い、京香ちゃんの真っ黒な瞳。
 ざらついたプールサイドから両足が離れるのがわかった。心から楽しそうに、京香ちゃんは笑っていた。

 そうして私は京香ちゃんの寝顔を見つめた。じっとりぬれたシーツを掴んで、死んだように眠る京香ちゃんに話しかける。そのまま永遠に眠ってくれたなら、それ以上のことはなかったのに。本当の静寂があたりを包んでいた。
「京香ちゃん。京香ちゃんはなんにもわかってないよ」
「……」
「ね。ここ、私の部屋なの。京香ちゃんのからだ、私がひとりで運んだんだよ。本当は、京香ちゃんだけ沈んで死ねって思ってたの」
「……」
「馬鹿みたいだよね。ねえ。私がなんにもわかってないのと同じくらいに、京香ちゃんはなんにもわかってないね」
 私の右手には、終業式に持って帰ってきた鋏が握られていた。鈍い銀色で、そう、あのプールの手すりと同じ色で、私の右手のなかに黙って佇んでいた。京香ちゃんが初めから眠ってなどいないことを、私は知っていた。規則正しい呼吸音。止めてしまいたい。止めてしまいたい。なんにもわかってない私の視界が、知らない液体で少し歪むのが分かった。
 力を込めて、私は京香ちゃんに目を合わせないで、横たわる京香ちゃんに右手を振り上げて、振り下ろした。鋏がどこへ向かって、どこに刺さったのか、私にはなにも分からなかった。手が震えていたし、目を瞑っていたから。ただシーツがぐちゃっと音を立てて、ごそごそ物音がしたから、京香ちゃんは生きてるんだということだけ、わかった。
 不意に押し倒されて、身体の上に温度を感じて、私は思わず目を開けた。京香ちゃんが私に覆いかぶさっていた。京香ちゃんが私に見えるように、腕を上げる。落下の寸前に、私が掴んだ腕だ。なまっちろいその手首の端から、逆光で真っ黒な血液がぽたぽた落ちていた。涙のようだ。と思った。泣けない京香ちゃんの代わりに、京香ちゃんの身体はただ軋んで、誰も聴きえない透明な音域で泣いていた。「こっちむいて」京香ちゃんが言った。怪我なんてぜんぜん気にしていないように、京香ちゃんは笑った。凄絶なまでに。祈りに少し似ていた。京香ちゃんの手首から目を離して、曲げていた首を戻して、「嫌」と言った私をまっすぐ見詰めて、京香ちゃんは口を開いた。私はただ、濡れたシーツの不快感と、京香ちゃんの体温のことを思った。

「あたし、きみが好きだから。なんでもしたいの。なんでもいいんだよ。ねえ、解ってくれないかな」

ああ。

夢だ。

 私はまばたきをしないように気を付けながら、京香ちゃんを正面から見上げた。永遠に醒めない、京香ちゃんに愛される夢だ。私たちは、本当はもう死んでいる。もうすぐ春が来る、春が来るよ、「……もうすぐ春だ」
 私は目を閉じて身を起こし、泣きそうな京香ちゃんの頭を抱え込んで、首筋に唇を寄せた。ひどい塩素の匂いがする。

三月の覚醒

三月の覚醒

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日
2021-01-22

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