東風吹かば

 早春の庭、(たけなわ)の梅の花弁が一片、開け放たれた障子から、男の黒い衣裳の衿におちた。そのとき部屋に入ってきた男は、それを目にして足を止めた。仄暗い室内、縁側近く置かれた椅子に、全く力が抜けたようにして体を預けた男の、半面ばかりが朧な日を受け、その端整な面立ちと体躯を浮かび上がらせている。
 男の胸には、黒尽の拵に紫の佩緒の太刀が一振り、抱かれている。
 足を止めた男──大倶利伽羅廣光は、何の気色(けしき)も顕さず、注視している。
 やがて
「光忠、冷えてきた。閉めるぞ」
 返答はなかった。障子を閉てたあと、大倶利伽羅は男の胸に散った梅の花弁を(つま)み取ろうとし、それが男──燭台切光忠の魂魄であるような気がして、やめた。
 広大な邸には、音がない。
 廊下伝いに玄関まで行ったところで、初めて人の声が耳を打った。
「あー掃除めんどくさ」
 竹箒で体を支えるようにして、加州清光がぼやいている。
「梅とか桜って咲いてるときはきれいだけど、散り始めると掃いても掃いてもきりないって」
 背を向けたままだが、ひとりごちるにしては声が大きい。話しかけたのなら、それは大倶利伽羅以外ではありえないのだから、仕方なく「そうだな」と小さく返した。加州は未だ柄の先に爪紅を差した両手をかさね、その上に顎をのせて足で地面をいらっている。
「でも掃除、しないとなー…」
 本丸を以前のまま保っておけば、また往時と同じ日々がやってくるのだと、そう「わかっている」のだと、己に云いきかせているようだった。
 大倶利伽羅が旅立ったのち、本丸から審神者の存在が消失した。
 同時に、顕現していた他の刀剣の付喪神たちも失せた。
 ただ一振り、近侍の加州清光だけが残っていた。
 あのとき、恐慌が治まってくると、加州は泣き笑いをしながら
「みんないなくなった、もう俺だけしかいないんだ、俺と…あいつは、あいつは、いるって云えるのかな…」
 強い力で取りすがったまま、帰還した大倶利伽羅に告げた。
 加州が取り乱すことは、あれきりない。
「やっぱ俺、かわいいからかな」時に軽口を叩いた。「主、あいつが中々こないってすねてたのに」
 顕現しうる刀剣に名を列ねながら、燭台切光忠は大倶利伽羅が本丸を去るまで、とうとうやってこなかった。失踪した審神者が、最期に顕現させた付喪神が光忠だったのは、何の因果関係もないことだった。
 だが、審神者の力が不完全なまま失せたためか、光忠は人の身という「形」は顕現されながら、そこに御霊(みたま)は依らなかった。
 目を覚ますことはなかった。
 一五九六年十月、秀吉の伏見築城の折、暖を取りながら普請を監督できるようにと、御座船を献上した伊達政宗に、返礼として与えられたのが光忠の銘のある刀だった。老太閤の体を労ってというのではない。常に叛意(はんい)を疑われ、膝を折りながらも内心では決して屈服することのなかった政宗の、これは一つの政治的アピールに過ぎない。秀吉もそれを理解していた。
 合戦で勝敗を決する時代から、武力を用いず己が目的を遂行する時代へと、移りつつあった。
 秀吉亡きあとの一六二〇年十一月、江戸城石垣修築の功として、大御所家康から政宗へ、各々の子息を介して大倶利伽羅廣光が与えられる。
 仙台へもたらされた大倶利伽羅を出迎えたのは、何時しか「燭台切」の異名を取るに至った、あの光忠だった。
「君が大倶利伽羅廣光。じゃあ、伽羅ちゃんだね」
 真金吹く国の粋をあつめた、備前長船派の祖·光忠が一振り。力強い刀姿(とうし)に似つかわしい体躯、刃文と同じ華やかな面立ち、日の光の色をした髪と両の眸──…それでいて人懐こい笑みをみせる。
「……妙な呼び方をするな」
 一方の大倶利伽羅は名工·正宗の技を汲む廣光の作、他を威圧する倶利伽羅竜の彫り物を身に刻み、その本地を想起させるような褐色の肌と金の眸、作刀された南北朝期の動乱を体現する、斬り合うための相州伝の一振りだった。
 しかし、世は既に武器としての刀剣を必要としてはいなかった。
 奥州王の佩刀とても、それは同じ。
「振るわれない刀に、何の価値がある」
 何度となく、大倶利伽羅は云った。
「斬るだけが刀じゃないさ」
 光忠は大らかだった。貞宗の短刀と同等に大倶利伽羅を子供扱いし、煩わしいとおもいながらも、伊達にある数多の刀剣の中で、この光忠にばかり焦燥をぶつけていたのは、その大らかさのためだったのかもしれない。
「斬れない刀は刀じゃない」
 時には哀しげな目差しをしながらも、光忠は決して大倶利伽羅の心を否定することはなかった。
 一六二三年四月、政宗は光忠を帯びて仙台を発つ。家光の将軍就任と婚礼のためだった。祝いの席には華やかな光忠の刀は相応しかろう。大倶利伽羅はそうおもった。
「行ってくるね、伽羅ちゃん。次の春には還られるとおもう。貞ちゃんと仲良くね」
 おかしなことだ。
 何故、慈しむような云い方をする。まるでこちらが、あんたの帰りを待ち侘びるかのようではないか。
 これが最期だった。

「光忠を〈我ら〉に嫁入らせ候へ」
 三代将軍となった家光の、正室輿入れを祝う宴の折、家光とは兄弟とも云える間柄であった家康の十一男·頼房が政宗に促した。礼をわきまえた口付きではあったが、頼房は政宗が拒めぬことを明白に心得ていた。
 このような祝宴で、婚礼にかこつけられた、将軍の介在すらちらつく頼みをはねつければ、どんな評判が広まるかしれたものではない。これを幸い、徳川に悪意ありと決められるのは必定だった。
 してやられたと、政宗は快く笑い、その場で光忠を差し出した。
「秘蔵の子なれども、上さまの御媒妁では(いや)とも云えまするまい」
 このとき頼房は二十才、将軍家光は一つ下の十九才、政宗は五十六才だった。武力がものを云う時代は去っていた。武器は今や刀剣ではなかった。狐と狸の化かしあい。
 燭台切光忠は頼房を祖とする水戸徳川家に伝えられ、一九二三年九月一日に灼けた。そのとき、大倶利伽羅廣光は未だ仙台に在った。
 九十年ほどの期間、燭台切は焼失したとされていた。大倶利伽羅は、刀の本分を失いながら、在りつづけるしかない己の存在に比べて、それを僥倖だとおもうようにした。しかし、光忠は現存していた。
 刀の形状こそ保っているものの、刀身は黒く灼け、刃文は消え、武器として用いられることはおろか、鑑賞にも値しない、そうみなされうる亡骸だった。
 大倶利伽羅廣光と燭台切光忠が共有した時間は三年にもならない。
 長大な年月を在りつづける刀にとっては、おかしなくらい僅少なものだった。なのに、その取るに足りぬ時間が忘却されないのは、あの刀が辿った運命を知っているからだ。あの刀にぶつけた己の声が、砕け、破片になって、心の何所かに刺さっているからだ。
「振るわれない刀に、何の価値がある」
「斬れない刀は刀じゃない」
 審神者が失踪した本丸で、最期に顕現した付喪神の燭台切光忠は、本体の現状を反映してか大倶利伽羅の知る伊達時代の姿ではなかった。ただ、睡りつづける面立ちは、あの頃と少しもかわりはなかった。
 内部の時は停止したまま、季節だけが移ろっていく。
 審神者は戻らない。
 本丸と外界とをつなぐ大手門は、閉ざされたままだった。

 こめかみを伝う汗を、シャツの裾でぞんざいに拭った。一拍ののち、ようやっと思い出したかのように、両断された丸木の上部が次々と白州へおちた。大倶利伽羅廣光は気怠げな目差しをその鮮やかな切り口に向ける。
 次の刹那、鋭敏に身をひるがえしながら、納めた刀の柄に再び手をかけた。大手門の──見上げるほどの、人間の力では十人がかりでも開閉できない分厚い門扉が、全く対の速度で、ゆっくりとこちらへ滑ってくる。
 廊下を駈けてきて白州にとびおりた加州清光の手にも本体があった。
 二振りは全身に緊張を漲らせた。
 一つの「人の形をしたモノ」が、進み出てくる。
 大倶利伽羅は鯉口を切った。
 その「人の形をしたモノ」は、足首ほどまである丈のマントをすっぽりと被り、風体はわからない。しかし、布の下から覘いた左手の得道具に、大倶利伽羅は目を瞪った。黒尽の拵の、紫の佩緒の太刀だった。
「え…何で…」加州も気づいたようだった。
 それ、の口許がふっとほころんだ。
「加州君」
 黒いグローブを嵌めた手がフードを背中におとした。
「──伽羅ちゃん」
 加州の目差しが、声を失った大倶利伽羅の上をまどった。
 光忠だった。
 それ、は睡りつづける光忠と、殆ど同じモノだった。マスクの奥の双眸と、日の光の色をした髪だけが、ちがった。
 むしろ衣裳などを除けば、あの頃の光忠と近い。
 あのとき、大倶利伽羅の下から去っていった「光忠」だった。
「おどろかせてごめんね。僕は、時の政府からの使者だ」
「使者…」加州が鸚鵡返しにした。
「そう、審神者のいなくなったこの本丸は政府の決定により削除される。だから君たちを迎えにきたんだ」
「ちょっ、待ってよ。訳わかんないんだけど。そもそも、あんたは一体〈何〉なんだよ!」
 光忠は少し困ったように目をほそめる──その反応も、あの頃のままだった。
「僕は、燭台切光忠。長船派の祖、光忠が一振り──その、分かたれた神霊の一つ。燭台切光忠という付喪神の、無数の形代の一個体だ。ただ、〈僕〉のいた時間軸は歴史改変され、詳細は語れないけれど、そのただ一つの改変が波及して、僕は〈あの日〉の前に水戸徳川家の所有ではなくなった。だから、小梅の蔵にはいなかった。灼けなかったんだ…」
 大倶利伽羅は痛みをかんじた。
「改変された世界の本丸は解体され、僕たちはサルベージされた。今は政府の仕事をしている。この本丸の加州清光、大倶利伽羅…以上二名にも、同じ決定が下された」
「だから、待ってって! この、俺たちが守っていた歴史は改変されてない!」
「そうだね。だけど、ここには審神者がいない」
「すぐに戻ってくるよ! 俺たちはここで待ってる、それでいいだろ!」
 光忠はしばし、口をつぐんでいた。やがて
「君たちは、知らないんだね…」
 だが、そのあとを告げることはなかった。
「政府には、他にも〈燭台切光忠〉がいる」代わりに、つづけた。「〈加州清光〉も〈大倶利伽羅〉も。僕たちが複製の利く形代の一つだということは、君たちもわかっているだろう。視たことがあるはずだ、他の本丸の審神者に率いられた〈君〉や〈彼〉たちを。別の〈燭台切光忠〉が刀である燭台切光忠の在った年月を覚えているように、僕も覚えている。それでも、僕はただ一つの〈燭台切光忠〉ではない。君たちも同じだ。視点をかえれば、君たちが一つの世界、本丸に囚われて、辛い思いをする必要などないと云えないかい」
 このとき、光忠は食い下がってくる加州へ専ら語りかけていたのだが、沈黙をつづける大倶利伽羅に、そっと視線を向けた。
「伽羅ちゃん、──もう待たなくていいんだ」
 本当だ。この「光忠」も、仙台を去っていった光忠にちがいないのだ。だから、六〇〇年前の「還る」ということばを──あのときと同じ声音で反故にしようとしている。
 おかしなことだ。
 それではまるで、こちらが「還る」というそのことばを、よすがにしていたかのようではないか。
「……話はそれだけか」
 大倶利伽羅は抜刀した。
「ごちゃごちゃした理屈など知ったことか。何所で戦い何所で死ぬかは俺が決める。時の政府だろうと、指図は受けない。──失せろ」
 鞘を払う音がつづいた。
「右に同じ、ってね。俺はこの本丸の近侍だ。主が戻るまで、ここを守り抜いてみせる」
 光忠は哀切な眸を二振りに注いでいたが、稍して本体の柄に手をかけた。
「僕も、敢えて折られるわけにはいかない。それに、政府の決定を撤回することはできない」
 地面を蹴った、次のときには、大倶利伽羅は褐色の獣のように相手の間合いに喰い込んでいた。閃いた光忠の刀身が剣戟を受け、弾いた。すかさず返す刀、今度は大倶利伽羅が受けた。重い。逸らして退(すさ)り、白州を抉り、踏み堪え、砂煙のあがる中で大倶利伽羅の口角が吊り上がった。刀の本能が沸き立つ。ああ、これが「光忠」の剣だ。真金吹く国の名刀──…
 横合いから躍りかかった加州を、光忠は慣れた身ごなしで躱し、マントを引きむしって捨てた。太刀と打刀といえど、二対一。二振りの生半可でない覚悟を了解したのか。いいぞ、それでいい。大倶利伽羅は再び斬り込んでいった。

「……少し、休め」
 汚れた上衣をかけてやると、加州は畳の上で頭を動かし、目を向けた。
「あんた、手当ては?」
「必要ない」
 疲弊した加州はそれ以上追及はしない、そっと瞼を閉じた。
 出任せというわけではなかった。大倶利伽羅も加州も、深手と云えるものは一つもなく、致命的になりうる部位に受けた(きず)は皆無だった。確かな剣技がなくてはできないことだ。だから、状況を理解して退いていった「使者」にも、同じようなダメージしか与えてはいないだろう。
 それでも、廊下を踏んでいく足取りはともすれば乱れた。大倶利伽羅はただ気力でだけ光忠の下へ向かった。
 閉てられた障子を透る薄日の中で、光忠はやはり、睡っている。
 あの、別の「光忠」を視たあとでは、その黒く変質した容子(ようす)は、いやまして胸に迫った。だが、大倶利伽羅はそれを「うつくしい」とおもった。

 ──政府へ報告を。

「あんたは、うつくしい〈刀〉だ…」
 睡りつづける光忠の前へ立ち、殆ど無意識のように、云った。「俺は、あんたの運命を知っている。灼けたあんたが、どれほど人間に愛されたかも知っている。灼けても尚、あんたが〈刀〉でありつづけたことを知っている。それでも、何が〈刀〉であるということなのか、俺には未だわからない。あんたにはわかるんだろう」
 大倶利伽羅はふと、光忠の衿に散った梅の花弁に目を留めた。魂魄のような、その白い花弁。
 再び光忠をみつめた。
「……いくらでも待っていてやる」

「本丸は削除に及ばず。現状のまま封鎖、──識別符号を欠番とする」
 通信を担う管狐は不服そうな表情をした。
「サーバーに空きがないのは了解しているさ。ただ、他の解決方法があるんじゃないかとおもってね。そのためにできることはさせてもらうよ」
 燭台切光忠は頭上を仰いだ。降りしきる梅の花弁。
 日の光の色の双眸は哀しげに、見守る。
 永久(とこしえ)の絢爛。
 花弁は次々と降りかかり、融けて一体の情報となる。
 何所とも何時ともつかぬ「物語」という電子の海で。

初出
Twitter 2019年7月

東風吹かば

東風吹かば匂ひおこせよ梅の花
あるじなしとて春な忘れそ

東風吹かば

「刀剣乱舞-ONLINE-」の二次創作小説。 審神者の失踪した本丸の大倶利伽羅と加州清光、睡りつづける燭台切光忠。本丸解体のため訪れる「灼けることのなかった」もう一振りの燭台切。

  • 小説
  • 短編
  • 時代・歴史
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2021-01-17

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