右の頬
聖広
私が苦しかったとき、世界中のあらゆる川が上流に向かって流れ出すくらいに、夕食のあと暖房の効いた暖かい部屋で、あなたはソファに座ってカップに満たされた湯気の立つコーヒーを飲みながら、私に色んなことを尋ねる。私の前ではいかにも話を聞いている様なもっともらしい顔をして、これ以上にない程の適切なタイミングで相槌を打つ。
それでもあなたは私の言うことには全く耳を傾けなかった。周りの人や社会の言うことを神託の様にありがたがって、それを私にひたすら言い聞かせる。あなたがコーヒーを飲み終える頃に私たちの会話のピリオドは打たれる。
あなたはどうにも優し過ぎるから、一人だけで生きている私のために、私がいつかは帰る筈の社会を優先してくれたんだね。
あなたは私と目を合わせながら窓際までゆっくりと後ずさっていく。部屋へ差し込む夕日を背にしながら私へ向けて両の手の平を見せる。いつだったか見せてくれたブランド物の腕時計は右腕を伸ばすとセーターが下がって、手首のあたりに姿を見せて夕日をあちらこちらに反射させる。端正な顔を強張らせながら、まるで生命の危機の様に必死に叫ぶ。
「僕は君を、助けようと思ったんだ、君のために、君がまた笑顔で幸せに生きれるように」
あなたは悪くない。あなたは私のために最善を尽くしてくれた。ただあなたは、不完全な社会の溝に嵌まってしまっただけなんだ。ねえ、本当に感謝してる。どうもありがとう。
あなたの綺麗な右の頬の感触は、橋の欄干にもたれて寒風に晒されながら立ち尽くす私の右手を離れて、小雨の様なもやに霞んだ川の暗い底に沈みました。落ちていく姿さえスタイリッシュなあなたの影は水中を上流へ向けて、あるべき光を求めて悠々と泳いで行きました。
右の頬