なき作者(将倫)

※東大文芸部の他の作品はこちら→http://slib.net/a/5043/(web担当より)

この作品は東大文芸部の部誌Noise34に掲載された「なき探偵」から始まった、なきシリーズの第六作になります。
このシリーズは、基本的に探偵役である天谷郁太が、幼馴染の淵戸日奈の持ってくる自作の推理小説を読んでその謎を解く、というミステリ形式となっています。
単体でも読める作りにはなっていますが、シリーズを通して読んでいただけるとより楽しめると思います。

≪問題編≫

 一日の授業が終わり、天谷郁太は帰り仕度をしながらこの後の行動について考えを巡らせていた。何かが起こりそうな予感めいたものはあるのだが、それが郁太の行動とどう結び付くかは分からない。当然あれ絡みだろうからあまり乗り気にはなれないが、ここで回避するのも無意味な気がする。なので、郁太は様子見もかねてもうしばらく教室で時間を潰すことにした。いつもの通りだとすれば、暴風はいずれ向こうからやってくる。風に全てを飛ばされてしまう前に、明日までの宿題を進めておくのも備えとしては充分なものだろう。
 それから三十分、郁太は黙々と宿題を続けていたが、いずれ来るであろうものを待つのは中々にしんどく、集中力も中途半端にしか発揮されなかった。
「――くそ。不本意だが仕方ないか」
 郁太はペンを置くとその場で大きく伸びをした。それから席を立つと、自分の教室をあとにして隣の教室に向かう。台風の目があるはずの場所に。
「お邪魔します」
 誰に向けて言うでもなく、郁太はそう独りごちながら引き戸を開けた。余所の教室に入るのは少しだけ気が引ける。視界には何人かの生徒の姿が入ってきたが、目的の人物は見当たらなかった。
「なんだ、日奈のやついないのか」
 郁太にとっての台風である淵戸日奈の姿は教室にはなかった。郁太はそのまま日奈の席まで向かった。鞄などは残っているので帰ったわけではないらしい。机の上に目をやると、数枚の紙が筆箱を重石にして乗っていた。
「……やっぱりか」
 日奈は文芸系の部活に籍を置いているわけでもないのに小説を書く。小説だけではなく、詩やら何やらとりあえず文字を用いるものならば見境なく書く。そして困ったことにそれらはどれも上手くない。最近はマシになってきていると言えるが、毎度半強制的に読まされる郁太にとってはその存在は凶報以外の何物でもない。
 そして今この状況である。郁太は盛大にため息をついた。日奈のいる場所でそんな真似はとてもではないが出来ない。果たして今郁太の目の前にある原稿用紙の束をどうすべきか。結論を先伸ばしにするのなら、ここでは何も見なかったことにしてとっとと帰ってしまうのがいいだろう。
 腕を組んで考えながら、郁太はちらりと視線を原稿用紙に落とす。しかし、だ。郁太にとっては心ならぬことではあるが、最近の日奈との推理勝負は少し楽しみでもあるのだ。日奈の考えた謎を解くのは面白いし、それを日奈に明かすのも心が踊る。そして、その勝負の元は今ここにある。その中身が気にならないといえば間違いなく嘘になる。
「まあ、仕方ないな。このまま帰って心残りにしては、気もそぞろになって宿題も出来ないかもしれないし」
 情けなくも言い訳を口にしながら、郁太は筆箱をどかして原稿用紙を手に取った。その厚さからして、今回のはそこまで長くないようだ。筆箱で隠れていたが、表紙には『残された二人』という題名が書いてある。その横には、小さな文字でこうも記されていた。
「『未完成』だと?」
 途端に郁太のやる気が削がれていく。また二度手間になるのかと思うと、もう目は活字を追うことを諦めようとしていた。一応原稿用紙をめくり最後までページを確認する。めくりながら、郁太はこれが普通の小説でないことに気付いた。本来ならあるはずのものがこれにはない。
 低空飛行をしていた郁太のやる気がむくりと起き上がった。こういう実験的な試みをしているのなら、日奈の努力に免じて読んでみても悪くはないと郁太は思った。もう一度最初のページに戻ると、郁太は一枚目から読み始めた。

  ***

  一
「事件のこと? ええ、知っていますよ。私、回覧板を回すついでに、お隣の方と玄関先で話していたんですよ。そしたら急に悲鳴が聞こえたもので、それがあの家の奥さんのものだと分かったから直ぐに駆け付けました。それで開いてた玄関の中を覗いてみたら、ねえ。奥さんが廊下にぺたりと座り込んじゃってて、一体何事かと思いましたよ。どうしたの、って声を掛けても、全身が震えてて声も出せない状況で、仕方なく玄関を上がって奥さんの傍まで寄った瞬間、私も血が凍るかと思いました。部屋の中は血塗れで、直ぐ目の前ではお子さんの背中に包丁が突き立っていました。私もそのときは動転してしまって。けど、しなきゃいけないことっていうのは分かっていたので、直ぐに引き返しました。それから自宅に戻って警察と救急車を呼びました。え? 奥さんをどうしたかって? 悪いことをしたとは思いましたけど、私もあのときは怖くってそれどころじゃなかったので、奥さんのところには戻ろうとはせずに家でじっとしていました。後から聞いた話だと、私と一緒に話していた方が奥さんを見ていてくれたようですね。
 でもまさかと思うでしょう? 白昼にこんな長閑な住宅街で殺人事件が起こるなんて。強盗が目的だったのかは知らないけど、家にいた二人とも殺しちゃうなんて、世の中は物騒ってのは本当みたいですね。仲の良い四人家族だったのに、奥さんも本当に気の毒ですよね。あ、そうそう。警察にも事情はたくさん聞かれて、そのときにも答えたんですけど、私、犯人のことちらっとだけ見たんですよ。実際には犯人かどうか分からないですけど、こんな住宅街で見慣れない人がうろついてるなんて珍しいのできっと犯人に違いありません。あと、見たといっても井戸端会議の間のことなんで、視界の端に入ったっていう程度なんですが。その人の背丈はごく平均的なものでした。服装は上が濃い青っぽいジャケットを着ていて、下はグレーでしたね。変わったところですか? そうですねえ。変わったところというか、私が見たその人はそんなに焦っているとか、殺伐とした雰囲気であるという感じではありませんでしたね。あくまで平然と、むしろ余裕がある風にも見えました。そういうところが、殺人を犯した人にしては少し変わっているかな、と思いましたね。
 それにしてもやっぱり怖いですね、身近で殺人事件が起こると。私、普段ごみを捨てに行くときなんかは家の鍵は掛けたりしないんですよ。でも、今回の事件だと奥さんがお子さんを幼稚園に迎えに行っている間に起きたそうじゃないですか。だから私もちょっとした用事でも必ず鍵を掛けるようにしました。小さいながらも身を守るための努力って大事ですよね。
 あ、もう取材の方は大丈夫なんですか? ああ、いえこちらこそ。慣れないことだったので上手く話せたか自信がないですが、お役に立てるようなこと話せましたかねえ。また何かあったら聞いてください。答えられることなら協力しますので。はい、犯人、早く捕まるといいですね」

  二
「あ、どうも。取材ですよね。どうぞ始めてください。
 はい、そうです、俺は職場で彼とは同僚でした。そればかりでなく、実は高校からずっと同じでしてね、親友と言っても何らおかしくはない間柄です。ですので彼については俺が一番よく知っているかもしれません。あと彼の奥さんとも大学から一緒でしたので、彼らの結婚後もよく遊びに行ってましたよ。まあ、俺の方はこの年になっても未だ独身のままなんですがね。それはいいとして、何が聞きたいんですか? 事件のことは人伝にしか聞いていないので詳しいことは俺の方が知りたいくらいなんですが。ああ、動機とかそういうことですか。
 うーん、そうですね、恨まれるようなことというのは直ぐには出てきませんね。彼、昔っから真面目でしたし、そうかといって社交性もありましたし。逆にそういうところで嫉妬する奴はいたかもしれませんが、怨恨とかそういうところまで発展するとは思えませんね。ああでも、少し真面目すぎるきらいはありましたね。何というか、負けず嫌いなんですよ。だから、たまに感情的になることはありました。俺も喧嘩したことは何回かあります。でも、そんなの普通ですよね? だから、いえ、すみません。あまり参考になりそうなことは言えないです。
 奥さんの方? そうですね、大学ではよくモテてましたよ。器量もいいし成績もスポーツも出来ましたし。彼よりもむしろ彼女の方が目立ってました。ただ、性格には少し難ありといいますか、俺は特に気にしたことはありませんでしたが、嫉妬深いだとか女王様気取りだとか言われているのを聞いたことはあります。まあ、同性からの受けはあまり良くなかったみたいですね。それでも、二人の仲はとても良かったです。お互い社交的でもあったので両隣に住む人ともすぐ打ち解けたそうですね。二人とも感情的になる一面もあるので全てが順風満帆というわけではありませんでしたが、雨降って地固まるとか、そんなことばかりやってて、見ていてこっちが照れ臭くなるくらいでした。それは子供が産まれてからも変わらず、家族の仲はさらに深まっているようでした。事件のあった日だって、彼、息子さんの学校の創立記念日に合わせて有休を取っていたくらいですよ。それがこんなことになるなんて、本当に残念でならないですよ。あいつ、今後どうするんだろうな。
 ああ、何だか感傷に浸ってしまいすみません。他には、そうですね。彼から聞いた話なんですが、最近近所であまり見ない人がうろついているということを彼の奥さんが言っていたそうです。これじゃあ誰からの伝聞か分かりませんね。奥さんが言っていた話を、俺は彼から聞いたということです。何でも息子さんの送り迎えのときに何回か見たらしいです。今回の事件と関係あるか分かりませんが、気になることはそれくらいですかね」

  三
「え、取材? これからちょっと買い物に行くところなんで出来れば手短にお願いできます? はい、ああ、それなら大丈夫です。
 そうですね。私も近所ですから、事件のときの騒ぎは知っていますし、奥さんやお子さんともよくお話はしました。うちの子とも遊んでもらったりしていました。だから今でも信じられませんよ。本当にちょっとの運の差なんだなあって。だってそうでしょう。ちょうど家族構成も同じですし、もしも私の身にも同じことが振りかかったらって、そう思いません? ただ、あの家は我が家よりも裕福だったようですから、強盗目的だとしたら、偶然とは言えないかもしれませんね。え? そうですよ、多分ここらだと一番お金があるんじゃないかしら。毎年どこか旅行に行ってますし、ほら、ここからも見えますでしょう? あそこに停まってる車だって、ええと車種は分かりませんけど確か高いやつだったはずです。旦那さんは温厚そうな方でしたけど、奥さんの方はそういうことを少し鼻にかけるところがありましたね。あとお子さんはやんちゃなところもありましたかね。子どもなんで元気なくらいがちょうどいいですけど、近所の子に比べたら腕白と言えるかもしれません。あ、なんか悪く言ってるように聞こえますか? でも奥さんはよく気の付く方でしたし、近所の方とも上手くやっていましたよ。だからやっぱり、あの事件は強盗が目的なんじゃないかと私は思いますね。
 そろそろいいですか? 帰りが遅くなるのも心配なので。先日あの事件があったばかりなので、なるべく早く戻るようにしてるんですよ。子どもにも戸締まりのことは強く言い聞かせてますし。あなたも気を付けた方がいいかもしれませんよ。ほら、そのイヤーロブなんて黒の上着と似合ってすごい高そうですし、強盗に狙われかねませんよ」

  四
「その事件なら知ってますよ。うちも近所なんで。確か一家四人のうち二人が殺されたとか。最近こういうことが重なって怖いですよねー。え? 事件当日にどこにいたかって? ――自宅にいましたけど。何か言いたげですね。平日の夕方から何をしているのかって。お察しの通り僕は職に就いてませんし学校にも行っていませんが、それが何か今回の事件と関係でもあるんですか? 聞きたいのは事件のことでしょう。僕が聞き及ぶ限りでは奥さんが少し外出している間に犯行が行われたようですよ。まあ、犯人がどういう人か知りませんが体格差とか考えたらそう抵抗も出来なかったでしょうね。
 奥さんが戻ってきて悲鳴を聞きましたけど、本当擦り切れていくようで聞くに耐えませんでした。うちの親が様子を見に行ったようですが、顔面蒼白で何も喋れないまま玄関で座り込んでいたそうですから。え、悲鳴? ええ、それは聞こえますよ。ほら、あそこの丁字路んところが僕の家で、そっから一ブロック行った十字路の角が事件現場です。直線距離でせいぜい二十メートルってところです。お腹の底から声を張り上げれば充分に届く距離です。実際にやってみてはどうです? 僕が聞いていてあげますから。
 あとはそうですねえ。先程も言いましたが、僕普段家にいるので外の様子とか結構気にすることもあるんですが、事件当日は不審な人陰は見ませんでした。単に逃げていく方向が違ったのかもしれませんし、僕が見落としていた可能性もありますが。あ、でもやっぱり最近ここいらで見掛けない人は出ていたようですよ。母親が噂をしているのを聞いたので。僕は見たことはありませんが。
 取材はもういいんですか? ああ、それなら良かった。僕の発言を記事に書くのは構いませんけど、個人だとばれるような書き方はしないでくださいね。いや本当最近親も世間体とか気にし始めてるみたいなんで、変な波風は立てたくないんですよ。それじゃあ記事がどこかに載ったら教えてもらえますか?」

  五
「ええ、私は亡くなったお子さんを保育園で預かっていました。それはもういい子で、だから殺されたと聞いたときには何かの間違いじゃないかって。前にも似たような事件がテレビでやっていたでしょう? ああいうのを見る度に、子どもを預かる職業をしている身からすると、それこそ身が引き裂かれる思いになるんです。それが自分の預かる児童ともなればなおさらです。本当に悲しくて可哀想で。一体どんな理由があれば人殺しなんて、それも何の罪もない子どもを殺すことが出来るのでしょう。
 ――ああ、すみません、つい感情的になってしまい。それでも私が感じた悲しさだとか怒りだとかを誰かに伝えたいんです。犯人を決して許してはいけないということを。
 それでお子さんのことでしたね。先程も言ったように二人ともいい子でした。私、児童に対してもあまりお世辞のようなことは言わないんですけど、それでも大変いい子だったと思います。大人しいし、他の子とも仲良く出来るし、運動なんかも積極的に参加してくれました。ときたま、出来すぎて逆に大丈夫だろうかと心配になることさえありました。だから、――ああ、ダメですね。あの子らのことを思い出すと涙が出てきちゃいます。
 お母さんの方は、印象としては華やかな感じでした。それでいて子どものしつけはきちんと行えているようだったので感心していました。参観日だとかそういう行事も欠かさずいらしては、お子さんの様子をとても楽しそうにご覧になってましたね。恨まれるようなこと? まさか。私が見ている限りではそんなことは考えられません。お母さん同士でも何度かお茶に出掛けていくのを見たことがあります。でもこうした話はあくまで私から見たお母さんの印象なので、もっと近しい人達からすれば別の顔が見えていたのかもしれません。すみません、私が何か言えるのは子ども達についてだけです。でも、子どもに原因があるとは考えにくいですしねえ。私の話はあまり役に立たないかもしれません」

  六
「あらやっぱり。私もいつか来るんじゃないかと思っていたんですよ。警察の方にはさんざんお話しましたけど、記者さんにはまだで、いつ来るかと思っていたところなんです。何せ、私は犯人の姿をばっちりと見ていたんですからね。それは重要な証言になりますよ。
 それ以外に事件について知っていることですか? さて、どうでしょうねえ。家は近いですし、間近で見てはいましたが、特にこれといっては。強盗だとか怨恨だとかいう話も聞きませんしねえ。私は怨恨じゃないかと思いますけどね。奥さんがお子さんを迎えに行ってる間でしたっけ、あ、買い物に行ってる間でしたかしら、事件が起きたのは。そんな短時間しかないところを強盗で狙ったりはしませんよ。
 そろそろ犯人の話をしてもよいかしら。あのですね、さっきも言ったように奥さんが一人で道路に出ていくところは見たんです。あ、そのとき私は買い物から帰ってきたところで、偶然会ったお隣さんとお話をしていました。それでその後、奥さんの家から見たことない人が出てきたんですよ。ええ、入ったところは見てないのに、です。当然おかしいと思うじゃないですか。だから容姿だけはよく覚えてるんです。上は黒で下は濃い茶色でした。背丈は一七〇ちょっとくらいだと思います。ねずみ色のキャップを被っていたので顔は見えませんでしたが、耳にピアスをしているのは見えました。それと、そんなに年を取っているような所作ではありませんでした。本当は声を掛けようかとも思ったんですけど、そのタイミングで会話が盛り上がってきたのでそれも出来ませんでした。でもきちんと気に留めていたのはすごいことじゃありません?
 私が見たのはそれくらいですね。奥さんが帰ってくる前にお隣さんとの話は打ち切って私も夕飯の仕度を始めましたので、悲鳴が上がったときも気付かなかったくらいです。え? 犯人の様子ですか? 言われてみればそうですね。犯罪を犯したとは思えないくらいに落ち着き払ってましたかね。まあ単純に興奮のし過ぎで気もそぞろだったのかもしれませんが。
 どうですか、参考になりましたか? 私、警察にはもう三回も話を聞かれたんですよ。記者さんもまた話が聞きたくなったらいらしてくださいね」

  ***


 郁太は原稿を最後まで読むと、それを机の上に戻してため息をついた。今郁太の胸に巣食うものを何と表現すればいいのか分からなかった。ぽこぽこと、何かが粘性を持って弾ける感覚。「違和感」が一番しっくりくるだろうか。何にせよ、日奈に尋ねてみる必要はあるように思われた。
「あ、郁太。来てたんだ」
 暢気で明るい声に視線を上げると、教室の入り口のところに日奈が立っている。軽い足取りで郁太の下――自分の席にまで来ると、日奈は郁太と原稿用紙とを見比べた。それから怪訝な声音で尋ねてきた。
「もしかして、中身読んだ?」
 郁太が頷くと、日奈はその場にくずおれた。見るからに落ち込んでいる。というより悔しがっているように見える。
「何で読んじゃうかなー。未完成って書いてあるじゃん。まあ、謎の部分自体は出来てたからまだ良かったけど。郁太には完成してから読んでほしかったなあ」
「悪いことをしたとは思ってるよ。でも面白そうなことをしてたからちょっと読んでみたくなってな」
 郁太は謝りながらも、この先をどう持っていくか考えた。今の日奈が一番に求めているのは、恐らく郁太の「謎解き」だろう。郁太自身、あと一つの確認さえ出来ればそれは可能だ。なぜ日奈が「未完成」と言ったのかについても見当はついている。自分のペースに持っていくためにも、まずはこの部分から始めるのが良いだろうと思われた。
「日奈、一つ質問があるんだが、この作品内における取材の並び方は時系列順で合っているか?」
 日奈はきょとんとした表情を浮かべたが、郁太の質問の意味を捉えると顔付きを変えた。日奈の真面目な顔は普段からは想像がつかないほど鋭くなる。と、郁太は友人から聞くが、実際はまだ顔にあどけなさが残る。この幼さがなくなったとしたら、もはや郁太に抗う術は残らないだろう。
「うん、そうだよ。振った番号順に取材は行われていると考えていいよ」
 これで郁太の推理は揺るがないものとなっただろう。万々が一を警戒していた郁太は、わずかな安堵を覚えるとともに心に莫大な余裕を得ることが出来た。日奈は言葉を続け、郁太に問い掛けてきた。
「もしかして郁太、解けちゃったの?」
「ああ、まあな」
 そう答えながら、何とか上手く誘導する方法はないかと考えた。だが、郁太が尋ねたいことは今回の謎解きからはあまりに遠くにあった。どう持っていったところで飛躍は免れない。なので、仕方なく郁太は当初の予定通り初めから推理を展開していくことにした。

≪解答編≫

「六つの取材記事で構成されているこの作品だが、読んでいて何度もつっかえたよ」
「どういうこと?」
「証言に違和感を覚えるんだよ。情報に齟齬があるせいでな」
 なおも首を傾げる日奈に、郁太はどこか虚しさを感じていた。この作品の作者に対して解説めいたことをしている自分が、とても道化じみているように感じられる。そればかりか、郁太がこれからしようとしていることは糾弾だ。それにいかばかりの意味があるのかも分からない。それでも郁太は突き進める外なかった。
「犯人の目撃情報だったり、殺された人だったり、犯行の時間帯だったり、人のいる場所だったり――。露骨とまで言えるレベルで証言が支離滅裂だ」
 郁太は一度呼吸を挟んだ。少し熱くなっていたかもしれない。唾を飲み、自分が冷静になったのを確認してから、郁太は続けた。
「ただ、その行き違う情報にも法則性はあった。法則というよりもルールだ。互いの情報を否定し合う証言は、必ず前半と後半で分かれている」
 この先が長くなることは分かっていたので、郁太はその矛盾を指摘するのを省略しようかどうか少し迷った。しかし、黙って郁太の推理を聞く日奈の目は確実にそれを要求していたので、郁太は続けることにした。喉を潤すものが欲しいと、郁太は無駄に視線をさ迷わせた。クラスの違う郁太に手に入れることなど出来ないのに。
「――最初から言っていこう。まずは犯人の目撃情報だ。これは一番目と六番目の人が異なる犯人像を挙げている。次いで殺された人について。四人家族の二人が殺されたことは一番目と四番目の人が同じ証言をしている。しかし、一番目の人の証言からは殺されたのは夫と子どもだと分かるのに対して、四番目の人の証言からは子ども二人が殺されたのだと分かる」
「ちょっと待って。どこの部分からそう言えるのか分かんない」
 日奈は手を挙げて郁太の語りを遮った。郁太としても、説明を省いたことは意図したことだったので、きちんと質問を挟んでくれてほっとする。要するに、一度にたくさん話すのは疲れるのだ。
「一番目の人の証言では、事件は奥さんが幼稚園に迎えに行っている間に起こったと言っている。この行為には少なくとも二人の人物が必要だ。奥さんと、それから幼稚園の子ども。つまりこの二人は殺されていない。逆を言えば殺されたのは夫ともう一人の子どもだと分かる。四番目の人の証言では、被害者と犯人との間に体格差があることが分かる。それも抵抗を許さないほど大きな体格差だ。このことから、被害者が両方子どもであると考えることが出来る」
 今の郁太の説明に、日奈は一応納得したようだった。実際、この証言単独なら反証となる可能性は考えられるのだが、他の証言がそれを補足している。日奈に追及されなかったので郁太もそれ以上は言わなかった。矛盾する証言はまだ挙げられる。郁太は先を続けた。
「次に犯行の時間だが、さっきも言ったが一番目の人は奥さんが幼稚園に迎えに行っている間だと言っている。一方、六番目の人は一度同じように言った後、訂正して奥さんが買い物に行っている間だと証言している。また、幼稚園の迎えっていうのは大体が二時とか三時の時間が多い。一番目の人は白昼だと言っているしな。なのに四番目の人は事件が夕方に起きたと言っている。これも食い違っている」
 郁太は日奈の様子を窺った。顔付きはいたって真剣。ということは、郁太の話が日奈の意図した範疇にあるということだ。郁太は次の矛盾の指摘に歩を進める。
「場所については二つある。まず現場発見時の奥さんのいた場所だ。一番目の人は、奥さんは廊下にいたと言っているのに対して、四番目の人の証言では奥さんは玄関にいたとしている。次にそもそもの事件現場についてだ。二番目の人の証言から、この家の両隣には家があることが分かる。だが、四番目の人はこの家が区画の角にあると言っている。角に家があるからといって二軒の家と接していないこともないだろうが、少なくとも両隣とは言わないだろう」
 郁太は再び間を空けた。一方的に話し続けるのはあまりいい気がしない。普段の会話では日奈が話すのを聞いているのに徹しているから、尚の事だ。気付けば、郁太が教室に入ったときにはいた生徒も大部分が帰ってしまっている。早く終わらせたいと思うものの、今しばらくは掛かりそうだ。
「他にも、二番目の人の言から、子どもの一人は学校に通っていることが分かる。が、五番目の人は二人とも保育園に通っていると言っている。子どもの性格にしても、三番目ではやんちゃ、五番目では大人しいと、正反対だ。
 どの矛盾に対しても、三番目までと四番目からの間で矛盾が生じている。それで最初の俺の質問、この取材は時系列順か。これに対して日奈はイエスと答えた。このことに加えて、四番目の人と五番目の人は、以前にも似た事件があったというようなことを言っている。ここから導きだされる結論は、」
 郁太は小さく息を吐いてから自分の推理を述べた。これでようやくゴールが見えるところまで来た。
「――事件は二件起きている」
 日奈の表情を見ても、別段変化はない。これでまだ終わりではないことを、日奈も重々分かっているのだろう。
「ここで少し話を変えよう。この作品、俺がここまで推理出来るほどには謎は散りばめられている。なのに何故未完成と日奈は言ったのか。それはつまり、容疑者の数を増やせなかったからだろ?」
 郁太の言葉にようやく日奈は表情を変えた。一瞬驚きの色を見せてから、また悔しそうな表情を浮かべた。
「事件が二つあることが分かれば、後は分かりやすい。二つ目の事件の犯人の容姿は上に黒、下に濃い茶色、ねずみ色のキャップにピアスだ。三番目の人の証言で、この取材を行っている人もまた黒い服を着て、耳たぶにピアスを着けていることが分かる。そして、事件の境目は三番目と四番目の証言の間。さらに三番目の人はこれから買い物に行くところで、六番目の人の証言から、二つ目の事件で奥さんが出ていったとき犯人は既に敷地内にいたことが分かる。
 つまり、犯人は取材を行っている記者で、三番目の証言者の子どもが二件目の事件の被害者ということだ」
 郁太はそこで言い切ると、日奈の反応を待った。郁太の推理はこれで全てだ。犯人当てまでさせるとなると、この形式で、しかも二件事件があるということは容疑者を増やすのに向かなくなる。だからこそ日奈は未完成だと表したのだろうし、未完成のままだったのだろう。
 しばらく日奈は何かを考えているように口を結んでいたが、やがて肩を竦める動作とともに軽く息を吐いた。
「もー、郁太に見せると直ぐ解いちゃうんだもん。だから完成させてから見せたかったのに」
 ならば迂闊に机の上になど置くべきではないだろうに。そういうところは、抜けたままで成長が見られることはない。それに、口ではぶつくさと言ってはいるが、その表情には明るいものが見える。郁太同様、日奈もこの推理ゲームを楽しみにしている節はあるのだろう。だからこそ、郁太はこれから自分がする質問を切り出すのに躊躇いを覚えずにはいられない。いやに喉が渇くのを感じる。
「なあ日奈、一つ聞いてもいいか?」
 日奈は、あーでもないこーでもないと独り言を呟いていたが、郁太が問い掛けるとこくりと頷いた。それを確かめた後、郁太は切り出した。
「今回のこの謎解きで、犯人の動機って考えたか?」
「え?」
 郁太は自分の声がかすれているのを感じた。もしかしたら震えてもいたかもしれない。これでもう後戻りは出来ない。
 日奈は郁太の質問の意味を汲んだようだったが、中々答えようとはしなかった。その様子から察するに、ある程度考えてはいるのだろうが、重要視はしていなかった、いや、かなり軽視していたのだろう。
「俺がこの話を読んだとき、確かに証言の矛盾についても違和感を覚えた。だがそれ以上に違和感を覚えたことがあった。日奈にそれが分かるか?」
 日奈が推理ものを書いてきたのはこれで四度目だ。前回前々回とわずかに不安に思っていたことが、ここに来て確実にその鎌首をもたげてきた。
「私、何か変なこと書いたかな?」
 やはり日奈は気付いていなかった。困惑に満ちた表情で、郁太の顔と原稿用紙とに交互に視線を送っている。
「今回の日奈の作品からは、人物が全然見えてこないんだよ。もちろん、登場人物はたくさん出てきている。数だけなら十人は越えている。だが、その誰一人としてはっきりとした人物像が見えない。言ってしまえば、全員が役割を持った駒に、記号にしか見えなかった」
 郁太は一息にそこまで言ってから、やはり言うべきではなかったかと後悔しそうになった。途中から顔を俯けていたため、日奈が今どんな表情をしているのかは分からない。だからといって、顔を上げることはとても出来そうになかった。
 顔を下に向けていたからこそ、もう大分机の影が長くなっていることに気付いた。郁太は自分の口が語るままに、言葉を重ねていった。もう読んだ当初に抱いたような感情はない。ただ、自分の気持ちを吐露していくだけだ。
「俺が毎回日奈の作品を読むのを渋っていたのは、単純に読みにくいからであって、むしろ中身については、人の暖かさが伝わってくるような日奈の作品は好きだった。でも、最近のはどうだ。推理ものだから内容が多少物騒になるのは仕方がない。殺しが題材になることもあるだろう。
 ――それでも、俺は人が理由もなく人を殺す作品を、日奈には書いてほしくない」
 そこで郁太はようやく顔を上げた。そこにあった日奈の表情を見て、郁太はどきりとした。日奈は笑顔を浮かべていた。そのどうしようもなく哀しげな笑みを目にして、郁太はようやく決心が付いた。
「もしも日奈がこうした作品を書き続けるなら、――俺はもう読まない」
「……うん」
 日奈は薄い笑みを浮かべたまま、小さく頷いた。
 教室に差し込む夕日は影を濃くしている。最終下校時刻を告げるチャイムが、二人の間に鳴り響いた。

なき作者(将倫)

今回初めてのネット上への投稿であるのに、シリーズものでしかも結構劇的な展開を迎えるという、あまり読者には優しくない作品となってしまいました。
郁太の日奈に対する指摘は、そのまま作者が自覚している弱点でもあります。
登場人物は気に入っているので今後もこのシリーズを続けていけるとよいのですが、はたしてネタが思い付くかどうか。

なき作者(将倫)

淵戸日奈が持ってきた原稿を読む天谷郁太。それはインタビュー形式でとある事件を描いた小説だった。無数の証言の中から事件の真相とともに、郁太はひとつの疑問を指摘する……。なきシリーズ第六作。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • ミステリー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-21

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

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