土岐の鷹②

   二


 陽の落ちた堂山砦では、羽柴秀吉の怒号が渦巻いていた。
「織田さまがそのような話を()に受けるはずはなかろうッッ。『()が身の可愛さゆえ、手籠(てご)めとされた主人をその場で見捨てるとは、()一分(いちぶん)も立たぬ奴』と、褒美(ほうび)どころか素っ首が転がるわッッ」
 放埓(ほうらつ)面罵(めんば)がきこえたあとには、癇癪(かんしゃく)で何かを壊している。それが半刻(はんこく)(30分)、一刻(いっこく)と過ぎ去るにつれ、
貴殿(きでん)失態(しったい)は、わしが(すす)がねばならぬ」
 激しい土蹴(あしげ)を最後に静寂(せいじゃく)がおとずれた。
 長谷川秀一(はせがわひでかず)の進言を()んだ秀吉は、多紀八上の長城を(いただ)高城山麓(たかしろさんろく)に着陣した前夜を浮かべたまま、早暁(そうぎょう)()った伝令部隊の消息が途絶えたことに苛立(いらだ)っていた。
「攻め手の陣容(じんよう)を欠いております」
 長谷川秀一の悪評は存じていたとはいえ、もっともらしい建策(けんさく)の陰では、味方の失態(しったい)欣喜雀躍(きんきじゃくやく)する(やから)がうようよいる。いずれは自身の足元をすくうと察しないまま、のうのうと(きょう)じたあの足軽(あしがる)どもは、(ひたい)に「阿呆(あほう)」の烙印(らくいん)を押してやらねば|解(わか》らないのか。
 それはさておき、当初予定していた高城山一帯(たかしろやまいったい)の攻囲に着手した織田軍は、相手の堅い守りを切り崩す方策(ほうさく)を見つけられずにいた。
 虚栄(はったり)をかまし、消極案を浮消(ふしょう)した戦評定(いくさひょうじょう)で、他の度肝(どぎも)を抜いた長谷川秀一の意見に勝機を見出したのはそのためだった。
 しかし結果は無残なものだ。
 長谷川秀一の別遣隊(べっけんたい)との連絡はとれず、相互(そうご)の|連環(れんかん》を敵に(さと)られないよう、かき集めた兵馬の半数あまりをこの堂山砦(どうやまとりで)の防衛に割いた結果、陽動(ようどう)すら我慢する警戒待機に甘んじてしまった。
「城攻めは倍に寄せろ」
 局地を除く戦場では、兵数恃(ひょうすうだの)みの人海戦術を好む織田信長の意向(いこう)が幅を効かせるため、明智軍の侵攻は大量の部隊投入が許されていた。
 それは居城坂本の近江滋賀(おうみしが)をはなれ、はるか西の丹波国侵攻(たんばのくにしんこう)(おお)せつかった惟任光秀(これとうみつひで)の行軍にあらわれていたものの、反旗(はんき)(ひるがえ)した波多野秀治(はたのひではる)らの裏切りを境に、味方となった丹波国人衆(こくじんしゅう)に対する警戒を強めたのだろう。
 迂闊(うかつ)に攻めれば兵を損ねる。
 趨勢(すうせい)を生かした攻囲を軸とし、まずは氷上黒井城と多紀八上城の互恵(ごけい)を断て──織田信長の軍状が出されるやいなや、丹波攻略をめざす織田と丹波国人衆の連合軍は、敵城を包囲する「付城(つけじろ)」、監視と対峙を(もっぱ)らとする「向城(むかいじろ)」、補給線や連絡路として活用する「要害(ようがい)」という、堅城相手(けんじょうあいて)陣城(じんじろ)を置く周知がなされた。
 いまではひと月前に謀反(むほん)を起こした以南(いなん)摂津国有岡城主(せっつのくにありおかじょうしゅ)荒木村重(あらきむらしげ)を除く隣国攻めの部隊が、たった一日あまりで兵馬を貸借(たいしゃく)できるほど、丹波国(たんばのくに)は西国攻めの要継地(ようけいち)()している。
 その丹波(たんば)に数日前、援軍としてやってきた秀吉は、西南の播磨国侵攻(はりまのくにしんこう)の足掛かりとした三木城主(みきじょうしゅ)──二月に織田を裏切った別所長治(べっしょながはる)討伐途上(とうばつとじょう)にありながら、波多野秀治(はたのひではる)の長城を相手どる辛情(しんじょう)を抱えてしまった。
丹波平定(たんばへいてい)(おお)せつかった惟任光秀(これとうみつひで)さまは、|八上山麓(やかみさんろく》の籠山砦付近(ろうざんとりでふきん)で波多野の伏兵(ふくへい)に捕らえられました」
 それが斎藤利三(さいとうとしぞう)(たばか)りと気づかぬまま、何の疑いもなく支援要請に応じて丹波入りし、主なき軍を収拾すべく、多紀八上の攻城に向けた戦評定を仕切るに至っている。
(わしは体のいい尻拭いじゃ)
 主君の救出に成功した事実も嘘なら、お(とが)めだけは避けようと閉口(へいこう)を貫いた明知勢の、とりわけ緘口令(かんこうれい)を出した陪臣(ばいしん)どもの浅慮(せんりょ)欺瞞(ぎまん)に満ちている。
 拙利(せつり)に走った馬鹿どもを(しつ)ける手立てはないものか。
 怒り心頭の身は、明智の雑兵(ぞうひょう)威嚇(いかく)しつつ、颯々(さつさつ)野陣(やじん)を練り歩く。
 そんな秀吉も、本陣を去ったあとにはけろりとしている。
「二日間の雷雨でようやく一揆(いっき)がなくなったかとおもえば、今度はお身内の争いじゃ」
 (きょう)の覚めた稚児(ちご)よろしく、焚守(たきもり)篝火(かがりび)に照らされた兵舎(へいしゃ)に入ったときには、強張(こわば)った足軽兵(あしがるへい)にのんきな愚痴(ぐち)をこぼしている。
「羽柴さま。及ばずながら尽力いたします」
「惟任光秀さまに代わり、どうか波多野の首を」
 斎藤利三に対する叱責を傾聴(けいちょう)していたのか、野外の明智兵は殺気立っている。
 しかしそれは、明智の重臣たる斎藤利三を(とが)めた怒りではなく、主君を虜囚(りょしゅう)とした波多野秀治に対する敵愾心(てきがいしん)と察せられる。
「夜の山は寒さで身が固まる。すぐに動けるよう、火は絶やすな」
 相手は夜襲に長けた波多野勢だけに、羽柴秀吉の指摘は手足のごとく履行(りこう)される。
 彼らに耳を(かたむ)け、警戒を(おこた)るなと命じた秀吉からすると、そうした雰囲気は好ましいものだ。
 百姓出(ひゃくしょうで)のせいか、秀吉は兵の齟齬(そご)こそ、足元の崩壊につながると考えていた。
 代々仕えた家格を重用する。
そんな武家の慣習を壊した織田家は、古参に匹敵するほどの新顔で(あふ)れている。
 (おの)ずと体面的なつながりは増え、希薄(きはく)すぎる家中に不安を覚えない日はない。
 それだけに、秀吉はさまざまな功利の渦巻く諸事をととのえる上で、兵の同調は必須と感じている。
 さきで斎藤利三を痛罵(つうば)したのは、部隊の自壊を防ぐため、(かぶと)()()め直さねばならないと感じたからだ。
 いまおもうと、主君である信長には、そうした感覚が重宝されたのかもしれない。
「迷ったら織田じゃ」
 気さくな秀吉の一面を最大限に活用しては、出自の貴賤(きせん)のない家風の魅力を伝え、召し抱えていく。
「妙なやつだ」
 そうやって陪臣にはない偉才を見出された者もいれば、
「世に二つとあるまい」
 身辺を世話する小姓に丁度いいからと、利発さ・美秀を買われて手元に置かれた者もいる。
 混淆(こんこう)としたそれらすべてが信長の、あるいは近習の推挙によるものであり、登用後は槍働きや祐筆(ゆうひつ)そろばんなど、さまざまな局面で活躍しなくてはならなかった。
 当然ながら、重臣にまでのぼりつめた者は少ない。
「またぞろサルが芸をはじめたか」
「ふん、山猿めが人助けをしおったわ」
 いまこの瞬間がそうであるように、どの陣を訪れようと陰口はある。
 すれ違う直参兵などは、勲功を重ねるたびに白い目を向けている。
 ところが秀吉は怒らない。
 そうした者らと敵対しても、最後は親睦(しんぼく)を深めようとする心が勝ってしまう。
 あのときもそうだった。
 尾張中村の木下姓を捨て、羽柴藤吉郎秀吉と名を改めることに至ったのは、家中で最有力の二将と目された丹羽長秀・柴田勝家からの辛辣(しんらつ)な扱いを受けた際、「主君が(はずかし)められた」と配下が激昂したため、(いさ)めようと発した結果だった。
 もっとも「羽」「柴」の一字ずつ名を頂くことは、彼らの武名にあやかる一心をあらわしているため、尾張織田の軍門に生涯を捧げる宣誓に等しかった。
 連綿と受け継がれた家名を大事とする御家からすると、自家の姓名を他に名乗らせることは、千軍分与の(ほま)れらしい。
 最初こそ渋っていたとはいえ、名声に自負のあった二将は、織田家を盛り立ててきた先達の自分たちに敬意を表したと考え、こちらに親近を抱いた。
 ほどなく彼らは信長を介した偏諱(へんき)(たま)いをゆるしていた。
おいおい好誼(こうぎ)となった丹羽長秀が述べたのは、それからまもなくのことだ。
 日頃から「サル」と(さげす)まれつつ、信頼を得ようとさまざまな無理難題にも応じたその忍耐こそ、織田さまの気に入ったところである、と。
「気分はどうだ」
 秀吉は目に飛び込んだ傷痍兵(しょういへい)に声をかける。
 やがてそれは、彼らの横で持薬を煎じていた医兵の復配(ふくはい)すら届かぬ幔幕(まんまく)で最後となる。
「先日と比べ、容体は安定しております」
 藪蚊(やぶか)を払うための御簾(みす)を気にしたのか、足軽は低頭しつつ、命に別状はないとこちらに発している。
 それでも渾身の太刀を浴びた顔は、以前を取り戻すことはない。
 赦免を乞うかの表情は、何の処方もできない葛藤を滲ませている。
「命あっての物種(ものだね)よ」
 慰労をつたえたのち、秀吉は人払いをした御簾のなかでひとり、白布に包まれた身体を眺める。
 改めてみても、御仏の護法のもと、織田を苦しめた過去を持つ身体は、恐躯そのものだった。
 己が身を(てい)し、単騎で仲間の撤退を援けた武功を惜しんだ明智の重臣、斎藤利三が(とりこ)としたのは一年ほど前だったか。
 ほどなくこの男は推挙の話を持ち掛けられた秀吉に従属している。ただ、紀伊・雑賀の陣で協力した杉ノ坊らや三緘衆(みからみしゅう)をのぞく根来の郷を蹂躙(じゅうりん)した織田信長への恨みは、完全に癒えていない。
「羽柴さま……」
 白布に包まれた口唇が上下する。
「安心せい。ここはわしの陣所じゃ」
 秀吉は被覆頭部を起こそうとした肩に手を添える。朦朧(もうろう)とした身体を休ませ、自顔を近づける。
「事情を知った明智秀満どのから頼まれてな。この療養で正体が判ずることは、まずあるまい」
 (わら)に巻かれて担ぎ込まれた身体は、惟任光秀ではなく、紛れもない羽柴秀吉の陣小姓、十兵衛である。
 看破を匂わせたところで、秀吉は呵々大笑(かかたいしょう)に御簾を去る。
 もっとも、目を閉じた十兵衛には、意は伝わっていたに違いない。
「治療に当たった兵は残らず始末しろ」
 去り際に身辺警護を任せた足軽へ、「明日には使いをよこすから、それまで誰も近づけるな」と忠告する秀吉には、軍官らしい冷光が備わっている。


 凍てつく冬山を賑わした多紀八上・氷上黒井ら二城の分断工作は、惟任光秀の筆頭与力となった長岡藤孝、丹波攻めの本拠とした最東部の桑田亀山城を預かる明智秀満、それに亀山築城に貢献した丹波国衆・小畠永明の三将に託された。
 ひそかに担ぎ込まれた惟任光秀──刀傷を負った顔を白布で覆う十兵衛は、昨年におきた丹波船井郡の内藤如安がまもる八木の落城から、残る桑田郡の宇津頼重らが住まう宇津の城攻略に向かった明智秀満のはからいを受けるかたちで、中南の多紀郡八上と西北の氷上郡黒井を分断するための陣城のひとつ、黒井城から東の栗柄砦(くりからとりで)に移されていた。
「しぶといものじゃな」
「ただの籠城ではなく、城外に散らばった地侍に毛利の援軍がやってくると(うそぶ)き、食糧確保の夜襲を奨励しているからだ」
 十兵衛の移送を買って出た秀吉が、十八はあろうかとおもえる砦の高土塁から西方の氷上黒井の城を評せば、惟任光秀のあらたな与力として大和国から参陣した筒井順慶は、敵の精妙を称えている。
「二年前に敗退した黒井の攻城では、明智の軍勢は北面からの攻略を基としていたらしいの」
「古来より、南向きの建物は治世において縁起がよいとされている。古の城郭や南蛮砦の普請にも通じた、惟任日向守どのらしい判断よ」
 どうやら土煙の巻き上がる屋外を嫌っているらしい。
 筒井順慶は、こしらえたばかりの社殿に秀吉を迎えつつ、
「惟任日向守どのは、敗走が決まった前年には、黒井城から北東に半里あまりの尾根を削り、小富士山城を構えていた。東南の八上から寄せた波多野秀治の反乱を予測できずに撤退した翌年には、黒井城から北西に東白毫寺砦を構え、山のふもとでそれぞれ肩を並べるように布陣している」
白毫(びゃくごう)とは、いかにも坊主くさい名じゃ。坊主といえば、多紀から氷上にかけての山々は、富嶽(ふがく)にちなんだ『小富士』と旅僧が呼んでおったか」
 即席の屋敷ながら、将の寝泊まりには十分すぎる社殿を秀吉は仰ぐ。
 左半分が急斜面となった片平(かたひら)の南東虎口を抜けたさきで、運ばれた水桶に砂塵だらけの顔と手足をひたすあいだ、夜逃げ同然に走り去った寺衆のすがたを浮かべる。
「戦火をまぬがれた食い詰め僧侶が、城砦普請の人足や兵の徴募に混じる時代に、諸国を行脚(あんぎゃ)する山伏のような修験者がまだいたとはな」
 ようやく社殿に上ろうかというところで、筒井順慶が声を立ててわらう。
「筒井どの。わしがみたのは戦で村集落を追われた坊主たちじゃ」
「似たようなものだ。高徳な『(ひじり)』とよばれた者たちのなかで、御仏の教えを実践する者が、はたしてどれだけいることか。秀吉どののいう僧らも、おおくは野狐禅(やこぜん)であろうが、彼らは民百姓とともに生きている」
「野狐禅とは」
「禅を教えたふり(・・)をする者のことよ」
 筒井順慶は、「なむあみだぶつ」と妙昧(みょうまい)な念仏をとなえつつ、希釈を乞う山伏の真似をしてみせる。
「まあ、国主から吸い上げた寄進に胡坐(あぐら)をかき、生臭(なまぐさ)をくりかえす大僧正とくらべれば、自ら土を耕している分、純粋に心身を清めた者は少なくないがな」
「だとしたら、織田さまの庇護を賜った筒井どのの現状は、槍働きの機会に恵まれない分、よろしくない」
「道理である。まったく戦雲とは、わからぬものよ」
「戦雲か」
 秀吉は黒井の上空にひろがった雲海をみる。
 惟任光秀が平定を仰せつかった丹波国は、くしくも足利義昭の膝元というべき土地だった。
 信長との関係を断ちきった足利家の最後の将軍、義昭は新たな後ろ楯として選んだ安芸国の毛利輝元を介し、朝廷および室町幕府の御料所(直轄地)が集中する丹波国との交流を深めていた。
 わけても義昭から「御供衆(おともしゅう)」の栄職を与えられた丹波の国人は、虎の威を借りた権勢を誇っていた。
 桑田郡の宇津頼重。
昨年に織田軍の猛攻で城を明け渡した船井郡の内藤如安。
抵抗をつづける多紀郡の波多野秀治。
そして何鹿(いかるが)・天田・氷上ら三郡をおさめる赤井忠家と、今夏に死没した萩野直正の遺児である九歳の赤井直義を支えた叔父の赤井幸家は、足利の中央集権にかかわった阿波国の三好一派ともども、はるか以前から反織田の協定を毛利家と交わしていた。
 いまでは丹波をふくむ山陰地方を任された毛利重臣の吉川元春ほか、関東管領の上杉謙信の養子・上杉景虎との跡目争いで優位に立った上杉景勝、さらには甲越同盟で上杉景勝の立脚を推した武田勝頼ら甲斐の軍勢が、反織田の頭位で(しのぎ)を削っている。
 そうした動きに不満を持つ丹波国衆らを支援するかたちで渡り合ってきた惟任光秀は、転戦や近在統治に追われた病躯を鞭打つなか、萩野・赤井ら氷上黒井と波多野兄弟の多紀八上との分断機会に、ようやく恵まれたのだ。
「一年前には、黒井の城南東の国領城をまもっていた赤井幸家が降伏している」
 筒井順慶が、手ずから(あぶ)った干し芋を秀吉に勧める。
「岩山に造らせた防曲輪『小切丸(おきりまる)』をいちはやく造成し、尾根道を利用した『馬場(ばんば)』の街道監視能力を併せた金山城を敵方に示したことは、その後の軍況に資するものだった」
「『鬼の懸橋(かけはし)』じゃな」
「知っているのか」
「知るもなにも、悪右衛門から奪った砦を直したものじゃろう。峠を(また)ぐ外観から、百姓がそう呼んでいたわ」
 実際には悪右衛門と恐れられた萩野直正の統治の名残と秀吉はきいている。
 そんな金山城を補佐すべく、遠見の目的でさきに竣工(しゅんこう)した付近の譲葉山(ゆずりはやま)の城兵を合わせた明智の軍勢は、黒井南東の国領城主、赤井幸家の降伏を受けてまもなく、彼らの残党に襲われている。
 ちなみに明智軍は、あっさりと敵の手に落ちた国領城を奪還しようと、後退した南陣の夏栗山砦を陥落させていた。
 その砦を陣の足掛かりとし、国領城の再奪取に成功した経緯を筒井順慶から聞かされたところで、秀吉は要人の名を挙げる。
「奪いかえした国領城は、明智の旗下となった丹波の国人、小畠永明の手勢がまとめていたのじゃな」
「そのとおりだ。あとは行路となっていた佐中峠を監視すべく、夏栗山砦の廻番を命じたというわけよ」
 小合戦のさなか、はるか東に位置する栗柄砦で波状網を敷いた筒井順慶は、こまかく千切られた干し芋をうやうやしく手盆にのせ、さっそく賞味をはじめる。
「とはいえ……ふむ。黒井の城をまもる萩野直正の遺児、直義を総大将に掲げた赤井忠家ら旧臣ときたら……うむ。東の多紀で兵糧攻めに遭っている、八上の波多野秀治にも劣らぬ狡猾さだ」
 あるいは松永か。
 大胆に嚥下(えんげ)を遅らせた筒井順慶の瞳には、昨夏の大和国で石山本願寺の包囲にあたっていた惟任光秀に馳せ参じた際、天王寺砦を任されておきながら、織田から寝返った憎き仇敵、松永弾正久秀・久通ら父子の信貴山城における攻防がよみがえっているのか。
「負けるかもしれぬということか」
 秀吉は自膳では物足りず、余っていた干し芋を胃袋におさめると、そのまま本意を求める。
「秀吉どのは存じているだろうが、この丹波は北の丹後、西北の但馬、西南の播磨、南の摂津・和泉、東の若狭に東南の近江と、さまざまな国と接しているせいか、織田のみならず、敵対諸国にとっても要継地だ。味方についた丹波衆が日々、敵勢の煽動した一揆に悩まされているのを見てもわかる通り、平定は容易ではない」
「先月には摂津侵攻を任された有岡城主の荒木村重が離反しておる。摂津の中東部を支配していたあやつの居城では、わしに付き従っていた官兵衛の消息が途絶えたままじゃ」
「竹中重治の後釜として拾った、奇人の小寺考隆か」
「奇人といっても、わしほどではない」
 低く猿叫した秀吉は、
「わしは丸腰で説得に向かうあやつを止められなかった。焦心そのまま、はるか西にある三田城で共闘した明智軍と別れたのち、以西の播磨へ戻るよう織田さまに命じられた。留守を預かるかたちで三木攻城に加勢した筒井どのには、もはや感謝しかない」
「なに、惟任日向守どのの命で派兵したにすぎん。ところが秀吉どのは、三木の城攻めに戻った数日後、なぜかこの栗柄砦に着到している」
「全てあの城じゃ。佐久間勢を播磨に残し、摂津有岡で謀叛を起こした荒木村重鎮圧に向かうさなか、『明智を支援しろ』と織田さまにけしかけられたのもな」
 秀吉は恨みを込め、はるか西方の黒井天守を仰ぐ。
「萩野直正の小倅が残っているからだろうな」
「数え九つの落胤(らくいん)なら、仕置きひとつでこちらに降るわ」
 秀吉はぴんと指をはじく仕草をみせ、
「問題は赤井忠家が幸家に代わる後見となったことじゃ。その背後に出雲や安芸を牛耳る毛利輝元がいるとおもうと、気が重いわ」
 嘆息がてら、運ばれてきた白湯(さゆ)で一服する。
「西国攻めは前線の援護が肝じゃ。ところが播磨・但馬平定をめざすわしらの背後をつないでいた荒木村重は、万見重元どのや松井有閑どのの説得を居留守で無視し、摂津有岡城で反織田の構えを貫く始末。織田さまと喧嘩別れした淫蕩な足利義昭は、毛利の御所で女湯に耽っていると聞くし、『仏敵信長』の天誅をとなえる石山本願寺にしても、こちらに従う気はないらしい」
「御仏の『天誅』というよりは、破戒僧どもの『人誅』だろう。いずれにしても、女犯にさいなまれる秀吉どのと大差ない」
「何をいわれるか。わしのこころは、いつでも寧々(ねね)ひとすじじゃぞ」
(ねや)(むつ)みごとではない」
 おもむろに膝頭を寄せた筒井順慶は、真贋(しんがん)を問うようにこちらを射抜く。
「武城の(さい)(大臣)となった子游(しゆう)は、孔子から『良い人物はみつかったか』と問われた際、澹台滅明(たんだいめつめい)という者を挙げている。近道を用いることなく歩き、公務以外は(えん)(長)であるわたしのもとへ来ることはない、とな」
「誰じゃそれは」
「はるかむかし、この丹波よりおおきな国事を任された者よ。近道を用いずとは、必ず衆目を歩くこと。公務を除き、上役の部屋を訪ねないということは、あらぬ権謀に()らぬ証とみてよい」
 筒井順慶は、秀吉を(ねぶ)った瞳を積雲に向ける。
 怠惰に小首をまわしたかとおもうと、鈍色の巨影で包まれた黒井城を映す。
「こうして故事を説くあいだにも、現実は目の前で動いている。四面楚歌のわれらに必要なのは、あの城が得た八上との互恵を断つことだ。毛利と石山本願寺は大人しくとも、小うるさい浅井や六角の残党までもが絡んだら、いかに野戦慣れした明智軍とて、退却は時間の問題となる」
「ところが興亡の瀬戸際にありながら、総大将はあのザマじゃ」
 秀吉はしずかに寝息を立てていた十兵衛をみやる。
 惟任光秀が丹波に乱入してから三年あまりで、織田に与した国人とそうでない国人との軋轢(あつれき)は埋めがたいものとなった。
 両軍入り乱れての国盗りから、東部では内藤如安の八木城が昨年に消え、宇津頼重のまもる宇津城を残すのみとなった。
中南の波多野秀治の八上城についても、船坂城と籾井城の要衝が、東から抑えている。
 そして肝要たる丹波最西部、浩瀚(こうかん)この上ない氷上黒井の城はというと、明智の与力衆・長岡藤孝や丹波衆の小畠永明ら主軍に加え、明智と部隊交換を果たした羽柴秀吉の実弟、羽柴小一郎秀長らの砦奇襲から、いくらかの均衡を保っていた。
「合戦でこぼれた敵残党を刈掃するこの栗柄砦などは、存外、暇なものだ」
 国情を過らせたばかりの秀吉にとって、憮然と吐いた筒井順慶の言葉は無視できない。
「それは筒井どのの部隊が、八上と黒井の分断には欠かせぬ要衝に置かれたからではないか」
 そう告げたところで、筒井順慶は花を持たせた言辞など、どこ吹く風とばかりに流している。
「漁村ならいざ知らず、網にかかった雑魚の仕分けしか行わぬ部隊が要衝入りとは、片腹痛い」
 勇ましく吠えたかとおもうと、底冷えする山風に身震いを、まもなく手鼻をかんで誤魔化した心底は見え隠れしている。
「戦線の停滞など、兵の虚弱を招くだけだ。秀吉どのはこの動静をどうみる」
「どうとは」
「この丹波の切り崩しだ」
 にわかに筒井順慶の柳眉(りゅうび)(またた)く。
「摂津西の有馬で荒木村重方の三田城主、荒木平太夫重堅を果敢に攻め、舞い戻った播磨の三木攻めでは、反旗を翻した別所長治を干殺(ひころ)すべく、粛々と征伐を進めている。幾多の城砦を落とした采配者の目には、遅滞にあえぐ丹波の軍況は、どう映っているのか。明智の新参与力衆として、聡明な判断を仰ぎたい」
 真剣に問われた秀吉は、東南の八上と西の黒井を顧みる。
 城主はどちらも防衛戦術に長け、こちらから攻城戦を仕掛ければ、丹波の国衆をあわせた織田軍の被害は甚大なものとなる。
 毛利と石山本願寺の横槍を念頭に、早期の陥落は困難であると判断したからこそ、惟任光秀は大軍を擁した重囲による疲弊戦術がもっとも効果的と見、転戦続きだった前年までの部隊進捗・砦普請等の減算を充てこんだ本年を、丹波国平定のあらたな門出と位置付けたのだ。
 しかしそれは、自兵に無駄な持久を強いる判断でもあった。
「丹波侵攻が|縺『もつ》れた場合、朝廷を(たてまつ)る四国の長宗我部が毛利と連携するかもしれぬ。南の摂津を切り裂くように北進してくるのが、西隣の播磨攻めを任されたわしらには恐ろしい」
 筒井順慶に発し、そのまま押し黙った秀吉の片隅には、いつも信長の影がある。
(はや)さこそ至上である」
 秀吉が登用されてまもなくの時分、信長は帰順したばかりの諸将を自邸に集め、国盗りの極意をあらわしていた。
功名心を煽ることで、秘めたる力を引き出してやる。
 そういえば聞こえはいいだろう。しかしそこには、信長なりの知慧(ちけい)というものが重ねられていた。
「まじないのようなものではありませんか」
 羽柴軍の参謀となった竹中重治(竹中半兵衛)がつぶやいたのを、秀吉はよく(おぼ)えている。
 疲れが一定に達したとき、人は多岐に及んでいた思考を束ね、眼前の物事に集中する。
 それを体現した田楽狭間(桶狭間古戦場)の戦役を終えた際、信長は前線砦の陥落と引き換えに「東海一の弓取り」とうたわれた今川義元の首級を上げた事実を内省していた。
「あれは天運に任せた特攻だった」
 まぐれが何度も続くわけではない。
 悟った信長は、ほどなく限界すれすれに人馬を酷使、「商いごとにかぶれた弱兵卒」と他国に罵倒された尾張織田の将兵を鍛えはじめた。
 いうなれば〝道場〟に通う〝子弟〟もしくは外縁の〝門下〟として扱うことで、彼らに「日ノ本の一統」という目標を刷り込み、主従不鮮明な乱世における、明確な軍門位階を成そうとしたのだ。
「人は使ってみなければ本当の実力はわからない」
 なまじ評判の有無を問わず任を与えたものだから、弊害として、脱落者は増えていくのは想像に易い。
 同時に残る者たちは修羅場をくぐり抜けた精鋭揃いとなり、容易に崩れぬ結束を醸成する。
 それは今川の人質として幼年期を過ごし、青年期から織田家と一蓮托生となった、三河松平の護法。
 統御の難しかった三河の侍魂を凝集した、秘伝の家中軍法を織田式に昇華するという、信長の一代軍規だった。
「いまの織田に敵うのは、亡き信玄公と謙信公だけではないか」
 軍務の僻端まで峻烈な「当代一流」が浸透した現在は、実力以上の敵と渡り合うことすら厭わなくなった織田木瓜(おだもっこう)の御旗は、他国の脅威とみなされている。
 融和か。
 敵対か。
 遠来の畏怖心は、早々と敵意を掲げる者と降伏を申し入れる者とを増やしている。
 そうやって数多の氏族を呑みつづけ、功の多寡で人を動かすようになった織田家は、次第に由緒ある武門への不満の受け皿として機能しはじめ、ついには戦役で凋落した、かつての名門や豪族の子孫らの標榜を集めるまでとなっている。
 一介の農民にすぎなかった秀吉が、巷間のうわさを「新時代の登壇機会」ととらえ、心機一転に侍道を目指したのとくらべると、彼らは侍の慣習に長けている分、期待とは別に「生涯にわたる好敵手」と、信長への雄心を奮い立たせている。
 国の垣根を超えたさまざまな馳駆(ちく)は、我田ながらも奨励した信長の「天下布武」を人心に溶け入らせる膏薬(こうやく)となり、ますます日ノ本の血潮を(たぎ)らせている。
瀑布(ばくふ)に渇きはない、か」
 寒気を浴びつづけたせいだろうか。
 そぞろに呟いた秀吉に、筒井順慶は虚を突かれたまま口走る。
傍流(ぼうりゅう)には傍流なりの処世がある」
 秀吉は表情を締める。
 何を欲し、何を示すか。
 あらゆる事態に果断な信長に迎合してきた秀吉にとって、筒井順慶の発した「傍流なりの」という語には、ある含みが込められている。
 明智の丹波攻めに、但馬・播磨攻めの羽柴が援軍として加わった。
 病に伏しがちだった惟任光秀の心労を(おもんぱか)る、じつに信長らしい配慮ながら、眼前の筒井順慶の頭には、丹波制圧に「持久」という消極姿勢を選択した明智軍の、飽和な駐屯への不安が渦巻いている。
 いかに信長の厳しい軍律で縛っていようと、元をただせば在野に散った賊将のあつまりでしかない。
 暇を持てあました兵の一部に間違い(・・・)はかならず起こる。
 それは明智に準じた筒井順慶の部隊のみならず、丹波平定と連携しながら隣国で骨身を削る秀吉ら諸侯への悪影響として、忌避すべきものにほかならない。
「裏切った荒木村重が『姫若子』とよんでいたあの長宗我部元親も、いまでは『土佐の大蛇(おろち)』とよばれている」
 虚空をみつづけたあの瞳の青陵は、何を量ろうとしているのか。
 秀吉は四国の異端児を持ち出した筒井順慶の栗柄砦に一泊する。
 戦備をととのえた翌朝に発った秀吉が摂津から丹波に戻ったのは、残夜に浮かぶ蟾兎(せんと)の替わりはじめたときである。
「惟任光秀さまは昨日昼、茶臼山城に移られました」
 道中、運び込まれた栗柄砦の社殿から、黒井川を隔てた敵城を北睨する二段曲輪の城に移動した旨が届く。
 すぐさまそちらに馬首を巡らせるも、陥落は長引くとみたらしい。
 あるいは囲繞継続(いにょうけいぞく)に際し、領民による一揆や城内への物資搬入を警戒した、長岡藤孝の進言によるものなのか。
 領民の公事(くじ)(公的労務)免除に加え、駐屯する織田軍の乱暴狼藉を取り締まる禁制を村々につたえてまもなく、職工の徴募が行われている。
 かつて遣わされた国々もそうだったが、戦火で水田を失った領民たちは、そこかしこに溢れている。
 この丹波でもそれは変わらないのか、生活不安の解消名目で雇い入れた村民は、明智軍の指揮のもと、能を生かした役を与えられている。
「建農具に秀でた者は、武具の修繕(しゅうぜん)に」
「女子供は炊き出しを」
 きびきびと部署の割り当てを行う明智兵によって、集まった領民は方々に向かっている。最後に残されるのは、決まって職能のない男衆だ。
「お前たちには、敵城まわりの岩窟削平と、砦の造成を手伝ってもらう」
 膝の屈伸や棍棒を持たせた雑木への打ち込みなど、兵の徴募とおなじ段取りで健常な男衆・身体に不安を抱えた男衆を選んだあとには、元服前とみられる者から四十半ばを過ぎた者まで、年齢差を加味した五人一組の集団分けが行われる。
「勝手に休んでいる者や、手を抜いている者はいないな」
「まじめにやってますぜ」
「ならばいい。喧嘩があれば、すぐに伝えろ」
 路端からきこえた足軽と百姓のやりとりなどは、野地の習いといえようか。
 工程管理に秀でた職人衆のもと、より進捗を円滑とすべく、織田方の人夫と化した彼らは、明智軍の普請頭や足軽の監視下に置かれている。
 そうしてつくりあげられたのは、八上と黒井の分断工作でもっとも重要な隧道(ずいどう)と、秀吉は見抜いている。
 大事な要害を支えるため、つなぎ土塁を枝葉で隠しただけの空洞ながら、土塁を積み上げた空堀の内側には防柵が立っている。
 囲いの内側にしても、容易に燃やされないよう、泥土で塗り固めた竹櫓(たけやぐら)を組み立てるかたわら、射手や攻城兵器の運搬を左右する武者走りをととのえ、空堀を渡す板橋の準備に取り掛かるなど、男衆はあくせく働いている。
「織田さまは、ただ働きを嫌う御方よ」
 縄でくくられた千貫の銭束を腰にぶら下げ、惜しまず役目や働きに応じた日当を払う検分役を置いたのは、誰でもない秀吉だ。
 その日の終わりが近づけば、これみよがしに現場を練り歩かせている。
 作業の終了時、彼らの前で土木工事の進捗に貢献した五人一組の集団が、日当に勤労賞与を加えられるのだ。
 そうした癖が抜けないせいかもしれない。
 慰労には「名を褒める前に実を与えろ」と信長に学んだ秀吉は、気づけば今日もふらりと訪れ、命じた報奨が確実に配られているかを視認している。
 意識をとりもどした十兵衛と茶臼山の城で接見したのは、砦普請の工程余剰について、丹波国衆の小畠永明旗下、石倉主水(いしくらもんど)なる普請頭から報告を受けたあとである。
「何度も足労していただけるとは、心苦しい限りです」
「ハハハ。十兵衛どのにそう言っていただければ、滋養の尽くしがいはあるというものじゃ」
 会話をそつがなく行えるまでに回復していた十兵衛を前に、秀吉は「如才ないのう」と明智の居城から届けられた野実をかじる。
 惟任光秀との語らいで互いに呼んでいた「藤吉郎どの」「十兵衛どの」という、儀礼を省いた呼称を用いるよう求め、試しのやりとりで問題はないと分かったときには、斎藤利三の手勢によって助けられた顛末を(ただ)しはじめる。
「すべては内蔵助どのの謀りによるものでした」
 十兵衛の話では、疱瘡(ほうそう)を患った顔を白布で隠し、「白頭」とよばれた大谷吉継を引き合いとするように、内蔵助は主君である惟任光秀の助命を請う秀吉の陣小姓──彼と面立ちの似ていた十兵衛の顔を一閃することで、自身に旧恩があり、かつ接見が容易でなくなった新たな〝惟任日向守光秀〟という織田の重臣に代えようと謀っていた。
 ひとえにそれは、丹波と摂津の北南二国が治まり次第、海をへだてた四国の長宗我部元親に武威を示そうと決めた織田信長に対し、和平調停で同盟を結ぶよう諫めた惟任光秀の姿勢が関わっていた。
 織田を裏切った荒木村重はもとより、石山本願寺が煽動する一向一揆、播磨三木で離反した別所長治、姉川で敗れた浅井・朝倉の残党、六角勢の国人ほか、阿波の三好長慶らとともに幼帝を振り回していた松永久秀の遺臣など、反乱の絶えない時期にありながら、いまだ西方には、安芸・出雲に本拠を据えた足利義昭ら毛利、四国の長宗我部、薩摩の島津など、戦上手の将が控えている。
 東の方面では、たいらげた越前国を分領した柴田勝家・金森長近・原政茂ほか、彼らの目付とされた府中三人衆の前田利家・不破直光・佐々成政らが、すでに越後の上杉と休戦協定を結んでいる。
 やや以南の中原にすわる甲斐武田とは、すでに停戦合意が成されている。
 そして駿河の今川・相模の北条と対峙する三河勢が盤石を保ついま、織田軍の喫緊(きっきん)は西側諸国の平定にあった。
 とはいえ信長の人倫を無視した侵攻策は、家臣団でもっとも野陣に慣れていた西国攻めの諸将をもってしても、熾烈(しれつ)をきわめた。
 なんせ毎日のように兵は(たお)れていた。
 奔走部隊が中心とはいえ、戦没以外の理由者が頻出する軍情は、秀吉も幾度となく目にしていた。
「織田さまが、勝機には持ちうる駒すべてを出してもかまわないとの気概をお持ちであることは、藤吉郎どのもご存じでしょう」
 やがて十兵衛は、連戦する兵らの負担を和らげるため、直接交戦を避けた和平調停による外戚侵攻を信長に上申した惟任光秀を演じ始めた。
「わしらは織田さまによって見出された臣下ではないか」
 陣中では、どこの誰が会話を傍聴しているとも限らない。
 躊躇(ちゅうちょ)なく「藤吉郎どの」と呼ぶようになった十兵衛に、秀吉は内心満足しつつ、舌鋒(ぜっぽう)を尖らせる。
「たとえ無謀な特攻であろうと、それが織田さまの意志なら従うしかない」
「藤吉郎どの。われら明智には、民と義勇軍の訴えは尽きません。織田から戦を仕掛けるかぎり、疲弊した兵の数は減り、忠節は(ないがし)ろとなる。徴募であつめた雑兵を精兵とするには、一朝一夕の鍛錬では到底、成りません」
「だとしても、いまのわしらにはどうすることも出来ぬ」
 指摘を受けた秀吉は、憂悶(ゆうもん)に暮れる。
 かつて京のみやこ入りを果たした織田信長は、丹波、摂津、但馬、播磨と、一気に西進して畿内を平らげようと考えていた。
 東進部隊に柴田勝家や徳川家康といった直参の将を振り分ける一方、西進する部隊の編成は、一任した丹羽長秀の裁量を頼りとしていた。
 理由は帝の存在である。
 いや帝のみならず、執権を(ふる)う朝廷も控えているだけに、彼らの守護を叫ぶ在将たちに攻撃を加えることは、武士であれば躊躇(ためら)いが生じる時代なのだ。
 わけても「幕臣」となった高名で私利を得た毛利輝元には、織田信長と決別した足利義昭の身を奪われている。
 その打開案として生まれたのが、滝川一益や羽柴秀吉、佐久間信盛、明智光秀、裏切った荒木村重など、浪人から引き上げた俗縁家臣をぶつけることだった。
「織田さまが新規に召し抱えた者らのおおくは、盗賊稼業に身をやつしていたともきく。いたずらに(ろく)を与えては危険だが、織田への忠誠ではなく利害で動いている奴らなら、我らにとって(おそ)れ多い帝や朝廷であろうと、容赦なく弓を引くにちがいない」
 そもそも西国攻めは、敵の敗残兵を味方に引き入れてこそ成り立つ強行軍ではないか。
 叛意(はんい)を起こした者については、禍根とならぬよう、説得が無理と分かった時点で討てばよい──柴田権六勝家の料簡をのせた西進部隊を統括するのは、織田信長が見込んだ丹羽長秀だ。
その差配を以てしても、度重なる味方の造反は、枚挙にいとまがない。
 事実、畿内有数の山城を抱えた丹波と摂津に対し、分散していた将兵を傾注しようと試みたのは、そうした実情に(ふた)をするための〝重石(おもし)〟だった。
 慢性的に織田の戦備は不足していた。
 唯一の補強案として打ち出されたのが、軍備増強の水面下で為される輸液交渉の拡大である。
 各地に点在する砦や城を旗下におさめた織田軍の調略は、これまでは軍事に限定されていた。
 ところが国土が増すにつれ、それだけでは不十分との訴えが、自領を中心に勃興していた。
「たいがいの国は、歩きにくくていけねえや」
 最たるものが、海運で栄えた商人たちのぼやきといえようか。
 日ノ本に散らばった国主のほとんどは、街道整備の着手に難色を示していた。というのは、円滑な往来をゆるした場合、他国からの侵攻に資するとの見方が大勢を占めていたためだった。
 その点、秀吉や十兵衛たちが侵攻する畿内は、尾根を越えればまた尾根と、険しい連山ときている。
 あえて険路を残し、関所を設けておけば、戦で逃げ出そうとする百姓や間諜の妨げとなり、往来監視による通行料徴収の両得となる──国事行為と認識していた朝廷や氏族のあいだでは、旧態依然とした財政政策が綱領とみなされていたせいだろう。
「領内でとれた俵米を中心に、金銀山や伐木品を収源とすれば、国庫は安定する」
 自領の繁栄は、かくあるべし。などと公言されるのが常だった。
 一方、織田家の直参として西方をつかさどる丹羽長秀は、自領と近隣のみでまかなう国政手法の限界を感じていた。
「自領が小いうちは、それだけで十分である。だが、さきへとすすむためには、保守の思想は捨てねばならん」
 なにより開けた国というものは、人傑や情報が集まりやすくなり、兵馬にも少なからぬ恩恵を与える。
 再三にわたる献策で上意を得た丹羽長秀は、土着化した忍兵「草の者」を領内に配することを条件に、他領とつながる街道の整備に着手。行軍速度の上昇とともに、複数国をまたいだ商業誘致に精を出しはじめた。
 一間(約1.8メートル)
 一尺(約30センチ)
 一寸(約3センチ)
 定着していた測量の三項を念頭とした丹羽長秀は、総普請奉行として、信長の発した朱印状に沿う着工を命じた。
「道幅は三間半とし、分岐した脇道は二間半、それ以外の道については一間と定める。なお、高さについては三尺で統一せよ」
 諸国に平坦な街道をつくるべく、手始めとして、江南の六角征伐でととのえた街道の延伸工事では、酒井利貞、河野氏吉、篠岡八右衛門、山口太郎兵衛ら四名が普請役となり、美濃から京都までをつなげた往路には、松や柳が植えられた。
 それ以外にも、あちこちで渡るのに不便とされていた入江と河川を探させては架橋し、難所とされた岩山があれば削平して石を除去し、庶民の休憩できる旅籠(はたご)を設けさせるとともに、景観維持の一環として、商税免除を条件とした一日二回の路上清掃を奨励した。
 やがてその方策は、全国でも類を見ない規模の自由市場に実を結んだ。
 当時、「座」とよばれた登録制の商業組合を廃止したことは、大きな成果のひとつとされている。
 二十年ほど前には、近江の守護だった佐々木六角義賢が、奉行人の野寺忠行と後藤高雄らに対し、領内の枝村惣中宛の楽市に関する奉書を出すよう命じていた。
 昨年六月に信長が近江八幡で発令した「安土山下町中掟書」は、同政令を礎としたものだ。
 そうやって織田領内での自由な商取引を保証する「楽市・楽座」で潤沢となった国庫の威勢は、信長が折から「是民の悪」とみていた関所を潰し、数少ない収源を失った豪族の帰属をうながす遠因となっている。
「これならそのへんで屋業を営んでも平気だろう」
「織田さまにゃあ、足向けて寝れねえべ」
 そのころになると、自領と他領との境界は、きわめてあいまいなものに変わっている。
 関所に代わる監視砦だけとはいえ、街道では野盗の追い剥ぎに遭う心配はいらなくなるほど、治安は改善された。
 同時にそれは、往来活発による必産物として、自領だけでは手に入ることのなかった情報や品々が飛び交いつづけることを意味していた。
 規範とした織田家中軍法のもと、一定割合を超えた場合のみ徴税する地子銭を施行することで、賦課税収は領内振興のほか、天井知らずに跳ね上がる戦費に傾斜配分されるまでとなったのだ。
「いまでは軍資金に困ることもない。そこまで丹羽長秀どのにお膳立てをととのえてもらいながら、『敵勢はことのほか強く、敗走いたしました』などとは、口が裂けても言えぬ」
 十兵衛の長話に付き合っていた秀吉は、苦衷(くちゅう)にあえいだ軍務を仄めかす。
 とりわけ舌鋒を鋭くした密使による所領安堵の事前折衝は、不測の小競り合いを回避するための休戦協定ほか、不可侵を前提とした戦線調停だけに、露骨な功利の離合集散が絡んでいる。
「織田は少しやりすぎた。あらゆる局面において、味方となり得る者を接遇した結果、現状に不満を持つ国人たちは、いっせいに目の色を変えおった」
「飛躍をつづける織田家では、禄を弾んでもらえます」
「そのとおりじゃ。貧富の差が激しい乱世ゆえ、根も葉もない俸給の俗信に(すが)ってきた将兵は、この丹波でも数え切れぬほどいる。それが今は足枷(あしかせ)となりつつある」
「軍とは兵。兵とは民。無血で戦を閉じるに越したことはありません」
「ほう。すると十兵衛どのには、それを払う策が」
「それは藤吉郎どのも承知のものです」
 余韻とともに、十兵衛は各地で根ざした国人衆に新たな統御を強いる要諦が整いつつあると告げる。
 応じた秀吉とて、京入りを果たしてからの尾張織田に欠かせないのが、信長の信条とした「天下布武」の周知拡大と、公武合体に異を唱えた国々との和解であることを知らないわけではない。
「長居しすぎたようじゃ。わしは荒木村重の鎮圧で摂津に向かわねばならぬ」
 無言で頷く十兵衛に、秀吉は自身の「陣小姓」から「惟任日向守光秀」と扱いの変わった彼が、発言の底意を実感していることに満足する。
「群雄割拠の諸国を統一するためには、帝と朝廷の意をふまえた神威の発揚が近道と知らぬ者はない」
 秀吉が触れずとも、在野の諸侯を従わせるための方便となり、また手段を選ばず他地域を侵せる免罪符への理解からだろう。
 一礼した十兵衛の瞳には、海燕(かいえん)燐光(りんこう)が宿っている。

土岐の鷹②

土岐の鷹②

山岡荘八を意識

  • 小説
  • 短編
  • サスペンス
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-12-28

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