ここにいる
孤独は、ときどき、息をしている、鼓動がきこえたら、もう、ぼくというにんげんのなかで、ぼくというにんげんを動かす心臓とともに、共存しているということ。さむい夜は、あたたかいお鍋が食べたいからって、きみが、ガスコンロと、土鍋を買ってきた、十二月のこれは、たぶん、はんぶん、夢。
窓ガラスの、結露。ばかみたいに泣いているときのようで、でも、ばかみたいに泣きたい日も、ある。だらだらと、ぼたぼたと、頬が、鼻が、手が、服の袖口が、びしょびしょに濡れることも、厭わずに。
ねこだけが暮らしている町があるという。にんげんだけの町より、なんだか健全だと思う。ねこはねこ、にんげんはにんげん、鳥は鳥で、生きる場所を区切られてしまったとき、きっと、本能がまさる、ねこや、鳥や、くまなどというどうぶつたちの方が、まっとうな気がするのだ。にんげんは、理性と、知恵と、自尊心と、自我なんてものが、スプーンで執拗にかき混ぜても、きれいにとけないで、おそらく、分離して、沈殿することで、ちいさな不穏を生んでゆく。融合しない。共鳴も。愛をぶつけあい、傷つけあい、信じてるよと言いながらも、ほんとうは、たいせつなひとすらも疑ってしまう。お鍋は、シンプルなのがいいねと、ぼくは、だしをとろうとして、でも、きみは、ちょっと変わったのがいいからと、市販の、お鍋のつゆを振って見せた。とんこつ醤油。〆はラーメンで、デザートはアイスクリームにしよう、いつものよりお高めのが、冷凍庫にはいっているから。カチカチと、音を立てて火が点く、ガスコンロ。土鍋の重み。にぎやかしいテレビ。野菜や、豚肉を、嬉々とした表情でお鍋に投入する、きみ。この部屋には、きみがいて、ぼくがいて、きみの孤独と、ぼくの孤独が、いま、息を潜めて、いる。邪魔をしないように、静かに。まるで、死んだふりをしているのだ。冬。
ここにいる