ごぼごぼ

「困ったなあ」
 ぽそり、と先輩が呟いた。わたしは売れ残ったスコーンを回収するのに夢中で先輩の言葉に対応しなかったが、それとは関係なく先輩はまた「困ったなあ」と、心の底から困憊したように呟くのだった。
 先輩が何度も困っている。わたしはスコーンを並べるのをやめ、未だ作業台に腰を屈めて貼り付いている先輩に訳を訊いてみることにした。先輩は腰を起こし、腰に手を当て「ホイップクリームがね」と言った。先輩の真っ青なエプロンの腰の部分に、複雑な皺が描かれた。「今日はこんなに余っちゃってねえ」
 ホイップクリームが売れない昨今である。理由は諸説ある。脂肪分の多いホイップクリームがもたらす健康被害への危機感が人々に浸透し始めているのだ、と言う社会学者もいれば、最近喉に詰まらせる高齢者が多いですからね、ホイップクリームで、という医者もいれば、今どきホイップはダサい、ホイップで喜んでいいのは五歳児まで、という若者のトレンドもある。兎にも角にも、ここ最近はホイップクリームの消費量が下がりに下がっており、つまりは、ホイップクリームの売り上げも同じように低下している。
「日に日に余る量が増えている気がするなあ」
 先輩はずり落ちてきた分厚い丸めがねを手の甲で押し上げ、ホイップ残量が増えていることを嘆いた。それは数値をとっていない、先輩個人の体感ではあったが、先輩が言うんだからそうだろう、とわたしは納得する。なぜなら先輩は、この店に来てからずっと、ホイップ担当なのだ。朝から晩までシャカシャカと泡立てているから、先輩の腕はホイップ筋が些か発達しすぎているし、お客さんに絞って渡すときも、規定の量を目分量で絞り出してやることができるのだ。その特技は本社で身につけられ、一店舗に一人しか配属されないホイッパーとして、先輩は今このキッチンに立っている。一人なので、週七で店にいる。
 そんなホイッパーが、余る量が増えている、と言うんだから、そうなのであろう。現に、先輩が長いこと屈み込んでいた作業台の上にある巨大なボウルには、真っ白くツノのたったきめ細やかなホイップが、海のように或いは砂丘のように、幻想的な風景を織りなしていた。刻は十九時。店は閉店した。残されたのは腕利きのホイッパーと、冴えないアルバイトと、この美しくも厄介者のホイップ、かっこ大量、かっことじ、である。
「まあ、食べようか」
 廃棄処分となるスコーンといっしょに、ホイップを食べた。この店はサステナブルを掲げており、廃棄を食べていい代わりに若干給与は下げている、と入社前に説明があった。平たく言えば、福利厚生のような扱いなのであろう。ホイップまみれの福利厚生である。今日は夕方に予報のない雨が降ったおかげで、スコーンが余ったから良かった。しかしその雨のせいで、ホイップも余計に残ったのだ。
 スコーンの付け合わせで食べたくらいでは、そこにある豊かなホイップはなくならなかった。虚しいものだ。わたしはかつて、ホイップに憧れて、この店で働くことを決めた。それはまだホイップ全盛期で、みんながホイップを食べ、ホイップで笑顔になり、ホイップと写真を撮っていた時代だ。そのときはホイップの海で泳ぎたいなあ、と思っていた。夢にまでみた光景が目の前にあるが、なんでそんなこと思ったんだろ、と今では自分で自分が理解できない。
 先輩は別の作業をしに、キッチンを出て行った。先輩が一生懸命泡立てたホイップを、わたしは流しに落とした。ぼと、ぼと、と落ち、流しは雪が降ったみたいに真っ白になった。これは毎度、わたしの仕事である。ホイッパーは選ばれた優秀な人材のみ掴むことのできる栄誉ある職業で、基本的になんでもこなすことができるが、ホイップを弔うことだけは、ホイッパーの自尊心的にできないらしかった。
 蛇口を捻り、水を流した。ホイップは少しずつ、雪解けみたいに流しを滑り降りていった。もう百パーセント流行らないなら、こんなに泡立てなくても良くなるのに、と思った。ホイップが流行った時代は長かったから、それで育った人はホイップがこの世から廃れていくなんて想像もできないのだろう。だから、いつまでもいつまでもたくさん作ってしまう。気づかないで、或いは気づかないふりをして。ごぼ、ごぼ、とホイップは消えていく。次々と溶け、弾け、こんなに簡単に、そして跡形もなく。

ごぼごぼ

ごぼごぼ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-12-17

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