あいのささくれ
あいが、親指のささくれから、にげてゆくので、冬は、にがてでした。駅のちかくの、大型書店の、四階、たしか、漫画専用のフロアだったと思いますが、そこには、いつも、こどものパンダがいて、そのパンダは、ときどき、三階と、四階の、階段の踊り場の、ベンチで、メロンパンをたべているパンダであることを、二階の実用書コーナーで、アルバイトをしている、きみが、おしえてくれました。こどものパンダは、たぶん、親パンダにすてられたのだと、きみはにべもなく言って、ぼくは、なんだか、想像して、かなしくなりました。話したことのない、パンダだけれど。
こいびとからもらった花を、すべて、ドライフラワーにして、てのひらでこすりつぶして、すてたとき、世界、というもののことがすこしだけ、わかった気がした。
気がしただけ、かもしれません。いまだに、わからないことは山ほどあり、否、無限にある、世界は死んでいるのではなく、生きているものなので、常に、一分、一秒のあいだに、大なり小なり変化しているし、それに、おなじにんげんだからといって、国の、えらいひとたちの気持ちや、殺人をおかしたひとのあたまのなか、おなじクラスの、となりの席のともだちのかんがえていることだって、わからないというのに。一日のほとんどを、書店の、四階の、ずらりと並んだ漫画の棚の前で、ビニール袋で包まれているために、立ち読みもできない、けれど、そこに居続ける、こどものパンダのこころのなかなんて、まったく、わからない、のに、なんとなく、わかるような感じもする。すごく、じぶんの都合のいい解釈であることは、承知しています。
想像。
イメージ。
わからないことは、わからないままでいいのかもしれないと思いながら、左手、親指のささくれに、触れます。
痛い。
あいのささくれ