雪に埋めてしまえ

 箒を持って重たい鉄の扉を開けると、薄くくすんだ曇り空と、指先を凍らせるような冷気がわたしを出迎えた。石の階段を降りて、木々の下にたっぷり積もった落ち葉を掃く。冬は、毎年来ることがちゃんと決められているのに、着々とではなく急に来る。だから落ち葉は、瓦礫が崩れるみたいに母体である木から一斉に離れ、寂しい土の上を充たすのだ。昨日までは頭上にあった赤が足元に移って、まるで天地がひっくり返ったみたい。そのまま、空に向かって落ちていけたらいいのにな。わたしは、落ち葉を掻き集めながら思った。もうすぐ、あの煌びやかで、嘘くさくて、すべてにうんざりするようなホリデー・シーズンがやってくる。
 いろいろあって、わたしの両親は家の中で別居している。普段は寮に入っているから気にすることはないけれど、ホリデーとか、学校に休暇がやってくると突然そのことを意識させられる。冬と一緒だ。急にやってきては、その厳しさを突きつけるのだ。
 帰りたくないな。わたしは自分の置かれた境遇を改めて思い出し、胸の内が暗くなった。それはもう溜息が出るほどに。帰らずに済む方法を、頭の中で探した。でもそんなものがあれば既に実行しているわけで、少なくとも今は、このことにちゃんと向き合わなければならないのだと思った。わたしが帰ると。……娘に会いたいせいだろう、なぜか別居がなかったことみたいになる。でも普段からすれ違っているふたりだから、顔を合わせるだけでひどい喧嘩になる。どうひどいか、はあまり言いたくない。もしこれが外なら、確実に警察沙汰になるようなことが家の中で起きてしまうのだ。
 あまりに心が乱れたから、わたしは夕食前に寮の隣の図書館まで足を伸ばした。わたしの寮は、夕食前までなら自由に外出してよいことになっているから、わたしはしばしばその制度を利用した。平日夕方の図書館は静かなものだった。お年寄りは午前中に来るんだろうし、絵本を探す親子連れは昼ごろが来やすいのだろう。門限の厳しい子どもたちは夕方前には帰る。この時間に利用するのは塾をサボった学生たちだけだった。なぜ塾をサボった学生たちだと判るのかというと、図書館でよく話す男の子がそう言っているからである。
「またサボったの?」
 いつもの席に座ってコートを脱ぐ。その男の子はイヤホンを取って、「やばいんだって」と言った。手元には白黒液晶の携帯ゲーム機がある。わたしはゲーム機のことはよくわからないけれど、なんとなく、あまり新しい機種ではないのだろうな、という感想を、その白黒のゲーム機に対して抱いていた。でも、彼はたいていそのゲーム機を愛用しているから、彼と一緒に居るときは、それが最新のものなのだと錯覚させられる。
 彼は、やばいんだって、の後にこう続けた。「もうすぐ俺のシーレが進化しそうなんだよ」
「この前進化しなかったっけ? またするの?」
「この前のはダリだよ」
 そんでその前はルノワール。彼は画面に視線を戻してボタンを連打した。
 彼はモンスターを戦わせて育てるゲームをしていて、そのモンスターそれぞれに画家の名前をつけていた。お気に入りはモネらしい。だから、わたしは彼のことをクロードと呼んでいた。そういえば、ダリとかいうのもこの間進化したっけな。わたしはふうんと返事をして、ポケットから文庫本を出した。わたしはいつもサリンジャーを読んでいるから、クロードからJ・Dと呼ばれていた。
 クロードはまたイヤホンを耳に戻し、シーレを育てることに熱中した。暖炉のぱちぱちという音が耳をつつく。結露で白くもやがかった窓の外が、だんだんと暗くなっていくのが見える。わたしはそれを、サリンジャーの達者な文章越しに眺めた。あーあ、わたしも、男の子だったらな。そうしたら、サリンジャーの主人公の気持ちももっとずっとよくわかっただろうし、クロードと本気でゲームできたかもしれないのに。叶えたい夢があるからって言って、来年から遠くの街で一人暮らしができたかもしれないのに。わたしはしばらく、寮と最悪な家庭を往復するのだ。まあ、まだ、寮で過ごせるだけマシなのかもしれない。でも、寮だって、女の子たちのマウントの取り合いばかりで、決して楽しい場所ではなかった。
 もうすぐ、あの煌びやかで、嘘くさくて、すべてにうんざりするようなホリデー・シーズンがやってくる。イブにはグランマも、たくさんの手料理を作ってやってくる。グランマはわたしに会うたび、お前は近所の猫の生まれ変わりだって言う。しつこく言う。わたしはグランマも、グランマの作るミートパイもきらいだった。
 すっかり陽が暮れてしまった。わたしはコートを持ち、「じゃあね」と言う。帰る前に、カーソン・マッカラーズでも借りて帰ろうかな。今夜は瞼が自然に落ちるまで、布団を被って読み耽ろう。すると、クロードは慌ててイヤホンを外し、わたしのセーターの裾を掴んだ。
「待てよ、渡すものがあるんだ」
 黒いパッカブルリュックの中に手を突っ込んで、ごそごそと何か探している。数秒が経ち、クロードはようやく目的のものを発掘した。「これ」差し出されたものは、何かのチケットだった。
「近代アート」
 美術の展覧会のチケットだった。
「行こうぜ。ホリデーの前だったら、まだこっちにいるだろ?」
 図書館を出た。太陽の熱を失った夜は、さっさと真っ暗になって、鋭い冷気を漂わせていた。でもわたしは、手をポケットには入れなかった。鞄に仕舞わなかったマッカラーズの本を、いつまでもいつまでも手に持っていた。本には、栞のように、展覧会のチケットが挟まっていた。ひとり分のチケット。でも、クロードが持っているものとお揃いの日付の、入場券。得難い幸運が、急に降ってきたみたい。知らなかったな。最悪のことは急に来るけど、嬉しいことはもっと急にやって来るんだ。
 感情が揺さぶられたわたしは、自然と泣いてしまっていた。勝手に溢れ出た涙は、頬を滑り降り、重力に従うがままに容易に落ちて、雪に吸い込まれて消えた。雪? いつの間に降ったのだろう。知らないし、考えてもわからないけれど、それは確かに足元にあって、わたしの涙を隠してくれた。

雪に埋めてしまえ

雪に埋めてしまえ

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-12-08

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