マスタリングセクション





(一)
 ラジオと妻の関係ほど,僕と新番組はONAIR上で関係がなく,会話は会って話すものだと思うから,発話主体の妻にはいつも会ってから話すのが僕らという夫婦だ。だから妻には昨日の事と今日の事を話す必要がある。そして僕は今日の妻に耳をすませなければならない。
 今日の妻は助手席に座っている。それは夫である僕が今まさに運転する我が家の自動車に今日も妻は乗車し,僕とともに出来て新しくもなく,だからと言って古くもないショッピングモールに向かっているからだ。その目的は主として日用雑貨の購入であり,従として僕の趣味の本とDVDの陳列状況と購入検討であり(必然まで高まったという共通認識が生まれたら,とても無事に購入できる。),地平線のように真横に刺さって抜くこと叶わない妻の美容液の備蓄である。誤解しないで欲しいのは,僕はこの目的の上にも下にも断面図にも不満はない。妻は年齢に見合わず若い相貌を維持して,それは僕にとって飽きることない愛情をくべる静かな発火材料になっていたし,妻のこういう行動には決して僕のことが忘れず含まれていることを,僕は十分に知っている。だから,些かの不平等が時に眉間へ約2本(僕は眉間に皺を3,4本作ることがあるので),水位が上がった不満未満のように空欄の文句を流す以外,僕は助手席に座る今日の妻と諍いをそう起こさない。それは今日の妻でなくとも一緒だったし,未来の妻との間でも同じことになると思っている。これは始まってまだ終わっていない婚姻生活上の経験則からの推測に過ぎない。けれども不穏に破れる空気は今のところ無いから,推測の一本足に出目金が乗るのを躊躇うぐらい薄いのも,しょうがないのだ。

 



(二)
  地方である私達の住む地域には主要道路が南北に長く2本延びている(それは今も延びている。)。この2本の間には余程の暇が無ければその数を数えることはない無数の道路が走っており,2本の主要道路が意図的に見落とした地域向けに,自動車や自動二輪車に向けた交通の便を確保している。今運転している我が家の自動車とともに泊まっている我が家もそういう地域の一角を占め,その恩恵に預かっている。なのでたとえその道路名の所々で,前方不注意を過失なく招く雨という雨がフロントガラスを叩く降雨量を前にしても,カラッと水捌け良さげな大きな穴が所々で欠伸をし,そのせいで雨雲がさらに記憶を曇らせているとしても,そういう道路にとても感謝している。現に私達である僕と今日の妻は,私達を乗せてショッピングモールに向けて今直走る私達の自動車で主要道路に乗る前に,そういう道路沿いのファーストフード店に立ち寄って朝食時間たっぷりにその進行を停車した。きちんと利用することでそういう道路に感謝の意を表しているのだ。私達とそういう道路の互いの意思疎通は不可能に近く,とても困難である。だから私達の感謝の意思表示が他人から見てそう見えず,また奇妙であると指す指が黙りして見える握り拳に緩く秘められていても,そこに不満はない。
 



 時刻は午前中の11時を迎えられた。流れるラジオの向こうでDJが女性の声でそう言ったのだから間違いはない。週末であるこの時間に真新しくONAIRされる番組は営業回りで聞く月曜日から金曜日のレギュラー番組とは当然異なるものの,その声で時間を進めるDJが女性である部分は全く同じであった。その声の出元の人物は正確に木曜日を担当し,綺麗に揃えられた爪に一色の無駄も無いことまで個人的に教えてくれる声色と,耳元の感触に過不足なんて要らないとばかりにとても正しく整った容姿を揃える人気の女性DJである。週末に近い曜日を担当する彼女が週末の番組を担当していることに,何かそこそこな仕掛けがありそうな気がするが,多分気のせいだ。太い木の枠数本が天に向かって真四角に組まれ,その四隅から同じく縦に太い木が立てられていれば,「これは家である。」と断言する近所のおじさんの発言とそう変わらないだろう。それは少しカッコ悪いと思い,女性DJの声に運転に支障のない程度の意識を向けハンドルを固定する。車は基本的に直線に進んで,カーブのない道で切るべきハンドルは今のとこない。
 踏むべき霜はなくても寒い日だったので,暖房で温める車内では風気口近くでぶら下がっている『幸運ダンドサンド』という聞きなれない名称の土産品が揺れていた。彼(だそうだ。何カ月か前の妻が言っていた。)は何カ月か前に妻の友人が南米かアフリカ(あるいはとにかく南半球の)旅行先から一緒に日本のごくごく私達の近所に帰って来たもので,何カ月か前の妻とその友人との間におけるたった一回の授受で我が家の一員になり(彼ももう少し日本国内を満喫したかったはずだ。),こうして安全運転の幸運を後ろ向きで,器用に呼び寄せている。
 曲のイントロを邪魔せず,かつ一切の無駄もなく曲の背景をリスナーに伝えて女性DJがタイトルを告げ,ランキングをグイグイ上がってきてある洋楽が車内に流れ始めた。1人のシンガーの弾き語り。スタンドマイクの2,3歩後ろ側には温かい情緒のスペースが確保され,喜びを軸に悲しみを背景にした音符の高低とリズムが,今から描く絵の始まりを伝えていく。何も決まってなんておらず,生まれる気持ちを見せるようにシンガーが声を育んでいるように思えてくる。これは確かに良い曲であり,またシンガーは女性だった。歌詞の所々で家族の表現が用いられているが,歌詞の主役はまだ1人のようで,生まれてくる先の未来を想っているようだった(英語は日本語ほどあまり堪能でない。)。
 今日の妻はお気に入りのストールを今は膝掛けに用いて,女性のラジオDJに対する無関心の仮面を外して聴き入っていた。細身を包む白のセーターでは膨らみと去年の妻にプレゼントしたペンダントが目立つ。ペンダントは小さいダイヤを小さく保ち,自動車の速度に合わせて過ぎ去る陽光に反射して気になった。今日の妻は珍しく黒が多めに見え(多分線が太めなのかもしれない。),赤チェックのスカートを履き,最近の妻が靴下専門店で買ったこれまた黒のレギンスに足を通して,最後には茶色のブーツを履いていた。最近の妻が切ったというロングヘアーは横から見るより真正面で向かい合った方が実感する高い鼻とのバランスを,薄い唇と二重の瞼の眼を備えた面長な顔の上で左右に揺れながらも支えていた。しかしその,どこかが変わったのだと思いはしても指摘は出来ない。毛先の秘密は枝毛よりは発見し難く,それは男性として正解率が上がらない問題なのだというのが僕の実感だった。




 盛り上がりを残してシンガーと曲が終わりの途中を思わせた時,妻は運転の邪魔になんてならないでしょ?とばかりに運転席の僕に話しかけて来た。
「この前,先月の月曜日で三日月が綺麗だったこの前に私,カズミ先輩,ほら前に教えてたペーパークラフト教室の,カズミ先輩とランチに行ったの。」
 三日月の月曜日のランチの話に少しこんがらかりを覚えつつ,僕は応答した。
「何と無く覚えてるな。一度,キディッシュを作って来てくれたボブヘアの巨乳さんかい?」
妻は応答の後半に苦笑しつつ「そうそう,そのキディッシュと来たボブヘアの巨乳さん。それがカズミ先輩なの。」と肯定してくれた。
「で?そのカズミ先輩とランチに行って?」と僕は先を促した。
「うん,その日のランチは三駅先の真っ赤なイタリア料理店に行って,まさにランチを食べたのね。メインはパスタで魚介類がふんだんだった。名前は忘れちゃったけど,美味しかった。カズミ先輩はボンゴレを選んで食べてた。カズミ先輩,辛いの好きなの。」
魚介類のパスタといえばペスカトーレがあるが,パスタの種類自体は今日の妻も気にしていないようなので「いいね。行ってみたい。」と応えて今日の妻の言葉を待った。
「カズミ先輩は育ちが良くてペーパークラフト教室の他にマナー教室でも何コマか授業を持ってて,ナイフとフォークの使い方が気になるぐらい上手なの。その機能と効果を知り尽くしてるって感じで,一度もカチャンと鳴りさせはしないし,間に入るナプキンの使い方も完璧だった。新進気鋭のシンバリストみたいに。」
シンバリストの新進気鋭ぶりに乗せて,僕はカズミ先輩のナイフとフォークの軌道を追ってみた。対面のテーブルでは道を歩いて思うより相手の作法が気になったりする。そして視覚は思うより人の心を捉えるものだ。結果として振り返っても無駄のないタイミングは他人まで気持ち良くさせるだろう。音楽的要素は心を揺さぶる。だから三日月を迎える昼の妻の心と記憶に,ここまでカズミ先輩のテーブルマナーが残るのだろう。聞いてる僕まで真向かって見たくなっているのだから。
「今度是非とも同席してみたくなるね。」という応えを間に添え,今日の妻は中心へと向かって話を続けようとしてしかし,「気持ち良いランチの前に予め選んだ食後の珈琲を飲みながら,その日何度目かの話題でカズミ先輩がした話の中で子供に関する話があったの。」と言って,そこで今日の妻は話を数秒置いた。
多分,僕の反応を見たのだろう。未だ子供を授かっていない僕らにとって将来に食い込まれたデリケートな話題だ。僕は応える。
「カズミ先輩はお子さん,いるんだっけ?いるとしたら何歳ぐらい?」
今日の妻は僕の横顔を見ながら「2人,上から女の子,それで男の子。年子で女の子は今年小学一年生。」と答えた。
「そっか。じゃあ,将来のお姉さん候補についで,お兄さん候補までいるってことか。」と僕が応えたことで今日の妻は,今日の結論を得たように視線を膝掛けに用いていたストールに落としつつ話を続けた。
「それでね,子供の話といってもストレートなものじゃなくて,ちょっと曲がってるの。」
今日の妻は変に引っかかることを言うと思いつつ,「ちょっと曲がってる?」と聞き返した。
「うん,曲がってる。どこがって言われるとね,その過程が少し縦に曲がってるの。」と今日の妻は答えた。
「話が見えないな。ここは先に君の話を聞こう。」ともう一度聞き返した所で今日の妻は一歩ずつ,という様子で言葉を口にし始めた。
「カズミ先輩は自分の話じゃないって風だったんだけど。あ,カズミ先輩ははっきりと聞いた話って勿論言ってた。ただ私がそうじゃないって思ってる。話の距離が近い感じだった。当事者のスポットライトに引っかかってる感じ。」
「羽根の付いた素敵な衣装の帽子を舞台に落として,それに気付いてないから結果として舞台袖に下がりきれてない主人公って感じ?」という応えに「そうそう,そんな感じ。話の其処此処に『らしさ』が残ってた。」と今日の妻が答えた。僕は横顔だけ頷き,さらに話を待った。
「話はね,端的には子供が夫の子じゃないかも,というものなの。」と今日の妻は言い,「要は浮気したってことね」とさらに纏めた。
「その内容だったら,確かにカズミ先輩は自身の話とはしないかもな。ただの浮気って言えない面がある。」と僕は中々の内容に興味を惹かれつつ応えた。
「そう,ただの浮気って言えない。でね,『過程が縦に曲がってる』って言ったのはそこに関係があるの。カズミ先輩が語るある知人が言うには,浮気した人数よりもコンドームなしで射精を受けた回数が多いって頭を抱えてるらしいの。」と今日の妻は興味を詰め込めて僕に言った。
 今日の妻は繰り返し奇妙なことを言う。そう思った。




(三)
今日の妻が言ったあとで,僕は取り敢えず確認できそうなことを聞いてみた。
「それは浮気相手の中に複数回の射精を受けた,ということとどう違うの?」
 今日の妻は僕の聞き返したことを聞き,同意の意を示しつつこれに答えた。
「カズミ先輩が語る人物は浮気相手の射精を一回だけしか受けない,っていう決め事をしていたみたいなの。理由は二回目の射精は意味が違っていて,それは『生活を続ける人』じゃないとダメなんだって。一回目は相手を知るのにとても適している。でも二回目は適していない。そういうことらしいの。」
 コンドームなしで一回目の射精を受けることは妊娠に繋がりうることは承知ずみだと仮定して,カズミ先輩が語る人物の感覚は共感出来そうで出来ない気持ち悪さを残した。
 それは理屈じゃないんだろう,恐らくフィーリングの延長線上の事柄で,その人物にとっては『手を繋ぐ』ということと同順位の親密さなのかもしれない。最後に受ける感触で,相手の中の何かを探っていたのかもしれない。タイミングや量や,熱さらしきものを。
 しかしそこまで想像して,その先に進みたくない煉瓦の感触を感じる。それは男性の性の部分なのかもしれない。そこまで奥には,居ないのかもしれない。
「すんなりと共感は出来ないけど,一応の共有事項としてその決め事を抱えるとして,さっきにの『受けた射精の回数が多い』ってどういうことなの?」と半ば素直に僕は応えて,女性である今日の妻の答えを待った。
「コンドームなしの,浮気相手の射精を一回限りで受けるってことは,射精を受けた回数と浮気相手の人数は歯車よりもガッチリと嵌っていないと道理に合わないでしょ?」と今日の妻は僕に同意を求めてきた。今日の妻の発言がいかがわしく頭の中で響くのは話のテーマによるのだろうなと思いつつ,「その人物がキチンと射精を受けた回数を覚えていれば。」と応えた。
「もちろん,女性は回数を覚えていたの。」とすぐさま答えを今日の妻は返す。僕はその流れを壊す前に運転する横顔で軽く応答した。
「だから,とてもおかしいの。変なの。最初彼女は子供が彼の,つまり彼女の旦那さんね,子供だって信じていたの。回数と人数の一致に,整生理の月齢期を合わせて,彼女は浮気と正当なセックスを旦那さんとしていたんだもの。十月十日にズレは見当たらなかった。受けた回数が多いことに気付くまでは。」
 整理された浮気と正当なセックスはその通り完璧に出来たなら,倫理的なものは置いといて,血縁上の問題は確かに見当たらないかもしれない。でも,
「そこで問題は起こった。」
と僕は応えた。
 今度は今日の妻が膝掛けに用いていたストールをまた直して頷きの気配をこちらに向けた。そして話を続けた。
「気付いた問題の,最も問題なのは,旅人が意思をもって振り返ってもその景色自体がより興味深いことに向かって居なくなっているぐらい後から,子供が生まれた後から回数の不一致に彼女が気付いてしまった,というところにあるの。受けた射精の回数を手に持つ彼女の手帳に,彼女しか知らない記号で記していたその彼女がその日はまだしも,回数を確認する大事な次の日にも気付かなかった。彼女はただの一度もセックスに気を抜いたりしなかった。だから夢中になることも少なくなかった。でも,日常生活の手続きの中で手抜かりを産んでしまうぐらいの夢中さを,彼女は信じられなかった。だからこそ,整序は保たれていたの。奔放さと言われそうな出会いと交わりを持ってしても,彼女は夫である彼との間に子供を置けていたの。でも,漏れはあった。しかもその漏れは一軒家の水漏れより人知れず,そしてそれだけに致命的なものになった。」
 致命的,という響きは他人事でも大きい。しかしその響きは間違ってもいない。
「彼女の乱れは細かいものとなったみたい。細かいもの,というのは決して取り乱しはしなかったということで,でも乱れがした,という意味ね。例えば玄関の施錠に2つ分きちんと手間取ったり,雑用品を一回で全て買えずに同種の別のお店に行かなければならなかった,という程度の乱れ。彼女は大きくは保とうと自分を置いていたみたい。その試みの効果で,彼女は気付いて1週過ごした次の週末には考えるスペースを確保出来た。そして畳一畳分でもそのスペースで彼女は柔い風呂敷を広げるように,次の問題を目の前に晒した。それは子供をどう考えるか,という問題だった。」
今日の妻はそこで区切って運転する僕の応えを待った。週末の新番組で女性DJはオススメランチの情報を綺麗に包装して見えないリスナーにお伝えしている。先程のシンガーはもう退場していて,その新番組でもう帰って来ることにはならないだろうと感じた。
「彼女が子供について考えることっていうのは,夫である彼に気付いた事実を話すかどうかということかい?それは離婚も見据えて?」
僕の応えた質問に彼女が首を振ったことは,信号の停車に伴って確認できた。
「それよりももっと手前のこと。彼女は子供の中にある彼女以外の要素に対して,どういう態度を取ればいいのか,ということなの。」
信号が青になり,アクセルは踏まれ我が家の自動車は進む。慣性の法則に少し抵抗して妻は言う。
「遺伝で全てを決めたいということじゃなく,その経過来歴というか生まれ処という点でその子供には確実に彼女の要素はある。けれども,その他の部分では簡単に模した家系図の,1つ上も辿ることは出来ない。彼女の隣のそこは真っ暗で,関係した複数多様の,けれども離れることなく纏められた男性が何も話せずそこに居るの。それは彼女の肩を揺する。それに彼女の髪も靡く。」
魂の生まれ処は現実のいざこざに関係なく切れはしない。だからそこは確実な足場になる。このことは産まれてきた子供にとって重要なことだけにとどまらず,子供を産むきっかけを持った者にも決して不足することなく重要なのだ。だから彼女の気持ちは知れる。男の僕でも知ることが出来る。
「分かる気がする。」と控えめな言葉に続けて「それで彼女は?」と応えた。今日の妻は話を続ける。
「暗闇は認識で物理的に手で解けやしないから。でも彼女はとても落ち着かない。そこで彼女はとにかく暗闇に見続けることにした。時には現実の部屋の,仄かな豆球まで消して。汗をよくかいたから,よく着替えた。それは寒くなってきた最近まで続けていて,着替えは夏物にまで及んだんだって。それで要約の結論を得た。彼女はルールを少し変えたの。元々それとまぐわったのだと。」
再度の停車は訪れた。それで彼女は話を進めた。
「文字でいえば『男性』から『男』を剥がして得た結論で,でも彼女の安定は図られるよね。人数に合わずに数多く受けた射精の回数もむしろ特別な意味を帯びてくる。むしろそっちが本命であったような確信まで背伸びしてくる。彼女の子供は彼女の結論として間違いなくなる。そして彼女の子供も大きくなる。」
そして今日の妻は付け加えた。
「抽象化って便利にも使えるんだね。その時そう思ったよ。」
信号は赤から青に変わった。黄色はそこで無視されていた。









 『幸運ダンドサンド』の彼が走り出した車内で激しく揺れていたので風量の真ん『中』を超えていた暖房を下方向に抑えた。しかし彼は揺れていた。何かが彼のお尻から下を強く突ついたようだった。振り子の彼を視界の隅で捉えながら,僕は気になっていた1つのことを今日の妻に確認した。
「旦那さんには結局言っていないんだね?」
「そうみたい。」と今日の妻は答えた。なのでそれからもう1つのことを今日の妻に聞いてみた。
「そもそも彼女はどんな理由で旦那さんとの正当なセックスの他に,整序な浮気を続けていたんだい?」
「うん,カズミ先輩にその点も聞いてみた。一応の返事は貰ったけど,何気無い綿菓子より曖昧で不安定なものだったんだよね。」と妻は小高く可愛い山を思わせる眉を手鏡で見ながら答えた。
「だからそこに女としての私も連れ立って敷衍すると,回るメリーゴーランドの点検作業ということに近いんだと思う。」
「点検作業?回るメリーゴーランドの?」と捉えられる言葉に分解してから,僕は女性でもある今日の妻の言葉を反復した。
「うん,回るメリーゴーランドの点検作業。子供達を乗せる楽しそうなメリーゴーランドの台の裏で,回るのを可能にする仕掛けがあるでしょ?真夜中の遊園地で技術を身につけた大人な人によって点検作業は行われると思うの。無駄のない装置を構成する要素と動きの乱れない噛み合い。発見される故障への対処。最後には蓋もするかもしれない。そんな手作業なこと。」




 今日の妻がいま話したことで僕は,二度目の想像をしてみた。僕は落ちない油汚れも吸い込んで揺るぎない真っさらな青のつなぎを下から上まで身に付けている。工具箱には整備に必要な道具に今は不要なマイナスのドライバーが入っている。場合によっては必要になる。今は必要なくてもだ。怪我がないと安心する生地が厚いブーツを履き近付いて行くメリーゴーランドは動いていない(彼らは営業時間を外れて働かない。)。立派な白馬の前に到着しても横目で遠くを見て目が合わない。それでも見えはしているだろう。馬の視界は360度だ。見落としなんてあり得ない。大事なものはメリーゴーランドにもある。それは壊れやすいものではいけない。だから裏などに隠す。例えば真下の中心に,容易く見えないように備える。硬いもので囲ったりする。雨で溶ける嘘がないように。溜息で潰れる本当がないように。
 僕が担当するメリーゴーランドは大事な装置を回転台の裏,中心ポールの側に設けている。設計図ではその装置は接近しすぎな衛星のようだ。ぶつからないのが不思議になる。しかし四隅の,それこそ先端から紙が黄ばんできた設計図を口に咥えたペンライトで照らしてもその装置への道程がはっきりと掴める。通常は回転台の上部に開閉式の作業口を設けるべきところをこのメリーゴーランドは欠くことなく備えていた。作業口にただ1つの問題があるとしたらそれは,大きな人の腕を通すには余裕なんてない狭さにある。
 平均的な身長を備えている僕は筋肉トレーニングはしていてもそれは肥満予防のためであり,その効果は無駄な皮下脂肪の離散をその集合より上回るぐらいで例えば利き腕なんてとても男らしく太いなんて表現には幅が2回りほど足りない。それでも作業口に手を入れて帰ってくるイメージは上手くいかなかった。これは子供サイズかもしれないと納得するのが早かった。設計者はどこまでも子供のことを思っていたのだろう。整備も子供がするべきだ,それがメリーゴーランドだ,という一貫した思想が僕の邪魔をしているのかもしれない。それでも大人な男性の僕は仕事を全うするために必要な工具を手にもつ。工具は作業口を通り,かつ点検作業のための機能を兼ね備えたサイズのものを選んだ。覗けなくても失くさない大事なサイズだ。これを持って僕は潜るように,作業口に慎重に入っていった。
 何処かにぶつかる感触とライトアップする設計図を照らし合わせて,作業口下の現在位置を予測する。点検ポイントにはもう少しで辿り着ける。そう思うより前に,僕の手はイレギュラーを伝えた。それは柔らかいのだ。安眠をもたらすジェルタイプの枕よりは固く,温かさ伝える人の子供の肉感のように。
 そこにあるべきは機械であるべきだ,と頭で判断する僕は混乱した。そこにあるものは工具に目立った反応はしていない。ただそこに居るだけだ。ただそこで生きるだけだ。工具の先端はその脇を擦り抜けているが,工具の幹を掴む僕の利き手は確かにそこに触れている。意図せずそこに触れているのだ。そのまま通り過ぎてもいいものか。何をされるか予測できない恐怖より,それが気になって動けなかった。何をすべきか分からない。何が必要か,知ることができない。しかし温かいのだ。僕はとにかく気になってしょうがない。僕は気にして仕方ない。
 肌と肌でするコミュニケートは情報が不足して一方的になりがちだと,いつかの妻が言ったことばがある。それはことを終えて言われた訳ではなかったが,数少なく嫌に響いた妻のことばだ。責めない攻めのようで,しかしやはり責めてはいない。その半端さが落ち着きを奪う。しかし今の奇妙な状況ではそれはまた違って聞こえた。何も知らない初めて生きる子に初めて触るときは,伝えたい気持ちを込めるべきだと思っていた。それは温かく,肯定的な気持ちであるべきだとも考えていた(否定的で冷たいものは後から嫌でも知れる。)。情操教育としては良いのかも知れない。でもその前があったのだ。始まりがあったのだ。
 僕の利き腕についていて,今は工具を握っている指を少し動かしてその肉感に触った。驚いた,というようにその感触が離れる。しかし暫くしてからまた感触が伝わってきた。触れていれば分かる『そことここ』があった。分かってからも触れている『そことここ』に居た。次に離れるタイミングは暫く来なかった。メリーゴーランドの周囲には雨という雨が降り始めた。曇りはあったようだ。点検作業の深夜には分かりにくい。
 止まると意外と寒気がすんなりと拡がるメリーゴーランドの内部は,雨降る冬の深夜に付き合って冷えていく。つなぎは破れにくさを備えていても防寒には疎い。僕の体は冷えていき,小刻みに震える。しかし代わりに接触点は際立つ。温かさは朧げに伝える。作業口の気温は気のせいを駆け上がる。それでも何かは立ち上がる。雨は何千何万と降り続ける。上から下へと降り続ける。叩きつける音で音がなくなる。深く暗くもなる。ペンライトは明るくなる。
 雷は近くに強く落ちて驚いた。それで何かも何処かに消えた。








 起きると吊られた,『幸運ダンドサンド』が僕を見ていた。彼の目は両目とも左下方を見ていたのだと,可能性を残さず倒れたシートに眠る上部を見上げて理解した。僕は我が家の車内で眠っていた。我が家の車はショッピングモールの駐車場,Cブロックに止まっていた。
 カズミ先輩の話は僕らを乗せて向かうショッピングモールへの長い道のりを,気持ちの上で短くショートカットして運んで行った。着いたショッピングモールで主たる目的であった日用雑貨の購入を妻と済まし,僕は趣味の従たる本とDVDの陳列状況と購入検討をも済まし(必然まで高まったという共通認識は僕の方から生まれなかった。),妻が美容液の備蓄に向かうところで僕は仮眠を取りに我が家の車の運転席を倒していた。その後が思い出せず,こうして目を開けたから仮眠は取れたのだろう。僕の体温分だけ車内は温まり,あとは外の寒さで冷えていた。アイドリングを悪いと思いつつ,セルを回してエンジンをかける。暖房はそうしてかかり,『幸運ダンドサンド』がまた揺れていた。エンジン音は外から聞こえて,走らない車内は静かだった。夢はよく覚えていた。利き手は僕の腕だった。
 妻にメールをすれば化粧品はもう購入して,エスカレーターでもう駐車場の階下に着くという。だから車のエンジンは切らずに,着いた時に切ったラジオのスイッチを入れた。新番組は終わりを迎えていた。男性のDJは快活に笑っていた。




 帰りの車内では惣菜コーナーで買ったキディッシュを片手で頬張りつつ,僕は妻に話し掛けた。
「さっきの話の続きなんだけどさ,カズミ先輩はどうやって帰ったんだい?」
僕の質問にすんなりと納得せずに,妻は逆に軽い質問を返してきた。
「そんなこと聞く理由は?」
言われて確かに僕も思った。しかし,一応の理由は思い当たった。
「いや,濃い内容の話はきちんと終わりを聞くのがスッキリすると思ったんだ。鍋物の最後を迎えるおじやと一緒だよ。君の話だとそれは,ランチ終わりの別れ際になると思う。」
妻はもぐもぐと噛んでいたクリームパンをさらに咀嚼し,飲み込んでから『まあ,納得ね。』とばかりに答えてくれた。
「三駅先の,その駅の前で別れたんだけど,旦那さんが車で迎えに来てた。カズミ先輩は明るい笑顔でマタネとサヨナラを暮れたわ。」
そう言ってから,「あの笑顔を思い出すと,やっぱり私の想像はやっぱり想像かも。」と言ってクリームパンの続きを再び食べ始めた。
 『マタネとサヨナラ』を言って笑顔で別れたカズミ先輩の真実は僕には分からない。しかし,妻の話は色々と閉まったのだろう。あとは僕らの事だけだ。
「僕,ビスコ好きだろ?」
妻はそれを聞きつつクリームパンをまた頬張った。その小さな口内を咀嚼することに大きく割きながら,「うん,そうね。買い過ぎだと思うぐらい,あなたビスコを熱心に食べてるわね。」と言った。
「この前さ,駅前のスーパーでいつものようにビスコを1ダース分だけ買ったんだけど,レジ打ちの叔母ちゃんが見かけない新人さんで,だから最近引っ越してきた人だと思うんだけど,僕がビスコだけ買うもんだから『あら,僕ちゃんに頼まれたの?』って言われたんだ。」
ここで妻はクリームパンを食べ終えて,僕の話の続きを待っているようだった。
「否定すると僕の甘党がビスコで変に際立って取られるし,子供が居るか居ないかまで不必要に言わなきゃいけなくなるのが嫌になったんだ。アパレルショップの男性店員が言うお世辞みたいに。あまり笑えない冗談のように。」
妻は300mlのミネラルウォーターを飲んで喉元をスッキリさせて『それで?』とばかりにこちらに視線を向けた。
「だから僕はもう『そうなんです。コレが好きなんです。』と言って店外に出たんだ。空気が冷えていたけどそこから始まる商店街は活気に満ちていたよ。その日が何曜日でどういう月が出ていたかは覚えてないけど。」
僕の言いたいことはとりあえず終わったので,上手く停車し妻を見た。
 今日の妻はお気に入りのストールを今は膝掛けに用いて,女性のラジオDJに対する無関心の仮面を外して聴き入っていたし,細身を包む白のセーターでは膨らみと去年の妻にプレゼントしたペンダントが今も目立っている。ペンダントは小さいダイヤを小さく保ち,自動車の速度に合わせて過ぎ去る陽光に反射して気にもなった。
 今日の妻は珍しく黒が多めに見え(多分線が太めなのかもしれない。),赤チェックのスカートを履き,最近の妻が靴下専門店で買ったこれまた黒のレギンスに足を通して,最後には茶色のブーツを履いていた。最近の妻が切ったというロングヘアーは横から見るより真正面で向かい合った方が実感する高い鼻とのバランスを,薄い唇と二重の瞼の眼を備えた面長な顔の上で左右に揺れながらも支えていた。
 どこかが変わったのだと思いはしても指摘は出来ない。だから僕は今日中にそのことを聞いてみようと思う。それは男性として正解率が上がらない,そういう問題なのだとしても。





 
 今日のドライブの主たる目的であって既に購入した日用雑貨を我が家の車内から妻と取り出し,妻が購入した美容液の分だけ僕が多くを持ち,車の施錠を完璧にして(ボンネットも閉めて),僕らは我が家への玄関を通じる階段に向かった。僕らに主要道路への便宜を図ってくれる目の前のそういう道路を,ヘッドライトで車種が区別できず,大きさは知れた小型車が走り去る。スピードはまあまあだった。けれども法定速度は守られていないかもと感じた。
 振り向く第一歩で僕は誰かが捨てて乾いていない,道端のブルーベリーガムを踏んでいた。黒い革靴の裏地にアメーバみたいにくっついていたのだ。それは後から知ったものの,その時は分からなかった。僕は道端のブルーベリーガムと妻と一緒に階段を一歩ずつ登って行った。
 それは三日月の月曜日を明日に迎える,日曜日のことであった。

マスタリングセクション

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  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-19

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著作権法内での利用のみを許可します。

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