深夜のファミレスにある愛
きれいだ、と思ったとき、こわれたものは、たくさんあった。
きみは、どうして、にんげんをやめたのだと云った瞬間、踏切の警報機が、劈くように鳴り響き、いまは海底にある街のことを、思い出していた。ねむるのには適していない、きみの、北極みたいに冷たい部屋には、おかあさんののこしたやさしさだけが、ちいさな粒子となって漂っている。ねぇ、なにも、おわっていないのに、すべてがおわったかのように、すてられたもののことを、わすれないでいてね。気づけば、公園の近くにある花屋の、あの、雪のなかでうまれたのかと思うくらい白い、あのひとのはだに、深紅の花が咲き乱れて、いまはなきたばこ屋のまえで雨宿りばかりをしている、ペンギンのこどもが、ひどくさびしそうにしていたのを、ぼくは、たぶん、一生、おぼえている。
すりつけられたのは、あい。
胎児の頃には、もう、ぼくらは、あいをしっていたのだと、きみはすこしばかり、うれしそうにいう。
深夜のファミレスでは、パンケーキをたべるのが常であった、むかし好きだったひとが、いまだに、ぼくのなかで息づいていて、まるで、わすれることをゆるさないかのように、ふいに、ひょい、と現れる。にんげんだった、きみは、深夜でも、早朝でも、ファミレスではきまって、マルゲリータピザを注文して、そして、タバスコを、ぜったいに三滴、ふりかける。吸っているたばこの銘柄が、むかし好きだったひととかぶっていて、ぼくとしては、すこし、しゃくだったりする。
ぼくらは、夜が明けるまで、ファミレスにいる。
ねむれないだれかの、あいが、そこにある気がしているから。
深夜のファミレスにある愛