波間で揺れる

 海は、やさしいのだ。
 ぼくのことを、そっと抱きしめる、海、という存在が、もし、なくなってしまったらと思うと、かなしい、という感情だけでは、きっと、かたづけられない。珊瑚色のブランケットで、冬の海も、寒くはなかった。
 海岸線にぽつんと建つ、海の家の延長みたいな、ちいさな小屋のラーメン屋さんで、きみが、はやく醒めろよと、しおラーメンをすすりながら、きびしい口調で言う。きみも、海に負けず劣らず、やさしかった。海とちがうところは、きみには肉があった。肉の感触は、海のそれとは明らかに異なることを、ぼくは感じていたし、それに体温も、きみはほぼ一定なのだった。海は、時間や、季節で、つめたかったり、ぬるかったりするのだ。おだやかな心音も、きみの胸からは聴こえた。海の鼓動は、ときどき、雑音がまじり、海、だけではない、海に属するすべての生命体の、生きている音が、わかった。
 ぼくは、餃子を食べながら、ごめんね、と言った。
 あやまるな、ばか。そう答えて、きみは、どんぶりをかたむけて、スープをごくごく飲んだ。
 からだを重ね合う、という点では、海も、きみも、そこはかとなく深く、沈んでゆくようで、こころをかよわせる、という部分では、海も、きみも、泣きたいくらいのやさしさにあふれていたので、ぼくは、なににおいても受け身で、ぼくから彼らに、なにかをあたえられているのだろうかと、不安になる夜もあった。
 ラーメン屋さんのおじさんが、テレビを観ている。プロ野球中継。ぼくと、きみ以外、お客さんはいなかった。めまぐるしい実況も、歓声も、ぼくの耳には届かなかった。
 波の音と、きみの咀嚼音だけが、ぼくの聴覚に、ふれる。

波間で揺れる

波間で揺れる

  • 小説
  • 掌編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-11-03

CC BY-NC-ND
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