水の永遠

薬師丸の名を姓とする家に阿倶利は生まれた。この家の繁栄には特殊な事情がある。海門神薬として神人が販売する薬。その製薬技術が薬師丸に富を運んだ。だが、薬師丸家の繁栄の真実は海門神薬のはない。その秘は世間から厳重に隔離されていた薬師丸家に秘伝するある薬の知識に由来する。ある日、阿倶利は当主である祖母の飼い猫の案内で、わずかな隙間から秘密の蔵の中に偶然入り込む。そこに置かれた桶の中、光が揺れる中には…。

第一章 阿倶利 一

  十三夜の月の下を、白拍子たちが行く。
 白拍子とは、男装をすることで、階層社会の境を超える遊女を言う。
 権門の遊宴に招かれるには、身分を超越していなければならない。寺社の催事を勤めるには、この世の穢れを離れていなければならない。それが現し身の女体を否定する、男装の理由だった。
 別な理由は他にもある。何よりもきりりとした立烏帽子は、男姿の粋さ、女の頚の細さを美しく際立せた。そして水干の清浄な白さと、長袴の緋色の鮮やかな対比は、神仕えの巫女と同じ聖なる配色を示す。男たちの眼にはそこに大きな文字で、神秘と書いてあるようにも見えた。
 白拍子の価値は、その異装にあった。その女たちが、月の深夜、海州の田舎道を歩いていた。
 十三夜。虫の音には、過ぎ行く秋の寂寥が濃い。忍び寄る寒さの気配は、海門院内の荘に季節の終りを告げていた。
 苅田に残る藁は、月を浴び、死人の髪のように乱れ散る。道は細くうねり、秘かな水音に沿い森の奥へと続いた。
 男装の遊女。それが今宵は白鞘巻の太刀を帯びず、烏帽子を被らない。巫女に似た、緋色の長袴も捨てていた。ただ真白い麻の浄衣を纏い、市女笠には同じく虫の垂れ布を長く降ろす。その形は穢れを去った、神参りの姿に紛れもない。
 だが、鮎落川の流れの岸を行く白い影の連なりは、神の清浄よりは、白狐の行列を見るように妖しい。
 しっとりと夜露に湿る草に身を伏せ、阿倶利は、川向うを過ぎる遊女の列を見ていた。引き結んだ口元が、小娘の身内に秘めた緊張を示す。
 十四才。阿倶利の目には、余りにも妖しい白拍子女たちの行列だった。
 女たちは下流から来た。海州亀津。鮎落川が広川に合流する河口中洲の宿場を、亀津千軒と世間は呼ぶ。ひと棹下れば臥龍の瀬戸。油浦の泊はそこに口を開けた。
 海門神人の荘湊、油浦は荏胡麻油の廻船の要としてその名を知られる。亀津千軒とは、その油浦を背にした繁栄を言う。千軒の喧噪と酒の香にまみれ、船路の遊女たちが暮していた。
 白拍子たちはそこから来た。繁華な都市の徒花が、およそ白拍子には縁もなさそうな山間の村を、夜更けに訪れていた。
 阿倶利の視線は、女たちに魅き付けられていた。顫える虫の声が、まるで耳の中で、自分の鼓動を鳴くようだった。
 鮎落川の黒々とした蛇行に沿って、女たちが行く。いつもは見慣れた水守の鎮守欅が、今夜だけは異様に巨大な闇を作る。黒馬の胴よりも太い枝が、目をそらす僅かな間に動く気がした。
 阿倶利には確かに、欅の巨木が魔物めいた呼吸をして感じられた。木が魔物の息吹をする度に、その懐の闇から白い姿を産み出す。しんとして静かな光景は、美しい儀式のように流れていた。
 鎮守欅の作る闇から現われたその時に、人影は白い光りをぼうっと放つ。姿はきまって二つ。妊婦の腹のように、不吉に膨らんだ月の下で、闇は白い人影を産み出していた。
 白拍子たちは、湿った土手道を行く。跡切れそうな間合いを保ちながら、二人並びの行列は淡く揺れていた。
 阿倶利は、この夜のことを知って、鮎落川に待ち受けていた。白拍子たちがどこへ向かうのか、それも承知していた。ただ、祖母の許しだけがなかった。
 許可の無い行動。阿倶利にとっても、この院内の荘の誰にとっても、それは恐ろしい罰を意味した。
 薬師丸の名を姓とする家に、阿倶利は生れた。家の当主には、今は祖母が就く。時の流れに研がれたように柔和な笑みをし、誰からも刀自の尼と仰がれ、慕われてもいる阿倶利の祖母。
 だが一年に一度だけ、阿倶利には恐ろしい存在となる。その夜が今宵。他出は固く禁じられ、決して許されることはなかった。破れば、それは反逆を意味した。

第一章 阿倶利 二

  今は遠い昔のことのように思える。始まりは、薬種蔵に仕組まれた隠し部屋。阿倶利がその隙間を見付けたのは、祖母の飼う猫の案内による。
 貴重な薬種を蔵に抱えていれば、鼠は何よりも憎い。食害もさることながら、鼠穴からの湿気が侮れない。厳重な蔵でも、僅かな穴から外の火を吸い込む。つまりは代々のお猫さまが、薬師丸家の蔵のお守りを勤めた。
 その猫が、幼児だけが潜り込める僅かな隙間に消えた。偶然に似た出来事が、阿倶利の運命を分けた。
 その時のことを思い出すと、阿倶利は今でも不思議な気がした。
 闇の中で、そこだけに淡い光りがあった。薄緑の水の反射に似た揺らめきが、漆黒の闇に波紋を広げる。それはこの世でまだ、阿倶利の出会ったことのない、不思議な色で揺れていた。
 息をするのを忘れていたのだ、と阿倶利は思う。不意に胸が苦しくなった。自分がどこにいるのかが、分からなかった。
ーこれは、なに・・?
 僅かな蓋の隙間を、阿倶利は夢の中で押し広げた気がする。子供にはとうてい不可能な程に、それは重かった。
 水の中で光りが揺れていた。阿倶利はそう記憶する。そしてその薄緑の光りを放つ水の中に、見慣れぬ男の貌が存った。
ーだれ・・?
 蓴菜が柔らかなぬめりに身を包むように、男は水に埋もれていた。
 阿倶利は男の額の緋色の痣を見た。それは緋い入れ墨のように、くっきりと斧の形を浮き出させる。
 なぜか忌まわしい烙印を想った。緋色の不吉な印象が、眸に焼き付いて離れなかった。ー人形?
 貌の輪郭が、人のものとは違う気がした。人よりは物語の中で聞く鬼を、阿倶利は連想した。幽鬼のように窪んだ眼窩に、水の翳が揺れる。彫りの深い異様な風貌が、阿倶利の胸に冷たく沁みた。
 幾つもの疑問が一斉に湧き上った。だが誰に問えば良いのか。
 どれほどの時間、男の貌を見詰めていたのか。ふと、阿倶利は闇の中で気配を感じた。「・・だれ?」
 声に出して言ってから、急に恐ろしくなった。どうして自分はこんな所にいるのか。
「だれ!」
 精一杯に叫んでいた。それでも、それが猫だと分かるまで、そう時はかからなかった。暗闇で猫が小さく鳴いた。
 阿倶利は息をついて視線を戻す。その時、男がゆっくりと瞼を開いた。
 その眸が何を映していたのか、阿倶利には分からない。何も見ていなかったのかもしれない。だが、阿倶利はその時自分の中に、運命が流れ込むのを確かに感じた。
ーあなたは、誰・・?
 人が水の中で生きている。その眸を上げて自分を、遥かに見詰めていた。
 そうだった。男の視線は阿倶利を超えて、遥かな時の彼方を見ていた。

第一章 阿倶利 三

  薬師丸とは、そのまま土地の名でもある。海州海門神社の院内領に、在地の権力を継ぐ地生えの旧家として、薬師丸の家は代々続いてきた。
 さらにこの家の繁栄には、特殊な事情が有る。海門神薬として神人が販売する薬。その製薬技術が、薬師丸に富を運んだ。
 当然そこには富を運ぶ仕組が介在する。
 寺社に灯明は欠かせなかった。燃やす油の原料は、荏胡麻を主とする。その荏胡麻の買い付けの利権を独占して、海門神社の油座は繁栄をする。
 独占を許す根拠は、法王府の蔵する神官符にあった。古代の神約を記載する図書寮の神官符が、海門神社に奉仕する油座神人を保護していた。
 神人たちは本所から、各地へ買い付けのために発向する。組まれた旅団の一単位は、そのまま神社の若宮を各地に成立させた。そこが再び散在神人の本拠と成る。組織はそうして繁殖した。
 拠点と流通網の上を、人と物と銭とが通過する。薬師丸の製した薬も、同様にして運ばれた。海門神薬が神人の背に乗れば、黙っていても各地へ広まる。それが薬師丸に富を集めるのだと世人は言う。
 だが薬師丸家の繁栄の真実は、海門神薬にはない。その秘は世間からは厳重に隔離されていた。それは薬師丸家が秘伝する、或る薬の知識に由来する。
 例えばごく僅かな者だけが知り得る知識。そこはすでに、特権の世界に所属した。薬師丸家の秘とは、権力と深く結び付く。
 高位を欲する者は位階に渇き、富貴を欲する者は銭に渇く。位階と富とを握り、権勢を手に入れた者が、次に必ず欲するもの。それは常に、長寿の秘法に帰着する。
 不老長生は当然、誰もが希う。だがその想いを最も強く抱く者とは、最も権力を願う者でもある。そして権勢を誇る者はいつも、栄えの永からんことを祈った。
 名は不老霊亀丸。薬師丸の秘薬は、常用すれば必ず寿命を延ばすとされた。
 評判は偽りではない。ほんの僅かではあるが、事実は存在した。莫大な金を費やして購入し、服用し続けた者たちの中には、確かに長命な者が現われた。
 薬師丸の家では、薄い効果は誰にでも及ぶとした。その上で、はっきりとした長寿を得る者は、百人に与えてようやく七人。そう明言をする。それでも、人は頼った。
 不老霊亀丸。別名を七星丸と呼ぶ霊薬を望む者は、常に跡を絶たない。その需要の事実こそ、地上に権勢を誇る者たちが向き合う闇を証明していた。
 秘薬の存在は、本所である海門神社の大宮司、別当にも隠されていた。販売は直接、薬師丸の家が行なう。その不老霊亀丸を運ぶ者こそが、阿倶利の目の前を過ぎる白拍子女たちだった。
 薬師丸の家では、不老霊亀丸に潜む秘の第一を原料としていた。購入者は白拍子の口から、まずそう聞かされる。
 薬草土の堆積した、湿った地下にだけ棲むと言う土亀。典薬の頭も知らない生き物が、霊亀丸の源と。それが薬師丸の蔵には、ひっそりと積まれている。
 秘薬を製するには、やはり秘された製法が存在する。門外不出の秘伝は、薬師丸家の血筋のみが相承した。
 調薬日には、家内は下人の端から家宰まで暇を出された。はるばる亀津にまで下り、年に一度の大骨休めと派手な遊宴が張られた。そしてその日は、家の当主は薬種蔵に篭り、薬師丸を守る警固衆さえも近寄せない。番太が触れ歩き、院内の荘では夜間の行動は全く禁じられる。それが秋の十三夜。
 阿倶利が祖母を恐ろしいと思うのは、幼い日の、その時の出来事が原因している。
 薬種蔵に隠し部屋を見付けたことを、阿倶利は誰にも告げなかった。甘い毒をひとり舐めるように、秘かに日毎通った。
 最初の時のように、男が眸を開くことはもうなかった。身動きもしない。それでも、水の中に生きる不思議な男への興味は、決して薄れなかった。
 阿倶利には水の中の男が、生きていると分かる。どれほど死んだように見えても、男の持つ魂の深さが、闇のように胸に刺さる。臓腑を蝕む病のように、昏い痛みの味をいつしか覚えた。もし他人が見れば、阿倶利は妖魔に魅惑されたとしか思えない。
 阿倶利の姿が、家のどこにも見えない時が増えた。そのことに、誰も不審を抱かない。薬師丸家を継ぐ筈の娘は、家の秘伝をも受け継がなければならない。余人の触れることの叶わない、不思議の衣を阿倶利はすでに纏わされていた。
 そして、阿倶利は霊亀丸の調薬日に出会った。その日こそは薬種蔵の、隠し扉の錠の開く日だった。

第一章 阿倶利 四

 物音がした時。阿倶利はいつものように、長櫃の木蓋をやっと、押し開けたところだった。薄緑の水の光りが、仄かに揺れるだけの闇の中に、橙色の燭の明りが一筋走った。
 どうして自分が隠れたのか、阿倶利はその時の心持ちが思い出せない。その弱々しい明りが、身を焼き尽くす焔のように熱く感じられた。逃れるように、阿倶利は闇の濃い隅に這い込む。
ー婆さま・・。
 祖母だった。いつに似げない厳しい皺が、祖母の眉間に刻まれていた。その深い皺がまるで肉を裂いた傷のように、燭の火に揺らいでいた。黒い血が溢れ、いまにも骨が傷口から飛び出しそうにも見える。
 一度も見たことのない、祖母の異様な気配は、阿倶利を凍り付かせた。恐ろしかった。闇を固めたように、体が動かなかった。目を閉じることさえが出来ない。
ー本当に、あれが、婆さま・・。
 違う。そう叫びたかった。阿倶利にはどうしても違う人に見えた。だが紛れもなくそれは、家刀自の祖母。
 燭が置かれ、漆の黒い光沢を映す桶が、阿倶利の大事な長櫃の上に置かれた。
 阿倶利は思わず息を呑んだ。長櫃の蓋は、阿倶利が押し開けたそのままだった。
ーわかって、しまう・・。
 なぜ、隠したいと思ったのか。祖母が蔵の中身を知らない訳もなく、阿倶利には自分の心持ちが分からない。
 櫃に眠る男の貌を見るために、蔵へ忍び込んだ。そのことを、阿倶利は誰にも知られたくなかった。いつの間にか、唇を強く噛んでいた。
 祖母は櫃の蓋の動いていたことを、どうしてか気付いていない。動作に僅かの淀みも見せず、蓋を横に移動させた。ちょうど、寝棺の蓋を動かし、死んだ人の顔を覗くように。 その時に浮かんだ祖母の表情に、阿倶利ははっきりと嫉妬した。
 甘い、童女のようにあどけない笑みが、祖母の顔に広がって行く。先程までのあの、恐ろしくも険しい顔とは違う。それはまるで、恋を知り初めた少女のものと、そう言っても良かった。
 阿倶利は、直感した。自分の気持は、この祖母の抱くものと同じだ、と。
ー婆さまが、どうして・・。
 その時。
「阿倶利や」
 いきなり祖母が、そう呼んだ。
「はい・・」
 思わず応えていた。それほど自然に、祖母は阿倶利の名を呼んでいた。
「出ておいで」
 そこにいたと初めから知っているように、皺に埋もれた両眼の黒い光りが、阿倶利の潜む場所をじっと見た。
 水が揺れる薄緑の光りと、燭の赤い焔の色とが、祖母の横顔に斑を作っていた。
 顫える膝で、阿倶利は立ち上がる。
「ここへ、おいで」
 傀儡の杖頭操りのように、阿倶利は手招きに引き寄せられた。
「そう、そう」
 祖母は何度も、陰影を揺らせ、頷く。笑みを湛えるその口が、今にも、かっと血の色で開きそうだった。
「見たね」
 囁くように問う声に、阿倶利はつかえながら頷いた。
「・・はい」
 だがまっすぐに上げた眸は、祖母に挑むように直視する。
「ほう・・、良い目付きだこと」
 老女のどこに、そんな力が潜んでいるというのか。阿倶利の体が、激しい平手打ちに土蔵の壁まで吹っ飛んだ。
 その時の鼻の奥の鉄臭さを、阿倶利は永く記憶した。よくも幼い子を、あれほどに殴れるものだと。
「お前は、この家を継ぐのだよ」
 二の腕を掴んだ祖母の指が、鬼女の爪のように食い込む。
「何もかも、ね」
 耳元で風が鳴った。ふわりと浮いた体の、目の前に長櫃が黒く押し寄せた。
 痛みよりは、熱いと思った。叫んだ筈の胸の息が、永遠にどこかへ失われてしまった気がする。その時阿倶利の揺れる視界の中に、水の光りがあった。男の貌が、水の中で奇妙に歪んでいた。
「泣くのじゃないよ、娘や」
 なぜ祖母は、孫を娘と呼ぶのか。
 漆塗りの手桶が、慎重に櫃の中に差し入れられる。
「見ておおき」
 光りを湛えた水が、蒔絵漆の貝模様に反射していた。そして、老女の横顔も。
「これより多くては、いけない」
 その美しい手桶に一杯を、祖母は汲む。抜き上げた桶の縁から、ゆっくりと光りが滴り落ちる。それを、気長に待ち続けていた。
「決して、多くてはいけない」
 阿倶利よりも、自分に言い聞かせるようにして再び言い、水の滴りを見詰めていた。
 漆の表面を、最後の一滴が滑る。その滴りを待って、祖母は桶に顔を近付けた。
「そう、これだけ」
 いきなり舌を出すと、漆に残った湿りを探るように、桶を舐め始めた。
 手桶を奇麗に回して、一周。この世にまたとない美味を、舐め取るかのようだった。
「一年で、この手桶に一杯。それ以上では、この男は、永遠に眠りから覚めない」
 阿倶利は、祖母を睨んだ。その眸に、祖母は今度は、にっこりと笑いかけた。
「そうだ。これは、いつか必ず目を覚ますのだもの」
 初めて、阿倶利の知りたいことに触れた。「そうとも」
 あの、恐ろしい気配を振り撒いた人とも思えない、いつも通りの穏やかな笑みだった。体中の痛みさえが、夢の記憶のように遠かった。
「教えて欲しいのかい」
 ゆっくりと、皺だらけの笑みが近付いて来る。目の前にまで来て、そこで止まる。その皺の数々が、生きてきた年月を刻むとしたなら、一体どれほどの歳月を越えてきたのか。「知識を得るならば、それだけ背負う荷物も増えるのだよ」
 阿倶利の眸に直接問い掛ける。
「それでも知りたければ、教えよう」
 無意識とは思わない。だが阿倶利は自然に頷いていた。
「宜しい」
 祖母の中から、不意に何かが去ったように思えた。敵意に似た、焦付く熱の波長が引いて行く。
「お座り」
 阿倶利がいつも腰を降ろす、虫除けの香木を指す。
「そこがお前の場所だ。それに、これからは無理に隙間を潜らなくても良い。お前の体はもうすぐ、あんな小さな場所は通れなくなるからね」
 祖母は、何もかも知っているように、当り前に言っていた。
「さて、覚悟は出来たかね。娘や」
 二度、祖母は阿倶利のことを娘と呼んだ。

第一章 阿倶利 五

ーあの日から、何年が過ぎたのか・・。
 最後の白拍子を見送りながら、阿倶利は寒さに顫えていた。祖母は相変わらず、あの時の年齢のままに見えた。変わったのは、自分だけのような気がする。
ーけっして、許さない。
 不意に怒りが湧き上った。或いは、嫉妬かもしれない。あの蔵の中で、初めて直感したように。
「阿倶利」
 呼び声は、いきなり降り注ぐ。背中から刃を浴びたように、阿倶利は叫びかけていた。強張った頬を、引き剥すようにゆっくりと振り向かせる。
「用意は出来たよ」
 背後に立つ気配を感じない程に、怒りが熱かったのではない。乳人子の体技が、阿倶利よりは数段上だった。
「久米か」
 父と母のない阿倶利は、久米の母の乳房を吸って育った。二人はその意味では、兄弟でもある。
「小黒丸は」
 闇に刃を閃かせたように、阿倶利の問いは短かかった。小黒丸とは、薬師丸の警固衆の武者の一人。警固衆を崩さなければ、薬師丸で大事は行なえなかった。
「そろそろ、だと思う」
 鋭く問う阿倶利に対し、久米の応えはいかにも間延びしている。それがどうにも頼りない風のようで、阿倶利は舌打ちをした。
 久米はそれでも、どこかぼんやりと立っている。
「多分もう、屋敷を囲んでいる筈だ」
 久米は阿倶利の気配に構わない。黒い樹林の中でただ一本、骨のように白く光る枯木を見ていた。南に低く蹲る稜線の、その黒い闇の向こうに薬師丸がある。
「わかった」
 阿倶利は草を落し、ざっと立った。もうそこに潜む必要はない。あとは、一気にやるだけだった。そのために、この時まで待ったのだから。
「良い、誰も殺してはいけないからね」
「大丈夫だよ」
 本当に分かっているか、と問いたくなるほど、あっさりと久米は頷く。
 じっと睨んだが、久米のほうは居心地が悪そうに横を向いていた。
「行こう」
 その言葉で、全てを思い切った。この時から、自分は薬師丸の阿倶利ではない。
 背筋に顫えが走った。自分の中の獣のような部分が、解き放たれた気がする。
 叫びたかった。だが、叫ぶ代りに阿倶利は走った。風が冷たい。月が銀色に流れる。
 熱い血が、体の中で沸騰して来るのが心地よかった。
「婆さまは、さぞかし怒るだろうな」
 風が呟くように、久米の声が耳元でする。全力で走る阿倶利の横に、久米の気配は全くない。たとえ目の前を過ぎたとして、月夜の下ではただ、阿倶利の影が揺れるとしか見えなかった。
「あれは、婆ではない」
「また、阿倶利が悪態を言う」
「本当だ。あれは・・」
 言いかけて、阿倶利は言葉を止めた。
ーあれは、誰なのか・・。
 祖母ではなかった。無論、母でもない。
 或いは母と云うのならば、女たち全ての母だった。あの時確かに、自らが蔵の中でそう言った。

第一章 阿倶利 六

  「お前は、八百比丘尼の名を知っておるな」 人魚の肉を食べて、八百年を生きたと伝える尼のこと。阿倶利は頷いた。
「私の齢は、幾つだと思う」
 恐ろしい問いだと思った。同時にその答えが、母と父とをこの世から消した。阿倶利は突然理解した。祖母の隠した真実が、その問いからは透けて見えていた。
「この男を初めて見た時、それはただの小さな肉のかけらだった。本当に小さな、ね」
 多分、そうだったのだろう。
「お前と同じような、子供の頃だったよ」
 薬師丸の家が、別な名で呼ばれていた頃だと言う。同時に、貧困の底を這っていた頃でもあった。
「この、長櫃だけが残っていた」
 櫃の中には、何もなかった。ただ、うっすらと湿りが広がる。家伝の秘薬の種は、全てを使い果たしていた。それから、永い没落の歳月が続いていた。
「或る日、櫃に水が僅か溜っておった」
 その水が仄かに光ることを見付け、子供は喜んだ。誰にも秘密にして、毎日飽きずに覗いていた。
「お前と同じようにな」
 やがて、水は少しづつ嵩を増した。ほんの少しづつ。一年かかって漸く、小ぶりの桶に一杯程度の増え方だったが。
「それから、小さな肉のかけらのようなものが、水の中に現われた」
 掬えば崩れてしまいそうに脆く思えた。それが、始まり。
「思えば私は、この男と同じに、櫃の中で育つ赤子のようなものだった」
 そして、飢饉が来た。
「死の風が吹いたのよ」
 泥を団子にして食い、生き延びようとする者がいた。生き延びれば、飢饉は頭上を通り過ぎて行くと信じたかった。だが、誰も四年目の種籾を持たなかった。
 一年目に借りた稲の代は、我が子を売って払った。二年目は家屋敷を売り、自らの身を他家の下人に寄せた。三年目には、その富貴な筈の家までも潰れた。
  土地を棄て、流れて行くことの出来る者はまだましだった。誰もが飢えに苦しみ、病に死ぬ。飢餓と死は至る所に現われた。死を呑み込む腹だけが、青く膨らんでいた。
「現われなかった」
 その時に祖母は、血を吐くように叫んだ。一体何が、現われなかったと非難するのか。「私を、私たちを救うべき、王は」
 王・・?王とは。
「私らの王が、決して現われないと知れた時に、一族は皆、最期の船でどこかへ落ち延びた。私だけを残して、な」
 今ならば阿倶利には、その理由が痛いほどに理解できた。一族を棄て、親にまで棄てられても残った理由。
「これは、私のものだ」
 宣言するように言う祖母の、眸の奥に焔が燃えていた。
「誰にも渡しはしない」
 ほんの小さな肉の塊は、淡い印象のままに生長し、拡大していた。水に浮かぶ雲のように、頼りない儚さを保ちながら、それでも確実に育っていた。
「そう・・。それからだった・・」
 やがて浮び上がったものは、異様な人の姿をしていた。
 分厚い湖氷の下に眠る石の彫像のように、それは遥かに遠い。手を伸ばせば届く目の前にあるとは、とうてい信じられなかった。それほどに遠い光りに揺れて、姿は仄かに淡く見えていた。
「これを棄てて、どこへ行くというのか」
 ぼそぼそと崩れる壁土を噛みながら、いつまでもその姿に見入っていた。
 石に驚いて散った小魚の群れが、再び集うように、水の中の形は、ゆっくりと濃さを増して行く。
 だが飢えは待たない。ただ腹が膨れるだけの壁土の藁も、やがては食べ尽くした。土間の床には、鼠さえ走らない。空の高みを行く美味げな鴨も、決して飢えた大地には降りなかった。
「そうだった。死ぬならば、ここで死にたいと、そう思った」
 櫃の中で、この男の傍で、この美しい水に溺れて死ぬのだ、と。
「ふと、誰かが囁いた。今、だとな」
 なぜそうしたのかは分からない。井戸の水で身を潔めたかった。冷たい水が、弱った意識を一瞬だけ戻した記憶が有る。それから、濡れた体のままで櫃の傍へ立った。
「自分の胸に触れてみた」
 皺だらけの顔が、懐かしそうに笑う。
「青くて、固い乳房だったよ。まだろくに膨らんでもいない」
 水の彼方で、その男の妻になるのだと淡く思った。
「どれほど、そうしていたのか・・」
 目の前には、水の光りだけしか見えなかった。薄緑の色が、心まで染める気がした。
「それから多分、死んだのだろう」
 柔らかい水が体を包むのを感じた。胸の中を水が浸し、息が止まった。
「苦しいと思う間もなかった」
 どのみち、あと僅かで飢えて死ぬ程に弱ってはいたのだから。
「不思議に、昏くはなかった」
 意識は不意に切れ、そして、死んだのだと思う。
「気が付けば、息をしていた」
 何が起きたのか。
 櫃の水は、なぜか殆どなかった。自分は裸のまま、男の胸に伏せていた。なぜ生き返ったのかは、分からない。それとも、死んではいなかったのだろうか。
「男の胸の温かみは、きっと自分のものだったのだろうよ」
 それでも、その男が自分を生き返らせてくれたと信じた。
「泣いたよ。随分と永い間」
 それから立ち上がった。どこにも、もう飢えは残っていなかった。身には力が甦ってさえいる。
「その時からは、まるで違う自分のように思えた」
 誰もいなかった。この世の終りに、男とただ二人だけでいるのだと思った。
「静かな、世界だったよ」
 そのまま、時の流れが止まってしまったように、何も動かなかった。今が昼なのか、夜なのか。全てがどうでも良かった。
 それでも、奇蹟は飢えを追放しはしなかった。飢えはやがてまた、猫のようにこっそりと戻ってきた。
「だが、前のようにではない」
 記憶を辿り、ようやくそれが飢えであることを思い出せる。それほどに遠かった。日を数えてもみた。
「ひと月か、ふた月か」
 間合いは多分、そんな程度か。月の形を見ては、ひもじさを思い出した。
「その度に、私は男の体を食べた」
 水を失った櫃の中で、男の体は徐々に黒く干枯らび始めていた。
「現われたように、また無に還るのか」
 静かにそう思った瞬間。胸の中から叫びが湧き上った。
「還す、ものか」
 男の体を食べて生きることが、この男を護ることだ、とその時に思った。
「生き延びて、生き延びて、いつかもう一度あの、額の緋い星を見る」
 この櫃の中の男を護るために、自分は生き続ける。そう、意志した。
 一かけらの干し肉めいた破片。それだけでひと月を生きた。二かけら目からは、それがさらに長く延びた。次第に飢える距離が遠くなる。
「そうやって、永い時が過ぎた」
 背を滑る放ち髪は、いつの間にか踵にまで届いていた。
 日が斜めに差す或る日。庭に雀の鳴き交わす声を聞いた。永く忘れていた囀りだった。獣が戻ってくる。
 それから、櫃の中に懐かしい水の光りを再び見た。
 最初の飢饉の年から、どれほどの歳月を経たのは、もう分からなかった。だが、水はもう一度、甦り始めた。
 水の満ちる日が、また来る。
 そして或る日。人の姿を見た。
 その旅人は、自分の姿を見るなり、奇妙な叫びを上げて逃げ出した。
 人々が、帰ってこようとしていた。
「それから、私の新しい日々が始まった」
 阿倶利は、奇妙な話だと思った。だが、信じない訳ではなかった。何よりも、あの櫃の中の男がいるのだから。それに・・。
ーあれのために、母と父は死んだ
 間違いなく、祖母が殺したのだ、と阿倶利は確信していた。それまでの代々の家継ぎのように。
 不用意に漏らした祖母の言葉。
「この私さえ、いつ死ぬのかが分からない」 跡取りは、常に用意しなければならなかった。薬師丸の家の秘密を守り続けることの出来る、櫃の男を護り続ける者。
「確かに私は老いて行く。きっといずれは死ぬのだろう」
 その時に備えなければと祖母は言った。
「だがそれまでは、これは、私のものだ」
 鬼子母神の怒りのように、その時、祖母は顫えながら阿倶利を睨みつけていた。
 漆黒の空に輝く双子の月のように、その時の憎しみの眸を、阿倶利は忘れなかった。

第一章 阿倶利 七

 玄武塚の森は、黴臭いまでに闇が濃い。樹木の繁らない場所は塚山の頂きと、僅かに崖下の毘沙門堂の辺りに過ぎない。
 北方守護の毘沙門天を祀る堂は、堂守り代わりの樹木に囲まれ、闇に蹲る。その堂に、今宵の儀式の焦点は収束する。
 祭祀は続いていた。五十三人の白拍子女たちは、堂前に詰める。甘い香の匂いが濃密に立ちこめ、沓脱の石段から濡れ縁まで、みっしりと白い姿が溢れていた。
 一人だけ堂の最奥で、麻編みの円座に就く者がいる。それが阿倶利の祖母。
 寿椿尼。白拍子たちはそう呼ぶ。その白拍子たちは、月明りの下で奇妙に似通った印象を漂わせていた。
 それは決して、揃いの浄衣の白さのせいではない。背格好も屈んだ姿勢も似ている。そして何より虫の垂れ布を透す視線の毅さが、女たちには共通していた。
 ただ一人だけ、いかにも異なる気配の女がいる。女と言うよりは、その身体の細さから見るとまだ少女に近い。連れに腕を支えられて控えるその一人を除けば、残りの五十二人の女たちは、互いに姉妹と言える程にも似ていた。
 いかに繁栄を誇った亀津千軒とは言え、五十三人もの白拍子は養えない。女たちはこの夜のために、各地から寿椿の元へ戻ったばかりだった。そして儀式が済めば、また元の通りに海門神社の散所へ散る。一年に一度の、通過しなければならない儀式が、今行なわれていた。
 女たちは一人づつ、寿椿尼の前に出ては何かを受ける。それから再び背後へすさり、次の女が進み出る。
 延々と続く儀式の間には、誰も言葉を発しない。寿椿と白拍子との間に介在するのは、たった一つの盃だけだった。
 闇の中で行なわれる儀式に、ただ一つ点る薄緑の光り。それが行き来する盃。
 貝を紅葉に散らした、蒔絵漆の盃に光りが揺れる。白拍子女の唇に触れると、光りは南海の夜光虫のように淡く、紅に染まった。
 盃は干され、次の女が代わる。全てが一巡した後に、初めて寿椿が口を開いた。
「我等が王は、もはや在わしませぬ」
 白拍子たちの間を頷きが渡る。
「今宵、新たな生れ出の時は再び巡り、新たな命は、月読神の元に集う」
 儀式を接ぐように、女たちは低い詠唱を始める。だがそれは、決して今様の神歌や催馬楽などではない。白拍子が歌うのを誰も聞いたことのない、異国の楽調を持つ、不思議な歌の言葉が流れた。
 詠唱の続く闇の中に、寿椿が立つ。胸前には、黒漆の桶が抱かれていた。その桶から光りの反映が、寿椿の顔を闇に浮かび上がらせていた。
 薄緑の生首が宙を辷るように、毘沙門堂の背後へ顔が移って行く。
 玄武塚とは、遠い昔の塚穴を言う。亀の子山の崖に掘られた墳墓。その山の頂きに、玄武の巨石が北辰を睨んで四足を屈める。
 塚穴の石室は正確に南北を指していた。さらに言うならば、玄武塚そのものが、薬師丸名を守護するように真北に位置した。
 寿椿は胸前の桶を捧げ、神の生れ出る死と再生の穴に向かう。その時に、阿倶利は地を蹴った。
 一瞬だった。直刃の短刀は、寿椿の喉に触れていた。詠唱が不意に断絶した。皺首の薄皮一枚切り裂いて、阿倶利は言う。
「動けば、死ぬ」
 白拍子たちは動かなかった。寿椿は無論、動けない。だが誰も、恐れらしきものは示さない。寿椿の命などは、危惧しないとさえ見える。それでも、動かない。
「分かっている。こんな婆の命を取ろうというのではない」
 阿倶利も承知していた。
「大事のお宝を、そこへ降ろせ」
 寿椿は逆らわなかった。我が命よりは、その桶の方が上。無言でそう示していた。
「なぜ、このようなことを」
 初めて、白拍子の一人が声を発した。その女の眸が、妙に妖しい光りを宿した瞬間。阿倶利は何かにのしかかられていた。
 ふわりと白い布が顔に被さり、甘い香の匂いが胸に広がる。両肩はいつの間にか、湿った大地に押し付けられ、ぴくりともしない。いつ倒されたのかさえも分からなかった。
「尼どの。これは、蔵守りの娘ではありませぬか」
 蔵守り。阿倶利の中を、怒りが走った。だが目の前の白い布はそよぎすらしない。
「なるほど。こう間近に見れば、似ても似付かない娘よ」
 一体誰に似ないと言うのか。阿倶利は怒りに顫えて女を睨んだ。女の左頬には、薄く刃の傷跡が走る。その白い月のような傷を、阿倶利は目に焼き付けた。
ー久米よ、何をしている!
 自分の油断を忘れて、ひどく腹が立った。阿倶利は思わず叫んでいた。
「間抜けめ!」
 阿倶利が叫んだ時に、誰かが警告の声を発した。崖に反映する十三夜の月を頼りに、女たちが一斉に動く。
「火だ!」
 頭上に数点。闇の中から火が浮かぶ。その瞬間、火点は唸りを上げて翔け下った。激しく飛ぶ火矢が、阿倶利の周囲に音を立てて降り注ぐ。
「生意気な娘だこと」
 亡霊が去るように、白い布が阿倶利の前から消えた。同時に桶も消えている。
「婆は!」
 立ち上がった阿倶利の、最初に叫んだ言葉は怒りに満ちていた。崖の砂を鳴らして駆け降りたのは、久米ではない。銭を出して雇った、広川の河原者の長。
「塚穴だ!桶を抱いてな!」
 その時初めて阿倶利が声を上げて笑った。「もう一度、八百年も生きるが良い」
 初めから、玄武石を突き落すのだと決めていた。そこは忌まわしい、人食いの儀式の場所でしかなかった。生け贄の白拍子は、今宵も何も知らずに一行に混じっていた。
「おう!落ちるぞ!」
 森が鳴った。月光に黒く映る何かが、頭上の木々をへし折って落下する。
「のけ、阿倶利!」
 警告が間に合ったかどうかは分からない。直下へ落ちる玄武石は、夜の中で異様に巨大に見えた。
 巨大な魔が黒い翼を広げたように、玄武石は奇妙にゆっくりと落下する。そのあとに、一千もの落雷を叩き付けたように、凄じく大地が揺れた。
 白木の鳥居が、見事に潰れていた。苧柄を砕くように、巨大な玄武の背が岩を崩し、鳥居を吹き飛ばす。折れた玄武の首は六間以上も飛んで、毘沙門堂の濡れ縁をばりばりと噛み砕いていた。
 玄武塚は半ば以上、崩れた岩の下敷きに隠れていた。
「阿呆な娘よ」
 怒りを押し殺すように、阿倶利を圧倒した白拍子が言う。
「己が何を為すのか、分かっているのか」
 阿倶利は鼻で嗤った。
「見ろ」
 差し上げる腕には、火矢から松明へ移された火光が燃える。
「屋敷も蔵も、とっくに囲んである」
 松明の振られた先が。ぴたりと南を向く。「土亀は貰った」
「初めからあれは、お前のものではないか」「違う」
 阿倶利は女の胸に松明を突き付けた。
「さっき自ら私に言ったではないか。蔵守りの娘とな」
 女の唇の端が、少しだけ吊り上がった。眸には阿倶利を蔑む光りが湛えられている。
「お前の血は薄いのだ。当然であろう」
 残りの白拍子女たちは、巨石が落ちた時にはすでに、白扇を煽ったように毘沙門堂の前庭に回り込んでいた。その女ともう一人、生け贄の筈の若い白拍子姿だけが、阿倶利の前にいた。
「薬師丸の家はもう、この世から消える」
「お前には、土亀の価値は理解出来ぬわ」
 風に煽られ女の垂れ布が翻る。松明に映る女の眸に、阿倶利はその時一瞬ひるんだ。その眸は、余りにも祖母と似る。
「お前が何を知っている。のぼせ上がるなよ小娘」
「阿倶利!火だ」
 砕けた玄武石の上から、久米の声が警告する。
「薬師丸に火の手が上がった」
 白拍子女はそう聞くと、阿倶利に黒い毒の視線を投げた。
「お前の愚かな行ないが何を引き寄せるか、良く見ておくのだな」
「逃げるのか」
「逃げはしない」
 そう言う女の白い貌が、すっと背後へ退いて行く。
「我が名は夜光。覚えておけ」
「夜光・・」
 阿倶利は女の名を口の中で呟く。
「覚えておこう、夜光よ」
 小黒丸が薬師丸の警固衆を、どこまで制圧したものかが気になる。
「行こうよ、久米」
 阿倶利は戻るとは言わなかった。薬師丸の屋敷は阿倶利にとって、もう戻るべき場所ではない。そこは始まりの地点だった。

第一章 阿倶利 八

  師丸が、赤く火光に映えていた。月の輝きを掻き消して、渦巻く火焔が赤黒く燃えていた。それほどの軍勢がどうして集まったのか、阿倶利には分からない。天を焦がす松明に照らされ、鎧武者の軍勢が、黒々と密集していた。
 中庭の乾燥小屋には火が放たれ、蔵の漆喰壁には火の影が踊っていた。風までが焦げ臭い。松明を振り怒号を叫び交わす光景は、まるで戦場のようでもある。
 兵たちは警固衆ではなかった。阿倶利の知らない軍勢に、薬師丸は占拠されていた。
「あれは・・」
 久米に袖を引かれ、阿倶利は馬上の男を見る。
「矢四郎」
 薬師丸の家宰は、鞍の前輪に肘を置き、静かに焔を見ていた。その姿にはどこか虚脱のようなものがある。阿倶利は、思考よりも先に動き出していた。
「矢四郎!」
 亀津にいる筈の男がなぜ、兵たちに守られここにいるのか。
「よう、これはこれは」
 振り向いた男は、いやに馴々しい口を利いた。薬師丸の家宰が遣う言葉ではない。
「この兵は何だ」
「や、見ての通りでして」
 馬具を鳴らし、矢四郎は鞍から降りた。鹿毛の見事な毛艶を持つ馬は、矢四郎の常の乗馬ではない。
「小黒丸はどうしたのだ、矢四郎」
 阿倶利は顫えていた。いまさら警固衆のことを質してどうするのか。自分でも愚かに思えた。
「逃げましたね」
「逃げただと・・」
 久米は阿倶利の背後を固めていた。薬師丸は完全に制圧されている。
「なぜ逃げなければならない」
 矢四郎は杖に突いた太刀に寄り掛かり、焔に横顔を見せていた。
「なるほど、呑気なお姫さまだ」
 愚弄する響きが、矢四郎の言葉には潜んでいた。阿倶利は全身の汗が引いて行くのを、他人のように感じていた。
「裏切ったな」
 矢四郎はくつくつと笑う。
「私は裏切ったりなどはしませんよ」
 槍の穂を火光に燦めかせた兵が、建ち並ぶ蔵をずらりと取り囲んでいた。肩に縫い付けた相印しは、薬師丸の本所である海門神社の巴紋。
「お気がつかれたか」
 薬師丸の家宰が、本所と通じていた。
「子供の遊びはこれくらいにしましょう」
 太刀の柄から上げた矢四郎の顔は、もう薬師丸に仕える者のようではない。
「悪いことは言いませんよ。これからはあなたの時代です。お互いに、助けあうことにしましょう」
「何を助けるのだ」
「それはもちろん・・」
 矢四郎の目が蔵を指す。太刀の柄に置いた手が、鍔をカチャッと鳴らした。
「悪い話ではない」
 阿倶利は無意識に久米の腕に触れた。
「私の土亀を盗もうと言うのか」
「とんでもない」
 らちの開かないやり取りに飽きたように、矢四郎はあくびをする。
 阿倶利は唇を噛んだ。祖母と名乗るあの妖怪尼への復讐は、再び別な敵を呼んだだけとでも言うのか。瞼の裏には、櫃の中の水の光りが青く揺れていた。

第一章 阿倶利 九

 海門神社の実権は法王府にある。当然、大宮司の権威よりは、神護寺の別当坊の方が重きを占めた。
 矢四郎の真実の主も、法王府の派した僧侶にほかならない。
 十二坊の最上位。内苑坊が直接乗り出していた。今となってみると、周到に用意された計画の前に、阿倶利は傀儡のように躍らされていた。嫌でもそう思い知らされた。
 あの白拍子、夜光の言葉が甦る。
「私は、何を呼び寄せたのか・・」
 自失に似た呟きは、別当坊の漆臭い塗籠めの間に低く響いた。その狭い部屋で過ごした時の永さを、阿倶利は決して忘れることはない。
 最も優れた拷問とは、永遠の苦痛を予感させる。十指に長い銀の針を挟んだその男は、まるで永遠そのもののように、柔和な顔で微笑んでいた。
「健康に成りますよ」
 外法六道の医術の内。真針法の権威だと言うその男は、内苑坊の侍医でもあった。内苑坊政所が、その男を扶持する。
「痛みこそは、生命の正しい証拠」
 自ら医術の神、羽衣と名乗る男は、施術台に拘束された阿倶利に言う。
「苦痛とは、体内の毒素を排除する働きを起こさせるもの」
 だから健康に成るのだと。
 阿倶利は自分の身体にその長い針が、無数に突き刺さる光景を思い描いた。
「ごく細い針です」
 銀色に光る針は、痛みの根源を確実に突き刺す。道者のような白い浄衣に身を包み、羽衣は阿倶利の身体を見ていた。
「心の濁りが、身体を蝕んでいますな」
 阿倶利の裸体を見ても、羽衣の表情は動かない。穏やかな微笑みを絶やさず、そっと言う。
「体と心とは、本来一つのもの」
 羽衣が指を閃かせた瞬間、阿具利の脳髄に銀色の光りが走った。
「この本来の意味とは、神であり仏である自分が、完全を悟った時のこと」
 周囲を囲む高燈台の炎が、突然三尺も伸び上がった気がする。
「つまり治療とは己を統一する行為ですな。よって痛みは味わわなければなりません」
 阿倶利は叫ぼうとした。だが喉から出たものは、嗄れた囁き声に過ぎない。
「そうそう」
 羽衣は優しく頷く。
「叫ぶことは、痛みから逃れることです」
 次々に打ち込まれる針が、阿具利の身体の自由を次第に奪って行く。
「そう、無用な力みや強張りは、やはり健康を損なう働き」
 とりわけ長い一本の針が、阿倶利の脇腹に触れた。銀の寄生虫のように、長針はやすやすと辷り込んで行く。羽衣は針を最後まで埋めると、近々と顔を寄せて確認した。
「正しい位置に届いた」
 そう言って指先に針をそっと握る。それから、僅かに動かした。
 阿倶利の身体が痙攣した。とっさには何が起きたのか分からなかった。だが、一瞬の後にそれが襲ってきた。
 たとえ叫ぶことが出来たとしても、多分不可能だったろう。全身の感覚が全て吹き飛んだように、自分の身体の存在さえが分からない。微塵に散った肉体の塵の全てが、激痛に灼かれていた。
「体の痛みと心の痛みとは、同じもの」
 視野が揺れ、呼吸は一度停止した。そしてあえぎながら絞り出す息は、灼熱の熱さで喉を焼く。
「そう、痛いねえ」
 慈しむように羽衣は頷く。
 汗が際限もなく浮く。その汗が吹き出す時にさえ、血を噴くように激しい痛みを伴う。苦痛は飛び散り、飛び散った苦痛の塵は再び集合する。
 息を吸えば、痛みは内臓の中心で石のように重く硬化し、重量を際限なく増加させて行く。それからまた、息を吐く苦痛に耐えなければらない。
「ですから、心に痛みを抱えたままでは、体は蝕まれてしまう」
 出る息、入る息。呼吸をすること自体が、拷問そのもの。逃れるには、命を絶つしかなかった。
 阿倶利は屈辱を味わっていた。

第一章 阿倶利 十

 阿倶利が望んだ通りに、薬師丸の家は地上から消えた。
 名田の相続も、荘での諸職も、内苑坊から土地の百姓に分け与えられ、阿倶利には残らない。それでも地下の立場からは善政と言える。反抗は起きなかった。
 薬師丸が積んだ富は、海門神社の大宮司が手に入れた。内苑坊はただ、長櫃を一つ望んだに過ぎない。
「雨、ですな」
 矢四郎は焼け跡に立つ阿倶利へ、呟いた。「雨の旅とは嫌なものです」
 分厚い雲が、今にも降り出しそうに低く垂れていた。
 阿倶利に寄り添うのは白拍子姿の娘と、久米のただ二人。
「まあ、帰る旅です」
 矢四郎は鹿毛の首を軽く叩き、それから、ふと阿倶利に言う。
「私はあの、嫌らしい医者は好まなかったのですが、そちらに助けあう気持がなければ、仕方がありませんからね」
 矢四郎は最後にもう一度、焼け跡を見た。薬師丸跡には何の未練もない。
「けれどもこれで、ようやく薬師丸の方々とは手切れです」
 軽く鞭を置いただけで、馬は動き始める。「まあ、お達者で」
 馬が動き出したその時に、阿倶利が初めて感情を見せた。
「私を、連れていって」
 矢四郎は、ふと馬を止めた。
「お願いだから」
「ほう・・」
 矢四郎は阿倶利を見下ろすと、鞭を持った手で背中を掻いた。
「連れてけと、おっしゃる」
「そうだ」
 鋭く風を切って、阿倶利の顔の横に鞭が振り落された。
「止めましょうよ」
 矢四郎ははっきりと言う。
「私はもう、薬師丸の方々とはお付きあいをしたくない」
「違う!」
 阿倶利が悲鳴のように叫んだ。
「私は、霊亀丸の全てを教えていない!」
 矢四郎は頭上を見上げて溜息を吐いた。
「雨でこっちは憂鬱だってのに、まあ、お姫様ときたら」
 久米は涙を浮かべる阿倶利を初めて見た。決して泣くことなどない、一人でいることを常に当然と思っているような阿倶利が、十四才の娘として泣いている。
「本当なのだ。霊亀丸は、あれでは完全ではない。だから、私を連れていってくれ。お願いだ、矢四郎」
 矢四郎には阿倶利の言葉が嘘としか聞こえない。羽衣の腕は完璧だった。だが、矢四郎は片手を阿倶利に差し伸べた。
「まあ、憂鬱は雨だけで沢山ですが。もしかしたらと思って旅をするんじゃ、長い道中、やり切れませんやね」
 矢四郎が誰に言い訳をしたのかは分からない。鞍の後輪を叩いて阿倶利に示す。
「急ぎましょうや」
 阿倶利は馬に手を掛けた。それからいきなり振り向くと、久米に飛び付く。
「久米・・。久米・・。私は・・」
 久米は阿倶利にしがみ付かれたまま、ただ棒のように立っていた。
「私を、救けて・・」
 久米には阿倶利の言葉の意味が通じない。聖都への旅は、阿倶利自身が望んでいた。
「土亀を、取り戻したいのか」
「違う」
 矢四郎が頭上で舌を鳴らした。
「ほうら見ろ、降ってきやがった」
 馬に声を掛けると、矢四郎は阿倶利を待たずにさっさと動き始めた。
「おさらば、薬師丸」
 やけくそのように陽気なその声に、阿倶利は久米の腕を離れた。久米にはまだ、阿倶利の真意は見えない。
 鹿毛の馬に駆け寄ると、阿倶利はそのまま跳躍をした。
「海が荒れなきゃ、良いけどねえ」
 呟く矢四郎の背後で、阿倶利はもう一度振り向いた。
「行きやしょう!」
 馬が屈めた脚を一気に蹴立てた。陽気な声で矢四郎は乗馬を駆る。遠ざかって行くその姿の、阿倶利の見開いた眸を、久米は忘れられなかった。

第二章 六連 一

 聖都二十万。住人の数をそう公称するが、実のところはもっと多い。しかしどれほど繁栄を誇ったところで、国にも都市にも寿命は必ず来る。そしてこの中つ国と聖都の命数とは、すでに尽きた、と六連は感じる。
 そのカンこそが、六連を今日まで生かし続けた。
「カンの悪い奴には、そりゃあ大した仕事は出来ないねえ」
 六連は口癖のようにいつも言う。ところがその御自慢のカンが、今夜ばかりはどうにも働かない。丸い団子っ鼻を、六連は拳で乱暴に擦った。
「師匠・・」
 武骨な手で顎を撫で回す六連を、赤太が下から覗き込む。赤太にしても、それが初めて見る、師匠の戸惑う姿だった。
 盗賊一座の頭目を師匠と呼ぶのは、この赤太ただ一人に過ぎない。残りの者は皆、どう言う理由からか、御前と呼ぶ。
「どうする、御前」
 修験姿の験一が背後から呼ぶ。験一は一人だけ柿色の篠懸衣に身を包み、杖を持っていた。細かい指示は六連ではなく、この山僧上りの験一が出した。
 蕗峠を下れば、嫌でも小浦に突き当たる。決めるなら今しかなかった。
「待て」
 とは言ったが、躊躇は常に命取りだった。誰よりも六連がそのことを知っている。
 丸い顔の真ん中の、特長ある鼻が、微妙に湿ついていた。犬ではあるまいしと他人は思うが、皮膚に染みつく匂いに似た感覚は、どうにも説明できない。そいつに大風の前のような湿りが来る。
「冗談じゃねえぞ・・」
 ふと寒気がした。
 天子の宮処は日の都と呼ばれる。それに対する王城鎮護の呪法都市が、法王府の月の聖都。日月の二都は都往還で結ばれ、中つ国の天下を支えていた。
 だが実際のところ、今の朝廷には何の力もなかった。地上に王領御厨の名で呼ばれる土地は、もう僅かしかない。五十三の分国は、それぞれが権門の知行地と化し、不輸租の荘園がはびこっていた。
 その権門の筆頭に、法王府が存在する。
 天子の宣旨までも、聖都の許可がなければまま成らない。日の都にはただ、中つ国の神性と王権の正当とを示す、支配の象徴だけの意味しか残らなかった。
 月江は上り、陽川は下る。地下の里謡は聖都の月ノ江川と、日の都の陽ノ川とを対比させてそう歌う。
 その聖都への上りものを狙って、六連は網を張っていた。
 だが、予感の正体が見極められない。
「よす、か」
 ここ一月以上も、小浦長者の刀祢屋敷に掛かりきりだった。
 六連の手元には、什器の逸物と隠し金の有り場所とが絵図に描き上げられていた。武者姿の房人の固める櫓門の配置。詰め間の縁や書院は、特に念入りに調べておいた。
「あんだけ苦労したのに」
 調べは主に赤太がした。はしこい働きで盗み隠した女房小物を、今度は験一が祈祷で当てて見せる。一度信頼を得れば、屋敷への出入りはそれで容易になる。
 験の有る法師よ、験一房よと呼ばれ、一月の間に加持祈祷を何度も修する。その逗留の間に、赤太は赤童子として験一の従者を勤める。ぬかりはどこにもない筈だった。
「絶対なのに」
「お前を疑っているのじゃないよ」
 六連の見る赤太の首は、まだ子供並みに細い。同じ齢の少年ならば、もうとっくに大人びた様子を見せ始める頃だった。
「まあ、食い物が足りなかったな」
「え・・?」
「いや」
 六連はやはり、よそうと決めた。
「なに、この次は倍も稼ぐさ」
「そうだよ、稼ぎが大事だよ師匠」
 言いたいことは分かっていた。赤太には買いたいものがある。家を買い戻し、土地を買い戻し、家族を買い戻す。昔のように家族で暮すことが、今の赤太の望みだった。
 早く、早く。赤太の背中が、そう言っている。
 だがこう乱れた世の中では、売った者も買う方も、とっく滅びて行方が知れなかった。どこをどう捜せばよいのか、それさえが分からない。それだけでも、中つ国の寿命が尽きかけていると言えた。
 日の天子の威光は、地を這うように落ちぶれ果てていた。月都の法王の庇護に支えられて、ようやく貴族は生きながらえている。我が世の春を謳歌するのは、護法方と胸を張る諸国の武者か、十二坊連枝の貴種。それから土倉と金貸しか。
 どういうわけか、金の世の中だった。
「撤収だ」
 六連の合図に、蕗峠の背後の闇が唸った。峠道を塞いで並ぶ男たちの間から、一斉に不平が上がる。荷車が空輪の無駄音を騒々しく立てた。
「御前!」
 験一が杖を上げた。
「参った。納まりが付かん」
 その闇の中に、六連は銭袋を投げる。
「今夜のところは、そいつで堪忍だ」
 手が何本か、空に伸びて掴んだような気がする。峠の暗がりも夜の闇も、一座には邪魔にはならないらしい。銭袋の重さを確かめる音が、金気を立てた。それが今夜の酒代に消える。
 ふと、六連は寒気がした。
「何だ、そいつは」
「あ・・?」
 蕗峠の暗がり道に、亡霊のように白い姿が浮かんでいた。
「御前。そんな筈はねえ」
 なぜそんな者がそこにいるのか。
「誰だ」
 六連はゆっくりと問い掛けた。一座の面貌は兜代わりの藍革頭巾にくるまれ、特定は出来ない。だが、話の内容を聞かれていたならば、ここいら辺りでの稼ぎは先々苦しい。
「どなた様か、名を伺おうじゃないか」
 誰かが問う間にも、白い姿は峠をこちらへ下り始めている。
「なんだ、こいつは」
 六連が白いと見たのも道理だった。それは服を身に纏っていなかった。どうやら若い男のようだったが、それがふらふらと坂道を降りてくる。
「聞こえたか、そこの人」
 繰り返す六連の言葉に、ようやくそれが答えた。
「先へ行きたいのだけれどな」
 血肉の通った人間の声がした。決して闇の妖怪の類ではない。
 だがそれならば尚のこと、どうしてこんな目の前に現われるまで、誰も気付かなかったのか。それにこの男、丸裸と来ている。
「いや、まずは少し待ってくれ」
 六連は、はっとした。
「そうか、これだったのか!」
 カンの曇りの原因は、この男。六連はそう確信した。
「聞いていいか」
 立ち止まった男の傍へ寄ってみると、どうやらかなり若い。さしたる肉付きでもないのは、重い労働をしたことのない身分か。
「なぜ服を着ていないのだ」
「ああ」
 つまらなそうに男は掌を振った。
「初めは着ていた」
「何の初めだ」
「家を出た初め」
 どうも成り行きが奇妙だと、一座の輩がざわざわとし出していた。
「御前」
「まあ待て」
 六連はじっと男を見た。それから、ぽんと手を叩く。
「俺どもと、一緒に来る気はないか」
「御前」
「師匠」
 口々に驚きが上った。
「おう、誰か消し布を貸せ」
 消し布とは忍び込みの道具の一つ。それを用いて目眩ましをする。
「これをまあ着けて」
「いらない」
「え」
「どっちにしても、また誰かに取られるからね」
「いや、あんたは裸で良くても、こっちがどうにも目の遣り場に困っちまうんだな」
「そうらしい」
 馬鹿か、こいつは。そんな声が一座のどこかで囁かれた。
「ええ、じゃ、取られる時までの間。それで良いじゃないか」
 六連は構わずに、曖昧に藍を染め付けた消し布を、男の腰と肩とに巻き付けて縛る。
「ああ、暖かいな」
「そりゃそうだ」
 どっと笑いが上がった。六連はそうだろうと思う。これが天の与えた才だ。この男は今宵、ここで出会うべくして出会った。
 こいつこそは、天性の盗人の資格を持つ。六連は、はっきりと確信した。この時に、六連の志は定まった。
 裸公子。後に一座で楽王と呼ばれる男との出会いだった。

第二章 六連 二

 六連に言わせるとそれは、猫被りの技とかそんな問題ではなかった。
「面に出るようじゃ、そいつは悪人だな」
 赤太の人を盗み見る癖を見付けるたびに、六連は眉間を指で弾いてそう言う。
「悪い目付きだ」
 人のしのぎは一つ。
「善悪は、ここにはない」
 胸をとんとんと叩く六連に、赤太はいつも問い返す。
「じゃ、どこにあるのさ」
「あそこだ」
 六連は上を指す。
「天にあるんだよ」
「天て、どこ」
「あそこ」
 そう訊かれても六連は、いつものように、やはり指を立てたままだった。
 赤太はまたしても膨れてそっぽを向く。だが、日頃繰り返してきた儀式のような問答の中で、赤太には赤太なりの答えめいたものが生れてきた。
「志だ」
 心に誠がなければならない。それが他人の物を盗む時に忘れてはならないこと。
 妙な理屈だが、赤太は自分ではそう理解した。
「人の命は盗めない」
 六連の言葉では、盗みとは死に止まっている物を流すことだという。言い換えるならば場所を移すことだった。
「だが、命は別の人間には与えられないだろう、赤太よ」
「取っちまったら、それっきりだ」
「心の痛むことをすれば、心が歪む。盗人はなあ、心の痛むことをしてはいけない」
 そこから先が、赤太にはまだ今一つ分かりにくいところだった。
「じゃ、強い心を持てばいい。そうすりゃ、何をしても心が痛まない」
「出来ないな」
「なんで」
「これさ」
 やっぱりというように、赤太は口をねじ曲げる。得意の天を、また持ち出した。師匠の指が、つんと上を向いている。
「痛みに目をつぶるってのは、そりゃ出来るだろうな。だがな、目を閉じて舐めても毒は毒だ。いくら甘くても、何れは身体に回っちまうのさ。その時は、手遅れだ。泣きながら死んで行くしかないな」
 赤太が初めて会った時、まだ六連は金で売られた下人でしかなかった。それがいつの間にか、自分の身を買い戻すだけの稼ぎを溜めていた。六連自身は、夜叉神のお告げに従って金を稼ぎ出したのだ、と。皆にはそう吹聴した。
 たかが一介の酒麹売りの下人が、振り売りの出先でどう稼ぎを得たのか。誰もがコツを聞きたがる。
 当然だった。誰もが身分の上昇を願っていた。取り敢えず、親重代の下人ではない者には、自分の身を買い戻す望みがあった。
 六連はどんな時にも、夜叉神の御利益を引き出す。
「お告げさ」
 そう言われても、まだ納得は出来ない。だが六連の居場所はそれで確保された。
 六連は身分を表向き、聖都の夜叉神社の寄人と称する。謂ば六連は、月都神人の歩き神子。
「神子サマが言うんじゃ仕方がないか」
 赤太は膨れかげんで石を蹴った。

第二章 六連 三

 赤太が中堤の輪中町を出た時。町外れの辻に立つ、一人の老人が目に留まった。
 一見いかにも田舎の老人が、小春日和の日向を楽しむ風情で立っていた。アカザの杖に両手と顎を載せ、猫のように日差に眼を細める。なにやら見ているこちらにまで、心地よい陽の温もりが移ってきそうだった。
 土の匂いは人の油断を誘う。赤太は、ほかほかと快い気持でそう思う。
 ふと、あくびの涙を拭く手が、ゆっくりと降りた。老人が脇に置いた壷が、妙に目を引く。
 ほう、と思った。青磁に白く蓬莱山を象眼した口細の壷は、およそ田舎人の持つものには見えなかった。聖都の貴族の屋敷にでもあれば、さっそくに主の自慢の種にでもなりそうな逸品。
 老人、と言うよりはただの爺い。だがまあ身なりは悪くはない。白絹の袷を袴も着けずに着流しているが、品もそこそこある。
 と、その老人が赤太を手招きする。
「お、俺かい」
 こくこくと人形のように頷く老人に、赤太は何だか照れくさい想いを抱いた。
「ぬし、銭は持っておるか」
「持ってるさ。子供じゃねえんだ」
 自慢そうに言う赤太に、老人は黄色い歯を見せて笑いだした。
「何がおかしいのさ」
「や、済まぬ」
 一応謝りはするが、一向悪びれる様子もない。ますます笑い声を高くした。
 赤太はぺっと唾を吐いて行きかけたが、やはりどうも青磁の壷が気に掛かる。
「これかい」
 老人が赤太の気を引くように、不意に杖で示した。
「こりゃ、珍しい」
「爺さんのものかい」
「いやいや、どうして儂なんぞのものかい」「ふうん」
 返事がまだ子供だ。
「この壷はな、月都の法王さまからの預かりものだ」
「嘘だろう」
「いや」
 赤太はおやと思った。老人の物言いの様子が微妙に変わった。どこかに確信と言うか自信のようなものがある。
 もしかしたら、本当なのかも、との気を誘う。
「儂はこの壷を持ってな、勧進して歩いておる」
「この壷を見て、銭を出すって阿呆がいるのかい」
「まさか。世の中にそんな間抜けもおるまいよ。実はな・・」
 ふと老人は声を低め、背中を丸くした。釣られて赤太が顔を寄せる。にやり、と老人が笑った。
「これはな、天地を納める壷じゃ」
「はあ・・」
「つまりな、この壷の中に天地全てが納まっておる」
 この爺ぃ正気か、と赤太は顔を上げた。その正面に、老人の明るく輝く眸があった。
「わ、わからねえ」
 邪気のない眸に赤太は気勢をそがれ、うっかりとそう言った。
「そうだろう。だから儂がこうして、勧進が叶う訳よ」
「へ?」
 どうも理屈が奇妙だ。
「誰も信じはせんよ。こんな話はな」
「ああ?」
「だからな、儂がその証を見せて歩かなければならん」
「証って、どうやって」
 ほら、乗った。赤太の頭の内側で、誰かがそう言った。師匠の声か。
「勧進を寄せる方があればな、壷の中の天地を見せて差し上げるのよ」
 赤太はむっと黙り込んだ。子供と見て騙そうってのかとも思う。だったら悔しいじゃねえか。赤太のこめかみ辺りに、ぽっと血色が差した。
「幾らだ」
 再びにやりと老人が笑う。
「十文」
 黙って赤太は懐から銭袋を取り出した。
「十文だな」
 怒ったように老人に銭を手渡す。それをまた老人はあらためて数え直す。
 ちっ、と赤太は舌を鳴らした。老人は白麻の小さな布に銭を包み、口を持つ。
「さ、ここを結んで」
 赤太に自ら包みを結べと言う。
「いいよ。爺さんがやりな」
「いや、これが証になるのだから、お前さんが自分で分かるようにせねばならん」
「ちえっ」
 渋々と言った風情で赤太は手を出す。
「だけどな爺さん、もし嘘だったら承知しないぜ」
 包みを取り戻すとふっと、老人は春のように笑った。
「まあ見ておれ」
 老人は銭の包みを赤太に示した。壷の縁でこんこんと固い音をさせる。
「まずは有難く、勧進をお預かりし申す」
 ぽいと壷の中へ投げ込む。赤太が次の出来事を待っても、それきりだった。別にそのほかには何もなし。
「で・・?」
 老人はにやにや笑って答えない。
「おい、約束だ。壷の中の天地とやらを見せて貰おうじゃないか」
「はて、気が付かぬのか」
「何が」
「今、銭の音はしたかのう」
「何だって・・」
 そう言えば老人が投げ入れた銭が、壷の底に落ちた音がしない。
「だから・・」
「あの勧進の銭はな、今はこの壷の中の天地に落ちている」
 こんこんと壷を指で叩く。
「だからさっきのように、外から叩いたような音はせんのよ」
「ちょっと見せろ」
「良いとも」
 赤太は老人を押し退けて壷に抱き付いた。細い口に眼をあてて中を覗き込む。
「くっ、見えねえ!」
「見える筈もないわい」
 どう言うわけか壷の中は真っ暗だった。別に赤太の頭が光りの入口を塞いでいるのでもない。だが二寸程の広さの口からは、手は入らない。
「待てよ、待て待て」
 ようし、落ち着け、と赤太は自分に言い聞かせた。
「銭のことはもう良い。それよりは、壷の中の天地を見せると言ったな」
「そうとも」
「じゃ、さあ、見せて貰おう」
「おう!」
 老人は赤太の目の前で、ぱんと掌を鳴らした。随分と派手な音だった。
「見よ」
「はん?」
 赤太はまだ良く理解出来なかった。
「何を見るんだよう」
「ここが壷の中の天地よ」
 ぐっ、と赤太は喉を鳴らす。
「爺さんよ、何をふざけたことを」
 詰め寄ろうとした時だった。目の中で火花が飛び散った。
「わっ!」
 脳天に石か金槌でも振り落されたようだった。赤太は思わず頭を抱え込む。
「畜生、何をすんだよ」
 この爺ぃ、と睨みつければ、老人は髯をしごいて笑っている。
「何もしやせんよ。さっきの銭が降ってきただけのこと」
「銭だってえ・・?」
 赤太は老人の指差す先を見て目を剥いた。確かに壷に投げ入れた筈の銭の包み。それも自分で結んだやつだ。そいつが、目の前に転がっている。
「ああ、痛え・・」
 赤太にはどうも分からなかった。
「師匠、どうなってるんだ・・」
 ぐちの一つも出る。
「じゃ、訊くけどな」
「ふむ」
 人を馬鹿にしたような返事だった。
「ここが壷の中の天地だってのか」
「その通り」
「くう・・」
 泣けてきそうだった。
「言うたろう、天地万物が壷の中にあると」「待て、待て待て待て」
 どうにも良く笑う老人だった。赤太の言葉に今にも腹を抱えて笑いだしそうだった。
「今、天地万物と言ったな」
「そう」
「じゃ、この世の全部ってことか」
「そうだ」
「ようし、じゃ訊くがな」
「おう」
 赤太は殆ど泣声だった。銭が惜しいのではない。余程に悔しいらしい。
「ここに居るはずの俺は、一体どこへ消えちまったんだ」
「この壷の中さ」
「え?」
「ここに居るはずのお前さんは、ここに居るはずの儂と一緒に、この壷の中の天地を見に行っている」
 こん畜生。俺はとうとうこの爺ぃにかなわないのか、と赤太は自分が情けなかった。
「分かった。分かったから、じゃ元に戻してくれ」
「お安い御用」
 老人は赤太の前で袷の袖を翻した。
「これで元どおり」
「訊くがな」
「まだ訊くことがあったか」
「ここが元の天地だとどうして言えるんだ」「そんなことは簡単」
 老人は赤太の足元を杖で差す。
「銭はあるか」
 今度こそ本当に赤太は泣き出した。
「分かったよ、銭は壷の中だよ」
 老人は高らかに笑った。
「もし確かめに行きたければ、もう十文出せば行けるぞ」
「誰が出すもんか!」
 絶対にこの爺ぃをへこませてやる。赤太はそう誓った。
 夕暮れ時には、こいつも家に帰るだろう。赤太はそう見当を付け、時分に戻ってみた。見込通りにちょうど、壷を背負うところではある。
 老人が丈夫なのか、壷が余程軽いのか、背丈を半分以上も越える壷を背負っても、老人の足取りは変わらなかった。赤太にも意外なくらい足の早さで、夕暮れの道をすたすたと老人が行く。
 どうやら中堤の輪中町中に住むらしい。遠くに木戸が見えてきた所で、赤太は番太の目を避けて道から外れた。
 陽が落ちれば、鑑札がなければこの輪中町へは入れない。とすると老人は、中堤の税帳に名の載るまっとうな人物。と言うことになる。
「嘘をつけ」
 つい、口に出た。そんなことがあってたまるものかと思う。
 赤太は今日の成果はそれまでとして、叱られる前に宿へ戻ろうと足を返した。
「師匠に話してみるか・・」
 その時、ふと赤太はそう思った。この前師匠は、変な奴を一座に引き入れたっけ。
「あの爺ぃも、たっぷり妙だものな」
 赤太は何か急に、新しい楽しみが出来た気がしてきた。

第二章 六連 四

 聖都に奇妙な噂が立っていた。噂の主は赤目と呼ばれる。
 夜中、独り歩きの美女がいる。大篝の番士が怪しんで呼び止めると、その女は白い被布を靡かせて、すっと闇へ退く。その時に、女の目が赤く光るのだと言う。
 その赤目を見た番士は必ず、その日から三日目に死ぬ。
「なるほど、妙なものが流行るわけだ」
 魔除札を張った辻の丸石には、睨み返しの赤目が呪符に囲まれて描かれていた。今この聖都では、魔除けの呪符が飛ぶように売れていた。売り出し元は当然、十二坊下の僧と夜叉神社の陰陽師。辻ばかりではなく、聖都では至る所に呪符が張られている。
 商家の軒に張られた札を見て、禁裏供御惣支配、愛宕大丞は薄い頬を歪め、皮肉な嘲笑を浮かべた。
「世の中が腐れば、妖怪が夜行を始めたとしても不思議はなかろう」
 実権の全く存在しない今の朝廷の、苦しい台所を愛宕は知っていた。
 愛宕大丞と六位の官名を持つが、その白髪眉毛の老人の身分は、八省に属する訳ではない。本来は蔵人所小舎人の従者に過ぎず、惣支配の名称は内苑坊政所が与えていた。
 禁裏供御人の惣支配とは言っても、供御が登らなければ職権の意味はない。つまりは殆ど実態のない、肩書きだけの職分を愛宕大丞は帯びていた。
 それよりも、むしろ悪いことが一つある。愛宕は禁裏へ登せる供御の賄いを、何とか都合しなければならない立場にあった。それが肩書きに付随した愛宕の義務でもある。
 無論、捨てても良かった。今時は誰も禁裏の台所などは考えていない。物にも銭にも遣う法と言うものがあった。
 所領の支配を可能にするものは、兵力に尽きる。その軍事と警察とは、全て法王府が一手に握っていた。
 法王府の黒衣の僧と、日の天子の神官とを並べれば、誰も賄賂の送り先に迷わない。そうして荘園の寄進は、ますます権門に偏って行くことになる。
 銭が全ての価値であり、寄らば大樹の蔭でもあった。だがそんな時代には、確かに妖怪が横行する。
 愛宕はぼうぼうと伸びた白髪眉の下から、巷を眺めた。
「そこにも、ここにも、そこいら中に妖怪が居るではないか」
 忙しそうに行き来する僧侶の姿に、愛宕はそう皮肉を吐く。
 通り一筋を隔てた向うは、北山通いの大路の賑い。この辺りの宿には、死を待つ人々が暮していた。
 法王の聖都は、王城と国家の鎮護のための祈りの都とされた。だが庶民には別の名もある。永の別れの、おさらば都、と。
 そこでは、現世とあの世が交錯する。弔いのために人々は聖都を訪れ、死者の送りに縁者が集う。人々は、おさらば都で死者と別れた。
 そして聖都で死ぬことが叶うならば、それは紛れもなく、祝うべきめでたい往生。だからこそ死の間近い瀕死の病人も、衰えた老人も、家族に支えられ板輿に担がれ、聖都を目指した。
 聖都の都市構造は、法王府を中心にした螺旋にある。螺旋とは迷宮にほかならない。その迷宮呪法が邪霊を除け、死者の往生を保証する。
 町家は二層あった。府内と通称する垣内の御用町家と、最外郭の下級の武家が軒を連ねた練塀外の下町と。つまり整然と区画されているのは府内だけで、外は棟別の税さえ納めれば、勝手放題な住み方が許されていた。
 僧侶も神官も武士も、生産はしない。ただ消費する。府内の消費のための原資は、各地の荘園から届いた。
 練塀外で動く銭は、死者が運んできた。月ノ江川を遡り、聖都から大屍林へと死者を送るために、人は銭を抱いて集まる。死出の山を意味する、北山へと通う大路には、そんな人々が溢れていた。
 親類、縁者。身内や家族は、死者の黄泉路への旅を見送るために集まる。街道は常に人で沸き立っていた。それは同時に、商家の賑いも意味する。
 宿屋も医師も芸小屋も、葬式が招く賑いで成り立つ。市場は日毎に欠かさずに巡回して開かれた。振り売りの声も、客引きの騒ぎも日常だった。法王府、十二坊はともかく、下町には人臭い喧噪が満ち溢れていた。 その喧噪の中を、葬列が行く。
「やあ、見ねえ。立派な葬式じゃねえか」
 葬列に出くわした者は、必ずそう言って両手を合せる。どんな貧しい様子であっても、決してけなしたりはしなかった。
「後生、後生」
 死体は必ず、白い晒し木綿に包まれた。新鮮な青竹を二本渡した輿に担がれて、白い包みは聖都の街路をゆっくりと練る。そこから先は、金次第だった。
 鳴り物を雇う葬式もあれば、親族もろくにいないのがある。葬列の後ろに乞食の一隊が続くようなら、それは余程の金持ちだった。 だがどれほど貧しい葬式でも、この月の聖都から大屍林に送ることが叶うならば、それは最上の葬式だった。
「有り難い、お弔いだねえ・・」
 啜り泣きの後ろで、老婆が拝む。
「あたしの時には、頼んだよ・・」
 黄色と緋の色花で飾られ、白い包みは送り衆の肩の上で揺れた。永遠に繰り返す光景のように、ゆっくりと、屍臭を覆う紫煙の香が道を靡いて過ぎる。
 低い読経の声と、悪霊を払う鉦の響きが過ぎれば、何か幻が通ったように、賑いは再び戻った。そしてまた次の葬列が来る。
 祭りの日々が過ぎるように、葬列は来ては去り、来ては去った。それが街道の日常を飾る景色。
「人は必ず一度は死ぬ」
 一乗日光仏の法を説く僧侶は、夜叉神の功徳を声高く宣する。
「死ぬるは必定。後生、如何にせん」
 死後の平安は、夜叉神の慈悲に縋るほかはない。中有に漂う死者の魂は、ともすれば悪霊に拐われた。その悪霊を、夜叉神は頭から食らう。
 死者の守護を約束する夜叉神は、死の穢れにまみれた肉体から魂を解放する。我が身の屍体を夜叉神に食べて貰えれば、亡魂は中有に迷わずにすんだ。
 夜叉神は肉体に縛られた魂を浄化し、悪霊を退け、死者を安楽の浄土へと導く。死者は自らの屍体を捧げることで、楽土への転生を遂げるのだと僧侶は説く。
 或いはまた、現世への生まれ変りを望む者は、夜叉神の慈悲で輪廻の輪をもう一巡りする。それが法王府と、一乗日光仏に帰依する僧侶たちの教えであり、有難い功徳は分厚い経に保証された。
「その聖都に、赤目妖怪だと・・」
 寺方が許可した各宿所を、僧侶が医師を伴い巡り歩いていた。死に瀕した人の苦痛を除く薬を医師が処方し、死の恐怖を除く祈りを僧侶が与える。そのための区画が宿町の名で呼ばれていた。
 宿町、両替筋。その辻で愛宕は立ち止まっていた。
「化け物どもめ」
 愛宕の目には、その景色は人々をたぶらかす妖怪の横行に映った。
 その愛宕に声をかけた者がいる。
「ご立派なお殿様。どうぞ、ご喜捨をお願わしゅう」
「ほう・・」
 愛宕は眉を動かした。なぜならば東垣内の内側では、鑑札のない乞食は固く禁じられていた。乞食は城門の外でだけ食を乞い、布施を受けることを許されていた。
「御法破りだぞ。分かっておるのか」
 乞食の身を愛宕はまず案じた。だが。
「御法・・、御法ねえ・・」
 乞食は突き出した貰い柄杓を、愛宕の鼻先で揺らす。
「御法破りのお殿様から、そんな言葉は心外だねえ」
「何だと・・?」
 愛宕は笠の庇を上げ、目の前の小柄な瘠せ乞食を凝視した。確かに身なりは乞食だ。それも癩病みらしく、汚れた白布で面を包んでいる。鼻がもうすでに崩れかけているのか、風邪をひいたような声で乞食が笑った。
「でしょ、旦那」
「何の話だ」
 言いながら愛宕は、差し出した柄杓の腕をいきなり掴んだ。
「うっ!」
 息を詰まらせるように声を出したのは愛宕の方だった。掴んだ筈の腕が、ずるりと肘から抜けた。
「ああ、おいらの腕を盗ったね」
 ケケケと男が笑う。その目が赤く光ったようにも見えた。
「おのれ、何者!」
 愛宕は抜けた腕を右手に持ったままで、左手で腰刀を鞘ごと帯から抜き上げる。場合によっては切り捨てることも考えた。とにかくこの乞食は尋常ではない。
「逃げるなよ」
 抜き打ちの構えを見せて、愛宕はじりじりと迫って行く。
「おいらの腕を返しておくれよ」
 右手に持った乞食の腕を捨てなければ、刀は抜けない。だがそれを捨てる瞬間に、乞食が逃げに掛かるのは目に見えていた。決して逃してはならない。
 どう言うわけか、辻に人通りがぱったりと絶えた。
「貴様、妖怪か」
「冗談じゃない」
 愛宕はこの異様な乞食が何を知っているのかが気になった。もし・・。もしも法王府が証拠を掴んでいるのなら、愛宕の身は間違いなく破滅だった。
 それにしても、さっきまでのあの人通りは一体どこへ消えたのか。そこだけが別の時間へ移動したように、ひっそりと空気が沈潜していた。
「何をそんなに焦っているんだい、供御惣支配のお殿様」
 それで間違いなかった。愛宕は覚悟を決めた。鞘のままの腰刀を、いきなり叩き付けるつもりで間合いに入った。と、乞食がその間合いを外す。一足だけ外へ、僅かに身を移した。やはり乞食は、ただ者ではなかった。
「切っちゃ、やだよ」
 だが逃げるのでもない。愛宕をなぶるように、抜き打ちの刃が届かない場所で、斜めにこちらを見ていた
「名はあるか」
 愛宕は静かに問う。乞食が鼻水を啜り上げて鳴らした。
「当ててみな」
 その時、愛宕の右手に異様な感触が伝わった。ずぶり、と指が食い込む。
「あっ・・!」
 腕が指を飲み込む。同時に酷い悪臭が漂った。この都に住む者には、慣れ親しんだ馴染みもの。屍臭が濃く昇る。
「これは・・」
 死体の腕を掴んでいるのだと分かった瞬間に、愛宕は思わず腕を投げ捨てた。その捨てた腕を、乞食がさっと拾う。
「お有り難うござい」
 愛宕の耳にその言葉を残して、乞食は突然かき消すように居なくなった。同時に人通りが復活する。地面に落ちている柄杓さえなければ、夢を見たとしか思えない。
「すみませんね、旦那さま」
 言われて愛宕は道を開けた。どこかの宿で往生した者があるらしく、商人が白木綿の反物を担いで通る。後ろから花屋が、糸に通した色花の首飾りを、三宝に大事に載せて続いていた。全く聖都の日常そのもの。
「何者か・・」
 妙に落ち着かなかった。
 柄もそう大きくはない。むしろまだ子供のように、成熟しきらない線があったようにも感じる。
 愛宕は鼻の先にぶら下げた野心が、急に危く思えた。どこかに穴が生じている。早急に招集を掛けなければならない。
「まあ、見ておれ」
 そう口にしたことで、ようやく気を取り直した。蓬莱町では土倉組人頭、今川丸が待っていた。

第二章 六連 五

「まあ、私どもでは別に天朝さまでなくとも宜しいのですよ」
 今川丸は、何よりも聖都の繁栄が大事だと言う。
「やはり、銭ですな」
 千里の波涛を越えて、今川丸は舶載品を運び込む。交易の品は幾つもある。中つ国からは特に工芸品が持ち出され、蛮国からは香料と銭が主に来る。
「異国の銅銭に頼っていて、蛮国呼ばわりもないものですが、どこの国でも己がこの世の中心と思っていますからな」
 恰幅の良い初老の男が、今川丸。丸と童名を用いるからには、敢えて世外の民として世渡りをする。
「今川丸よ」
 愛宕は呼び捨てにする。身分からすれば当然だが、金主を呼ぶには穏当ではない。
「お主の夢とは何だ」
「夢・・?」
 ふ、と今川丸は油断したように微笑む。
「これはまた、異なことを。私の夢はそりゃあ、皆様のご幸福でして」
「同じだな」
「ほう」
「儂の夢も同じよ」
 舶載の茶は紅い色の香りをさせた。白地の磁器にその色は、良く似合う。愛宕は一口啜り、仄かな湯気の向こうを見た。
「供御がな、ぷっつりと切れておる」
「登せものが、集まらないそうで」
「都へ来る途中で、どこかへ消えてしまう」「勿体ないこと」
「その供御、握ってみたいとは思わぬか」
 今川丸はすぐには応えず、天目台の茶碗を目の前に差し上げる。
「異国では、こんな茶碗は珍しくもございません。そこいらに転がしておいても、誰も目も呉れないでしょうな」
 愛宕は膝を寄せた。
「地黄、水銀、金銀細工。栗も生魚も塩物も何も登ってはこぬ」
「惣支配どの。物の価値とはなんでしょうなあ」
「さあて」
「私は、銭だと思います」
 今川丸は茶碗を天目台に戻し、愛宕の手を取る。
「銭が、全ての仲立ちをするのです」
 今川丸の手は、武骨な石の塊に似て、長年の労働を語っていた。愛宕はその手の重い感触に、言葉を止めた。
「中つ国のつまらない物でも、銭を仲立ちにすれば莫大な富を産むのです。皆様が富むことが可能なのです」
「お主に任せろと言うのか」
「そうです」
 今川丸の野心と、愛宕の野心とは違う次元で結び付いていた。そのことに愛宕は気付いていない。
「たとえば」
 今川丸は付け書院の壁を指す。懸け物に仕立てた中つ国の絵図は、床の漆喰壁を背に茶色く見えた。その絵図の天山山脈から北を、緑色の空白が占める。
「天山の麓で漆を掻くことは、許されておりません。しかし、あそこには莫大な漆が眠っているのです。もしその一部でも蛮国へ流すならば、禁裏を養う銭など、一日で産み出せましょう。そしてその銭は、中つ国を富ませる元となります」
「宣旨は出せる」
 愛宕は言い切った。
「だがその宣旨に効力を与えるには、坊主の天下を覆さなければならぬ」
 愛宕の要求するものが何か、今川丸は当然察している。
「柔らかく、覆すのです」
 もし流通を全て握ったとしても、聖都の繁栄が消えてしまえば意味はない。再び興すには、自分はもう老い過ぎている。
「愛宕大丞さま。くれぐれも、柔らかい戦いをなされよ」
 愛宕が今川丸の言う意味をどこまで掴んでいるのか、それは危うい。それでも、今川丸は老いの残りを賭けに出た。
 法王府の下で、分国を実行支配する武力には、護法の名が与えられる。それぞれに護法を冠した名を名乗り、降魔の利剣を用いて検断し、勧農と徴税に当たる。
 尤もその税も、大蔵に納まることはなく、中途で必ずどこかへ消えた。百姓は皆済したと言い、官人は未収だと言い、護法方は盗賊の横行を主張する。
 悪党追討の宣旨を幾ら出しても、実情は法王府の任ずる護法方自身が、その悪党の一類にほかならない。
「いかがでしたか」
 愛宕が去ったその背後から、今川丸を呼ぶ者がいる。
「やはり、気が付かぬな」
「そうですか」
 ぺこりと頭を下げたのは、二人に茶を運んだ稚児。
「もう一度、しますか」
「無駄だろう」
 今川丸はその稚児に、紙包みの菓子を握らせる。稚児はにこりと笑った。
「うちの師匠は、甘いものは身に良くないって言うんですよ」
「五月には、飢饉が来ると六連どのに」
 赤太の顔色が変わった。
「本当ですか」
「夏麦も期待は出来ないようだ」
 飢饉は常に初夏に襲う。飢えを繋ぐ麦が足りないとすると、弱った者から夏の病に倒れる。疫病の発生は、見えていた。
「師匠はまだ戻らないんですけれど」
「あちら、か」
「多分・・」
 今川丸は、再び中つ国の絵図を見た。その天山山脈から北の、緑の空白を。

第二章 六連 六

 闇の迫る樹海の空を、橙の実の色に輝やいて、風が渡って行く。灰色と桃色の混じり合う夕暮の雲よりも、僅かに遅く、ゆっくりと漂うように、橙に輝く風は渡っていた。
 樹林に覆われた地上の闇は、藍に浸したように深い。東の空には星々が燦めきを増していた。西には三日月が薄白く残っていた。その空を、異様な姿が行く。
 人に似て、人の形ではない。じっと見詰めれば見詰める目の先で、姿の輪郭を微妙に変えた。それが夜叉神だった。
 黄金の腰帯と腕飾りとを着けた膚は、画像でも彫像でも暗い緑で表わされていた。だが今は、橙色に燃え輝いている。そして時折り桃の実のように、ぽっと全身が甘い色に変化する。捉えようとしても捉え難い、色の移ろいだった。
 奔放に、弄ぶように不意に変化する夜叉神の姿を、絵師は果たしてどのように絹布の上に留めれば良いか。答えは見出し難い。
 ただ恐ろしかった。何が恐怖の本体か、小白には示すことが出来ない。それでも確かに恐ろしい。
 間近くを通れば意志とは関わりなく、無性に膝が顫えた。心は萎えて縮こまる。だが、逃げることは出来ない。決してそれは出来ない。
 北山の境を越えてから、どれほどの日数が過ぎたのか、数えた訳ではない。五日か、十日か・・。
 そこは禁じられた領域に属した。暗い緑の樹海は、どこまでも続いていた。殆ど眠らなかったような気もするし、ずっと眠り続けていたようにも思う。記憶は常に曖昧だった。それでも、決して慣れることのない光景が、常に待っていた。
 小白にとって、日常は空虚なものでしかなかった。ただ真実を描きたい。魂の中心を掴み出す、彼方の真実。その想いを形にするものこそは、たった一枚の絵。そう信じた。
 黄泉の領域。確かにそうかもしれない。だが、全てが静かな死の裡に埋れているのではなかった。
 禁忌の地は、死の穢れに満ちていた。腐臭が漂い、屍林の暗闇には得体の知れない生き物が腐肉を啜って蠢いていた。しかしそこもまた、地上の場所として存在した。決して還れない死の世界ではありえない。
 屍臭は魂の底にまでも沁みた。大屍林の風は、緑青の錆色に染まっていた。そして、小白は死に魅せられていた。死から吐き出される息が、小白に取り憑いていた。
 送り衆が姿を見せたのは、大屍林の僅かに入り口まで。北へ流れる逆さ川を渡ってからは、人の姿はなかった。緑の闇の中を、奇妙な囁き声が過ぎるだけの夜が続いた。
 携行した画帳は、すぐに使い尽くした。だが画帳を全て使い尽くしても、一向に真実には近付かない。
 この世には、何一つ描きたいものが存在しなかった。自分の見たい、この手で留めたい景色は、この世のどこにもなかった。全てが空しい虚妄に見えた。そして大屍林の風の中に、ただ一つだけそれがあった。
 夜叉神こそ、自分の描くものだと思う。夜叉神の本質を描き出すことが、ただ一つの方法なのだと信じた。
 やがて、気を失うように眠りに落ちる。眠りの中にいても、決して瞼は閉じない。僅かの間に青黒く落ち窪んだ瞼は、時折り小さく痙攣する。眸は常に闇を見ていた。

第二章 六連 七

 眠りの中で、夢を見たようにも思う。だがどのような夢なのか、はっきりとは想い出せない。どこか暖かな、心に温もりの残る懐かしい夢だった。
 誰かが、呼んだ気がする。
「目が覚めたか」
 ふと自分がどこにいるのか、迷った。真っ暗な中で、焚火が小さく燃えている。小白の腹が鳴った。
「けっこう。まだ死んじゃいない証拠だ」
 何者なのか、この男は。小白の鼻に、肉の焼ける香ばしい匂いが漂ってきた。
「おう、起きるかい」
 木串に刺した赤肉から、焚火の上に焼けた油が滴り落ちる。その度に、じゅっと薄青い煙が立ち上った。
「大丈夫だ、人の肉なんかじゃない」
 こちらを向いて笑った笑顔は、何の屈託もなさそうに見えた。だが小白の絵師としての目は、その男の不思議さを見抜いていた。
「あなた、は・・?」
 小白の問いに、男は答えなかった。ただ微笑みを湛えたままで、青い匂いの香る木の葉の皿を、片手で小白に突き出した。
 香辛料の良く利いた匂いだった。男は武骨な握り拳で、その特長ある団子鼻をごしごしと擦った。
「ほらよ」
 香ばしい香りのする熱い焼き肉には、新鮮な白い葱がばらばらと散らしかけてある。
「さあ、持って」
 男は小さな青蜜柑の実を絞る。ふっと爽やかな風が吹くようだった。新鮮な酸味が、小白の生気を蘇らせた。
「生きているからには、食わなければな。それに、どうせ食うなら旨く食う」
 肉汁の旨みと柑橘の酸っぱさ、そこに新鮮な刻み葱とが混じり合い、青葉の香りを吸っていた。その一皿が、狂いかけた小白の正気を、危ういところで保った。
「良く噛めよ」
 固く焼いた小麦の菓子には、砕いた椽の実と胡麻が練り込んである。
「干した飯粒ばかりじゃ、飽きもくるさ」
 小白の行糧入れの麻袋を持ち上げて、男は振ってみる。
「何とまあ、無茶なお方だ」
 この男、絶対に日の影の民などではない。確かに自分と同じ、生きた血液の流れる人間だった。それがどうして大屍林の真っ只中にいるのか。
「そうだな、俺もそれが訊きたい」
 何かのいたずらを仕掛けるように、男は眸を輝かせて小白を見た。癖なのか、唇の端が僅かだけ、にっと上がる。六連と小白はそうして出会った。
「小白、か・・」
 六連は絵師の名を口の中で呟く。何か記憶に触れるものがあった。
「そう、坊門の小白」
「知っているのか、私の名を」
「ああ・・。名高い絵師だ」
「放蕩絵師の間違いだろう」
 小白の言葉に、六連はふっと笑った。
「あんたは越境してから、この大屍林にちょうど半月、十五日いる」
「私が・・?」
 どうして正確に数えたのか。
「初めからあんたには、見張りが付いていたからね」
「見張が私に付いていた?」
 小白の語尾が上がった。
「誰だ、一体それは」
「ここの主さ」
 小白はむっと押し黙る。この大屍林の主とは、夜叉神ではないのか。ではその夜叉神が自ら自分を見張っていたのか。
「違う違う」
 小白の疑問を先取りするように、六連は否定した。
「ここは確かに夜叉神の森だ。だが主は俺たちと同じ、生きた人間なのさ」
 六連は水気をたっぷり含んだ果実を、ぽいと投げてよこす。
「毒じゃない。ここの果物は、うまい」
 焚火にかざすと、果物の艶やかな膚が瑪瑙の色に輝いた。
「そうさなあ、ここと日の天子の治める大地とは、少し許り法ってものが違うな」
 闇に閉ざされた樹海の向こうで、誰かが囁くように風が鳴った。
「月宮殿の法王さまは、そいつをたっぷりと御存じのはずだろうがな」
 そう言った時だけ、六連の身体から強い気配が発散した。
「ここは、禁忌の場所ではないのか」
「いや、紛れもない、禁じられた屍肉漁りの土地さ」
 六連は手にした果実に、がぶりと歯を立てた。まるで人肉を食いちぎるように、赤い果肉と果汁を啜る。
「はっきりと説明してくれないか」
「なあに、はっきりもなにも、ここにはご利益を授けてくれる夜叉神なんぞは、いないってことだ」
「では、あの、あれは何なのだ」
 小白は夜叉神がいつも帰る、北方の空を指した。
「ああ、夜叉神はいるが、それと坊主どもの教えとは何の関わりもない」
「それではあれは、ただの屍肉食いでしかないのか」
「まあ、そうとばかりも言えないらしい」
「らしい・・?」
「ここの住人の多くは、確かに夜叉神を信仰しているからな」
 どうしてもこの男の言うことは理解出来ない。輪に成った縄の、端がどこかを探すような気がした。
「そう、分かりにくい話だ」
 溜息をつくように、六連は言った。
「この俺も、初めて北山境を越えて来た時には、やっぱり同じようなものだった」

第二章 六連 八

 大屍林の緑陰に埋もれ、幾つかの集落がある。六連はそう言った。
 冬にも葉を落さない常緑の樹木。大屍林の樹相は、ここが天山の南より暖かい気候に属することを示していた。暖かい海の潮が、北辺の岸を洗うと六連は言う。
「湿った風が、北西から来る」
 その風を捉えて帆を張り、果てしない北を目指した者もいた。北山境の絶望の境界を越えた者は、決して自分だけではないことを小白は知った。
 ひっそりと樹間に散る小舎は、どれもが自然そのものの、落ち着いた樹木の色合いを帯びていた。小さな流れを引き込み、小舎の傍らを通す。その水が生活の水となる。
 ここには王の土地にはない静寂と、ほんの少しの豊かさがあった。
「無税だ」
 冗談のように六連が言う。
「だが蓄め過ぎると、誰かに盗まれちまう」 日の影の民のことを、六連はそう言った。それから、いかにも楽しそうに声を立てて笑う。
「言ってみりゃ、ここは盗人の王国だな」
 国もなく銭もなく税もない。役人もいなければ、王もいない。たとえ物を盗んでも、誰も捕まえに来ない。
「盗めるほどの物は、どこででも手に入るのが、ここの暮しだ」
 六連は北山境の、屍臭に満ちた腐肉の森こそがこの地の護りだと言う。
「だが、危険もたっぷりと有る」
 屍肉食いはそこいら中を徘徊するし、病を得れば医師も薬師もいない。大怪我でもすれば、痛みに唸りながら死ぬしかない。
「それでもまだ、戻るよりはましと思う者たちだけがここに住む」
 戻れば保戸渓、玉門関の僧兵に矢を射掛けられ、送り衆に出会えば邪霊祓の不動太刀を受ける。どのみち生きてはいられない。
「小白よ、あんたはどうするね」
 一軒の小舎の前で立ち止まり、六連は小白に問う。
「あんたには選ぶことが出来る」
 その小舎は分厚い木の皮で、切り妻の屋根を葺いてあった。掘っ立て柱の壁の隙間は、苔を混ぜた土で埋めてある。そこに、茶色い茸が何本も生えている。人の住む証拠には、吹き抜きの突き上げ窓から、青い炊煙がゆったりと昇っていた。
「紹介しよう、黄泉の主だ」
 戸口に扉はない。厚地の毛織りの垂れを撥ね上げ、六連は暗い部屋に入った。小舎の土間には小さな石積みの炉が掘られ、その傍で女が一人、自在鈎から釣り下げた土鍋を掻き回している。
「六連か」
 さして若くはないが、声には艶があった。薄暗い小舎の中でも、ほんのりと白い貌が浮き上がるようだった。
「相変わらず鼻が良いではないか」
「ほう、茸の乳酪煮か」
「小麦の切り込みが具では嫌か」
「大変結構」
「肉は脂の乗った猪だ」
 それだけ言うと、女は六連に外を指差して合図する。六連は黙って再び外へ出た。小白は取り残されたように、女と小舎の中で向かい合う。
 暫く女は鍋を見詰めたきりで、何もしゃべらない。小白の方をみようともしない。小白は小白で、ただぼうっと立っていた。
 女が粗朶をパキッと折って、炉の火にくべた。
「ここは誰の土地でもないから、誰が住んでも構わない」
「私は、ここに住みたい訳ではない」
 女はゆっくりと頷く。
「では、気が済んだらさっさと帰るつもりでいたのかい」
「帰ろうと思って、北山境を越えたのではない」
 小白の強い語気に女は笑った。笑うと、その女がどれほど美しいのかが良く分かった。僅かに自分の身体が前へ出たのを、小白は意識していない。
「ただこの目で見たかった」
「見て、それからどうしようと」
「描きたかった」
「何を」
「・・分からない」
 小白は重苦しくそう言った。
「・・今となっては、分からない」
 木杓子で鍋を叩く音が、二度した。ずっしりと重い響きだった。その音を聞くと女は、腰掛けた横木から立ち上がる。挙措は滑らかで、名ある遊女の芸を見るように、鮮やかに眸に沁みた。
「名は」
「坊門の小白」
「私は銀」
 眉も落さず、歯も染めず、人の妻ではない自由な身と自らを示す。或いは神仕えの巫女か、遊女のように。
「六連は面白い男を連れてきた」
 小白は腑抜けたように銀を見詰めていた。銀が自分の目の前に立ってから、初めてそのことに気付く。炉の火に反射する銀の眸は、小白の視線を捉えて離さない。魔を宿す眸に魅入られたように、小白の思考は麻痺しかけていた。
「お前は、ここには住めない男らしいね」
 優美な形に作った拳の甲で、銀は小白の胸を軽く突く。
「だけど、時々森に入り込んで来る欲深な奴らとも違う」
「そんなに、人が入り込むのか」
「ああ、多いね。けれど、最初から死ぬ気で越えた者以外は、大抵は気が狂うかして命を落す」
 銀はふと息を吐いて、自分の胸を抱くようにして両肘を持つ。俯いて何かを考えるようだった。小白はようやく、銀の眸の呪縛が解けた気がした。
「お前はやっぱり、六連と一緒に帰るべきだね」
「帰って、何をしろと」
 小白には自分の帰るべき場所が見えない。だからこそ、北山境を越えた。自分の生きる場所がこの地上のどこにもないことを、小白は知っていた。
 それは、受け入れる土地のことではない。心が故郷と認める場所のことだった。たとえどこにいても、自分はもう漂泊の身に過ぎなかった。
「お前には、夢が必要だ」
「夢・・?」
 そんなものが、今の自分に残されていたのかと思う。
「夢などはもう、ない」
 あの夜叉神さえ描ければと思った。そうすれば自分の夢が見える、と。だが、描く度に絶望が来る。
「やれやれ」
 銀がひとつ息を吐いた。
「性根の暗い男だこと」
「私は暗いのか」
「ああ、暗いね」
 それから銀は、ふっと笑った。
「六連はね、あいつは盗人だ」
 銀の口調が楽しそうになる。
「だからあいつから、夢の盗み方を習うと良い」
「ばかな」
「いいや。六連の一座はみんな、六連に夢の盗み方を教わった者たちばかりだ」
 小白はその時、何かの音を聞いた。竹管が鳴る細い音に似た、澄んだ音が大屍林に響き渡る。
「さ、帰ってきたようだ」
 銀は壁際の棚の所へ行くと、大振りな木の椀を四つ取り降ろした。それが食事をする人数らしい。
「そこに掛けて」
 炉前の横木を示す指先が、撓むように艶を湛えていた。だが口調は荒い。
「さっさとして」
 小白が座った時。六連が誰かと語りながら戻ってきた。連れは、黄金の髪をした不思議な男だった。小白の初めて見る、他界の住人だった。柔らかい鹿革の沓で、男は音もなくそっと歩く。
「これくらいで良いだろう」
 六連は銀に青々とした草を差し出す。薬味の香草がなければ、鍋は出来上がらない。
「ああ、助かったよ」
 無造作に銀は香草を千切り、ぽいと鍋に投げ込んだ。あとは二度ほど掻き回し、最後に塩を振る。
「客からだね」
 小白の前に突き出された椀からは、熱い湯気が香りと一緒に上る。緑の香草が白い乳酪に浮かび、鮮やかな色の対比を見せた。
 熱い汁を一口含んだだけで、茸の滋味が口中に行き渡るのを感じる。小白はなぜか、涙が出て止まらなかった。
「旨いか」
 六連が問い掛けるが、小白はただ涙を流して頷くだけだった。そんな小白の横顔を、異人の男は首をかしげて見ていた。

第二章 六連 九

 雁渡りの峠を、六連と小白が行く。
 新雪が白く積もる渓の下には、氷河が眠っていた。鋭い風のほかには、何の音も聞こえない。ただ時折り地に伏す獣のように、氷河がごろごろと唸った。
 小白は目を閉じると、氷の下に潜む精霊の姿を想い描いた。軋みながら割れる氷の裂け目に、青い水煙が揺れ、黄金に輝く氷の眸が燃える。
「落ちるなよ」
 六連は小白の帯に通した縄を引く。お互いに長い竹杖を握りあい、万一に備えていた。 冬の雁渡り越えは、殆ど不可能に等しい。だが北山境を戻ることは出来なかった。
 玉門関の僧兵は、塞門の北を向いて立っている。死者と送り衆、そして時には聖都に棲む妖霊とされる不思議な影が、僧兵の立つ塞門を潜り北へと越える。だが戻る者は、柿色衣の送り衆だけだった。
 柿色の衣ではない、別の色を身に纏う者が近付けば、僧兵は容赦なく射殺す。神聖な王国を、黄泉の妖霊や屍人食いに穢させることは出来なかった。
 何本もの矢を身に突き立てた死体が、どれほど人の姿に似ていようと、それは視覚の誤りに過ぎない。除災の経文を唱える送り衆の手で担がれ、魔物の屍体は大屍林の闇に送り返される。送り衆は義務を、そうして遂行する。それが聖都に対して支払う、送り衆の税の一部をなしていた。
「俺たちはだから、死んじまってる訳だ」
 六連は喉の奥で笑う。
「だがあと二日もすれば、また関銭を取られる立場に逆戻りだな」
 もっとも六連は、どう入手したのか内苑坊政所の下文を所持している。諸関御免の下文は、夜叉神社の神人札とは通用する価値が違う。そこに坊主の握る権力が、形として表われていた。
 坊門の絵師である小白は、本来は画工司に属し、やはり同様に天下御免の権利を持つ。だが、日の天子の権威はとっくに地上から消え失せている。絵師を養う食封は権門に吸収され尽くし、新たに主を得なければ、誰も暮しが立たなかった。
「気にするな」
 小白が思う通行の煩いを、六連は気にも止めていない。
「年にたったの二百文で済む」
 それで政所下文を買うのだと笑う。
「儲かるはずだな」
 六連はそう言いながら、野営の場所を目で探っていた。目標の峰と峰との稜線を結び、交点の延長をまた別の目印で切る。その場所を誰かが六連に教えていた。
「あそこだ」
 天山の峰々は禁足の浄地の筈。それでも、誰かが立ち入る。
「まだ陽はあるが、今日はこんなところだろうな」
 山での夜行は禁物だった。たとえ修験でも自らの行場以外では夜駆けをしない。
「ここで泊まれば、明日の夕方に麓へ降りることになる」
「人目をさけるのか」
「山の爺さまと間違えられたら、えらいことだからな」
 天山の峰々は、恐ろしい妖怪噺もたっぷりと抱え込んでいる。事実、山に怪奇は付き物だった。
 樹木の限界を越えた高山では、燃やすものは何もない。僅かに蝋燭の灯が、気休めの温もりを揺らす。
「たとえあんたが男でも、抱き合って眠りたいくらいだ」
 吹き溜りの雪を幾つか欠いて、風避けに蝋燭の周囲に立てる。ほんのりと灯は雪を透かし、淡い温かみを滲ませた。風の音が、頭上の岩角を鋭く鳴って過ぎた。
「戻ったら、酒を呑もうな」
 灯を見詰めながら、六連はしみじみとそう言う。
「みんなきっと、今頃は酒の匂いをかぐだけでよだれを流してるだろうな」
 どれほど酒好きな連中かは、十分承知していた。だが自分が戻るまでの間は、けっして酒を口にしないだろうことも。
「気の良い連中だ」
 六連は言う。
「悪人は一人も居ない」
「盗人は悪人ではないのか」
「あんた絵師らしくないことを言うなあ」
 襟の中に顔を埋め、六連は呆れたように言う。仰向いた夜空には、満天の星が凍り付くように燦めいていた。
「面に出るね、そんなことは。悪人かそうでないかは稼業の問題じゃないさ」
「怒ったのか」
「ああ、怒ったね」
 それきり本当に六連は黙ってしまった。

第三章 遭遇 一

 通称は仙人滝。特に世間に名を知られた滝ではない。だが修験や密僧には、硬質な滝の水が代え難かった。
 水は風が凍ったように澄んでいた。仙人滝の名は、昔その滝で修行したと言う方術士にちなむ。
 往時そこには七人の仙人が集った。そう伝承は語る。今はいない。だが仙界の気を求めて、時には行者が篭りもする。久米が出会ったのも、そうした行者の類と思われた。
 早朝に滝へ現われたからには、里へ帰る修験ではなかった。どこかの堂を借りて、雪の冬を越そうという、命懸けの荒行を選んだ者に相違ない。
 久米に気付くと二人の行者は、それとなく辞儀をした。どうやら師弟らしいが、若い弟子の様子が少々気になった。
 久米に構わず、二人は浄衣を脱ぎ落とす。この寒中に滝行をするらしい。
 久米の不審は当たっていた。禊にも法があるが、この二人は下帯さえも身に着けない。浄衣さえも穢れたものとする。
 若い弟子は、女だった。久米の目も気にせずに、乳房を震わせて激しく九字を切る。壮年の師と並んで立ち、ともに手印を結んで滝の飛沫を潜る。
 膝の辺りを激しい流れが洗っていた。白い肌が、冷水を浴びて見る間に紅潮して行く。見まいとは思っても、久米の視線は自然と二人の行者に向いた。
 坐法岩に調息する久米の想念に、白い光りが躍る。胸の辺りが騒いだ。とは言っても、このまま目を閉じるのも惜しい気がする。
 師の表情は計り難かった。弟子の裸体を当り前と感じているのか。或いは娘ではあるまいかと思われるほどに、弟子の性を消し去っていた。だが身内であれば、久米の視線をそれなりに意識はするだろう。
 久米はいつの間にか女体よりも、その男の貌に引かれていた。
 不思議な穏やかさを纏っていた。普通、滝行をする者は、滝に負けまいとして厳しい口元をする。一心不乱に真言を激しく唱える者もいる。一瞬でも気が萎えれば、行は崩れかねなかった。だが、その男は違った。
 滝の白い光りが、行者の身体を透り抜けるようにも見える。
 久米の目には、行者の念々が滝水ごと流れ落ち、透明になってしまうようにも思えた。人が消え、絶え間なく落ちる滝だけが、白く目に映る。
 どれほどの間、見入っていたのか。久米は雀の声に我に返った。
 水辺に雀が降りていた。時折り細かく動きながら、その度に仲間を呼ぶのか短く鳴く。その時、久米は気付いた。
 滝の凄じい音の中で、雀の囀りなどは掻き消され、聞こえる筈がなかった。だが、確かに聞こえる。
 久米がはっとした時、誰かが肩を押えた。「良く、なされた」
 いつ水から上がったのか、行者が久米の横にいた。
「雀・・、のことですか」
 なぜこの男にそれが、と思いながらも、久米は訊き返さずにはいられなかった。
「そう、雀」
 にっこりと笑った男が、初めて寒そうに身を顫わせた。
「火を馳走して貰えぬか」
 久米は、自分が余程の間抜け面をしているのではないかと慌てた。
 粗朶を思い切って盛大にくべた。身づくろいを終えた女は、初めてそこで恥じらいらしきものを見せた。燃える火に向いた頬が、血の色を甦らせ輝いていた。
 壮年の枯淡な味わいをした行者は二色。若い弟子は、晒と名乗った。

第三章 遭遇 二

 男の左右の眸の色が違う。右は深い鳶色なのに対し、左の眸は煙るように青味を帯びていた。二色の通称はそこから来る。
「真名というものがある」
 久米に向かい、二色はそう始めた。
 仙人滝での荒行は、あれからすでに一巡していた。久米は自分に課した行の最中にも、二人と多く交叉する。その二人は、明らかに凡百の行者とは異なっていた。
「しかし、己に志がなければ、真名は毒でしかない」
 真名とは、人の裡に棲む神。神の摂理が人の味わう快楽を決する。そう二色は言う。
「真名に従うことで、心は愉悦を得る」
 静かに説く二色の隣では、晒が顎を柔らかく膝に載せ、焚火の焔を見詰めていた。
 冬篭りの行をすると久米は思っていた。しかし二人が篭る礼盤石護法堂の壁には、それ程の焚き木は積まれていない。
「人は真名の器であり、真名の乗り物として生かされている」
 火食を忌む訳でもないのは、蕎麦粉を湯で溶くのをみても分かる。殆ど行者らしき部分は感じられないが、それでもこの二人は、圧倒的な何かの力を所有していた。
「所有は、当たらないな」
 久米の思考を先回りして二色が言う。
「むしろ開放だ」
 久米は自分を、刃物のように研ぎ澄まそうとしていた。その鋭い刃が、自分に答えを与えてくれると思った。見付からなければ、阿倶利をどうして救えるのか。自分の無力が、ただ悔しかった。
 阿倶利は救けてくれと言った。では一体、何から救けて欲しいと言ったのか。それが分からない。自分から望み、矢四郎と共に行った筈の阿倶利が、何を求めたのか。
「分かるか」
 二色が目の前に掌をかざしていた。
「分からない」
 ふと、笑うように二色は息を吐く。
「人は人からしか生れぬ」
 かざした掌が、焚火の焔に血の赤さを透かしていた。
「そして真名は真名のためだけにある」
「では、その真名と人とは関係がないでしょう」
「いいや、ある」
 晒は二人の話を聞きながら、低く歌を歌っていた。久米の知らない歌は、知らない場所へ連れて行くように、揺れながらどこまでも続いていた。
「真名がなければ、人は生れない」
 晒の齢が幾つか、久米はぼんやり考えていた。久米には阿倶利の抱いた想いが分からない。女である晒ならば、それを知る智恵を持つのか。
「真名は人を動かす甘い蜜を吐く」
「では、その真名が・・」
 阿倶利を動かしたのだろうか。久米にはそうは思えなかった。
「真名の吐く甘い蜜に惑溺するならば、身はやがて破滅に至る」
 真名は快楽の蜜を放出し、人の行動を限定する。その味わいだけを追及すれば、やがては水に渇く人のように狂い死ぬ。二色はそう言った。
「では、苦痛は」
「ほう」
 片目を伏せて、二色は久米を見た。
「苦痛は本来、真名の乗り物である人を損なう。だが、真名は器の自壊を避けるために、苦痛を打ち消す幻影を与える」
「幻影・・?」
「それを、浮遊と呼ぶ。浮遊あるがために、人は苦痛を乗り越えて生きられる」
 耐え難い苦行を行なえるのも、浮遊の働きによると二色は言う。
「ではもう一つ」
 久米は二色に問う。
「人が、永遠に生きるなどと言うことは起きますか」
 二色は両目を閉じた。ほんの少しの間、思考する。
「あるかも知れない」
 薄く閉じた目の間から、青い光りが差すようにも見える。
「人に与えられた寿命よりも、遥かに永い時を生きた存在はある。だが、永遠となると、それはもう人とは呼べまい」
「知っていますね」
 いきなり久米は言った。二色が知っているのだとしか思えない。
「そうだ」
 ゆっくりと、青い片目が先に開く。
「偶然に出会ったわけではない。あの奇怪な真名の事情を知る者を、お前さんを探していた」
 真名は全ての人の裡に存在する。そして己の裡の真名に触れることは、別な人の真名にも触れる。一部は全体であり、全体は部分を決定する。それが二色を導いたと。
「異常な真名が、私をここへ呼んだ」
「薬師丸」
 噛み付くように久米はその名を言った。
「今は消えているが、確かにあの院内の荘で異様な真名が吹き出していた」
「それが、人を動かすと言うのですか」
 その異常さが、阿倶利を、薬師丸を巻き込んだものの正体なのだろうか。久米の中で何かが弾けた。
 法士と言う。二色は法士の名の生き物と自分を言う。その名の意味するものが何かは、もう不明だと語り、それでも、激しい真名の動きに二色は反応した。
「昔、法士の守護した聖山があった。今はない。法士は、その山のために存在したのだと伝えている。まあ私は残り滓に過ぎないが、真名を聴いて生きる法士であることを止めたら、その滓でさえもない」
 初めて二色が笑うのを見た気がする。そんな不思議な笑い方を、二色はした。

第三章 遭遇 三

 毛鞘の太刀を、小黒丸が差し出した。
「俺に出来るのは、まあこれくらいのところだな」
 久米は黙って太刀を受け取る。
「悪く思うなよ」
 久米は太刀を抜き、軽く素振りをくれた。大した力を加えたとも思えないが、太刀は金切り声に似た唸りで風を切り裂く。
「おい、久米よ・・」
 小黒丸は呆れて久米を見た。
「あれほどの怠け者が、随分と修行に励んだようじゃねえか」
 小黒丸の言葉通りに、久米が本気で武技を磨くところを、薬師丸警固衆の誰もが知らない。それが僅かの間に、面差しまでがどこか変わって見える。血を吐く程の鍛錬を積んだとしか思えなかった。
「もったいねえなあ・・」
 小黒丸は無駄とは思っても、もう一度久米を誘わずにはいられなかった。久米の天賦の才は、誰よりも久米を仕込んだ小黒丸が知っている。
「お前は怠け者だからなあ」
 警固衆の子供に同じ修行を課しても、久米だけはいつも手を抜く。いつの間にか逃げ出していないか、さっさとしくじって見せる。修行の言葉を余程苦手としていた。それでいて教えた技の上達は、誰よりも早かった。
「内苑坊に仕える気はないのか」
 小黒丸は内苑坊政所を通じ、身分の上昇を得ていた。
 それだけではない。久米の父母兄弟も、家ぐるみ、薬師丸警固衆が全て本所の寄人として、下人を召し使う身分に成っていた。
「大人のやることは、汚いってえか」
 応えない久米に、小黒丸は仕方なく訊いてみた。できるなら触れたくない話題を、どうやら言わなければならない。
「阿倶利がどうしてるか、知っているか」
 薬師丸の家を犠牲にすることで、院内の荘は百姓から下人の端まで余録を得ていた。
 それほどの価値が、薬師丸の薬種蔵には積まれていたらしい。
「阿倶利は・・」
 久米は初めて口を開いた。
「死ぬかもしれない」
 小黒丸には言葉の意味が伝わらなかった。なぜと問うように久米を見る。久米はただ、首を振った。
「それより、海門神人の札が欲しい」
 関銭免除の神人札は、行旅の身分を保証する。誰がその者を庇護するのか、それが明らかに示した。
「やるよ。だがそれだけじゃ足りないのは、承知しているだろうな」
 今時、一社の神人札だけで旅は出来ない。内苑坊の政所下文が最も幅を利かせた。
「いや、そっちは要らない。だが海門のは、三人分欲しい」
「ほう・・」
 小黒丸はなぜとは訊き返さなかった。どのみち久米には答える気がない。
「銭は」
「いらない」
 何を話しても、久米からは短い応えしか戻らない。小黒丸は久米の肩に手を置き、耳元で囁いた。
「いつでも戻ってこい。阿倶利の居場所も心配はいらない」
 久米は、やはり応えなかった。

第三章 遭遇 四

 灰色の風の中を、海鳥がよろけながら飛んで行く。臼淵に砕ける波音が、上げ潮の迫る刻限を知らせていた。
 土岐島の磯に寄せる潮は、この季節、異常に速い。岩海苔を摘む海人でさえ、時折り潮に追い付かれることがあった。
 水が膝を越えれば、多くはそのまま岸には帰れなかった。海をさすらう夷神となるか、土岐島の黄泉穴を埋める黒い影に変じた。
 湯滝浜の海人は冬至を挟む五日間を、特に忌み日とする。誰も海の偉大な力の前には勝てなかった。それでも、結界を侵して近付く者はある。
「潮が来れば、はっきりする」
 二丁の櫓を高支木でぶっ違えた小船が波を切る。左右の手で同時に操る櫓が、瀬波を豪快に砕いてぐりぐりと震えた。
「二色。櫓が折れそうだ」
 久米の顔色が変わっていた。海を見たこともなければ、まして乗り出したことは皆無。青黒い波の後ろを、久米の知らない魚がすっと横切って通る。
「もともとこんな船は、海には向かない。いつひっくり返っても不思議じゃないな」
 本気で言うらしい二色の言葉に、久米は晒を振り返った。晒はだが、笑っている。
「俺は泳げない」
「では、死ぬでしょうね」
 柔らかそうに晒が微笑む。二色は遠くへ物を抛るように、あっさりと言った。
「私は泳げるが、この潮ではやっぱり死ぬだろうよ」
 湯滝浜で恐れる潮が、激しくぶつかる。晒のふっくらとした顎が指す先では、その潮が不気味に盛り上がって見えた。
「ほら。でも、死ぬ時は一緒です」
 久米は良く分からない生き物のように、晒のまだ若い顎を値踏みする。
「法士には、あなたのように若い者は多いのでしょうか」
「若い・・?」
 晒が笑った。
「久米よりは、ずっと老けていると思っていたけのだけれど」
 黒い髪をきりりと結い上げ、蘇芳染めの奇妙な一枚布を身に巻き付けた服装は、かなり異風に映る。それでも本人はその方が楽なのだ言っていた。久米は布地の揺れる下の、晒の白い肌を不意に思い出した。
「あ、潮が・・」
 いつの間にか、波が丈高く泡立っていた。白い怒涛が鳴っていた。白馬が鞍を揃えて敵に迫るように、波は一列に連なり寄せる。
 波は寄せる度に、盛り上がる高さを増していた。もし一度でも横から食らえば、それだけで小船は覆っただろう。次第に木の葉のように船が揺れ始める。
「そろそろか」
 青い顔で舷側を掴む久米に、二色が促す。島を見ろ、とその顎が言っていた。
「そう高くはない場所をな」
 波は幾つもの、灰色の海蝕崖の襞に吸い込まれる。崖に折られた襞は、一つ一つが漁師の言葉で名を与えられていた。だが今ふたりが探すのは、漁師が普段知る土岐島の磯ではなかった。
 幾つもの名で、磯根が呼ばれる。波の下にある岩は漁場でもあった。漁師は崖の複雑な特長を、磯根を探り当てる目標とした。だが知り尽くしたはずの土岐島の崖に、漁師の知らない襞が、一つだけ折り畳まれていた。
 そんな不可解な話はなかった。土岐島のどこに船を回そうが、どこを潜ろうが、何百年と漁を続けた湯滝浜漁師の庭に、間違いはない。それでも、二色はそこだと言う。
「あの鳥か?」
 久米が、鳶らしき茶色の翼を指す。
「そうだ」
 晒が指笛を細く鳴らす。微妙な起伏をはらむ旋律は、どこか鳥の囀りに似て、細く揺れた。やがて鳥は、崖の上空をゆっくりと横切り始める。
「頼むぞ・・」
 久米としては、こんなところに長居はしたくなかった。生きた心地がしない。殆ど祈るように鳥を見た。
 ガンと舳先に波が砕けたのと、久米がかすれた声で叫んだのとが一緒だった。
「あれは・・」
 鳥が群れ松の枝先を過ぎる瞬間。その時だけ、ふわりとふらついた。
「あそこだ」
 視線をその場に固定したまま、二色が波に逆らう櫓の手を止めた。小刻みに櫓を動かして、徐々に崖へと寄って行く。
 しくじれば艫から岩に、ばりばりと食われてしまいそうだった。
「ここだ」
 久米は二色の背後から指す。晒が頷いた。崖には何の変化も見出せない。そこに別な襞が折り込まれているとは、どうしても信じられなかった。それでも、そこだと言う。
「間違いありません」
 晒の言葉に、久米は息を吐く。
 ずぶりと船が、崖に食い込んだ。一瞬そう見えたが、実際は崖の方が船に食い込んでいた。灰色の崖に飲み込まれて、船がどんどん短くなって行く。
 久米は息を詰めた。覚悟はしていたが、余りにも異常な光景には違いない。
 土岐島は、お客島とも呼ばれる。島は昔そこにはなく、聖都の淀溜りから、はるばる流れ下って湯滝浜に落ち着いた。ばかげた話だが、土地ではそう伝承する。
「さあて、どこまで人が正しく伝えるのか、それは分からない」
 二色は淡い光りの底で、久米をその場所へ導いた。そここそが、法士の発祥の地だと二色は言う。
 鐘乳洞の底から空を見上げたように、すっぽりと筒状に島の内部が抜けている。首が痛くなる程上を向いて、初めて灰色の冬空が見えた。
「満月のようだ」
 淡い円を描いて落下する光りは、石英の砂粒に仄かな光暈を帯びさせる。さして広くもない内部の砂に、白色の石が砕けていた。それが、目的の場所。
「昔、ここに法士の試しとされるものがあった。これが、その名残りだ」
 二色の指す石は、三本の爪が丸い玉を割り砕く形に散っていた。
「この場所は許夜と呼ばれ、法士は一人、真玉と語らなければならなかった」
 二色は砂に膝をつく。
「恐ろしい試しだったそうだ。語る真玉は永遠を紡ぎ出し、踏み迷えばこの地上には戻れない」
 礼拝して二色は額を砕けた石に寄せた。
「真名を開けば、まだ、この真玉の語った言葉が木霊のように聞こえる」
 その木霊が、久米に与える徴し。
「あの日に感じた激しい真名の動きに、お前は染まっている」
 二色は砂を鳴らして立った。久米に向き合い立つ二色の片目が、砂の光暈を青く宿していた。
「悪いものに、魅入られた」
 二色の顔全体に突然笑いが広がる。
「だが、私はうれしいよ。ざまを見ろ」
 久米には二色の悪態の意味が分からなかった。晒はぼんやりと砂の上に座ったまま、二人の話を聞く様子もない。
「その木霊が聞こえたら、約束を果たすのだな」
「必ず。お前の思う通りにな」
 それが法士の罠だった。
 久米は坐法を整えた。あの仙人滝の時のように、念々が過ぎるのを待つ。追わずに、払わずに、勝手な想いが湧くに任せ、意識の表層を想念が通過するまま、流れに乗る。
 身体の内部。どこかで、石英の砂粒がキラと光った。
 波立つ想念は想念のまま、意識の底へと砂粒が沈んで行く。キラキラと燦めきながら、深い闇の底へ。
 誰も自分を呼んでいなかった。呼ぶべき自分の名がない。では、今の自分は何か。名付けられないものと呼ぶしかない。
 名付けられないものは、全ての場所に遍在した。一粒の石英の燦めきは、深海の闇の中で無数の燦めきと同時に沈んで行く。
 下降。上昇。意味が突然に消えた。方位が消え、距離が消えた。存在も時も消えた。無も消えた。光りも。闇も。
 それが、真玉の語った言葉の木霊なのか。確かにそれは木霊としてでさえ、危険な罠に満ちていた。もし意志を失えば、永久に還ることは不可能。自分を構成する、全ての意味が、完全に消失していた。
 誰かが呼んでいた。呼ばれたその時に、久米は名付けられないものである、自分自身を見た。再び暗黒を見た。暗黒の中心には、龍が蟠っていた。それが始源だった。
 始源の龍は始まった瞬間に、燦めく輝きを生じて砕けた。砕けて万象を生じる。
 万象は微細な龍を宿し、微細な龍は再び始源の龍を生む。自らの始まりに自らがあり、暗黒は生まれた瞬間に光りと方向を持つ。
 一部は全体であり全体は一部を決定する。真名は、偏在だった。
「良く、戻ってきたな」
 二色が近々と顔を寄せていた。燦めく石英の砂は、終末の光りのように輝いていた。
「呼んだのは、あなたですか」
 二色は首を振る。
「自分自身だ」
「思い出しました」
 二色が頷く。
「あなたは、言いましたね」
「ああ」
「志がなければ、真名は毒でしかない」
 法士の試しを、久米は通過した。

第三章 遭遇 五

 聖都から余程遠い場所には、荼毘に付された遺骨を預かる聖がいた。夜叉神の功徳を説いて布施を受け、遺骨を聖都へ届ける。あとは送り衆が北山境を越えて、亡魂の供養を遂げた。
 北山への街道を、その骨聖がふらふらと行く。久米は背後を離れて歩きながら、晒と二色の位置を確認する。二人はそう遠くはない場所で、その骨聖を挟んでいた。
 真名を開くとは、或る意味では神を感じることにも通じた。神とは当然、名付けられないものであり、限定もされない。
 久米は土岐島の許夜の岩屋で、二色が自らを残り滓と呼ぶ意味を知った。全く人は、残り滓でしかない。
 人は真名に乗られた道具に過ぎない。真名は真名のためだけに存在する。そして真名は存在し続けるために、浮遊を吐く。
 浮遊とは舌を痺れさせる、甘い蜜の味を言う。志がなければ、真名は人にとって毒でしかないと言う理由が、そこにある。浮遊は人の思考と行動を、背後から操った。
 真名と折り合うことでしか、人は人らしく生きられないだろうと久米は思う。
 そして自らが真名の乗り物と知ってしまえば、他人との意志の疎通は、その次元を飛躍させる。久米が今、二色と晒と気配を通わせるのも、真名の働きによった。
「おう!お聖人!」
 久米は振り返った。とても神聖な人に掛ける言葉とは思えない。横着に近い叫びが骨聖を呼ぶ。ぱっと目に映る髯面の男が、轍の水たまりを避けながら走ってくる。
「待った待った!」
 奇態。そうとしか言えない。垂髪に藺下々の女草鞋を履き、髯男は誰が見ても稚児の形をしている。だがとてもそんな年齢でも、図体でもなかった。
 毛むくじゃらの脛を見せ、藻屑蟹のような腕を振り上げ、髯男は小砂利を蹴って迫ってくる。女物の小袖がバタバタと、派手に翻っていた。
 骨聖は振り向いた。破れた菅笠の間から、異様な大稚児姿を静かに窺う。久米は唇を引き締めた。骨聖の周囲に、陽炎のような揺らぎが立つ。
「たったったっと!」
 久米を追い抜いて、髯面の稚児は凄じい勢いで通った。
 驚いたことに、男は香まで膚に焚きしめている。そのくせ腕捲りした肩の付け根には、隆々とした筋肉が盛り上がる。
「そらよ!」
 髯稚児が跳躍した。ぱっと褌が見える。そこまでは女には作っていなかった。着地と同時に男は、骨聖の笠をむしり取った。
「おっ!」
 髯稚児は叫びを上げた。骨聖の首が、笠ごと傾いた。あとは藁屑のように地面に崩れ落ちた。
 久米は瞬時に地を蹴った。そう遠くへ行ける筈がない。骨聖の身体を奪ったものは、まだその辺りで別な肉体に宿る。
「こら!待て!」
 倒れた骨聖の横を擦り抜ける久米に、男が手を伸ばした。
「おう・・?」
 久米はゆらりと閃くように、男の指先を躱した。髯稚児は一瞬目を見張ると、にやりと凄い笑みをする。
「てめえも仲間か!」
 意識には指向性がある。背後から来る髯稚児の脂ぎった意識を浴びながら、久米は二色を呼んだ。
 骨聖の肉体を使用したものは、使い捨てると即座にどこかへ跳躍した。跳躍する時に真名を引き千切られた骨聖は、一瞬に死ぬ。
 惨いことを平然とする神経は、とても人のものではない。だが人でなければ、そんなこともしなかった。久米は、真名遣いの本体を追った。
「久米」
 堆肥の馬糞拾いの近所の童が、馬借の後ろを追いかけて行く。その芦毛の馬に並び、晒が走っていた。小砂利混じりの道はすぐその先で、つづら折れの登り坂に変わる。
「二度、跳んだ」
 晒が言う。跳躍の足場に使われたのは、関の明神下でこぼれを待つ乞食の老人。
 真名遣いは瀕死の者か、眠りに落ちた者の真名に乗る。乞食は自分の身に何が起きたかわからない内に、突然死を迎えていた。
 三方から測ることで、跳躍の地点は大体の予想が付く。久米は髯稚児を後ろに従えたまま、つづら折れの山道へと入り込んだ。
 山坂の道は雨水が崖から湧き出し、赤土は滑りやすい。弓を肩に置く関守りが、久米を見て目を見張る。何かを吠えていたが、久米の耳には入らなかった。
 背後にした関の辺りで、何やら物凄い音がする。恐らく髯稚児だろうが、獣も震える凄じい喚き声がした。
 真名遣いは山中へと跳躍し、消えていた。

第三章 遭遇 六

 遠くでカラスが騒いでいた。冬枯れの山中での音は、意外に遠くまで届く。稜線に立てば谷底から吹き上げる風に乗り、人声までがはっきりと聞こえた。
「化け物だな」
 二色が指差した。一つ尾根を越えた谷に、カラスの群れが騒いでいる。
「あれですね」
 土岐島の許夜を立つ瞬間に、その真名が差し込んできた。薬師丸の真名の異常が二色を招いたように、異質な真名は、はっきりと際立つ。
「二度も続けて跳躍するとは、全く恐ろしい化け物だ」
 人の領域を大きく越える技を、真名遣いは見せた。
「どうします、二色」
 晒の問いに、二色は片目で久米を見る。久米は頷いた。
「あれが、聖都へ向かっているなら」
「よし」
 三人は何の手順も打ち合わせず、突然走り出した。枯葉を踏んでも、柔らかい音しか立てない。春の色を枝先に僅かに含んだ木々の合間を、ヒヨドリが枝を渡るように景色に溶ける。林間には遠く、カラスの騒ぎだけが木霊した。
 真名遣いはどうやら、杣人に乗っていた。頭上に群れ飛ぶカラスを従え、杣人が山中を逃げ惑っていた。
 黒い扇を固めたように、カラスの群れは異様に濃い。それが縺れて襲い掛る様子は、一羽の巨大な黒鳥にも見えた。黒い翼に覆われた人の形から、男の腕が空に突き出す。
「まだ、跳べると思いますか」
「分からんな」
 晒は指二本を立てて、唇の前に置く。鋭い息の音をさせて、カラスの注意を一瞬引く。ざっと舞い上がった群れは、男の頭上を去らない。だがその中から一羽が、晒に向かい低く滑空する。
「凄い敵意だ」
「異様なものは、鳥や獣の方が知っている。まして智恵のあるカラスが、化け物を見過ごす筈もない」
 滑空するカラスは晒の目の前で翼を立て、ミズキの枝に留まった。重みで撓む枝の先から、山ブドウのような眸を晒に向けた。
 晒は直接そのカラスを見ない。横目で窺いながら、喉を低く鳴らす。根気良くその形を保つと、カラスの内側から次第に興奮が去って行くのが分かる。やがてカラスは何度も首を回した。ミズキの枝の弾力に遊ぶように、上下に首を振る。
 ぱっと舞い上がったカラスは、群れの上空へ飛んだ。そのまま急降下し、倒れている男の上を通過すると、翼を羽ばたかせて高度を上げる。群れのカラスが次々続いた。ほんの一瞬で、山は元の静けさに戻っていた。
「酷いもんだ」
 カラスに突かれて、男の両眼が血にまみれていた。片耳は千切れかけ、腕の外側は、ずたずたにされている。だが男の身に受けた衝撃は、カラスによるものではない。
 真名遣いは真名を遣うことで、その反動を引き受けなければならない。まして跳躍などをすれば、真名遣い自身が、別な存在に生まれ変るほどの混乱を味わう。
「だからこそ法士は、真名を遣うことを恐れる」
 二色は男を見下ろして言う。
「この男はそれを、一瞬にして二度も行なった。無事で済む訳がない」
 男の漏らす低い呻きは、傷の痛みにではなく、意識を引き裂く苦痛による。
「浮遊は働かない」
 苦痛を和らげる浮遊がないとしたら、人は痛みだけでも死ぬ。それをこの真名遣いは、狂うこともなく堪えていた。
「化け物よ」
 二色は男の両眼に掌を当てた。
「何者だ、お前は」
 二色の静かな声に、男が呻く。しゅうしゅうと吐く息が、魔物の息吹のように熱い。
「逃げ場はもう、近くにはない」
 その辺り一帯には人気が存在しない。関下の死にかけた乞食のほかには、昼の眠りをむさぼるのは、この杣人しかいなかった筈。
「名は」
 二色は掌から気を送る。二色の浮遊は、浮遊を剥がされた真名遣いの苦痛を、僅かに和らげる。
「誰・・だ・・」
 男は唇を動かした。
「・・知らせ・なければ」
「お前の名は」
「私は・・」
 唇の端から血の泡を吹いた。肉体の持つ運動が混乱している。空気を求めようとして逆に、自分から何度も呼吸を止めてしまう。
「誰だ・・私は・・」
 二色は晒を見上げた。この男は、このまま死ぬかもしれない。真名遣いが別の場所にいて死んだ場合、どうなるのか。法士はそれを知らない。
「多分、一緒に死ぬでしょう」
 久米の疑問に晒が答えた。そんな危険を敢えてしてまで、この男は跳躍した。
「お前は、法王府の者だな」
「法王・・」
 その言葉を聞いてから、男が変化した。
「・・そうだ。知らせ・・なければ」
 凄じい意志の力だった。ごろごろと喉を鳴らしながら、立ち上がろうとする。まだ跳躍するつもりでいた。
「この辺りには誰もいない」
 二色は静かに言う。
「私の真名に乗るか」
 久米は二色を見た。真名遣いを乗せれば、二色は死ぬ。
「このままではお前は死ぬ」
 ゆっくりと、男に分かるように二色は続けた。
「私がお前の真名を運んであげよう」
「は、運ぶ・・」
 男は二色の掌の下で、潰れた両眼を見開いていた。
「お前は、法士・・か」
「そうだ」
 男は法士の存在を知っていた。
「そうか、法士か・・」
 その真名遣いが、どうして法士を知るのかは不明だった。だが奇妙な安堵を見せて男は気配を鎮めた。そして二色の真名を探り始める。久米も晒も、男の遣う真名の不気味な色に、底知れない暗黒を感じた。
「どうすれば、良い・・」
 杣人の身体の弱りとは別に、真名遣いは次第に立ち直りつつあった。全く化け物染みている。
「捨てろ」
 男の身体がぴくりと震えた。意味は通じている。晒が久米の掌に触れた。
「そんなことが、人に可能とは・・」
 始まっていた。真名遣いが黒い触手で二色を探ったように、二色は真名遣いに移りつつあった。
 移りながら移らず、真名遣いの真名を次第に引き寄せる。久米と晒には、一つの縺れた真名が見えていた。それは今の時点では、二色とも真名遣いとも言えない。全く名付けられない存在と化していた。
 一人の身体に、二人の真名が乗る。そのどちらかが、言葉を発した。
「聖都へ・・」
 二色は枯葉の上に、柔らかく倒れた。

第四章 蜂起 一

 六連がどこへ消えたのか、一座の誰も正確なことを知らなかった。赤太は今川丸からの飢饉の知らせを、懐に入れたまま、取り出せない。
 年貢の季節はとっくに始まっている。物納でも代銭納でも、払える者はまだ良い。農料さえも返せなければ、また身売りが増える。赤太にはそれが、他人ごとではない。
 早稲が悪く、中稲は大風。晩稲は水不足にに痛め付けられる。年貢減免の申し状は各地で出されていたが、噂だけでは不作の規模がどれほどのものかは分からない。それを正確に把握するのは、本来は官人たちの筈だが、勝手な収納が行なわれている限り、情報は推測の域を出ない。
 結局は法王府に集う十二坊下の権門領主たちが、最も早く飢饉に気付いた。米の値は上り、代銭納はもっと困難になった。種籾だろうと物納が厳命される。
 百姓は泣く。九月には逃げ、十月には麦蒔きのために戻る。十一月に申し立てた損免が認められると、やっと現物納に応じた。それでも未進が生じてくると、再び逃げた。
 不作の年にはそうして、逃散沙汰が春まで続く。
「赤太」
 物思いに沈む赤太に、楽王が酷く真剣な顔を寄せた。楽王のいつもの表情は、赤子のように無垢なだけに、その真剣な眉間の皺は、やたらとおかしい。
「病気じゃないよ、楽さん」
 赤太は救われた思いがする。
「では、あれは」
 今度は楽王が、赤い顔をして唸っている験一を指す。
「ああ・・」
 いつものヤツが始まったかと、赤太は腕組みをして唸る験一を眺めた。
「体中の毒を、あれで絞り出しているんだって」
「はあ、毒」
 修験で鍛えた験一の心身は、無用に強靭過ぎる。いつか六連がそう指摘していたが、言われるまでもなく、験一自身がそれを感じている。
 無駄な勢力があり余って、放っておけば軒並み喧嘩を売って歩くか、深酒をして泥田にでもはまるのが落ちだった。
 だがそんなことをすると、すぐに、からかいが飛んでくる。荒法師かよ泥法師かよ、と一座に好き放題な言われようをする。それがいかにも悔しい。
 験一と呼ばれるくらいで、祈祷の験はかなりある。別になんの仕掛けもなしに、鬼火を点すくらいは訳なくする。
 六連の一座に加わった男たちには、共通の特長がある。それぞれが或る意味で、世の中からはみ出していた。例えばそれは、盗賊の社会からの落ちこぼれも意味する。
 盗賊から落ちこぼれて、一座で盗みの稼業をする。別に矛盾ではなかった。
 山立ちにしても海賊にしても、特に世の中と隔絶している訳ではない。それぞれ地元では、別な形の社会と経済を持っていた。その社会に染まない者は、結局は欠け落ちするしかなかった。
 法名は修蔵坊覚順。験一が、それまでとは違う唸り声を吠えた。
「だっ!」
 ざっ、と智拳印を結んだ先を空中に突き出す。すると白っぽい靄が空中に浮かんだ。
 次に素早く九字を切ると、靄は薄青くなって消える。ほうっと息を吐くと、験一は分厚い踵で床板を荒々しく踏み鳴らした。
「おう、みんな来てくれ」
 そう言うと、あとは後ろも見ずに高縁から地面へと飛び降りる。法衣の裾が、鮮やかに翻った。
「そら来たぜ」
 待ってましたとばかりに声が掛かる。誰もが待機に倦んでいた。験一の様子を窺っていた一座は、押し合うようにして、ぞろぞろと庭へ出る。
 験一は、石灯篭の前で拳を構えていた。
「お、今度はあいつを割るってのか」
「なるほどなあ」
 馬借の宿に、銘石を置いた中庭がある。いささか奇妙な光景だった。池泉に築山と石灯篭を配して、明らかに庭者の手になる見事な山水が構築されていた。
 もっとも、馬借が馬を寄せる宿の部分は街道に突き出す前面にある。六連の一座が宿っている離れの持仏堂とは、宿の主の書院と居間とを間に、隔たっている。
 その見事な庭に、幾つも割れたばかりの石の塊が転がっている。破片を目で繋いでみると、どうやら石碑の形になる。
「これはこれは」
 壷百が白髪髯をしごく。
「話には聞いていたが、凄じいものだな」
 楽王は壷百老人の話し掛けを聞く風でもない。相変わらず柔らかい奇麗な手で、石の破片を拾っては並べている。
「楽さん、字が読めるのかい」
 赤太は験一の様子と楽王の手元とを両目で等分に見る。決して片方にだけ集中することがないように、口元の力を緩めた。そうすると自分の気配が幾らか消える。あとは自然に物事が感性に流れ込んで来る。赤太が最初に覚えた技は、六連の直伝でもある。
「古い碑文だな」
 地面にしゃがんで石を並べている楽王の横顔は、まるきり子供しか見えない。赤太は思わず笑った。
「俺に字を教えてよ、楽さん。俺、文字を覚えたいんだ」
 一座の中では、文字の読める者は限られていた。文字の必要のない世間で生きてきた者たちが、まあ殆ど。赤太自身も今の今まで、文字を読みたいなどとは、つい思ってもみなかった。
「赤太、儂が教えてやろう」
「壷爺か・・」
 最初に遣り込められてから、どうも赤太には壷百が苦手に回る。何かいつもからかわれている気がしてならない。
「儂は神官文字も読めるぞ」
「ふうん、じゃそこに彫ってあるのは」
「これか」
 その時、験一が息吹を迸らせた。
「お、やるか」
 験一の両手がゆっくりと宙に舞い始める。片手で小円を、もう一方の手で大円を。双方の円が内側へ収束するように、ゆったりと気を寄せる。
 見ている側にも、験一の掌から肘の内側にかけて、何か丸い熱気のようなものが集まるのが感じられる。
「あ、今だ・・」
 赤太が呟いたのと同時に、験一の巨体が視界から消えた。
「しゃっ!」
 一枚の白い紙のように、験一は石灯篭に向けて跳ぶ。
 ガンッ、と音がしたような気がする。石灯篭の太い胴に突き出した拳は、験一の構えが決まった時にはもう、元通りに右脇に戻っていた。一座は、ほうっと静まっていた。
 験一はなかなか構えを解かない。そのうち誰からともなしに、ザワザワとし始める。
「何ともねえじゃねえか」
「験一だってよ、そりゃしくじることもあるさな」
 その時、験一が唸った。だが今度は気合いの篭ったものではない。どうも、痛みを堪えるような具合だった。
「何だおい、失敗か」
 験一は額に油汗を浮かべて唸る。
「うう、おかしい・・」
 何だか石灯篭と験一とが睨み合う形にも見える。歩の悪いのはもちろん、験一の方だった。
「こいつは絶対におかしい」
 験一が自分の握り拳を目のまえにかざす。貌と同じ、岩のような拳だった。
「痛ぇか、験公」
 誰かが冷やかした。
「げんこが痛いとよ」
 どっと笑いが上がる。まあ、無聊の慰みにはなった。
「ああ、これは折れないな」
 ふと何だか間の抜けた調子で楽王が言う。「これは折れない」
「何だって」
 部屋に戻りかけた連中から、楽王の周りに集まってくる。
「何でこいつは折れないんだよ」
「この石灯篭は、碧山の封石だ。伝えの通りなら、人力で折ることは無理だな」
「碧山の、封石・・?」
 教養がないから、誰も楽王の言葉が分からない。分かったのは当の験一と、どうやら壷百だけらしい。
 だが、碧山の封石と口に出した瞬間、苔に覆われた築山の向こうから、冷たい風が吹くようだった。誰もがそれを感じた。
「楽さん、そのなんとか石って、何さ」
 楽王の並べた碑文を囲んで、全員が円くなる。験一が赤太の背中越しに覗き込む。
「そうか、そいつは神官文字か・・」
 修験の験一には読めない。読んでいれば、初めからそんな阿呆なまねはしなかった。
「これは、北山境を越えてきた石だな」
 北山境とは当然、あまり縁起の良い意味には使われない。法王の座する月都の北山。その先を越えれば、夜叉神と死の領域。立ち入る者は死者自身か、送り衆しかない。
 普通の語感としては幽冥の境か、そんな意味に使われる。その北山境から、この石が来たとすると、一体誰が運んだのか。
「何でそんなもんが、こんな馬借の宿にあるんだよ、え」
 この宿の主。屋号は二色と額にして書いてある。だが、六連のほかには主の姿を見た者はいない。常には律儀そうな番頭が、宿を仕切っていた。
「碧山の封石はな、摩耗はしても折れることはない」
 壷百老人が、脳中の知識を探るように呟いていた。
「ふむ・・。確か図書寮の神官符には、碧山の封石の全部の有りかを載せるものがあったはずだがな」
 壷百は日の都から法王府に移管された、図書寮の管理をしていた。特に古神録を掌握していたが、或る日突然馘首された。余り触れては欲しくない知識に、首を突っ込みかけたのだと本人は言う。
「そうそう。だがこの藍屋津の宿辺りには、そもそも存在しないが・・」
 験一は自分の拳を見た。
「よくぞご無事で」
 はあっと息を吹き掛ける。
「あの石灯篭の下には、何か魔物を封じてあるな」
 楽王はただ自分のことに没入している。
「そこに書いてあるのか、おい」
「ああ」
 験一の額に汗が浮いた。
「あとは、どんな事が」
「石碑の石が欠けておる」
 壷百がアカザの杖で示す。
「そいつの名の所に、おぬしのげんこの跡があるぞい」
 験一の息が詰まった。
「だが、この石碑そのものが、どうやら随分と古い」
「で、自然に欠けたってか、え」
「あとは、碑文を刻んだ主の署名だな」
 杖を置いた先には、どうにも読めない奇妙な形があるばかりだった。
「これが、そうかい」
「何て・・?」
 壷百は黙って首を振った。
「楽さんは」
「この文字は、読めない」
「儂にも、全く見当がつかんな」
 何だか急に興が冷めた。少々薄気味が悪くなってきた。
「ご、御前はどうしたい」
 六連の帰りは確かに遅い。だが、別にそれは今に限ったことではない。
「験公、酒を奢るか」
「いや、駄目だ。酒は、御前が戻ってきてからだ」
 そう。六連が戻ったら、この碑文のことも確かめてみようと赤太は思った。それから、この宿の主のことも。
「壷爺、約束だからな」
「ほ・・」
「ちゃんとに字を教えてくれよな」
「はあん、確か楽さんに頼むのじゃなかったかな」
 パシッ、と赤太の掌が壷百の背で鳴った。「ほうほう、それとも験一にか」
 その験一は両腕を組み、じっと空を睨んでいた。
 六連は出かけて戻らなかった。

第四章 蜂起 二

 今川丸とは、そのまま聖都の掘川の名から取った。家の名は特にない。強いて言えば、日野とそのまま日の天子の系図を頂く。
 庭者の家系に連なる一族の祖先は、営々と堀川に石を積み、水路の整備を続けた。高瀬船を聖都の中心まで通すことが出来るのも、日野今川丸一族の働きによる。そして螺旋都市を唯一直線で区切る水路。それが今川だった。
 水路には当然、門が付く。門の管理は大番勤めの護法方がする。
「止まれ!」
 松明が今川の面に振り向けられた。ジュッと火の粉が水に落ちる。
「夜分に川を下るとは、何者か」
「これは御苦労さまでございます」
 今川丸が番小屋の足軽に会釈する。大番の義務とはいえ、護法方が直接に勤めなどはしない。多くは一族の代人が勤仕し、夜番などは所従の下輩足軽が詰めた。
「や、蓬莱町どの」
 今川丸の住所が呼ばれる。それが敬意を表わした。
「これより金王坊のお使いで、南宮まで参ります」
 平底の高瀬舟に、金王坊の稚児らしき者も同乗していた。足軽は荷舟の鑑札を受ける差し板に、今川丸が載せた包みを見逃さない。声の調子が、がらりと変わる。
「それはそれは、お気を付けなされて」
 美しい稚児の様子にも目をくれて、足軽は同輩と肘を突き合った。いつもながら、蓬莱町は気前が良い。
「このごろ赤目の妖怪とやらが出るとか。大番の方々も、お役目ながらお気をお付けなされますよう」
 艫に棹差す屈強な男が、通り過ぎながら凛とした声で言う。
「昨晩も一人、妖怪に取り殺されたそうですから」
 笠の蔭から嫌なことを言う船頭に、足軽は袖に隠して女握りを突き出す。
「お互いさまに」
 ゆらゆらと揺れる高瀬舟の舟灯篭が、篝火の届かない闇に呑まれて行く。去ってみると何か、聖都の夜が一層ひっそりと感じる。
「ああ、縁起でもない」
 今川の岸を洗う水の音が、今夜は妙に高く聞こえる気がした。
「こいつは冷えるぞ、おい」
 安州護法方から聖都への大番では、気候も随分と違う。身震いをして篝火の前で掌を擦ると、番士は早々に小屋へと戻った。
 月ノ江川から引き込んだ今川の水は、上流では法王府の厨水にも引き回されるほど、美しく澄んでいる。
 都市の機能とは上水と下水の管理に集約される。下水は雨水の流路の確保でもあり、排水を管理しなければ、都市はたちまち疫病の巣になる。今川丸日野家は、聖都の土木管理者でもあった。
「験一房どの」
 今川丸は禁裏供御惣支配への危惧を、再び言う。艫で棹を操る験一は、一の舟入りを過ぎて笠を取った。
「御前はまだ、戻りません」
 今川丸は膝を揃えて座り、赤太は考え事をするように舷に手を置く。
「愛宕大丞さまは、なさることが手荒い」
「弓、馬、鎧兜に槍。ああ派手に注文を出したのでは、十二坊がすぐにも感づくでしょうなあ」
「まあ、それはそれでも宜しいのですが」
 愛宕大丞一人が潰れるのならば、それは一向に構わない。費やした資金も、別途に回収する法もある。だがもし聖都が道連れにでもなれば、今川丸の構想は足元から崩れる。ここはどうしても、六連一座との連係を、愛宕大丞に認めさせなければならない。
「間もなく歳末の公事が発せられます」
 薪、炭。荘園領主が歳末公事を賦課する。歳末年始の節には、酒麹と素焼き土器が大量に消費された。それも公事に入る。海産物や菓子なども荘によっては加わる。それには本来禁裏供御として登る筈のものが多かった。「公事のために、聖都へ人が集まります」
 愛宕大丞は、供御人たちに秘かに宣旨を回していた。
 貢納物が今よりも少なくなる。そう聞かされれば、誰でも一口乗りたくなる。
「それでは、宜しくない」
 党類を募り一揆を謀った所で、そうそう覆るような体制ではない。
「何が価値か。価値の中心を覆す。ほかにはないでしょうな」
 今川丸にとっては覆す挺子が銭。
「法王さまを盗む。それが一番早い」
 日の天子の即位も、法王が認めた。一乗日光仏即位法の潅頂を、法王が授けなければ、日の天子は即位さえ出来ない。この中つ国の権威は全て、法王と法王府十二坊に集中していた。
 験一は闇夜に隠れ、にやりと笑った。
「今川丸さまは、一座の仲間入りをするおつもりですか」
「めっそうもない」
「御前は何と言うでしょうなあ」
「六連どのは、悪人は要らぬとおっしゃるでしょう」
 験一もその通りだとは思うが、まさかそう口には出来ない。
「だがまずその前に、盗むものがあります」 験一は棹で、赤太の後頭部を軽く突いた。「なあ、赤太」
 赤太は顔を上げ、験一の掛けた謎に満面の笑みで応えた。

第四章 蜂起 三

 高瀬舟の着く、藍屋津宿の荷換場。そこの馬借の宿、藍屋津二色を一座の逗留先と定めてある。
 六連が戻ってみると、持仏堂の一間には誰も詰めていなかった。
「ふうん」
 六連は薄く伸びた顎髯を撫でる。鼻が少々むず痒かった。
 二色の屋号を預かる番頭は、この馬借宿の養子として申し分はない。だが一座の事情を聞いても、律儀に首をかしげる辺りが、六連としては物足りない。薄い顎髯を撫でて、六連は引っ込んだ。
「棚倉の荘ねえ・・」
 ほんの二里の先だったが、棚倉の荘村に一座が何を見付けたのかが分からない。
「確かあそこは・・」
 一乗坊の長者渡の荘園。そんな場所に何の用があって出張っているのか。しかも自分の留守に一座が動く。
「はあてな・・」
 一座の現場の指揮は、験一が常にする。今度もそうだろう。
 蓮華山、僧兵上りの験一ならば、護法方地頭の武者を相手の戦も経験している。山門の荒法師や修験僧を率いて暴れ回った味を、またしても思い出したか。
 だが、まさかとは思う。番頭は貢米の徴物荷駄を差し向けるのに、連中が一口乗ったと言っていた。
「貢米を、か・・?」
 ひやりとした。そうなれば荘官が黙っていないだろう。受取りに来た一乗坊の代人も、指をくわえている訳がない。
「どうした」
 小白は六連の様子に思わず訊いた。
「何か行き違いか」
「連中、何か企んだようだ」
 棚倉荘村へは二里の道のり。藍屋川に沿って土手を行けば、堰水川の落ち口に出る。
 そこから下手の一帯が、一乗坊長者の棚倉荘。護法方地頭屋敷は、牧山に張り付く高みにあった。
「そうか、間違いなさそうだ」
 いよいよ連中、やる気だなと確信した。
「にしても、解せない」
 気が急くせいか足が早まる。その土手道の向こうに、見覚えのある姿が湧き出すようにわらわらと現われた。
「や、師匠!」
「御前か!」
 遠くから声を張り上げる。小白の目には子供としか見えないようなのが、六連の一座にはいた。
 修験風もいる。仙人めいたアカザの杖を突く老人までもいる。
「これが盗人の一座・・」
「らしくないだろう」
 小白を横目で見て、六連はようやく笑みを浮かべた。一座の様子では、まだことを起こしてはいない。六連は土手の真ん中で立ち止まり、両腕を組んだ。
「どうやら間に合ったか」
 六連は何がおかしいのか、だんだんと笑いを大きくする。小白は、それぞれに勝手な身なりをした一座を、細めた瞼の間から見ていた。
「変わっている」
 溜息を吐くように小白が言う。視線は楽王だった。木偶人形が無理矢理に着物を着せかけられたような楽王の、品は良いがどうにも頼りない貌を小白は評する。
「あの若者も、やはり盗人か」
「信じられないかい」
「盗人の貌を描けとの注文が、もし来たとする」
「ああ」
「あの貌を描いたならば、私を雇う者は誰もいなくなってしまうだろうな」
「あんたの貌を描いても、やっぱり客をなくすよ」
「え・・?」
「忘れてるな」
 六連は両腕を迎えるように広げた。
「小白よ、そう言うあんたも、この一座の仲間じゃあないのかい」
 返事に戸惑う小白を置いて、六連の回りがわあっと賑やかになる。
「御前よ、長かったじゃねえか」
「師匠、聞いてよ」
「まてまて俺が言う」
「いや俺から報告するから」
「よせってば、引っ張るなよ」
 一番後ろで白扇房が、ジャラジャラと貝の数珠を鳴らす。そのほかにも、何やら金気のものをやたらと身に付けていた。
「ようよう!」
 脱いだ下駄を頭上で打ち合わせる。カンッと良い音がした。
「こんなところで余分な話はするんじゃないよ。大事な細工があるだろうに」
「おう、白扇房が正しい」
 験一が掌を叩いて剣印を横へ切り払う。
「ともかく御前、宿へいったん戻ろう」
「それからでも、間に合うのかい」
 にやりと笑ってから、六連は一座を眺め渡した。こいつら何を考えたやら。
 小白は六連を囲む一座を不思議に見た。そして何よりも六連自身が、小白としては絵にならない。この男は一体、何者なのか。

第四章 蜂起 四

 棚倉荘村を盗む。一座でもう、全ての根回しは済んだと言う。
「なあるほど」
 熱い茶をがぶりと飲んで、六連は一座の面を眺めてみた。湯気の向こうに並んだ貌は、誰も無用に力んでいる者はいない。血気に逸るよりは、何か稲の稔りを刈るように自然な面構えだった。確かに、時が来たのかもしれない。
「どうやらみんなで、同じ答えに辿り着いたようだな」
 手始めが棚倉荘村。その向こうにあるものを、一座の誰もが必然と感じていた。
「正しい行ないに勝る力はない」
 小白は六連の言に吹き出した。法を破って生きている者の言葉ではない。だが一座の誰も、そのことを奇妙とも思っていない。
「で、名主一六人と番衆二一人。そいつらの腹はどうだ」
 おう、と低い応えが返った。小白から見れば呆れたことに、その男が棚倉荘村の公文職自身。円座を敷いて、膝高に趺坐を組んで座る。その形がもう、覚悟の決りようを示していた。いわば荘村ぐるみ、盗人に荷担しようとする。
 公文が口を開いた。
「代人方への饗応は今宵まで。明日には荷駄が、藍屋津に向かいます」
 六連は公文の眸を見て頷いた。辛苦を嘗めた者だけが持つ、眠るような響きが男の声にはある。
「分かった」
 六連の一言に、一座がどっと沸いた。
「どうだい。そいつを終えたら、久し振りに酒を汲むか」
 赤太だけは喜ばない。酔えば一座がどれほどの悪さをするか、十分承知している。だが公文の膝を叩いて、もう誘う者がいる。
「しかし、手配りはもう一度考え直そう」
「え?」
「少し甘いように思う」
 一座の誰もが六連の言葉を待った。
「庭者を、雇うことにする」
 藍屋津の泊りの普請は、常時行なわれていた。大水への対応だけではなく、泊りの管理には、土木に長じた者の知識が常に必要とされる。その庭者を六連は雇うと言う。
「白扇房よ、今から行ってくれ」
 事さえ決まれば、あとは舞い立つように早い。六連は筆を取り、さらさらと何事かを書き付けた。
「これを、四郎二郎殿に。それから小白を連れて行ってくれ」
「私が・・?」
 いきなり名を呼ばれて小白は慌てた。
「何をしろと」
「さっそくあんたの腕が必要だ」
 六連は筆を宙に浮かせ、ものを描く仕草をした。
「あんたの腕次第で、人の命が散らずに済むんだよ」
 小白は唇を噛んだ。今が決める時だと理解した。
「分かった。何をすれば良いか、それを教えてくれ」
 それから小白は、白扇房と頷き合って立ち上がった。
「御前」
 そう呼んだのは小白。
「ああ」
 六連が振り向く。小白は何かを言いかけて止めた。見るほどに面白い団子鼻だった。
 全員が一斉に床を鳴らして立った。凄じい家鳴りがして、壁が揺れる。
「無事な稼ぎを、夜叉神に祈祷しておくよ」 六連の言葉で、それぞれが動き始めた。どうやら夜を徹して働かなければならない。それでも誰もが浮き立っていた。
 一座が動く。
 験一は夜半から祈祷に入った。小白なら笑うであろう造形の、持仏堂の夜叉神像に向かい、祭壇を組んで祈念を凝らす。
 仕掛けの無事を祈る訳ではない。日常の暮らしで固形化した意識を破り、大地の精気を呼吸する。そうして初めて、験を顕すことが可能に成った。
 邪な念は歪んだ結果しか生まない。それを験一は承知している。まったく六連の言う通り。
 人の能力は計り知れない。誰も心の全てを覗いた者はない。意志する心とは別に、己を離れて存在する心も存る。一念に混在する三千の心の様相を、一つに御する法はただ、自らを放れることだった。
 邪な想いは念を固定化する。自らを損なう毒でしかない。験一は今、祈祷を通じて執着を浄化していた。

第四章 蜂起 五

 ひたひたと、飢饉の足音が聞こえてくる。今川丸の知らせた通りに、各地から上る貢米が滞っていた。減免の願い出は、急霰を打つように激しい。だがそれだけに、権門にとっては、より富を積むことも不可能ではない。米の相場は、じりじりと騰り始めていた。
 官物が弁済されたと認められなければ、荘田の請作は出来ない。未進分を銭や人で払ったとしても、結局は食うものがない。逃散を武器にして領主に迫り、減免を脅し取るほかに百姓の生きるみちはない。
 一座は動き始めた。
 晴れた良い日だった。貢米の徴物使の機嫌も、日和のように浮かれていた。
「今年のようにすっきりと皆済ならば、儂も随分面目が立つ」
 聞こえよがしに高々と言い、肥えた腹を揺すりあげる。鼻の先が赤いのは、昨晩の酒がまだ残っていると見える。
 不作の検注を申し入れ、年貢の減免を願い出ていたのが、この通りに皆済。請作した百姓が、どこからその米を捻り出したのかについては興味もない。職務が無事済めばそれで良かった。
 ずらり連なる荷車を背後に従え、肥馬の背に揺られ、領家の代人は呑気に鞭を肩に担いでいる。
「だが、兵士役がのう・・」
 この上を望むのは贅沢か、と代人は鼻の穴を空に向けた。
 貢米の護送には武力も欠かせない。それもまた、棚倉の荘の名主連が、雑役として差し出さなければならない。通常は銭を出して人を雇うが、この度は荘村から人が出る。代人は懐に転がり込んだはずの銭の上前を、まだ惜しそうに勘定していた。
「ううむ、まあ、いたしかたあるまい」
 各戸割り当ての人数を、名主の代表が率いて聖都まで搬送する。領家側が差し向けた武者の人数は、たったの四人でしかない。代人の懐はそこでも、まんまと太る仕掛けになっていた。
 おまけに本人は、一応は主税寮済事の下級官人でもある。給付は当然ないが、中央での名目はある。富の消える仕掛けは、どこにでも転がっていた。
「グッ、グッ、」
 妙に喉を詰めたような声で代人が笑う。
 藍屋津までの道は名主下人の押す荷車と、牛の曳く荷車、馬借の馬の背で運ぶ。そこから先は、高瀬船で白川の都街道へと渡され、さらに月ノ江川を遡り、淀溜りの納所にまずは納まる。
「なあに、田舎とは言っても都街道まではすぐではないか」
 代人は昨晩の伽の女でも思い出したのか、目尻を下げた薄笑いを浮かべる。
「そうよ、これで良い」
 何と言っても皆済なのだから、お家の受けも悪かろうはずがない。特に今年は代銭よりも、現物の米を持ち帰れと固く念押しされていた。
 どうだこの腕の良さは、と自慢の一つもしたい所だった。だが百姓の手前、そんなことも言ってはいられない。
 と、妙な老人が道を塞いで立っている。どこか鶴を思わせるような、枯れた風貌をしていた。
「こら、退かぬか」
 代人は頭上で鞭を振り回した。風を切る音で脅しつける。
「蹴殺されても知らんぞ。とっとと道を開けろ、おい」
「こりゃ、雨になりまするな」
「はあ?」
 ぽつりと言った老人の言葉に、代人はついつられて空を見た。
「馬鹿を申すな、こんなに良い天気ではないか・・」
 違った。いつの間にか、空一面に、もの凄い黒雲が湧き出している。
「ほうれ、今にも降りそうではないか」
 そう言われるとその通り。確かに遠くでは雷鳴までが聞こえ始めていた。気のせいか、分厚い雲に稲光りがちょうど走ったようにも見えた。
「これは、大雨になりそうだな」
 老人はそう呟くと、どこに隠し持っていたのか藁蓑を取り出すと、さっさと着る。笠をかぶる頃には本当に、ポツリと来た。
「やあ、来たわい」
 陽気に叫ぶと、老人は手に持つアカザの杖に縋るとも見えず、すたすたと土手を降りてどこかへ消えてしまった。
 代人は慌てた。米を濡らせば大事。とにかく荷覆いを厚くして、とっさの雨を避けるしかない。
「雨だ、雨だ!雨が来るぞ!」
 振り向いた代人は、そこに意外なものを見た。
「は?」
 阿呆面をして空を見上げている四人の武士と、その後ろに百姓たちが在る。だがどこにも馬の背も荷車も見えない。
「お、お前たち、荷はどうした」
 代人の声が震える。狐狸にでも化かされたように、何か現実味がない。
「どうした!」
 鞭がビシッと鳴った。誰もがお互いの顔を見合わす。
 遠くの刈り田の真ん中では、土地の者たちが催事の神楽を練習する。笛と太鼓の音に、時折り摺り鉦のジャラジャラとした響きが混じる。気が付けば、雨雲などどこにもなかった。
「おのれ!あの爺ぃ!」
「あ、あそこを!」
 武者の一人が彼方を指差す。見れば田の中を突っ切る道を、荷駄の列が去って行くところが見えた。
「あれは・・!」
 自らも馬に鞭当てて、代人は血を吐くような叫びを上げた。
「追え!追うのだ!」
 何かまだ、悪い夢を見ているとしか思えない。だが目の前を現実に、年貢の成果が逃げて行く。
「取り返せ!取り返した者には、きっと褒美を取らすぞ!」
 武士たちがまず走り出した。太刀をしっかりと押え、烏帽子を風に靡かせる。その横を砂埃を捲いて代人の馬が過ぎる。
 道が茅草の小さな丘にかかった。盗人の群れが、まず丘を越える。続いてあと僅かで代人が追い付く。その時、代人の前に賊の軍勢が現われた。
 代人は馬を棹立ちさせて止めた。
「お、おのれ!」
 丘に横一列。勢揃いした盗賊の軍勢は、優に百は越えた。代人は馬を輪乗りして武士たちを待つ。
 確かに多勢に無勢。厚かましくも盗賊は、見下ろすように威圧を加える。追い付いた武士たちも、太刀を抜き放ってはみたものの、仕掛ける度胸はない。せいぜい弓に矢を番えるくらいが、代人に対しての義理か。
「くっ!」
 代人は歯噛みして丘を睨み上げる。その度に手綱をきつく引き絞られる馬の方こそ、良い迷惑に違いない。
「ようし、俺がやってやる!」
「ば、馬鹿をほざくでない」
 百姓の内から屈強な若者が一人、武士たちを割って進み出た。
「俺にも褒美を下さいますか」
「お、おう」
 代人はどうして良いのかが分からない。ともかくも頷いた。
「では、太刀をお貸しくだされ」
 武士の一人から太刀を借り受けると、若者はにっこりと笑って丘を向く。
「もし俺が死んだら、弔いはいらねえ」
 そう言い捨てると、ざっと砂を蹴って丘をまっしぐらに駆け登る。
「覚悟しやがれ、盗人どもめ!」
 軍勢の真只中へ切り込む若者の前に、仁王のような凄じい男が立ちはだかった。
 代人たちが固唾を飲んで見守る前で、若者はその賊の閃かす太刀に一瞬で倒された。
「あっ!与三が!」
 血が真っ赤な霧となって散った。若者の首と腕は、無残にも胴と別れて宙に飛ぶ。
 わあっと悲鳴が上がった。余りにも腕が違い過ぎる。丘の上では勝鬨が上り、燦めかす太刀の刃が、波の穂のように揺れ靡いた。
「駄目だ!攻めて来るぞ!」
 誰かが叫んだののをきっかけに、動揺が広がる。
「ど、どうします!」
 代人は唇を噛んだ。
「ようし、今に見ておれ!」
 馬首を返すと坂下へ向かって鞭をひとつくれた。

第四章 蜂起 六

「与三よ、なかなかやるじゃねえか」
「見てくれよ、この安物」
 確かについさっき、首と胴とが泣き別れた筈の若者が、頬の辺りの紅を拭っていた。
 血の霧と見えたものは、口中に含んだ紅の水。太刀を振り落した験一との間合いは、一間も開いていた。だが遠くから見る分には、そうとは分からない。与三は手に入れた太刀を、値踏みして頭上にかざす。
「よくもこれで、武士の表芸なんぞと言えたもんだぜ」
「人様のものを掠めておいて、その言い様はないだろうぜ」
 丘の下では代人が、さんざん馬に輪乗りを掛けている。使いを飛ばしたのは、護法方の地頭代官に助力を請うためと見えた。
「なあるほど、御前の予想通りだな」
 験一は代人がそれほど執拗に追いかけてくるとは思わなかった。脅しを掛ければさっさと尻尾を巻いて逃げ出すものと、高を括っていたのだが。
「いざとなりゃ命を顧みないとは、まんざら捨てたものでもないわな」
 横目で坂下を見る験一に、与三は太刀を押し付けた。験一はなまくらな刃にちらっと一目をくれただけで、あとは興味がないのか、赤太へポイと投げた。
「あっぶねえなあ」
 器用に後ろ手で太刀の柄を受けて見せ、赤太が笑う。験一は唇の端を、つい上げた。
「まあ、あれでも一族を養っている訳だからな。そこそこに、腰はあるだろう」
 その腰が問題でもある。足の遅い荷は取り敢えず先へ行かせた。だが馬でなくとも半刻も走って追えば、すぐに捕まる。人の命を取らずに諦めさせる方法が、験一にはもう一つ思い付かない。
「難しいものだな・・」
 いっそ代人のガマのような首を、脂肉ごと切り飛ばす方がどんなに早いか。
 その時、ようやく待ち望んだものが来た。棚倉の荘、徳丸名の辺りから、薄青い煙が立ち昇る。
 丘の下では、二段目の仕掛けが動いた。
「あ、あの煙は・・!」
「徳丸だ・・。徳丸の、米倉だ!」
 誰かが言ったのをきっかけに、騒ぎがわっと大きくなる
「徳丸に盗賊が押し入ったに違いねえ!」
「畜生!これじゃあ残りの米も、やられちまうぞ!」
「騒ぐな!騒ぐなっ!」
 代人がいくら怒鳴っても、動揺は容易には鎮まらない。むしろその当人の方が焦ってきた。徳丸の倉にはまだ、年貢米の残りが保管してある。しかも受け渡し済みを確認した分として。
「く、おのれ・・!」
 地頭代に銭まで払って武者を借りようと言うのに、またこんどは。
 丘の上ではその煙を見て、勝鬨が上がっていた。間違いはない。悪党の蜂起だ。代人は膝の顫えを堪えた。思わず天に祈ったその時に、夜叉神は加護を垂れた。
「あれは、二都申し次ぎ役の旗印・・」
 聖都の法王府と、日の天子の朝廷との伝奏を勤める申し次ぎ役は、監察軍をも指揮していた。五十三州各地を巡察しては、治安の乱れと役人の腐敗を正す監察軍。その旗印を、代人は彼方に見付けた。
 一目で知れる怪奇な黄金樹の紋様は、天下に二つとない。法王府と日の天子とが倶に権威を与えた黄金樹の旗印は、神のように輝いていた。
「しめた!」
 代人にとっては、普段あまり近付きたくない権力に相違ない。だが、これこそは天佑神助。
「お、おおい!」
 命じるよりも早く、自ら馬を飛ばして申し次ぎの旗へと一目散に駆ける。その時に背後で皆が、秘かな笑いを立てたのを代人は知らない。
 三段目が始まった。
「もうし!待たれよ!」
 監察軍の兵は、百人はいた。それだけいれば弓を揃えて射るだけで、恐ろしい弦の唸りを出す。たかだか野伏せり程度は鎧袖一触。代人はようやく息を付いた気がする。
「待てい!」
 代人の馬前に砂埃が立つ。
「うろんな奴め。それ以上は近付くな」
 先頭の兵が、長巻の鞘を払って代人に突き付きる。
「下郎、お手先を汚すでない」
「いや、そうではこざいませぬ」
 代人は馬の背から跳び降りると、兵に向かい、事情を一気にまくしたてた。汗がいつの間にか、びっしょりと脇の下を気味悪く濡らしている。
 やがて兵は、ようやく頷いた。
「ようし分かった。お主はそこで待て」
 軍列に駆け込むと、兵はすぐに大将を伴って引き返してくる。代人はその馬上の姿を、神を見るような想いで伏し拝んだ。
 白い袍に挂甲を着け、いかにも古風な軍装だが、それがむしろ神兵のように有難い。首下げた白い貝の数珠が、挂甲に当たって軽快な音を立てる。
「こ、これは、まことに畏れ多いことで」
「話は聞いた。一刻を急ぐようだな」
 頭上の凛々と響く武者声が、何とも逞しく感じる。
「丘に陣取った賊は、私が引き受けよう。あなたはすぐに、地頭代の手勢と倉の方へ向かわれるように」
「有難い!」
「いいえ、これが私の仕事ですから」
 言い置くと大将は兵に下知した。
「皆の者、見よ!賊はあの丘の上。一気に突き崩すぞ!」
 怒涛のような雄叫びと一つに、馬蹄の轟きがひれ伏す代人の横を瞬く間に過ぎた。
「ようし、助かった!」
 代人は再び馬に飛び乗ると、成り行きを見守っていた村人と武士たちに合図する。
「行け!徳丸を救うのだ!」
 彼方で村人たちが腰刀を抜いた。短い刃が陽に燦めく。その時ふと代人は、連中が刀を抜くところを初めて見た気がした。が、その想いは記憶に留まらず、馬蹄の砂煙と一緒に彼方へ消えた。
 二都申し次の監察軍は、それきり消えてしまっていた。徳丸の煙は、ただの野焼の煙に過ぎなかった。
 代人は打ち萎れ、名主連に再度の年貢を申し出る。しかし、一度済んだ年貢を二度払う馬鹿はいなかった。
 息子の命を返せと泣く老爺に、僅かな銭を包んで、代人は徳丸の米と一緒に聖都へ帰って行った。棚倉の荘村は、莫大な減免を勝ち取った。

第五章 聖都 一

 世の中、何が流行るか分からない。最初それは、田舎の信仰に過ぎなかった。
 春と秋の年二回、若い男女が村近くの山へ登り、互いに歌を掛け合う。良くある歌垣の習俗の中に、一人の神懸りが現われた。
 娘の名を綾子と言う。綾子の神踊りはやがて伝染した。近郷一帯の若者が、綾子を巡って踊りの輪を繰り広げる。どこからか神輿が担ぎ出され、その神輿の上には綾子が白い浄衣に榊を持って立つ。
 秋に始まった綾子神の出現は、荘々を巻き込んで延々と続いた。村から村へ、郷から郷へ神輿が練るうちに、各所で綾子神に似た新しい娘神が発生する。
 一基の神輿は瞬く間に二基に、三基にと増え、やがて続々と娘神が誕生する。共通の特長はそのどれもが、歌を持つことだった。
 歌垣の掛け歌の拍子で歌われる神歌は、躍動するような激しい調子を帯びていた。そこに激しい踊りが伴う。その足踏みの音も凄じく、神輿は村々を駆け抜けた。
 躍動の力は次々と人を巻き込む。最初方向のないように見えた神輿の練行は、或る日突然に一つの方角へ走り始めた。
 だれが指揮したのでもない。全く不意に、神輿は聖都へ向かって疾走を始める。
 先頭は綾子神。半裸の男たちに担がれた神輿は、砂煙を上げて街道を行く。続く神輿は数え切れなかった。狂い走る大蛇のようにうねり、街道は踊る人々で黒く埋まった。
 走っては止まり、走っては止まり。神輿の止まった場所には、必ず小さな丘がある。丘を巡って人々は群れ、夜を徹して歌い、踊り続けた。盛大に焚かれた篝火の周囲では、胸乳を露わにした女たちが、汗にまみれて激しく踊る。明りの届かない闇へ、手を繋いで消える男女も多かった。
 天地が発光したように、轟々と歌声は響きを木霊させ、荘々の納所は神輿の神威の前に開かれる。新たな人々の流入だった。そして再び神輿は疾走を始める。
 あっと言う間に膨れ上った群衆は、もう誰にも止めることが出来ない。凄じい力を放射して、ただ街道を聖都へとひた走る。
 綾子神。白く神懸りした頬には、三日月のように、うっすらと細い傷跡があった。刃の走った跡と一目で分かるその傷は、白拍子夜光の頬にあったものと同じ傷だった。
 娘神たちには、同じ特長がある。そのどれもが、驚くほど似通った風貌を持っていた。そして踊りにも共通のものがある。その踊りは、人の原初に迫った。
 魂の内奥への沈潜。或いは、昏い深部への永遠の下降に似ていた。所作の一つ一つが、荒々しい情動を開放する。激しく呼吸する度に、獣じみた活力が血液に混じる。
 娘神が狂い踊れば、人々の目には全く別の世界が見える。遠い彼方で真実の生を生きる者のように、人は自らを感じた。それこそが祭りの宵。神輿は走った。

第五章 聖都 二

 聖都を抱く天女の袖のように、淡い樹木の色合を帯びて袖山が続く。南宮山から淀溜りの牧に下る東南の斜面には、袖山十六井の塩井戸が点在していた。
 袖山には都名物の塩焼く煙が靡く。内つ海辺りの鄙の景色とは区別され、その風情は艶めく美女の眉と、歌にも詠まれた。
 一方で袖山塩焼には、恐ろしい噂もある。その噂は、袖山の塩の美味と薬効の根拠も同時に示す。法王府がそう断じていた。
 袖山十六井の塩焼には、昔から黒神憑きが多い。黒神とは元々は地底の神として、金山衆に祀られた崇り神を言う。
 袖山の塩井の水を汲み、塩木山の柴を焚いて塩を焼く。そのどこに黒神憑きの崇りが入り込むのかは分からない。ただ、憑かれた者の姿は惨く恐ろしい。
 全身に油練り炭を擦ったように、黒神憑きは皮膚全体が黒色に変化した。目は赤く血走り、憑かれた当初には、黒神のお告げを奇怪な言葉で喚めき回る者もいる。
 大地を叩いて激しく狂い、黒い汗を飛び散らせて激しく唾を吐く。その動きはすでに人のものではない。神の異界に属した。
 黒神に憑かれた者は、飲み食いも眠りもせずに暴れ続ける。それから突然、口から泡を吹いて倒れる。それまでが二日。若者でも年寄りでも、死への経過は変わらない。
 黒神憑きが出ると、袖山では金山衆を呼んでお祓いをする。それで済めば良かったが、時には何人も続いて出ることもある。そんな厄年には塩井を閉めて、全山一斉に山を引き揚げた。
 当然塩の値が上がる。海塩を商う商人は塩相い物の魚から、塩一本に乗り換えて利を得る。塩座の認可は法王府が出す。袖山で失った税の分は、法王府には一向に影響がない。結局苦しむのは庶民と、稼ぎを失う袖山の一統に過ぎない。
 袖山の塩焼長者は稼ぎの場を失い、配下の所従下人を食わせるために追い捲られる。一統を食わせなければ、塩井を再開した時に働き手がいない。そうやすやすと下人を売る訳には行かなかった。この時に必要な技は、売るべき芸だった。
 袖山に黒神憑きが出ると、聖都では塩焼一座の風変わりな芸が興業される。そうして四年や五年に一度は、袖山踊りが巷に流行ることとなる。
 だがこの数年、続けて黒神憑きが発生していた。聖都では毎年、新たな趣向を凝らして袖山踊りが興業され、確実に人気は上昇している。そしてその年には、華美な異装を施した娘踊りと、金銀の箔摺り色絵の扇を舞わせた風流連れ踊りが、大流行していた。
 綾子神の群衆はその年の、袖山踊りの異常な流行の中へと雪崩込んだ。

第五章 聖都 三

 法王府に動揺が走っていた。綾子神や、袖山踊りのばか騒ぎが理由ではない。法王府の中心で、何かの異変が起きていた。
「聖都を焼く」
 禁裏供御惣支配、愛宕大丞は府内に火を掛けると宣言した。
「風が北へ変わる、春よ」
 冬には強い北風が吹く。天山山脈に突き当たった北西気流は、北山保戸渓の僅かな隘路から吹き出す。凍り付く風は、雪と一緒に濃い腐臭を、北山境へ送りつけた。屍林送りの人々の最も辛い悪臭の季節は、その分稼ぎも良かった。
 天山の峰々はただ一か所、保戸渓と北山の送り街道で断たれる。天を睨んで聳え立つ巨人の両肩のように、峰々は鋭かった。複雑に曲がる逆さ川は、氷の息をまともに吐く。冬の天山に登ろうとする物好きはいない。
 夏は南から風が吹く。山の斜面を駆け上った風は雲を呼び、峰々に雷鳴を招いた。時には子供の頭ほどの、氷の塊が大地に降ることもあった。
 春と秋のほんの少し間だけ、山々は穏やかだった。晴れた日の朝には、まだ陽の昇らない前に、雪の峰々は真っ赤に燃えた。淡い肌色から始まり、やがて深紅の薔薇の色まで変化する。そして陽が高く昇れば、山は目路の端から端まで、真っ白に巨大な壁のように聳え立っていた。
 その神々しい姿を見れば、この天山の峰々こそ、始祖王が天下った聖地との理由も分かる。確かに恐ろしくも、気高い相を帯びた山に違いない。
 人々はその天山山脈の、樹木の茂る裾野だけに立ち入り、生活の場とすることを許されていた。日の天子と月都の法王とが、そうしてこの世の果てを決定した。
 その風の替わり目を狙い、愛宕は火を放つと言う。
「十二坊と衛軍の重しさえなければ、法王府は骨抜きになろう」
 荏胡麻の匂いがぷんとした。油光りした倉の内壁は、火を放てば一気に燃え上がる。愛宕は奇麗に並んだ油樽の一つを叩いた。
「宣旨は蜂起と同時に出る」
 それだけの油を溜めるのに、およそ十年。今は北風の来る日が待ち遠しかった。
「肝心の兵は、どうなさる」
 狩衣姿の痩せた老人が、愛宕に問う。それがこの中つ国の相国とは、どうあっても見えない。
 宰相も丞相も左府も、官位を昇れば昇るほど、貧しさが進む。世襲の位階構造を持つ貴族ほど貧しく、下級の官吏になるに連れ、法王府の与える利権に取り込まれている。
 己の才覚で世を渡る者はともかく、五位以上から日の天子の身近くでは、雑炊をすするのが日常の生活。自ら僅かな畠を耕さなければ、食うもままならない。
「それに、お上は人死にを喜ばない」
 幾世代もの間忍従を続けてきたことが、習性として染み付いている。事態が変化することを、どうしても信じようとはしていない。愛宕は舌打ちした。
「もう、戻ることは出来ない」
 相国を見下して、大丞が言う。それをこの老人は異ともしない。愛宕大丞は、己の天下の近いことを目の前に見ていた。
「粉炭と硫黄を混ぜた薬は、各所に埋めておいた」
 一気の火焔を愛宕は言う。
「火伏せの神さまが、聖都に火をつけなさるかのう」
 むっとするのを、愛宕は相国への頼み事を思い出し堪える。
「このところの法王府の動きが、どうもおかしい」
 愛宕にとって綾子神の騒ぎは絶好だった。混乱は願ってもない。
「申し次ぎにそれとなく聞いて欲しい」
 愛宕が申し次ぎと口に言った瞬間、老人はびくりとした。
 二都申し次ぎとは、法王府と禁裏とを結ぶ唯一の顕職を指す。日の都での最高権力でもあり、徴税の監察軍の奉行でもある。その申し次ぎ役の受け次第では、相国の首などは切るもたやすい。一族丸ごと捻り潰された者もいる。
「い、いや。それは・・」
 愛宕は苦々しく老人を見た。とうてい使いものになりそうにもない。大昔には、この、みすぼらしい老人の一族が、日の天子を支えて中つ国を治めたと言うが、そんな誇りはどこにも見えない。
「では、宣旨のことだけをお頼みする。宜しいな」
「よ、宜しい」
 肩で息をする老人から、愛宕は見苦しそうに目をそらせた。

第五章 聖都 四

 午王院の辻子。新たに府内に得た屋敷の奥で、矢四郎は顎の山羊髯をしごいていた。
 竹薮の多い午王院周辺の丘では、日陰にはうっすらと雪を残す所もある。この辺り、十二坊下の高僧が、貴族の姫君を妾に囲う。身分ありげな牛車が、秘かに土居の櫓門を潜ることもままあった。
「どうにも解せない」
 内苑坊政所に阿倶利と土亀の櫃を引き渡してから、一向に沙汰がない。別に褒賞を急くわけではないが、豪壮な屋敷をあてがわれたきりで、護法方への身分の上昇は待たされていた。
「どうしちまったんだ」
 うっと息を詰めて、矢四郎は白髪髯を一本抜いた。最近は髯にも白髪が混じる。老いに差し掛かった自分の齢を考えると、この辺りが上りかとも思う。
 政所からは、内苑坊御内としての打診はされている。府内に留まって、内苑坊の家政に参与するよう申し入れもある。だが矢四郎にしてみると、そんな窮屈な思いは、もうしたくはない。余程な厚遇をされたとしても、御免を被りたい。
 薬師丸が消えてからこっち、野心も何だか淡々としてきた。どこか田舎の荘園でも宛て行なわれ、そこで一族妻子と暮すほうが良いように矢四郎は思う。
 殆ど隠居の気分になっていた。
「だがよ、待てとくらあ」
 ごろりと横になってみるが、やはり解せない。何を待つのか。
「やっぱり、あの長櫃かねえ・・」
 長命薬なんぞは興味もない。第一、人が長生きしたら、そいつの子や孫の食う分はどうなるのか。どんどん替わるが良いや、と矢四郎は天井に言う。
 薬師丸の積んだ富ぐらいは、この聖都の権力から見れば、雀の拾う落ち穂も同じ。どうしても、銭の元種として手に入れたとは思えない。
「じゃ、どうして待つ」
 内苑坊が自分の足止めをしている。詰まる所、結論はそれしかない。
「冗談じゃねえぞ」
 むっくりと矢四郎は起きた。もしそうだとしたら、場合によっては命が危うい。坊主の無慈悲さは、嫌と言うほど身に沁みていた。 内苑坊が夜叉神を持ち出したら、誰も面を向けて立ち向かえない。護法方の降魔の利剣とやらに、外道の輩はすっぱりと断ち割られる。それで足りなければ、僧兵の銀の矢尻が撃ち込まれただろう。
「逃げるか」
 むざむざ逃げるのは惜しい。だがもし、あの土亀の存在を法王府が隠そうとしたら。
「おうい!誰かいるか」
 法王府が迷っている内に逃げる。それから次に、褒賞を要求する手立てを考える。矢四郎は、どこへ行くかを考えた。
「法王府が手を出せない場所か」
 口にしてから、ぞっとした。この地上に、そんな場所が果たしてあるのか。
「畜生、何とかあるはずだ」
 矢四郎の自慢の智恵は、確かにその答えらしきものを導き出す。いささか風変わりな答えではあったが。
「西谷・・か・・」
 この聖都で、誰も手を出せない場所とは。 袖山の西麓に抱かれた、小さな谷々の奥。十六塩井の点在する南東の斜面とは違い、袖山が聖都の内側へ湾曲する辺りは、地上の土地ではないとされた。
 そこには送り衆が住む。死者を冥土へ送る送り衆の土地は、地上の権威の支配を受け付けない。むしろ、黄泉に属す場所のように思われていた。
「だが、銭は通用するだろう」
 矢四郎は送り衆が、どれほど銭を積むのかを知らない。それは矢四郎ばかりではない。世間の誰もが、送り衆とは黄泉の色を帯びる柿色衣の穢れ人と低く見ていた。
 鹿の角袋を購入して薬を製する。矢四郎が薬師丸の時代に培った人脈には、鹿革なめしの職人がいた。彼らの獲った鹿角だけを、薬師丸は用いた。
 鹿革をなめすには、牛馬の脳漿に漬けておかなければならない。作業は穢れとされて、河原者がそれをした。
 そんなもので人が穢れてたまるかよと矢四郎は思うが、別火を使い分けるほどに頑迷な者も、世の中には確かにいた。送り衆と通婚する者はごく限られ、鹿革の職人はその例外に属する。
「薬師丸さま」
「その呼び方は、やめてくれ」
 いかにも実直そうな老人が、怪訝に口を開いたままでいる。
「悪かった。大きな声を出して」
「ああ、いや、けして」
 目をぱちぱちとさせて戸惑う老人は、茶筌丸と言う。その老人の末娘が、送り衆の御所付きに嫁いでいた。
「御所付き、とはな・・」
「はい。何でも、婿どのは重い役目を仰せ付かっているとか」
 茶筌丸にしても、初めて娘の嫁ぎ先を訪ねるのだと言う。
「ああ見えても、送り衆の中には厳しい御法があるそうですから」
 水の流れのある谷には必ず送り衆が住む。世間の人は、谷の奥へは決して立ち入ることはない。
「御所さまの許可を得ずに立ち入れば、無事には戻れません」
 その御所さまとやらが、送り衆の頭の名称らしい。
 前山の坂を登る。そこからは、聖都が真下に見えていた。
 矢四郎は己の目を疑った。
「まさか・・」
 袖山の懐に隠れ、別天地が広がっていた。谷戸と言うような小さなものではなく、小盆地に近い。西谷からの前山を一つ越えると、緩斜面に整然と屋敷が立ち並んでいた。
「ほう・・」
 茶筌丸も矢四郎と同様に驚いていた。
 袖山からの水を集落中央の水路に集め、その両側に塵一つない路が続く。それぞれの屋敷を囲む植え込みは茶の木らしく、短く奇麗に手入れされていた。
 棟々の懸魚には銅版が雲型に下がり、西陽に燦めく。そこが、御所が谷。送り衆の言う御所が、朱の色を鮮やかに見せていた。
「何と・・」
 それが、送り衆の王。確かに王と呼ぶに相応しい、堂々たる威厳を身に備えていた。
 白髯に顔を埋め、ホウズキのように輝く眸をした王は矢四郎を威圧する。しかしその男の、頭上に戴く立纓冠には、中つ国の主である天子の紋が装飾されていた。
 そればかりではない。神殿めいた朱塗りの柱の、全ての釘隠しは天子の紋。垂れの慢幕までが、大きく金摺りの紋を染める
 中つ国に禁じられた十六弁菊花紋を、この送り衆の王は、堂々と身に帯びる。
「そなたを、保護することは出来ない」
 頭上を通り過ぎる声を、矢四郎は殆ど聞いていなかった。矢四郎の脳裏で、幾つもの謎が一つに焦点を結ぶ。
「しかしこの地は、如何なる地上の勢力をも認めてはいない。そなたを無理に拘引する者は、ないだろう」
 矢四郎の滞在許可は、それで保証された。だが同時に、自らの身は自分で守らなければならない。送り衆は誰も矢四郎に手を出さないが、法王府の者にも関わらない。どんな闘争も、この送り衆の土地では無視された。
 この地の唯一の正当な住人は、ただ送り衆だけだった。法の保護は、送り衆以外には及ばない。矢四郎は裸で法王府と渡り合わなければならなかった。
「相手も同じことか」
 袖山の懐に、送り衆の王国が存在することを世間は知らない。送り衆の構築する文化も住居の華麗さも。そこには王軍と呼べる兵までもがいた。

第五章 聖都 五

 袖山下の最初の街道が、北山通いの大路。送り衆はその辻で葬儀を請負う。
 袖山から落ちた流れは、全て御裳裾川に注ぐ。石積みの岸に沿って布施を受ける棚が並び、斎場に安置された遺体の前には、香の煙が絶えない。
 細い流れの岸は、この世とあの世との境を暗示し、法王府の僧侶は、有難い一乗日光仏の功徳を語る。送り衆は夜叉神護法の神呪を唱え、笹の香水を散らして遺体を担う。葬儀の列はそこから始まった。
 一方、死者たちの通る街道の反対には、ずらりと巫女の店が並ぶ。
 親族は旅立った人の後生を知りたがった。店巫女はその死者の魂を招魂し、往生の成就を告げる。もしもまだ供養が足りなければ、巫女に死者は降りず、その場で祓を頼まなければならない。それでも人は、自分の後生を良くするためにも巫女を頼んだ。
 巫女店の背後に接しては、遊女宿が軒を並べる。袖山大路の一筋向こうでは、大路遊女たちが妍を競っていた。
 聖都の東垣内の外は、常に喧噪で満ち溢れていた。その道を噂が走る。
「法王さまが、ご危篤だそうな」
 そう言うが、庶民には誰も法王を見た者がいない。どんな顔をしているのか、どんな声かも分からない。人々が知っているのは、死体に添える夜叉神護法の、護り札程度でしかない。札に記された、恐ろしく複雑な聖護の文字こそが法王の真筆と聞く。
 法王危篤の噂は、聖都を駆け巡った。
「法王さまのぐるり周囲を、衛軍と護法神とが囲んでいるそうだ」
 噂はそうも言う。内苑坊政所の放免は、噂を撒く輩を端から引っ張る。珍しく露骨な圧力を行使していた。
 その噂の走る茶屋町界隈で、赤太が泣いていた。ところは遊女宿の真ん前。荷車に無造作に投げ込まれた荷に取り縋り、赤太が大泣きしていた。
 今川丸と六連が、赤太を挟んで傍に立つ。六連は何も言わず、腕組みをして車の荷を睨んでいた。慰める言葉はこの際、何の役にも立たない。赤太を好きなだけ泣かせるしかなかった。
 主の刀自が、家の遊女に肩を支えられ、やはり泣き崩れている。遊女宿の茶屋町大路での騒ぎは、辺り一帯の遊興客までを巻き込んでいた。
「何だい、ありゃ」
「遊女が死んだとよ」
「ほう、また何で」
「さあねえ・・」
「で、あの泣いている汚い小僧は」
「弟だとよ」
「何だ、珍しくもねえ」
 それだけの内容が分かると、大抵の男は目当ての茶屋へさっさと消えた。身売りの遊女が死んだとしても、確かに珍しいことではなかった。だが死に方にもよる。赤太の姉は、惨い死を遂げていた。
 姉の名は鮎女。まだ家族が日高の荘に揃っていた頃の、鮎女の打つ砧の音が、赤太の耳には残っていた。
 姉は不作の年に、下司の後家尼に借米の質として買われた。一二年は下人として後家尼に可愛がられ、召し使われていたが、本所の没落と一緒に、後家尼の家そのものが傾く。そうなると真っ先に所従、下人たちから売られた。
 日高の荘内なら分かりもするが、そこから鮎女の売られて行った先を、赤太の親は知らない。知ろうにもその頃には、自分たち自身が人買いに身を預けていた。銭の世の中には良くある話だった。
 飢饉は等分に世間を貧しくはしない。必ず富める者を生み出す。不作の年の度に、銭の片寄せが進む。その銭で、赤太の姉は買われていった。
「なぜ、こんな酷いことを」
 主の刀自に肩を貸しながらも、唇を噛みしめて遊女が呟く。
「畜生、殺してやる・・!」
 切れ長の涼やかな目元が、怒りのため凄絶な艶を帯びていた。鮮やかな唇の色は、血の紅を引いたように赤い。
 六連は聞こえた言葉の意味を、探った。この女は、赤太の姉が殺されたと信じている。何が起きたのか。
 赤太には、今の女の言葉が聞こえただろうか。六連は赤太に聞こえていないように、秘かに祈った。
 今川丸の骨折りも、ほんの僅かの違いで実らなかった。たった一足の違い。それだけに赤太には、惨い仕打ちに響いた。
「お前が弔いを出せ」
 北山境へ送ってなるか、と六連は思う。一座の手で、鮎女は手厚く葬る。日の都の天子と同じに、荼毘に付した遺骨を天ノ鳥船で、遥かに海と空の間へと送る。
「坊主の経よりは、験一の読んだ経の方が功徳がある」
 赤太の泣く声が、また大きくなった。
 死体を貰い受けて、赤太は藍屋津への帰路についた。六連は遊女宿に残る。

第五章 聖都 六

 鮎女の腹は断ち割られていた。内臓がそっくり抜き出され、身の幅が半分にも減っている。六連はそのことを、赤太が知らずに済むよう験一へ書を添えた。
 内苑坊政所は事故だと言うが、一体どんな事故が人の肝を消し飛ばすのか。
 遊女宿の主の刀自は、決して鮎女の死骸を家に上げようとはしなかった。あれほど激しく泣いてはいても、死の穢れを家内に持ち込んで、何日も商売を休むつもりがない。
 刀自は死骸を引き取る身内だと知ると、赤太に供養の銭を包んで渡した。それで、厄介払い。それが当然だった。内苑坊からは過分なものを、すでに受けていた。
「淡雪を殺したのは、内苑坊に違いない」
 法王府十二坊の最も上位。法王の侍者でもある黒衣の宰相。内苑坊が鮎女を殺したのだと、その遊女は言い切った。
 名は切斑。鷹羽の鋭さを持つ遊女は、六連に膝を寄せる。
「淡雪は二日前、神明寺の節会に呼ばれて府内へ行った」
 その場で内苑坊政所が鮎女に目を止め、法王府夜叉神第へ召した。そうして戻ってきた時には、息をしていなかった。
「淡雪だけではない。内苑坊に召されて、それきり戻らない者は多い」
 人食いの噂が秘かに流れた。夜叉神の供犠に、遊女が使われたと言う。だが内苑坊の後ろ盾を得れば、聖都での身分は夢のように上昇した。内苑坊の斡旋で、十二坊御連枝に女を入れた家も多い。
「それでも、このごろでは、府内の神楽舞いの遊女は誰も召しに応じない」
 下級の遊女だけが、内苑坊の示す待遇と力に負けて召し出される。
「俺は盗人だ」
 唐突に六連は言った。
「もしその内苑坊から、盗んで貰いたい物があるのなら、盗んでみせよう」
 切斑は奇妙な顔をした。
「何を・・」
 だがその言葉に含まれる響きに、初めて六連を正面から見る気になった。
 遊女に尽くす誠を持つ男は稀有だった。男の醜さも身勝手さも知り抜いた切斑には、どうしても六連の、人を包む眸の光りが解せなかった。
「俺たちは、この坊主の天下を盗もうと思っている」
「正気でものを言うのか」
「正気に見えないか」
 気性の良い犬のような笑顔だった。遊女だからと見下しもしなければ、色気を出して飾りをする風でもない。ただ人として自分を見ていた。切斑は不意に、胸を熱くした。
「この私に、何を信じろと」
「俺と俺たちを」
 笑わせる団子鼻が、男の顔の真ん中に座っている。
 切斑には分からなかった。なぜか涙があふれてくる。淡雪のために流す涙なのか、我が身のためになのか、それが分からない。
「何を信じろと・・」
 切斑は自分がどうして泣いているのか、全く理解出来なかった。その男の笑顔を見るうちに、突然激情が走った。何かが胸の裡で、音を立てて崩れた。
「この、うそつき!」
 情の強い女よ、と良く言われた。声を上げて泣くことのない女だった。それが今、わんわんと手放しで泣いている。
「嘘ではない」
 切斑の泣き顔は、そこいらの幼い子と変わらない。自らの身の護りを忘れた顔だった。遊女が築かなければならない防備の壁を、切斑は今、全く忘れていた。
「なぜ、なぜもっと早く来ない・・!」
 理不尽な言葉だと、切斑は思う。突然どうしてそうなったのか、切斑には自分でも分からない。
 それが怒りなのか、悲しみなのか、切斑は区別出来なかった。ただ六連が、自分の混乱した気持を全部、受け入れてくれるのだと、どうしてか分かった。
 それは直感としか言えない。
「すまなかった」
 六連は切斑のために謝っていた。
「少し時が、かかりすぎた」
 切斑は六連の膝に身を伏せて激しく泣く。泣きながら、自分にも違う生き方を選ぶことが出来ると知った。
「わかったよ」
 化粧も崩れ、ぐしゃぐしゃになった顔で切斑は六連を見た。
「私はこの通りの遊女だから、あんたの仲間に入れてくれとは言わない」
 そう言ってしまうと切斑は何か、胸のつかえが降りる気がした。
「本当に、望んだら盗んでくれるのか」
「ああ、あんたをこの場から盗み出すことも出来る」
「いいや、私は自分でこの遊女を選んだのだから、悔やんではいない」
 そう言葉にして言ってみると、切斑は本当にそうだったことに改めて気が付いた。
 嫌な客もいるが、意に染まない仕事は誰にでもある。遊女という身の境涯を、強く憎んだことはなかった。
 けれど、泣いて暮らす娘もいる。
「妹の、淡雪のために、身分を選べる世の中を盗み取って」
 六連はにっこりと笑った。
「そのつもりだ」

第六章 法王府 一

 緋の切袴に白小袖。水草の緑の摺り模様の千早をかけ、阿倶利は巫女の装いをする。
 女の身では法王府の結界を侵し入ることは出来ない。しかし巫女であれば、また違う。内苑坊坊主龍乗の侍者として、阿倶利は巫女の姿で法王府にいた。
 法王府最奥の夜叉神第が、内苑に通じる唯一の門。だがそれは門と言うよりは、一つの巨大な伽藍でもある。黒々とした木肌そのままの豪壮な門は、通常の法堂を遥かに凌ぐ規模を持っていた。阿倶利の自ら選んだ場所がそこにある。
 黒い甎の敷き詰められた床は、底冷えがする。ひっそりと人気のない法王府の内でも、特に人気を避けた聖なる場所が、この夜叉神第。外陣の壁際には鋳銅の燭皿が並び、阿倶利はその一つ一つに油を注いで回る。
 絢爛と燭が燃え、焔を上げても、しんとした冷気は決して暖まらない。阿倶利の吐く息は朝霧のように、白く霜を帯びていた。
 阿倶利の眸は、焔の一つ一つを順に宿す。幾つもの焔が過ぎ、幾つもの闇が過ぎた。夜叉神第の朝は、そうして来る。
 本尊厨子を頂く護法壇の向こうには、法王の起居する内苑への通路がある。内陣から内内陣を越え、法王を直接に拝することが出来るのは、内苑坊龍乗ただ一人。龍乗は毎朝、一日の供物を捧げて護法壇の後戸を潜る。
 阿倶利は夜叉神第に毎朝響く、龍乗の足音を聞いて暮した。黒い甎を敷き詰めた冷たい床に、龍乗の固い木沓の音が響く。引きずるように重いその音が聞こえると、阿倶利のまた新しい一日が始まる。
 その新しい日が、昨日よりも良かったことはない。常に悪い方へと確実に動く。夜叉神第の湿った昏さが、胸に沁み込むように身体を蝕んでいた。
 今に、ぼろぼろの老婆になってしまう。阿倶利は土亀の黒櫃に身を伏せ、ぼんやりとそう思う。
 護法壇前の内陣に、阿倶利の櫃がある。そしてその奥には、阿倶利の関わらないもう一つの長櫃が安置されてあった。
 錫板の内張りをされたその櫃を、内苑坊龍乗は時折り覗いていた。時にはそれが、本尊の灯明蝋燭が燃え尽きるほどに、長いこともある。
 阿倶利の黒櫃と良く似た、夜叉神護法壇の長櫃には、やはり人の姿が横たわっていた。阿倶利は一度だけ、龍乗と倶にそれを見たことがある。幾重もの袈裟に丁重に包まれ、眠るように横たわるのは、法王侍者の巫女だと言う。
 阿倶利にはそれが、土亀のように生きているのかどうか分からない。それでも内苑坊龍乗は、生きている人のように話しかけ、時には落ち着きなく周囲を歩いていた。
 だがこの夜叉神第に暮していると、そんなことまでがどうでも良いように感じる。阿倶利には全てが遠く思えた。
「・・猫」
 阿倶利の耳に、ふと猫の小さな鳴き声が聞こえた。夜叉神第の半分を占める護法壇は、本尊の厨子前、外陣から内陣にかけて降魔陣を配する。その向こうから、確かに鳴き声がした。
「どこ・・」
 阿倶利はゆっくりと顔を上げた。声を聞きつけて、猫が再び鳴く。細い鳴き声は、猫の不安を示していた。
「出ておいで、何もしないから」
 そうして猫に言葉を掛けてみると、自分がどれほど遠い場所にいるのかが、はっきりと分かる。不意に涙が溢れた。薬師丸で猫と遊んだ日は、余りに遠い。
 その時、龍乗の木沓の音がした。阿倶利は猫の鳴いた辺りを振り返ると、内苑に通じる扉に向かった。護法壇の背後へ通るには、後戸の扉だけしかない。阿倶利はそこで、龍乗を待った。
「ほう」
 龍乗は目を細めた。その女がそうして目を細めると、阿倶利の知る或る女と共通のものが浮き出た。
 内苑坊龍乗。法王の侍者は、七条袈裟の法衣に禁色の紫の頭巾を被る。奇麗に剃り上げた頭部は、青味を帯びていた。
 内苑坊別当法蓮は、この龍乗の夫として政所を預かり、中つ国と聖都を実効支配する。龍乗は十二坊と法王とを聖性の紐帯で繋ぎ、絶対の価値を法王府に与えた。
 価値の中心が存在しなければ、土地支配も税の根拠も存在しない。聖性を与える器として龍乗は生き、法王府内苑坊は女系へと相続された。
 龍乗には、白拍子夜光と似たものがある。それが何かは分からない。ただ法衣を透かして、石英のように煙る膚が見える。阿倶利にはそんな気がした。
「羽衣を呼んでは欲しくないようだな」
 龍乗は阿倶利が折れたと思い違いをした。「この上の拷問は望まないようだな。もっとも羽衣は、治療と言うだろうがな」
 ひやりとするような声で龍乗は笑う。
「院内の荘に・・」
 阿倶利は龍乗に向かった。
「玄武塚にひと桶、残っている」
 あの妖怪尼が、まだ桶を抱いていればの話だが。
「一年でその量目だけしか増えない分」
「それで最後なのだな」
 龍乗の問いに阿倶利は頷いた。
「それがしくじれば、また別な償いをして貰う」
 桧扇がびしっと鳴る。龍乗は鋭い衣擦れの音をさせて阿倶利の腕を取る。
「お前には、まだ分かっていない」
 傍らに立てば、龍乗の香臭い背丈は阿倶利を遥かに越えていた。
「ことは余程重い」
 龍乗の白い頬が、ぴくりと顫えた。阿倶利の腕を握る力は、異常なまでに強い。
「お前が正直であることを望む」
 そう言って龍乗は、いきなり阿倶利を突き放した。
「土亀の守りへ戻れ」
 供物を再び捧げ持つと、龍乗はゆっくりと振り向いた。
「猫は飼うなよ」
 木沓と衣擦れが護法壇の後ろへ消えると、扉の軋む音がする。阿倶利がどう試しても開かない扉の内側へ、龍乗は去った。

第六章 法王府 二

 龍乗が歩いた距離に意味はない。法王府の奥は、完全な迷路だった。四方四面を漆喰と甎で固めた、漆黒の迷路が延々と続く。その暗闇の中を、龍乗は何の明りも持たずに歩いていた。歩きながら、何かの言葉を呟いている。もしその言葉を阿倶利が聞けば、毘沙門堂で白拍子たちが唱えた祈詞を、思い出すだろう。それ程に似ていた。
 時折り闇が発光する。その度に歩廊の印象が変化した。同じ闇ではあっても、方位と空間とが微妙に位置を変える。それはやはり、迷路の名に相応しかった。
 もし聖都に真実の中心があるとしたら、龍乗の立つ石の床がそれだった。
 地面と同じ高さに出口はあった。四角く降り注ぐ陽光の中へ、龍乗は石段を上る。その円形の庭が、内苑と呼ばれた。
「猊下」
 龍乗が膝を折る。床に擦れた木沓が、軋みの嫌な音を立てた。
「龍乗・・」
 北山境を越えた碧山の石が、内苑に同心円を描いて占める。そして法王自身は、緑色した封石の中央にいた。
 そこには巨大な樹木が、鍾乳石のように聳えていた。
「どうやら、そろそろのようだ・・」
 法王は龍乗に言う。だがその言葉を発した姿は見えない。風に常緑の葉が揺れ、私語を交わすようにざわざわと騒ぐ。葉の裏は銀箔を張ったように白く、表は血の赤さに輝いていた。
 巨木の名は、龍血樹と言う。その樹木こそが、世界樹の名で呼ばれる。
「いいえ猊下。まだ残っております」
 龍乗は供物の覆いを取る。蓮の葉に包まれた、赤黒い肉の塊が現われた。
「ここへ・・」
 捧げ持つ龍乗は、龍血樹の灰色の幹の前へ供御と倶に進む。その龍乗の顔の高さと同じ辺りに、暗い洞が開いていた。声はそこからする。
「それで、最後か」
「いいえ。あと一人分」
 巨樹の幹には幾つもの瘤が盛り上がっていた。太い枝からは裳裾を垂らすように枝根が垂れ、それが鍾乳石のようにも見える。
 折り畳まれた樹皮の襞に包まれ、法王はそこにいた。灰色の樹皮に同化したように、皺に埋れた顔だけが覗く。垂れ下がった瞼の奥から、法王は龍乗を見ていた。
 龍血樹の盛り上がる根の辺りには、干枯らびた肉片が散る。それが不老霊亀丸の正体を示していた。
 土亀の櫃から汲み出された霊水に、人の生き肝を浸す。光る水を吸収した生き肝は、摩り潰されて練り板となる。それを丸薬に調製したものが、薬師丸の不老霊亀丸。
 法王は霊亀丸以前の生き肝を、そのまま食していた。櫃の霊水が底を突くまで、服用した。しかし弱りは取り戻せない。聖都に走った噂は、正しく真実を言っていた。
「龍乗よ、まだ伽羅は戻らぬか」
「はい」
「・・どうした」
 龍乗の昏い眸に法王は問い返した。
「それが、伽羅はどうも、死んだようなのですが・・」
「ほう・・」
「伽羅の身に変わりはありませんが、真名が感じられません」
「誰かが、伽羅の真名を奪ったか」
「さあ私には・・」
「ふむ」
 龍乗は意を決したように、顔を上げる。
「猊下」
「言え」
「あの、土亀と小娘の呼ぶ生きた死体。あの真名に乗ることは不可能でしょうか」
「出来ない」
 言下に否定した。
「あれは、この下にあるものと同じだ」
 法王の言う下とは、碧山の石の下を指す。そこに眠るものを。
「探ってみたのですか」
「そうだ」
 その時の恐怖は、死よりも深い。法王は得体の知れない黒い闇に、呑み込まれかかったと言う。
「真玉の、永遠のようだった」
 龍乗は法王に掌を伸ばした。皺に埋れて衰えた頬を、労るように触れる。
「どうしたら良いのでしようか、猊下」
「余の身体はもう、滅びるだろう」
 法王は龍血樹の無数の瘤に対して言う。その全てが、かつて法王として生きた者たちの痕跡だった。最後の一人が今、衰えに向かっている。
「余が滅びた後には、誰も津怒我以を抑えてはおけまい」
 津怒我以とは往古の巨魔を指す。
「では、聖都はこれまででしょうか」
「分からぬ」
「どれほどの時が、私たちに残されておりましょうか」
「それも、分からぬ」
 法王は静かに瞑目し、龍血樹に当たる風の音を聴いていた。

第六章 法王府 三

 天山の峰々が、神々の座と呼ばれた時代。北天に白い異神が下った。輝く異神は、異界から魔を喚び寄せ海に放った。それが、津怒我以と呼ばれる。
 海魔は生長を続ける。天山の峰に座す神々が去り、白い異神が去っても、津怒我以は海の底で生長し続けた。
 終りと言うことを知らないように、津怒我以は生長を続けていた。日月は巡りを刻み、やがて海魔は、触手を海神の島へまで伸ばした。深い眠りにいた海神は、怒りに覚醒し、大海魔へと育った津怒我以に戦いを挑む。
 永い戦いが繰り広げられた。海の水を逆に覆す戦いを経て、海神は勝利した。破れた大海魔は、海底の暗い深部へと永遠に退く。
 海神は勝利を得て、美しい海を失った。永劫に近い戦いに撹拌され、海は無残に荒廃していた。
 海神は失われた美しい海を求め、この世の外へと遥かに去る。そして白い異神の名も、勝利した海神の名も忘れ去られる、永い時が過ぎた。
 大海魔は深海の底で、再び新たな生長を始めていた。闇の底で、巨大な黒い触手を蠢かせ、津怒我以は再び息を吐く。
 嵐の海にだけ現われると言う、船乗りの恐怖する大海蛇さえ、津怒我以の髪の一筋に過ぎない。それ程の巨魔が、海底には潜む。
「津怒我以の息吹が、脈動していた」
 焚火の前で、二色は身体を痙攣させながら言う。
「伽羅は、それを見た」
 二色は苦しそうに身体を折った。真名遣いを乗せてから、二色は相反する真名に引き裂かれ、酷い弱りを見せていた。
「それから、何を・・」
 晒は二色を膝に抱いて、耳を寄せる。何を真名遣いは見たのか。
「晒。眠らせて上げたほうが良い」
 久米は首を振った。真名遣いが跳躍に使った骨聖と、関の老乞食の死に様が胸から去らない。カラスに突かれた杣人は、それでも安らかに死んだと言える。二色がいつ死んでしまうかは、誰にも言えない。
「以前にも一度、二色は別な真名を乗せたことがありました。ただ今度は、女を受け入れてしまった」
 気を失うように眠りに落ちた二色を抱き、晒は静かに言う。
「それが、酷い混乱を生んでいます」
 灰色の結袈裟と葛袴の二色は、蘇芳の赤に浮かぶように、晒の膝で眠っていた。
「二色が片目の光りを失ったのは、その時だと聞いています」
「それを知っていて、止めようとしなかったのですか」
「二色は、決めたことは行ないます」
 確かに二色が自分で決めたのなら、誰にも止められないかも知れない。
「分かりました」
「藍屋津へ、寄らなければなりません」
 晒は二色の背中をゆっくりとさする。その場所の名前を久米は知らない。
 久米の知る世間は狭かった。院内の荘の外にどれほどの世界があるのか、想像したこともなかった。
「二色は真名遣いを放せば、回復しますか」「多分、もう一方の目と引き換えに」
 三人が藍屋津へ着く頃には、飢饉の煽りを受けて、街道ではどこも荷が動かなくなりつつあった。綾子神に加わる群衆だけが、街道を聖都へとぞろぞろ行く。聖都へ行けば、飢饉の悪夢から逃れられると信じるように。
「おやじどの!」
 馬借宿藍屋津二色の番頭が、二色の衰弱に激しい声を上げた。
「なぜそんな無理をなさったのです!」
「すまないな」
 池泉を前にした書院に伏し、二色は番頭に叱られている。
「それに晒がついていながら、なぜそんな無茶を」
「そう怒るな」
 それでも徐々に、二色は恢復しつつある。何よりも真名遣い自身が、二色の中で眠ってしまっていた。それが二色の立ち直りを早くさせていた。
「聖都へ行く」
「何ですって」
 番頭は晒を睨んだ。ついでに胡散臭そうに久米も見る。
「約束をした」
 二色はくすぐったそうに言う。
「破っては、いけないよな」
 番頭が唸りながら天井を向く。その横顔に久米は目を引かれた。晒の身内らしい。
「封石を、頼みたい」
「いままで散々、お断わりをしてきましたよね」
「分かっている」
 律儀そうな顔をした番頭は、二色の手を取る。そうして二人が額を突き合わせると、義理の親子ではなく、兄弟のようにも見える。齢はそう離れてはいなかった。
「やはり、これはおかしいのですか」
 低い声で番頭が訊ね、二色は応えた。
「そうだ」
 番頭はふと、表情を引き締めた。
「分かりました」
 晒を片目で見て、二色はにやりと笑う。番頭は不機嫌そうに、立ち上がった。
「あんな、土岐島の砂なぞ、いっそなくなれば良いものを」
 それが二色と養子の間の引き継ぎだと、久米は後から知った。何かが動くことを、今や中つ国の全ての人が感じつつあった。

第六章 法王府 四

 荒田打ちの時節が来れば、百姓ならば誰でもじっとしてはいられない。当然、綾子神の流行も下火に向かう。法王府はそう読んでいた。しかし、その読みは外れた。
 綾子神の猖獗を、法王府は甘く見積り過ぎていた。
 土に生きる者は、春の気配に鈍感ではいられない。田起こしに始まる一年の暦が、祭りに狂う人々の熱を醒ます。そう聖都は読んでいた。しかし春が来ても、綾子神の熱気は一向に去ろうとしない。
 狂噪が聖都を覆っていた。春の風流田楽のように、武士も町家もそれぞれ仮装して踊り流す。僧侶までが墨染めの衣を捨てて、粋狂にも女小袖に身を包み、綾子踊りに狂う。
 そのうえ今年の袖山踊りも尋常ではない。南宮山から都往還。淀溜りの船の上でさえ、踊りが激しく揺れていた。
 東大路から今川辻。油小路から二丁市場。どこも人で溢れている。塩焼の袖山踊りもあれば、綾子踊りの足踏みもある。下駄を揃えた綾子踊りは、カタカタと浮き立つ拍子を喧噪に加えた。
「何だ何だ!」
「おう、むこうで喧嘩だぞ!」
 びゅっ、と石つぶてが飛んだ。夜叉神社神人の摺り紋を入れた集団に、ばらばらと石つぶてが降り注ぐ。
「どこのどいつだ!」
「やっちまえ!」
 神人たちが浮き立つ所へ、町家の白粉連が団扇太鼓を鳴らして踊り込む。
「押すな押すな!」
 一時は何が何やら分からない混乱が支配する。だが熱狂はすぐに向きを変え、再び踊りの人々を揉みに揉ませる。喧嘩の名残りを踏み足の激しさに写し、路地から路地へと人が揺れ動いていた。
 人々の眸の底には、何かに怯えた狂噪が取り憑いていた。人の本能は、無意識に聖都の終末を予期する。
 夜には南宮山から日の丘辺りまでも、篝火が照り輝いた。昼は昼で、袖山踊りと綾子踊りの歌が掛け合うように木霊する。
 綾子神、或いは白拍子女たちは、聖都に踊り歌が木霊する中を、十二坊をねぎらうと称して練塀を潜る。
「遊女の常でございます」
 勝手な押しかけは遊興の添え物として、粋な遊びに数えられた。白拍子たちは、そう賑やかに笑いさざめいて、衛士の僧兵に媚態を振り撒いて通る。
「こちらの御坊は、何と凛々しいお顔立ちをなされていること」
「あら、幾葉さんがあんな」
「姉上に言いつけるわよ」
「こら、よせ。触れるでない」
 白拍子の色香に負けたわけではない。その女たちの一人が、内苑坊へ通るだけの符を所持していた。
 それは滅多に発行されない。入手が叶う者は寺社権門の上層に限られた。内苑坊の花押と朱印を備えた符は、全て通し番号が打たれて管理されている。紛失は失脚を意味する程の重い符を、一体誰が白拍子に与えのか。衛士は上司に報告するために番号を控えた。
 ぞろぞろと、白拍子女たちが通る。木戸を潜る度に路は横へ曲がり、迂回を繰り返す。塀の上には幾つも顔が並び、白拍子の風情を眺めていた。
 練塀外では風流が流行るのに、府内も奥では音曲さえ絶えている。禁足をくらっている僧侶たちは、眼福よと言い囃して白拍子たちに好色な視線を向けていた。
 蓄妾する僧侶は多かったが、聖都の奥ではそうも行かない。誰が招いたのか豪気なものではある。

第六章 法王府 五

 衛軍が発する。
「開門!」
 法王府衛軍が発する場合には、必ず真南の朱雀門から進発した。北斗の破軍星を背にした呪法を、衛軍は最初から意識する。
「別当将軍に、これを」
 白拍子女の用いた内苑坊の符は、衛軍別当が諜者に与えた符と一致した。
「ほう・・」
 破軍別当隨雲には、心当たりはなかった。「その女どもを捉えよ」
 衛士に短く告げると、別当は再び馬上で号令した。
「日の丘へ!」
 二頭の白馬が先発する。朱色の房を付けた槍を立て、衛軍は動き始めた。
 聖都の外周では、綾子神の群衆がどよめいていた。神輿はあちこちで振られ、北山送りの死者の葬列は、全く途絶え果てていた。
 そればかりではない。聖都へ搬入される筈の多くの荷が、綾子神の群衆に奪い取られる事態が生じていた。検非違使辺りではどうにもならない。やはり衛軍が動かなければ、綾子神は鎮静へと向かわない。
 衛軍総督、隨雲は急遽招集した僧兵を、垣内の馬場に揃えさせた。
「良いか者ども!」
 馬上から破軍別当は、夜叉神の神旗を示して吠えた。
「夜叉神の加護は疑いない!」
 七星の鋲を打った兜が、陽に燦めく。カツカツと馬蹄を鳴らし、破軍別当隨雲は衛軍を閲兵していた。緋糸緘の大鎧が、いかにも頼もしく映える。
「む、良い面構えだ」
 破軍別当は太刀を抜いた。頭上にかざす降魔の利剣が、陽に眩しく輝いた。
 どっと喚声が上がる。
 法師頭を具足に包み、二千の衛軍は破軍大将軍の雄々しい姿を、護法神のように仰いでいた。喚声が地鳴りする。
「ようし、聴け!」
 おう、と木霊が返る。
「百姓腹どもの穢れた土足を、聖都に踏み入れさせてはならぬ!」
 再び衛軍が沸く。何よりも働き次第では出世が手に入る。こんな機会は、まず滅多になかった。
「敵は、日の丘に群れる阿呆どもよ!」
 軍議の必要もない。そう破軍別当は踏んでいた。しかしそこでも、法王府は過小な見積りをしていた。
 神旗が征く。それだけで本来はことが済んだ。誰も正気で法王府に盾つくはずはない。ひと脅しくれてやれば、蜘蛛の子を散らすように逃げ散る筈だった。
 軍列は最初こそ陣構えも組んでいたが、綾子神の群衆が見え始めると、それぞれが勝手に走り出していた。
「行け!」
 破軍別当はそれを止めなかった。身の回りに僅かな手勢だけを残し留め、後は全部を一気に突っ込ませた。
「そうよ!それでこそ、聖都の軍勢よ!」
 それは、勝手放題な駆け込みようだった。騎馬の僧兵が突っ掛けると、徒歩の鎧武者が槍を振り回して走り込む。するとその途端に群衆が二つに割れた。
「や・・」
 破軍別当は目を疑った。正面にはどうして現われたのか、天から下ったとしか思えない軍勢が、衛軍と対峙して馬首を揃える。その数、ざっと五千。
「な、何だあれは・・!」
 軍旗は黒一色だった。だがそれぞれの馬印しには見覚えのあるものが多い。
 それもそのはず。禁裏供御の御用印を、各自が馬印に掲げている。
「誰か、ひと槍付けて参れ」
 命じるとともに法王府へ伝令を走らせた。救援の人数を要請しなければならない。敵に互するためにはあと、少なくとも二千。それだけを招集しなければ、戦にはならない。
 衛軍は群衆の背後の軍勢に気が付いた者から、勝手な稼ぎを止めて戻り始める。そこを敵の軍につけ込まれた。
 攻め太鼓が轟いた。綾子神の熱狂がそのまま伝染したような、凄じい鬨の声が上がる。 はっきりと衛軍が顫えたのが分かる。数の上でも何とも分が悪い。そのうえ敵は、神輿振りの群衆をも味方に付けていた。破軍別当は士気と陣とを、早急に立て直さなければならない。
「ひるむなよ、ひるむな!」
 左右の侍僧が馬を寄せる。
「将軍!ここは一旦、垣内櫓まで引きましょう」
 砦の備えをした櫓から弓戦で応じる。衛軍の損耗を考えれば、それが妥当な布陣でもある。だが破軍別当は迷った。
 陽に翻る夜叉神旗を仰ぎ、太刀を再び前方へ振り下ろす。
「ならぬ!」
 大音に吠えた。衛軍は本来、実戦をしない聖兵だった。その神聖力をもって聖都を加護する。祈りと呪法に守られた聖なる衛軍は、絶対に破れてはならない。当然、引くこともままならなかった。
「どうだ千手坊よ、敵には後ろ巻きがあるよう思うか」
「いえ、そうは見えません」
「では、引くなどとは考えるな」
 救援が来るまでともかく持ち堪える。そう隨雲は指揮した。
 これまで衛軍は、正規な軍勢とは戟を交えたことがない。戦いの相手はいつでも、法王府に背いた背教の輩。すでに打ちのめされ、手足をもがれたも同然の相手に、夜叉神呪の降魔印を与えるために動く。
 それも実際の戦闘は、権門の抱える下級の武者が行なう。衛軍はただ軍陣で破軍の呪法を修し、敵に恐ろしい死後を用意する。それが今、突然に戦いの先頭に立っていた。
 思えば綾子神の神輿振りを、ただの田舎の祭りと見過ごしたところから、法王府の誤算は始まっていた。ここまで来れば殆ど逃散百姓の一揆にも等しい。それも聖都始まって以来の巨大なうねりが、瓦築地の城壁を洗っていた。

第六章 法王府 六

 今川の水路を、奇妙な舟が滑っていた。舟には網代が掛けられ、一見誰も乗らないように見える。それが、棹差す者もいないのに、今川をなぜか上流へと滑って行く。
「おい・・」
 一の舟入りでは、水門の番士がもう一人を呼ぶ。
「ちょっと、あれを見てくれ」
 綾子踊りの騒ぎから、この今川を通過する荷が極端に減った。日に数隻通えばましな程度に激減した舟は、荷も殆ど積んでいないことが多い。
「あの舟には、誰も乗っていないよなあ」
 自分の目が信じられないように、番士は同役と並ぶ。
「棹」
 竹棹を取り出すと呼ばれた番士は、ゆるゆると滑る舟の舳先を押す。
「お」
 意外に重い手応えが返ってくる。舟は反発するように一度止まってから、再び上流へと動き出す。
「どうなっているんだ」
 番士の額に汗が浮いた。その時、背後から呼ぶ者がいる。
「もし」
 振り向いた二人の番士は、同時に悲鳴を上げた。被を目深く下ろした女の目が、異様に赤く光った。
「げっ!妖怪!」
 赤目妖怪は夜歩くとそう噂していた。それがこの昼間に出没する。
「どうなされました」
 被をはらりと落した女は、今川丸の家紋入りの布包みを差し出す。
「蓬莱町の出屋の普請が叶いまして、これはほんのお口汚しばかりにと」
 布包みを鮮やかに解くと、女は豪勢な弁当の重箱を番士に差し出した。
「ほ、蓬莱町どのが、か」
 さっき赤いと見た女の目は、瞼に引かれた魔除けの紅。それに女でさえもない。
「お、お稚児か」
「はい。金王坊におります、赤童子と」
 ぺこりと下げた頭は、垂髪を背後で束ねてある。元結の白さが、目を洗うように風情を帯びていた。
 番士が息をついて振り返れば、もう舟はどこにもなかった。まるで夢でも見たように、今川の水路から消えている。
「や・・」
「どうかしたのかな、俺たちは」
 もう一度振り返れば今度は稚児がいない。だが蓬莱町の使いの証拠には、漆塗りの重箱がそこに置かれてある。
「ふむ」
 多分下段には幾らかの祝儀も入っているだろう。二人の番士は、さっき見た舟のことを忘れることにした。落ち度を報告するにしても、何と報告すれば良いのかが分からない。奇怪な出来事は、ないほうが良かった。
 その舟が、上流で網代を撥ね除けた。一見何でもない葦の繁みに、舟は辷り込む。
 今川には、誰も知らない水路があった。ただその水路を作った者だけは、そこから除外される。庭者が権力を持つ者に近い位置にいる理由は、そのことによる。
 今川丸日野家が開削した水路は、法王府の奥深くにも引き回されていた。月ノ江川を地下に引き込み、御手洗川の神水として湧き出させる。水道と石組みの技術が、厨水の給排水にも生かされていた。
 総厨に接する水場には、焼き目杉の板が、それぞれの持ち場の境を示して立っていた。それだけでもそこが、威勢争いの場であることが看て取れた。
 複雑な縄張りを表わすように、水路に沿って板塀の立て込み具合が不規則に組まれる。もし水の上から見るなら、それは絶好の目隠しにもなった。その証拠に、そこら辺りでは水鳥が悠然と遊んでいる。人の目を引くこともなく、静かな水浴びが鳥に約束された。
 その厨水の落ち口に、浄水を助ける葦池が掘られていた。枯れ葦を滑らかに分けて、舟が進む。
「総厨の向こうが、真言院」
 六連は絵図を確かめる。小白は頭上を見上げ、空の色を見ていた。
「ああ、この時間なら、北は向こうか」
 空の色で、方角を見極める。
「ではその次の門が、不老門だな」
 一の舟入りで番士がなぜ、誰も乗らないと見たのかは分からない。艫では楽王が棹を操り、六連は小白と絵図を見ていた。
「よし、舟はここまでだ」
 六連は小白を促した。
「大したことじゃない」
「何も、出来ないかも知れませんよ」
「そんなことはない。これからだ」
 要諦は無為にある。作らなければ人目には立たない。特別な技は、半端に使えばむしろ足を引っ張る。
 今川丸日野家が整備した総厨の水落ちを巡り、三人は月宮殿へ忍び入った。

第六章 法王府 七

 神体岩に繰り抜かれた神門を抜けると、すぐに白い砂を敷き詰めた中庭に出た。
 何を行なう場所か想像も付かなかったが、中央には灯篭が一基だけ立っていた。回廊が左右へ伸び、そのどれにも扉が柱の間の数だけ付く。
「どれだ」
 いきなり選択と来た。回廊は朱塗りの柱で巡らされ、扉の壁面はやはり朱が厚く重ねられている。そのどれにも手擦れの跡が残っていた。
 正面には出口はない。神体岩を除いた三方には、鉄平石を張った漆喰の壁が二丈の高さで分厚く聳えている。
「上を越えて行くのか、御前」
 小白としては大儀だったが、それしかなければ仕方がなかった。壁の上か屋根伝いに行くのが常法。
「無理だな。それでは辿り着けまい」
 六連は顎を手で撫でながら見回していた。迷えばきりがなさそうだった。忍び入る者を想定して巡らされた罠は、正攻法で破るしかない。
「カンだな、そうすると」
 六連はにやりと笑った。巡回の衛士僧兵が来るまで、そうたいした時間は残っていないだろう。
「とっとと決めるに限るんだ」
 最も重要な扉がどれかを、六連は一度で当てるつもりでいた。
 風が全く動かない。
「御前・・」
「しっ・・」
 楽王があくびを止めた。六連が一つの扉に向かって中庭を横切り始める。左手、柱十四間の最も奥。その一つ手前の柱間を六連は示した。
「これで外れだったら、俺には盗人の資格はないな」
 にやにやと笑いながら、楽王が扉に手を掛ける。
「開けるよ」
 全員が壁に身を寄せた。楽王だけならば、たとえ目の前に人がいても、すぐには気付かれない。その間に対応は取れた。それでも六連は、向こうには人がいないだろうと思う。回廊の背後では、鉄平石を張った漆喰の壁がひっそりと音を吸う。
 扉は軋みもなく開いた。楽王の手の中で滑るように、内側へと動く。
 中はやはり、漆喰塗りの白い歩廊だった。二間の高さに梁が通り、屋根裏までも漆喰で固めてある。突き上げの窓から明りがこぼれるが、それほど明るくはない。
「衛士だ」
 神体岩の奥から人声がする。小白は扉を素早く押した。閉まってみると、歩廊は何か一つの部屋のように見える。
「奥へ」
 だらだらと下る歩廊は、地形をなぞるように複雑に曲がる。それが法王府の迷路の始まりを告げていた。
 法王府の奥は、迷宮そのものだった。そう言えば聖都そのものが、螺旋の描く迷宮構造を持っている。天子の都にしても、同様の造りをしていた。
 外敵を防ぐ、首都の守りには必要な構造だろうが、それにしても法王府の内部は、異常な程に錯綜していた。
「予想はしていた」
 六連は小白の絵付けを待って、次の歩廊へと進む。念のために一番先は楽王が行った。楽王の無為は、人の意識を刺激しない。短い間ならば、まず見とがめられることはないと信じて良い。
「次を、右だな・・」
 小白が何事かに気付いた。
「読めたか」
「多分・・」
 どんな迷宮であっても、必ず設計した者の癖が混じる。構造の原理さえ突き止めれば、解けない謎はなかった。
「けれど、どうも妙だな」
 普通は迷宮というものは、内部へ達しないために工夫する。或いは真実の内部を、出口と定義しても良かった。
「意図がどうも・・」
 絵付けを起こしてみると、小白の感じた違和感は、より一層はっきりとする。
「向きが違う」
 外からを防ぐよりも、内から逃さないような工夫の方が、比重が重い。小白はそう判断した。
「嫌な感じだな」
 六連はふと呟いた。
「もしこの迷路が何かを封じたとしたら、一体どんな奴を想像したら良いんだ」
 法王府。正殿の背後から始まる迷路は、いきなり神体岩を潜り抜ける。夜叉神の宿り代だとされる岩は、白木の正殿に噛み付くように青黒くめり込んでいた。そこを通じて、法王は首府へと通うとされていた。
「豪勢なものだ。この辺りの通廊は、内張りを銅でしている」
 木材に銅を被せて、火を防いでいる。それも古びて緑青が黒く覆っていた。
「この広さじゃ、そう磨き立てる暇もないわな」
 時折り明かり取りの突き上げ窓から首を出してみるが、複雑な漆喰の波以外には何も見えない。屋根の上をどう辿っても、どこにも行き着けそうにもなかった。
 時には地下へも歩廊は降りる。その度に別の通廊と交叉した。地上へ出れば、どちらを辿ったものかの見当も、皆目付かなかっただろう。それ程に、迷路は厳重に巡らされていた。
 そして突然に闇が待っていた。
 ぷっつりと切れた漆喰壁の歩廊は、黒みを帯びた砂岩で組まれた、ざらざらの石壁へと変わる。壁は塩っぽい湿りを帯びて、闇へと続いていた。
「何だこの匂いは・・」
 油臭いような、重い匂いだった。それが空気を汚染するように漂っている。匂いのせいか、闇までが濃く感じられる。
「こう、鳥肌が立つような・・」
「明りがなしでは、ちょっと無理だな」
「仕方がない。腹を決めよう」
 六連は懐中灯の中心に蝋燭を立てた。漆の実の蝋はゆっくりと燃える。
「明りはこれ一つで行こう。どこまで続くものか、まだ判断が付かないからな」
 短く切った蝋燭は、不足がないように準備はしていた。だがまさかこれほどの迷路が法王府の奥に隠されているとは、六連でさえも想像をしていなかった。
「御前・・」
 さっきから壁に耳を付けていた小白が、手招きで六連を呼ぶ。
「これは、何の音だと思います」
「どれ」
 小白と同じようにすると、囁くような響きが僅かに聞こえる。
「水・・か?」
 小白はゆっくりと頷く。
「何の水だろう」
「そこまでは・・」
 六連の直感に、何か嫌なものが触った。どうしても、もう一度確認をしなければならない。
「嫌な感じはないか」
 その言葉が何かを凝縮させた。
「そう、膚がざらつくような感じだ」
 沈黙はやはり動かない。
「そうか」
 危ない予感を全員が抱いている。確かに不穏な何かが迫っていることを、六連は確信した。
 前へ進めば進むほど、予感は増す。脅威ははっきり前方にあった。
 突然、開いた空間へ出た。湿った黒い土の上には、所々に濡れた苔の緑を置く。
「内苑が、ここか」
「違う。これは夜叉神第だ」
 背後と周囲には、黒壁の土居が巡らせてある。二重の構造が、そこにはっきり表われていた。
 月宮殿の神体岩は、この夜叉神第の模倣に過ぎない。黒い巨大な伽藍の背後にこそ、法王の座す内苑がある。
「あ・・」
 小白が上を向く。絵師は常に光りに敏感に反応した。
 頭上に煙が流れていた。南から北へ、黒い煙が幾筋も靡いて風に乗る。
「火を、付けたな」
 験一には固く禁じておいたが、やはり供御人の惣支配、愛宕大丞は待ち切れなかった。法王を盗み出すのを待てずに、ついに聖都に火を放った。六連は珍しく怒りを色に見せ、中坪へ足を踏み入れた。
「妙だな」
 その途端、ひやりとした。いかに法王府の聖所とは言え、余りにも人気がなさすぎる。「嫌あな感じだな」
 しかも夜叉神第の扉は開いていた。
「ほう・・」
 そこでどんな護法が修されるのかは分からない。灯明を絢爛と点した堂内は、半ばは煤け、半ばは金銅の色に輝く。
 見たこともない巨大な護法壇が、黒光りして圧倒的な威圧を示していた。金銅の光りと黒い闇とは厚い織物のように手触りを持っていた。
「法王はどこなんだろう」
 小白はまっすぐ壁を指した。
「また同じように、迷路があるはず」
 楽王が六連を呼ぶ。
「御前、これは」
 血の跡が床に黒く広がっていた。乱暴に転がされた長櫃が、空のままで横腹を見せている。その辺りの法具陣だけが、掻き回したように乱れている。
「先客か・・」
 カンが、それ以上の侵入を留めている。通常であれば、六連は迷うことなく引き返しただろう。
「行くよ」
 その時、風が動いた。
「誰かいる」
 楽王は護法壇の潜り扉を指す。そこに、人の腕が転がっていた。
「女か」
 腕はまだ若い女のものに見えた。肩の付け根から、鋭利な刃物で切り落とされている。「あの血は、これか」
 軋む扉は風に煽られて動く。潮の匂いのする黒い風が、護法壇の後ろから吹き出していた。
「なぜ潮の匂いがする」
 たっぷりと油を差した燭皿を持ち、六連は風に向かった。
「死の世界へようこそ」
 小白は六連の言葉を聞くと、自らが先に行くと言うように楽王を押し除ける。楽王は不思議そうに頭をふらふらと振っていた。六連はもう一度燭皿を頭上に掲げ、通廊の奥に光りを当てた。
「とっくに止めるに限るんだが、もう引く訳には行かないとこまで来ちまったな」
 今からでも、引き返すか。六連はそう言いたくて仕方がなかった。
 その時、三人の背後に気配が生じた。
 六連はふわりと丸く身を沈め、片方の掌を柔らかく前に向けた。その脱力した掌が、気配を全て受ける。
 小白はまだ、何が起きているのか気付かない。そして楽王は無防備に振り向いた。
「お邪魔してます」
 楽王の呑気な声が響く。護法壇の巨大な黒を背景に、異様な人の姿が立っていた。だが敵意の存在は感じられない。
 灰色の装束を着けた二色の両側に、久米と蘇芳の晒がいた。法士たちは、盗人たちを見ていない。影が揺れたように見えた瞬間、鋭く風が走った。
 六連は一瞬、妙な違和感を味わった。その三人は、まるで一つの身体を操るように行動している。
「・・二色」
 一筋の風のように過ぎる影の、前に立つ男の片目が青く光っていた。
 闇の歩廊へ走る二色に接し、久米と晒は微妙に位置を移し、揺れながら続く。その影と擦れ違う時に、耳慣れない言葉が聞こえた。この世の言葉ではない、どこか異界の人々の祈りの詠唱のように、風が過ぎた。
「あれは・・」
 盗人たちは全く無視された。だがそれは確かに藍屋津二色。馬借宿の主。
「二色、だったよな・・」
 何か六連の背筋に冷たいものが走った。確かに二色ではある。しかし同時に、藍屋津の二色とは違っていもいた。
「御前・・」
 小白は直感していた。
「あの三人は、何か違いますね。それも片目の色が異なる人は、特に・・」
 小白はそれを表現しようとして、不意に言葉を失った。言葉を失ったまま、身裡に弾けた感覚を味わう。
 体内に灼熱を宿したように、意識が熱い。勝手に構図が闇に走り、黄金に燦めいて浮き出す。それは凶暴な意欲に近い。小白はその構図を、思う存分に描いてみたかった。
 楽王はその時、痺れたように頬を緩め、蘇芳の晒の面影を追っていた。
「行こう」
 六連は躊躇を断ち切った。
「善悪が天にあるのなら、生死も天にあるだろうよ」
 風の名残りを追って、六連は歩廊に飛び込んだ。遥かな闇の中に、灰色と蘇芳の赤とが揺れていた。燭皿の焔に紛れ、消えかける後ろ姿を六連は追う。
 もし自分の能力だけでその迷路を行けと言われたら、多分不可能だろう。六連は地上にそんな場所のあることを初めて知った。
「御前、これは真実の迷宮だ」
 小白の絵図が、役に立たない。
 三人は必死で走った。先を行く人影を見失えば、絶対に辿り着けないと確信する。時折り床が、ぬるりと滑る。その感触は、紛れもなく人の流した血を意味する。
 ともすれば闇に溶けそうになる人影は、異常に足が速い。六連は燭皿の焔を頼りに追うことを、ついに不可能と判断した。
「小白。楽王。頼むぞ」
 初めて、自分のカンだけではないものを頼りにした。燭皿を捨てると同時に、真の闇が周囲を包む。先行する二色の姿をした者たちは、足音さえも立てていない。
「法士の名とは、そんなものまで意味していたのか・・」
 六連は今になって、二色が自分に語った法士の名の夢を思い出す。あれは、馬借の変わり者の法螺噺ではなかった。
 この迷路は確かに他のいかなる迷路とも異なっていた。空間が伸縮するものならば、そうとしか思えない。或いは感覚そのものが、自分を裏切っている。迷路を成立させているものは自分自身の感覚の混乱による。
 だが妙なことに、楽王だけが混乱していなかった。
「こっち」
 六連が迷う度に、自信を持って合図する。後になって六連は、その理由を笑い転げながら聴くことになる。だが今は、六連は吐き気を催す眩暈の中にいた。

第六章 法王府 八

 眩暈がする。その眩暈を通り抜けて、世界樹が立っていた。
 世界の中心を支える樹木など、誰が信じるだろうか。それでもその巨木が、聖都の中心であることは動かせない。肉厚な葉の血の赤と、繊細な葉裏の銀とに彩られ、異常な樹木は陽に輝いていた。
 小白の目には、龍血樹の不気味さが看て取れた。
「人食いだな」
 不吉な小白の言葉に対応するように、龍血樹の巨大な幹に、人が埋まっていた。そしてその前に裸の男が、全身を赤く血潮に染めて立っていた。
 額には斧の形の痣が、緋く浮き出して燃える。異形の鬼のように深く窪んだ眼窩には、仄かな緑色の焔が、昏く点る。
 左手はだらりと下げていた。右手には白い柄巻きの細身の太刀を持っていた。その右手の太刀の先が、龍血樹の幹に突き刺さる。
 濃密な潮の匂いが、陽炎のように揺れていた。血の匂いは男の周囲に立ち込め、龍血樹に突き立つ刃は、老婆の胸を貫いていた。足元には大量の血が流れ、内苑の緑の石には、人の身体の部分がばらばらに散る。その全てが、女のものだった。
 男の視線は、龍血樹の中に埋まっている人間に向いていた。そのしなびた老人こそが、法王。龍乗と阿倶利は、血に染まった男を挟み、白拍子女の群れと対峙していた。
「龍乗・・」
 法王が男を見据えたまま、龍乗を呼ぶ。
「伽羅が、戻ってきた」
 二色は目の前に何も見ないように、法王に近付いて行く。晒と久米は背後に従った。
「お前は、法士か」
 二人が同時に言う。二人とは二色と法王。それぞれが互いの存在を知った。
 その場所を支配する者は、裸の男だった。その男の動きだけが予測出来ない。
「もっと早く、お前のことを知っておれば良かった」
 法王は穏やかに目を閉じた。その瞬間に、裸の男が咆哮する。右手の太刀を頭上に差し上げ、獣のように凄じく叫ぶ。その吼える声には、野獣が仔をなくしたように、悲痛な響きがなぜかあった。
 抜かれた太刀からは、老婆の身体が崩れ落ちる。ふわりと、白拍子女がその身体を受けて背後へ退く。
「寿椿尼さま!」
 夜光の腕の中で、白拍子たちの母は死んでいた。だがその死に顔には、微笑が湛えられている。
「何がどうか、分からないねえ」
 六連の呟きは、盗むべき法王に向けられていた。法王一人を盗み出せば、無用な血は流さずに済む。そのために懸けた命。
「だが、こいつはどうだい」
 どこから手を付けて良いのか。それが分からない。この不気味な奴らどもは、一体何なのか。二色でさえが、馬借の宿の主とは違う顔をしている。不意に盗むべきお宝が、指の間を滑り抜けた気がする。
「久米!」
 阿倶利が叫んだ。この膠着は、たった一人の男による。久米は地を蹴り、小黒丸の太刀を抜き放つ。
「土亀!」
 空中から久米の撃ち落とす刃は、男の頭上を襲った。とうてい鋼鉄の立てる音とは思えない、凄じい響きが木霊する。
 久米は痺れを抱いて樹幹を蹴った。撥ね上げられた太刀を掴んだままで、久米の身体は巨木の瘤を足場に跳ぶ。男は、異常な膂力と剣技を所持していた。
「止めよ・・」
 法王が再び口を開いた。
「これは、捨てておけ」
 久米は木瘤に片手を吸い付かせ、太刀先を眼下の男に擬していた。自分が通用する相手ではない。刃を交えた瞬間、それは分かっていた。
「薬師丸の霊水とやらの利き目は、この男のためにだけあった」
 龍乗の持つ蒔絵漆の桶には、ただの腐った水が満たされていた。その桶を抱えて、薬師丸の妖怪尼は生き続けていた。
 日々に薄れて行く水の光りを、白拍子たちの母はどう見たか。死人からはもう、聞き出す術がない。
「奇怪な生き物よ・・」
 法王が口を開いたと同時に、男はあの悲痛な叫びを止めていた。法王の何に魅かれ、何を見つめているのか。白拍子の太刀を自らの腕のように下げ、立ち尽くしていた。
 その時、夜光が二本の太刀を続けざまに投げた。風が唸り、鈍い音がした。
 一本の太刀は閃く刃に砕け落ちたが、もう一本の刃は、男の脇腹に深々と刺さった。
 鞘走る音が一斉にする。白拍子女たちは抜き放った太刀を、気息を揃えて一気に放つ。凄じい唸りが過ぎ、太刀の白い光りは密集して男を襲った。
 だが男の受けた太刀は、一つもなかった。しかも男は身に突き立つ太刀を、何でもないように引き抜く。
 血は、僅かしか流れなかった。二本の太刀を下げて、男は法王に見入っていた。
「この者には、通用しまい」
 すでに法王の声は微かでしかない。
「法士よ」
 法王が、二色を呼ぶ。
「・・名は」
「二色」
「いや、その名ではなく、法士の名を」
「・・沙名都」
「ほう・・」
 灰色の樹皮に皺が寄るように、穏やかな波紋が伝わって行く。法王は笑みの中に浮かんでいた。
「良い名だ。しかし、遅すぎた」
「津怒我以、か」
「伽羅が言ったのか」
「いや、ずっと眠っている」
「そうであろうな」
 法士二人の会話は、六連にも多くの者にも意味が取れない。だが、次第に濃くなる潮の匂いが、不吉な事態を告げていた。
「逃れよ」
 法王はそう言った。
「一刻も早く、この聖都から退去せよ」
「猊下!」
 龍乗は薬師丸の最後の霊水を、緑色の封石に落した。貝を散らした蒔絵漆の桶は、鈍い音を立てて転がる。
「龍乗・・。良く生きたと、褒めてはくれぬのか」
「猊下、私も残ります」
「その必要はない。義務を果たせ」
 龍乗は身を伏せると法王を拝し、さらに素早く身を翻した。六連にも小白にも、楽王にも目をくれず、自らの義務を果たすために、内苑坊政所へと走る。龍乗はもう木沓を履かない。
「さあて、どうやら、盗むものが消えちまったようだな」
 六連は、七条の袈裟を翻して走り過ぎた龍乗が、内苑坊であることを知らない。
「楽王」
 そう呼ぶ声は、楽王に耳には届かない。楽王はいつの間にか、晒の傍に立っていた。指を伸ばして、晒のふっくらとした頬に触れようとしている。
「奇麗だね」
 ぴしりと楽王の手が弾かれた。
「久米」
 晒は久米を呼ぶ。
「ああ」
 龍血樹の瘤から去らないまま、久米は晒に応える。
「それで良いのですか」
「法王府へは、確かに来た」
 久米は固く縺れた結び目の、たった一つの結節点を見出した。その結び目を解けば、阿倶利は救われる。
「久米よ」
 二色は太刀を下げた男の背後から、久米を呼ぶ。
「忘れるな。真名とは何か」
 二色は晒に掌を向けた。その掌から放射する真名は、晒と久米、そして法王のほかには見えない。
「分かるか」
 二色の見せた真名と、龍血樹に埋まる法王の真名とは、双子のように色彩が似る。
「やっかいな生き物だよ、法士とは」
 法士の使う真名とは、六連の言葉で言えば天に通じる。
「私は呼ばれたよ」
 久米は目を見張った。二色は土亀の太刀の範囲へ無造作に入った。だが男は動かない。「そうでしょう」
 問う二色に、法王が同意を与える。
「それでも、余になぜとは問うな」
「晒。久米。さっさと逃げろ」
 二本の太刀を下げた男は、二色に何の反応もしない。法王の埋まる龍血樹の元に坐する二色を、男は全く見なかった。
「教えてくれ、法王よ」
「於宇と呼べ」
「では於宇よ、どのようにしたら良い」
「その前に、伽羅を還しては貰えぬか」
「無論」
 久米には法王の真名が二色に移る瞬間、真名遣いが跳躍したのが分かった。それで真名遣いは再び自己へ環流する。法王の真名が、二色をやすやすと生かしていた。
「消耗は・・」
「ない」
「では」
 それからの真名の交流は、人の為すものではなかった。大きく人の領域を越えて、その二人は全く別種の生物に変化する。久米と晒の目には、それがはっきりと映っていた。

第七章 津怒我以 一

 大地が鳴っていた。
 袖山十六井。全ての塩井戸が、突然潮臭い真っ黒な水を噴き上げた。
「黒神だ!黒神が来るぞ!」
 轟音と共に噴き上げた黒い奔流は、上死点に達する。それからゆっくりと、巨大な重量で砕け落ちた。黒い怒涛が大地を撃つ。
 塩井櫓が微塵に吹き飛び、黒水を被った井戸守りの下人は、すでに狂気を発したように黒く哄笑していた。だがその姿も、一瞬で奔流に消える。
 地中の暗黒神が、袖山の十六井から這い出そうとしていた。全山が叫んでいた。塩井から溢れ、渓々を黒く汚して流れ下る黒水が、袖山衆の古い記憶を呼び覚ます。
 聖都に変事があれば、黒神が崇りをなす。伝承は聖都の開始と倶に始まっていた。法王府の呪力が黒神を封じ、袖山の稼ぎを可能にさせる。もし呪が損なわれたら、黒神は再び這い出すだろう。
 袖山衆は一斉に、恐怖を帯びて聖都へ逃げ走り始めた。保護はそこにしかない。その聖都では、愛宕の放った火が燃えていた。
 験一は苦々しく煙を眺めた。
「悪人めが・・!」
 人の住いを焼いて得るものは、何もない。六連の一座が最も嫌う行動を、禁裏供御惣支配は当然のように取る。
 連係はこれまでだろう。たとえ蓬莱町今川丸の懇望であっても、それ以上は譲れなかった。験一は消火のために、一隊を捻り出さなければならない。
「おい」
 白扇房を呼んだその時。袖山方向から、薄い靄が流れ出していた。
「何だありゃ」
 見慣れた塩焼の煙ではない。もっと不吉な色をした塊だった。聖都の各所で上った黒煙とは、全く別な動きをする。
 異様な鉛色の靄は、ゆっくりと南西へ動いて行く。袖山の稜線を軽々と越えて、西谷の送り衆が住む辺りはもうそこまで。下りに掛かれば、鉛色の靄の足は、当然早まる。
「壷百」
 貝の数珠を首から下げた白扇房と並び、壷百が馬に乗る。
「ほ、何か」
 験一は靄を指した。そのまま来れば、すぐにも都往還へ達する。
「壷百よ、あんなものは見たことがあるか」 壷百が振り返る間、験一は視線を衛軍の本営に送る。衛軍の動揺は、聖都で上がった煙に向いていた。袖山の靄には、まだ気付いた様子がない。
 敵は一日中仕掛けては退き、仕掛けては退きする。それが救援を待つ姿勢であるのは明白だった。だが、それこそが六連の望んだ膠着の形でもある。
 験一は六連が法王を盗み出す、間を稼ぎ出せば良かった。
「験一よ、儂は少し思い出したことがあるのだが・・」
 図書寮の官人を勤めた壷百の記憶に、古神録の挿絵が閃いた。
「あれは、神官文字の注釈の付いた絵だったわい・・」
 何か風が変化した気がする。験一は護法神の紙形代の、靡きの向きを確認する。
「・・黒神、憑き」
 壷百は言ってから、言葉の背後の記憶に突き当たった。
「や、逃げろ!」
「ああ?何だ、壷百よ」
「大変だぞ、験一」
 壷百の顔色の変わるのを、験一は初めて見た。半分死んだ人のように、土色の老人がそこにいる。
「黒神憑きの靄だぞ、あれは」
 験一は振り返って袖山の辺りを確かめた。壷百の言うように、それが黒神憑きを蔓延させる靄なのか。壷百の様子は尋常ではなかった。
「そうか」
 応えは短い。
「どうすれば良い」
「日の都まで、駆けるしかない。それも今すぐに」
 験一は日の丘を埋めた軍勢と、綾子神の神輿振りとを見渡した。
「こいつらを救うには、一つ、やるしかなさそうだな」
 供御人の旗を験一は見て、犠牲の数を勘定する。
「赤太!」
「ここだよ」
 具足腹巻を着けた赤太が進み出る。
「お前、御前を捜し出してくれ」
「ああ」
「日の都まで逃げろ、とそう言ってくれ」
 赤太が怪訝そうにした。
「それで良いのかい」
 稚児の姿よりは、武者めいた装いの方がやはり浮き立つらしい。赤太はカシャカシャと草摺りの音を鳴らす。
「御前にそう言えば、分かるんだね」
「楽王もきっと、知っているはずだ。黒神憑きが襲ってきたと、そう教えるんだ。急いでくれ!」
「任せろ」
「赤太、死ぬなよ!」
 びっくりしたように赤太が振り向いた。験一がそんな言葉を掛けるのを、聞いたことがない。赤太が丘を駆け下るのと、験一が怒鳴るのとが一緒だった。
「衛軍を突っ切るぞ!」
 白扇房が、貝数珠を鳴らして応えた。
「将軍、あれを!」
「しまった!」
 破軍別当は慌てた。敵はどう言うわけか、突然仕掛けてきた。日の丘を駆け下る勢いそのままに、中軍へ遮二無二切り込んで来る。殆ど捨て身と言って良い。
「ええい、包み込め!」
 両断されては戦に成らない。左右から弓を射込むほかに手はない。その時、急に敵が左へ旋回した。左転は退却を意味する。そこへ綾子神の神輿が雪崩込んだ。
「どうなっている!」
 破軍別当は戦う相手を急に失った。敵は聖都を前にして、直角に向きを変える。
「敵は西垣内へ向っておりますぞ!」
 膠着を破って、西垣内を攻める形を敵は選んだ。
「させてなるか」
 破軍別当は、目の前を塞ぐ綾子神の群衆に馬を乗り入れた。
「こやつらを蹴散らせ!」
 験一の率いる軍勢が、どんどん遠ざかって行く。破軍別当は綾子神の群衆に阻まれながら、衛軍を追走へと振り向けた。
「西垣内櫓を固めさせろ」
 伝令が走る。衛軍から先行して混乱の中に走り込む。姿はあっと言う間に隠れて見えなくなった。
 破軍別当は知らなかったが、賊軍を追うその動きが、衛軍と綾子神の群衆とを救うこととなった。
 矢四郎は聖都に上がる煙を見ていた。
「何が起きていやがるんだか」
 法王府の追手はまだ掛からない。西谷の送り衆に埋れて矢四郎は暮していた。
 戦の噂は西谷にも流れ込んだ。弔いがなければ送り衆は寝ているほかはない。それでも一向に困窮する様子がないのは、送り衆が余程に富を蓄えているからだと矢四郎は睨んでいた。
「なるほど、ボロい商売には違いない」
 あの送り衆の王の威厳は、一朝一夕に身に付いたものではない。それだけの文化が蓄積されるには、永い時が必要だった。例えば日の都のように、例えば聖都のように。
「誰が世の中の主なんだか、さっぱり分からないねえ・・」
 矢四郎には、夜叉神の慈悲に縋る北山送りが、ただ送り衆のためだけにあるように思えてならない。聖都でさえ、そのために存在するような気がした。
 いつの間にか、聖都に上がる煙が幾流にも増えている。どこかに飛び火していた。矢四郎の妻子が留まる午王院の辺りの竹薮にも、薄く煙は流れていた。
「どうすんだろうねえ・・」
 呟く矢四郎の背後には、濡れて湿る鉛色の靄が、すぐそこに迫っていた。
 

第七章 津怒我以 二

 小白の額が、熱を帯びていた。画帳の空白が、焔でめくれ上がるように次々と埋まって行く。絵筆が想いを形にするのか、想念が手を動かすのか、すでに区別はない。制御出来ない熱い想いに、小白は動かされていた。
 小白は見たと思った。描くべき真実の構図を、はっきりと見ていた。
「おい、行くぞ!」
 六連に肩を叩かれるまで、小白は全く気が付かなかった。ぽんと抜けたように、突然周囲が見えた。頭上が妙に暗い。
「火が、大きくなっているのか・・」
 そればかりではない。この暗さは煙が陽を遮っただけの暗さとは、全く違う色を帯びている。
「もう、こんな場所に用はない」
 龍血樹の葉が、血の赤さと銀の白とで揺れていた。潮の強烈な匂いが、六連に切迫した危機を告げた。
 楽王の姿はすでにない。二色に命じられ、晒が消えると、楽王は後を追うようにして、ふらふらといなくなった。
 六連は、法王府の崩壊に立ち会ったことを理解した。盗むべき法王はもうない。だがこの坊主の天下を盗むには、武力ではない別のものが必要となるだろう。
 六連にはそれが見えていた。今度こそ、そいつを盗まなければならない。
 龍血樹の前には、静かな時間だけが残っていた。
 夜光と白拍子女たちがいる。阿倶利は片膝を石の床に付け、異形の姿に対していた。
 その男が、阿倶利にとっては全ての始まりだった。薄緑の淡い光りに連れ去られ、今は遥かな場所にいる。呪縛の正体を、阿倶利はまだ知らなかった。
 久米は樹上で石化したように動かない。
「それは、我等のものだ」
 夜光は阿倶利に言う。
「お前が手を出すべきものではない」
「では、持って帰るが良い」
 どちらにしろ、男の傍へは寄れない。
「無益な、ことよ」
 法王はその男の名を考えていた。その名がどこか遠い記憶の底にあった。永劫の苦役を背負った男の名が。
「これはもう、お前たちの土亀ではない」
 二色は龍血樹と法王とに抱かれるように、静かに目を閉じていた。すでに龍血樹は二色を襞に取り込んでいた。時さえあれば、二色は一つの木の瘤に変化するだろう。
「これに掛かっている呪いを、引き受けることはあるまい」
「呪い・・?」
 阿倶利は繰り返した。その言葉が意味するものに不意に突き当たった。自分は、呪われていた。
「では引き受けてしまった呪いは、どうすれば解けるのだ」
「その者に、教わるのだな」
 法王の言うその者とは、久米を指す。阿倶利は久米を見た。
「久米」
 久米は阿倶利を見ていない。太刀を構えたままで、木瘤と同化して直下を狙う。
「久米・・!」
 阿倶利は、不意に幼い日を思い出した。久米はその時と変わらず、自分の傍にいる。
 はっとした。どうあっても久米は男を倒すつもりでいる。何者も立ち入れない気迫が、久米の周囲に立ちこめていた。
「土亀よ」
 夜光が腕を差し伸べて話しかける。
「そなたの名は知らぬ。だが、我等は一つのものなのだ。来い」
 夜光の接近に男は全く反応しない。この世でただ一つ目に入るものは、龍血樹の法王の眸。それが閉じられた時にだけ、男は凄じい叫びを上げた。
 なぜ叫ぶのか、それは分からない。だがその時の男の声は、胸を引き裂くように悲痛な響きを持っている。予め与えられた平安を、引き剥ぐように。
「土亀よ」
 男の右腕が上がった。もし本能で動いているとしたら、その男は紛れもない超絶の戦士だった。夜光の首が、血の緒を曳いて彼方へと飛ぶ。
「姉上!」
 白拍子の叫びは、同じ声の高さを所有していた。
「無益」
 法王は再び言う。
「これは、そなたらには扱えぬ。魔だ」
 ふと法王の眉が動いた。
「ほう・・それでか・・」
 この龍血樹が、どこに根を張るか、ようやく法王は思い出した。
「そうか。お前は、そこから来たのか」
 日の天子が中つ国に至るよりも、聖都が成立するよりもさらに以前。法士、於宇が来た時に龍血樹はすでにあった。その深い根は、魔を封じた底にまで届く。そしてその根を伝い、大海魔は脈動を送る。
 聖都の地は、太古に繁栄した都市の上にある。その都市が滅びた後も、繁栄を約した魔の封印は残っていた。
 法王が龍血樹を見た時には、樹根は封印を食い破っていた。魔の溶液を吸い、龍血樹は繁茂する。その繁栄が、ついに吹き飛ぶ時が来た。
「なるほど、時よな・・」
 法王が目を閉じた時、久米は龍血樹を蹴った。阿倶利が叫ぶより、それは速い。
 久米は二色がなぜ、男を刺激しなかったのかを考えていた。そして結論を得た。自身を二色と同じ、無色に同化させる。
 調息を繰り返し、意識を解く。土岐島の許夜に戻り、自らを名のない石英の砂粒に回帰させた。
 その男と同じ無意識だけが、攻撃として通用する。久米の判断は誤っていなかった。切り裂く風の音は、風の音として過ぎる。太刀先は手応えを伝えた。
 だが最後の瞬間に、久米は僅かに気配を動かした。阿倶利の見開いた眸が、久米の意識にその名を呼ぶ。それが久米の命を奪った。 二つの音が、同時にした。骨を砕く音と、肉が引き裂かれる音と。
「久米!」
 小黒丸が寄越した太刀は、申し分のない切れ味を持っていた。刃は、肩口から男を殆ど二つに断ち割っていた。胴の半ばまでを切り下げて、刃はそこで止まる。
「久米・・!」
 男の掴んだ太刀の柄は、久米の頭蓋を割り砕いていた。
 襤褸屑のように、久米は落ちた。人形が意志を持たないように、久米の身体に意志は通わない。阿倶利は久米を抱いた。
「死ぬな、久米!」
 久米は殆ど即死していた。それでも、阿倶利に笑って見せた。
「久米・・!」
 呼んでも、死んだ者は帰らない。久米の太刀に半身を割られながら、土亀の男は倒れなかった。左手の太刀を捨てると、その手で刀身を掴む。
 あっさりと男は太刀を抜き捨てた。そして再び吼えると、断ち割られた半身を腕で抱き寄せる。まるで今から再生しようとでもするように。

第七章 津怒我以 三

 北山境の空が妖しかった。保戸渓の背後には黒い雲が湧き出し、波打つように揺れている。ゆっくりと峡谷の狭間から迫り上がる雲は、闇の中に雷獣を潜ませ、紫電の枝角を閃かせた。遠い雷鳴は聖都の空に、戦鼓の轟きに似た木霊を呼ぶ。
 雷鳴がする度に、黒い雲は捩れた。苦悶にのた打つ蛇の鎌首のように、濃密な黒雲は湾曲を持ち上げる。やがて天山の白い峰々と同じ高さまで、ゆっくりと黒雲は伸び上がる。それが、津怒我以の触手だった。
 ゆったりと、黒雲は殆ど動かないようにも見える。だが北山境までは、どれほどの距離があったか。天山の峰々は遥かに高く、山と同じ巨大さで、黒雲は動いていた。
 ゆっくりと黒く捩れる津怒我以の触手は、周囲に微細な塵を帯びていた。舞い上がり、そして舞い落ちる塵の粒子。その一つ一つは巨大な岩石であり、折れた巨木でもあった。緩慢に動くと見えた黒い触手も、真実は途方もない速度で隆起し、蠕動する。
 玉門関が、微塵に吹き飛んだ。関守りの僧兵たちが、砂子を散らしたように空へ舞い上がる。保戸渓の断ち割られた渓谷に添って、津怒我以の触手は走っていた。黒々とした破壊の塵が、狂い牛の疾走のように聖都へ南下する。
 大地に根を張る雑草を引き抜けば、土を盛り上げて根が現われた。津怒我以の黒い触手は魔の根のように、聖都へと走る。
 龍血樹に亀裂が生じていた。幹を縦に割る深い亀裂はその時、暗黒を呑み込む光りの口のようにも見えた。
 二人の法士は光りの口の中へ、闇を呑み込もうとしていた。それが最期の、法王府の呪となった。
 法王府が、光りを放って崩壊する。
 黒風と破壊を捲き上げて疾走する津怒我以の触手は、ついに聖都へと至った。
 瞬間。聖都の土台がふわりと浮いた。
 一瞬天が真っ暗になる。その後に、空気が発光した。電雷の気を帯びて、聖都の天と地とは紫電を発する。誰もが耳を閉ざして大地に伏した。その人々の姿が、黒い魔風に掻き消された。
ー久米・・。
 阿倶利は走っていた。赤い焔と、叩き付ける黒い風とを避けながら。
ー久米・・!。
 この腕の中で死んだ筈の久米が、自分の前を行く。
ーこっちだよ、阿倶利・・。
 久米が振り返り、呼んでいた。火焔の中を走りながら、薬師丸の昔と変わらないように久米は呼ぶ。
ーそうだ、阿倶利・・。
 阿倶利は泣いていた。
ー久米は本当に、私を救けてくれた。
 阿倶利は初めて理解した。なぜ、あの不吉な緋い斧の徴しを持つ、異形の男に魅せられていたのか。
ー大丈夫だよ、阿倶利。
 久米が自分の名を呼ぶ度に、阿倶利は涙を流した。自分の名が、呼ばれている。
ーもっと、私の名を呼んで・・。
 あの黒い櫃の中にいた男は、自分を映していた。
ーすまなかった、阿倶利。
 崩れ落ちる焔が、阿倶利の前を横切る。一瞬、久米の姿が消えた。
ーどこ・・。
 熱風と火焔が去ると、見慣れた久米の姿があった。
ーこっちだよ、阿倶利。
 阿倶利は腕を伸ばした。なぜ久米は自分に謝るのか。
ー阿倶利に、謝らないといけないんだ。
 久米は背中を見せて、再び火焔の中を走り始める。
ー待って・・。
 阿倶利は走った。久米を追って走った。
ー君はいつも、一人でいた。
 久米の背中を見詰めて、阿倶利はひたすら走る。
ー君は誰も受け入れなかった。
 阿倶利は今、自分が癒しに出会っていると知った。久米が自分の痛みを癒すのだと、そう知る。この癒しを自分が常に求めていたことを。だからこそ、呪縛は解けた。
ー教えてあげれば良かった。君が、一人ではないことを。
 あの櫃の中の男は、この世とは隔たる遠い場所にいた。自分も、自分自身の牢獄の中にいた。たった一人、あの櫃の中の男だけが、自分と同じだと思っていた。
ー言ってあげれば良かった・・。
ー久米。
ー君は、一人じゃないんだってね・・。
 久米の姿が、火焔の中に揺れていた。
ー阿倶利。
 世界が紫に発光した。身体が重みをなくして、風のように飛んで行きそうに感じる。
ー大丈夫だよ、阿倶利。
 凄じい風が過ぎた。風の中で、久米の姿が千切れ飛んで行く。
ー久米!
 阿倶利の叫びは、天地の轟音に掻き消された。夜のように暗い一瞬が過ぎた。
ー大丈夫だ・・。
 胸の中から、久米が零れて行く。熱い温もりと一つに。
ー必ず護ってあげる・・。君は、一人ではない・・。
ー久米・・!
ー阿倶利・・。
 巨大な夕日が、砂塵の中に浮かんでいた。

終章

 桜が散っていた。苗代を張らなければならない。藍屋川の水辺で、赤太は膝まで水に漬かり、石を組み替えていた。
「お、なんだそりゃ」
 験一が腰を伸ばし、栗毛の馬の背を流す手を止めた。
「鯉でも捕まえようってのか」
「違うよ」
 妙に赤太は不機嫌だった。保戸渓を越えて大屍林に分け入るのが、まだ引っ掛かっている。験一は笑った。
「そりゃ、俺だとて恐ろしいわ」
 大屍林の向こうから、銀と言う女が来た。その女が来たように、黒神崩れの大崩壊は北から訪れた。
 法王府は北からの黒風に、地上から消し飛んでいた。だがその時に大屍林では、夜叉神が不可解を為したと言う。銀と言う女は、それを六連に知らせに訪れていた。
「向こうには、食い物があるそうだ」
 飢饉の気配はいよいよ濃い。
 法王府が消えた今、税は半減していた。だが残りはやはり存在する。しかも、護法方と呼ばれた在地の武力が、独り立ちの権力を各地で形成し始めている。いずれ勝手な勢力が生れることは、誰が見ても明らかだった。
 結局庶民には、自由の天地など、どこにもない。食い合いを始めるよりも前に、大屍林へでも分け入った方が、まだましだろう。験一は藁屑で、馬の背をぎゅっと擦った。
 六連は北山越えを呼びかけていた。
 河原者が多く応じ、漆掻きに傀儡、轆轤師や逃亡下人がそれに加わる。逃散百姓は、お徳政と称して北山を越えた。
 黒神崩れに巻き込まれ、中つ国からそっくり消えた送り衆と入れ替わりに、北山境は人で賑う。そしていずれは大屍林の中にも、富を蓄える者が生れる。
「なんだろうかなあ・・」
 験一は馬の背に掌を置き、天山の白い峰を仰いだ。青く霞む峰々は、修羅の巷を笑って見下ろすのかもしれない。
 だがそれはきっと、優しい笑いだと験一は思う。
「そんときゃまた、盗んでやるか」
 験一は突然大声で笑いだした。赤太がびっくりしたように振り向く。
「どうしたんだよ、急に」
「夢を見たんだよ」
「え・・?」
「盗人の、夢をな」
 藍屋川の流れに泳ぐ小魚が、赤太の作った淀みに波紋を描く。それを見て、赤太は岸辺の土手で摘み草をする小さな姿を呼んだ。
「おうい、小鮎!赤太兄ちゃんが、魚を見せてやるぞ!」
 子供は立ち上がると、顔全部を笑みにして赤太に向かって走る。ぽやぽやと柔らかい頬が、走りながら揺れていた。
「転ぶなよ」
 満足そうに見ている赤太の横顔を、験一は背中に感じて笑う。太い笑い声は、川面に豪快に木霊していた。

水の永遠

水の永遠

  • 小説
  • 長編
  • ファンタジー
  • 青年向け
更新日
登録日
2020-10-13

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  1. 第一章 阿倶利 一
  2. 第一章 阿倶利 二
  3. 第一章 阿倶利 三
  4. 第一章 阿倶利 四
  5. 第一章 阿倶利 五
  6. 第一章 阿倶利 六
  7. 第一章 阿倶利 七
  8. 第一章 阿倶利 八
  9. 第一章 阿倶利 九
  10. 第一章 阿倶利 十
  11. 第二章 六連 一
  12. 第二章 六連 二
  13. 第二章 六連 三
  14. 第二章 六連 四
  15. 第二章 六連 五
  16. 第二章 六連 六
  17. 第二章 六連 七
  18. 第二章 六連 八
  19. 第二章 六連 九
  20. 第三章 遭遇 一
  21. 第三章 遭遇 二
  22. 第三章 遭遇 三
  23. 第三章 遭遇 四
  24. 第三章 遭遇 五
  25. 第三章 遭遇 六
  26. 第四章 蜂起 一
  27. 第四章 蜂起 二
  28. 第四章 蜂起 三
  29. 第四章 蜂起 四
  30. 第四章 蜂起 五
  31. 第四章 蜂起 六
  32. 第五章 聖都 一
  33. 第五章 聖都 二
  34. 第五章 聖都 三
  35. 第五章 聖都 四
  36. 第五章 聖都 五
  37. 第五章 聖都 六
  38. 第六章 法王府 一
  39. 第六章 法王府 二
  40. 第六章 法王府 三
  41. 第六章 法王府 四
  42. 第六章 法王府 五
  43. 第六章 法王府 六
  44. 第六章 法王府 七
  45. 第六章 法王府 八
  46. 第七章 津怒我以 一
  47. 第七章 津怒我以 二
  48. 第七章 津怒我以 三
  49. 終章