バーベキュー・テラス

 プラットホームから階段に向かう途中、横から走って来た奴に腹を刺された。強烈な痛みに僕は腹を押さえて倒れ込んだ。刺した奴は顔を隠して走り去る。それに気づいた人たちは大声で叫んだりしていた。プラットホームの天井を見上げて思った。新しいジャンパーを買ったんだ。一昨日、届いた。紫色で触れるとカシャカシャと音が鳴る。それを着けて冬の海辺で1人、バーベキューでもしようと思っていた。空を見上げると星が間違いなく美しいだろう。それから緑色のラベルのウイスキーを開ける。それは、とても、いいコトじゃないか。

 数時間前、僕は在る会社のサラリーマンとして働いていた。世の中にごまんと居る一般的な会社員だ。ただ僕は今日をもって退職願いを出す。そう決めた日だった。理由は色々とあった。低い給与。休みのない事。ムカつく上司。有能な後輩。そして退屈な日常。どうしてこんなにも僕はつまらない生き物となったのだ? 「あーあ」と独り言を呟いてパソコンの前に座り、ワイヤレスイヤホンを耳に装着してピアノの伴奏の曲を流した。気分が乗って来た頃合いに肩を叩かれた。それで振り向いた。
「世の中が嫌いなんですか?」
 会社の後輩が僕にこんな事を唐突に述べた。僕はイヤホンを外して「いきなりどうした?」と言った。
「だから、世の中が嫌いなんですか? 腐ったナポリタンの麺が糸を引いている様に輝かしいと言うのに」
「それは素晴らしくないだろ」
「でも、実際のところはどうなんです?」
 僕は「仕事中だ」と言った。
「でも何だか、この世界が先輩の中で終わってしまったかの様な顔つきでしたよ。あはは。やはり、機嫌が悪いのですね」
 僕はシカトして作業をしようとした。でも後輩はニヤニヤと笑いながら「この世の中の才能とかカッコいい容姿とか生まれとかに嫉妬しているのですか? そんな先輩には1ミリも関係性のなく、永久に知り合う事もないであろう人物と比較して日々、消耗しているとか? あはは、バカみたい」とキーの高い声で言う。
「どうして今日はそんなに僕に絡んで来るんだ?」
「先輩。今日、辞表を出しましたよね」
 僕は無言になった。どうしてコイツ、そんなことを知っているんだ。もしかして部長の野郎が喋ったのか?
「なに。そんな不思議そうな顔をしないで下さい。先輩にお話があってね。ここじゃ、アレなんで。下の階のカフェテラスでも行きませんか? もう仕事なんて意味がないでしょ? あはは」
 僕はイラつき呼吸が少しだけ乱れたが、確かに、もう仕事をする気はなかった。それで取り上げず後輩の言葉に乗る事にして普段なら僕は入らない無駄に洒落たカフェに行った。カフェに入り注文をした後に席に座った。
「本題に入りますね。まだ注文したカフェインレスのコーフィーはまだ来ていませんけど、ね。先輩、例えば欲しいのものはありますか?」
「欲しいもの?」
「ええ、欲しいものです」
 僕は少しだけ考えてから「特にないな」と言った。
「ええ? お金とか、名声とか、社会的立場とか、絶世の異性とか、家とか車とかないんですか?」
「ない」
「またまたご冗談を」
 僕の問いに対して後輩は非常に困った様な顔つきになり「それは困りますね。うん。困るんです。実は俺、先輩にお願い事をしたかったんです。」
「お願い事だって? なんだそれ?」
 後輩は僕の質問に答えずに「報酬は結構はずみますよ。お金でも、なんでも」と言った後に「今日の午後18時45分に〇〇駅のプラットフォームで降りて来る赤い革のジャンパーを着けた男をナイフで刺して欲しいんです」と言った。
「は?」
「確かに驚かれると思いますが、先輩にどうしてもお願いをしたいんです。どうせこの先もパッとしない人生を送るんでしょ? それならですよ。例えばですが、どうです? これが成功すれば億単位で報酬を差し上げます」
「馬鹿か。やるわけがない」
「はあ……。先輩は本当に馬鹿ですね」
「話は以上か? それじゃ僕は仕事に戻るぞ」と言い立ち上がろうとした。
「待って下さい。その刺して欲しい相手はライバル会社のご子息でとても頭が切れるんです。できれば今、潰して起きたくですね。成功をすれば先輩に10億でも差し上げますよ。その価値はあります」
「じゃあ、自分でやればいいだろ?」
 僕はそう言い席を立った。
 すると後輩は苦々しい口調で「まさかここまで先輩がポンコツだとは思いませんでしたよ。だから退職に追い込まれるんです」と言った。
 僕は何も言い返さずにそこを立ち去った。
 
 定時に会社を出た。僕はあれからずっと後輩が言っていた事を考えていた。どうも冗談の様には聞こえない内容だった。それで僕は〇〇駅の18時45分に到着する電車を調べた。すると1本だけヒットした。僕はその電車に乗る事にした。電車に乗り、辺りを見渡しながら中をウロついていると赤い革のジャンパーを着けた若い男が1人、ヘッドホンをして携帯を見ていた。僕はその赤ジャンの男に近づいてからヘッドホンを無理やり取った。赤ジャンの男は驚いた表情をした後にデカイ声で文句を言った。
「何すんだ!」
 僕は静かに言った。
「そんなに大きな声を出すな。僕は君にとって、最高のエンジェルだ。ほぼ無職だがね」
 赤ジャンの男は僕からヘッドホンを取り返して「イカれてんのか?」と言った。
「当たり前だ。出ないと赤いジャンパーを着けたイカす奴のヘッドホンを取って、自己紹介がエンジェルだと、言うかね?」
 赤ジャンの男は意外そうな表情で一瞬言葉を飲み込んだ後に「ワケがるなら簡潔に言え。でなければ、俺にもう話しかけるな」と言った。
「君、次のプラットホームで降りると刺されるぞ」
「はあ?」
「だから君は殺される」
「何故……」
 赤ジャンは急に真面目な顔つきなった。その顔を見て僕は席に腰を降ろした。
「さあね。刺される理由は僕も知らない。ただ、君の事を評価している奴が居て、そいつらは君の事が邪魔らしい。で、取り合えず刺したいらしいよ。ナイフで」
「俺の事を評価しているだって? 俺はフリーターでバンドだけしている、吟遊詩人みたいな遊び人だぞ?」
 僕は言った。
「知らん。僕は別に君がどうなっても知らないとは思っている。ただ、個人的にどうも男としての最後のプライドって言うものが邪魔をしてね。最後の仕事? みたいなもんで、君に話しかけているのさ」
 赤ジャンはため息を吐いてから、僕の隣に座った。
「ふうん、私は完全に手を引いたって言うのに弟はそんな事をしているのか」と赤ジャンは言った。
 僕は少し驚きながらも「手を引いた?」と言った。赤ジャンの雰囲気は変わっていた。
「私は会社の後継者として引いたのさ。どうも、あのネチっこい環境が好きにならなくてね。それで遊び人の様な風貌をして家から出たのさ。それは正解だったと思う。だが、どうも執念深い奴は私の事を放っておいてはくれないみたいだ」
「何故、貴方はそんな事を見ず知らずの私に伝えに来たんだ?」
 赤ジャンは僕に言った。
「だから言っただろ。男のプライドだって」
 赤ジャンは僕の顔をジーと見てから軽く笑い「次のプラットホームで降りなければいいいんだろ?」と言った。
「いや、僕が身代わりになろう」
「なんだって?」
「こう言うアホな事は1度大きくした方がいいんだ。それに僕はどうしてか『死なない』気がするんだ」
「いや危ない。それは流石に断る」
「見ず知らずだから?」
「違う」
「人の家庭問題に他人を巻き込みたくない」
「でもその家庭の奴に僕は非常にムカついているんだ」
 沈黙が流れた。もう少しで目的地のプラットホームに到着する。
 赤ジャンの口が先に動いた。
「何か欲しいものはあるかい。なんでもいい」
 僕は少し考えたから答えた。
「そうだな。特に思いつかないけど、今度、寒い日に海辺でバーベキューをしようと思っているんだ。1人で。でも、よければ参加してくれないかな。君は何だか面白い話をしてくれそうだ」
 赤ジャンの男は目を大きくして、笑った。
「私でよければ」

 僕は赤いジャンパーを着けて電車から降りた。辺りをキョロキョロ見渡して、急ぎ足で階段を目指して歩いた。だが数メートル歩いた所で横を通り掛かった何者かにナイフで腹を刺された。僕は床に倒れて腹を抱えた。痛みはあった。でも多分、深くはなかった。感覚はそう語っていた。人が僕の方に集まってくる。駅員が駆けつける前に救急隊員がもう来ていた。
「少しは避けると思ったのにご丁寧に刺されてるのかよ」
 頭上から赤いジャンパーを脱いだ男の声が聞こえた。
 僕はフフッと笑った時だった。反対のプラットホームに後輩が立っているのが見える。後輩の手には濡れたナイフがあった。後輩と僕は目が合った。後輩の目は灰色で深い川の底から見ている様だった。
 電車が近づいて来る音が聞こえる。まばゆい光が照らし広がっていく中、後輩は何か口元を動かして飛び込んだ。ヤモリが池に落ちるよりも静かだった。
 2つの星の距離は近く、実際の距離は果てし無く遠いと思うのは何も、君だけじゃないさ。

バーベキュー・テラス

バーベキュー・テラス

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 冒険
  • サスペンス
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-27

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