原発の女8️⃣

原発の女8️⃣


-黒-

 入浴を済ませた女が紫の花柄の浴衣に着替えた。つい今しがたまでの記憶の全てを無くした風情でソファに座って、撮りたまった写真を眺めている。放浪した野獣に初めて訪れた安逸なひとときに耽溺している風にすら見える。
 女の後にやはり湯浴みを済ませた男は、女の新しい姿態を眺めながらウィスキーを飲んでいる。たった今、遭遇したばかりの驚きが脳裏に蘇る。
 男が浴室で体を洗っていて片隅にある蓋をしたバケツに、ふと、目がいった。何気なく開けてみると数枚の下着が浸してある。水面に数本の陰毛が浮いている。塊を引き上げると一番の底に黒いパンティがあったのだ。一度も穿いたことがないと、女が言っていた色だ。
 ベント室の女は黒のパンティだったと言う男に、女は、その日の色は紫だったから、その女は自分ではないと強弁したのである。ある筈のないパンティがそこに歴然とあったのだ。取り離して眺めると数本の陰毛が貼り付いている。 男は、女の嘘の証拠をこんなにも容易に見つけてしまったのだ。なんと無防備で能天気な女なのだろう。今、あの浴衣の下は何色の下着なのだろう。それとも着けていないのか。本来はカメラに収める筈だった女の股間を思い浮かべて、男は苦笑した。


-雷-

 その時、突然に雷鳴が大気を切り裂いた。女が甲高い悲鳴をあげながら身体を起こして男を見た。「随分と近いな」「雷は大嫌い。あなたは平然としているわね?平気なの?」と、女の視線が男にすがる。「男の人だものね」再び雷が轟き渡った。女が叫ぶ。
 そうしているうちに風か出てにわかに掻き曇ってきた。窓際に寄って彼方を覗いていた女が、「黒雲がみるみる覆い被さってくるわ。降るのかしら。…そうだ。洗濯物を取りこまなくちゃ。窓も開けっぱなしだったんだわ」「手伝おうか?」「台所と風呂の窓をお願いするわ」と、短く言い残すと慌ただしく階段を駆け上がった。
 命じられた戸締まりをし終えてウィスキーを飲み始めた頃合いに、大粒の雨が落ちてきた。たちまちどしゃ降りになり、狂気のように晴れ上がっていた盛夏の空が打って変わって、辺りが一気に薄暗くなった。
 暫くして降りてきた女が男の向かいの長椅子に座り直す。「お陰で助かったわ」と、言う声も男の許までは良くは届かない。また稲光が辺りをつんざいて、今度はすぐに雷鳴が続き、重い衝撃音と共に大木の裂ける音が大気を揺るがす。と、同時に女が絶叫しながら立ち上がる。
 「近くに落ちたんだわ」すると、バラバラと屋根を打つ音がして、驚くほどの大粒の雹が落ち始めた。「怖いわ」と、男に視線を絡める。 「肝が縮まるの。この光と音には耐えられないんだもの」男が立ち上がって歩み寄ると、女があたふたと身体を擦り寄せて来て、二人はソファにもたれこんだ。
 暗がりに包まれて、女が豊潤な身体を無造作に委ねている。薄い生地を易々と浸透して、直に、女の生温かい体温が伝ってくるのだ。
 また、雷鳴と同時に稲妻が煌めいた。一瞬、辺りが真昼のように明るくなり、悲鳴を吐きながら女が男の太股に崩れ落ちて、「怖いわ」と、男の手を探し当てる。女の背に手を添えて、「真上辺りにいるんだ。また、落ちるかもしれない」「すっかり暗くなったわね。夜みたい。雹が激しくて。あなたの声もよく聞こえないわ」「二人きりで閉じ込められたんだ」と、男が女の手を自らの股間に導く。女は従順だ。そして、女の手が男の隆起を捉えた。
 「雷に臍を盗られるって、言うでしょ?」「私の村は違うのよ」「何て言うんだ?」「雷様がガガに入ってくるって」「ガガ?」「女性器のことだわ」「そうして、雷様に鬼の子を孕まされてしまう、っていう言い伝えがあるの。だから、雷がなると、女の子は晒しの切れ端か障子紙をあそこに当てるのよ」女の手が隆起をひっそりと這い続けている。
 「他所では絶対にやってはいけないって、母親に言われたわ。良くは知らないけど、そんなことをするのはあの地方でもあんまりないみたいなの。きっと、半島のある地域の風習なんだわ」


-ガガ-

 「あなたの生まれはヤマグチなのか?」「そうよ」「チョウシュウか?天敵だな」「もしかしたらアイズなの?」「そうだ。ガガっていうのはおまんこのことだろ?」「あら。私。そんなこと言ったのかしら?」「ついさっき、言ったよ」「はしたないわね。ご免なさい」「どうなんだ?」「そうよ。他は知らないけど。私が育った村ではそう言ったわ」「それを口に出すと恥ずかしいか?」「赤面するほど恥ずかしいわ」「おまんこより?」「おまんこなんてなんとも感じないわ。ガガは酷く生々しいの。形状が浮かんできて。生温かさすら感じるんだもの。ここいら辺では何て言うの?」「べっちょ、だ」「それを聞くと、どう思うの?」「あなたと同じだ。形や性交を連想してしまう」「私は何にも感じないわ。言葉って不思議なのね」


-半島-

 「渡来人はアソ山の大噴火で縄文人が殆ど壊滅した後に、半島や大陸からこぞって渡ってきたんだって、聞いたわ。私の先祖もその一人よ」「あなたは半島か?」「そうよ。だから、今でも私の村の言葉は半島の抑揚にそっくりなんだもの。単語だって、似たものをいっぱい話してるわよ」「サンインのある町に行ったらハングルが氾濫していて。あまりに雰囲気が違うので驚いたことがある」「そうでしょ?その渡来人同士が長い争いを繰り返して、終にはヤマト朝廷が出来たんだわ。私たちの地方にもツチグモと呼ばれて蔑まされていた部族がいて。御門と戦って負けたのよ」と、女の手が股間の隆起をやんわりと撫で続ける。男は女の尻に手を這わせる。湿っている。男の手を吸い寄せて離さない。
 「ヤマグチに限らず西の国は渡来の民族なのよ。本国で争いに破れて逃げ出して。その敗者同士がこの国で対立して。延々と争いを続けてきたんだわ。あなたの先祖が死闘したメイジ維新のチョウシュウも二派に別れて深刻に抗争していたんだもの。ショウインやタカスギは御門派。私の部落は現状維持の穏健派。まあ、幕府派ね。二派は対立して。争って。私たちの先祖は敗北したのよ。恭順しても切腹か、従わないものは謀殺されたの。私の先祖もタカスギの配下に暗殺されたんだわ。チョウシュウだって色々なのよ」「この国の人が半島人をバカにしたり差別するでしょ?とりわけ、ヤマグチの人がそんなことをするのはどうしても許せないの。元々は自分の国なんだものね。人間って、無意味な争いに血道を挙げるものなのかしら?」

 「この小さな町だって、原発を巡って分裂して。際限なく争っているんでしょ?」「それは違う」男の秘密の愛撫が止んだ。女が何事もなかったごとくに身仕舞いをして、身体を起こした。


-手-

 男がウィスキーを飲み、女も飲む。男が話し始める。「確かにこの町の争いは凄まじいし、悲惨に違いない。あなたの言う通りに、人間の愚かな性がそうさせているのかも知れない。だからこそ、安逸な寒村に災いだけをもたらした原発を許せないんだ」
 「私の言葉が過ぎたんだわ。許して」女が男の手を包み込んだ。
 「優しい手だ」「同僚が入院したんだ。初期の胃ガンだ。そいつは離婚していて子供とも疎遠で。僅かばかりの親族とも長らく音信不通だったらしい。当然、助けを求められる関係でもない。頑固で気丈な奴だが、この時ばかりは、さすがに気弱になったと言うんだ」
 また、雷鳴が鳴り響き稲妻が走る。女が男の手を強く握りしめた。
 「それから?」「その不安が救われたと、言うんだ。手術を担当した初老の男の医師が、診察の度に手を握る。看護婦もなにくれとなく触れてくる。文字通り手当てだ。この世に愛というものがあるのを初めて知ったと、言うんだ。哀れな男の話だよ」
 「今の私みたいだわ。このあなたの手にすがってるんだもの。大きい手なのね。逞しいわ。私のはどう?」「柔らかくて。温かくて。優しい。心が休まるようだ。握っていてくれるか?」「いいわよ。素敵な写真のお礼よ」
 「あなたの倫理なら、こうして、男と女が手を握るのも不道徳じゃないのか?」「これは、あなたの言う、文字通りの手当てなんだもの。不道徳なんかじゃないわよ。それを言うなら、夫の留守にかこつけて、あなたと二人きりでいることそのものが倫理に反しているんだわ」「それでいいのか?」「もう、踏み込んでしまったんだもの」「その俺が、あなたを抱きたいって言っているんだしな?」「やるならとっくにやってるわよ」「それもそうだな」「今だって、私を引き寄せればいいんだもの。手間もなく出来るでしょ?」「違いない」
 「でも、あなたはしない。なぜかしら?」「して欲しいのか?」「厭だわ」「それなんだ。断る女を無理強いはしない」「そうよ。あなたは露悪な言葉に似合わずに、意外すぎるほどに繊細なんだもの」「そうじゃない。厭がる女に強要するなんてことは、俺にはできないだけだ。不様で卑怯だろ?」「そうね」
 「そして、抵抗するだろ?」「当然だわ」「そういうのが面倒なんだ。たちどころに萎えてしまう。だから、強姦する奴がさっぱり理解できないんだ。獣だって雌が応じなければしないよ」「そうなの?」「当たり前だろ。俺の性愛はそんなに乱雑なものじゃない」「どんななの?」「甘美に陶酔したいんだ。その為には双方が合意しなきゃ駄目なんだ」「だから、玄関で、帰るって言ったのかしら?。私が断り続けたから?」「それもある」「それに、暑かったろ?本当に日射病になりそうだったんだ」女が笑う。「私を口説くのも命がけね」「もう少しわかって欲しいな」女が声を出して初めて笑った。


-落雷-


 その時、雷が怪しく煌めき、辺りが真昼のように光り輝いたかと思う間もなく、凄まじい雷鳴が轟き、大木の裂ける音が耳をつんざき、地鳴りと共に家がきしんで、女が悲鳴を発しながら重い乳房と共に男にしがみついた。
 「すぐそこだな」「きっと、あの神社のご神木だわ」女の息が乱れて身体が震えている。「大丈夫か?」「こんなに驚いたのは初めてだわ。胸が苦しい。動悸が激しいんだもの。聞かせたいくらい」「聞きたい」「本当よ。聞いてみて」男が女の胸に手を置いた。「どう?」「豊かだ」「そうじゃないでしょ?」「どう?」「未だ良くわからない」「ゆっくり確かめればいいわ」
 暫くして落ち着きを取り戻した女が、「あら?あなた?あなたの手がおかしいわよ」「どうして?」「だって。鼓動を計ってるんでしょ?」「そうだけど。心臓がどこなのか、良くわからないんだ」「馬鹿ねえ。だからと言って、おっぱいを揉んでるんだもの」「嫌か?」「そんなにしては計れないわよ」「どうすればいいんだ?」女が男の手を取って浴衣の下に導いた。 そこに女の真裸の乳房が息づいていた。「鼓動はここよ」

 「あなた?また、雷、落ちないかしら?」「きっと落ちるな」「怖いわ。あなた?私の部屋が二階なの。すぐに蚊帳が吊れるの。移りたいわ」


-蚊帳-

 二階の部屋に入ると、派手なシーツを敷いたダブルのベットがある。「ここは?」「私の寝室なのよ」「夫婦別室なのか?」「そうよ」
 二人で手早く吊った蚊帳の中に男が入り、半身を起こしてウィスキーを飲む。やがて、女が入ってきて、安堵した身体を男に沿って横たえた。「女特有の獣の雌の臭いがこもってるでしょ?」「そうだな。熟した肉の匂いだ」「あまり見ないで。恥ずかしいわ」「どうして?」「陰毛なんかが落ちてるかもしれないでしょ?」「あったら貰っていいかな?」「どうするの?」「あなたの身体にまつわるものなら、陰毛一本も価値がある」「大仰だこと」
 そんな軽口を掻き消して、その時、雷光が薄暗がりをつんざくと同時に、大音響が轟き、窓ガラスが揺れ、女が叫声を発しながら男の胸にしがみついた。「すぐそこだな」女の息が乱れている。「鼓動を確かめてやろうか?」「そうしてちょうだい」男が浴衣の下に手を伸ばして乳房を鷲掴みにする。「どうかしら?」「熱い」「そうじゃないでしょ?」「未だ良くわからない」「ゆっくり確かめればいいんだわ」


(続く)

原発の女8️⃣

原発の女8️⃣

  • 小説
  • 短編
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-20

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted