シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ) Ⅶ  佐久間涼

佐久間涼は、人混みの中を、無理のない速度で先へ進む。
 目深に中折れ帽子を被り、身体の線が見えにくいラフな紺色のジャケットにスリムなパンツ、長くウェーブのある髪を結び、姿勢よく足を運ぶ。
 左腕には、幼いと表現してもよい年齢の女の子が、ぶら下がるように腕を組んで歩いている。
 腰に大きなリボンを結んだ、フリルが目に付く可愛いデザインのミニスカートにブラウス。ベレー帽に底の厚いパンプス。小さなポシェットを斜めにかけて、淡い口紅を付けた唇を尖らせている。
 丈高い佐久間の胸辺りの背丈の上、ヒョロヒョロと歩くので、人混みに紛れるというよりも埋もれるという感じだ。
「もうっ、本当に、歩きにくいったら」
 忌々しいと言わんばかりの言葉に、佐久間は呆れて、組んでいる腕を抜くと、ふらついた細い背中を支えた。
「だから、この通りは避けようと言ったのに、敢えてこの道を選んだのは玲奈だよ」
 これから世間は夕食時だ。それも金曜日の夜。
 街が人で溢れるのは当然の光景だった。
 まして、咲久耶市中央の中でも一番大きな街のメイン通りだ。
 人を避けるどころか、人の流れに身を任せるしかない。
「何もこんな時間にこんな繁華街へ繰り出して、買い物しなくてもいいだろう」
 佐久間の呟きに、玲奈は頬を膨らませ、解かれた腕をもう一度組んでくる。
 本当に買い物をする気があるのかどうか。
 通りに面したブティックに寄りながら、玲奈が気にしているのは周囲の視線だ。
「だって、おにいさまを独り占めして見せびらかしたいんだもの」
 玲奈は、至極正当な理由ですと言い切るように言い返す。
「独り占めするのと見せびらかすのは、真逆だろう。他に行きたい所はなかったのか」
 あくまでも柔らかい口調は崩さずに、佐久間は玲奈に腕を取られたまま背中に手を回すと、人の流れをすり抜けながら、道を変えていく。
 無理矢理佐久間の腕に自分の腕を回したまま、背中を押されるようにして歩を進めながら、玲奈はすぐ傍の綺麗な顔を仰ぎ見た。
「だって、思いつかなかったんだもの。週末だからずっと家にいてくださると思ったのに明日の朝早くに寮に戻るなんて、ひどいわ」
「仕方ないだろ」
 佐久間は敢えて冷たく言い切った。
 本当は、家に帰る気すらなかった。
 景甫に誘われて迎えに来た善知鳥家の車に乗ったが、当分実家に帰っていないことを話すと、実家に送り届けられてしまった。
 幸い、義理の母の機関銃のような近況報告を聞かされたのは数分間で、義母はどこぞへ出かけてしまい、取り残された玲奈につかまった。
 玲奈は義母の連れ子で、佐久間とは血のつながりはないが、初めて会った時からよく懐いていた。
「ひどいわ、おにいさま。滅多に家に戻らないで、景甫さまにベッタリで。たまにはわたしに付き合っても良いでしょ」
 と、玲奈にはよく言われる。
 玲奈は景甫に直接会ったことはないが、佐久間が話す学校の様子の中に必ず登場する善知鳥景甫の占める割合の多さに、対抗心むき出しだ。
 そういうところもまだまだ幼い。
 食事は繁華街から外れた少し閑静な通りに面したレストランを予定している。
 そこまでの道筋に新しい雑貨店ができたそうで、玲奈はそこで義兄におねだりする事を楽しみにしていた。
「とにかく今日は、わたしに付き合って!!!」
「はいはい」
 普段は寮生活で、周囲は男子のみ。善知鳥景甫の側近くいられる日常に満足している佐久間としては、不特定多数の視線に晒される現状は、あまり居心地が良くない。
 実際、周囲からの視線は佐久間を辟易させていた。
 無遠慮に声をかけてくるもの、カメラを向けてくるものもいる。後ろ指を指す黄色い声もすべてが煩わしい。
 美丈夫と称して間違いない容貌とバランスの良い姿態。腰が細く足の長さが際立つ。
 そんな見た目のみを羨望されるのは、甚だ不愉快なことだ。
「やだ、どうしよう」
 うんざりしながら歩いていると、ふいに玲奈が慌て始めた。
 人混みにもまれて玲奈の服装が乱れたようだ。
 玲奈が背中のリボンの形を気にしている。大丈夫だと何度か言ったが、聞こえていない。
 一つ気になると、靴だの襟だのあちこち気になり始めた。
「まったく」


 身だしなみを整えるのに手頃な場所を探した。あまり不衛生な所は不安だ。
 人混みの多い通りを抜け、高級感のある店舗が並ぶ通りに入ると、街路樹の向こうに大きなホテルがある。
 客の出入りも多く、ホテルスタッフも多く行き交っている。
 玲奈に化粧室の場所を示し、何気なくラウンジにの脇に置かれたホテルのパンフレットを見やる。
 一階から四階はチャペルやガーデンテラス、大小のパーティ会場や会議室に個室が多様に揃っている。客層も、高級感ある雰囲気に合う装いの老若男女が居れば、会社の団体だろうかスーツ姿の若い男女。視線を変えればTシャツにヨレヨレのデニムというラフな若いグループの姿も見える。
 女子会だろうか、賑やかなグループが、ロビーを通り抜ける際に佐久間の容姿に気付いて黄色い囁き声を上げた。
 それを見て、好奇の眼差しを向ける者もいる。
 佐久間は明かりを避けるように帽子を目深にかぶり直し、ホテルを出ると、邪魔にならない場所に立って、大きく息をついた。
 ポケットから取り出した携帯電話を確認するが、特に何も連絡はない。
 元より、景甫から連絡はない。彼は携帯電話を持ち歩かない。
 思考はまったく別の場所にあった。
 先日、玄幽会軍師である渋谷宜和に耳打ちされた件。
 玄幽会幹部の一人が、連日門限後に帰寮し、先日、真行寺万里子と接触したらしいと報告が上がった。
 おそらく、景甫の指示があっての行動とは思われるが、果たしてどこまで許されて動いているのか、宰相である佐久間も、軍師である渋谷も伝えられてはいない。
 それから、不破公こと常磐井鼎の周辺で、きな臭い噂が立っているという。
 見上げると、夜空には何もなかった。
 周囲の光が強く、目を凝らしても星は見えない。
 玄武館高校は人里離れた湖の畔にあり、その寮は湖を挟んで対岸にある。
 麓の光は遠く、夜は満天の星空だ。降るように瞬く星の多さに圧倒される。
 景甫はよく部屋を抜け出して夜の林へ向かう。
 時々、景甫を探して外へ出ると、いつも景甫は夜空を見上げている。
 月光の差し込む木立の中で、ただ無言で天を仰ぎ、月の光を浴びている姿を、佐久間はただ見つめるだけだ。
 景甫と初めて会った時のことを思い出す。
 中学一年の入寮日。
 初対面でも難なく会話を交わしている大勢の入寮生の片隅で、ポツンと立ち尽くし、遠目に眺めているだけの自分に、同じように一線を画して立っている生徒がいた。
 あくまでも静かな表情で、端然と立っているその姿に見とれてしまい、視線を外せずにいると、ふいに佐久間の方に視線を向けて微笑し、
「そんなに気を遣うことはないよ。誰の邪魔にもなっていない」
 と、小さな声で言われた。
 佐久間にはそれがとてつもなく『救い』のような気がした。
 ここにいても良いのだと、初めて思った。
 視線を転じると、煌びやかなホテルのロビーの明かりが、車寄せに停まる高級車から降りる客を照らす。
「ここは、何も見えないな」
 自嘲気味に呟いて、視線を変えると、思わぬ視線と交錯した。
 レースの綺麗なワンピースと磨かれたパンプスで、軽快に走り込んできた女性が、佐久間を見て形相を変える。
「キミは・・・」
 絶句気味に呟いた佐久間は、光に映えるその姿をまじまじと見つめた。


 めかし込んで立っているのは、桜だった。
 桜は、ホテルの方へ足を向けた状態で立ち尽くし、佐久間を凝視していた。
「どうして、こんな所にお前がいるの・・・」
 やっと出た言葉がそう問うが、佐久間も同じだ。
 そうして見つめ合う間にも、正装した客やラフな格好の客が数人行き交う。
 佐久間は立ち尽くす桜に何歩か進むと、帽子をとり、威儀を正して礼をした。
「奇遇ですね。お元気そうでなによりです」
「――」
「似合いますね」
「なにがよ」
 おしゃれをしているはずの桜がファイティングポーズをとり、佐久間は困ったように肩をすくめた。
「そんなに怒らなくても良いでしょう。そういう服も似合うと言っただけです」
 レースを全身に使ったスッキリとしたデザインのワンピースに、煌びやかなネックレスとブレスレットをつけ、パンプスもしっかりコーディネートされている。
 これでよく駆けて来たなと、変なところで感心した。
 玄幽会は『魔女』に反目してはいない。
 『魔女』の側近である桜に、佐久間が立場上配慮するのは、単純に景甫の感情を慮ってだが、しかし、佐久間自身は桜に思うことがない訳ではなかった。
 桜の立場を考えれば、影に徹するものだと考えるが、佐久間の見た彼女はまるで『影』ではなかった。
 感情を露わにして怒鳴り散らし、佐久間に対しても真正面から意見する。
 かなり特異に思えた。
「初めて会った時も、キミは好戦的だった」
 善知鳥景甫が『魔女』と間違えて真行寺万里子を呼び出した時だ。
 その時、桜と佐久間は一戦交えている。
「マドンナを呼び出して、勝手にキレたのはそちらの主でしょう」
 あくまで桜の口調は厳しい。
 佐久間は静かな視線を向けて、努めて穏やかな口調を続ける。
「友好的とまではいかなくても、もう少し穏やかに話すことはできないのですか」
「立場を考えて言って欲しいわね」
「いつもそんなふうに好戦的なのですか?」
「そんなわけないでしょう。私を何だと思っているの」
「見る限りでは、いつもそんな風だからです。あまり怒り飛ばしていると、キミの主が困るでしょう」
「おまえには関係ないでしょう」
「関係はないが、会話にならない」
「話すことはない」
「そちらになくとも、こちらにあるとは思ってもらえないのですか」
 切り捨てるように言い切る桜に対して、柔らかい口調ながらも会話を止めようとしない佐久間に業を煮やし、桜が一言言い捨てようと息を吸ったところへ、勢いよくホテルから出て来た背広姿の男が割って入った。
「佳乃、ここにいたのか。レストランの予約の時間だよ。母さんが怒っている」
 染井英夫が大股で近づき、急かすように声をかけた。
「お前が誘ったんだぞ。明日の会場の下見がしたいと言うから――」
 ついでに最上階のレストランを予約して、久しぶりの親子の晩餐を堪能しようとしていた。
「しかも何だね、そのしかめっ面は。せっかく母さんが揃えた服が台無しだよ」
 染井はそこまで言うと、少し離れた場所に立ち尽くす佐久間の姿を認めて、止まった。
「ボーイフレンドかね」
 佐久間の姿を上から下まで確認してそう問うと、娘からはあからさまな嫌悪が返って来た。
「バカ言わないでよ。こいつは玄幽会の宰相よ」
「げんゆうかい・・・」
 ゆっくりと復唱しながら、染井は佐久間を見る。
 ただ端然と立つその姿を、目を細めて眺め、吟味する。
 どのような服装をしようと、どのような場所であろうと、他に紛れることはないだろう。
 美しいと言っても過言ではない容姿と立ち姿。
 しかし染井が最も感嘆したのは、佐久間の鍛えられ方だ。
 おそらく、傍でこの状況を冷静に受け流せない様子の我が娘と正面から拳を交えても、容易に抑え込むことはできないだろう。
「見事なものだ」
 染井は面白そうに口の端を上げて呟いた。
 桜はイラついて父親を押しのける。
「どうでもいいから、父さんは先に行ってて。すぐに済むから」
 だが、染井はその馬鹿力をものともせずいなすと、悠然と笑った。
「すぐに済むなら待っているよ。ボーイフレンドではないのか・・・残念だな」
 興味深そうに佐久間を見た。
「何を言っているの、父さん。こんなヤツ」
「お前は本当に乱暴だな。もう少し言葉遣いに注意しなさい」
 ぞんざいな物言いに、染井は親の顔でたしなめる。
「すまないね、キミ。娘が迷惑をかけていないなら良いのだが」
 面食らっている佐久間に、紳士らしい佇まいで染井は首を垂れた。
 佐久間は恐縮して、一歩引く。
「いえ、何も。偶然居合わせただけですので、お気遣いなく」
 佐久間はもう一度ゆっくりと礼をして、二人の後ろを見た。
 入念に身形を整えていたのだろう、やっと玲奈が出てくる。
「こんな所にいたの、おにいさま。 ・・・どなた?」
 佐久間を見つけた安堵感から、明るい声で近づいたのはいいが、傍に立つ桜の厳しい顔つきに、表情を一転させて佐久間の腕に取りついた。
 暫し四人が無言で見つめ合う、気まずい雰囲気が漂った。
 佐久間が先に気付いて、玲奈から腕を外し、挨拶するように促した。
「失礼しました。妹です」
 玲奈は驚いた様子で佐久間の後ろに隠れてしまう。
 無理もない。
 桜は目を丸くするばかりで反応がない。
 友好的とは言い難く、玲奈が怖がるのも無理はない。
 染井が呆れて桜の肩に手を回して、娘を玄関ホールの方へと押しやった。
「申し訳ありませんね、お嬢さん。足止めをさせてしまったようだ」
 角張った顔を思い切り丸く和ませて、染井は玲奈に詫びると、顔を上げて佐久間を見た。
「キミ、またどこかで会いましょう」
「バカ言わないで、父さん。二度と会いたくないわ」
 大きな手で背中を押されながらも、桜は我慢ならないとばかりに肩越しに後ろへ向かって喚いた。
「またそんな可愛くないことを――」
 と、染井は容赦なく桜を連れて離れようとするが、桜はどうしても訊かずにはいられなかった。
「佐久間、本当に偶然なんでしょうね」
 桜がここにいるのには、『理由』がある。
 もし、佐久間がこの場所にいることに『理由』があり、玄幽会が、ひいては善知鳥景甫が、何か関わっているのであれば・・・、捨て置けない。
 桜には、知っておかなければならない『理由』がある。
 佐久間は一拍おいて、ゆっくりと口を開いた。
「嘘ではない。本当に偶然ですよ」
「本当に?」
「信じてもらうしかありませんよ」
 最後は苦笑いを浮かべ、佐久間は視線で染井に挨拶をし、訳も分からず固まっている玲奈を促してその場を離れた。
 背中に視線を感じるが、振り返ることはしなかった。
 佐久間の姿が見えなくなるまで見送り、染井は娘の顔を覗き込んだ。
「佳乃。もう少し冷静にならないと、後悔するぞ。もったいないだろう」
「何を言ってるの、父さん。あいつとは何の関係もないわよ」
「だから残念がっているのだよ。好い男じゃないか。きちんと配慮してお付き合いしないと、大きなサカナを逃がしてしまうよ」
「まったく、どうでもいいわよ、あんな奴のことは。母さんが待ってるんでしょ、行きましょう」
 装いにそぐわない大股で歩を進める娘の後ろに続きながら、染井は少なからず色々な意味で我が娘の心配をした。


「誰なの、あの女の人。嫌な感じ」
 歩を緩めることなく進む佐久間の背を追いながら、玲奈は率直な感想を述べる。
「失礼だわ、あの言い方。乱暴すぎるわ」
 訴えかけるように続ける。よほど腹に据えかねるようだ。
「おにいさまがお付き合いをする相手には相応しくないと思うわ。もっと女らしくて上品な方を選んで欲しい――」
「やめなさい、玲奈。よく知らない人をそんな風に言うものではないよ」
 佐久間は少し強い口調で諫めた。
 玲奈が怯んで首をすくめる。
 佐久間は、かなり離れた場所でやっと立ち止まり、肩越しに振り返った。
 視線の向こうの空を見上げても星は見えないが、先程いたホテルの最上階が、ビルの狭間に見えている。
 染井が佐久間に引っかかったように、佐久間も染井が只者ではないと感じた。
 屈託がなく明るい雰囲気を纏い、背広姿からも想像できる鍛えられた身体。真っ直ぐ見つめる目には、聡明さと思慮深さが見える。
 そして、娘をとても大切にしていることも、手に取るように分かった。
 あのような者を側に置いているのか、魔女は。
「おにいさま、怒っているの?」
 恐る恐る手を伸ばす玲奈に、佐久間は小さく首を横に振った。
 佐久間の母は、物静かを通り越して生きる気力を感じないほど息をひそめて生きていた。
 仕事に飛び回る夫をただジッと家で待ち、気ばかり遣って家事を行い、夫のいない時はただジッとうつむいて過ごしていた。
 幼かった佐久間にとって、母は実体のない蝋人形のように思えた。
 辛い記憶も激しい感情もない。温もりを感じたことはない。
 広い家の寒々とした空間に、ポツンと描かれた女の絵のようだった。
 そして佐久間は、その背中をジッと見つめるだけだった。
 佐久間はずっと何かをしなければならないと思っていた。何か、母の救いになればと試したことがなかった訳ではない。
 だが、何の反応も返ってこなかった。
 為すすべもなく、佐久間はただ途方に暮れるしかなかった。
 そんな母が去り、父が玲奈の母親と再婚して六年。
 静かな女に嫌気がさしたのか、父は再婚相手に華やかで奔放な女を選んだ。
 陰に籠もるくらいなら周囲を巻き込んでまで暴れる方を選ぶような玲奈の母は、交友関係も広く、友人もかなり多いようだが、しかし佐久間には少なからず苦手な人だった。
 そして、静かだった家に連日見知らぬ大人が幾人も出入りするようになり、殊更佐久間の容姿を取り沙汰される日々が続いた。
 佐久間は中学から全寮制の学校へ行くことを決めた。
 家を離れる時、父は特に何も言わなかった。これまで親子と言えど親しく話をした覚えはない。
 義母は、大袈裟に寂しがったが、すぐにあっけらかんと佐久間の存在を忘れた。
 二人とも『冷たい親』ではなかったが、仕事重視の生活の為、どうしても子どもとの関わりは希薄となり、この小さな血のつながらない妹も、少なからず寂しい思いをしているのだろう。
 大事にされていない訳ではないようだが、時に佐久間が家に帰るとこうして甘えてくる。
「怒ってはいないよ」
 そう言って、左腕を少し曲げて差し出した。
「雑貨店を回ってレストランまで歩くには、ちょうどいい時間だ。行こう」
 一転破顔して玲奈はその腕に両腕を回すと、これから立ち寄る雑貨店の口コミを佐久間に聞かせながら、跳ねるように腕を引いた。
 佐久間はただ、その速度に合わせ、少し柔らかい微笑をして見せながら、思考の片隅で明日帰る寮への土産を考えた。


 十六夜の月が西天に傾きかけている。
 大きな池のほとりに座り、善知鳥景甫は、草陰から聞こえる虫の声を聞きながら、遠く夜空を見上げた。
 広大な敷地の一角を占める日本庭園の片隅で見上げる月は、夜空にあるのも良いが、池に映る光もまた美しい。
「お部屋にいらっしゃらないと思ったら、またこんな所でお月見ですか。最近、急に冷え込んできています。少しはお身体のことを考えてくださいませんか。旦那様や奥様が心配されます」
 木陰から現れた小さな影が、少し呆れたような口調で声をかけた。
 景甫が視線を前に向けたまま、一つ息を吐いた。
「コトラか。こんな美しい月夜だよ。部屋にいてはもったいないだろう」
 少年は、両手で丁寧に薄手のカーディガンを景甫の肩に羽織らせる。
「その名で呼ぶのはおやめください」
 まだ変声期前の高い声に似合わない大人びた口調で、そう苦情を返す少年が、姿勢よく両手を後ろに回して少し顎を上げた。
「その名で呼んでいいのは、奥様だけというお約束です」
 そう、キッパリと言い切る。
「そうなのかい。おばば殿だけでなく、おじじ殿もそう呼んでいたよ。今更呼ぶなと言われても困るよ。コトラ」
 景甫は、呆れた顔で乾いた笑いを返した。
 少年は納得いかない様子で両頬を膨らませる。
 善知鳥家の家令である支倉の息子であり、親が付けた名は虎丸という。
 名づけのセンスがないと嘆く支倉が、悩んだ挙句につけた名前だが、この館の女主人である景甫の義母は、その小さな子の行く末が気掛かりだったらしい。
 支倉の名は、師子王という。生まれた時から身体が大きく、赤子らしからぬ厳つい顔立ちと炎のようになびく髪を見た善知鳥家先々代が名付けた。
 長じてその名の通りの巨躯と厳つい風貌となり、年を重ねて初老の域に入りかけた現在は、ますます威厳がついてしまった。
 その子どもとして生まれた男の子は、生まれた時から美しい子だった。
 この月の光の中でも容易に目を引く端正な顔立ちが、成長して父親に似てしまっては惜しいというのだ。
「支倉のように巨人のような大男のうえ、いかつい風貌になっては困るからと、おばば殿が『小』を付けて『コトラ』と呼ぶのだろう。ならわぬ手はあるまい」
 虎丸は不本意ながら、甘んじて受け止めた。
「そうやって、いつも佐久間様を困らせていらっしゃるのでしょう」
 虎丸は佐久間贔屓だ。
 佐久間が屋敷に寄った際は、何かにつけて傍を離れない。
 そういうところはまだ幼い。
 今日も、途中まで一緒だったと話すと、
「残念です」
 と、本当に残念そうに項垂れた後、散々「景甫様は気が利かない」と説教された。
「大丈夫だよ、コトラ。佐久間はいつも何か困っているよ」
 特に問題はないと続ける。
 虎丸は、景甫が見つめる先を見た。
 綺麗な月だ。
「佐久間様とも夜空を見上げておられるのですか」
 星のことはさっぱりわからない。
 景甫は視線を真上に向けて、秋の星を浴びた。
「佐久間は、空は見てないよ」
「では、何を?」
 虎丸は続きを待ったが、景甫は苦笑で半分目を閉じた。
 寮の部屋を抜け出して湖水の畔に立っていると、必ず佐久間が探しに来る。
 声をかけてくる訳でなく、呆れて立ち去る訳でもなく、ただ天を仰ぐ景甫の邪魔にならないようにただそこにいるだけだ。
 何か意味があるのだろうかと色々考えてみることもあったが、特に興味もなく、気にもならないのでそのまま好きなようにさせている。
 思えば、初めて会った時から、佐久間は気づくと傍に立っていた。
 敢えて理由を聞こうとは思わないが、物好きな男だと思ったことも確かだ。
 そして、佐久間自身は周囲に『好かれている』ということに気付いていないようだ。
 虎丸が佐久間にするように、懐かれてつきまとわれる事に困っているように見える。
 他人に気を遣い、優しすぎる男だ。好かれ過ぎて常に困るのも致し方ないだろう。
 そんなことより、と景甫は少し声を落とした。
「最近よく呼び戻されるが、何かあるのかい」
 今日も急に呼び戻された。
 家人の気晴らしになるかと思い、佐久間を連れて帰ろうとしたが、佐久間自身が当分家に戻っていないと聞いて、佐久間を彼の家に送り、結局一人で帰って来た。
 特に何かする予定もなく、気晴らしに空を仰ぐくらいしか思いつかなかったのだ。
 虎丸は、少し言葉を選んで声を抑えた。
「奥様が心配されています」
「何を」
「ご友人については、あまり趣味が良いとは言えないようですね」
「友人? そんなものがいたかな」
「不破の」
「あの男か」
 景甫が肩を震わせた。
「友人ではないと、おばば殿に伝えておけ。心配はいらないと」
「そういえば、最近ご執心の方がおられるようですね」
 一転、声を張るようにして顎をツンと夜空へ向けるように背を逸らすと、
「ご自分から動かれるのは驚きですが、どうせどこの令嬢か考えもせず近づいたのでしょう」
 と、さも手が付けられないと言わんばかりの口調で続けた。
 池の中の鯉がパシャリと水面を跳ねる。
 景甫が鼻で笑った。
「お前も、僕の趣味が悪いと断言するのか」
 からかうように笑って肩を揺らす景甫を、半眼で冷めた表情を作り恭しく受け止めて、虎丸が返す。
「趣味と呼べるほど、女性に興味はお持ちではないでしょう」
「・・・・・・」
「それなのに、どこでどうして出会われたのか存じませんが、よく見つけられましたね。黄金色の瞳の魔女を――」
 褒めている訳ではなさそうだ。
 景甫はおもむろに立ち上がり、肩にかかっているカーディガンを虎丸に投げた。
「調べたのか、虎丸」
 さも面白くなさそうに冷ややかな視線を残しながら、景甫は光の指す屋敷の方へと歩を進めた。
 虎丸がカーディガンをたたみながら、付き従う。
「奥様がご存じでした。彼女に繋がる方と女学校が同じだとか。とは言っても、父方の祖母に当たられる方です。問題は、母方のご実家ですが――」
 女主人より、しばしその頃の話を聞きながら、虎丸は一つの『名』を聞いた。
 景甫はその『名』を聞くと、ピタリと歩を止めた。
「――その名は、聞いたことがあるよ。おじじ殿が、決して近づくなと言った名だ」
 理由は分からないが、くれぐれも気を付けるようにと言い置いた『名』が幾つかある。
 それには相応の理由があるのだろうが、今、虎丸から出た『名』もその一つだ。
 何故かは聞いていない。
「それで?」
 景甫は無表情のまま、自分の足元に落ちる月の影を見つめた。
 虎丸はキッパリと言い切った。
「彼女は、『直系』です」

シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ) Ⅶ  佐久間涼

シューティング・ハート ~彼は誰時(カワタレトキ) Ⅶ  佐久間涼

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-20

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