原発の女5️⃣

原発の女5️⃣


-源氏物語-

 ウィスキーを飲んだ男が、いかにも思いついたように、「奥さん?源氏物語は読みましたか?」「学生時代に、現代語訳で読んだわ」「それなら話が早い。誰の?」「君元詠子だわ」「随分と上品な」「そうなの?」「どう思いますか?」「世界に誇れる恋愛小説の古典というのが通説だけど…」女が男を凝視した。いったい、この男は何を話し始めようとしているのか。この問いは女の何を試そうとしているのか。どんな答えを期待しているのか。今はどう答えるのが賢明なのか。女の脳裏を思案が慌ただしく駆け巡る。
 「私はそんな風には感じなかったわ。あれはただの雅な貴族の素敵な恋愛話なんかじゃないと、思うの」「どうしてかな?」「単純だわ。源氏は様々な女達と恋をするけれど。その関係性は義母や人妻、あげくには幼女などでしょ?」「いかにも特殊で、猥褻を暗示していると思うの。紫式部は直接的な描写は避けているけど、行き着くところは男女の営みがあるわけでしょ?その奇異で猟奇な場面を暗示するような設定を意図していたんじゃないかしら?」「実に興味深い意見だ」
 「あなたはどう思うの?」「あなたが見抜いた通りだ。源氏物語の本質は性愛ですよ」「性愛って?」「肉欲の愛です。本能の性欲です」「どういうことなのかしら?」「まあ、有り体に言えば、性交したい欲望のことです」その時に、あれ程の蝉時雨が突然に止んだ。
 「光源氏が様々な女たちに恋をして、結局はあなたの言う通りに性交するんでしょ?」「そうね」「源氏は性交をしたいが為に恋をしているんだ。これが肉欲です」


-秘本-

 「『秘本源氏』という古の奇書があるんです。知ってますか?」「初めて聞いたわ」「『女の儚』というもう一冊と、この国の奇書の双璧をなす傑作です。世界にも奇書は数あるけど、この二冊はまさに絶品です」「作者は誰なの?」「不明です。紫式部という説もある」「どんな内容なのかしら?」「『源氏物語』の隠されたテーマの肉欲を、大胆に赤裸々に描き出したんです。
 筋書きは『源氏物語』をなぞって、禁忌によって隠されて書かれることのなかった、女達と光源氏の性愛、閨房の姿態の様々を細密に生々しく描写しているんだ。出色は、光源氏の敵役としてある怪僧を登場させていることなんですよ。この人物は、あの道鏡がモデルと言われている」「道境って?」「女帝を籠絡して御門になり変わろうとした、史上、唯一の男です。前代未聞の巨根と言われている」「まあ。どれくらい凄いのかしら?」


-エロス-

 「愛と性愛をキリスト教では明確に分けている。精神的な愛や純粋な愛をアガペーというんだ。一方で、肉欲をエロスという」再び、蝉時雨が騒がしい。
 「恋をして愛し合い、結婚して添い遂げる。これがアガペーの愛です。そして、この二人は夜な夜な寝室を共にする。とりわけ、新婚には夜は堪らない快楽だろう。これがエロスです。だから、エロスは閨房の闇に隠されているんだ」「だって、秘め事と言う位だもの」「だったら、恋って何なんです?」「好きになることでしょ?」「好きだから抱きたい。交接したいって思うのは?アガペーですか?エロスなんですか?」女が膝を組み替えた。
 「男、いや、雄は雌なら誰とでも交尾できる訳じゃない。気に入った雌じゃないと反応しない。雌だってそうでしょ?」女の瞳が湿っている。「気に入ったの雌なら一目見ただけで生殖欲が湧いてくるんだ。違いますか?」
 「どうなんでしょ?性愛と恋愛はどう違うの?」「違わない。人間は性愛を醜いものとして隠してきたんだ。夫婦の愛を尊いものとして礼讚しながら、夫婦の夜の営みは忌むべきだと、隠蔽するんだ」

 女が白い太股をあらわに交差させて足を組み替えた。その一瞬に、太股の付け根の暗闇がのぞいた気が、男はした。「源氏物語もそうだっていうの?」「そうです。女に惚れた男がその女を口説いたり、犯したりして思いを遂げる話です。これは男と女、雄と雌の、原始からの普遍なんですよ」「そうかも知れないわね」「間違いありません」

 「それにしても、あなたの物言いはあからさまに過ぎるわ」「こんなことは直裁がいいんです」「そうなの?私の何かを刺激するために、挑発しているのかしら?」「そういうあなただって相当に露骨ですよ」「そうなの?」「今までの話だって、思えば、凄い話をしていましたよ?」「そうだったかしら?」「意外と大胆に表現するんですね?」「心外だわ。あなたの物言いに刺激されて、素直に反応しているだけだわ」「そうかな?」「だって、あなたの話があまりに唐突だったんだもの。あなたへの返答に夢中だったからだわ」「それだけじゃない。俺以上に露悪な表現をする時がある」
 「厭らしい話?私、してるかしら?」男がウィスキーを含んだ。「気をつけるわ」「いいんだ。そのままで。厭らしい話をしてると前戯みたいで興奮するんだ」「前戯?」「交接の前の痴戯だ」「ほんとに厭らしいんだから」
 「あなたは興奮しない?」「しないわ」「興奮するのが恥ずかしいのか?」「そうじゃないけど」「俺との交接は嫌なんだろ?」「当たり前だわ」「話すのはいいんだろ?」「どうなのかしら?」


-『夏』-

 「草也っていう作家、知ってますか?」「あの『儚シリーズ』の作者かしら?」「ほほう。読みましたか?」「まあ…。いいえ。読んではいないわ。学生の頃に、行きつけの古本屋で。ちょっとだけ。噂を聞いただけだわ」
 「なるほど。『儚シリーズ』は地下出版の佳作と言われている、奇書中の奇書です。たぐいまれな傑作だ。『秘本源氏』に勝るとも劣らない。快作です」 「どんな内容なのかしら?」「一言で言えば、謀叛の文学です。この国の禁忌、絶対的なタブーに対する告発と反逆の叙事詩です。御門制に対する凄絶な怨嗟と憎悪。そして、北の一族の、御門制打倒の戦いの壮絶な歴史。御門制に蹂躙され続けてきた自らの民族に対する哀歌。愛と憎しみで交錯する男女の群像。禁忌に挑戦する大胆に過ぎる性愛の表現、などなどですね」
 「面白そうね。興味をそそられるわ。作者はどんな人なのかしら?」「それが難しいんだ」「どうして?」「この本が耳目を集めるようになったのは戦後の混乱期だが、戦前から書かれていて、密かに書き継がれていたという研究もある。作者も複数ではないかと言う者や、秘密結社が革命の手段として、集団で創作したんだと唱える者すらいる始末だ」「誰かはわからないのね?」「今でも志を継ぐ誰かが書いているかも知れない」「そうだとしたら、ますます読んでみたいわ」
 「あなたは、登場人物の一人を彷彿とさせるんだ」「誰なのかしら?」「第一巻の『宗派の儚』の主人公の『夏』です」「どんな人なのかしら?」

 男の長い話を聞き終えた女が、「凄惨な最期なのね」「『儚』は、殆どの登場人物が無惨な結末を迎えます。ここにも作者の意図を感じます」「私の何が、夏に似ているのかしら?」「まずは、描写されている夏の身体でしょうね。俺は女優の京まち子をイメージしていたんだ。まさに、あなたがその女優に酷似していた。言われたことはないですか?」女がウィスキーのグラスを口に運びながら頭を振った。「あなたに似て豊満なんだ。豊潤と言った方がいいのか。やっぱり爛熟かな」「まあ」「乳房も尻も…。肌は桃色だという。そこはあなたと違う」「あなたは雪の上に降り積んだ雪のようだ」「まあ」「そんな肌も、年輪を重ねて…」
 「交接している顔の描写が様々なんだ」「菩薩も観音もあれば、夜叉も修羅もある。眉間に深い縦皺を二本刻んで。小鼻を膨らます。首筋から耳へ紅潮が伝播して。紅くて厚い唇が濡れて、舌の先がのぞく。官能の極致の表情だ」
 「肉欲や色情も燃え盛って昇華されると、別な次元に転化するのかも知れない」「作者はどんな醜女でも法悦を迎えた顔は絶世の美女と変わらない。むしろ、勝る時すらあると、書いているんだ」「女陰の構造まで同じゃないかと妄想するくらいだ」
 「夏のはどんななの?」「奥が深くてどんな巨根も易々と呑み込んでしまう。それなのに、とびきり締まりがいい。姦淫された男根を食いちぎったという記述もある」「なんて凄いのかしら」「そして、潤沢に濡れる。その臭いが香しい」「どんなのかしら?」「熟した桃の香りだそうですよ。あなたのも、きっと、そうに違いない」


(続く)

原発の女5️⃣

原発の女5️⃣

  • 小説
  • 掌編
  • 恋愛
  • ミステリー
  • 時代・歴史
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-09-19

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted