遠野物語(現代語訳)
柳田国男 作
水脈会 編
この書を、外国にいる人々に捧げる。
はじめに
この話はすべて、遠野の人である佐々木鏡石(本名は佐々木喜善)君👓から聞いたものです。
昨年の明治四十二年の二月ごろから、彼が夜になると度々私を訪ねて来て、この話をしてくれたものを書き留めました。鏡石君は決して話し上手というわけではありませんが、とても誠実な人です。私もまた、一字一句たりとも自分の創作を加えず、感じたままを書き記しました。
思うに、遠野の里には、この種の物語がまだ数百件はあるでしょう。私たちは、より多くの物語を聞きたいと切に願っています。国内の山村で、遠野よりもさらに奥深い場所には、また無数の山神や山人の伝説があるはずです。願わくは、これらを語り伝えることで、平地に住む人々を戦慄させてやりたいものです。この書などは、その先駆けの第一歩にすぎません。
昨年の八月の末、私は遠野の里へ旅をしました。
花巻より十里(約40キロ)あまりの道のりには、町場が三ヶ所あるだけです。その他はただ青々とした山と原野ばかり。人の住む気配が少ないことは、北海道の石狩平野よりも甚だしいほどでした。あるいは新しい道であるがゆえに、移り住んでくる者が少ないからでしょうか。
遠野の城下町は、賑やかな町でした。私は宿屋の主人に馬を借りて、ひとりで郊外の村々を巡りました。その馬は、黒っぽい海草で作った厚い房を掛けていました。虻が多いためです。
猿ヶ石川の渓谷は土地が肥えてよく開墾されています。道端に石塔が多いことは、他の国でも類を見ないほどです。高台から見渡せば、早稲(早く実る稲)はちょうど熟し、晩稲(遅く実る稲)は花盛りで、水はことごとく落とされて川に集まっていました。稲の色合いは種類によって様々です。三つ、四つ、五つの田んぼが続いて稲の色が同じなのは、すなわち一つの家に属する田んぼであり、いわゆる屋号が同じ所有者なのでしょう。
小字(地名の区分)よりもさらに小さな区域の地名は、持ち主でなければこれを知りません。古い売買や譲渡の証文には常に見られるものです。
附馬牛の谷へ越えると、早池峰の山は淡く霞み、山の形は菅笠のようで、また片仮名の「へ」の字にも似ていました。この谷は稲が熟すのがさらに遅く、見渡す限り一面の青さです。細い田んぼの中の道を行くと、名前も知らぬ鳥がいて、ヒナを連れて横切りました。ヒナの色は黒に白い羽が混じっていました。始めは小さな鶏かと思いましたが、溝の草に隠れて見えなくなったので、野鳥であることを知りました。
天神の山では祭りがあり、獅子踊が行われていました。ここだけは軽く土埃が立ち、赤い物が少しひらめいて、村全体の緑に映えていました。獅子踊というのは、鹿の舞のことです。鹿の角をつけた面を被り、子供たちが五、六人、刀を抜いてこれと共に舞うのです。笛の調子は高く、歌声は低くて、側にいても聞き取りにくいものでした。
日は傾き、風が吹き、酒に酔って人を呼ぶ者の声も寂しく聞こえ、女は笑い、子供は走っていても、やはり旅の愁いをどうすることもできませんでした。
盂蘭盆(お盆)に新しい仏のある家は、紅白の旗を高く揚げて魂を招く風習があります。峠の馬の上から東西を指差して数えると、この旗が十数ヶ所ありました。村に永住する地を去ろうとする死者と、かりそめに入り込んだ旅人と、そしてあの悠々たる霊山とを、黄昏は静かにやって来て、すっかり包み込んでしまいました。
遠野の里には八ヶ所の観音堂があります。一本の木から作られたものです。この日はお礼参りの人々が多く、丘の上に灯火が見え、伏鉦の音が聞こえました。
道の辻の草むらの中には、雨風祭りの藁人形がありました。あたかも疲れ果てた人のように、仰向けに寝ていました。
以上が、私が遠野の里で得た印象です。
思うに、この類の本は、少なくとも現代の流行ではありません。
いかに印刷が容易だからといって、こんな本を出版し、自分の狭い趣味を他人に押し付けようとするのは無作法な行いだ、という人もいるでしょう。
しかし、私はあえて答えましょう。このような話を聞き、このような場所を見てきて、その後これを人に語りたがらない者が果たしているでしょうか。そのような沈黙を守れる慎み深い人は、少なくとも私の友人の中にはいません。
ましてや、我が九百年前の先輩『今昔物語』などは、その当時においてすでに「今は昔(遠い過去)」の話であったのに対し、これはまさに「目の前の出来事」なのです。たとえ敬虔な心と誠実な態度においては、あえてあの本を凌ぐことができるとは言えなくても、人の耳を経たことが多くなく、人の口と筆とを汚したことが甚だ僅かであるという点においては、あのアッサリとして無邪気な大納言殿(今昔物語の編者とされる源隆国)であっても、かえって聞きに来る価値があるはずです。
近頃の百物語のような怪談話に至っては、その志がすでに卑しく、かつ決してその話がデタラメではないと誓うこともできません。心ひそかに、これらと隣り合わせに並べられることを恥とします。要するに、この書は現在の事実なのです。単にこれだけの理由であっても、立派な存在理由があると信じます。
ただ、鏡石君は年齢わずかに二十四、五歳。私も彼より十歳年上なだけです。
今のやるべき事業の多い時代に生まれながら、問題の大小もわきまえず、その力を費やす場所を間違えているという人がいれば、どうしましょうか。明神の山のミミズクのように、あまりにその耳を尖らせ、あまりにその眼を丸くし過ぎていると責める人がいれば、どうしましょうか。
はて、それも仕方がない。この責任だけは、私が負わねばならないのです。
🦉(最後に歌を一首)おきなさび飛ばず鳴かざるをちかたの森のふくろふ笑ふらんかも──翁さびて飛びもせず鳴きもしない遠くの森のフクロウは、私たちを笑っていることだろうか──。
一、遠野郷
遠野郷は、現在の陸中上閉伊郡の西半分にあたり、山々に取り囲まれた盆地です。
新しい町村の区分では、遠野、土淵、附馬牛、松崎、青笹、上郷、小友、綾織、鱒沢、宮守、達曽部の一町十ヶ村に分かれています。
近代にはあるいは西閉伊郡とも称し、中世の頃には遠野保とも呼ばれていました。今日、郡役所のある遠野町はすなわちこの郷全体の中心地であり、南部家一万石の城下町です。城を横田城とも言います。
この地へ行くには、花巻の駅で汽車を降り、北上川を渡り、その支流である猿ヶ石川の渓谷伝いに東の方へ入ること十三里(約52キロ)、ようやく遠野の町に至ります。山奥にしては珍しく賑やかな土地です。
言い伝えによれば、遠野郷の地は大昔、すべてが一面の湖でしたが、その水が猿ヶ石川となって人の住む世界へ流れ出てから、自然とこのような邑落(村里)をなしたのだといいます。
それゆえ、谷川でこの猿ヶ石川に合流するものが非常に多く、俗に「七内八崎」があると言われています。「内(ナイ)」とは沢、または谷のことで、奥州の地名には多く見られます。
🤔遠野郷の「トー」は、もともとアイヌ語の「湖」という言葉から出たものでしょう。「ナイ」もまたアイヌ語です。
二、遠野三山の由来
遠野の町は、南と北から流れてくる川の合流点にあります。
以前は「七七十里」と言って、七つの渓谷それぞれの七十里の奥から売買するための産物を集め、市の立つ日は馬千頭、人千人で賑わったものでした。
四方の山々の中で最も優れている山を早池峰といいます。北の方角、附馬牛の奥にあります。東の方には六角牛山がそびえています。石神という山は附馬牛と達曽部との間にあり、その高さは前の二つの山よりも劣っています。
大昔に女神がいて、三人の娘を連れてこの高原にやって来ました。今の来内村の伊豆権現の社がある所に泊まった夜のこと、「今夜よい夢を見た娘に、よい山を与えよう」と母の神が語って寝ました。
夜が更けてから、天より霊華(不思議な花)が降りてきて、一番上の姉の胸の上に止まりました。すると末の妹が目を覚まし、ひそかにこれを取って、自分の胸の上に載せてしまいました。
その結果、末の妹がついに最も美しい早池峰の山を手に入れ、姉たちは六角牛と石神を手に入れることになりました。
若い三人の女神は、それぞれ三つの山に住み、今もそこを支配していらっしゃいます。そのため、遠野の女たちは女神の嫉妬を恐れて、今もこの山には遊びに行かないということです。
😌文中の「一里」というのは、小さな単位の道、すなわち坂東道のことであり、この場合の一里は五丁または六丁(約五~六百メートル)のことです。
🤔「タッソベ」もアイヌ語でしょう。岩手郡玉山村にも同じ大字(地名)があります。
🤔上郷村大字来内、「ライナイ」もアイヌ語であって、「ライ」は死のこと、「ナイ」は沢のことです。水が静かであることから付いた名でしょうか。
三、山男と黒髪
山々の奥深くには、山人が住んでいます。
栃内村和野の佐々木嘉兵衛という人は、今も七十歳余りで健在です。
この翁がまだ若かった頃、狩猟をしに山奥に入ったときのことです。遥か遠くの岩の上に美しい女が一人いて、長い黒髪を梳っていました。顔の色はきわめて白いものでした。
嘉兵衛は不敵な男だったので、すぐさま銃を向け、ドカンと撃ち放ったところ、女は弾に当たって倒れました。そこへ駆けつけて見ると、背丈の高い女で、解き放った黒髪は自分の身長よりも長いほどでした。
後の証拠にしようと思って、その髪を少し切り取り、これを綰ねて(束ねて輪にして)懐に入れ、やがて家路につきました。
その道中、耐え難い眠気に襲われたので、しばらく物陰に立ち寄ってうとうととしました。
その夢と現実の境目のような時に、これまた背丈の高い男が一人近寄ってきて、懐の中に手を差し入れ、あの綰ねた黒髪を取り返して立ち去った……と思うと、たちまち目が覚めました。
あれは山男だったのだろう、と言われています。
📍場所は土淵村大字栃内。
四、笹原を歩く山女
山口村の吉兵衛という家の主人が、根子立という山に入り、笹を刈って束にして、これを担いで立ち上がろうとした時のことです。
笹原の上を、風が吹き渡る気配に気づいてふと見ると、奥の方にある林の中から、若い女が幼子を背負って、笹原の上を歩いてこちらへやって来るのです。
きわめて艶やかな美しい女で、この女もまた長い黒髪を垂らしていました。
子供を背中に結びつけている紐は藤の蔓で、着ている着物は世間でよく見る縞模様の木綿でしたが、裾のあたりがボロボロに破れているのを、いろいろな木の葉などを添えて継ぎ当てていました。
その足は、地面に着いているとも思えませんでした。
女は何事もなかったかのようにこちらへ近づき、男のすぐ目の前を通って、どこかへ通り過ぎて行きました。
この主人は、その時の恐ろしさから患い始め、長い間病気で寝込んでいましたが、つい最近亡くなりました。
📍場所は土淵村大字山口。吉兵衛というのは代々の屋号なので、この主人もまた吉兵衛という名であったのでしょう。
五、笛吹峠と山人
遠野郷から、海岸沿いにある田ノ浜や吉利吉里などへ山を越えて行くには、昔から笛吹峠という山道がありました。
山口村から六角牛山の方へ入るルートで、道のりも近かったのですが、近年この峠を越える者は、山の中で必ず山男や山女に出会うようになりました。
そのため、誰もがみな恐ろしがって、次第に行き来する人も稀になってしまいました。
とうとう、境木峠という方角に別の新しい道を開き、和山を馬次場(馬の中継所)として、今はこちらの道ばかりを通って越えるようになりました。
それは、二里(約8キロ)以上の遠回りになります。
😶「山口」という名は、六角牛山に登るための登山口であることから、そのまま村の名前になったものです。
六、山男に嫁いだ長者の娘
遠野郷では、豪農のことを今でも「長者」と呼びます。
青笹村大字糠前に住む長者の娘が、ふいに何者かに連れ去られて行方不明になり、長い年月が経ちました。
ある日、同じ村の某という猟師が山に入り、一人の女に出会いました。
恐ろしくなってこれを撃ち殺そうとしたところ、女は「○○おじさんではないか、撃たないでくれ」と言います。驚いてよく見れば、あの長者の愛娘です。「なぜこんな所にいるのか」と尋ねると、彼女はこう答えました。「ある恐ろしい者にさらわれて、今ではその妻になっています。子供もたくさん産みましたが、すべて夫が食い尽くしてしまい、私一人がこのように生き残っています。私はもう、この地で一生を終えることになるでしょう。誰にも言わないでください。あなたの身も危ないから、早く帰ってください」そう言われるままに、猟師は彼女の住処も詳しく聞かずに、逃げ帰ったということです。
📍「糠前」は「糠の森」の前にある村です。「糠の森」は諸国にある「糠塚」と同じ意味で、遠野郷にも糠森・糠塚と呼ばれる場所が多くあります。
七、五葉山の山男と神隠しの娘
上郷村の民家の娘が、栗を拾いに山へ入ったまま帰ってきませんでした。
家の者はもう死んだのだろうと思い、娘が使っていた枕を遺体の代わりとして葬儀を行い、それから二、三年が過ぎました。
ところがある日、その村の者が狩猟をしに五葉山の中腹あたりへ入ったところ、大きな岩が覆いかぶさって洞窟のようになっている場所で、思いがけずこの女に出会いました。
互いに大変驚き、「どうしてこんな山の中にいるのか」と尋ねると、女はこう答えました。「山に入って、恐ろしい人にさらわれて、こんな所へ連れてこられたのです。逃げ帰ろうと思っても、少しの隙もありません」
その相手はどのような人かと問うと、「私には並の人間のように見えますが、ただ背丈が極めて高く、目の色が少し凄みがあるように思われます。子供も何人か産みましたが、『俺に似ていないから、俺の子ではない』と言って、食べるのか殺すのか、みんな何処かへ持ち去ってしまうのです」と言います。本当に我々と同じ人間なのかと重ねて尋ねると、「着ている物などは世間の人と同じですが、ただ目の色だけが少し違います。一市間に一度か二度、同じような人が四、五人集まって来て、何か話をして、やがて何処かへ出かけて行きます。食べ物などを外から持ってくるのを見ると、町へも出ているのでしょう」
そうこう話しているうちにも、「今すぐにそこへ帰って来るかもしれません」と言うので、猟師も恐ろしくなって逃げ帰ったといいます。
二十年ほど前のことだと思われます。
😐「一市間」とは、遠野の町で市場が開かれる日と、次の市場の日との間のことです。月に六回市が立つので、一市間はすなわち五日間のことです。
八、寒戸の婆
夕暮れ時に女性や子供が家の外に出ていると、よく神隠しに遭うというのは、ここでも他の地方と変わりありません。
松崎村の寒戸という場所にある民家でのことです。ある若い娘が、梨の木の下に草履を脱ぎ置いたまま、行方不明になってしまいました。
それから三十年あまりが過ぎたある日のことです。親類や知人がその家に集まっていたところへ、すっかり年老いて、やせ衰えた姿でその女性が帰ってきました。「どうやって帰ってきたのか」と人々が尋ねると、彼女はこう答えました。「みんなに会いたかったから、帰ってきたのだ」
そして、「それでは、また行こうかね」と言うと、再び跡形もなく姿を消してしまいました。その日は、風が激しく吹く日でした。
そのため遠野の人々は、今でも風が騒がしい日には、「今日はサムトの婆が帰ってきそうな日だ」と言い合っています。
九、谷底からの声
菊池弥之助という老人は、若いころ、馬に荷を積んで運ぶ駄賃付けを仕事にしていました。
彼は笛の名人で、夜通し馬を引いて歩く時などは、よく笛を吹きながら行ったものでした。
ある薄月夜のことです。大勢の仲間とともに、海岸の方へ抜ける境木峠を越えていた時のこと、弥之助はまた笛を取り出し、気の向くままに吹き鳴らしながら、大谷地という場所の上を通りかかりました。
大谷地は深い谷になっていて、白樺の林が茂り、その下には葦などが生い茂る、じめじめとした沢です。
その時です。谷の底から何者かが、大きな高い声で「面白いぞー」と叫ぶのが聞こえました。
これを聞いた一同は、すっかり顔色を変え、逃げるように走り去ったということです。
🥳「ヤチ」というのはアイヌ語で「湿地」の意味であり、内地にも多く見られる地名です。「ヤツ」「ヤト」あるいは「ヤ」とも言います。
十、深夜の叫び
先の菊池弥之助氏が、ある奥深い山に入り、茸を採るために小屋を掛けて泊まり込んでいた時のことです。
深夜、遠いところから「きゃー」という女の叫び声が聞こえてきて、彼は不吉な予感に恐怖で胸を激しく轟かせました。
里へ帰ってみると、ちょうどその同じ夜、時間も同じ刻限に、自分の妹が、その実の息子の手にかかって殺されていたのです。
十一、母の死と息子への赦し
この(先の菊池弥之助氏の)家は、母と息子一人の二人暮らしでしたが、息子の嫁と姑との仲が悪くなり、嫁はたびたび実家へ帰って戻らないことがありました。
その日は、嫁は家にいて寝込んでいたのですが、昼頃になって突然、息子の孫四郎がこう言い出しました。「ガガ(お母さん)は、とても生かしてはおけない。今日はきっと殺してやる」
そう言うと、大きな草刈鎌を取り出し、ごしごしと磨ぎ始めました。
その様子はどう見ても冗談とは思えなかったので、母は道理を説いて謝りましたが、息子は少しも耳を貸しません。嫁も起き出して泣きながら止めましたが、まったく従う様子もありません。
やがて、母が逃げ出そうとする気配を見せると、前後の戸口をことごとく鎖してしまいました。母が「便所に行きたい」と言っても、「俺が外から便器を持ってきてやるから、ここへしろ」と言う始末です。
夕方になり、母もついに諦めて、大きな囲炉裏の側にうずくまり、ただ泣いていました。
孫四郎は、よくよく研いだ大鎌を手にして近寄って来ました。まず左の肩口を目がけて薙ぐように切りつけましたが、鎌の刃先が炉の上にある火棚に引っかかり、深くは切れませんでした。
この時、母は深山の奥で(先の)弥之助氏が聞きつけたような叫び声を上げたのです。
二度目には右の肩から切り下げられましたが、これでもまだ死にきれずにいたところへ、里人たちが驚いて駆けつけました。人々は息子を取り押さえ、すぐに警察官を呼んで引き渡しました。それはまだ警官が(サーベルではなく)警棒を持っていた時代の話です。
母親は、息子が捕らえられ、連行されて行くのを見て、滝のように血が流れる中から、こう言いました。「私は恨みも抱かずに死ぬのだから、どうか孫四郎を宥してやってくだされ」
これを聞いて、心を動かされない者はいませんでした。
孫四郎は連行される途中でも、その鎌を振り上げて巡査を追い回すなどしましたが、狂人であるとして放免され、家に帰されました。彼は今も生きて里にいます。
😑「ガガ」というのは、この地方の方言で「母」のことです。
十二、孤独な語り部・乙爺
土淵村の山口という所に、新田乙蔵という老人がいます。村の人たちは乙爺と呼んでいます。
今はもう九十歳近くになり、病気にかかって今にも死にそうな状態です。
彼は長年、遠野郷の昔話をよく知っていて、死ぬ前に誰かに話して聞かせておきたいと口癖のように言っていますが、あまりにも体臭がひどいため、近寄って話を聞こうとする人は誰もいません。
あちこちの屋敷の主人の伝記や、それぞれの家の盛衰、昔からこの里で歌われてきた歌の数々をはじめとして、深山の伝説や、さらにその奥に住む人々の物語などを、この老人は誰よりもよく知っているのです。
🤧惜しいことに、乙爺は明治四十二年の夏の初めに亡くなりました。
十三、峠の甘酒屋
先の乙爺は、数十年もの間、山の中でたった一人で住んでいた人です。
もともとは良い家柄の出身でしたが、若いころに財産を使い果たして失ってしまいました。それ以来、世の中との関わりを断ち、峠の上に小屋を建て、行き交う人々に甘酒を売って生計を立てていました。
馬で荷を運ぶ駄賃付けの者たちは、この老人を父親のように慕い、親しくしていました。
老人は、少し収入が余ると、町へ降りてきて酒を飲みました。赤毛布で作った半纏を着て、赤い頭巾を被り、酔っぱらうと町の中を踊りながら帰りましたが、巡査もそれをとがめることはありませんでした。
しかし、いよいよ老い衰えてからは、故郷の村へ帰り、哀れな暮らしをしていました。
子供たちは皆、北海道へ行ってしまい、老人はただ一人きりだったのです。
十四、家の神・オクナイサマとオシラサマ
集落には必ず一軒の旧家があって、「オクナイサマ」という神様を祀っています。その家のことを「大同」と呼びます。
この神様の像は、桑の木を削って顔を描き、四角い布の真ん中に穴を空け、これを上から通して衣装としています。
正月の十五日には、その地区の人々がこの家に集まってきて、この神様を祭ります。
また、「オシラサマ」という神様もいます。この神様の像もまた同じようにして作り、これも正月の十五日に里人が集まって祭ります。その儀式の際には、白粉を神像の顔に塗ることがあります。
大同の家には、必ず畳一帖ほどの小部屋があります。
この部屋で夜寝る者は、いつも不思議な目に遭います。
枕をひっくり返されるなどは、いつものことです。あるいは誰かに抱き起こされたり、または部屋から突き出されることもあります。
とにかく、静かに眠ることを決して許してくれないのです。
👫オシラサマは男女一対の神です。アイヌの中にもこの神がいることは『蝦夷風俗彙聞』に見られます。
🫡秋田県の羽後苅和野の町にて、市の神の神体である男女の神に、正月十五日に白粉を塗って祭ることがあります。これと似た例です。
十五、田植えを手伝った神様
オクナイサマを祀ると、幸運に恵まれるといいます。
土淵村の柏崎という所に住む長者の阿部氏――村では「田圃の家」と呼ばれている家でのことです。
ある年のこと、田植えの人手が足りなくなってしまいました。「明日は天気も悪そうだし、ほんの少しだけ田植えが残ってしまいそうだ」と(家の人が)つぶやいていた時のことです。
ふと、どこからともなく背の低い小僧くんが一人やって来て、「私も手伝いましょう」と言うので、その言葉に甘えて働かせておきました。
昼食時になり、飯を食べさせようと思って探しましたが、姿が見えません。
しかし、やがて再び戻ってくると、一日中、代かき(田植えのために田の泥をかきならす作業)をしてよく働いてくれたおかげで、その日のうちにすべて植え終えることができました。
「どこの誰かは知らないが、晩御飯を食べにいらっしゃい」と誘っておいたのですが、日が暮れるとまた姿が見えなくなってしまいました。
家に帰ってみると、縁側に小さな泥の足跡がたくさん残っていました。
それはだんだんと座敷の中へ入っていき、オクナイサマの神棚のところで止まっていたのです。
「さては」と思ってその扉を開けてみると、神像の腰から下は、田んぼの泥にまみれていらっしゃったということです。
十六、コンセサマとオコマサマ
コンセサマ(金精様)という神様を祀っている家も少なくありません。
この神様の御神体は、オコマサマ(御駒様)とよく似ています。
オコマサマの社は、里にたくさんあります。
石や木で「男の物(男性器)」の形を作って、神前に捧げるのです。
今では、だんだんとそうした習わしは少なくなってきました。
十七、家の神・ザシキワラシ
旧家には、「ザシキワラシ」という神様が住んでいる家が少なくありません。
この神様は、多くは十二、三歳くらいの子供の姿をしています。時々、人にその姿を見せることがあります。
土淵村の飯豊という所に住む今淵勘十郎という人の家でのことです。
最近、高等女学校に通う娘が休暇で帰省していた時のこと、ある日、廊下で、ばったりとザシキワラシに出くわして、たいそう驚いたことがありました。それはまさしく、男の子の姿でした。
また、同じ村の山口に住む佐々木君👓(この遠野の話たちを作者に教えてくれている人)の家では、母親が一人で縫物をしていたところ、隣の部屋で紙がガサガサとなる音が聞こえました。
その部屋は家の主人の部屋ですが、その時は東京に行っていて不在のはずです。怪しいと思って板戸を開けて見てみましたが、誰の姿もありません。
しばらくの間そこに座っていると、やがてまた、しきりに鼻を鳴らす音が聞こえてきました。
そこで「さては、ザシキワラシだな」と気づきました。
この家にもザシキワラシが住んでいるということは、ずいぶん昔からの評判でした。
この神様が住んでいる家は、富貴自在(思いのままにお金持ちになり栄えること)になると言われています。
🤩ザシキワラシは座敷童衆のことです。この神様のことは『石神問答』の中にも記述があります。
十八、家を去るザシキワラシと孫左衛門の滅亡
ザシキワラシは、女の子であることもあります。
同じ山口という集落にある旧家、山口孫左衛門という家には、二人の童女の神様がいると古くから言い伝えられていました。
ある年のこと、同じ村の某という男が、町からの帰りに、留場の橋のたもとで、見慣れない二人の美しい娘に出会いました。
彼女たちは、どこか思いつめたような、物憂げな様子でこちらへやって来ます。
「お前たちはどこから来たのか」男がそう尋ねると、「私たちは、山口の孫左衛門のところから来ました」と答えます。「これからどこへ行くのか」と聞くと、「某村の某の家へ」と答えました。
その某の家というのは、少し離れた村にあり、今も立派に暮らしている豪農の家です。
男は「さては、孫左衛門の家もこれでおしまいだな」と思いましたが、それから間もなくしてのことです。
孫左衛門の家の主人と使用人あわせて二十数人が、茸の毒にあたって、たった一日のうちに死に絶えてしまいました。
七歳の女の子が一人だけ生き残りましたが、その女性もまた、年老いて子供のないまま、最近になって病気で亡くなってしまいました。
十九、茸の毒と家の崩壊
先の孫左衛門の家でのことです。
ある日、梨の木の周りに見慣れない茸がたくさん生えているのを見つけ、男衆が「食べようか、やめておこうか」と相談していました。
それを聞いた最後の当主である孫左衛門は、「食べない方がよい」と制止しました。
しかし、下男の一人がこう言いました。「どんな茸でも、水桶の中に入れて、苧殻(皮をはいだ麻の茎)を使ってよくかき回してから食べれば、決して中ることはありません」
一同はこの言葉に従い、家族全員がこれを食べてしまいました。
ただ一人、七歳の女の子だけは、その日外へ遊びに出ていて、遊びに夢中になって昼飯を食べに帰るのを忘れていたために、助かりました。
主人が突然死んでしまい、人々が動転している間に、遠くや近くの親類の人々がやって来ました。「生前に貸しがあった」「約束があった」などと言い立てて、家財道具はもちろん、味噌の類まで持ち去ってしまいました。
この村の草分け開拓者である長者の家でしたが、こうして、あっという間に跡形もなくなってしまったのです。
二十、蛇塚と不吉な前兆
先の孫左衛門の凶変(一家全滅という悲惨な事件)が起こる前には、いろいろな前兆がありました。
男衆が、刈り置いてあった秣(馬の飼料にする干し草)を出そうとして、三ツ歯の鍬でかき回したところ、大きな蛇を見つけました。
(キノコの時と同じように)主人が「殺してはならん」と止めたのも聞かず、男たちはその蛇を打ち殺してしまいました。
すると、その跡から、秣の下に数え切れないほどの蛇がいて、うごめき出てきました。男たちは面白半分に、これらをことごとく殺してしまいました。
さて、捨てる場所にも困ったので、屋敷の外に穴を掘ってこれらを埋め、蛇塚を作りました。
殺された蛇の量は、簣(土などを運ぶカゴ)に何杯あったか分からないほどだったといいます。
二十一、孫左衛門と狐信仰
例の孫左衛門は、村には珍しい学者で、いつも京都から和漢(日本と中国)の本を取り寄せては、読みふけっていました。少し変わり者と言われるような人でした。
彼はある時、狐と親しくなって、家を富ませる術を手に入れようと思い立ちました。
まず庭の中に稲荷の祠を建て、自ら京都へ上り、「正一位」という神様の位を授かって帰ってきました。
それからは毎日、一枚の油揚げを欠かすことなく、自分の手で祠の前に供えてお参りをしていました。
すると、後には狐がすっかり慣れてしまい、孫左衛門が近づいても逃げなくなりました。手を伸ばして、その首を押さえたりすることもできたといいます。
村にいた薬師堂の堂守(お堂の番人)は、「俺のところの仏様は、何もお供えしなくても、孫左衛門の神様より御利益があるぞ」と言って、たびたび笑い話にしていたそうです。
二十二、死者の帰宅と回る炭取
佐々木君👓の曾祖母が高齢で亡くなった時のことです。
遺体を棺に納め、親族が集まって、その夜は皆、座敷で寝ていました。
その中には、死者の娘で、乱心(精神の病)のために離縁された女性もいました。
喪の間は火を絶やしてはいけないというのがこの地方の習慣なので、祖母と母(佐々木君の母)の二人だけは、大きな囲炉裏の両側に座っていました。母はそばに炭籠を置き、時折、炭を継ぎ足していましたが、ふと、裏口の方から足音をさせてやって来る者があるので見てみると、なんとそれは、亡くなったはずの老女(曾祖母)でした。
彼女は普段から腰が曲がっていて、着物の裾を引きずってしまうのを、三角につまみ上げて前に縫い付けていたのですが、まざまざとその通りの姿で、着物の縞目にも見覚えがありました。
「あっ」と思う間もなく、老女は二人が座っている囲炉裏の脇を通り過ぎて行きました。その時、裾が炭取(炭を入れる容器)に触れ、底の丸い炭取だったので、くるくると回りました。
母は気丈な人だったので、振り返ってその後ろ姿を見送りました。老女が親戚の人々が寝ている座敷の方へ近づいていくのが見えたその時、あの乱心した娘がけたたましい声で、「おばあさんが来た!」と叫びました。
ほかの人々は、この声で目を覚まし、ただただ驚くばかりだったといいます。
🙂↕️メーテルリンクの戯曲『侵入者』を思い起こさせる話です。
二十三、門口の老女
(前の話の)同じ人が亡くなってから二七日の逮夜(死後十四日目の法要の前夜)のことです。
知人たちが集まって、夜更けまで念仏を唱え、さて帰ろうとした時のことです。
家の門口にある石に腰を掛けて、向こうの方を向いている老女がいました。
その後ろ姿は、まさしく亡くなったお婆さんそのままでした。
これは、大勢の人が見たことなので、誰も疑う人はいませんでした。
一体、現世にどのような執着があってのことなのか、ついに知る人は誰もいませんでした。
二十四、旧家の呼び名「大同」の由来
村々の旧家(古い家柄の家)のことを「大同」と呼ぶのは、大同元年(806年)に甲斐の国(現在の山梨県)から移り住んできた家だからだ、ということです。
大同というのは、田村将軍(坂上田村麻呂)が征討を行った時代です。
一方で、甲斐というのは、(この地方を治めた)南部家の本拠地です。
おそらく、これら二つの伝説が混ざってしまっているのではないでしょうか。
🙂「大同」というのは、あるいは「大洞」のことかもしれません。「洞」とは、東北地方では家門や一族を指す言葉です。『常陸国志』にも例があり、のちに「ホラマエ」という言葉も出てきます。
二十五、片方だけの門松
大同(旧家)の祖先たちが、初めてこの地方に到着したのは、ちょうど年の暮れのことでした。
新春を迎える準備として門松を立てようとしましたが、まだ片方を立て終わらないうちに、早くも元日になってしまいました。
そのため、今でもこれらの家々では、めでたい習わしとして、門松の片方を地面に寝かせたままにして、そこに注連縄を張り渡すということです。
二十六、旧家の彫刻名人
柏崎にある「田圃の家」と呼ばれる阿部氏は、とりわけ名の知れた旧家です。
この家の先代に、彫刻の巧みな人がいました。
遠野の郷にある神仏の像には、この人が作ったものが数多くあります。
二十七、不思議な石臼と「池の端」の由来
早池峰山から流れ出て、東北の方角にある宮古の海へと注ぐ川を閉伊川といいます。その流域が、すなわち下閉伊郡です。
遠野の町中に、今は「池の端」と呼ばれている家があります。
その家の先代の主人が、宮古へ行った帰り道のことです。閉伊川の原台の淵というあたりを通った時に、一人の若い女がいて、一通の手紙を託されました。 「遠野の町の後ろにある、物見山の中腹にある沼へ行って手を叩けば、宛名の人が出てくるはずです」とのことでした。
主人は引き受けはしましたが、道中なんとなく気にかかって、行こうか戻ろうかと迷っていました。そこへ、一人の六部(旅の修行僧)に行き会いました。
六部は手紙を開いて読むと、「これを持って行けば、お前の身に大きな災いが降りかかるだろう。書き換えてやろう」と言って、別の手紙を書いて渡してくれました。
主人がこれを持って沼に行き、教えられた通りに手を叩くと、果たして若い女が現れて手紙を受け取りました。そしてそのお礼だと言って、ごく小さな石臼をくれました。
米を一粒入れて回すと、下から黄金が出てくるのです。
この宝物のおかげで、家はだんだんと裕福になりました。
しかし、妻が欲を出して、一度にたくさんの米を掴み入れてしまったのです。すると、石臼は激しく自ら回りだし、ついには、主人が毎朝石臼にお供えしていた水が溜まっている小さな窪みの中へ、滑り落ちて見えなくなってしまいました。
その水たまりは、のちに小さな池となって、今も家の傍らにあります。その家の屋号を「池の端」というのは、そのためだと言われています。
😯この話に似た物語は西洋にもあります。偶然の一致でしょうか。
二十八、早池峰の開山と餅食い坊主
初めて早池峰山に登山道をつけたのは、附馬牛村の某という猟師です。それは、遠野に南部家が入部した後のことでした。
それまでは、土地の者で一人としてこの山に入った者はいなかったといいます。
この猟師が半分ほど道を切り開き、山の中腹に仮小屋を作って泊まり込んでいた頃のことです。
ある日、囲炉裏の上で餅を並べて焼きながら食べていると、小屋の外を通る者がいて、しきりに中を覗き込んでいる様子です。
よく見ると、大きな坊主でした。
やがて坊主は小屋の中に入ってきて、いかにも珍しそうに餅が焼けるのを見ていましたが、ついに我慢できなくなったのか、手を差し伸べて餅を取って食べました。
猟師も恐ろしかったので、自分からも取って与えたところ、嬉しそうにさらに食べました。そして餅がすべて無くなると帰っていきました。
次の日もまた来るだろうと思い、猟師は餅によく似た白い石を二つ三つ、餅に混ぜて炉の上に載せておきました。石は焼けて火のように熱くなりました。
案の定、その坊主は今日もやって来て、昨日と同じように餅を取って食べました。
餅が尽きた後、その白い石をも同じように口へ放り込みましたが、大いに驚いて小屋を飛び出し、姿が見えなくなりました。
後に、谷底でこの坊主が死んでいるのを見つけたということです。
😶北上川の昔の大洪水に「白髪水」という話があります。白髪の老婆を騙して、餅に似た焼石を食べさせた祟りだというものです。この話によく似ています。
二十九、鶏頭山の天狗と乱暴者
鶏頭山は、早池峰山の前面にそびえる険しい峰です。麓の里では「前薬師」とも呼ばれています。
ここには天狗が住んでいると言われており、早池峰山に登る人でも、決してこの山には足を踏み入れません。
山口集落の「ハネト」という家の主人は、佐々木君👓の祖父と幼馴染みでした。
彼は極めて無法者で、鉞で草を刈り、鎌で土を掘るなど、若い頃は常識外れで乱暴な振る舞いばかりしていた人でした。
ある時、彼は人と賭けをして、一人で前薬師に登りました。
帰ってきてからの話によると、頂上には大きな岩があり、その上に大男が三人いたそうです。彼らは目の前にたくさんの金銀を広げていました。
この男が近寄るのを見て、彼らは色めき立って振り返りましたが、その眼の光はとても恐ろしいものでした。
「早池峰山に登ろうとしたのだが、道に迷って来てしまったのだ」と男がとっさに嘘をつくと、「それならば送ってやろう」と先に立って案内してくれ、麓の近くまで来ました。「目を閉じろ」と言われるままに、しばらくそこに立っている間に、たちまちその異人たちの姿は見えなくなってしまったといいます。
三十、竹林に眠る大男
小国村の某という男が、ある日、早池峰山へ竹を切りに行ったところ、地竹がものすごく茂っている中に、大きな男が一人寝ているのを見つけました。
そばには、地竹で編んだ三尺(約90センチ)ほどの大きさの草履が脱いでありました。
その男は仰向けに寝転がって、大きな鼾をかいていました。
📍場所は、現在の下閉伊郡小国村大字小国です。
🌱「地竹」とは、深山に生える背の低い竹のことです。
三十一、異人に攫われる女たち
遠野郷の民家の子供や娘たちの中で、異人(山男などの異界の者)にさらわれて行く者が、毎年多くいます。
特に、女性に多いということです。
三十二、白鹿を追った隼人と地名の由来
千晩ヶ岳という山の中には、沼があります。
この谷は、ものすごく生臭いにおいのする場所で、この山に入って無事に帰ってきた者は本当に少ないのです。
昔、何の隼人という猟師がいました。その子孫は今もいます。
彼は白い鹿を見つけてこれを追いかけ、この谷に千晩もの間、籠ったため、それが山の名前(千晩ヶ岳)になりました。
その白鹿は撃たれて逃げ、次の山まで行って片足を折ってしまいました。そのため、その山を今、片羽山と呼んでいます。
そしてまた、前の山へやって来て、ついに死んでしまいました。その土地を死助といいます。
死助権現として祀られているのは、この白鹿だということです。
😉さながら古い風土記を読んでいるような話です。
三十三、白望山の怪異と幻の黄金
白望の山へ行って泊まると、深夜にあたりがぼんやりと薄明るくなることがあります。
秋の頃、茸を採りに行って山中で野宿する者は、よくこの現象に遭遇します。
また、谷の向こう側で大木を切り倒す音や、歌う声などが聞こえてくることもあります。
この山の大きさは、測り知れないほどです。
五月に茅を刈りに行く時、遠くを眺めると、桐の花が咲き乱れている山が見えることがあります。それはまるで、紫色の雲がたなびいているかのようです。
しかし、どうしてもその場所に近づくことはできません。
かつて、茸を採りに山に入った者がいました。
彼は白望の山奥で、金の樋と、金の杓があるのを見つけました。
持ち帰ろうとしましたが、極めて重くて動きません。鎌で端の方だけでも削り取ろうとしましたが、それも叶いませんでした。
また来ようと思って、木の皮を削って白くし、目印をつけておきました。
しかし次の日、里の人々を連れて探しに行きましたが、結局、その目印の木さえ見つけることができず、諦めてしまいました。
三十四、長者屋敷を覗く女
白望の山続きに、離森という所があります。
その中の小字に「長者屋敷」と呼ばれる場所がありますが、そこは全くの無人の地です。
ここへ行って、炭を焼いていた者がいました。
ある夜のこと、その小屋の入り口に下げてある垂菰(むしろ)を持ち上げて、中を覗く者を見ました。
それは、髪を長く二つに分けて垂らした女でした。
このあたりでは、深夜に女の叫び声を聞くことは、決して珍しいことではないのです。
三十五、中空を駆ける女
佐々木君👓の祖父の弟が、白望の山へ茸を採りに行って、山中で野宿をした夜のことです。
谷を隔てた向こう側にある、大きな森林の前を横切って、女が走っていくのを見ました。
それはまるで、中空(空の中ほど)を走っているように見えました。
その女が、「待てちゃア(待ってよぉ)」と、二声ばかり叫ぶのを聞いたということです。
三十六、経立と二ツ石山の狼
猿の経立(長く生きて変化した妖怪のようなもの)や、御犬の経立というものは、恐ろしいものです。
御犬というのは、狼のことです。
山口の集落に近い二ツ石山という山は、岩山になっています。
ある雨の日、小学校から帰る子供たちがこの山を見たところ、あちこちの岩の上に、御犬がうずくまっていました。
やがて彼らは、首を下からぐっと押し上げるようにして、代わる代わる吠え始めました。
正面から見ると、生まれたばかりの馬の子供くらいの大きさに見えます。
しかし、後ろから見ると、思いのほか小さいということです。
御犬のうなる声ほど、ものすごく恐ろしいものはありません。
三十七、狼の大群と馬の綱
境木峠と和山峠の間では、昔、駄賃馬を引く者たちが、たびたび狼に遭遇しました。
馬方たちは、夜に移動する時には、たいてい十人ほどのグループを作りました。一人につき、「一端綱」といって五、六、七匹の馬を引くので、全体では常に四十から五十匹ほどの馬の数になりました。
ある時のこと、二百から三百匹ばかりもの狼が追いかけてきました。その足音は、山がどよめくほどでした。
あまりの恐ろしさに、馬も人も一箇所に集まり、その周りで火を焚いて防ごうとしました。
しかし、狼たちはその火さえも飛び越えて入って来ます。
そこで最後には、馬の綱を解いて、自分たちの周囲に張り巡らせました。
すると、狼たちはこれを落とし穴か何かだと思ったのでしょうか、それ以降は中へ飛び込んで来なくなりました。
狼たちは遠くから一行を取り囲み、夜が明けるまで吠え続けていたということです。
三十八、狼の遠吠えを真似た男
小友村の旧家の主人で、今もご存命の某爺という人の話です。
ある時、町からの帰りに、しきりに御犬(狼)が吠えるのを聞きましたが、酒に酔っていたため、自分もまたその声を真似してみました。
すると、狼も吠え返しながら、後からついて来るような気配がしました。
恐ろしくなって急いで家に逃げ帰り、門の戸を堅く鎖してじっと隠れていましたが、夜通し狼が家の周りをうろついて吠える声が止みませんでした。
夜が明けてから見てみると、馬屋の土台の下を掘り穿って中へ侵入し、飼っていた七頭の馬を、ことごとく食い殺していました。
この家は、その頃から家産(身代)が少し傾いてしまったということです。
三十九、殺されたばかりの鹿と狼の視線
佐々木君👓がまだ幼かったころ、祖父と二人で山から帰る途中のことです。
村に近い谷川の岸の上に、大きな鹿が倒れているのを見つけました。
横腹は食い破られ、殺されて間もないからでしょうか、そこからはまだ湯気が立ち上っていました。
祖父はこう言いました。
「これは、狼が食ったのだ」
そして、「この皮は欲しいけれど、御犬(狼)が必ずどこかこの近くに隠れて見ているに違いないから、取ることはできない」と言いました。
四十、狼の隠れ身
草の長さがわずか三寸(約9センチ)もあれば、狼は身を隠すことができると言われています。
草木の色が移り変わっていくにつれて、狼の毛の色もまた、季節ごとに変わっていくものなのです。
四十一、狼の大移動
和野の佐々木嘉兵衛が、ある年、境木峠にある大谷地へ狩りに行きました。
そこは、(三十二に出てきた)死助の方角から続いている原っぱです。
季節は秋の暮れ(晩秋)のことで、木の葉はすっかり散り尽くし、山の地肌もむき出しになっていました。
ふと見ると、向こうの峰から何百匹とも知れない狼が、こちらへ群れをなして走ってくるのが見えました。
嘉兵衛はあまりの恐ろしさに耐えられず、木の梢によじ登りました。
すると、その木の下を、ものすごい足音を響かせて通り過ぎ、北の方へ走り去っていきました。
その頃から、遠野郷には狼がめっきり少なくなったということです。
四十二、狼の復讐と猛者・鉄の死
六角牛山の麓に、「オバヤ」や「板小屋」と呼ばれる場所があります。そこは広い萱場になっていて、村々から人々が萱を刈りにやって来ます。
ある年の秋、飯豊村の者たちが萱を刈っていた時のこと、岩穴の中から狼の子を三匹見つけました。彼らはそのうちの二匹を殺し、一匹を生け捕りにして持ち帰りました。
するとその日から、狼は飯豊の村人たちの馬ばかりを襲うようになり、止むことがありませんでした。他の村の人や馬には、少しも危害を加えないのです。
困り果てた飯豊の人々は相談して、狼狩りをすることにしました。その中には、相撲を取っていて、日頃から力自慢の「鉄」という男がいました。
さて、野原に出てみると、雄の狼は遠くにいて近づいてきませんでしたが、一匹の雌狼が、鉄に飛びかかってきました。
鉄は着ていた「ワッポロ(仕事着)」を脱いで腕に巻き、いきなりそれを狼の口の中に突き込みました。狼はこれを噛みました。
鉄はさらに強く腕を突き入れながら人を呼びましたが、誰も彼も恐れて近寄ろうとしません。
その間に、鉄の腕は狼の腹まで入ってしまいましたが、狼も苦しまぎれに、鉄の腕の骨を噛み砕きました。
狼はその場で死にましたが、鉄もまた家に担ぎ込まれ、間もなくして息を引き取りました。
四十三、熊と格闘した男・熊
一昨年の『遠野新聞』にも、この記事が掲載されました。
上郷村に住む「熊」という名前の男が、友人と共に、ある雪の日に六角牛山へ狩りに行き、谷の深くまで入っていきました。
熊(動物の方)の足跡を見つけたので、二人は手分けをしてその跡を追うことにしました。
「熊(男の方)」が峰の方へ進んでいくと、とある岩の陰から、大きな熊がこちらを見ているのに出くわしました。
鉄砲を撃つには距離があまりにも近すぎたため、彼は銃を捨てて、とっさに熊に抱きつきました。そのまま雪の上を転がって、谷底へと落ちていきました。
連れの男は、これを助けようとしましたが、どうすることもできません。
やがて二つの熊(つまり動物の方と男の方)は谷川に落ちました。人である「熊」が獣の熊の下敷きになり、水の中に沈んでしまいました。
連れの男はその隙を逃さず、獣の熊を撃ち取りました。
「熊」は水に溺れることもなく、爪による傷は数カ所受けましたが、命に関わるようなことはありませんでした。
四十四、笛を聴きに来た猿の経立
六角牛山の峰続きに、橋野という村があり、その上の山には金山があります。
この鉱山のために炭を焼いて暮らしている男がいましたが、彼もまた、笛の名手でした。
ある日の昼間、小屋にいて、仰向けに寝転がって笛を吹いていた時のことです。
ふと、小屋の入り口に下げてある垂菰(むしろ)を、めくり上げる者がいました。
驚いて見てみると、それは猿の経立(長く生きて妖怪化した猿)でした。
恐ろしくなって起き上がると、猿はゆっくりと、向こうの方へ走り去っていきました。
📍場所は、上閉伊郡栗橋村大字橋野です。
四十五、女を盗む鎧の猿
猿の経立というものは、人間によく似ていて、女色を好み、里の女性をさらっていくことが多くあります。
彼らは松脂を体毛に塗り、その上に砂を付着させているため、その毛皮はまるで鎧のようになり、鉄砲の弾さえも通しません。
四十六、鹿笛と猿の経立
栃内村の林崎に住む某という男の話です。彼は今、五十歳近くになります。
今から十年あまり前のことです。
彼が六角牛山へ鹿を撃ちに行き、「オキ」を吹いていました。
すると、猿の経立が現れました。
猿は、笛の音を本物の鹿の声だと思ったのでしょうか、生い茂る地竹を手でかき分けながら、大きな口を開けて、嶺の方から下って来ました。
男は胆を潰して驚き、笛を吹くのをやめると、猿はやがて方向を変えて、谷の方へと走り去っていきました。
🧐「オキ」とは、鹿笛のことです。
四十七、子供への脅し文句と緒の滝
この地方では、子供を脅す時の言葉として、「六角牛の猿の経立が来るぞ」と言うのが、いつもの決まり文句になっています。
この山には、実際に猿がたくさんいます。
緒の滝を見に行くと、崖の木の梢にたくさんいて、人の姿を見ると逃げながら、木の実などを投げつけていくのです。
四十八、仙人峠の石投げ猿
仙人峠にも、たくさんの猿がいて、通りかかる人にいたずらを仕掛けたり、石を投げつけたりします。
四十九、仙人峠の堂と旅人の不思議な記録
仙人峠は、登りが十五里、下りが十五里もある長い道のりです。
その中ほどの場所に、仙人の像を祀ったお堂があります。
このお堂の壁には、旅人がこの山の中で遭遇した不思議な出来事を書き記すのが、昔からの習わしになっています。
例えば、「私は越後(新潟県)の者だが、何月何日の夜、この山道で髪を長く垂らした若い女に会った。こちらを見てにこっと笑った」というような類の話です。
また、この場所で猿にいたずらをされたとか、三人の盗賊に会ったというようなことも記されています。
😀ここで言う「一里」も、「小道」と呼ばれる、通常より短い距離単位のことです。
五十、死助山のカッコ花
死助の山には、「カッコ花」という花があります。これは遠野郷でも珍しい花だといわれています。
五月の閑古鳥(カッコウ)が鳴くころになると、女性や子供たちがこれを採りに山へ行きます。
この花は、酢の中に漬けておくと、紫色になります。それを酸漿の実のように、口に含んで鳴らして遊ぶのです。
この花を採りに行くことは、若者たちにとって、もっとも大きな楽しみでした。
五十一、悲しき鳥・オット鳥
山にはさまざまな鳥が住んでいますが、最も寂しい声で鳴くのは「オット鳥」です。この鳥は、夏の夜中に鳴きます。
海岸にある大槌の町から、駄賃付けの者などが峠を越えてやって来ると、はるか遠くの谷底で、その声を聞くといいます。
昔、ある長者の娘がいました。
また別の長者の息子と親しくなり、二人で山へ遊びに行きましたが、男の姿が見えなくなってしまいました。
娘は、夕暮れになり、夜になるまで探し歩きましたが、どうしても見つけることができず、ついにこの鳥になってしまったといいます。
「オットーン、オットーン」と鳴くのは、「夫」のことです。
語尾の方がかすれて消え入るような、哀れな鳴き声です。
五十二、馬追鳥の悲しい鳴き声
馬追鳥という鳥は、時鳥に似ていますが少し大きく、羽の色は赤茶色をしていて、肩には馬の綱のような縞模様があります。また、胸のあたりには「クツゴコ(馬の口にはめる網の袋)」のような模様があります。
この鳥もまた、元は人間でした。
ある長者の家の奉公人が、山へ馬を放牧しに行き、さて家に帰ろうとしたところ、馬が一頭足りなくなってしまいました。
一晩中その馬を探し歩きましたが、ついにこの鳥になってしまったのです。
「アーホー、アーホー」と鳴くのは、この地方で野にいる馬を追う時の掛け声です。
年によって、馬追鳥が里に降りてきて鳴くことがありますが、それは飢饉の前兆だと言われています。
深山に行けば、いつも住んでいて、その鳴き声を聞くことができます。
五十三、姉妹が化けた郭公と時鳥
郭公と時鳥は、昔は人間の姉妹でした。
姉である郭公が、ある時、芋を掘って焼き、その周りの堅いところを自分で食べて、中の軟らかいところを妹に与えました。
妹は、「姉さんは自分でおいしいところを食べているに違いない」と思い込み、包丁で姉を殺してしまいました。
すると、姉はたちまち鳥になり、「ガンコ、ガンコ」と鳴いて飛び去りました。「ガンコ」とは、この地方の方言で「堅いところ」という意味です。
妹は、「姉さんは私に良いところだけをくれていたのだ」と気づき、後悔に耐えきれず、やがて自分もまた鳥(時鳥)になり、「包丁かけた、包丁かけた」と鳴くようになりました。
そのため遠野では、時鳥のことを「包丁かけ」と呼んでいます。
ちなみに盛岡あたりでは、時鳥は「どちゃへ飛んでた(どこへ飛んでいった)」と鳴くと言われています。
🤤この芋は馬鈴薯のことです。
五十四、淵の底の家と破られた約束
閉伊川の流れには深い淵が多く、恐ろしい伝説も少なくありません。
小国川との合流点に近いところに、川井という村があります。
その村の長者の奉公人が、ある淵の上にある山で木を切っていた時、うっかり斧を水の中に落としてしまいました。主人の道具なので失くすわけにもいかず、淵に潜って探していると、水の底へ入っていくにつれて物音が聞こえてきました。
音を頼りに行ってみると、岩の陰に家がありました。
その奥の方で、美しい娘が機を織っていました。その「ハタシ(機織り機の部品)」に、落とした斧が立てかけてありました。
斧を返してほしいと頼むと、娘が振り返りました。その顔を見ると、二、三年前に亡くなったはずの、自分の主人の娘でした。
「斧はお返ししますから、私がここにいることは誰にも言わないでください。そのお礼として、あなたがお金持ちになり、奉公をしなくても済むようにしてあげましょう」娘はそう言いました。
そのためかどうかは分かりませんが、その後、この男は「胴引」などの博打に不思議と勝ち続け、お金が貯まりました。ほどなくして奉公をやめ、自分の家を持って、中流の農民として暮らせるようになりました。
しかし、この男はひどく忘れっぽい性格でした。娘に言われたこともすっかり忘れていたある日、町へ行こうとして同じ淵のほとりを通りかかった時、ふと前の出来事を思い出しました。
そして、連れの者に「以前、ここでこんなことがあった」と語ってしまったのです。
やがてその噂は近隣の村々に伝わりました。
その頃から男の家は再び傾き始め、また昔の主人に奉公して年月を送ることになりました。
一方、家の主人は何と思ったのか、その淵に何杯もの熱湯を注ぎ込んだりしましたが、何の効果もなかったということです。
📍場所は、下閉伊郡川井村大字川井です。「川井」という地名は、もちろん「川合(川が合流する場所)」という意味でしょう。
五十五、河童の子を産んだ家
川には河童が多く住んでいます。特に猿ヶ石川には多いそうです。
松崎村の川沿いにある家で、二代続けて河童の子を孕んだ者がいます。
生まれた子は、切り刻んで一升樽に入れ、土の中に埋めました。
その姿は、極めて醜怪(醜く気味が悪いもの)だったといいます。
その女性の婿の実家は、新張村の某という家で、ここも川沿いの家です。その主人が、事の始終を人に語ってくれました。
ある日、その家の者が皆で畑仕事に行き、夕方に帰ろうとすると、その女が川の汀(水際)にうずくまって、ニコニコと笑っていました。
次の日も、昼休みに同じことがありました。
こうしたことが何日も重なるうちに、次第に「その女のところへ、村の誰それが夜な夜な通っている」という噂が立ちました。
最初は、婿が海岸の方へ駄賃付けに行って留守の時だけを狙って来ていましたが、後には婿と一緒に寝ている夜でさえ、やって来るようになりました。
相手は河童に違いないという評判がだんだん高くなったので、一族の者が集まって女を守りましたが、なんの甲斐もありませんでした。
婿の母も行って、娘の隣に寝てみましたが、深夜に娘の笑う声を聞き、「さては来ているな」と知りながらも、(金縛りにあったように)身動き一つ取れませんでした。人々はどうすることもできませんでした。
出産は極めて難産でしたが、ある者が言うには、「馬槽(馬の飼い葉桶)に水を満たして、その中で産ませれば安産になるだろう」とのことでした。そこで試してみたところ、果たしてその通りになりました。
生まれた子の手には、水掻きがありました。
この娘の母親もまた、かつて河童の子を産んだことがあるといいます。二代や三代だけの因縁ではないと言う人もいます。
この家も、道理にかなった豪家で、某という士族です。村会議員をしたこともありました。
五十六、見世物にしようとした河童の子
上郷村の某という家でも、河童らしきものの子を産んだことがありました。
(前の話のような手足の水掻きといった)確かな証拠というわけではありませんが、体中が真っ赤で、口が大きく、本当に嫌な感じの子供でした。
忌まわしいので捨ててしまおうと、これを連れて「道ちがえ」まで持って行き、そこに置いて一間(約1.8メートル)ほど離れました。
しかし、そこでふと思い直しました。「惜しいことをした。売って見世物にすれば、金になるはずだ」
そう考えて引き返しましたが、早くも何者かに取り隠されてしまったのか、姿が見えなくなっていたということです。
🙁「道ちがえ」とは、道が二つに分かれるところ、すなわち追分のことです。
五十七、河童の足跡
川岸の砂の上で、河童の足跡を見ることは、決して珍しいことではありません。
雨の日の翌日などは、特によく見かけます。
その形は、猿の足と同じように、親指が離れていて、人間の手の跡によく似ています。
長さは三寸(約9センチ)にも足りません。
指先の跡は、人間のものほどはっきりとは見えないということです。
五十八、馬に引きずられた河童
小烏瀬川の姥子淵のほとりに、「新屋の家」という家があります。
ある日、淵へ馬を冷やしに行かせた時のことです。馬曳きの子供がよそへ遊びに行っている隙に、河童が出てきて、その馬を川へ引き込もうとしました。
ところが、かえって馬に引きずられて厩の前まで来てしまい、馬槽(飼い葉桶)を被って隠れていました。
家の者が、馬槽が伏せてあるのを怪しんで少し開けて見てみると、河童の手が出てきました。
村中の者が集まって、「殺そうか、宥そうか」と評議しましたが、結局、「今後は村中の馬に悪戯をしない」という固い約束をさせて、これを放してやりました。
その河童は、今は村を去って相沢の滝の淵に住んでいるということです。
🤔この類の話は全国に満ちています。いやしくも河童がいるという土地には、必ずこの話があります。なぜでしょうか。
五十九、赤い顔の河童
他の地方では、河童の顔は青いと言われているようですが、遠野の河童は顔の色が赤いのです。
佐々木君👓の曾祖母が、まだ幼かったころ、友達と庭で遊んでいた時のことです。
三本ほどある胡桃の木の間から、真っ赤な顔をした男の子が顔をのぞかせているのが見えました。
これが河童だったということです。
今もその胡桃は、大木となって残っています。
この家の屋敷の周りは、すべて胡桃の木で囲まれています。
六十、狐に土を詰められた鉄砲
和野村の嘉兵衛爺が、雉子小屋(雉を捕るために待ち伏せする小屋)に入って、獲物を待っていた時のことです。
狐がたびたび現れては、雉子を追い回して邪魔をします。
あまりにも憎らしいので、この狐を撃ってやろうと思って狙いを定めましたが、狐はこちらを向いて、何ともないような平気な顔をしていました。
そこで引金を引きましたが、火が移らず、弾が出ません。
胸騒ぎがして銃を調べてみると、筒口(銃口)から手元のところまで、いつの間にかびっしりと土が詰め込まれていました。
六十一、白鹿と黄金の弾丸
(前の話と)同じ人が、六角牛山に入って、白い鹿に出会いました。
昔から「白鹿は神様だ」という言い伝えがあるので、「もし傷つけるだけで殺せなかったら、必ず祟りがあるだろう」と考えました。
しかし、彼は名誉ある猟師ですから、世間の人々に嘲られるのを嫌い、思い切ってこれを撃ちました。
手応えはありましたが、鹿は少しも動きません。
この時もひどく胸騒ぎがして、普段から魔除けとして、いざという時のために用意していた黄金の弾丸を取り出し、これに蓬を巻きつけて撃ち放ちました。
それでも鹿は動きません。あまりに怪しいので近づいて見てみると、よく鹿の形に似た白い石でした。
数十年の間、山の中で暮らしている者が、石と鹿を見間違えるはずもありません。「これは全く魔障(魔物)の仕業だ」と思い、この時ばかりは猟師を辞めようと思ったそうです。
六十二、空を飛ぶ僧と猟師の業
また、先と同じ人が、ある夜、山中で小屋を作る暇がなくて、とある大木の下に身を寄せました。
魔除けの「サンズ縄」を、自分と木の周りに三囲り引き巡らし、鉄砲を縦に抱えてうとうとしていました。
夜も更けたころ、物音がするので気がつくと、大きな僧形(僧侶の姿)の者が、赤い衣を羽のように羽ばたかせて、その木の梢に覆いかかってきました。
「すわ(大変だ)」と思って銃を撃ち放つと、やがてまた羽ばたきをして空へ飛び去っていきました。この時の恐ろしさも、並大抵のものではありませんでした。
前後三回もこのような不思議な目に遭い、そのたびに鉄砲を辞めようと心に誓い、氏神様に願掛けなどもしましたが、やがてまた思い直して、年を取るまで猟師の仕事を捨てることができなかった、とよく人に語っていました。
六十三、不思議な家・マヨイガ
小国の三浦某といえば、村一番のお金持ちです。
今から二、三代前の主人の頃は、まだ家は貧しく、その妻は少し魯鈍(ぼんやりとした人)でした。
ある日、この妻が家の門の前を流れる小川に沿って、蕗を採りに入りましたが、良いものが少なかったので、だんだんと谷の奥深くまで登っていきました。
さて、ふと見ると、立派な黒い門の家があります。
不審に思いながらも門の中に入ってみると、大きな庭には紅白の花が一面に咲き、鶏がたくさん遊んでいました。
その庭を裏の方へ回ってみると、牛小屋があって牛がたくさんおり、馬小屋には馬がたくさんいましたが、人の姿は全くありません。
ついに玄関から上がってみると、その次の間には朱塗りや黒塗りの膳や椀がたくさん取り出してありました。奥の座敷には火鉢があって、鉄瓶のお湯が沸いているのが見えました。
それでもやはり人影はないので、「もしや山男の家ではないか」と急に恐ろしくなり、駆け出して家に逃げ帰りました。
このことを人に話しても、本当だと思う人はいませんでしたが、またある日、自分の家の「カド」に出て物を洗っていると、川上から赤い椀が一つ流れてきました。
あまりに美しいので拾い上げましたが、これを食器に使ったら「汚い」と人に叱られるのではないかと思い、「ケセネギツ」の中に置いて、穀物を量る器として使いました。
ところが、この器で量り始めてからというもの、いつまで経っても穀物が尽きないのです。
家族もこれを怪しんで女に問い詰めた時、初めて川から拾ったことを話しました。
この家はこれより幸運に恵まれ、ついに現在の三浦家となりました。
遠野では、山中の不思議な家のことを「マヨイガ」と言います。
マヨイガに行き当たった者は、必ずその家の中の什器(道具)や家畜など、何でもいいから持ち出してくるべきだと言われています。その人に福を授けるために、このような家を見せるのだからです。
あの女が無欲で、何も盗んでこなかったからこそ、この椀が自ら流れてきたのだろう、と言われています。
🙂「カド」とは門のことではありません。「川戸(かわと)」のことで、門前を流れる川岸に、水を汲んだり物を洗ったりするために家ごとに設けた場所のことです。)
😌「ケセネ」とは米や稗などの穀物のことです。「キツ」はその穀物を入れる箱のことで、大小さまざまなキツがあります。
六十四、もう一つのマヨイガと消えた門
金沢村は白望山の麓にあり、上閉伊郡の中でもとりわけ山奥にあって、人の往来が少ない場所です。
六、七年前のこと、この村から、栃内村の山崎にある某の家へ、娘の婿をとりました。
この婿が、金沢村の実家へ行こうとして山道に迷い、またしても、この「マヨイガ」に行き当たりました。
家の様子や、牛や馬が多いこと、紅白の花が咲き乱れていることなど、すべて前の話の通りでした。
同じように玄関に入ると、膳や椀を取り出してある部屋がありました。座敷には鉄瓶のお湯が沸いていて、今まさに茶を入れようとしているところのように見え、どこか便所のあたりに人が立っているようにも思われました。
男は茫然としていましたが、後になってだんだんと恐ろしくなり、引き返して、ついに小国の村里へ出ました。
小国では、この話を聞いて本当のことだと思う者はいませんでしたが、山崎の方(婿の今の家)では、「それはマヨイガに違いない。行って膳や椀の類を持ってきて、長者になろう」ということになりました。
そこで婿殿を先頭に立てて、大勢でこれを探しに山奥へ入りました。
「ここに門があったはずだ」という場所に来ましたが、目に見えるものは何もなく、一行はむなしく帰ってきました。
その婿も、ついに金持ちになったという話は聞きません。
📍場所は、上閉伊郡金沢村です。
六十五、安倍ヶ城と貞任の母
早池峰山は、全体が御影石でできた山です。
この山の、小国の集落に面した側に、「安倍ヶ城」と呼ばれる大岩があります。
それは険しい崖の中ほどにあって、人間などは到底たどり着けるような場所ではありません。
ここには今でも、昔の武将・安倍貞任の母が住んでいると言い伝えられています。
雨が降りそうな夕方などには、この岩屋の扉を鎖す音が聞こえてくるといいます。
そのため、小国や附馬牛の人々は、「安倍ヶ城の錠の音がしたから、明日は雨になるだろう」などと語り合っているのです。
六十六、安倍屋敷と八幡太郎の塚
同じ早池峰山の、附馬牛村からの登り口にもまた、「安倍屋敷」と呼ばれる巌窟があります。
とにかく、早池峰山は、安倍貞任にゆかりの深い山なのです。
また、小国村から登る山口にも、八幡太郎(源義家)の家来が討ち死にしたのを埋めたという塚が、三つほどあります。
六十七、貞任高原の伝説
安倍貞任に関する伝説は、このほかにも数多くあります。
土淵村と、昔は橋野といった栗橋村との境あたりで、山口から二、三里(約8〜12キロメートル)も登った山の中に、広くて平らな原野があります。
そのあたりの地名に、「貞任」という場所があります。
そこには沼があって、貞任が馬を冷やしたところだと言われています。
また、貞任が陣屋を構えた跡だとも伝えられています。
大変景色の良い場所で、ここからは東の海岸がよく見えます。
六十八、安倍貞任の末裔と地名の由来
土淵村には安倍氏という家があり、昔の武将・安倍貞任の末裔だと言われています。
昔はたいそう栄えた家でした。今でも屋敷の周囲には堀があって水を引いています。刀剣や馬具も数多く残されています。
当主は安倍与右衛門といい、今も村では二、三番目の資産家で、村会議員を務めています。
安倍氏の子孫はこのほかにも多くいます。盛岡の安倍館の近くにも住んでいます。そこはかつての厨川の柵(砦)に近い場所です。
土淵村の安倍家の屋敷から四、五町(約400〜500メートル)ほど北へ行った、小烏瀬川の川曲がりに、館の跡があります。「八幡沢の館」と呼ばれています。八幡太郎(源義家)が陣屋を置いたというのはここです。
ここから遠野の町へ向かう道沿いには、「八幡山」という山があり、その山の峰のうち、さきほどの八幡沢の館の方を向いている峰にも、もう一つの館跡があります。これが貞任の陣屋だったと言われています。
二つの館の間は二十町(約2キロメートル)余り離れています。
ここで矢戦をしたという言い伝えがあり、実際に矢の根(矢尻)がたくさん掘り出されたことがありました。
この二つの館の間に、似田貝という集落があります。
戦があった当時、このあたりは蘆が茂っていて地盤が固まっておらず、地面がユキユキと揺れ動いていました。
ある時、八幡太郎がここを通った際に、敵か味方かどちらかの兵糧でしょうか、粥がたくさん置いてあるのを見て、「これは煮た粥か」と言ったことから、村の名前になったといいます。
似田貝村の外を流れる小川を鳴川といいます。この川を隔てて足洗川村があります。鳴川で義家が足を洗ったことから、この村の名前になったといいます。
🫡「ニタカイ」という名は、アイヌ語の「ニタト」、すなわち湿地という意味から来たものでしょう。地形ともよく合っています。西日本の国々でも「ニタ」とか「ヌタ(泥)」というのは皆これと同じです。下閉伊郡小川村にも「二田貝」という字(地名)があります。
六十九、オシラサマの起源・娘と馬の恋
今の土淵村には、「大同」と呼ばれる家が二軒あります。
山口集落の方の大同は、当主を大洞万之丞といいます。
この人の養母の名前は「おひで」と言い、八十歳を超えて今も元気です。佐々木君👓の祖母の姉にあたる人です。
彼女は魔法(まじない)が得意でした。まじないの力で蛇を殺したり、木に止まっている鳥を落としたりするのを、佐々木君はよく見せてもらっていたそうです。
昨年の旧暦一月十五日に、この老女が語った話は次のようなものでした。
昔、あるところに貧しい百姓がいました。妻はいませんでしたが、美しい娘がいました。また、一匹の馬を飼っていました。
娘はこの馬を愛し、夜になると厩に行って寝るようになり、ついには馬と夫婦になってしまいました。
ある夜、父親はこのことを知ってしまいました。
その次の日、父は娘には知らせずに、馬を連れ出して桑の木に吊り下げて殺してしまいました。
その夜、娘は馬がいないので父に尋ねてこの事を知り、驚き悲しんで桑の木の下へ行きました。そして、死んだ馬の首にすがりついて泣いていました。
父はこれを見て憎らしく思い、斧を持って後ろから馬の首を切り落としました。
すると、たちまち娘はその首に乗ったまま、天に昇り去ってしまったのです。
「オシラサマ」というのは、この時から生まれた神様です。
馬を吊り下げた桑の枝で、その神様の像を作ります。その像は三つありました。
木の本(根元)の方で作った像は、山口の大同の家にあります。これを「姉神」とします。
木の中(真ん中)で作った像は、山崎の在家権十郎という人の家にあります。ここは佐々木君の伯母が嫁いだ家ですが、今は家系が絶えてしまい、神様の行方は分かりません。
木の末(先端)で作った「妹神」の像は、今、附馬牛村にあると言われています。
七十、オクナイサマの姿と祀られ方
(前の話と同じ)おひでさんの話によると、オクナイサマは、オシラサマが祀られている家には、必ず一緒にいらっしゃる神様だそうです。
けれども、オシラサマはいなくて、オクナイサマだけがいらっしゃる家もあります。
また、家によってその神様の像(形)も同じではありません。
山口の「大同」の家にあるオクナイサマは、木像です。
山口の辷石たにえという人の家にあるのは、掛軸です。
(十五などに登場した)「田圃の家」にいらっしゃるのは、やはり木像です。
飯豊の大同の家にも、オシラサマはいませんが、オクナイサマだけはいらっしゃるということです。
七十一、老女の秘密の信仰
この話(六十九、七十)をしてくれた老女は、熱心な念仏者ですが、世間一般のそれとは様子が異なり、一種の邪宗(異端の宗教)のような信仰を持っています。
信者同士で教えを伝え合うことはあっても、互いに厳重に秘密を守り、その儀式の作法については、たとえ親や子であっても、少しも知らせることはありません。
また、寺院とも僧侶とも全く関係がなく、在家(出家していない一般人)の者だけの集まりです。その人数も多くはありません。
(七十に出てきた)辷石たにえという婦人などは、同じ仲間です。
阿弥陀仏の斎日(縁日)には、真夜中に人が寝静まるのを待って集まり、隠された部屋で祈祷を行います。
彼女たちは、魔法やまじないを得意とするため、村の人々に対して一種の権威を持っています。
七十二、子供と遊ぶ神・カクラサマ
栃内村の琴畑という地域は、深い山の沢にあります。家の数はわずか五軒ほどで、小烏瀬川の支流の水上(上流)にあたります。
ここから栃内の人里までは、二里(約8キロメートル)も離れています。
琴畑の入口に塚があります。その塚の上には、木でできた座像があります。
大きさは大体、人間と同じくらいで、以前はお堂の中にありましたが、今は雨ざらしになっています。
これを「カクラサマ」と呼んでいます。
村の子供たちは、これを遊び道具にして、引っ張り出して川へ投げ込んだり、また道の上を引きずり回したりするので、今では鼻も口もすり減って見えなくなってしまいました。
もし、大人が子供を叱ってこれを止めさせようとすると、かえって祟りを受けて病気になることがあるといいます。
☺️御神体や仏像が子供と遊ぶのを好み、これを止めさせるとお怒りになるという例は、他にも多くあります。遠江(静岡県西部)小笠郡大池村東光寺の薬師仏(『掛川志』)、駿河(静岡県中部)安倍郡豊田村曲金の軍陣坊社の神(『新風土記』)、または信濃(長野県)筑摩郡射手の弥陀堂の木仏(『信濃奇勝録』)などがそれにあたります。
七十三、忘れられた神・カクラサマの像
カクラサマの木像は、遠野郷の中に数多くあります。
栃内の西内という字(あざ)にもあります。
また、山口地区の大洞というところにも、かつてあったことを覚えている人がいます。
カクラサマは、これを信仰する人は誰もいません。
粗末な彫刻で、衣裳や頭の飾りの様子も、はっきりしないほどです。
七十四、カクラサマの正体と名前の意味
栃内にあるカクラサマは、(七十二で触れた)大小二つの像です。
土淵村全体では、三つか四つほどあります。
どこのカクラサマも、木の半身像で、鉈で荒削りにしただけの、無骨で不格好なものです。
それでも、人の顔だということだけは分かります。
「カクラサマ」とは、以前は神々が旅をして休息される「場所」の名前でしたが、やがてその地に常にいらっしゃる神様のことを、そう呼ぶようになったものです。
七十五、離森の笑う女と神隠し
離森にある「長者屋敷」には、この数年前まで、燐寸の軸木を作る工場がありました。
その工場の小屋の入り口に、夜になると女が近寄ってきて、中の人を見ては「げたげた」と笑うことがありました。
あまりの気味の悪さと寂しさに耐えられず、ついに工場を(人里に近い)山口地区へ移してしまいました。
その後、また同じ山中に、今度は鉄道の枕木を切り出すための小屋を建てた者がいました。
ところが、夕方になると人夫たちがどこかへ迷い出てしまい、帰ってきてからは、茫然として使い物にならないということが度々ありました。
そのような人夫が四、五人もいて、その後も絶えずどこかへ出て行ってしまうことがありました。
この者たちが後に語ったことを聞けば、「女がやって来て、どこかへ連れ出すのだ」ということでした。
帰ってきてからは、二日も三日も、記憶がなくなっていたといいます。
七十六、糠森の由来と黄金伝説
「長者屋敷」とは、昔、長者が住んでいた跡地だということです。
そのあたりに、「糠森」という山があります。これは、長者の家から捨てられた米糠が積もり積もって、山になったものだと言われています。
この山の中には、「五つ葉の卯木」という木があり、その下には黄金が埋めてあるという言い伝えがあります。
そのため、今でもその卯木のありかを探して歩く者が、稀にいます。
この長者というのは、昔の金山師(鉱山採掘や精錬を行う技術者)だったのでしょうか。このあたりには、鉄を精錬した時に出る滓(スラグ)が残っています。(かつて栄えた)恩徳の金山も、ここから山続きで、そう遠くはありません。
😁全国各地にある「糠塚(ぬかづか)」や「すくも塚」という地名の場所には、多くの場合、これと同じような長者伝説が伴っています。また、黄金埋蔵の伝説も、諸国に限りなく多く存在します。
七十七、葬式の夜の不気味な男
山口の田尻長三郎という人は、土淵村で一番の資産家です。
この家の当主である老人が語った話です。
この人が四十歳を過ぎた頃のこと、(六十九)おひで婆さんの息子が亡くなり、その葬式がありました。
その夜、集まった人々が念仏を終えて、それぞれ帰っていった後のことです。彼は話好きだったので、少し遅くまで残ってから外に出ました。
すると、軒下の雨だれが落ちる場所にある石を枕にして、一人の男が仰向けに寝ていました。
よく見れば、見知らぬ顔で、死んでいるようにも見えます。
月の出ている夜だったので、その光で見てみると、膝を立てて、口を開けていました。
この長三郎という人は胆力のある大胆な性格だったので、足でその男を揺り動かしてみましたが、少しも身じろぎしません。
道を塞いでいて、どうしようもないので、ついにその男を跨いで家に帰りました。
次の朝、行って見てみると、もちろんその男の姿も形もありませんでした。また、他にこれを見たという人もいませんでした。
ただ、男が枕にしていた石の形と場所だけは、昨夜見覚えた通りのままでした。
長三郎氏はこう言っています。
「手をかけて触ってみればよかったのだが、半分は恐ろしかったので、ただ足で触れただけだった。だから、あれが一体何の仕業だったのか、今もって見当がつかない」
七十八、垣根を透り抜けた雪合羽の男
(前の話と同じ)田尻長三郎さんの話です。
この家に奉公していた、山口の長蔵という男の話ですが、彼は今も七十歳過ぎの老人として健在です。
かつて、彼が夜遊びに出かけて、遅くに帰ってきた時のことです。
主人の家の門は、大槌への街道に面して立っていますが、この門の前で、海岸の方角から歩いてくる人に会いました。その人は、雪合羽(防寒・防水用の藁蓑)を着ていました。
その人が近づいてきて、ふと立ち止まったので、長蔵も不審に思って相手を見ました。
するとその人は、街道を隔てた向かい側の、畑の方へスッとそれて行ってしまいました。
「あそこには、垣根があるはずだが……」そう思ってよく見れば、やはり垣根はちゃんとあります。(男はその垣根をすり抜けて消えてしまったのです。)
長蔵は急に恐ろしくなって、家の中に飛び込み、主人にこの事を話しました。
後になって聞いたところでは、ちょうどこれと同じ時刻に、新張村の某という人が、浜からの帰り道で馬から落ちて死んだということです。
七十九、巨大な目玉の怪異
この長蔵の父親も、名前を長蔵といいます。代々田尻家に仕える奉公人で、妻と共に住み込みで働いていました。
彼が若かったころ、夜遊びに出かけ、まだ宵のうち(それほど遅くない時間)に帰ってきた時のことです。
門の入り口から入ると、洞前(前庭)に立っている人影がありました。
その人物は懐手をして、筒袖(袖の狭い着物)の袖口をだらりと垂れ下げており、顔はぼんやりとしてよく見えません。
妻の名をおつねと言いました。長蔵は、「おつねの所へ通ってきた『ヨバヒト』ではないか」と疑いました。そこで、つかつかと近寄ってみましたが、男は奥の方へ逃げようとはせず、かえって右手にある玄関の方へ寄ってきます。
長蔵は「人を馬鹿にするな」と腹立たしくなり、さらに詰め寄りました。
すると男は、懐手をしたまま後ずさりをして、わずか三寸(約9センチ)ほど開いていた玄関の戸の隙間から、スッと中へ入ってしまいました。
それでも長蔵はまだ不思議だとも思わず、その戸の隙間に手を差し入れて中を探ってみましたが、中の障子はきっちりと閉ざされています。
ここに至って初めて恐ろしくなり、少し引き下がろうとしてふと上を見上げました。
すると、さっきの男が玄関の雲壁(なげし上の壁)にピタリと張り付き、自分を見下ろしているではありませんか。
その首は低く垂れ下がり、長蔵の頭に触れるほど近くにありました。そして、その眼球は一尺(約30センチ)余りも、飛び出しているように見えました。
この時は、ただ恐ろしかったというだけで、特に何かの前兆というわけではありませんでした。
🤫「ヨバヒト」とは「呼ばい人」のことでしょう。女性のもとへ思いを伝えに通う人のことをこう言います。
🙂「雲壁」とは、長押の上側の壁のことです。
八十、遠野の家の造りと座頭部屋
前(七十九)の話をよく理解するためには、田尻氏の家の様子を図にする必要があります。
遠野郷の家の建て方は、どこもこれと大体同じようなものです。
この家の門は北向きですが、通常は東向きです。(通常の家では)図でいうと厩のあるあたりに門があります。
門のことを「城前」といいます。
屋敷の周りは畑になっていて、塀や垣根は設けていません。
主人の寝室と「ウチ(囲炉裏のある居間)」との間に、小さくて暗い部屋があります。これを「座頭部屋」といいます。
昔は家で宴会があると、必ず座頭(盲目の音楽家や按摩師など)を呼びました。ここは、彼らを待たせておくための部屋です。
🙂この地方を旅行して最も心に留まるのは、家の形がどれも「かぎの手」(L字型)になっていることです。この家などはその良い例です。
八十一、雲壁に張り付く蒼ざめた男
栃内の野崎という地区に、前川万吉という人がいました。この人は二、三年前に、三十歳過ぎで亡くなりました。
この人もまた、亡くなる二、三年前に、夜遊びに出かけて帰宅した時のことです。
門の入り口から、家の周りの廻り縁に沿って歩き、その角まで来た時でした。旧暦六月の月夜の晩のことです。
何気なく、ふと雲壁(長押の上の壁)を見上げると、そこにピタリと張り付いて寝ている男がいました。
その顔色は、青ざめていました。
万吉は非常に驚いて病気になってしまいましたが、これも(七十九の時と同様に)特に何かの前兆というわけではありませんでした。
😧(七十七の語り手である)田尻氏の息子の丸吉が、この人とは親しい間柄だったので、この話を直接聞いたのです。
八十二、手の上に重なる幽霊
これは、(先の)田尻丸吉という人が、自ら体験したことです。
彼がまだ少年だった頃、ある夜、常居(居間)から立って便所へ行こうとし、隣の茶の間へ入った時のことです。
奥にある座敷との境目のところに、人が立っていました。
姿は幽かでぼんやりとしてはいましたが、着ている服の縞模様や、目鼻立ちはよく見え、髪を長く垂らしていました。
恐ろしかったのですが、そこへ手を伸ばして探ってみると、「ガタッ」と板戸に突き当たり、戸の桟にも触れました(そこに実体はありませんでした)。
しかし不思議なことに、伸ばした自分の手は見えず、その手の上に影のように重なって、人の形が見え続けているのです。
その幽霊の顔のあたりへ手を差し出してみても、やはり手の上に顔が見えるのでした。
常居へ逃げ帰って家族に話し、行灯を持って見に行きましたが、すでにもう何者もいませんでした。
この丸吉氏は、近代的で怜悧(賢く理知的)な人物です。また、嘘をつくような人でもありません。
八十三、大同家の特異な造りと開かずの葛籠
山口の「大同」こと、大洞万之丞の家の建て方は、少し他の家とは変わっています。その図を掲載します。
玄関は巽(南東)の方角を向いています。きわめて古い家です。
この家には、「取り出して見ると祟りがある」と言って、決して開けることのない古文書の入った葛籠が一つあります。
八十四、海岸の異人と隠れ耶蘇
佐々木君👓の祖父は、三、四年前に七十歳ばかりで亡くなった人です。
この人が青年だった頃といえば、嘉永(1848〜1854年)の頃にあたるでしょうか。
その頃、海岸の地域には、西洋人が大勢住んでいました。
釜石にも、山田にも、西洋館(洋館)がありました。船越半島の突端にも、西洋人が住んでいたことがありました。
耶蘇教(キリスト教)が密かに行われており、遠野郷でも、これを信仰して磔になった者がいました。
浜へ行った人の話として、「異人はよく抱き合っては、嘗め合う(キスをする)ものだ」などということを、今でも話の種にする老人がいます。
海岸地方には、合いの子(混血児)が、なかなか多かったということです。
八十五、柏崎の白子
土淵村の柏崎という集落には、両親とも間違いなく純粋な日本人でありながら、「白子(アルビノ)」の子供が二人いる家があります。
その容姿は、髪も肌も目の色も、まるで西洋人のようです。
年齢は今、二十六、七歳くらいでしょう。家で農業を営んでいます。
言葉の発音も土地の人とは同じではなく、声は細くて鋭い感じです。
八十六、工事現場に現われた父の霊
土淵村の中心部で、役場や小学校などがある場所を、字本宿といいます。
ここに、豆腐屋を営む「政」という男がいて、年は今、三十六、七歳といったところです。
この政の父親が、大病を患って今にも死にそうだという頃のことです。
この村とは小烏瀬川を挟んで反対側にある下栃内という地区で、普請(建築工事)がありました。
建物の基礎の地固めをする「堂突き」を行っているところへ、夕方になって、政の父親がたった一人でやって来て、人々に挨拶をしました。
そして、「俺も堂突きをやらなきゃならん」と言って、しばらくの間、仲間に加わって仕事をし、あたりが少し暗くなると、皆と一緒に帰っていきました。
後になって、人々は、「あの人は大病で寝込んでいるはずなのに」と、少し不思議に思っていましたが、その後、父親がその日に亡くなったことを聞かされました。
人々がお悔やみに行き、今日の出来事を話したところ、その時刻は、ちょうど病人が息を引き取ろうとしていた頃だったということです。
八十七、畳の隙間に消えた茶
その人の名前は忘れてしまいましたが、遠野の町の豪家(金持ちの家)で、主人が大病を患い、生死の境をさまよっていた頃のことです。
ある日、その主人がふらりと菩提寺へ訪ねてきました。
和尚は彼を鄭重にもてなし、茶などを勧めました。
しばらく世間話をして、やがて帰ろうとしましたが、その様子に少し不審な点があったので、和尚は小僧をやって、その後をつけさせました。
主人は門を出て、自分の家の方へ向かい、町の角を曲がったところで見えなくなりました。
その道中で、この人に会ったという人は他にもいました。
誰にでも丁寧に挨拶をして、いつもと変わらぬ様子でしたが、彼はその晩に亡くなりました。もちろん、寺に来たその時刻には、外出などができるような病状ではありませんでした。
後になって、寺では「あのお茶は飲んだのだろうか、どうだろうか」と思い、彼が茶碗を置いた場所を改めて見てみました。
すると、茶はすべて畳の敷合わせ(畳と畳の継ぎ目)へ、こぼしてありました(飲んだように見せかけて、実は体が透けていたためか、そこに捨てていったのか、中身だけが下に落ちていたのです)。
八十八、常堅寺の怪異と畳の間の茶
これも(前の話と)似た話です。
土淵村大字土淵にある常堅寺は曹洞宗のお寺で、遠野郷にある十二の寺の触頭(寺社奉行ごとのまとめ役となる寺)を務めています。
ある日の夕方のこと、村人の某という者が、本宿から来る道で、某という老人に出会いました。
この老人は以前から大病を患っている人だったので、「いつの間に良くなったのですか」と尋ねると、「二、三日前から気分も良いので、今日は寺へ話を聞きに行くのだ」と答えました。二人は寺の門の前でまた言葉を交わして別れました。
常堅寺でも、和尚はこの老人が訪ねて来たので出迎え、お茶を勧めてしばらく話をしてから帰しました。
この時も、小僧に見送らせたところ、門の外に出たかと思うと姿が見えなくなってしまいました。
驚いて和尚に報告し、よく見てみると、やはりお茶は畳の隙間にこぼしてあり、その老人はその日のうちに亡くなりました。
八十九、愛宕山の赤い顔の山の神
山口から柏崎へ行くには、愛宕山の裾を回っていきます。
田圃に続く松林があって、柏崎の人家が見えるあたりから、雑木林になります。
愛宕山の頂上には小さな祠があり、参詣するための道が林の中に通っています。
その登り口には鳥居が立っていて、二、三十本の杉の古木があります。その傍らにはまた、一つのがらんとしたお堂があります。堂の前には「山神」の文字を刻んだ石塔が立っています。
ここは昔から、山の神が出ると言い伝えられている場所です。
和野の某という若者が、柏崎に用事があって、夕方にこの堂のあたりを通りかかりました。
すると、愛宕山の上から降りてくる、背の高い人がいました。
「誰だろう」と思い、林の木越しにその人の顔のあたりを目がけて歩み寄っていくと、道の曲がり角で、ハタと鉢合わせになりました。
先方は、人がいるとは思っていなかったのでしょう。大いに驚いてこちらを見たその顔は、非常に赤く、目は耀いていて、いかにも驚いたという表情をしていました。
若者は「山の神だ」と悟り、後ろも振り返らずに柏崎の村まで走り込みました。
😲遠野郷には「山神塔」が多く立っていますが、その場所は、かつて山神に出会ったり、または山神の祟りを受けたりした場所で、神をなだめるために建てた石塔なのです。
九十、天狗森の怪異と引き裂かれた若者
松崎村に「天狗森」という山があります。
その麓にある桑畑で、村の某という若者が働いていましたが、ひどく眠くなったので、しばらく畑の畔(あぜ)に腰掛けて居眠りをしようとしました。すると、きわめて大きな体をした、顔が真っ赤な男が現れました。
若者は気さくな性格で、日頃から相撲などが好きな力自慢の男でした。そのため、この見慣れない大男が立ちはだかって、上から自分を見下ろしているのを不愉快に思い、思わず立ち上がって、「お前はどこから来た」と問いました。しかし、男は何の答えもしません。
そこで、一つ突き飛ばしてやろうと思い、自慢の力に任せて飛びかかり、手を掛けたかと思うと、かえって自分の方が飛ばされてしまい、気を失ってしまいました。
夕方になって気がついてみると、もちろんその大男はいません。家に帰ってから、人々にこの出来事を話しました。
その年の秋のことです。
早池峰山の山腹へ、村の人々と大勢で馬を引いて、萩を刈りに行きました。さて帰ろうという頃になって、この男だけ姿が見えません。
皆が驚いて探したところ、深い谷の奥で、手も足も一本一本引き抜かれて死んでいました。
これは今から二、三十年前のことで、この時のことをよく知っている老人が今も生きています。
天狗森には天狗が多くいるということは、昔から人々の知っていることです。
九十一、鳥御前の死と続石の怪異
遠野の町に、山のことに非常に詳しい人がいました。もとは南部男爵家の鷹匠をしていた人です。
町の人からは、綽名で「鳥御前」と呼ばれていました。
早池峰山や六角牛山の木や石など、すべての形状と場所を知り尽くしていました。
年を取ってからのこと、茸採りに行こうと、一人の連れと共に出かけました。
この連れの男というのは水練(水泳)の名人で、藁と木槌を持って水の中に入り、潜ったままで草鞋を作って出てくるという評判の男でした。
さて、遠野の町と猿ヶ石川を隔てた対岸にある「向山」という山から、綾織村にある「続石」という珍しい岩がある場所の、少し上の山に入ったところで、二人は別行動をとりました。
鳥御前が一人でまた少し山を登った時です。時刻はちょうど秋の夕暮れで、日は西の山の端から四、五間(約7〜9メートル)ほどの高さにある頃でした。
ふと、大きな岩の陰に、顔の赭い男と女が立って、何か話をしているのに出くわしました。
彼らは鳥御前が近づくのを見て、手を広げて押し戻すような仕草をして制止しましたが、鳥御前はそれに構わずに進んでいきました。すると女は、男の胸にすがりつくようにしました。
その様子から、本物の人間ではあるまいと思いながらも、鳥御前は剽軽な性格の人だったので、一つからかってやろうと思い、腰につけた切刃(山刀)を抜き、斬りかかるふりをしました。
すると、その顔の赤い男は足を上げて蹴りつけたかのように見えましたが、たちまち鳥御前は前後不覚になってしまいました。
連れの男は、彼を探し回って、谷底で気絶しているのを見つけ、介抱して家に連れ帰りました。
鳥御前は、今日の一部始終を話し、「こんなことは今までに全くなかったことだ。俺はこのために死ぬかもしれない。他の者には誰にも言うな」と語り、三日ほど患って亡くなりました。
家の者が、あまりにその死に様が不思議だったので、山伏の「ケンコウ院」という者に相談したところ、その答えは、「山の神たちが遊んでいるところを邪魔したため、その祟りを受けて死んだのである」ということでした。
この鳥御前という人は、伊能先生(民俗学者の伊能嘉矩)なども知り合いでした。
今から十年余り前のことです。
九十二、早池峰山の山男
昨年のことです。
土淵村の里の子供たち十四、五人が、早池峰山へ遊びに行きました。
思いがけず夕方近くなってしまったので、急いで山を下り、麓近くなったころのことです。
背の高い男が、下の方から急ぎ足で登ってくるのに出会いました。
その男は肌の色が黒く、眼はきらきらと光っており、肩には麻かと思われる古い浅葱色(薄い藍色)の風呂敷で、小さな包みを背負っていました。
恐ろしかったのですが、子供の中の一人が、「どこへ行くのか」と、こちらから声を掛けました。
すると男は、「小国さ行く」と答えました。
しかし、この道は小国へ越えるような方角ではなかったので、立ち止まって不審に思っていると、すれ違って通り過ぎたかと思う間もなく、もう姿が見えなくなってしまいました。
子供たちは「山男だ!」と口々に叫んで、みんな逃げ帰ったといいます。
九十三、笛吹峠の予言
これは和野の人、菊池菊蔵という人の話です。
彼の妻は、笛吹峠の向こう側にある橋野から嫁いできた人でした。
この妻が実家の親元へ行っている間に、糸蔵という五、六歳の男の子が病気になったので、菊蔵は昼過ぎから笛吹峠を越えて、妻を連れ戻しに彼女の実家へ向かいました。
この峠は、あの有名な六角牛山の峰続きにあるため、山道は木々が深く、特に遠野側から栗橋側へ下ろうとするあたりは、道が「ウド」になっていて、両側が切り立った崖になっています。
日の光がこの崖に遮られ、あたりがやや薄暗くなったころのことです。
後ろの方から、「菊蔵」と呼ぶ者がいます。
振り返って見上げると、崖の上から下を覗き込んでいる者がいました。
その顔は赤く、眼が光り輝いていることは、前の話(九十二の山男や、それ以前の赤い顔の男)と同じでした。
その男はこう言いました。「お前の子は、もう死んでいるぞ」
この言葉を聞いて、恐ろしさよりも先に「ハッ」と思い当たるものがありましたが、もうその姿は見えませんでした。
急いで、夜のうちに妻を連れて帰ってみると、果たして子供はすでに死んでいました。
今から四、五年前のことです。
😢「ウド」とは、両側が高く切り込まれている道のことです。東海道の諸国で「ウタウ坂」や「謡坂」などと言うのは、すべてこのような小さな切通しのことでしょう。
九十四、狐との相撲と盗まれた餅
この(前の話に出てきた)菊蔵氏が、柏崎に住む姉の家に用事があって行き、そこで振る舞われた残りの餅を、懐に入れて帰る時のことです。
愛宕山の麓の林を通り過ぎようとしたところ、象坪の藤七という、大酒飲みで、菊蔵とは仲の良い友人とばったり出会いました。
そこは林の中ですが、少し芝生のある場所でした。
藤七はニコニコとして、その芝生を指差し、「ここで相撲を取らないか」と言いました。
菊蔵はこれを承知し、二人で草原にてしばらく遊ぶことになりました。
ところが、この藤七、いかにも弱く、軽々と抱え上げては自由に投げ飛ばすことができるので、面白くなって、三番まで相撲を取りました。
藤七は、「今日はとても敵わない。さあ、もう行こう」と言って、別れました。
それから四、五間(約7〜9メートル)も歩いてから、ふと気がつくと、懐に入れておいた餅がありません。
相撲を取った場所に戻って探しましたが見つかりません。
ここで初めて、「狐に化かされたのではないか」と思いましたが、外聞が悪い(恥ずかしい)ので人には言わずにいました。
四、五日経ってから、酒屋で本物の藤七に会い、その時の話をしました。すると藤七は、「俺が相撲など取るものか。その日は浜の方へ行っていたんだ」と言い、いよいよ狐と相撲を取ったことがはっきりしました。
それでも菊蔵は、まだ他の人々には包み隠していましたが、昨年の正月の休みに、皆で酒を飲んで狐の話をしていた時、「俺も実は……」と、この話を白状し、大いに笑われたそうです。
😏「象坪」は地名であり、かつ藤七の名字でもあります。「象坪」という地名については、『石神問答』(柳田國男の著書)の中で研究しました。
九十五、空へ昇る石と花園
松崎の菊池某という、今年四十三、四歳になる男の話です。
彼は庭造りが上手で、山に入って草花を掘っては自分の庭に移し植えたり、形の面白い岩などは重いのを厭わずに家に担いで帰るのを常としていました。
ある日、少し気分がすぐれなかったので、家を出て山へ遊びに行くと、今まで一度も見たことのない美しい大岩を見つけました。
日頃の道楽心から、これを持ち帰ろうと思い、持ち上げようとしましたが、非常に重いものでした。まるで人が立っているような形をしていて、背丈も人間と同じくらいありました。
それでも、どうしても欲しくてたまらず、これを背負い、我慢して十間(約18メートル)ほど歩きましたが、気が遠くなるほど重いので不審に思い、道の脇にこれを立てて、少しもたれかかるようにして休みました。
すると、そのまま石と一緒に、スッと空中に昇っていくような心地がしました。
雲よりも上に出たように思われましたが、そこは実に明るく清らかな場所で、あたりには色とりどりの花が咲き、しかもどこからともなく大勢の人の話し声が聞こえてきました。
それでも石はなお、ますます高く昇っていき、ついには昇り切ってしまったのか、何もわからなくなってしまいました。
その後、時間が過ぎて気がついた時には、やはり以前と同じように、その不思議な石にもたれかかったままでした。
「この石を家の中に持ち込んでしまっては、どんなことが起こるか予測がつかない」と恐ろしくなり、そのまま逃げ帰りました。
この石は、今も同じ場所にあります。
彼は時折これを見ては、再び欲しくなることがあるそうです。
九十六、火事を予言する男・芳公
遠野の町に、「芳公馬鹿」と呼ばれる三十五、六歳になる男がいました。知恵の足りない男でしたが、一昨年まで生きていました。
この男の癖は、道端で木切れや塵などを拾い、これを指でひねっては、つくづくと見つめたり、匂いを嗅いだりすることでした。
人の家に行っては、柱などをこすってその手の匂いを嗅ぎ、どんなものでも目の先まで持ち上げて、ニコニコしながら時折匂いを嗅ぐのでした。
この男が、通りを歩きながら急に立ち止まり、石などを拾い上げて、それを辺りの人家に打ちつけ、けたたましい声で、「火事だ、火事だ!」と叫ぶことがありました。
彼がそうすると、その晩か次の日には、石を投げつけられた家から火が出ないということはありませんでした。
同じようなことが幾度となくあったので、後になってからは、予言された家々も注意して予防をしましたが、ついに火事を免れることができた家は一軒もなかったといいます。
九十七、臨死体験と紅い花畑
飯豊の菊池松之丞という人が、傷寒(腸チフスなどの高熱が出る病気)を患い、たびたび危篤状態になった時のことです。
彼は(夢現の中で)家を出て、菩提寺である「キセイ院」へ急いで行こうとしていました。
足に少し力を入れると、思いがけず空中に飛び上がり、地面から人の頭くらいの高さを、だんだんと前下がりに進んでいきます。また少し力を入れると、最初のように高く昇ります。
これが何とも言えないほど心地が良いのです。
寺の門に近づくと、人が群がっていました。
「なぜだろう」と不審に思いつつ門を入ると、紅色の芥子の花が一面に咲き満ちていて、見渡す限り続いていました。
ますます気分が良くなりました。
この花の間に、亡くなった父が立っていました。
「お前も来たのか」と父は言います。これに何か返事をしながらさらに行くと、以前亡くした男の子がいて、「トッチャ(父ちゃん)、お前も来たか」と言います。
「お前はここにいたのか」と言いながら近寄ろうとすると、「今は来てはいけない」と言います。
この時、門のあたりで騒がしく私の名を呼ぶ者がいて、うるさいことこの上ないのですが、仕方がないので、気も重く、いやいやながら引き返した……と思ったところで、正気に戻りました。
親族の者が寄り集まって、水をかけたりして、彼を呼び戻していたのでした。
九十八、路傍の石塔と海から拝む山
道の傍らに、山の神、田の神、塞の神の名を彫った石を立てるのは、よくあることです。
また、早池峰山や六角牛山の名を刻んだ石塔は、遠野郷にもありますが、それよりも(山を越えた先の)浜(沿岸地方)の方に、特に多く見られます。
九十九、海嘯で亡くした妻との再会
土淵村の助役・北川清という人の家は、火石という地区にあります。代々の山伏の家系で、祖父は正福院といい、学者で著作も多く、村のために尽くした人でした。
清の弟に福二という人がいて、海岸地方の田の浜へ婿に行きましたが、先年の大海嘯(明治三陸地震津波)に遭って、妻と子を失ってしまいました。彼は生き残った二人の子供と共に、元の屋敷のあった場所に小屋を掛けて、一年ばかり暮らしていました。
夏の初めの月夜のことです。
彼が便所へ起き出しましたが、便所は家から遠く離れた場所にあり、そこへ行く道は、波の打ち寄せる渚を通っていました。
霧の立ち込めた夜でしたが、その霧の中から、男女二人の者が近寄ってくるのを見れば、女の方は間違いなく、亡くなった自分の妻でした。
思わずその跡をつけて、遥々と船越村の方へ行く、崎の洞があるところまで追いかけて行って名を呼ぶと、女は振り返って、ニコリと笑いました。
連れの男は誰かと見れば、これも同じ里の者で、津波の難で死んだ男でした。自分が婿に入る以前に、妻と互いに深く心を通わせていたと聞いていた男です。
福二は、「お前は今、この人と夫婦になっているのだな」と言い、さらに、「子供は可愛くないのか」と問い詰めました。
すると女は、少し顔色を変えて、泣きました。
福二は、死んだ人と話しているとは思えないほどで、悲しく、また情けない気持ちになり、うつむいて足元を見つめていました。
その間に、男女は再び足早にそこを立ち去り、小浦へ行く道の山陰を回って、姿が見えなくなってしまいました。
追いかけてみようとしましたが、ふと「あれは死んだ者なのだ」と気づき、夜明けまで道中に立ち尽くして考え込み、朝になってから帰りました。
その後、長い間、患っていたといいます。
百、狐になった妻の夢
船越の、ある漁師の話です。
ある日、仲間の者と一緒に吉利吉里から帰ろうとして、夜遅くに四十八坂のあたりを通った時のことです。
小川がある場所で、一人の女に出会いました。
見れば、自分の妻です。
しかし、このような夜中に、妻がたった一人でこんな所へ来るはずがありません。
「これは間違いなく化物だろう」と思い定め、いきなり持っていた魚切庖丁で、後ろから突き刺したところ、女は悲しげな声を上げて死にました。
しばらくの間は正体を現さなかったので、さすがに「もしや」と気にかかり、後のことを連れの者に頼んで、自分は急いで走って家に帰りました。
すると、妻は何事もなく家で待っていました。
しかし、妻はこう言いました。「たった今、恐ろしい夢を見ました。あなたの帰りがあまりに遅いので、夢の中で途中まで迎えに出たところ、山道で得体の知れない者に脅かされて、命を取られると思って目が覚めたのです」
「さては」と合点がいき、再び先ほどの場所へ引き返してみれば、山で殺した女は、連れの者たちが見ている前で、ついに一匹の狐になっていました。
夢の中で野山を行く時には、このような獣の体を借りて歩くことがあるようです。
百一、死人を操る狐
ある旅人が、豊間根村を通り過ぎた時のことです。
夜も更けて疲れていたので、知人の家に明かりが見えるのを幸いに、中に入って休ませてもらおうとしました。
すると、家の人たちは、「ちょうど良い時に来てくれた。今夜、死人が出たのだが、留守番がいなくてどうしようかと思っていたところだ。しばらくの間、頼む」と言って、主人は人を呼びに出て行ってしまいました。
迷惑極まりない話ですが、断るわけにもいかず、仕方なく囲炉裏のそばで煙草を吸っていました。
死人は老婆で、奥の方に寝かせてありましたが、ふと見ると、布団の上でむくむくと起き直りました。
旅人は肝を潰しましたが、心を落ち着けて静かに辺りを見回すと、台所の流し元にある排水口の穴から、狐のようなものが顔を差し入れて、しきりに死人の方を見つめているのが見えました。
「さてこそ(奴の仕業か)」と悟り、身を潜めてこっそりと家の外に出ました。
背戸(裏口)の方へ回って見ると、やはり間違いなく狐がいて、首を流し元の穴に突っ込み、後ろ足で爪先立っていました。
旅人は、ありあわせの棒を持って、これを打ち殺しました。
📍場所は、下閉伊郡豊間根村大字豊間根です。
百二、小正月の夜と赤い顔の男
一月十五日の晩を「小正月」といいます。
この日の宵のうちは、子供たちが四、五人で組を作り、「福の神」と称して、袋を持って人の家々を回ります。そして、「明の方(夜明けの方角=東)から福の神が舞い込んだ」と唱えて、餅をもらう習慣があります。
しかし、宵を過ぎれば、この晩に限っては、人々は決して戸の外に出ることはありません。
小正月の夜半過ぎは、「山の神」が出て遊ぶと言い伝えられているからです。
山口の丸古立という地区に住む「おまさ」という、今は三十五、六歳になる女性が、まだ十二、三歳の頃のことです。
どういうわけか、たった一人で「福の神」に出かけ、あちこち歩いて遅くなってしまいました。
寂しい夜道を帰ってくる途中、向こうの方から、背の高い男が来て、すれ違いました。
その顔はすてきに赤く、眼は光り輝いていました。
彼女は持っていた袋を捨てて逃げ帰り、その後、重い病気にかかってしまいました。
百三、雪女と遊ぶ童子
小正月(一月十五日)の夜、または小正月でなくても、冬の満月の夜には、「雪女」が出て遊ぶとも言われています。
雪女は、大勢の童子を引き連れてやってくるといいます。
里の子供たちは、冬になると近所の丘へ行き、「橇遊び」をして、面白さのあまりつい夜まで遊んでしまうことがあります。
しかし、十五日の夜に限っては、「雪女が出るから早く帰れ」と、大人たちから戒められるのが常でした。
けれども、実際に雪女を見たという人は少ないのです。
百四、胡桃による月の占い
小正月の晩には、行事が実にたくさんあります。
「月見」と呼ばれる行事は、六つの胡桃の実を二つに割って十二個にし、これを一時に囲炉裏の火にくべて、また一斉に引き上げます。
これを一列に並べて、右から一月、二月……と数えていきます。
その月の満月の夜が晴れるような月であれば、殻はいつまでも赤く燃え残り、曇りになる月であれば、すぐに黒くなってしまいます。
また、風が吹く月であれば、「フーフー」と音を立てて火が揺れ動きます。
何度繰り返しても同じ結果になりますし、村中のどこの家でやっても同じ結果が出るというのは、実に不思議なことです。
翌日は、村の人々がこの事について話し合います。
例えば、「八月の十五夜は風だ」という結果が出れば、その年は台風を避けるために、稲の刈り入れを急ぐようにするのです。
🙂↕️穀物の出来不出来や、月の天候を占う儀式は、多少のバリエーションを持って全国諸国で行われています。陰陽道から出たものでしょう。
百五、稲の品種を選ぶ占い・世中見
また、「世中見」という行事があります。
これも同じく小正月の晩に行うもので、いろいろな種類の米で餅を作って鏡餅にします。
そして、使ったのと同じ種類の米を膳の上に平らに敷き詰め、その上に鏡餅を伏せて置きます。さらに上から鍋を被せておいて、翌朝これを見るのです。
餅にくっついた米粒が多いものほど、その年は豊作になるとして、早稲(早く実る品種)、中稲、晩稲(遅く実る品種)の中から、その年に植える種類を選び定めるのです。
百六、山田の蜃気楼と異国の都
海岸沿いにある山田(現在の岩手県下閉伊郡山田町)では、毎年、蜃気楼が見られます。
それはいつも、外国の景色だといいます。
見慣れない都会の様子で、道路には車馬(馬車や荷車)が激しく行き交い、人の往来も目が覚めるほど賑やかです。
毎年現れますが、家の形などは、去年と少しも変わることがないということです。
百七、早瀬川の娘と朱い顔の神
上郷村に、「河ぷちのうち(川縁の家)」と呼ばれる家があります。その名の通り、早瀬川の岸辺にある家です。
この家の若い娘が、ある日、河原に出て石を拾っていましたが、そこに見慣れない男がやって来て、木の葉か何かを娘にくれました。
その男は、背が高く、顔は朱のように赤い人でした。
娘は、この日から占いの術を身につけました。
その異人は山の神であり、娘は山の神の子になったのだと言われています。
百八、柏崎の孫太郎と山の神の占い
「山の神が乗り移った」と言って、占いをする人はあちこちにいます。
附馬牛村にも一人います。本業は木挽(木材を挽く職人)です。
柏崎の「孫太郎」という人も、そのような一人です。
彼は以前、発狂して正気を失っていましたが、ある日、山に入って山の神からその術を授かってからは、不思議なことに、人の心の中を読む力が驚くほど鋭くなりました。
その占いの方法は、世間の占い師とは全く異なります。
どんな書物も見ず、依頼に来た人と世間話をし、その最中にふと立ち上がって、常居(居間)の中をあちこち歩き出したかと思うと、相手の顔を少しも見ずに、心に浮かんだことを言うのです。
それが、当たらないということはありません。
例えば、「お前の家の板敷を外して、その下の土を掘ってみろ。古い鏡か、折れた刀があるはずだ。それを取り出さなければ、近いうちに死人が出るか、家が火事になるぞ」などと言います。
帰って掘ってみると、必ず言われた通りの物が出てくるのです。
このような例は、数え切れないほどあります。
百九、藁人形を送る雨風祭
お盆の頃には、「雨風祭」といって、藁で人間よりも大きな人形を作り、村境の道の岐(分かれ道)まで送りに行って立てる行事があります。
人形には、紙で顔を描き、瓜で陰陽の形(男女の性器)を作って添えたりします。
(これと似た行事に)「虫祭」がありますが、その時の藁人形にはこうした物は添えず、人形の大きさも小さいものです。
雨風祭の時は、一つの集落の中で「頭屋(当番の家)」を選び定め、里人がそこに集まって酒を飲みます。その後、全員で笛や太鼓を鳴らしながら、人形を道の辻まで送って行きます。
笛の中には、桐の木で作った「ホラ」などがあります。これを高く吹き鳴らします。
さて、その時に歌う歌は、「二百十日の雨風祭るよ、どっちの方さ祭る、北の方さ祭る」というものです。
😊朝鮮の地理書『東国輿地勝覧』によれば、韓国でも祭壇を必ず城の北方に作ることが記されています。(日本のこの祭りが北へ送るのも)共に玄武神(北方の守護神)への信仰から来ているものでしょう。
百十、権現様の喧嘩と火伏せの奇跡
「ゴンゲサマ(権現様)」というのは、神楽舞の組ごとに一つずつ備わっている木彫りの像のことで、獅子頭とよく似ていますが、少し異なっています。
この像は、甚だしい御利益があるものです。
新張にある八幡社の神楽組のゴンゲサマと、土淵村の五日市にある神楽組のゴンゲサマとが、かつて道中で争いをしたことがありました。
その時、新張のゴンゲサマが負けて、片方の耳を失ってしまったそうで、今でもその耳はありません。
毎年、村々を舞って歩くので、これを見知らぬ者はいません。
ゴンゲサマの霊験は、特に「火伏せ(火災除け)」にあります。
先ほどの八幡の神楽組が、かつて附馬牛村へ行った時のことです。日が暮れてしまい、宿をなかなか取れずにいました。
ある貧しい者の家が、快く彼らを泊めてくれました。一行は五升桝を伏せて、その上にゴンゲサマを安置し、人々は眠りにつきました。
すると夜中に、「ガツガツ」と物を噛む音がするので、驚いて起きてみました。
見れば、家の軒端に火が燃え移っていたのを、桝の上にいたはずのゴンゲサマが、何度も飛び上がっては、その火を食らって消していたのです。
また、子供で頭の病気を患っている者などは、よくゴンゲサマにお願いをして、その病(患部である頭)を噛んでもらうことがあります。
百十一、ダンノハナと蓮台野・姥捨ての伝説
山口、飯豊、附馬牛の字荒川東禅寺、および火渡、青笹の字中沢、ならびに土淵村の字土淵には、共通して「ダンノハナ」という地名があります。
そして、その近傍には、これと相対して必ず「蓮台野」という地名の場所があります。
昔は、六十歳を超えた老人は、すべてこの「蓮台野」へ追いやる習わしがありました。
しかし、追放された老人も、ただ無駄に死んでしまうわけにもいきません。そのため、日中は里へ下りてきて農作業を手伝い、何とか食いつないでいました。
その名残で、今でも山口や土淵のあたりでは、朝に野良仕事に出ることを「ハカダチ(墓立ち)」と言い、夕方に野良から帰ることを「ハカアガリ(墓上がり)」と言うそうです。
😗「ダンノハナ」とは、「壇の塙(突き出た台地)」のことでしょう。すなわち、丘の上で塚を築いた場所だと思われます。境の神を祭るための塚だと信じます。「蓮台野」もこの類であるだろうということは、著書『石神問答』の中で述べました。
百十二、処刑場跡と古代の遺跡
「ダンノハナ」は、昔、「館」(城砦)があった時代に、囚人を斬り殺した場所だろうと言われています。
地形は山口のものも、土淵や飯豊にあるものもほぼ同様で、村境の丘の上にあります。仙台にもこの地名があります。
山口にあるダンノハナは、大洞へ越えていく丘の上にあって、館の跡地から続いています。
「蓮台野」は、山口の集落を隔てて、このダンノハナと向かい合っています。
蓮台野の四方は、すべて沢になっています。
東側はダンノハナとの間の低地で、南の方を「星谷」といいます。
この場所(蓮台野)には、「蝦夷屋敷」と呼ばれる、四角く窪んだところが数多くあります。その跡は極めてはっきりとしています(竪穴式住居の跡のこと)。
ここからは、たくさんの石器が出土します。
石器や土器が出るところは、山口地区に二箇所あります。もう一つは、「ホウリョウ」という小字(こあざ)です。
このホウリョウの土器と、蓮台野の土器とは、様式が全く異なります。
後者(蓮台野)のものは技巧が少しもなく粗雑ですが、前者(ホウリョウ)のものは模様なども精巧です。
ホウリョウからは埴輪も出ますし、石斧や石刀の類も出ます。
一方、蓮台野には、「蝦夷銭」といって、土で銭の形を作った直径二寸すん(約6センチ)ほどの物が多く出ます。これには単純な渦巻き模様などがあります。
字ホウリョウには、丸玉や管玉などの装身具も出ます。ここの石器は精巧で、石の材質も統一されていますが、蓮台野の石器は原料がバラバラです。
ホウリョウの方は、何の跡(屋敷跡など)というものはなく、狭い一町歩(約1ヘクタール)ほどの場所です。
星谷の底の方は、今は田んぼになっています。蝦夷屋敷は、かつてこの両側に連なっていたといいます。
この辺りには、「掘れば祟りがある」と言われる場所が二箇所ほどあります。
😊他の村々でも、ダンノハナと蓮台野という二つの場所の地形や関係性は、これに似ているといいます。
🤩「星谷」という地名は諸国にもあり、星を祀った場所のことです。
🫥「ホウリョウ権現」は、遠野をはじめ奥羽地方一円に祀られている神です。蛇の神だといいます。名前の意味は分かりません。
百十三、象を埋めた森・ジョウヅカ森
和野に、「ジョウヅカ森」という所があります。
ここは、象を埋めた場所だと言われています。
「ここだけには地震がない」ということで、近辺では地震の時にはジョウヅカ森へ逃げよと、昔から言い伝えられています。
これは、(象ではなく)確かに人を埋葬した墓です。
塚の周りには堀があります。塚の上には石があります。
ここを掘り返せば、祟りがあるといいます。
😏「ジョウヅカ」は、定塚、庄塚、または塩塚などと書いて、諸国にたくさんあります。これも境界の神を祀った場所であり、地獄の「ショウツカ(正塚)」にいる奪衣婆の話などと関係があることは、拙著『石神問答』に詳しく書きました。また、象坪(ぞうつぼ)などの「象頭神(歓喜天)」とも関係があるので、象の伝説というのも、あながち根拠のないことではありません。塚のことを「森」と呼ぶのも、東国の風習です。
百十四、ダンノハナの青石とボンシャサの館
山口にある「ダンノハナ」は、今は共同墓地になっています。
丘の頂上には卯木を植えて周囲を巡らせてあり、その入り口は東の方角を向いていて、まるで門のようになっている場所があります。
その真ん中あたりに、大きな青石があります。
かつて一度、その下を掘ってみた者がいましたが、その時は何も発見できませんでした。
その後、再びこれを試みた者は、大きな瓶があるのを見つけました。
しかし、村の老人たちがたいそう叱りつけたので、また元のまま埋め戻しておきました。
これは、かつての館(城砦)の主人の墓だろうと言われています。
この場所に近い館の名前を、「ボンシャサの館」といいます。
いくつかの山を掘り割って水路を引き、三重四重にも堀を巡らせていました。
あたりには「寺屋敷」「砥石森」などという地名があります。
井戸の跡として、石垣が残っています。
山口孫左衛門の先祖が、ここに住んでいたといいます。
このことは、地元の古文書『遠野古事記』に詳しく記されています。
百十五、昔話とヤマハハ
この地方では、御伽話(昔話)のことを「昔々」と呼びます。
その中では、「ヤマハハ」の話が最も多くあります。
ヤマハハとは、いわゆる「山姥」のことでしょう。
そのうちの一つ、二つを、次に書き記すことにします。
百十六、人食い老婆・ヤマハハと娘の脱出
昔々、あるところに「トト(父)」と「ガガ(母)」がいました。二人は娘を一人持っていました。
ある時、娘を家に残して町へ行くことになり、「誰が来ても、決して戸を開けてはいけないよ」と戒め、鍵を掛けて出かけました。
娘は恐ろしいので、一人で囲炉裏にあたって縮こまっていました。
すると真昼間に、ドンドンドンと戸を叩いて、「ここを開けろ」と呼ぶ者がいます。「開けないと、蹴破るぞ!」と脅すので、仕方なく戸を開けると、入ってきたのは「ヤマハハ(山姥)」でした。
ヤマハハは囲炉裏の横座(主人の席)にドカッと足を踏ん張って座り、火にあたりながら、「飯を炊いて食わせろ」と言います。娘はその言葉に従って膳の支度をし、ヤマハハに食べさせました。そして、ヤマハハが夢中で食べている隙に、家から逃げ出しました。
ヤマハハは飯を食い終わると、娘を追いかけてきました。
おいおいその距離が縮まり、今にも背中に手が触れそうになった時、娘は山の陰で柴を刈っている翁(おじいさん)に出会いました。「私はヤマハハに『ぼっかけられて(追いかけられて)』いるんです。隠してください」と頼み、刈って積んであった柴の中に隠れました。
ヤマハハがやって来て、「どこに隠れたか」と、柴の束をのけようとしましたが、柴を抱えたまま山から滑り落ちてしまいました。
その隙に、娘はそこを逃れて、今度は萱を刈る翁に出会いました。「私はヤマハハに追いかけられているんです。隠してください」と頼み、刈って積んであった萱の中に隠れました。
ヤマハハはまたやって来て、「どこに隠れたか」と、萱の束をのけようとして、萱を抱えたまま山から滑り落ちてしまいました。
その隙にまたそこを逃げ出して、大きな沼の岸に出ました。
これより先は行く当てもないので、沼の岸にある大木の梢によじ登りました。
ヤマハハは「どこへ行った、逃がすものか」とやって来ましたが、沼の水に娘の姿が映っているのを見て(水の中にいると思い込み)、すぐに沼の中へ飛び込みました。
この間に、娘は再びそこを走り出し、一つの笹小屋があるのを見つけました。中に入ってみると、若い女がいました。
彼女にも事情を話し、そこにあった石の唐櫃(収納箱)の中へ隠してもらったところへ、ヤマハハがまた飛び込んで来ました。
娘のありかを聞きましたが、女は「隠してなどいない、知らない」と答えました。「いんね(いいや)、来ないはずはない。『人くさい香』がするもの」とヤマハハが言うので、「それは今、雀をあぶって食べたからでしょう」とごまかすと、ヤマハハも納得して、「それなら少し寝よう。石の唐櫃の中にしようか、木の唐櫃の中が良いか」と言いました。女が、「石は冷たいですよ、木の唐櫃の中になさいませ」と言うと、ヤマハハは木の唐櫃の中に入って寝ました。
家の女は、すぐに唐櫃に鍵を掛け、娘を石の唐櫃から連れ出しました。「私もヤマハハにさらわれて連れて来られた者です。一緒にこいつを殺して里へ帰りましょう」と言って、錐を火で赤く焼いて、木の唐櫃の中に差し通しました。
ヤマハハはそうとも知らず、「ただ、二十日鼠が来た(チクチクする)」と寝言を言っていました。
それから湯を煮立てて、焼いた錐で空けた穴から注ぎ込み、ついにそのヤマハハを殺して、二人は共にそれぞれの実家へ帰りました。
昔々の話の終わりは、いずれも「コレデドンドハレ」という言葉で結ぶのが決まりです。
百十七、鶏が告げた偽の花嫁
昔々、これもあるところに「トト(父)」と「ガガ(母)」とがいました。
娘が嫁に行くための婚礼道具を買いに、町へ出かけることになり、家の戸に鍵を掛け、「誰が来ても、決して戸を開けるなよ」と言い聞かせました。娘が「はぁ(はい)」と答えたので、二人は出かけました。
ところが昼頃、ヤマハハ(山姥)がやって来て、娘を捕って食ってしまい、その娘の皮を被って、娘に成りすましていました。
夕方、二人の親が帰って来て、「おりこひめこ(お利口な可愛い娘)はいたか」と門の入り口から呼ぶと、「あ、いますよ。早かったですね」と(娘に化けたヤマハハが)答えました。
両親は、買ってきた色々な支度の品を見せて、娘が喜ぶ顔を眺めました。
次の日、夜が明けた時、家の鶏が羽ばたきをして、「糠屋の隅っこを見ろじゃ、ケケロ」と啼きました。
「はて、いつもとは違った鶏の啼き方だなあ」と、両親は不思議に思いました。
それから、いよいよ花嫁を送り出すことになり、ヤマハハの化けた「おりこひめこ」を馬に乗せ、まさに出発させようとした時、また鶏が啼きました。
その声は、「おりこひめこを乗せないで、ヤマハハ乗せた、ケケロ」と聞こえました。
鶏がこれを繰り返して歌ったので、両親も初めて事実に気づき、ヤマハハを馬から引きずり下ろして殺しました。
それから、急いで糠屋の隅を見に行くと、娘の骨がたくさん転がっていました。
😩「糠屋」とは、物置小屋のことです。
百十八、紅皿欠皿とヌカボ
「紅皿欠皿」(継子いじめの説話)の話も、遠野郷で語られています。
ただし、この地方では、「欠皿(いじめられる継子の役)」の方の名前を、「ヌカボ」といいます。
ヌカボとは、「空穂(中が空洞のもの、あるいは靭)」のことです。
継母に憎まれ、ひどい扱いを受けますが、神の恵みがあって、ついには長者の妻となって幸せになるという物語です。
この物語のエピソードには、色々と美しい描写(絵様)があります。
機会があれば、詳しく書き記したいと思います。
百十九、獅子踊の古い歌
遠野郷の「獅子踊」で、古くから用いられている歌の曲(歌詞)があります。
村によって、また歌う人によって少しずつの違いはありますが、私が聞いたものは次のようなものです。
これは、今から百年あまり以前に書き写されたものです。
🙂獅子踊は、それほどこの地方で古いものではありません。中代(中世、あるいは近世の中頃)に、外部から輸入したものだということを、人々はよく知っています。
【橋ほめ】(家へ入るための橋を褒める歌)
🗣 参上して、この橋を見申し上げれば。どのような素晴らしい技で板を踏み初めたのか。(渡り初めをしたのか)、渡っても少しもガタガタといわない立派なものだ。
🗣 この素晴らしい馬場を見申し上げれば。遥か遠くの杉原の七里、大門まで続いているようだ。
【門ほめ】(家の門を褒める歌)
🗣 参上して、この門を見申し上げれば。檜や椹(高級木材)で門を建ててある。これぞめでたい、白銀のように輝く門だ。
🗣 門の扉を押し開いて見申し上げれば。ああ、なんと素晴らしいお施代(施し、接待)であろうか。
😙以下、寺院などで踊る場合の歌詞か。
🗣 参上して、この御本堂を見申し上げれば。どのような(名人の)大工が建てたのであろうか。
🗣 建てたお人は御手柄だ。昔の「飛騨の匠」が建てた寺のようだ。
【小島ぶし】(寺院や屋敷の情景を讃える歌)
🗣 小島(という場所、あるいは寺)では、檜や椹で門を建てて。これぞめでたい白銀の門だ。
🗣 白銀の門の扉を押し開いて見れば。ああ、なんと素晴らしいお施代か。
🗣 八つ棟造りに檜皮葺きの屋根。その上(かみ)の方に生えている落葉松(からまつ)。
🗣 落葉松の右や左に湧く泉。汲んでも飲んでも尽きることのないものだ。
🗣 朝日が射すように、光り輝く大寺(おおてら)である。桜色のような美しい稚児(ちご)が百人もいる。
🗣 天から落ちる千代(ちよ)の硯水(手水鉢の水)。松に立てかけてある。
【馬屋ほめ】(裕福な家の台所や馬屋を褒める歌)
🗣 参上して、この御台所を見申し上げれば。「め釜(=召し釜、調理用の釜)」を並べて、釜は十六もある。
🗣 十六の釜でご飯を炊く時には、四十八頭もの馬で朝草を刈ってくるほどだ。
🗣 その馬で、朝草に桔梗や小萱を刈り混ぜて与える。花で輝くような馬屋である。
🗣 輝く馬屋の中にいる陰駒(名馬)は、「所帯上がれ(家運隆盛)」と祈るように、蹄(ひづめ)で足掻(あが)きをしている。
😙中入り、あるいは踊り始めの挨拶か。
🗣 この庭(踊りの場)には、歌の上手がいると聞く。(私の歌など)遊びながら歌うのも、心恥ずかしいことだ。
🗣 我々は、昨夜(きんよ)習って、今日遊ぶ(ごく短期間で習得した未熟者です)。粗忽(そこつ)なことがあってもご免なされよ。
🗣 正直に申せばキリがない。一礼申して立ち上がれ、友達よ。
【桝形ほめ】(踊る庭の四角い形状を褒める歌)
🗣 参上して、この桝を見申し上げれば。四方四角の、桝形の庭である。
🗣 参上して、このお宿(招いてくれた家)を見申し上げれば。情け深い人のお宿だと申す。
【町ほめ】(町場の繁栄を褒める歌)
🗣 参上して、このお町を見申し上げれば。竪町は十五里、横町は七里もある。(出羽国まで迷うような広さだ、友たちよ。)
😙「出羽」という文字も、実は正確ではない。
【検断ほめ】(検断屋敷=庄屋や役人の家を褒める歌)
🗣 参上して、この検断様を見申し上げれば。御町(おんまち)の真ん中に、旗を立て前(たてまえ)ておられる。
🗣 前は立町、油町(繁華街)。
🗣 検断殿は、二階座敷に昼寝をして、銭(ぜに)を枕に、金(きん)を手遊びにしておられる(ほどの大金持ちだ)。
🗣 参上して、このお札(高札)を見申し上げれば。恐れ多くて、直(じか)には見られないお札だ。
🗣 高い所は城と申し、低い所は城下と申すのだ。
【橋ほめ】(再出)
🗣 参上して、この橋を見申し上げれば。黄金の辻(つじ)に架かる、白銀の橋だ。
【上ほめ】(神仏の堂を褒める歌)
🗣 参上して、この御堂(おどう)を見申し上げれば。四方四面、楔一本で止めてある(釘を使わない名建築だ)。
🗣 扇(おうぎ)を取り、数珠(じゅず)を取り、神仏へ参れば、御利益(利生)があるものだ。
【家ほめ】
🗣 (氷のように透き通った)「こり柱」に、黄金の垂木。水が激しく流れる瀬が懸かっているかのような屋根の棟(ぐし)には、(瓦の)波が立っているようだ。
😙文字不明瞭だが、立派な柱や垂木を褒める内容。
【浪合】(休憩後の再開、あるいは歌い合いの場面か)
🗣 この庭には、歌の上手(じょうず)がいると聞く。歌いながらも、心恥ずかしい。
🗣 「雲繝縁」や「高麗縁」の畳。山のような御馳走と花ござを、このお庭へずらりと敷け。
🗣 蒔絵の台に、玉の盃を据えて、このお庭へ並べて置く。
🗣 十七(歳の娘)は、手水(ちょうず)で冷やした御手(おて)に、紅葉(もみじ)を主役にして回し(て踊り)、お庭が輝くようだ。
🗣 この御酒(ごしゅ)を一杯、引き受けて下さるなら、命は長く、寿命も栄えることでしょう。
🗣 肴には、鯛(たい)も鱸もございますけれど、(一番のご馳走は)家長に聞こえた、唐(から)の軽梅(かりうめ?珍味のことか)。
🗣 正直に申せばキリがない。一礼申して立ち上がれ、友達よ。都(みやこ)へ。
【柱懸かり】(鹿が柱や木に体を擦り付ける仕草の歌)
🗣 仲立ち(仲人)を入れろや、中に入れろ。仲立ちがなければ、庭(の雰囲気)も面白くない(すげない)。
🗣 鹿の子(しかのこ)は生まれて、山を巡り下りてくる。我らも巡る、庭を巡る。
🗣 このお庭にある柱が立つときは、鹿の「角磨き」が若々しくなるものだ。
🗣 松島の松を育てて見ようとすれば、松に絡みつく蔦(つた)のような、偽者(えせもの)がいる。
🗣 松島の松に絡まる蔦の葉も、縁(えん)がなければ、ぶろり(だらり)とはぐれてしまう。
🗣 京で(買った)九貫文の、唐絵(からえ)の屏風。三つ四つに折りたたんで、さらりと立て回す。
【めずぐり】(「女鹿探り」、すなわち鹿の妻選び・求愛の場面)
🗣 仲立ちを入れろや、中に入れろ。仲立ちがなければ、庭もすげない。
🗣 鹿の子は生まれ下りて、山を巡る。我らも巡る、庭を巡るな。
🗣 女鹿(めじか)を尋ねて行こうとして、白山の御山(みやま)に霞(かすみ)がかかる。
🗣 嬉しやな。風は霞を吹き払って、今こそ女鹿を探し出して尋ねよう。
🗣 なんと女鹿は隠れても、一村(ひとむら)のススキを分けて探し出すぞ。
🗣 笹の葉の(陰に隠れた)女鹿(めじし)は、なんとかしてでも、おびき出される。
🗣 女鹿、大鹿の振る舞いを見ろ。鹿の心は、都(みやこ)にあるもの(のように優雅だ)。
🗣 奥の深山(みやま)の大鹿は、今年初めて踊りに出てき候(そうろう)。
🗣 女鹿を連れて、憧れて、心がうずうずしている牡鹿(おじか)かな。
🗣 (松島の松の歌・再出)
🗣 沖の海中(とちゅう)の浜千鳥。ゆらりと漕がれる(船のように)、そろりと立つものだ。
【投げ草】(祝儀=花・投げ草をもらった時の御礼の歌)
🗣 投げ草(ご祝儀)をくださったのは、どのようなお方でおいでであったか。(祝儀を)出したお人は、心ありがたい。
🗣 この家(代)を、どのような大工がお建てになったか。四つ角で宝が遊ぶ(ほど立派な家だ)。
🗣 この御酒を、どのような御酒だと思われるか。家長に聞いたが、「菊の酒(長寿の酒)」だ。
🗣 この銭(ぜに)を、どのような銭だと思われるか。伊勢参りや熊野参りの使い余り(のありがたいお金)か。
🗣 この紙(祝儀を包んだ紙)を、どのような紙だと思われるか。播磨檀紙か、加賀柴紙(かがしばがみ)か。折り目正しい紙だ。
🗣 扇(おうぎ)の産地は、いずこ(どこ)なるか。扇の御所、三内の宮。内で澄めるのは「要」であり、折り目正しく重なるものだ。
遠野物語(現代語訳)