浴槽

洗うこと


わたしは憑き物を落とすように躰を洗った。

腕も脚も乳房も赤くなるくらい擦り続けた。
躰にお湯をかけるとヒリヒリしたけど、それよりも心臓の奥のほうが痛かったから何とも思わなかったし、どうでもよかった。

浴槽に溜めたお湯に浸かり、静かに波紋が消えるのを待っていると、さっきの出来事が蘇ってくる。
怒り、苛立ち、恥ずかしさ、悲しさ、ばかばかしさ。当てはまる言葉はいっぱいある。
その惨めな言葉たちを自分のこころに照らし合わせていくと情けないくらい涙がこぼれてきた。

「わたしなにやってるんだろう・・・」
思わず口をついたひとり言が震えていた。

濡れた前髪から落ちたしずくが浴槽に波紋を作る。わたしの目からこぼれた涙も浴槽に波紋を作る。共鳴した波紋がわたしの躰に重なると、こころまでもが揺らいだ。

その瞬間、わたしは声を上げて泣いていた。
彼のやわらかい声や人懐っこい笑顔。
大嫌いな煙草のにおいすら思い出すと嗚咽が止まらなくなって、呼吸ができなくなった。

「わたしなにやってるんだろう・・・」

一頻り泣いたらわたしは浴槽のお湯を抜き、濡れた躰のまま、さっき脱ぎ散らかした下着やスカートを洗濯機に入れてガラガラと回した。
ベランダを開けると初夏の夜風が躰を撫でていく。
流した涙は排水溝から流れていき、洋服についた身勝手な煙草のにおいも洗剤が洗い流してくれた。
そして思いのほか清々しくて少し驚いた。
「洗い流す」という行為がとてもやさしく思えて、救われた気がした。

明日は部屋の隅々まで掃除をしようと思う。
汚れたところはひとつずつ洗って流してさよなら。

浴槽

浴槽

  • 小説
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更新日
登録日
2020-08-30

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