私は男に生まれて恥ずかしい

※注意1:以下の文章は、私が昨年の六月三日に書いたものであり、当時の不勉強な私の意見に過ぎない。なので現在の私から見れば問題も多いが、一応載せてみようと思う。ご意見などあれば、なんらかの形でフィードバックをいただきたい。
※注意2:以下の内容には、男女間の差別やジェンダーの問題が含まれているため、人によっては不快になるかもしれない。その点をあらかじめ踏まえて、読んでいただきたい。
※注意3:ちなみにであるが、私は確実に男性である。タイトルからして、そのような思想を持った女性が男性に成りすまして書いている、などと妄想を持つ方もいるかもしれないが、文章を読めばわかるように、私は男である。
※注意4:今の私ではありえない事であるが、かなり大雑把な推論や、男女二元論的な考え方も目立つ。その点は反省している点である。

私は男に生まれて恥ずかしい

 我ながらキャッチーな題の文章を書こうとしている。私はこの週末に『男流文学論(だんりゅうぶんがくろん)』を読み、性や恋愛についていろいろと思うところがあった。それ以前についても、常々私は性差別や男女の差、あるいは恋愛・結婚の諸問題について考えようとしてきた。いや、この言い方は適切ではない。考えたかったが、考える方法論を知らなかったし、材料となるものも持っていなかった。それは現時点においても課題であり続けているが、とにかく私の中で、それらが一連の大問題であることは間違いない。私も一人の人間である以上、生命体である以上、身体の問題、性の問題、生殖(せいしょく)の問題については関わらざるを得ない。ゆえに私はここで、現在において持つ問題意識(など)をまとめ、今後どのように調査や思考を展開していくかの自らの道標(みちしるべ)としたい。
 さて、この文章の題についてまず少し触れておきたい。これは、私が誰か想定される読者のために、その目を引くように考え出した言葉ではない。私の中に、断固(だんこ)としてある叫びであり、思想であり、(いつわ)らざる感情である。私は男に生まれ、男として生きてきたことを、恥ずかしいと思っている。その内情については、今後の論を踏まえてもらえれば大体のところは(つか)めるであろうと思う。
 そろそろその本題について論じたいところであるが、私の論はいつも通り、論理をあまり精密に構築しないこととする。思いついたままに筆を走らせたい。私はいまだ未熟なため、論理を詰めていくと自分の言いたいことが完全に言い切れないで不完全燃焼に終わるような感覚を覚えることがある。ゆえにこの通り、随筆にもならないような考えの寄せ集め、メモの箇条書きのような形をとる。言い訳はこのあたりにしておいて、本題に移りたい。

・「男」であるということについての違和感と恥
 ①無批判的な性の在り方への恥
 私は男である。私は身体的に男として誕生し、男として育てられ、自らも男として生きてきた。ゆえに私は男である。そのことに、意識的になったのはついこの一年間ほどのことである。少なくとも高校を卒業するまで、私は幸福にも(あるいは不幸にも)、性についての問題を深く考えてこなかった。それは例えば、何が「男である」ことの根拠であり、何が「女である」ことの根拠であるか、という問いであったり、男と女の差異とは何か、であったり、恋愛とはどのようなものであるか、というものであったりである。私は高校時代までも何人かの女性を好きになったことがある。しかしそれは今思えば、かなり疑わしい感情である。私は何を思って彼女たちを「好き」だと思い、そして彼女たちと「どう」なりたかったのか、その問いにはいまだに答えることができない。
 私は今、自分が何であるかわからない。それは性という意味でも、だ。私は他者視点からなら、おそらくほとんどの場合は男性であると見られるであろう。百分率でいえばほぼ百%であろう。私が仮に女性の服を着てばっちりメイクをすればあるいは二%くらいは騙せるかもしれないが。またあるいは私のことを男性と見ない人もいるかもしれない。それは別の難しい問題を抱えるのでここではひとまず置いておくが。とにかく、私は男として社会的には認知されている。しかし、それでは自分が心に問うて「お前は男か?」と言ったとしよう。すると私は答えに詰まってしまう。それは私の心が「自分は女だ」と主張するからではない(しかし私は女になりたいと思ったことは何度もある。今だってそのような感情は滅びてはいない)。それは私が自らの性について、「男であるとは何か」「女であるとは何か」についての答えを得ていないからだ。私は性がわからないのである。もちろん私は乳腺(にゅうせん)が発達しているわけでもないし子宮(しきゅう)があるわけでもない。性分化障害(せいぶんかしょうがい)でもない。私は精巣(せいそう)睾丸(こうがん)をもち、陰茎(いんけい)を有する完全な男性体である。それはわかっている。しかし、私は自分の精神が男か女かには答えられない。それは身体の性と精神の性が完全に一致するわけではないことを知っているからであるし、そしてそのような実例が様々にあるということについても知っているからである。いやむしろ、私はそのような性的な虚構について、セクシャリティやジェンダーの感覚が文化的に構築されるものだということを知ったことによって、自分の性についてわからなくなった。私は今、それまで強固に信じてきた、いな、信じようとしなくてもよいほどまでに疑いえなかった「男」という性について、あるいはその歪んだ自己認識について、再度検討を加える機会を得たのだ。これは、恐らく多くの男性諸君が同じような状況にあれば、それは恐怖であろう。性という根底の基盤をなかば失っているからである。しかし私にとっては、これは紛れもない挑戦である。私は私を探求する上での、一つの重要な視座(しざ)を得たのである。
 私がなぜ、男であることを自ら疑わないで生きることができたのか。というよりむしろ、私は男であってしかるべきであり、私というものが男であるともとらえていた。男という性の内実(ないじつ)をとらえずに、ただ他者からの視線、また社会的教育によってもたらされた性のありかたを盲信(もうしん)し、私は男であることを微塵(みじん)も違和感として得なかった。感じる必要もなかった。それは世の男性諸君に社会が与える最も大きな贈り物かもしれない。つまり、男というものは、往々にして男であることに違和感を持つことなく生きていくことが可能になっている。それは男だけに許された特権である。なぜなら、なぜならだ、世間にはいまだにこのような言説が根強く残っている。例えばある小さな女の子が男の子と一緒に遊んでいたとしよう。彼女は男の子が木に登るところを見て一緒に登ろうとする。そこへ、女の子の母親が来てこのようにいうのだ。「女の子なんだからそんなやんちゃなことしちゃだめよ。」この「女の子なんだから」という教育において定型のように繰り返される言説、これこそ、男にはない、女に強いられたある種の社会的縛りを端的に表しているだろう。女性諸君は、もしかすればこのような言説に一度は違和感を覚えたかもしれない。しかし、男にはこのようなことは基本的にはないのである。男は元気に外で遊んで、泥だらけになっても何も言われない。好き勝手ふるまってそれがむしろ「元気が良い」と褒められるくらいだ。しかし女は、仮にそのようなことをすれば叱責(しっせき)されるであろう。女の子は「女の子らしく」しなければならないからだ。このような教育におけるジェンダーロールの押し付けのようなことは、基本的には女性のほうに強く作用する。なぜなら、子供とはみな、友と一緒に外で駆け回りたいからである。古い教育思想に基づけば、それは男には許され、女には許されない。象徴となるのは、男は外で駆け回る間、女は家で、あるいは庭でおままごとをするという構図である。これはまさに旧時代の男女の在り方、男は外で戦い、女は家を守る、という構図になる。一方で性に関する思想がそれなりに進んだ現代においては、逆もしかりだろうという言説もありうる。つまり、男が家でおままごとしているのは何が悪いのだ、という考えである。これももっともだと思う。しかし、やはり子供時代において、絶対的に自由さを与えられているのは男であり、女は何かしら「耐えること」を教えられる。そしてこの「耐える」という能力が、女性には成人後も、結婚後も、あるいは一生涯を通して必要になってしまうのである。このような不条理さを女は人生のどこかで感じる、が、大体は口に出さない。封殺(ふうさつ)されることがわかっているからだ。しかし内心では、このように感じる女性は多いであろう。「ああ、私も男に生まれたかった(男に生まれていればもっと自由に生きられたのに)」と。それはその通りである。なぜならこのような不条理の押し付けは、社会的に起こされていることであり、今後述べていくが、私の仮説からすると、それは男の手によって基本的にはなされ、またどこかで女もそれに加担(かたん)し、共犯関係のようになっているからであろう。
 そして、私が男であることが恥ずかしいと感じた第一の理由はここにある。私は、自らの生き方に無批判的であった。私は男であることに安住(あんじゅう)し、その自由が、女にはないことを知らずに生きてきた。私はある種の悪を含む権力に自ら加担していたのである。私が自由でいられたことは、私の徳ではない。私が高校を卒業し、難なく大学に来られたことも私が優れていたからではない。すべては、私が社会的に恵まれた「男性」であったからだ。
 ②歪んだ女性認識への恥
 私が自らを恥じている理由はほかにもある。それは、男としての女性認識のゆがみである。私は、批判を恐れずに言ってしまえば、全ての男は、ミソジニストの要素を持っていると思う。そして私自身も、そのような傾向にあり、いまだにそれを完全に克服(こくふく)できていない。それは完全に男性の罪であるが、ある部分では男性側の悲しき性質でもある。
 男と女が最も深刻な形でかかわってくる事態というものは、恐らく恋愛であるだろう。恋愛は、一対の男女が互いに()かれあい、寄り添いあい、互いの愛の手触りを確かめ合う、ある種神聖(しんせい)な儀式のような、そんな幻想的な何かだと思われているかもしれない。だが、恋愛というもの、そして性愛というものは、根本的に権力というものが働き、平等ではなく、いびつな非対称(ひたいしょう)性をなすものであるだろうと思われる。それは象徴としては、セックスという行為の、挿入に代表される非対称であるだろう。男は主体となり、「入れる」のに対し、女は客体となり「入れられる」という構図がある。性行為において、基本的には男が主導し、女はそれに従うのである。これはヘテロだけでなく、ゲイでもそうである。挿入する側と、される側がいる(レズビアンについてはわからない。勉強不足である。)。しかしどんな性愛においても基本的に、俗っぽく言えば「攻める」側と「受ける」側がいるであろう。これは象徴的に、性愛・恋愛が、非対称であることを表している。また、より社会的な文脈においては、旧来恋愛は多くの場合、男性が女性を庇護(ひご)するという関係をとる。それは結婚において、女性は男性の家に嫁入りし、その苗字(みょうじ)を男性のものに変更する。という制度が表すように、男性―主体・強者・庇護者であるのに対して女性―客体・弱者・被庇護者であるという構図が未だに成り立っているということである。しかしなぜ、女性であるというだけで男性の傘下(さんか)に入るようにならねばいけないのか。そこには圧倒的な不条理がある。また、より以前の時代には妻というものは主人の持ち物であるというような思想もあった。家父長制がそれである。そこまでではないにせよ、いまだに恋愛というものがどこか非対称であるということはなんとも納得しがたいことである。が、これに対しても私はある仮説を持っている。
 非対称な恋愛観が世から消えないことには大きく二つの理由があるだろう。一つは、そのような恋愛・結婚についての非対称性の由来にかかわってくる。男は基本的に、社会的な成功を求める傾向があるだろう。社会的な成功とは、会社などで良い地位につき、また良い妻を得ることであった。男にとっては結婚も、恋愛結婚とは言いつつも一つの社会的ステータスでしかないのである。彼らは妻を本気で愛しているか疑わしい。ただ、彼らが「妻を持っている自分を愛している」ということは間違いがないであろう。だから多くの女がそのパートナーの男に発する普遍的な問いは、必然的なものなのである。「私と仕事、どっちが大事なの?」「(私があなたを愛するように)あなたは私のことを本当に愛しているの?」これらに対して、男は答える術を持たない。ごまかすしかない。なぜなら、正直に言ってしまうとその結果は目に見えて破局であるからである。
 このような社会状況というものは、一側面としては男のプライドというものから出来上がったものではないかと考える。現在の社会の諸制度を作り上げたのは大抵が男である。それは男が女より優れていたからではなく、女に制度を作らせることをさせなかったからだ。女を政治に参与させなかった。なぜか。それは男の中に、「女より優れてありたい」「女より優れてなければならない」という強迫観念に近い願望があったからだ。彼らは女を外面的に、社会的に束縛することで、男の優位を主張しようとした。男が庇護者であり、女はそれを受けなければ生きていけないという構図、古い家のありかた、つまり、男が外へ出て稼ぎ、女は家を守るという構図を作り、それを維持することで、自らが女より優れているという優越感、あるいは自らが女を支配しているという満足感を得ようとしたのだ。男のくだらないプライドが、女を巻き込んで社会の構図を作り上げたのだろうと私は考える。
 これは男が皆潜在(せんざい)的にミソジニストであることにつながってくる。男が女を見る目の中にはオリエンタリズム的な光がある。それは、女を基本的には見下している目である。しかし、彼らは女に欲望を抱かずにはいられない。自らの方が優れていると思いたい相手に対して欲情する。これは男にとって大変に悔しいことであるだろう。葛藤でもある。男はそのねじれた欲望と自尊心を満たすために制度として男と女の関係を作り、それに依存するしかなかった。そしてそれは現代でも続いているが、一方で崩れてきてもいるだろう。そこで噴出(ふんしゅつ)するのは、男、特に、女性にモテない男による、女性嫌悪のヘイトスピーチである。俺の価値に気付かないのは女がバカだからだ、などと滅茶苦茶なことを言いだす輩までいる。
 ここで気をつけたいことは、ある面では男というのも、体制の犠牲者になることもあるということである。ジェンダー・セクシャリティの固定観念は刷り込まれる。家庭や学校における教育の中で、そのどこかで、男女の「能力」を比較して論じてしまうことがなかろうか。そこではまた、男性は女性よりも有能でなければならず、その能力を発揮して女性や子供を守らねばならず、自らの力を社会に役立てていくことが男の生き方であるというように語られることはなかろうか。男性もまた、「女性に負けてしまうような男は駄目だ」のような観念に縛られてしまうことがある。それは男の長い人生の中において、かつてどこかで要求されたジェンダーロールなのである。
 では、女性はどうなのだろうか。女性はそのような、明らかに自らに不利になる男性優位の社会を食い止めようとは思わなかったのだろうか。また、恋愛においての非対称性を是正(ぜせい)しようとは思わなかったのだろうか。これは難しいテーマである。
 おそらく、女性もまたそのような歪んだ恋愛認識に加担してきた側面があるだろう。男性の男性による外面的な女性支配を、女性は受け入れることで恋愛をし、結婚し、母となってきたのである。それは明らかに男尊女卑(だんそんじょひ)的なシステムだが、そこに女性は自らを参入させてきた。否、参入せざるを得なかったのだが、一方において、男性が女性を支配することで快感を得て、自らの有能感、歪みに歪んだ自尊心を満たしてきたわけであるが、女性の方はそれを逆手(さかて)に取り、男性に見かけ上自らを支配させることによって、男性を自らに依存させ、その内面を掴み、それにより自らが「愛されている」という実感を得てきたのであろう。男性が社会的な評価を気にする一方で、女性は個別具体的な人間関係において自らがどうであるか、愛されているか否かを気にするのだろうと思う。よって女性にとって恋愛、結婚は、自らが誰か素敵な人物に「愛されている」ことが重要になり、自らが必要とされていることを感じることが快感になるのだろう(このあたりの議論は、何分私自身が恋愛に不慣れで女性を知らないために、全く推測の域を出ない。もし過ちがあれば指摘していただきたい所存である)。だから女性にとって、恋愛において最も重要なことは、相手が自分を愛しているか否かなのである。男は実は愛されているかなどはどうでもよい。男にとっては、相手が自分にとって都合がよい相手であればそれでよいのだ(この点も実はよくわからない。男性がどのように女性を好きになっていて、実際に交際している場合、どのように思っているのか本当に経験が少ないために間違っているかもしれない。)。ゆえに男は面倒事(めんどうごと)を嫌う。男は基本的に自分のことしか見えていなくて、相手のことを気づかうことをしない。よく男は、女がしきりに会話を(男にとっては内容がないと思えるような)したがることを嫌う。ほとんどの男にとって、こう言ってしまうと元も子もないが、究極の目的は性行為であり、日常的なレベルで互いに愛を確認することはする必要がないと思っている。女は違う。女は愛されているかが問題である。性行為も愛を確認する手段である。女は自らがどれほどまでに男を心理的に依存させているかが決め手となる。だから女はしばしばこのようなことを言うだろう。「彼は私がいないとだめなのよね」と。それは、その感覚というのは、女性が非対称な恋愛観を受け入れている例であるが、そこで求められている女性の役割とは、どこか母親的であることに注意したい。男性もまた、女性と付き合うときに相手に求めることのひとつとして、自らの第二の母となること、自分の身の回りの世話をし、自分を癒してくれることを要求することが多い。これはなぜかよくわからない。おそらくであるが、男性は基本的にマザコンであるということを仮説としておきたいと思う(男性と母についてはまた色々勉強したのちになにか書こうと思う)。
 しかしながら、ここまで述べてきた非対称的な恋愛観は、現在でも社会の中で多く起こっていることではあるが、それは古い恋愛観であり、フェミニストなど進歩的な人々はこれを拒否するだろう。恋愛における男女は互いに平等であるべきなのであり、男性のわがままに女性を従わせ、求められる役割を押し付けることは問題があるといえる。この点は難しいことであるから、とりあえずこのあたりで次へ移りたい。
 さて、この章の大きな話題としては、男性から女性への歪んだ見方ということを問題としているが、それはもちろん社会制度や恋愛における問題だけではなく、より日常的に男性が女性に注ぐ視線の中に問題はある。よく言われる言葉で、「女性を性的な目で見る」という言葉がある。より俗っぽく言えば、男性が女性をいやらしい目で見るということである。これもまた難しい問題である。場合によってはそのような視線を注ぐだけで「セクハラ」となってしまうこともある。男性諸君の多くは、ばれていないと思って女性を見ているかもしれないが、ばれている。女性はそれで当然ながら嫌な思いをしている。日常的にである。痴漢というのは接触することによる性犯罪であるが、性的な目で見ることは痴漢の前段階、というか場合によっては、私は痴漢の一つであると思っている。これは正直、多くの男性諸君にとって厳しい事であると思うが、それくらい言わなくてはこの問題については男性側が反省する機会を持たないだろうと思う。今自分への恥と反省の念を込めてこの問題に真摯(しんし)に当たっていきたい。
 性欲を十分に持つ若い男性として、この問題について正直にさらけ出すならば、男は日常的に意識的/無意識的を問わず女性を性的な目で見ることはある。見るパーツは恐らく人それぞれであろうが、おそらく多くは女性の胸や尻であるだろう。確信犯的に、意識的なレベルで女性を性的な目で見ることは、条件がそろえばありうる。例えば女性の胸や尻を注視し、そこから性的な妄想を(ふくら)らませることは、あるだろう。これは完全に意識的に行っていることで、男性は深く反省するべきである。ばれている・ばれていないに関わらず、卑劣(ひれつ)な行為であることを知るべきである。それは意識の上で女性を凌辱(りょうじょく)していることと変わりはない。よく、見るだけで、考えるだけで罪であるのか、それは表現・思想の自由を侵害しはしまいかという意見もあるが、私はここで法についての話をしているわけではなく、あくまで意識のレベルでの話である。法として男性が女性を性的な目で見ることを禁止することはできない。だが一人一人の意識として、そのような視線は女性に脅威(きょうい)をもたらしていることを自覚することは必要である。男性は性的に脅かされることがほぼないため自覚的ではない。それが問題である。男性は自分の歪んだ視線を批判的に見つめるべきである。
 ここまで意識的なレベルについて述べたが、問題は無意識的なレベルである。これは正直扱いが難しい。というのも、男性は時に、意識せず女性の胸などを見てしまうこともあると思うからである。このレベルでは「見る」ということと「目に入る」ということがあいまいになる。なぜなら男性も必ずしも見ようとせずとも、女性を見たときに、どうしてもそこで胸が視線に入れば、その気がなくとも、一瞬、胸の方へ目がいってしまうということはあるだろうからである。もちろん、近くで面と向かって話をしている場合などは、そのようなことはない。そんな時に女性の胸を見ているような男は、明らかに意図的であるからだ。しかし、たとえば遠くから歩いてくる女性を見てしまったときに、胸は自然と視界の中に入ってくる。その瞬間に、全く性的な思いを抱いていなくても、顔やほかの部分ではなくて胸の方を見てしまう。これを解決するには男性は相当に気を配るか、女性自体を注視しないかしかないであろう。恐らくこのような感覚は女性にはまったく理解不能であるだろうが、男性には断固として存在してしまうことであり、正直、罪に問えないであると思う。意識的なレベルで性的にじろじろ女性を見るのは明らかに男の罪である。しかし性的な思いはなしに、視界に入ってきた胸などに一瞬視線の焦点を移してしまうことは、罪として成立させるには明らかに厳しいだろうと思う。ただ、私も強く自戒の念を込めて言うが、男性諸君にはくれぐれも気を付けていただきたいことは、私たちが当然と思い無自覚に行ってしまう様々な愚劣(ぐれつ)な行為が、女性をいかに脅かし恐怖を感じさせているかを自覚すべきである。どうかそのような情けのない行為はやめようではないか。女性を性的に見ることを、今後一切禁止すべきである。女性は、男性の性的な玩具ではないし、性的な目を受容する客体ではない。女性は確固として一人の人格である。しっかりと尊重せねばならない。これは何も改めて言うほどのことではなく、当然のことである。しかしその当然がわかっていない男性諸君が多すぎる。
 ほかにも男性が女性をみる視線は問題を含んでいる、しかし、このあたりで一旦この話題については終わりとしたい。以上のような内容から、私は男性としてそのような視線を持ってしまっていたことを強く恥じている。

私は男に生まれて恥ずかしい

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私は男に生まれて恥ずかしい

  • 随筆・エッセイ
  • 短編
  • 青年向け
更新日
登録日
2020-08-17

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