林檎と僕の右手の中。




 特に林檎は重そうだった。
 新鮮な竹かごは方向を変えてギシっとし,華奢で好きな指の真ん中にから安定するための負担を解いていく。慌てて僕はその歯をもって竹かごを支えるか,そのままに林檎を齧るか迷って,少しの知恵と一緒に林檎を手に取ることにした。熟れた林檎は赤いと分かる。しかしその表面を衣服で磨いたりする好青年の気持ちは理解できなかった(特別潔癖性でもないままに)。
 「カレーに隠したりもせずに口にする最初の一口に短い舌を添えて。」。
 上質で丈夫な紙で制作された取扱い説明書に書かれた一文を口にして,齧る思い。とても明るい日に訪れたお見舞いの味がした。
 気恥ずかしさは心から,起きないベッドのパイプの温もりに寄り掛かる。外の冬は桜の代わりに細かい雪を乗せ,傘は手にあってもまだボタンで,細く閉じられているはずだった。長らくもなっていない姿勢を変える。椅子は一時的に加重になった僕にギシシっと鳴った。





  犬が残した月への段差のように,駆け上がった月日は大きな光に照らされて乱れのないシルエットをありありと蘇らせる。すれば遠吠えは眼下の街の,隣駅までは響いて聞こえただろう(当然に月へは届かなくても。)。しかし途方に暮れる様子もなく,肝心の犬はいない。まるで別に用があるとばかりに,または道を間違えたとばかりに唐突に帰ったような,忙しない空気と雰囲気が漂っている。互いに1つのボンベで互いの酸素を確保し合う深刻なパートナーのように,空気と雰囲気はお互いを生き生きとさせている。だから,「犬がいなくなった」,と言えず「犬がいない。」という表現が生きて止まない。段数を増やしもせず,また減らしもしない能動的な停滞は月の満ち欠けに応じず,人の歩みにも答えない。段差は到着する事よりも,踏まれる目先の1段を待っている。あっという間に終わりそうな続きを待っている。
 すれば遠吠えは眼下の街の,隣駅までは響いて聞こえただろう。
 当然に月へは届かなくても。






 駅を降りてすぐ近く,たった二つある出入り口の(真ん中に立って等間隔で,しかも同時に把握できるその)1つから出てすぐのファーストフードでは,2人のお客様分だけ店内の時間が動いていた。隣のドラッグストアは閉まっているからそこで動いてる時間は,営業時間として中々に深い。
 その時に僕が帰ってきたのは論文のまとめに手間取り,同じ学部の先輩との立ち話に付き合う帰り道になったからだった。先輩はマイルドセブンを吸うが僕は吸わない。「あったか〜い」缶コーヒーが冷める未来を手元で持ちつつ,飲み干しても進まないチビチビした時間を経過したら,左足の調子はぎこちない片足のロボットのように悪くした(後から調子が戻ったのは乗り換え電車に乗った時とはっきり分かった。)。
 人はヒトで,ロボットではない。ぎこちないダンサーのように意図せずカロリーは思ったより減ったので,さらに二軒隣のコンビニまで家から遠ざかる。僕の家は出た駅の入り口とは別の,駅の出口を出る必要がある。だから,楽に帰るにはココがベターなコンビニ選択だ(他のコンビニへはもう少し家を離れなければならない)。缶チューハイにおつまみ(焼き鳥やたこ焼きみたいなハードなもの),明日の野菜パックに新鮮な2ℓの水と布のガムテープを買いたい。忘れないように復唱する。缶チューハイにおつまみ(焼き鳥やたこ焼きみたいなハードなもの),明日の野菜パックに新鮮な2ℓの水を買いたい。
 そうしてコンビニのドアを押す。高校生で新人の女性シンガーに歌われて店内は,特に僕を拒まず通してくれたのだった。



 玄関すぐのカゴは持たず,コンビニの冷蔵庫から2ℓの水とハードなおつまみ(たこ焼きは無事あった。)を持ってから,「お困りならどうぞ」と控えめに置かれた店内奥のトイレ付近のカゴの中に持ったもの全部を入れた。結構な重さのカゴはこれからさらに重くなる。その覚悟を持って商品を探し歩く。布のガムテープを忘れそうになったので,冷蔵庫から遠く離れた雑用品コーナーを目指したのだ。そこまでに角は2回,曲がる。
 1回目は無事だった。2回目はさほど無事ではなかった。
 マスクをして体調は悪そうな男性(と思う。そういう雰囲気だった。)は雑用品コーナーの前を通って歩いて来ていた。上等な薄手のコートと,そのコートが覆っていないために見える胸元から襟元で分かる上品なシャツとジャケット(そこまで来れば合わせて下のパンツも)を身に付け,片手で持てるビジネスバックはバックから良く一円の乱れもない勘定を済ませて来た佇まいを感じさせていた。コーナーの棚から頭1つでない背の低さ以外はいい意味でしか目に止まらない人物像を備えていた。
 その人が男性と確定できないのはその目にある。



 僕は左側にあった乳製品コーナーの一角を占めるチーズケーキに気を取られてはいたが,互いにぶつかったのはその男性(仮)の背の低さにあったと言える。角を曲がるまで先立つ気配に見合った姿を確認出来なかったのだから,そう断じていい。 その男性(仮)とは丁度角でぶつかったのだ。
 僕が手に持つカゴの先端は男性(仮)の下腹部に衝撃を与えた。そしてカゴを伝って僕に男性(仮)を知らしめた。「しまった!」と思うより先に「すみません!」と謝っていた。男性は「ウッ!」と飲み込んだ呻きとともに顔を上げる前に『イイヨ,イイヨ。』と,ビジネスバッグを持たない片手でその内部の意思を示した。近くで立ち読みしこちらを気にしていた男性(こちらは男性に間違いはない)1人を含めた3人の中で,起きた事の済んだ了解はその片手を中心に生まれつつあった。
 そこに引かれて目は合った。
 一歩引いてでも僕の後ろまで含めて了解するような,全方位な視線。黒目は地面をきちんと捉え,靴紐の乱れも静かに教え直すように白目の中に居て,今日着ていた糸がほつれ気味のインナーTシャツも許されていた。そして起こす身に関わらず,四分割した白目の部分はどこまでも濁らなかった。 僕は男性とは何かを考え,だからその目は男性でないと判断した。
 (仮)がついたその人は曲げていた下腹部を正し,上等な薄手のコートと,そのコートが覆っていないため見える胸元から襟元で分かる上品なシャツとジャケット(そこまで来れば合わせて下のパンツも)をシャンとし,軽い会釈で去って行った。僕の後追いの,謝罪も込めた会釈は多分背中越しでも届いていたと思える。
 そして僕は布のガムテープを見つけ手に取った。
 僕はこれで何を貼り付けようというのかまでは考え切れなかった。



 やたら丁寧な店員に当たらず,常にぶっきら棒に小銭まで強く渡す2人目の店員に特に何も言わず店外へ歩んだ。蛍光灯ははっきりと入り口付近を照らし,カラフルな中身の布が「ウリ」の財布の小銭いれを露わにする。多くの十円玉よりもさらに奥に入れていた,外国硬貨を取り出した。施された彫像は男性で,しかし磨り減った結果として,鼻が丸い背広を着た賢い犬のシルエットで遠くを見ている。遠近法を用いて,せっかく見えている丸い月の横でその位置を固定した。犬は賢く丸い月を右向け右で見つめる。昨日からの雨と今夜訪れた深夜に向かう気温で,摘まむ硬貨の金属はギュッと中心を強める錯覚を指先で覚えた。衛星のように離してから近付け,それを繰り返してから,適切にどう言っていいかコンビニの玄関先では明確にならない距離が良いように思えた。その間に水は綺麗に流れ込み,勢いを削り取られることなく反対側に回って出ることを可能にする。例えるならその距離感は一番硬貨が落ち着き,月夜の晩も静かなまま深夜の野菜も,美味しく頂ける。
 戻した小銭ごと財布をジャケットの内ポケットに仕舞い,僕はコンビニから道路に行くための3段の階段を降りた。『タンタンタンッ』と鳴った過程は家路まで途切れることなく続く。なので僕は歩みを進めた。先ほどは出口だったファーストフード店前の駅の一方の入り口を通り,先ほどから玄関だった駅のもう一方の出口を通る。すぐに道路にぶつかるけど,今なら渡れそうだった。僕は少しかけ走る。袋は遅れてシャカシャカする。2ℓの水に乗っけられて賢く犬が食べない野菜はパックされ,缶チューハイは何も言わずに一緒に僕は,ただいま家路へ向かう。




三.五
 林檎の生育を語るにはまず剪定作業から始めるのがいい。そこには確かな光がある。木々の気持ちになる,必要性がある。それは生育場所の樹々の伸び方に陽の出入りを(透き通る絹のように)上から重ね合わせ,切っちゃいけない左から切らなきゃいけない右を抜いて,残すべきという大事な決意をここでは点線で残すことだ。それを鋏で現実に切る。例えば雪の上,あくまで軽く落ちる枝はついて来る小さい娘のお手伝いで拾い集めたり,仕事として大人に取られたりする。切った先から,木々の間から,見えるオレンジの朝陽に,その成否を信じるのだ。
 花が咲いたなら蜜蜂に託し,実がなったならまずは喜ぶ。それからでも間引きは遅くない。気持ちは少しも嘘にならない(消費者は綺麗な色と実の林檎を求め,生産者はそれに適った商品を送り出す)。眈々と汗をかき,粛々と作業を進める。昼には御飯を食べ,娘と一緒にお茶を飲み(たまにはリンゴのジュースも,娘は飲んで),終わるまで作業する。それは夕方ぐらいになるかもしれない。陽の色は違うオレンジに見えることもあるかもしれない。
  寒暖差は色を生み,秋の気配の匂いもする。傷付きやすい色を思い,実の周囲の葉も整え,広がり深まる年齢のような自然な行く末を見守る。帽子は脱いで,娘の背も少し伸びた。妻と一緒に歳もとる。人に比べる林檎の,早々とした完熟を迎える日を待っている。
 梱包の前に収穫する。梱包の後に出荷する。林檎は運ばれ,鋏を思い出す。
 そこには確かに,光があるのだ。






 昨日の野菜と一緒に僕は,貰った林檎を齧る(カレーに隠したりもせずに。口にした最初の一口に,短い舌を先に添えて。)。水は飲むたびペットボトルが軽くなるけど,また買いに行ったりすれば良い。電力不足で短針が長針に震えて止まっていた机の上の時計は,破いたばかりの単三電池を背面に当て込んで動かし直す。短針の震えがとまって先が右方向に落ちては上がるを繰り返し,ゆっくりとして長針が大きく時を刻んでく。まもなく一時間も進む。出掛ける時間との間が縮まる。
 影絵はどんな機会でするのか。手元を照らすライトを手前に置き,向こう側で遊ぶ理由。そこら辺りが今の僕には上手く言えない。こちら側なんて曖昧で,遊びに行った向こう側からひょっこり戻ってる,そんな時分。口を開けたままでないと自分より小さい子に「それ,オオカミ!」と言われる自信が無いから,口を開けてから締める4本と1本の僕の右手。
 『ハロー,ガオー。』。
 『ハロー,ガオー。』。
  単純な動きに合わせて単純な台詞を回す。そこで犬とも指摘されれば色々な鳴き方も工夫出来るのだ。影絵はそうして始まるイマジネーション。論文と別の,仕事の合間にもスタンドのライトアップで壁を照らそう。
 まだまだ時間はあって,そこには確かに光もある。
 こちら側なんて曖昧で,遊びに行った向こう側からひょっこり戻ってる,そんな時分。口を開けたままでないと自分より小さい子に「それ,オオカミ!」と言われる自信が無い。
 だから口を開けてから締める4本と1本。
 僕の右手の中にある。

  

林檎と僕の右手の中。

林檎と僕の右手の中。

  • 小説
  • 短編
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-13

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