ふたりでショパン

佐藤

1 KK IIa No. 1: Polonaise in G minor


安姫(あき)の家の広さときたら、とにかくただ事ではない。せめてもの救いは、スタート地点の格納庫から目的地のバルコニーまでが、さほど離れてはいないことか。
 
「枡実(ますみ)、マット敷けた?」
「オッケ、今そっちに回るから!」

そう言うとあたしは安姫の隣に立つ。じんわりと汗の浮かぶうなじから、ふわりとシャンプーの香りが立つのをそれとなく感じながら。

「よっし、じゃ……せー、のっ!」

いくらキャスターがついているとはいえ、なにせガチもののグランドピアノだ。成人男性三、四人には届こうかという重さのシロモノを、細腕の女の子ふたりに運搬させる。控えめに言って広永先生、つまり安姫のお父さんの頭はお茹だりになっていらっしゃるのではないかしら、と思う。

ピカピカに磨き上げられた廊下を傷つけないため、厚手のショック吸収マットを二枚組で使う。一枚の端まで行ったら、もう一枚をその先に移動して、継ぎ目でピアノのキャスターがフロアを引っかかないように、あたしがピアノの隅っこを頑張って持ち上げ、その間に安姫が頑張って押して、継ぎ目を乗り越えさせる。ピアノに付くキャスターは四つ。つまり四つ分を持ち上げ(いや持ち上がらないけど、少なくともマットの継ぎ目を引きずってフロアを傷つけるようなことはしないで済んでる)、バルコニーに至るまでの道筋を、青息吐息で進む次第だ。

「つ、ついだぁ……」

初夏の日差しがさんさんと降り込む、その片隅に安姫はピアノを配置すると、何はともあれピアノの側面にぶら下げてあったペットボトルをひとつ取り、ぐい、と飲む。

「ん」
「ん」

おおっと広永さんそれは間接キスってやつですよイイんですか、ここにのさばる金谷枡美、しれっとした顔してますがなかなかのケダモノでして、ちょっとでも相手の視線が外れれば下手すれば広永さんが口をつけたところをくんかくんかし始めるかもしれません、けど、いまはそいつもだいぶのどが渇いてたので、一も二もなく口にするのです。内心で役得役得とか思いながら。にげてー広永さんにげてー。

「枡美にここに来てもらったの、久しぶりだよね」
「中学生のとき以来、かな? あの頃から忙しくなり始めたしねー、お互いに」
「ここからは、もっと忙しくなるよ」

そう言うと、半袖Tシャツにジーンズ、お世辞にもらしからぬ服装のまま、けどそのお辞儀には一流のピアニストとしての誇りが十二分にうかがえた。

「だから改めて、ありがとう。聞きに来てくれて。広永安姫、ウィーン出立前のスペシャルリサイタル。本日は金谷枡美様のためだけに、全力で弾かせていただきます」
「録音していい? プレミア付きそー」
「ばか」

くすりと安姫は笑う。けどそれも、ピアノに向き合った途端に真剣そのものになる。

よく知っている、そして、久しく間近では見ることのなかった顔だ。こうして穏やかな気持ちで目の当たりにすると、なんと高貴で、美しい顔なんだろう、と思う。

繊細なタッチ、控えめな音量から導き出されるのは、ショパンの「ポロネーズ第11番ト短調」。

十才になるか、ならないか、みたいな頃のピアノコンクールのことだった。当時ちびっこなりに天才だと信じて疑ってなかったあたしは、安姫の11番を聞いて、ハンマーで横っ面を引っぱたかれるみたいなショックを受けた。同い年で、こんなに弾けるやつがいるなんて! って。

それは安姫にしても同じだったみたいで、お互いの出番が終わったあと、驚きと、あと喜びとを交えて、あたしに近づいてきた。
見栄っ張りだったあたしは「すごい、すごい!」って子犬みたいにじゃれついてくる安姫に対して「あんたも悪くなかったよ」みたいなことを言った。はにかむ安姫を見て、なんだこの可愛い生物は、みたいに思ったっけ。

あの頃から、安姫のピアノは輝いてた。それは今も変わらない。どころか、あの頃とは比べ物もない華やかさでもって、あたしを圧倒してくる。

11番が終わるとそのまま、あたしと安姫の間を折々に結びつけてきたショパンの曲が続く。どれもが記憶にある通りの、けど、より新しく、より輝かしい、安姫の音だった。

曲の合間に、ふざけて茶々を入れる。

「ねぇ、リストやってよリスト。ショパンばっかじゃ飽きてくるんじゃない?」
「なら枡美が弾いてよ。喜んで拝聴させていただきますけど?」
「おー怖、勘弁してよ」

わざとらしく怒ったような顔から、ぐるっといたずらっぽい笑みに転じる。くそう、この小悪魔。

まぁ、もともと今日はショパンのみ、と言う話だったのだ。聞き入れてもらえるとは思っちゃいなかった。

二年後、ポーランドの首都ワルシャワで、ショパン国際コンクールが開催される。言ってみれば、世界一のショパン弾きが誰かを決める、というものだ。既に安姫はコンクールに照準を絞り、準備を進めている。ウィーン入りもその一環で、日本にいるといろいろと雑音も大きいから、一流のコーチのもとでコンクールの準備に専念できるよう安姫が希望し、広永先生のご助力を仰いだ。

実は先生、あたしのためのリサイタル、なる安姫の申し出には、ものすごく渋い顔をなさってた。ただでさえ忙しいのに、そんな中で、いくら十年来の親友のためにとはいえ、わざわざたったひとりのためになんて、と。

先生との間にどんなやり取りがあったのかは、よくわからない。けど「準備は自分たちでやれ、片付けはやってやる。それと、この大事な時期にショパン以外を弾くことは認められない」なるお言葉からは、先生の複雑な気持ちがにじみ出てきているように思う。

とはいえ、ショパンのピアノ曲はゆうに二百曲を越す。そのチョイスも、バリエーションも、その気になれば自由自在だ。

時には陽気に跳ね回り、かと思えばしっとりと、ゆったりと。曲が変われば、安姫のたたずまいもがらりと変わる。どこかの小説で読んだ、さまざまに表情を変える月のようだ、なる比喩が、ふとあたしの頭の片隅によぎる。

言うまでもなく、極上の時間である。安姫の指からもたらされる音の奔流に身を任せ、あたしは、小さく吐息をもらす。

――あぁ。どうして、こんな音を憎いと思ってたんだろう。



2 ふたりでショパン


 ――作曲科に行くって、本当?
 ――うん。
 ――じ、じゃあ、もう一緒に弾けないの!?

この世の終わりだ、とばかりの顔をする安姫に、どれだけの怒りを覚えたことだろう。けど、あたしは曖昧な笑みしか浮かべられなかった。「あんたの隣にいたら、いつかあたしは殺される」――喉まで出かかった言葉だ。それを言ってしまっていたら、いま、この場にいられたかどうか。

否定のしようもないことがある。ピアノは、明確に演者に格差をつきつけてくる。神様がどうこうなんて言うつもりはない。一緒に走ってると思ってた安姫が、あたしなんかよりずっと速かった、それだけのこと。

コンクールの成績だけで言えば接戦とも言えただろう。けど、あたしの指が知らず知らずの内に、安姫の音をなぞろうとする。なぞれてしまったときには、時には安姫に勝つことだって、あった。けど、それはあたしの音なんかじゃない。

人のうわさは、なんだかんだで耳に飛び込んでくるものだ。「マネまでして、広永に勝ちたいのか?」みたいな言葉を、何度耳にしたことだろう。じゃあお前はマネできるのかよ、とは言いたかったけど。

安姫の音から離れようともがけばもがくほど、あたしは調子を崩していった。隣で無邪気にあたしとの勝負に一喜一憂するその顔が、だんだん憎らしくなってきた。しかも、そのピアノは時を追うごとに輝きを増す。まるであたしの影を焼き尽くさんか、とでもするかのように。

同じ高校を卒業し、同じ音大に合格する。その頃になると、あたしの心はズタボロになってた。作曲科に進み、どれだけ安心したことだろう。もうこれで、安姫と比較されずにすむ。自分の中にへばりつく安姫の音と、戦わずにすむ。一方で、無二の親友を裏切った負い目が、あたしの進む足を重く縛りつけもしてきたのだけれど。

何回かの学内コンクールで、安姫のピアノを改めて聞くことがあった。

天才ぞろいの音大の中にあって、それでも安姫の音はひとつ、ふたつは抜きん出てたと思う。ただ、あたしと一緒に弾いてた頃と比べたら、ずいぶんと凍てついた、機械的なものにはなってた気がした。みんなが安姫を称賛しながら、けど遠巻きにもしてるのを感じ、歯がゆさを覚えた。

違う、安姫のピアノの価値は、ただすごいことじゃない、あのきらめきにあるんだ――あたしは居ても立ってもいられず、えらい勢いで、小曲を書き上げた。あたしの知る、満開の花畑みたいな。そんな安姫の音を思って。

書き上げたところで、あたしは気付く。
好きなんだ、ひたすら、安姫の音が。

そんな本心から目をそらそうとすれば、指がついてかないに決まってる。自分の意固地さにあきれながら、一方で確信もする。

きっとあたしは、丹念に育て上げた呪いを、安姫に押し付けてしまったんだ。

「ねぇ、枡美」

いままた一曲を終え、汗をきらめかせながら、安姫が言う。

「ピアノ協奏曲第一、行ける?」
「行けるって何よ」
「もう一台ピアノあったら、セカンド弾ける? ってこと」
「はぁ?」

いきなりのムチャ振りにもほどがある。

ピアノ協奏曲。ショパン・コンクールの決勝における課題曲でもあり、第一と第二がある。ともに三楽章合計で三十分を越してくる大曲だ。

オーケストラとの協奏なんて、簡単には実現しない。これらの曲を練習する場合は録音音源に頼ることが多い。けれど、それだと生の音ならではのゆらぎが生じづらく、固い演奏になってしまいがちだ。だから、オーケストラの楽譜を抜粋したピアノ譜が存在している。それが安姫の言う、セカンド。

「やれるわけないじゃん。弾けって言われたら、まぁできなくもないだろうけどさ。天下のアキ・ヒロナガとの連弾なんて、とてもとても」
「へぇ? なら、歌って?」
「はぁ?」

間抜けな返事を二連発だ。
恥ずかしいったらない。

「あんたね、何ムチャクチャなこと――」
「そぉお? 私たち、ふたりでフレデリック・ショパンじゃなかったっけ?」
「忘れなさいよ、そういう黒歴史」

ひどいやつだ、ひとがどこを嫌がるのかわかって、的確に突いてくるんだ。

大学生活の、後半。すっかり孤高のひとになってた安姫は、ひとりきりで練習してることが多かった。もはや部外者のあたしでも、練習中の安姫に近づくのは簡単だった。

いきなりの思いがけない乱入者に、その冷たい面持ちのまま、固まった安姫。あたしはそこに、手書きの楽譜を押し付けた。

いつまで閉じこもってんのよ、あのころの安姫に、早いとこ戻んなさいよ。そんなふうに言ったと思う。

よく事態を飲み込めないまま、安姫は譜面に目を落とした。ひととおりを追ったあと、ぽつりと漏らしたのは、「かわいい」の一言。

そいつがあたしのブレーキをぶっ壊した。

まくし立てた。あたしが作曲科に言ったのは、安姫のためだけの一曲を贈りたかったからだ、って。恋い焦がれてやまない、唯一無二の音に、最もフィットする音楽を載せるのだ。それは誰よりも安姫の音楽をわかってる、あたしにしかできないこと。

その流れで口走ったのが、安姫の言う「ふたりでフレデリック・ショパン」だった。

フレデリック。日本語に直すと「安寧をつかさどるもの」となる。広永先生は熱心なショパンファンでもあるから、その流れで安姫、という名前を付けたのだ、と聞いた。
そして、ショパン。これは水だとか豆だとかを量る、500ml 弱の計量コップのことを指すのだそうだ。なら、強いて日本語に直してみれば、枡。

安姫がフレデリック、いや、女性名にしてフレデリカか。そしてあたしが、ショパン。あたしたちは二人で組んで、何かどでかいことをやるさだめにあるんだ、と、今思い返すと、いったい何に酔っ払ってたんだ、みたいなことを言いだしてた。安姫の肩を乱暴につかんで、ドバドバ涙を流しまくりながら。

ひとが大マジも大マジだったってのに、安姫ったら、しばらくあっけに取られたあと、よりにもよって爆笑、だったもんね。

ほんと、ひどいヤツだ。



3  間にある


「できるでしょ、私のショパンなら?」

あたしの思考をぶった切るように、またも挑発的な言葉が投げこまれてきた。

安姫を見る。笑ってる。ただ、そいつを言い表すのに適当っぽい言葉は、たぶん――信頼。

椅子から半分ずれ、ちょい、ちょいと空いたスペースをたたく。誘いに応じてあたしが歩み寄ると、安姫はピアノに対して、横向きに座り直す。

そしてあたしは、背中合わせに座る。

ここまでで、一時間。いつでも安姫の演奏は全力で、背中越しに伝わる呼吸はやや荒く、その汗は、熱い。

「いつも言われっぱなしで悔しいからさ、私も、ずっと考えてたんだ。枡美のこと。それで思ったんだ。枡美ほど音楽に愛されてる子なんて、そうはいないんじゃ、って」
「なんでよ。安姫のほうがずっと――」
「違うよ。私と音楽は、一体になるものじゃない。向き合って、戦ってる」

こつ、と、安姫の後頭部が、あたしのうなじに当たる。

「いつも怖いんだ。この曲の思いを、魅力を、どれだけ引っ張り出せるんだろう、って。頭の中で歌えたものを、どれだけ表現し切れるんだろうって。だから、私は弾くしかないんだ。曲が私を通して現れたって言う、確かな形にできるまで」

思いがけない言葉だった。

あたしにとって安姫は、いつでも太陽のようなピアノを弾く存在で。その指で、唯一無二の音を導き出すことを、心底喜んでいる。そんなイメージがあった。

「あ、もちろん楽しいよ?」
「エスパーかよ」
「枡美限定のね」

よくこういうこと、しれっと言えるもんだ。

「ただ、じっと見てるんだ。奥底で。はじめのうちは使命感なのかな、とも思ってた。それがお父さんの娘に生まれる、ってことだし」

広永先生はあたしたちの母校で教鞭も取っておられるが、それより前に、ひとりの大ピアニストでもある。何度となく、満員の大ホールで、先生のピアノに心揺さぶられたものだ。

「けど、違う。奥底のその向こうで、うごめいてるなにかを感じるの。その正体が、ここ数年でようやくわかったんだけどね」
「正体?」
「音楽を聴く人たち。私のピアノを、ってだけじゃなくてね」

ずいぶんと壮大な話になってきた。けど、妙にすとん、と腑に落ちてしまうのだから不思議だ。

「私は音楽と、人々の間にあるんだ。それをどれだけうまく伝えられるかは、いつも私の頭の片隅にあり続けてる。心強く、頼もしく、けど時に恐ろしい隣人。それが、私にとっての音楽。向き合わなきゃいけないものなの」

ずいずんと観念的な話であり、正直どれだけ安姫の言葉の意味をくみ取れたかはわからない。けど、わかることはある。

安姫がそう思っているからこそ、安姫にとってあたしは、「音楽に愛された存在」なのだ。

「珍しいじゃん、あんたが自分語りなんて。けど、いまはあたしのこと話してくれるんじゃなかったの?」
「あっ!」

天然かよ。

なんだかもじもじし始めたのが伝わってきた。「えっと、それで、あのね、」って、もにょもにょしてくる。

「ほ、ほら、枡美ってさ。早いじゃない。譜面見てから、実際に演奏するまで」
「まぁ、だいたい初見で行けるよね」
「しかもさ、いきなり完成度高いじゃない? それってなんでなんだろって思ったんだけど、たぶん譜面だけでも、枡美、見えてるよね? その曲の全体像」
「んー。そう……なの、かな?」

まずは言葉をかみ砕く。
これまでも、よくあったのだ。ぱっと聞きでよく意味がわからなかった指摘が、実は思いもかけず痛いところをついてきたことが。
安姫はあたしをよく見てる。なら、その言葉にも、きっと込められた意味がある。

確かに、あたしの暗譜は速いらしい。転写だなんて言われたこともあるくらいだ。
譜面から音を組み上げ、途中途中にキーポイントを設ける。各キーポイントの接続をフレージングやリズムから関連付けて、つなげあわせる。そうして導き出した作品のテーマから、各フレーズを導き出し、音にする。譜面確認から演奏までのルートを大ざっぱに描いてみると、こんな感じだ。
そこに安姫の全体像が見える、って言葉を組み合わせれば、各フレーズを展開する必然性を見いだすのに長ける、って辺りになるだろうか。

「あるべきフレーズを、あるべきパッセージで弾く。そんなもんじゃない?」
「そんなもん。そんなもんだけど、普通実現できないからそれ」
「うーん、確かに難しいフレーズとか指まわりきんないよね」
「いやー、そこでもないんですよねー」

なんだよちくしょう、なぞなぞかよ。

と、それまでの少しふわふわした口ぶりから、ややトーンが沈む。

「ただ、もう答えは枡美も言ってるんだけどね。あるべきところの音、言い換えれば、あるべき曲の形。音楽に愛されでもしなきゃ、そんなすぐに見いだせるものでもないと思うんだ」

そう言うと、いきなりあたしの手を握ってくる。

「枡美さ、ちょくちょく陰で言われてたじゃない。私のまねするな、って」

ひく、と頬がつりかける。

「不思議だったんだ。わざわざ私の音なんかに寄り掛からなくたって、出すべき音はわかってるはずなのに、って。けど、いつ頃からだったかな。そんなこと言ってられる余裕もなくなっちゃって」
「なんでよ」
「気付いちゃったのよ。枡美が私の音そっくりになるときって、だいたい私がやりたい、って思ってたことを先にやってたの。わかる? 誰にも聞かせてなかったはずの音を、いきなり聞かされるショックがどれだけか!」
「んな大げさな……」
「全然よ! これでも控えめなくらい! そこからはもう、毎回死にものぐるいだったのよ! 私の理想は現実になっちゃった、なら、どうにか超えるっきゃない、って!」

つかんだまま、ぶんぶんと手を振ってくる。
名前が名前なだけありお姫様っぽく見られることも多い安姫だが、そこはもうピアニスト様、一流のアスリートだ。現役引退して久しいあたしなんぞ、振り回されるがままになってしまう。

「あーいや、ありがたいはありがたいけどさ、なんであたしもみくちゃにされてんの」
「だって悔しかったんだもん!」

ようやく、ぴたっと止まる。
あたしたちの手は、なぜか天高く掲げられていた。

「けど、だからこそわかったこともあるんだ。枡美が描けるのは、譜面だけじゃない。私の音についても、そうなんだって。枡美が私を、ときに引っ張り、ときに急き立ててくれる。だから私はここまで走ってこれた」

ところで、そろそろ手ぇ離していい?
照れ隠しに、できるだけぶっきらぼうに言う。
却下された。下ろしはしてくれたが。

「だからさ、出発の前に、どでかいのをもらいたいの。私のショパンの音楽を、胸いっぱいに詰めて。それで、世界と戦っていけるように」

きっといい顔をしてるんだろうなぁ、見れないのがちょっと悔しいや――そんなことを思いはしたのだが、あとから聞けば、このとき安姫は懸命に泣くのを我慢してたそうだ。なんてこったいだ、理解できた、と思っても、やっぱり安姫はむつかしい。

あたしはいちど、ざっくりと第一を思い起こす。何回か通しで弾いたことはある曲だし、思い出せないことはない。けど、やっぱりピントはどうしてもぶれがちだ。

ただ、そこに安姫のピアノが載ってくるのなら。

「ったく、うちのお姫様のわがままには、大概慣れたつもりでいたんだけど」

椅子から立つと、自由だった方の手で、くしゃ、と安姫の髪をなで回す。

「やるからには、全力だからね? あんたが手ぇ抜いたと思ったら、すぐにおしまいにするから」
「私が? まさか!」

ようやく、手が離れた。
ちょっとさみし……いや、なんでもない。

乱れた髪を手ぐしで直し、ピアノと正面切って向き合い。傍らのバッグからは、第一の楽譜を取り出して。

「もう覚えてるんじゃないの?」
「そりゃね? けど、隣に必要な人がいるでしょ?」
「あんたね、なめるのも大概に――」

言いながら、安姫の後ろに回り。
がっしと、その両肩をつかむ。

「なんて言えりゃ、カッコいいんだけどね。甘えさせてもらうわ」

ふふ、と小さく笑うと、安姫は鍵盤に手をかけた。



4  Piano Concerto No. 1, CPT.1


ショパンのピアノ協奏曲第一をあえて物語に捉え直せば、主人公が自らの改革を願って新天地に出ようと決意し、旅先で己の内面と向き合い、大いなる気付きと、喜びを得るに至る……となるだろうか。

第一楽章のオープニングは勇壮とも、悲痛とも取れるフレーズだ。第一主題、メインテーマとも言われてる。その後にきらびやかな情景を交え、やがて希望と展望を感じさせる第二主題が現れる。この二つをオーケストラがひととおり提示したのち、ピアノが改めて第一主題を奏でる。

あたしから何を言うまでもなく、ピアノが入るまでの導入部は安姫が弾いてくれた。

オーケストラの多彩な音の絡みを、ピアノは最大同時発音十の内に収めなければならない。だのに、歌えともなれば、さらにそれを、たったひとつのラインにまとめ上げる必要がある。

確かに、独唱って形式もこの世には存在する。けどこの曲の景色は、始めから多くの音ありきで描かれてる。ピアノと一緒ならさておき、歌一本で導入を奏でるのには、いくらなんでもムチャがありすぎるのだ。

と、目が合う。

ピアノが入ってくるところ、第一主題を、あたしに歌わせるつもりらしい。

望むところだ。

あたしたちがたどってきた道のりゆえでもあるんだろう。第一主題が示す重さは、あたしたちが勝手に背負い込んだ孤独、その苦しみに合致する。

歌詞なんかは、当然ない。全編スキャットだ。

たった一人で歩まねばならないこと、過去からの決別、強くあらねばならない、という覚悟、あるいは呪い。

あたしが安姫を切ったこと、安姫があたしを失ったこと。フレーズを通して、お互いの気持ちが混じり合ってくるかのような気さえする。

第一主題はメインフレーズが二回繰り返される。一回目をあたしが歌い上げたところで、安姫のピアノが合流する。

ここからピアノは、流麗で、しかしはかなげなフレーズを奏であげる。あたしはそこに、寄り添う形で、控えめな歌を重ねる。

新たな決意を告げるかのような力強いフレーズをはさみ、曲は美しきポーランドの景色を歌い始める。

穏やかな展開が、やがて激しさを増す。美しい景色と、うねる内心との葛藤。あたしと安姫のボルテージが高まりゆく。

やがていちどピアノが退場し、あたし一人で歌う所に差し掛かる。ただ、安姫はそこに和音をかぶせてくれる。

この音が、また雄弁で困る。「それが枡美の歌いたいこと?」「もっと奥から掘り起こせるんじゃない?」みたいに、あたしをはやし立ててくるのだ。

こちとら声楽科じゃないんだ、こんな始めっからいきなり飛ばしたら死ぬっつーの。目で訴える。が、声なき返答は「しらんがな」だ。

そこまで挑発されて、あたしだって引っ込んでなんかいられない。やってやろうじゃん、渾身のアルトボイスを、安姫の和音に絡める。

「そうそう、それそれ」

一言の後、ピアノが復帰するパートに差し掛かる。紡ぎ出された安姫の音は、悔しかったが、こう表現するしかなかった――美の極致。本来なら、あたしが独占していいもんなんかじゃない。心の底から、そう思う。

ピアノは華やかさ、きらびやかさを提示しつつも、徐々にその中に重さをまとい始める。ピアノと歌とで混じり合い、テンションが高められていく。

そして再び現れる第一主題を、二人で歌う。

曲の終盤で第一主題が現れてから、楽章の終わりまでは終始シリアスな雰囲気が続く。

愛する故郷に思いをはせ、しかし、それでもなお前に進もうとする決意を新たとするかのように。そこに、安姫の強い思いを感じ取れたような気がした。

先に進みたい。さらに、高みに。

それでこそ、安姫だ。なら送り出すあたしだって、負けないくらいの強さを込めてやる。第一楽章は約二十分、普通に考えれば五キロ弱を走るのにも匹敵する時間だ。すでにだいぶバテバテにもなっていたが、まさか安姫のテンションを、あたしが下げるわけにも行かない。ぐっと息を吸い、声を出す。

そして第一楽章、最後のいち音を、安姫がたたく。

しばしの余韻に浸り、それから、あたしは膝から崩れ落ちた。

安姫が吹き出す。

「っちょ、枡美、飛ばし過ぎじゃない? こっちは楽しかったからいいけどさ」
「んな、っんた、わかるわけ、ないっしょ、ペース、なんか」
「ま、そうだろうけどさ」

くすくすと笑いながら、指で転がすのはワルツ第6番変ニ長調、いわゆる、子犬のワルツだ。ただでさえ飛んではねての可愛らしい子犬が、安姫の手にかかるとまたたく間に広永家の愛犬家ミケランジェロ(黒の豆柴)に変わってしまうのだから恐ろしい……別に恐ろしくはないか。しかし純日本犬にミケランジェロってまじでどーなの。

ピアノのそばにおいてあるカバンはさながら魔法のポケットで、ひょっこり水筒に入ったお茶があらわれる。まったく、用意のいいことだ。

受け取ると、一気に三分の一くらいを飲み、呼吸を整える。疲れはしてる、けど、このノリと勢いを切ってしまうのももったいない。ちらりと目線を向ければ、安姫も心得たものだ。第一楽章とはうってかわった、穏やかで優しいメロディを奏で始める。

第二楽章のテーマはロマンス、速さはラルゲット。一説によれば別れた恋人との美しき思い出を曲に託した、とのことだが……

いやぶっちゃけ、セックスしてるよね? これ。



5  Piano Concerto No. 1, CPT.2,3


北緯五十二度、日本の宗谷岬よりさらに北にぶっちぎるワルシャワの日差しは、きっと真夏でも穏やかで、柔らかなものだろう。

なかば開いた窓からは涼やかな風が吹き込み、白いレースのカーテンを静かに揺らすのだ。すき間からのぞくのは、よく手入れされた庭園の、短い夏を楽しむ、色とりどりの花たち。しかしショパンにとっては、どのような景色であっても背景でしかない。その豊かな亜麻色の髪を揺らし、あるいは無垢な少女のようにかれに甘え、あるいははたおやかな淑女のようにかれを包み込む、(当時の)最愛の恋人、コンスタンツィアとの、セックス! くそ!

なんと言うんだろう、生々しい、生々しいのだ。全編が「美しいあなたとの思い出がいまなお彩りをもってぼくにささやきかけてくるのです」とでも言わんばかりで、正直この曲を聞いていると見ず知らずのコンスタンツィア女史に同情してしまう。天才音楽家の手にかかってしまえば、曲調そのものがひとつの写真や絵画、現代で言い換えるなら映像みたいなものだ。彼女はショパンと別れたあとも、その音楽で「輝かしき日々」を克明に記録されてしまっている。しかもショパンによるラブラブちゅっちゅビーム増し増しの状態で。大丈夫なのかこれ、受け取られ方しだいじゃかなり凶悪なリベンジポルノじゃないか。

……などとついつい語り倒したくなってしまうのは、まぁあたしがろくな男に巡り合ってないせいなんだろう。わかっちゃいる、いるんだ。だいたいあたしにしたって、安姫と交われないぶんの代替を男に求めたようなもんで、ある意味おあいこだったんだろう。

あいつらのせいであたしのショパン観がだいぶねじ曲がってしまったのは由々しき事態だが、けど、あいつらとの物足りない時間のおかげで気付かせてももらえたこともある。

すなわち、安姫と音をかわし、交わらせているこの時間は、もはやセックスしていると言っても過言ではないのでわっ……!?

べいん、と安姫が、やや調子の外れた、乱暴な音をたたき出す。ちっ、見抜かれたか。

第二楽章は第一楽章の約半分の長さ、力強さよりも表現力が問われることもあり、通常は終わったまま、すぐ最終楽章に突入する。

っが、あえて安姫は、止まった。

「枡美」
「ん?」
「わかってる、よね?」

うん、笑顔だ。
とってもいい笑顔。
ゾクゾク来る。

「はいはい、承知しましたよ」

いいじゃないか、さっきのがあたしに表現できる、最高の第二楽章だっての。そんなことを思いつつ、気持ちを切り替える。

なにせ第三楽章は、全編が実にダンサブル。ものすごいスピード感で、一気にまくしたてられる。絶好調の安姫が弾けば、それはもうジェットコースターのようなものだ。はじめの音が入った時点でわかる。ぬるい飛び込みしたら振り切るぞ、とでも言わんばかり。まったく、そいつはあたしが言ったことじゃないか。

はじめは、比較的おとなしい。そこであたしと安姫は飛び跳ねるかのように、お互いの音をリンクさせていく。安姫が一音を弾けば、あたしが一音を歌う。それがどんどんと加速していき、まるであらゆる世の中のしがらみから抜け出そうか、という勢いで、あたしたちの音は絡んでいく。

さっきの子犬のワルツでわかってたことじゃあった。くるくると転がる音は、ものすごい遠心力をあたしの歌にぶつけてくる。

食らいついてやる、とは思わない。逆だ。あたしこそが振り回してやる。安姫のピアノを振り回すなんて、この世であたし以外の誰にできるのか、ってなもんだ。

ここから先、安姫は世界を相手にして戦うことになる。ショパン・コンクールに集うのは、間違いなく世界のトップピアニストたち。そう簡単に勝てる相手じゃないだろう、いや、勝ち負け、というのも違うのかもしれないけど。

あたしは、ピアニストとしての勝負からは降りた。けど、音楽家としてまで降りたつもりはない。むしろ安姫とは、ここからますますぶつかってかなきゃって思ってる。なら、いまがいくらあたしに不利な状況でも構うもんか。

安姫のピアノはもちろん譜面に従ってるけど、あたしのほうはわりと気ままに飛ぶ。あたしが定石を外せば安姫は「そうきたか」とばかりに笑う。けど、すぐにあたしがどこに向かいたいかを悟り、ピアノの表情を合わせてくる。まったくお心強い限りだ。

このピアノで、ポーランドの人々はクラコヴィアクと呼ばれる踊りを踊れるのだそうだ。それがどんなものかは想像するしかないんだけど、きっとものすごく高揚するんだろう。あと、とても疲れそう。

コーダに向けて、ピアノのテンションはさらに上がっていく。もちろん、あたしも一緒だ。二人で曲を作り上げた喜びと、間もなく終わってしまう寂しさと。

喉がかれ、心臓の音は耳にまで届いてきそうだ。けど、あたしは止まらない。ここまで来て、駆け抜けないなんてうそだ。

ショパンはどれだけ意地悪なのか、ラスト付近に技術的にも最難関に近い所を設けている。もちろんピアニストにしてみれば腕の見せ所、安姫も、そんなのコンテストでやれば当然マナー違反だが、椅子から立ち上がって弾く。とんだじゃじゃ馬姫もいたもんだ。

そして、最後の一音がたたかれた。

精も、魂も使い果たした。歌い切る、それだけを目指したあたしを支える糸はぷつりと切れ、崩れ落ちそうになる。

あぁ、違う。じゃじゃ馬とか、悪いことを言った。あたしがぶっ倒れるだろうこと、安姫は見越してたんだ。あたしを抱きとめ、さらにはそのまま、抱きしめてくる。

「枡美――すごいよ! ありがとう!」
「ど、」

こっちは、言葉にはならない。まるで呼吸が整わない。その代わり、安姫の上気した匂いを、思いっきり堪能してやる。変態と言うなら言え。

ぽん、ぽんと背中をたたかれる。同じ回数、同じテンポで返す。そのままどっかりと安姫によりかかり、その柔らかさを心ゆくまで味わうのだ。

まったくもう、安姫が苦笑したのがわかった。お互いの体勢はそのまま、さっきまであたしが腰掛けてたベンチにまで運ばれ、ゆっくりと降ろされる。

改めて水筒が差し出された。受け取り、喉を潤す。のしかかる疲労はそんな簡単には抜けないが、それでも、呼吸は整ってきた。

「はぁ……しんど」
「そりゃま、あれだけ飛ばせばね」
「止めてよ、わかってたなら」
「冗談! あんな高揚感、捨てられるもんですか」
「……あっそ」

ありがとう。
先に言われてしまった。

こっちこそだ。やり直しのきかない、一発勝負。今までにないくらいのピアノだった。その音と、一時間弱を駆け抜けたのだ。あたしの中にも、確かな、けど言葉ではうまく言えないような、何かが芽生えたのを感じる。

それを大切に育て、また安姫へと返す。それがきっと、あたしのなすべきこと。

しばらくあたしを見つめ、やがて安姫が再びピアノの前に戻る。

椅子に付き、ピアノと向き合い。大きな、大きな呼吸のあと、改めて奏で始められたのは――

プレリュード第20番 ハ短調。



6  Prelude #20 In C-Minor


それはショパン24の前奏曲と呼ばれるシリーズの一つで、人々はその曲に葬送の列を想起する。最も沈痛であり、一方ではあらゆるショパンの曲たちの中でも低難度の一曲とされる。

が、難易度が低ければ、そのぶん表現力が求められる。当たり前のことだ。

もちろん、安姫が紡ぎあげるのは壮絶なまでの悲しさ。あるいは寒さであり、孤独、とすら言っていい。

気付かずにはおれない。それは――在りし日の、安姫の孤独。

曲そのものは、きわめて短い。ゆっくりと弾いても二分に届くかどうか、でしかない。だから、あたしがそれに気付いたときにはもう、曲は終わっていた。

立ち上がろうとするあたしを、安姫は片手で制する。それから、再び同じ曲を弾き始めた。今度は、歌を伴って。


 凍えるような風
 厚き雲は空を覆い
 月ははかなく 寂しく照る
 哀しき遠吠えの響く夜

 その目に留まる景色は
 終焉を迎えた後のもの
 なおも行かねばならぬ
 拭いがたき罪とともに

 些細なる宝に目がくらみ
 終焉の痛みを身に刻めど
 なおも行かねばならぬ
 拭いがたき罪とともに
 
 はるか水平の彼方より
 届けられたるは一握の砂
 この先に希望はあろうか
 救いを求むは許されようか


本来の歌詞は全編英語で、これは後日安姫なりに意訳したものを聞いた感じだ。

「これ、歌なんてあったっけ?」
「いろいろ動画探してたらね。アングラ、ってバンドがカヴァーしてたの。カヴァーだし、ぎりぎりショパンつながりってことで」

いたずらっぽく笑う安姫だったが、その笑顔も、間もなく曇る。

「ねえ、枡美。私、ずっと考えてたんだ」
「あたしのこと?」
「うん」

素直か。

とはいえ顔つきを見るに、おいそれと茶々を入れてもいいものでもないらしい。なんとか上体を起こし、身体そのものを安姫に向け、もう一口だけ水を飲んでから、目だけで、先を促す。

ごくり、つばを飲んだのがわかった。

「どうして、ピアノをやめたんだろう。なんで、私をおいてったんだろう。悲しかったし、悔しかった。恨んだりもした」

「うん」

「けど、それよりも大きかったのは、自分が何をしたかわからないことだった。わからないまま、どこかで枡美を傷つけて、それに気付かないまま、無神経にじゃれて、甘えてた自分が怖くなって、ぞっとしたの」

鍵盤を丁寧に拭き上げ、フタを閉める。

「さっきの歌ね、どうしてかわからないけど、やけに響いてきてさ。それでバンドのこと調べたんだけど――響くはずだよね。あの歌も、やっぱり別れがその背景にあったんだ。デビューからずっと一緒に連れ添ってきた仲間と道を違えて、一度は解散まで考えて。けど、アングラは復活したの。新しい仲間たちとともに」

「そうなんだ」

余計なコメントは挟まない。いま、安姫は心のフタを開けようとしてる。それがどれだけ重いものなのかはわからない。けど、受け止めるべきだ。それだけはわかる。

ぽろり、安姫の瞳から、涙が落ちる。

「あ、やだな、まだなんにも言えてないのに」
「いいよ」
「――うん」

少しの間、流れるがままにしてやる。
二度、三度と鼻をすする。

「私が何をすべきか。よりはっきりと、より美しく、内なる音を響かせること。そこに迷いはなかったよ。けど、足取りが重かった。たどり着きたいところに、どれだけ進めてるんだろう。無性に怖くなってね、気付けば歌ってたんだ。何度歌ったかわからない。歌えば歌うほど枡美の顔が浮かんできて、けど、だんだんわかんなくなってっちゃった。枡美って、どんな顔で笑うんだっけ、って」

体の調子を確かめる。
うん、もう少しで動ける。

ひどいもんだ、さっきまで極上の踊りを見せてた子が、なんて小さく、なんてみじめな顔になってるんだ。

「枡美に会いたくて、枡美の声が聞きたくてさ。けど私は、枡美を追い詰めた張本人なんだ。だから、会えない。甘えられない。なら、弾くしかなかった。おかげで私の指は、思い描くタッチを、その理想を、形にできるようにはなったよ。でも、違ったんだ。そこには彩りがなくて、温もりもなくて、凍てついた音しか、自分の中から出せなくなってて、……ッ」

募り、積もった想いってやつは、どうしてこう、喉をふさいでくるんだろう。

あたしはなんとか立ち上がり、安姫の隣にまで歩み寄った。親を見失い、顔という顔をぐしゅぐしゅにした子犬が見上げてくる。あんまりにもあんまりだ。噴き出しそうになったが、ここは我慢、我慢だ。

その代わり、

「安姫」
「ん?」

思いっきり、デコピンを決めてやる。

「った! ちょっと、ひどい!」
「なーにが! ひどいはこっちのセリフよ! 一人で悟っちゃった面して、ぜんぶ自分が悪いって? 冗談!」
「! っな、いくら安姫でも――」
「違うでしょ! 謝んなきゃいけないのはあたし! なんであんたまで抱え込まなきゃいけなかったのよ!」

よし、ようやく言えた。
けど、ダメだ。こんなこと言い出して、まともに安姫の顔も見れる気がしない。あたしはこれ幸いと、最敬礼もびっくりな勢いで頭を下げる。

「ごめんね、安姫はなんにも悪くなかったのに! あたしが本音に気づけてなかったせいで、苦しい思いさせちゃったよね」

顔を上げなくてもわかる。話の展開について来れず、安姫がアワアワしてる。

「え、えっと、あの――枡美、本音って?」
「あたしが安姫と、安姫のピアノが大好きだ、ってこと」

ここまで言っちゃったんだ。死なばもろとも、なるようになれ、だ。あたしが顔を上げれば、目の前には茹でだこが一匹。ざまあみろだ――って、多分あたしも負けないくらいの顔になってるだろうけど。

「あんたときたら、すぐ暴走して、譜面にない音加えちゃったりしてさ。それで何度先生に怒られたことか。自由すぎんのよ」
「え、だって、そのほうが楽しくて……」
「それでなんて言われたっけ? それやりたいならコンクールじゃなくて?」
「……コンサート」
「だよね?」

いまさら、実にいまさらなのだ。
それであたしが、譜面にある音じゃなく、安姫の出した音の方に引っ張られすぎちゃったのも。そんな自分が怖くなって、努めて譜面の再現にばかり意識を注いだのも。

「ったく。あんたったら、ひとの気も知らないで、すぐコンサート始めちゃってさ。あたしがそれ聞いて、どう感じてたと思う? 苛立ってたのよ、気づけなかったせいで」
「気づけない、って?」
「――何度も言わせないでよ」

思わず、そっぽを向いてしまう。
正面では、泣いた子犬がもう笑った。
あーーー、もう!

「いい、安姫? あたし以上に、あんたの音をより咲かせられるやつなんていない。そのために学んできたし、これからも学ぶ。もう迷わない。けど、気付くまでにかかった時間で、どれだけあんたを苦しめたんだか」

それを口にしただけで、悔し涙がこぼれそうになる。安姫の大事な時間を、あたしは一体どれだけ損ねてしまったんだろう。

なら。

ここから、全力で支える。
支えられるように、なる。

と、安姫が立ち上がった。

「もう、ずるいよ。枡美ばっかり」

言って、あたしを抱きしめてきた。

「おっひょ!?」
「なにそれ」

くすくす、と、吐息が耳をくすぐる。

「ずっとね、思ってたんだ。枡美に甘えっぱなしだったんだな、って。そのバチがあたったんだって。ステージの上じゃ、いつでも私は一人。いつまでも頼ってちゃいけないはずなのに」
「そんなこと……」

あるけど、と言いかけて、黙り込む。それが心地よかっただなんて、口が裂けても言えない。

「だからね、頑張ったよ。強くなったし、うまくもなった。きっと、私にも必要な時間だったんだ」
「――そっか」

抱きしめ返し、もう片方の手で、頑張ったね、と頭をなでてやる。へへー、となんだか自慢げなのには軽くイラっときたが。

「じゃ、こっから先はビシバシ行っても良さそうだね?」
「ぇぐっ!?」

露骨に安姫の体がこわばった。強くはどーした。
腕を少し緩め、真正面から顔をのぞき込む。化粧もクソもない感じの顔が引きつってる。あたしはニヤリと笑うと、コツン、と安姫と額を合わせた。

「大丈夫。あんたは最強だよ」

テラスに差し込む初夏の日差しは、あたしたちをまばゆく包み込む。

あたしたちは、何だってできる。
何だってできるんだ。



7  くすぐったいなぁ、もう。


寝耳に水、ってやつだ。

安姫から飛んできたメッセージを前に、あたしは思わずスットンキョーな声を上げる。で、すぐに通話をつなげた。

「ちょっ、安姫! 留学延期ってどういうこと!?」
「えっと、それがね――」
「あーもう! すぐ行く! 近くにいるし!」

何やら慌ただしい言葉がスマホの向こうから聞こえたが、知ったこっちゃない。タクシーを捕まえ、安姫の家に乗り込む。広永先生夫妻へのあいさつもそこそこに、あたしは安姫の部屋に向かう。

「安姫ぃ!」
「わひゃいっ!」

勢いのまま部屋のドアを開けた先にいるのは、おそれおおくも下着姿の安姫だった。一瞬にして網膜に焼き付けたあと、あたしはすぐさまドアを閉める。あわてたそぶりを取り繕うのも忘れない。

「あ、っごごご、ごめんっ!」
「ホントよ、もうっ!」

がさごそとした衣ずれの音のあと、改めて、ゆっくりとドアが開く。その向こうからは薄手のショールをかけ、そして、ずいぶんくろぐろとなった安姫の顔があらわれた。

「えっ、どうしたのそれ」
「――日焼け止め」

おずおずと言い出す安姫の姿を、ついうっかり上から下までなめ回すように見つめてしまった。安姫はすかさず片手でその身をかばいつつも、もう片方の手ではあたしを部屋に引き込んでくる。

「ぬ、塗り忘れちゃってたの、こないだ、日焼け止め! そしたらこんなんなっちゃって……」

改めて安姫を見る。

顔はまだいい。やばいのは肩から腕にかけてだ。なにせさんざんおひさまの下でピアノを弾き倒したのだ。日焼けどころか、ぺろり、と皮が剥けてさえいる。

「えぇー……小学生かっつーの……」
「やめてぇえええ!」

こないだよりもよっぽど悲愴な顔で安姫が泣きわめいた。いや、あたしのソデつかんでジタバタされたところで状況は変わんないだろーに。

「えっと、理由って、ウィーンの先生も知ってんの?」
「むしろ、先生が仰ってくださったのよ。レディにとっては一大事だ、移動は落ち着いてからでいいよって――半笑いで」

そりゃ笑うわ。

少しの間、安姫の中ではいろいろ忙しなかったみたいだ。ややあって広永先生の奥様、つまり安姫のお母さんからおやつとお茶の差し入れがもたらされる。

「お騒がせしちゃってごめんなさいね、ほんとこの子ったら、枡美ちゃん無しでウィーンなんて大丈夫なのかしら……」
「そうですね、あたしも心配です」
「そこは否定してぇええ!」

安姫の悲鳴を背景に、あたしたちのため息は見事に一致する。いっそお母様とのほうがコンビネーションいいんじゃないか、とすら思う。

「ただ、せっかくできた時間だものね。安姫のお相手、もう少しだけ頼まれてくれるかしら?」
「はい、承りました」
「なんでそんな事務的なのおぉおお!」

あーうるさい。

まぁ、お母様が作られるお菓子は絶品なので、それのご相伴にあずかれるのはラッキーではある。すっかり引っ越しの準備が整い、やや殺風景になった部屋を、軽く見回した。

「ねー安姫、時々部屋のピアノ弾かせてもらいに来ていい?」
「――好きにして」

しんでる。

ベッドに突っ伏し、腕を投げ出して。試しにその手にクッキーを持たせてみると口の中に吸い込まれていったから、ノックアウトにまでは至ってないらしい。

コリコリと音が聞こえ、また腕がだらりと落ちてくる。

それを見て、あたしはゴクリ、とつばを飲む。

「ね、ねぇ」

その声に不穏なものを感じたか、安姫がのろのろと顔を上げた。

「な、なに? 改まって」
「む、剥いていい? 皮」
「はぁ!?」

あたしと、腕。交互に見たあと、安姫の目はまるであたしをエイリアンが何かのように認識してた。うん、まぁわかる。

「えっ、ちょっと待って、枡美、普通にキモいんだけど」
「わかってる。けどさ、こんなバカなこと、金輪際できないと思わない?」
「う、それは、まぁ……」

それからしばらく、腕が謎のダンスを披露した挙げ句、突然糸が切れたかのように、だらりと落ちた。

「ま、いいや。好きにして」
「りょーかい」

普段は日焼けと縁遠い安姫の肌、お人形みたい、と思ってた肌が、ささくれとかでガサガサになってる。不思議なもんだ、っていうか、無駄にエロい。

ささくれの端っこをつまみ、引っ張る。ピリピリという音が聞こえてきそうだ。

「っちょ、くすぐったいなぁ、もう」
「そう? 我慢して」

ぷつ、と破けてしまった。一センチ四方くらいの大きさだ。湯葉みたいって一瞬思ったが、さすがに食べ物に例えるのはいろいろアレだな、と思う。

もう一度。今度は、はじめの三倍くらいで切り出してやるのだ。一か所でなく、複数か所を順繰りで剥がしてく。「なんでそんな真剣なの」って安姫が笑うのをこらえてるが、知ったこっちゃない。

そして、ついに。

ぴりり、ぴっ。

「――っしゃあっ! どうじゃいな!」

謎の興奮が謎の訛りをあたしにもたらすわけだが、いっぽうでそんなあたしを安姫は謎の笑顔で祝福するわけだ。

「おめでとー。で、それ、どうすんの?」
「え? 捨てるよ、撮ってから」
「いや待って!? 何するつもり!?」
「そりゃ見せるっしょ、みんなに。スクープ! これが広永安姫の剥がしたての生皮!」
「やーめーてー……」
「やだな、冗談だってば」
「枡美のは冗談に聞こえないから!」

笑いながら、ふとあたしの脳裏に変なものがかすめる。

皮を捨てるふりをして、一部については密かにズボンのポケットに突っ込むのだ。

あとで、そいつをロケットの中に入れる。そうすればあたしは、いつも安姫の近くにいる。

戦ってきなよ、安姫。
あたしも、隣で戦ってるからね。

げんなり顔の安姫の頬を突っつきながら、あたしは静かに決意を固める。

二年の留学と、ショパン・コンクール。安姫は、 格段の飛躍を遂げて帰ってくるだろう。なら、あたしもそいつを受け止められるようになってなきゃならない。

あたしたちは、ふたりでショパン。
やがて、世界の度肝を抜いてやるのだ。

ふたりでショパン

ふたりでショパン

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日 2020-08-10

Copyrighted
著作権法内での利用のみを許可します。

Copyrighted