タイムラインはねむっている
ひなどりのこえが、して、真夏の、からだのなかにこもった熱を、もてあまし、夕暮れとともに、きっと、つめたいビールをたずさえてあらわれる、きみのことを、想っている。そうめんばかりたべている、といったら、カレーをつくっておいていった。さいきん、テレビは観ていないけれど、うわさでは、これから一週間ほど、酷暑がつづくようで、立秋を過ぎたというのに。それから、せかいは、いま、混沌としていて、ひとが、ひとを憎むような連鎖が、起きているから、と、むりに情報を仕入れるひつようはないと、きみはいっていた。だれかの負の感情は、うつるものなのだと、おなじ星にうまれた、生命体なのだから。じぶんの身近ではない事態にも、ふかいかなしみをたたえて語る、きみが、ビールのはいったグラスをかたむけ、ちびちびと飲む横顔に、ときどき、胸の、肺のうらがわにある、なにか、ぼくの心をまもっている、箱のような、壁と呼ぶには脆いかもしれないけれど、表面、外皮みたいなものが、ふるえるのだ。
ガラスポットにつくったミントティーの、ミントの葉が水のなかで揺蕩う様子を眺めて、読み止しの本の、すでに読んだページをぱらぱらとめくる。冷房の温度を、一度下げる。インターネットをひらいても、タイムラインは静かで、みんな、ねむっているのかもしれない、と思いながら、でも、ぼくもねむれば、さみしさはないと考える。きみがやってくるまでのあいだ、わずかの時間、せかいから断絶する、のも、わるくはない。にんげんは、みんな、ひとりで、ひとりだけれど、どこかで、つながっているので、おそらく、みえないところで、ひっそりと。だから、愛したり、愛されたり、憎んだり、憎まれたり、するのだろう。ぼくが、本の表紙を指で撫でている瞬間も、あたりまえだけれど、みんな、いろんなことを想いながら、暮らしている。
タイムラインはねむっている