桃林羨道

   あの頃何かが一度こわれたっけな
   蛇口だったか 世界だったか わたしだったか

         ――小長谷清実(こながやきよみ)・作 『おやすみなさい』より引用――

     ◎

 あれからもう何年が過ぎたか――。
 春の午後、妻の実結(みゆい)と並んで丘の上の小公園に立ち、眼下に広がる満開の桃の林、そしてその彼方で町と内海を隔てる白い防潮堤を見渡していると、慎一はいつも、こんな詩の一節を思い出す。

   あの頃何かが一度こわれたっけな
   蛇口だったか 世界だったか わたしだったか

 戦前、あの二二六事件の少し前に生まれ、平成二十九年の冬を待たずに亡くなった老詩人・小長谷清実(こながやきよみ)――彼が(うた)った『おやすみなさい』の一節である。
 収められていた詩集は『小航海26』。
 小長谷氏がその詩集で、詩壇の芥川賞と呼ばれるH氏賞を受賞したのが昭和五十二年、ちょうど慎一と実結が結婚した春だったから、ことさらよく覚えている。
 当時、慎一が勤めていた海辺の公民館では、土曜の午後に町の本好きたちが集まり、ささやかな朗読会を催していた。そこで慎一自身が朗読し、実結がピアノでショパンの『トロイメライ』を伴奏してくれたのだから、なおのこと忘れようがない。
 木造校舎の教室を思わせる公民館の一室、あの午後も、西の窓には日本海に繋がる凪いだ内海(うちうみ)、東の窓には桃の林を縫って緩やかに丘に続く坂道と、丘の上の小公園が見えた。

   部屋のすみ ドアの前の流し台から
   聞こえてくる音 おやすみなさいおやすみなさいおやすみなさい

 慎一が朗読を終え、実結のピアノの余韻が消えると、十数名の老若男女から、お世辞まじりの拍手が起こった。
 素人っぽい朗読にはお世辞の拍手、情感あふれる伴奏には真摯な拍手。
 それでも点字図書や大活字本に親しい常連たちからは、慎一の朗読そのものに対する純粋な拍手も、少しは混じっているはずだった。
「小長谷さんの作品は、現代人の不安や孤独を詩ったものだから、慎一のたどたどしい語りでも、なんとかそれらしく聴けるね」
 おしゃべり好きの松澤医師が、恰幅にふさわしいバリトンで言った。
「ピアノのほうは、最初はちょっとメロディーが合わないような気もしたんだけど、最後まで聴いていたら、子守歌みたいで救われた気分になった。たぶん実結ちゃんの選曲だろう。慎一本人が選んだら、きっと不協和音みたいな、ミエミエの現代音楽を流す」
 松澤医師は慎一よりひと回り年長だが、昔から何かと縁があり、お互い歳の離れた兄弟のように遠慮がない。他の皆もそれを知っているから、内輪の冗談として屈託なく笑っていた。人前ではあまり笑わない内気な実結も、恥ずかしそうに頬を染めて笑っていた。
 その後、松澤医師自身が漱石の『夢十夜』を何夜か抜粋して朗読し、実結がシューマンつながりの小品をいくつか伴奏して、その日の読書会は終了した。
 解散後、実結は夕飯の支度のため先に車で帰り、慎一は公民館の後片付けや戸締まりで、しばらく職場に残った。
 そして、そろそろ自分も帰ろうと慎一が勤務日誌を閉じたとき、机の黒電話が鳴ったのである。
 実結が玉突き事故に巻きこまれて松澤病院に搬送された――そんな警察からの連絡だった。
 交差点で信号待ちをしていた車列に、大型トラックがノーブレーキで追突したという。
 すぐに呼びつけたハイヤーは、病院に直行するため事故現場を迂回したので、慎一は現場の惨状を見ずに済んだ。
 実結の車が軽のボックスカーだったことを思えば、見なくて幸いだった。
 アルミ缶のようにひしゃげた車体を先に見ていたら、慎一は正気を失ったかもしれない。

     ◎

 いくつかの計器類や、輸液用の点滴に繋がっている以外は、ただ安らかに眠っているとしか思えない実結(みゆい)の白い顔を、慎一は枕元のパイプ椅子から、為す術もなく見守っていた。
 松澤病院は、昭和戦前から続く町一番の私立総合病院だが、当時は最先端だった鉄筋コンクリートの三階建ても、今となってはさすがに老朽化が目立つ。病室内も本来の白壁は窓側の一部だけで、あとは補修用の壁紙に覆われている。
「あの状況で、わずかな打撲と擦過傷だけで済んだのはまさに奇跡なんだが――未だに意識が戻らないのは、もっとおかしい」
 松澤医師は慎一の横に立ったまま、沈痛な面持ちで言った。
「器質的な異常は、まったく見つからない。呼吸も心拍もしっかりしてる。しかし脳波だけは、ほとんど仮死状態だ。去年の健診では平熱36度5分、しかし現在の深部体温は35度2分。――電気毛布に電気敷布、お前にゃ言いにくいが直腸からの温湯注入、どんな手を使っても深部体温だけはすぐに下がっちまう。今も徐々に下がってる」
 すでに深夜、三階の個室に残っている病院関係者は、松澤医師だけである。
「あの夜――十年前の昏睡にそっくりだ。俺は心配だよ。主治医がそんな弱音を吐いちゃいかんがな」
「……不運続きに見えて、実結は運が強いですから」
 そう応じながら、慎一は松澤医師同様に、いや新婚早々の夫として誰以上に不安だった。
 確かに実結には、著しい不運と奇跡的な幸運が同居している。
 これまでの二十年少々の人生で、今回の事故以外にも、死んでおかしくない事態に二度も巻きこまれ、そのたびに生還している。
 出生後わずか一週間目の夜、自宅から何者かに連れ去られたときも、無事に両親の元に戻った。
 十年前、自宅が連続強盗放火犯に襲われて他の家族全員が焼死したときも、小学生だった実結だけはほとんど火傷を負わず、気道や肺を傷めることもなく生き残った。
 そして今日、後続していた普通車のドライバーは内臓破裂で即死、前の四駆のドライバーは車ごと横転して両手両足を骨折、張本人のトラック運転手は頸椎損傷で大学病院の集中治療室に移送――そんな大事故に巻きこまれながら、実結の体には、レントゲン検査でもまったく損傷が見つからない。
 著しい不運と奇跡的な幸運の二人三脚――。
 しかし精神的な部分では、十年前の悲劇の痕跡が、実結には歴然と残っているのである。

 あの火事の夜から、実結は子供らしい感情の起伏や喜怒哀楽を、ほとんど外に表さなくなった。
 それ以前の実結を、慎一が頻繁に見ていたわけではない。
 同じ町で、同じ坂道の上と下にある二つの古い家――いわば隣家同士で育ったふたりだが、歳が六つも離れていたし、広大な桃林の間を曲がりくねる坂道は、子供の脚だと抜けるのに十分以上かかった。実結の家は眼下に町を一望する立派な邸宅、慎一の家はちっぽけな田舎家、そんな違いもあった。それでも町内の子供会活動が活発に行われていた時代、節目節目の集まりで見かける実結の、童人形のように可憐な笑顔を、慎一も好ましく記憶している。
 そんな少女の顔が、骨董屋の奥にたたずむビスク・ドールのように、冷たく固まってしまった。
 一夜にして家族と家を失った子供にとって、それは当然の変化だったのかもしれない。
 しかし地元の児童養護施設、いわゆる孤児院で暮らすようになってからも、実結の表情は戻らなかった。
 根は利発な娘だから、田舎の人づきあいの中でつつがなく暮らすため、潤滑油としての微笑くらいは浮かべることがある。それでも周囲の人々は、良かれ悪しかれ人形のような子供――可憐ではあるが、あまりにも無口で親しみがたい娘――そんな割れ物扱いに終始していた。
 唯一の例外は、不憫な実結を気にかけて、親戚同様に季節の便りや訪いを続ける、かつての隣家の家族であった。
 そうして、やがて実結が思春期を迎え、縁あって慎一と心を重ねるようになってからは、薄紙を剥ぐように感情や表情が戻り、二十歳を過ぎて結ばれた今では、今日の昼間のように、はっきりと人前で照れ笑いを浮かべるほど明るくなってくれたのだが――。

 慎一は、ベッドに横たわる実結の白磁のような寝顔を見つめながら、愛しければ愛しいほど不安だった。
 もし今の昏睡が、あの日のように精神的な破綻によるものならば――あの日と同じことが、また起きてしまうのだろうか。
 実結には、火災以前の過去の記憶がない。
 火災自体の記憶を含め、いっさいが失われたままである。

     ◎

 ほどなく病室のドアが、外から軽くノックされた。
 ふたりが、どうぞ、と応じる前に、
「お待たせ、慎ちゃん」
 慎一の姉・斎女(ときめ)が、大きな風呂敷包みを抱えて入ってきた。
「とりあえず入院に要りそうなもの、アパートの箪笥から見つくろってきたよ」
 夕刻、慎一が実家の姉に電話で頼んでおいたのである。
「わざわざ、ごめん」
「なんも。あんたの下着とかいじるのはごめんだけど、実結(みゆい)ちゃんのためならなんだってするよ」
 斎女は、世間にありがちな煩わしい小姑とは別状、昔から実弟の慎一よりも、むしろ実結を実の妹のように可愛がっている。アパートの合い鍵も、慎一ではなく実結自身が預けたものである。
(とき)ちゃん、仕事中だったのかい? ご苦労様」
 松澤医師が、斎女の少々風変わりな和装姿を見て言った。
 仕立ては神社の巫女衣裳に似ているが、あれほど賑々しくはなく、むしろ東北のイタコに近い。手荷物がバッグではなく風呂敷なのも、その衣裳に合わせたのだろう。
「なんもなんも。春先はおかしくなる人が増えて商売大繁盛だけど、正直、セラピーみたいな仕事ばっかりだから、いつだって抜けられる」
 斎女は、風呂敷包みをとりあえず床頭台に置きながら、
(まっ)ちゃんこそ、他の手術とかいいの? 死傷者が四人も出たって、ニュースで聞いたよ」
「俺の仕事は済んだ。網元の倅の骨を三本ばかり継いできた。残り一本はひどい粉砕骨折なんで、親父じゃないと手に負えない。居眠り運転のトラック野郎は、白い巨塔に丸投げだ」
「いちばん大事な仕事が残ってるでしょうに。あたしに女の子が授からなかったら、この子の娘が、次の『御子神(みこがみ)斎女(ときめ)』なんだからね」

 ちなみに『御子神斎女』という神がかった姓名は、あくまで代々引き継いできた一種の名跡であり、彼女の戸籍上の姓は慎一と同じ御上(みかみ)、本名も斎子(ときこ)と、平凡そのものである。
 慎一と斎女の生家・御上家は、丘の麓の狭隘な田舎家ながら、登記上は正式な単立宗教法人――神社本庁に属さず、むしろ密教と神道が混淆していた中世の色を残す、いわば『拝み屋』だった。四代前の高祖母までは、東北でイタコの類に紛れていたらしい。しかし、その地では異端に属する西日本的な流儀が仲間から疎まれ、曾祖母の代に意を決して南下、流浪の末にこの山陰の町に流れ着き、以来、細々と独自の女性神事を継承している。
 といって現在、小さな祠を有する田舎家で、稼業に励んでいるのは斎女ひとりである。両親はここ二年ほどの内に相次いで他界し、弟の慎一夫婦は、公民館近くのアパートに新居を構えてしまった。それでも代々の氏子が根強く残っており、中にはけっこうな地方名士も含まれるから、そちらの有力者を名目上の役員に立て、なんとか法人格を保っていた。

 松澤医師が広げてくれたパイプ椅子に、斎女は礼も言わず、当然のような顔で腰を落ち着けた。
 三十六歳と三十二歳、ふたりともいまだに独身だが、なぜか子供の頃から、そんな嬶天下のような関係が続いている。
 斎女は実結の寝顔を覗きこみ、吐息して言った。
「なんでこの子ばかり……こんな辛い目に、何度も合わんといけんのかねえ」
 慎一も松澤医師も、うなだれるしかない。
 実結の胸に、斎女がそっと手を触れた。
「松ちゃん、もっとあったかくしてやれんの?」
 松澤医師は(かぶり)を振って、
「あの晩とまったく同じだ。体の芯から凍えちまうんだよ」
 斎女は黙ってうなずいた。
 そのまま瞑目し、何か祓詞(はらえことば)のようなつぶやきを口の中で唱えはじめる。
 そうして祈ること、しばし――。
「――いけん」
 斎女は眉根を歪め、実結の胸から掌を離した。
「この子、思い出しとる」
 慎一はぴくりと体を奮わせた。
 松澤医師も眉をひそめる。
 斎女は目を開き、まなじりを決して言った。
「あの日のことを思い出しちまったら……この子、また鬼になるよ」
 慎一と松澤医師が固唾を飲んでいると、実結の胸の上に、ぽ、と小さな青い炎が灯った。
 松澤医師は、思わず一歩、後ずさった。
 蝋燭の火ほどの青い炎は、静かに揺らめきながら数センチほど宙に浮き、やがて人魂ほどに膨らんで、ゆらゆらとそこにとどまった。
 松澤医師は声を震わせ、
「えーと、これは、その……陰火?」
「うん。よく覚えとったね」
「この子が心に収めきれなくなった負の感情――魂魄(こんぱく)の『(はく)』に相当する心の(こご)り――あの晩、そう聞いたよな」
 松澤医師は、怯えながらも理系の好奇心が勝ったらしく、その青い炎に恐る恐る手をかざした。
「氷みたいに冷たい。だから深部体温が……」
 つぶやきながら、病室の壁に広がる補修跡を見渡し、
「でも、また陽火――本物の炎に変わるのか?」
 その補修は、十年前、焼け焦げた白壁を隠すために施されたのである。
「慎一。腹、据えな」
 斎女は言った。
他人(ひと)の記憶には、あんたじゃなきゃ入れん。霊道行(たまのみちゆき)は、あんたの仕事だ」
 斎女の言に、慎一はうなずき、椅子から立ち上がった。
「……封じるのは、あの日と同じ記憶でいいんだよね」
「たぶん。実結ちゃんの家から、火が出るのが見えた」
 斎女自身も、かなりのところまで他人(ひと)の記憶が読める。しかし外から瞥見できるだけで、その記憶の内部に侵入できるわけではない。慎一にはそれができる。御上の家系でも極めて稀にしか、それも男系にしか発現しない能力であり、その侵入行為を、御上家では代々『霊道行』と称している。
「なら、よかった」
 慎一は安堵していた。
 あのときの記憶を葬っても、今の実結に変わりはない。以降の記憶は残り、これからも同じ生活を続けられるだろう。
 十年前の夜、まだ若かった松澤医師は、実結から立ち昇った陰火に触れる度胸がなく、その手の超自然現象に明るいはずの斎女に連絡した。隣家の罹災を心配していた斎女はすぐに駆けつけ、当時まだ高校に上がったばかりの慎一も同行し、なんとか実結の記憶を封じたのだが――封じきる前に陰火が陽火に変わり、病室の一部を焼いたのである。
 慎一は斎女に言った。
「じゃあ、管生(くだしょう)、ちょっと貸して」
「はいよ」
 斎女は懐から、紫色の袋物をそそくさと取り出した。
 懐剣の拵袋(こしらえぶくろ)に似ているが、やや短くて太い。
 紫の房紐をほどくと、中には二十センチほどの竹筒が収まっていた。
 斎女は竹筒の先端を、証書筒の蓋のように一寸ほど引き外し、開いた穴に声をかけた。
「起きな。仕事だよ」
 すると竹筒の口から、白い小動物が顔を出した。
 冬毛のオコジョに似た愛嬌のある顔で、力いっぱいあくびした(のち)
「……春先は人使いが荒くてかなわぬな」
 明瞭な、しかしやや古風な日本語で、そう愚痴ってみせる。
 小動物愛好家なら歓声を上げそうな見かけによらず、声は松澤医師よりも太い。

 古来、民間伝承において『管狐(くだぎつね)』あるいは『飯綱(いいづな)』と呼ばれている霊獣――式神と言ったほうが適切かもしれない――を、東北の一部では『くだしょう』と言い習わしている。口語でしか伝えられない陰の部分であるため、その語句の下半分『しょう』が何を意味しているのか、文献には残っていない。狐や鼬に似ているという記録や、西日本に多い『狗神(いぬがみ)』の同類とする研究書はあるが、あくまで民俗学的な推測であって、実物を視認できる者たちは、なにひとつ文字に残していないのである。御上の家に伝わる『管生』も、その漢字を当てるという解釈のみが伝わっているにすぎない。

 ともあれ御本尊の管生は、ちょこちょこと斎女の肩に這い上がり、くりくりとした黒い目で周囲を見渡した。
「そこの藪医者、久しぶりだな。百年ぶりか? ずいぶん老けて、丸々と肥えたものだ」
 松澤医師は、うんざりした声で応じた。
「……十年だ。それに五キロしか増えちゃいない」
 陰火といい管生といい、御上家と交友を続けるには――主に斎女と顔を合わせ続けるには、理系人間にとって、なにかとハードルが高い。
 それから管生は、病床に横たわる実結と、宙に漂う陰火を事もなげに一瞥し、
「また、その妹分がらみの荒事かよ、斎女」
「うん、お願いね」
「ということは、また、そこの朴念仁に憑かねばならぬのか」
 管生は慎一に顔を向け、苦々しげに言った。
「正直、男臭くてかなわぬのだが」
 白いオコジョそっくりの顔で『苦々しい顔』ができるところに、生身の小動物とは桁違いの禍々しさと、それを突き抜けた一種の愛嬌が感じられる。そんな違和感が先に立ち、管生とは長いつきあいの慎一も、いまだに本性をつかみきれない。
 慎一は、あえて深々と頭を下げた。
「実結のためだ。よろしく頼む」
「おうよ。確かにその娘には、昔から、なにかこう、放っておかれぬ匂いがするからな」
 管生は鷹揚にうなずいて、
「しかし、どうせなら竹筒ぬきで、斎女の胸に憑いていたいものだよ。年増でも子を産んだことがないから、乳に若い弾みがある」
 斎女は間髪をいれず、管生の頭に(から)の竹筒を振り下ろした。
 竹筒だけに、日本庭園の鹿威しのような音が、病室中に響く。
 管生は、斎女の肩から転げ落ちるかと思いきや、
「我ながら涼やかな()で鳴るものよ」
 微動だにせず、しみじみと目をつむり、
「これぞ千年生きた俺の魂の響き、諸行無常の響きぞ」
「……お前は祇園精舎の鐘かいね」
 斎女は呆れた顔で管生のうなじをつまみ、ひょい、と慎一の肩に移した。
「とっとと行っといで。ちゃんと仕事済ませて戻ったら、褒美に、あと百七回鳴らしてやるよ」
冗談(ざれごと)のわかる女子(おなご)は大好きだ」
 管生は口の端を歪めて笑い、ちょろちょろと慎一の頭に登った。
 地方公務員らしい七三分けの短髪に、頭頂部から、もぞもぞと潜りこむ。
 そのまま頭蓋骨を無視して真下に潜ってゆく管生の白い尾を、松澤医師は顔をしかめて見送った。
 やがて慎一の額から、肉色のオコジョの首が生えた。
「昔ほど臭くはないな、慎一」
 管生の顔で、肉の瘤が言った。
「さては毎日、風呂で新妻と洗い合っておるな」
 慎一は、つい、うなずいてしまった。
「そこは笑ってごまかすところだよ阿呆(あほう)
 言いつのる管生を無視して、慎一は、斎女と松澤医師に軽く頭を下げた。
 スリッパを脱ぎ、ベッドの実結に寄り添う。
 それから、宙に漂う陰火ごと、実結の胸を我が胸で覆う。
 初めて結ばれた夜のように優しく体を重ねると、ふ、と実結が吐息し、陰火はふたりの胸に溶けて消えた。
 慎一は目を閉じて、なかば体を重ねたたまま、実結の横に寄り添った。
「なんだ。子供でもあるまいに、もう閨事(ねやごと)はしまいかよ」
 額でぼやいている管生とともに、慎一の姿が薄れてゆく。
 これだから朴念仁は芸がない――そんな管生の声だけが、斎女と松澤医師の耳に残った。

     ◎

 一瞬の微睡みから醒めると、慎一は、すでに洋館の門内に立っていた。
 星明かりも空に溶ける朧月夜――。
 春の夜風が、桃林と町と潮の匂いを含んで、さわさわと背中をなでる。
「おい慎一。十年前とは、いささか勝手が違うではないか」
 額の管生(くだしょう)が、実結(みゆい)の生家を見上げて言った。
「あのときは、館全体が、もう手もつけられんほど燃えておった。その玄関先の庭に、実結ひとりが倒れておった。だから俺が、燃え盛る館ごと、実結の心をまるまる呑んだ――そうであったな?」
 慎一も館を見上げてうなずいた。
 眼前の洋館は、確かに実結の生家・平坂家――大正の面影を残す木造擬洋風建築の広壮な旧家である。
 戦後の農地解放で大半の土地を失い、内情は没落しているが、建物自体の威容は失われていない。
 十年前、実結の記憶に入ったときには、その屋敷全体がすでに巨大な篝火と化しており、慎一自身も忘れてしまいたいほど悲愴な有り様だった――はずなのである。
 管生は、気が抜けたように言った。
「確かに燃え始めてはおるが、二階の窓からちらちらと火の手が上がったばかりぞ」
 慎一は、とまどいながらうなずいた。
 管生の首が額から生えている以上、うなずいても意味がないのだが、つい、いつもと同じ動きになる。
「いちいち揺らすな。これでは車酔いになる」
 管生は肉色の首を引っこめ、本来の白い姿を髪の上に現すと、敏捷に地面に駆け下りた。
「また戻るときに憑く」
 慎一は上の空で、またうなずいた。
 ふと思い当たり、背後の格子門を振り返る。
 あのとき、門から桃林に続く坂道には、駆け下ってゆく数人の人影が見えたはずである。
 慎一の足元で管生が言った。
「火縄銃をかかえた賊らもおらん」
 正確には猟銃を所持した強盗集団が去ってゆく姿――それが今はない。
 当時、そんな殺人放火犯が裏日本の一部を騒がせており、平坂家の惨劇も、同じグループの犯行と思われている。ほとんどの焼死体に散弾の銃創があったからである。しかし、その後、強盗集団は日本海を渡って海外に逃れ、いまだに行方が知れない。
「実結……」
 慎一は身を翻し、庭を縫って続く敷石の道を、玄関に向かって駆けた。
 実結や家族を救おうと思ったわけではない。
 そもそも今いる世界は、病床に横たわる実結の記憶にすぎない。慎一は、そこに入っただけである。管生ならば、その記憶自体を内から()むことができるのだが――事件当日の夜の記憶と、今の実結の記憶は、あまりに様子が違う。
 案の定、玄関前の庭先に、実結の姿はなかった。
 立ちすくむ慎一に、足元から管生が言った。
「思えば、そう臆することもなかろう。しょせん人の覚え事ぞ。人の心の中など、気分しだいでいくらでも変わる。あのときよりも前のことを考えているだけではないか?」
「……そうだな」
 同じ相手の、同じ時の記憶に二度入った経験がないので、構えすぎたかもしれない――。
 慎一がそう思った刹那、屋敷の内から、腹に応えるような轟音が響いた。
 火災が爆ぜる音ではない。散弾銃の発砲音である。
 硬直する慎一に、
「これは面白い。火付け盗賊の輩が、まだ中におるらしいぞ」
 管生は、鼻で笑いながら言った。
「慎一、おぬしはここで待て。どうせ何をどうすることもできぬ。どのみち実結の家族は皆殺しになる。家も灰になる。しかし実結は確かに逃れ出る。それさえ見届ければ、おぬしには充分であろう」
「……お前は?」
「知れたことよ」
 管生は、黒目がちの瞳に禍々しい喜色を浮かべ、
「屋敷ごと呑む前に、賊の奴らを頭から喰ろうてやるのさ。悪党という奴は、(なま)でも影でも、なかなか旨いものだからな」
「……俺も行く」
「おぬしも度量が足りぬな、慎一」
 管生は嘲るように、
「心の狭い婿ほど、嫁が忘れたがっている昔の事を、根掘り葉掘り知りたがる」
 慎一の胸が、激しく疼いた。
 初めて実結と結ばれた夜、慟哭しそうになったほどの心の痛みと、同じ疼きである。
 十年前、この前庭に倒れていた実結は、引き裂かれた洋服の一端を、わずかに纏っているだけだった。
「……狂い犬に噛まれた傷跡など、いつまで嘗めていてもせんなかろうに」
 嘲りではなく、悼むような声で管生は言った。

     ◎

 玄関の扉は施錠されていなかった。
 扉の奥は、小さいながらもホールと呼べるほどの洋間である。
 そこまでなら、慎一も一度だけ入ったことがあった。
 小学六年の春だったか、公民館で催された映画鑑賞会の後、何かの事情で家族が迎えに来られなくなった実結(みゆい)を、斎女(ときめ)と一緒に家まで送ったのである。斎女は当時高校三年、実家でそれなりの修行を積んではいたが、まだ公私ともに御上(みかみ)斎子(ときこ)だった。
 親しい隣家の姉弟と両手をつなぎ、満開の桃花の坂をちょこちょこと上る小学一年の実結は、観たばかりのアメリカ映画『フランダースの犬』がハリウッドらしくハッピーエンドを迎えたことに興奮し、いつもよりずいぶん賑やかに笑っていた。
 あの笑顔を、自分はいつ取り戻せるのか――。
 あと五年、いや十年か――。
 そんなことを考えながら、慎一はホールから横手の廊下に折れた。
 行く手の奥から、また銃声が響いた。
 黒光りする廊下を、慎一は疾走した。
「急いでも同じだと言うに」
 管生(くだしょう)はぼやきながらも、五寸ほどの白い小躯をバネのように弾ませながら慎一と併走した。
 最奥に半開きの扉があり、そこから三度目の銃声が聞こえた。
 中に誰がいようと、それは記憶の残像である。慎一たちを見たり撃ったりする恐れはない。
 心得ている慎一と管生は、ためらわず扉の内に駆けこんだ。
「……なんだ、これは」
 管生が剥製のように固まり、そうつぶやいた。
 慎一は、管生のようには急停止できない。転びかけながら、やはり固まる。
 強盗などいない。
 居間らしい部屋の中ほどで、硝煙が立ち昇る猟銃を構えているのは、慎一が知っている男らしい。
 猟銃の先を目で追うと、窓際の長椅子に、部屋着(ローブ)姿の老人と老婆が折り重なって倒れていた。いずれも胸から腹にかけて散弾を浴びており、部屋着(ローブ)と血糊の区別がつかない。長椅子の左右が大きく弾けているのは、威嚇か脅迫で着弾した跡なのだろう。
 その長椅子の横には、ひと組の男女が立ったまま寄り添い、わなわなと震えている。
 猟銃の男が、そちらのふたりに銃口を向けなおして言った。
「……まさか爺婆までグルだったとはなあ。思わずあっさり逝かせてしまったよ。先に生爪でも剥いでやればよかった」
 あの人がこんな下卑た言葉を口にするだろうか――慎一はとまどいながら、男の顔がはっきり見える位置に身を移した。
 やはり旧知――しかし明らかに狂った顔である。
 慎一の記憶では、いつも生真面目に整っていた頭髪や洋服も、今は異様に乱れている。
「なぜ、あの人が……」
 独りごちる慎一の肩に管生が駆け上がり、胡散臭そうに訊ねた。
何奴(なにやつ)だ?」
「……実結の父親だ」
 慎一は膝が震えて、立っているのがやっとである。
「なんと、この()(あるじ)とな」
「いや……そうなんだけど、そうじゃなくて……」
「おい、気をしっかり持て」
「つまり……家付きの長女と結婚した……」
「なるほど、磯野家ならばマスオさんかよ」
 管生は窓際の長椅子に目を移し、
「それでは、あそこで死んでいるのは?」
「……実結の祖父と祖母」
 声を震わせる慎一に、管生は平然と、
「ならば、あの美女と二枚目は?」
 四十前後と思われるスーツ姿の男は、なにか書類のようなものを手にし、震えながらその文面を目で追っている。
 少し若い部屋着(ローブ)姿の女は、すがりつくように男に寄り添い、やはり震えながら同じ文面を覗いている。
 その女の顔も、慎一は明瞭に記憶していた。大人になったら実結もこんな綺麗な女性になるのかと、いつも眩しく思っていた瓜実顔――実結の母親である。
 しかし、それよりやや年長の男の顔は――。
 あの人か、と慎一は気づいた。
 小学校からの帰り道、途中の駅前あたりで、何度か見かけたことがある男だ。見かけるときは、いつも幼い実結を連れた母親が一緒だった。
「実結の母さんと……実結の伯父さん?」
「つまり母親と母親の兄か」
「ああ。伯父さんのほうは、昔、勘当されて家を出たって聞いてたけど……」
「なるほど、どちらも実結に似ておる 俺はてっきり、あっちが両親(ふたおや)と思った」
 そんな兄妹に、妹の夫――実結の父は揺れる銃口を向けながら、じりじりと迫って行った。
「こんな畜生どもにだまされて、こんな汚い家を後生大事に守ってきたのか、俺という男は……」
 それから長々と哄笑する声も、明らかに狂人の笑いだった。
「ろくに蓄えもない奴らをせっせと食わせて、でかいだけのボロ屋敷をせっせと繕って、畜生どもの子まで育ててやってよ……」
 なお哄笑する実結の父に、
「……待て、誤解だ」
 実結の伯父が、手にした書類から顔を上げ、ようように言った。
「何かの間違いだ。俺や実結の血液型は……」
「世迷い言をほざくな!」
 実結の父は叫び、義兄と妻の頭上、天井に散弾を放った。
 漆喰の破片が降りかかる中、兄妹は互いを守るように、きつく抱き合った。
 その姿を見て、実結の父は破れ鐘のように絶叫した。
「いじられていたのは俺の血液型だ! 子供の頃、親に教えられたのはB。実結の血液型がはっきりしたとき、俺も念のためにと調べたらやはりB――てっきり信じた。しかし同じB型でも実はBBだったのを、医者にBOと偽らせたのは、そこの糞爺いと婆あだよ! 実結を畜生どもの子から俺の子にするためにな!」
 管生が、こそこそと慎一に耳打ちした。
「慎一、彼奴(あやつ)の話がわかるか? ずいぶんと厭な話を聞いているのはわかるが、肝腎の理屈が、俺にはちっともわからぬ」
 声を潜める必要はないのだが、実結の夫である慎一にとっても『厭な話』であることを、妖物なりに気にしたのだろう。
「……あとでいいか? 長くなる」
「おう……」
 実結がAO型なのを知っている慎一には、実結の父が狂乱した理由も、おおむね見当がつく。実結の母はAAなのだろう。AAの母とBBの父から、AOの娘は生まれない。そして伯父はおそらくBO。AAの女性にAOの子を産ませられる血液型だ。しかし血液型の親子継承の詳細など、とても管生に説明している余裕はない。語られた真実が、あまりに重すぎる。
 実結は――兄が妹に産ませた娘だったのか?
 実結の父は、自分が真の父親ではないことを知って逆上し、偽りの家族を殺して家を焼いたのか?
 しかし――今ここにいない実結が、なぜこんな光景を思い出せる?
「血液型など……稀に変異することも……」
 実結の伯父は、激昂している義弟に、なお反論した。
「まだ言うか!」
 実結の父は、涎を飛ばして叫んだ。
「その封筒の中を見ろ。まだ何か残っているだろう」
 猟銃の先で指示され、実結の伯父は、震える指で封筒の中を探った。
 取り出した一枚の写真を見て、青かった兄妹の顔が、さらに色を失う。
 実結の父は、くつくつと嘲笑しながら、
「……その雌犬が昔から大事にしていた、箱根細工の化粧箱があったろう。その底の隠しに、後生大事にしまってあった。つくづく馬鹿な犬畜生だよ」
 兄は愕然と妹を見つめ、
「お前……なぜ、こんな……」
 妹は涙を流しながら兄の胸に顔を伏せ、
「だって……ごめんなさい……忘れたくなかった……」
 慎一には、写真の表が見えない。しかし裏面の質感から見て、それは普通の印画紙ではなく、明らかにポラロイド写真である。ならば、どんな被写体であるかは想像できる。ネガや現像を必要としないポラロイド写真の、ある種の需要の典型的な――おそらくは若気の至りの――。
 そこは管生にも、おおむね見当がついていた。十九世紀なかば、この世界で湿板写真技術が実用化されると同時に、そんな需要は生まれていたのである。若気の至りではなく、富裕な商人や貴族の秘かな遊びとしてだが。
「……まあ、いいさ」
 実結の父の声が、気が抜けたように鎮まった。
「どうせ、これで終いだ。畜生どもは、揃って地獄に行け。いずれ俺も行く」
 狙いを定める銃口に、もう迷いはない。
 すべてに裏切られた男の覚悟を悟ったのか、実結の伯父、いや実結の実父は懇願するように、
「お願いだ……実結だけは……」
 人倫を外れた男にも、血を分けた娘への確かな情愛はあるのだろう。
 しかし対する狂人は、
「おう。俺だって実結は可愛いさ。おまけに俺の娘ではない。そこはお前らに礼を言う」
 そう言って、底なし沼のように濁った笑いを浮かべ、
「あれはさっき、俺が女にしてやったよ。お前らを始末したら、連れて逃げる。どこまで逃げられるかはわからんが、捕まるまでは可愛がってやるから安心しろ」
 絶望に目を見開く兄妹に、狂人は発砲した。
 兄妹は抱き合ったまま、窓際まで弾けた。
 慎一は、為す術もなく放心していた。
 その耳元で管生が言った。
「忘れろ、慎一。実結のために忘れてやれ。人の世は、しょせんこんなものぞ。人など都合しだいで、いくらでも腐る」
 そこまでの達観した物言いが、妖物らしく禍々しい口調にころりと変わり、
「しかし腐った物ほど俺には美味い。見ていろ、慎一。今、何もかも喰ろうてやる」
 ぶわ、と管生が膨れあがった。
「生きながら丸囓りにしてやりたかったよ外道」
 白い毛色のまま、天井まで届く異形の獣に変じ、
「いかに狂うたとて、頑是ない子供にまで非道を為すとは――きさまこそ畜生ぞ!」
 牛を呑む大蛇のように上顎と下顎を水平まで開き、狂人を頭から呑もうとしたとき――。
 どん、と部屋の空気が、粉々に砕けた居間の扉とともに、横殴りの炎風と化した。
 この場を過去の残像と承知している慎一までが、衝撃を感じるような爆風だった。
「……なんだ、これは」
 管生は異形のまま、巨大な剥製のように固まった。
 食うはずのすべてが、窓側の壁ごと庭に吹き飛ばされている。
「実結……」
 呆然とつぶやく慎一の視線を追って、管生も横を見た。
 扉があったはずの大穴の向こうに、紅蓮の炎に包まれる廊下が見えた。
 その炎に焼かれながら――いや、炎の中でなぜか燻りもせず、粛然とたたずむ小さな影がある。
 炎に揺らめいて表情は見えないが、引き裂かれた洋服の一端を、わずかに纏っているだけの少女――。
「なんと……」
 管生が咽ぶように呻いた。
「何もかも見てしまったのかよ、あの娘は……」
「実結……」
 慎一はつぶやきながら、幼い実結を見つめ続けた。
 炎の中で、あの日の実結が揺らめいている。
 しかし十年前の記憶の中で、前庭に倒れていた実結ではない。
 その両眼は黒い瞳を失い、血走った白目だけが真円に開いている。
 それは十年前、搬送された松澤病院の病室を燃やしかけた鬼の目だった。
「実結!」
 慎一は後先を忘れて駆け寄った。
「無駄だよ慎一」
 管生が哀しげに言った。
「おぬしは記憶(ここ)に入れるだけ――そして俺は記憶(ここ)()めるだけ」
 それでも慎一は、実結を抱きしめずにはいられなかった。
 過去の影を傍観できるだけの男が、影を抱けるはずもない。
 慎一自身、そう悟った上での行動だったが、なぜか微かな感触がある――いや、あるような気がする。
「…………」
 慎一に気づかず、居間の残骸を睨めまわしていた鬼の目に、ふと、黒い瞳が戻った。
「…………」
 その瞳が、やがて慎一の悲痛な瞳に交わり、
「……慎一さ……ん?」
 子供の顔だが、子供の声ではなかった。
 二十歳を過ぎた実結の声である。
 慎一と管生は、同時に驚愕した。
 しかし、次の瞬間――。
 実結は激しく顔をそむけると、慎一の腕を振りほどいて身を翻し、燃え盛る廊下の奥に駆け去った。
 飛び去った、と形容するのが正しいほど、瞬時に炎に紛れて消える。
「実結!」
 反射的に慎一は追った。
 すでに廊下のどこにも実結の姿はない。
 それでも炎の中を、ただ走り続ける。
 幸い、今の周囲の炎は、派手に見えるだけで熱さを感じない。
「度胸は買うが、やはりおぬしは阿呆(あほう)よの」
 小さく戻った管生が、走る慎一の肩に這い上がった。
「おぬしは、どこに向かって走っておるのだ?」
「…………」
「あの二階の部屋を探せ。そもそもあそこが火元ぞ。おそらく実結の子供部屋であろう」
 推測にすぎないが、一理も二理もある。
 慎一は走りながら階段を探した。
 肩の管生は、慎一の頭にしがみついて揺れをこらえながら、
「しかし、俺もおぬしに負けぬほど阿呆ぞ。なぜこんな簡単な理屈に気づかなかった。ここは十年前と同じ館ではない。子供の実結ではなく、今、病院で寝ている実結の記憶の館ぞ。ならば今の旦那の気配に気づいてもおかしくない。慎一、もしかしたら、おぬしはここに関われるのかもしれぬ」
 炎の奥の横手に階段らしい影を見つけ、慎一はさらに脚を速めた。
 管生が続けて言った。
「そして十年前に俺が呑んだ館は、おそらく実結の偽りの記憶」
 慎一は階段を駆け上がりながら、
「つまり、捏造記憶?」
「おう、実結自身が己を騙していたのよ」
 管生は痛々しげに言った。
(とお)そこそこの子供が、あれほど非道い目に遭うて正気でいられるものかよ。身も心も狂うほどの辛さを、あの頃世間を騒がせていた火付け盗賊の悪行に置き換えたのであろう」
 慎一は、なかば焼け落ちそうな階段の踊り場を跳ぶように曲がりながら、
「だとしたら……ここを封じれば、なんとかなる」
「おうよ。俺が丸々呑んでしまえば同じこと。病院の実結に残るのは、火事の後、病院で目覚めてからの記憶――それでいいな?」
「ああ、頼む」
 やがて二階の廊下に躍り出る。
「右だ、慎一。あの奥の部屋ぞ」
 管生は冷静に、外から炎の見えた窓の部屋を示した。
「今このまま、すべてを呑んでもよいのだが、それではおぬしに未練が残ろう」

     ◎

 子供らしい手書き文字のプレートを貼った扉は、堅く閉ざされていた。
 ノブを回しても、中から鍵が掛かっている。
「開かぬか? やはり俺が食い破るか?」
 慎一は肩の管生(くだしょう)に答えず、二度三度と体当たりを繰り返した。
 肩が激しく揺れるので、管生は慎一の背中に潜りこみ、シャツの襟から顔だけ出して、
「おお、開きそうではないか。やはりおぬしは、ここの物事に関われるのだよ」
 たぶん、と慎一は思った。
 俺がここにいることを、実結(みゆい)が認めてさえくれれば――。
 数度目の体当たりで、室内に転がりこむ。
 顔を上げ、慎一は絶句した。
 床に降りた管生も、オコジョそのものの立ち姿で絶句している。
 子供部屋ではない。
 そもそも、この洋館の一室とは思えない。
 炎や煙もまったくない。
「……窓の下に神田川が流れていそうな部屋ではないか」
 管生が、呆れたように言った。
 確かに、安手の木造モルタルアパートそのものである。
「三畳一間よりはマシなようだが……」
「……2Kある。この台所の奥が六畳、横に四畳半」
「なんと、おぬしの部屋かよ」
 彼らが立っている三和土の前は、団地サイズの流し台を備えた、四畳ほどの板の間だった。
 しかし、その板の間には、二本の桃の木が奥を守るようにしっかりと根を張り、この季節らしく伸び伸びと茂らせた枝々に、鮮やかな細花を綿菓子のように咲かせている。
「日当たりは悪いが、台所いっぱいに桃の木を植えるとは、風流なことだな」
「……植えてない」
冗談(ざれごと)だ。いちいち真に受けるな。この部屋とて実結の記憶――昔と今の(あわい)を失った、夢の中のような部屋なのであろうよ」
 管生は、ふんふんと辺りを嗅ぎ回し、
「しかし、なにか(きな)臭い匂いがする。こことて、ついさっきまでは、屋敷といっしょに燃え落ちるはずの部屋だったに相違ない。こう変えさせたのは、慎一、たぶんおぬしぞ」
「……実結を探そう」
 慎一は、三和土から上がるのに、靴を脱ぎかけた。
「履いたままにしろ。いつ何が変わるかわからぬ」
 管生は、そう助言した。超自然の世界では、遙かに経験豊かな先達なのである。
 桃の花弁が、水面(みなも)の花筏のように散っている板の間を、慎一と管生は、桃の木の間を抜けて奥に進んだ。
 慎一は六畳の居間の襖を開けた。
「これは……」
 そこはすでに、桃の密林だった。
 自然の中ではありえないほど緊密に幹が重なり、慎一の腰から上あたりは、満開の枝々が桃色の海綿のようにみっしりと茂り、天井も壁も見透かせない。
 ただ、足元を見れば、花弁の堆積のあちこちに居間の畳が覗いている。
 見慣れたデコラの座卓も、朝食を摂ったのと同じあたりに、なんとか透き見できる。
 そして座卓の横に、膝を抱えてうずくまっているらしい少女の華奢な足先も――。
「実結……」
 しかし、そこに近づくための間隙がない。
 慎一が幹と幹の間に膝を突き入れても、腰でつかえてしまう。
「これはまるで六畳の桃花の檻――いや、桃花の繭か」
 管生が、言い得て妙な例えを口にした。
「俺だけなら抜けられるが、実結には俺の姿や声がわかるまい。といって、このままここを実結ごと喰ってしまえば、このアパートの記憶も怪しくなろうな」
「消えるってことか?」
「わからぬが、無傷では済まぬだろう。俺は(ばく)ではない。人の夢だけ選んでは喰えぬ。下手をすれば、病院で寝ている実結の心が欠けるもしれぬ。夢と(うつつ)(あわい)が欠ければ、人は狂うぞ」
「…………」
 夢と現の間が欠ける――想像と現実の境界が損なわれる。
 慎一は、何年か前に統合失調症を患った同僚の苦労を思い出した。入院と投薬で無事に復職したが、寛解しても完治は難しい病気らしく、今でも薬が手放せない。
「すまぬ、慎一。俺が食い意地を張り過ぎた」
 管生は珍しく頭を下げた。
「始めに庭から上がらず、屋敷ごと呑んでしまえばよかったのだ」
 慎一は(かぶり)を振った。それを責めるなら、下の廊下で、つい子供の実結に触れてしまった自分も悪い。
「こうとなっては実結の心しだい。ならば今、俺にできる仕事はひとつ」
 管生はむくむくと膨らんだ。
「すぐに道を開ける」
 姿形(すがたかたち)はオコジョのまま、白獅子ほどの体長で膨張を止める。それ以上大きくなると、狭い部屋ではかえって動きにくい。
「ついてこい、慎一。その先はおぬしの仕事ぞ。惚れさせたときのように、巧く実結を口説け」
「…………」
「情けない顔で悩むな。そのぱっとしない(つら)と安月給で、あの鄙には稀な娘を口説き落としたのだろう。ならば、口だけは勝てる理屈ぞ」
 管生は真顔で言ってから、鼻先の幹に、がぶりとかぶりついた。
 一見愛らしい姿でも妖物は妖物、かっ、と口を開けば、やはり貪欲な異形である。
 異形の牙でばりばりと、瞬く間に桃花の繭を食い荒らしてゆく。
 管生は、途中で息を継ぎ、
「……実が成っていたら美味かろうに」
 あまり美味くはないらしかった。

     ◎

 よし。行け、慎一――。
 そんな管生(くだしょう)の鼻先に促され、慎一は、繭に開いた穴の奥に歩を進めた。
 桃色の雪洞(かまくら)のような空間に、子供の実結(みゆい)が膝を抱えてうずくまっていた。
 その洋服が綺麗に整っているのに、慎一は安堵した。あの痛々しい半裸姿でいられたら、自分の感情が保たない。
 座卓や畳は、今日の朝、夫婦揃って出たときと変わらなかった。座卓の上のガラスの灰皿も、今朝、実結が洗ったときのままだった。煙草を吸うのは慎一だけだから、独身時代はつい吸い殻の山を築いたものだが、ふたりで暮らすようになってからは、いつのまにか透き通ったガラスの灰皿に戻る。
 頭がつかえるほど桃花の枝々が密で、向こう側の壁も窓も見透かせないのに、座卓の周りは穏やかな光に包まれていた。桃花の照り返しではない。結婚してから実結の好みで使うようになった、暖色系の蛍光灯の光である。今の頭上には、当然、蛍光灯の笠は見えない。それでも見慣れた色の光だけが、子供の実結を包んでいる。
 慎一は、涙をこらえられなかった。
 この光の下に戻ろうとしてくれたことが、ただ嬉しかった。
 しかし、慎一が実結の背後に膝をつき、そっと両手を前に回しても、実結は頑なにうずくまったままだった。
 細く小さな体は、氷のように冷たい。
「実結……帰ろう」
 慎一は、なかばしゃくり上げながら言った。
「……本当の家に帰ろう」
 微かな身じろぎを感じたような気もするが、それも定かではない。
 座卓の上に、小さな管生がちょろちょろと這い上がり、実結の前に立った。
 うずくまっている実結の顔を下から覗き、
「続けろ、慎一。ちゃんと黒目が戻っておる」
 膝を抱えていた実結の細い指が、ふと緩んだ。
 ほどけた指が、胸元にある慎一の大きな手を求めて、そろそろと動く。
 そうそう。そのまま、オーライ、オーライ――管生はそんな顔をしながら、
「……なんとかなりそうだ」
 言われてうなずいた拍子に、慎一の頬から、一滴の涙が実結の首筋に落ちた。
 刹那、ぴくりと実結が動いた。
「いかん! 慎一!」
 管生は突然叫んで跳び退った。
「鬼の目に戻った!」
 ぼう、と実結から炎が上がった。
「実結!」
 慎一の腕の中で、氷像のような感触が、燃え熾る石炭塊に変わる。
 それでも抱き続ける慎一の、シャツの袖や肩に炎が移る。
 管生は焦って、さらに叫んだ。
「離れろ慎一! おぬしも燃えておるぞ!」
 慎一は実結を離さなかった。
 自分の掌や腕が、じりじりと焦げてゆくのがわかる。
 この部屋に入るまでは炎も熱くなかった。
 だからこそ、今、自分は確かに実結の今の世界(ヽヽヽヽ)を共有している――。
「虚け者! ここで死ぬのはおぬしのみぞ!」
 管生は瞬時に白獅子の丈に膨らみ、実結から慎一を引き離すように飛びかかった。
 慎一を抱き、もんどり打って転がる管生の毛皮にも炎が移った。
「おう!?」
 炎はめらめらと、一面の桃花にも燃え広がる。
 花と炎の中に、ゆらゆらと実結が浮き上がった。
 その鬼の目が、ふと、のたうちまわる慎一と管生に止まる。
 慎一は燃えながら、実結に手を差し伸べた。
「実結!」
 一瞬、鬼の目に黒い瞳が戻ったのを、慎一も管生も悟れなかった。
 しかし次に実結が発した、鬼とも人もつかぬ悲愴な咆哮は、彼らの耳にも確かに聞こえた。
 おおおおおおおお――。
 咆哮の尾を引きながら、人型の炎が桃の繭を破り、さらに奥の窓を破って夜空に消える。
 破られた粗末なガラス窓の破片や無数の桃の花弁は、宙を舞いながら、古い館にふさわしい漆喰片や火の粉と化した。
 同時に部屋の中も、古い館の子供部屋に変わった。
 すでに部屋中が燃え盛り、寝台や家具調度も火だるまとなっている。しかし慎一や管生を焼く炎ではない。館全体が、本来の過去の影に戻っている。
「実結! 実結!」
 なお叫び続ける慎一を、
「落ち着け! もうここにはおらん!」
 管生はたしなめ、まだ慎一の衣類に残っている陽火を、短い四肢と長い胴で器用に拭い消した。
「管生……」
 慎一も、ようやく我に返り、
「……お前は大丈夫か?」
「心配御無用。俺は人ほど脆くない」
 管生は、自分の体をぐるりと見渡し、
「しかし鬼の力を侮ったよ」
 首と胴が長いから、体をひねれば自分の背中まで検められる。
「見ろ。自慢の白毛が、あちこち茶黒になった。ここでは俺もおぬしと一蓮托生らしい。これからは、実結だけは怒らせまいぞ」
 そう笑って首をすくめ、ぷるぷると全身を震わせると、焦げた毛先が粉のように散り、白とはいえないまでも、斑な灰色の体に戻る。
 それから管生は、慎一の煤けた顔や、シャツの一部が焼けて露わになった肌を見回し、
「人間は毛が生えていないから大変だな。しかしその程度なら、あれも本気でおぬしを焼こうとしたわけではない」
 慎一はうなずいた。一時は全身火だるまになったのに、あちこちに火膨れができただけで済んでいる。
「つまり、おぬしに合わせる顔がなかった――そんなところであろうよ」
「……俺のせいだ。俺が下の廊下で、実結に……」
「過ぎてしまったことを、何度も気に病むではない。そんな実結にした奴らが悪い」
「…………」
「それに実結は、鬼になっても、おぬしに惚れておるぞ」
 管生は、珍しく優しい顔で言った。
「あれは、おぬしを焼き殺すまいと、ここから逃げたのだよ。こんな泣き虫のどこがいいのか、俺にはわからぬがな」

     ◎

 慎一は、小さく戻った管生(くだしょう)を肩に乗せて階下に戻った。
 すでに周囲は記憶の残滓である。炎に包まれて、なかば焼け落ちている廊下も、軽く跳んで渡ればいい。
 あの惨劇の部屋はどうなったか、気になって途中で確かめると、部屋のみならず、屋敷のその一角が吹き飛んでいた。
「十年前、本当の焼け跡のありさまは、どうであったのだろうな」
「石造りの玄関ポーチ以外は、ほとんど全壊した。台所のプロパン・ガスが爆発して、一階の一部は木っ端微塵に吹き飛んだ――そう新聞に」
「なるほど、焼け跡の帳尻は()うておるわけだ」
 十年前の記憶では、そのポーチの先の前庭に実結(みゆい)が倒れていたのだが、今は当然、その姿はない。
 念のために辺りを検めながら、元の門前に戻る。
「もしやと思うたが、やはりいないな」
「実結の記憶が、また変わったとしたら……今度はどう変わったのか……」
「俺にもわからぬ。こんな先の読めぬ仕事は初めてだ。そもそも霊道行(たまのみちゆき)など十年に一度、いや五十年に一度あるかないかの大仕事ぞ。おぬしとて実結がらみの他には、何年か前、狂った子供のトラウマとやらを、斎女(ときめ)に頼まれて封じた時くらいのものだろう」
「ああ」
「万一下手を打てば、こっちも現世(そと)に帰れなくなる荒事ぞ。現におぬしのひいひい爺さんなど、老いぼれてからも義理としがらみで荒事を引き受け、あちらで迷って動けなくなった。憑いて行った俺も、つくづく困ったよ。まあなんとか戻って来られたのはいいが、ひいひい爺さんは気が衰えて、結句、ひと月ほど寝込んだ末にポックリ逝ってしまった」
「……ああ、知ってる」
「俺はふだんの仕事だけにしたいよ。ありふれた陰火や、外に(こご)った人の(はく)を呑むだけなら楽でいい。たまには人を食ったりもするが、あれは美味いから、しょっちゅうやってもいいな」
 ふと、慎一は聞きとがめた。
 ――人?
 同じような言葉を、今夜、管生の口から何度か聞いた気がする。
 これまでは気にとめる余裕がなかったが、そもそも管生が自力で竹筒から出ることはない。管生が人を食ったとしたら、斎女がそれを命じたことになる。
 いや、いくらなんでも――。
 慎一は思い直した。
 御子神(みこがみ)斎女(ときめ)は何代も続く世襲制の名跡である。管生だけが、同じ管生のまま引き継がれている。ならば、この国でも何度かあった血で血を洗う混乱の時代、そんな血生臭い仕事があってもおかしくない。
「野武士でも食ったのか?」
「夜盗だよ。五人ほどまとめて呑んだ。あれはすこぶる美味かった。昔の悪漢は、痩せて食いでのない奴ばかりだったが、近頃は栄養が行き届いて、鍛えておるから赤身が美味い」
「近頃?」
「おう。十年前の話よ」
 慎一は、思わず肩の管生をつかみ、両手で握って顔の前にぶら下げた。
「何をする無礼者! 鼻を囓るぞ!」
「……どこの誰を食った?」
「斎女に口止めされておったのだが、もう教えても良かろう」
 管生は悪びれもせず、
「おぬしや実結にも無縁の話ではない。十年前、この館の現物が燃えて、しばらく後の話よ。例の火付け盗賊たちが、どこぞの港から海に逃れたという話があったろう」
「ああ」
「どこに居ようと追いかけて、見つけて呑んでしまえ――そう斎女に言いつけられた」
「まさか……」
「そう恐い顔をするな。若輩だったおぬしと違って、もう御子神の稼業を継いでいた斎女ぞ。警察やおぬしが口をつぐんでも、実結がどんな非道な目に遭っていたか、知るだけの人脈があった。せっかく実結の記憶を封じたのに、後で犯人どもが何か口走ったらどうなる。だから、そっちの口も封じたのさ」
「でも……本当の犯人は……」
「まあ、そこは確かに違っていたがな」
 管生は平然と、
「斎女も俺も、けして馬鹿ではない。しっかり確かめてから呑めと斎女に念を押されたし、俺もきちんと言いつけを守った。呑んで当然の奴らだったよ。海を渡った先の国でも、酒に酔えば非道の話で盛り上がり、金が尽きたら、俺の目の前で人家を襲った。あそこで俺が呑まなかったら、あと何十人焼かれたかわからん。実結のような目に遭って焼かれる娘も出たろうよ」
「…………」
「ま、正直、俺はただ美味いから食ったのかもしれぬ。しかし斎女は実結のために命じたのだ。そこはわかってやれ」
「……ああ」
 慎一も、なんとか納得する。
「それから、もうひとつ」
 管生は、つぶらな小動物の目で、じっと慎一を見据えた。
「――人の色恋は、俺にはわからぬ。化けてからは(おんな)もいらぬ。しかし化ける前の大昔、自由に野山を駆けていた頃には、惚れた(おんな)と番うため、何匹もの(おとこ)と血を流し合った。――オコジョさえ綺麗事で恋はできぬぞ」
「…………」
 慎一は、黙って管生を肩に戻した。
 無言のまま館に目をやる。
 門前から振り仰ぐ猛火の館は、十年前に入った実結の記憶そのものに見える。
 しかしその炎は、すでに猛火ではなく地獄の業火に変わっていると、慎一には思えた。
 確かに――綺麗事では済まないのだ。
 自分がどんなに実結に焦がれても、周りの世界は、そんなことを斟酌してはくれない。自分の思いと実結の思いさえ、綺麗事では噛み合わない。そんな現実の象徴が、灼熱の雲のように火の粉を巻き上げながら、めらめらと夜空を焦がしている。
 慎一は言った。
「……呑んでくれ、管生」
 管生は慎一の肩から、するりと伸び上がった。
「まあ、どのみちここの始末は、それしかなかろうな」
 今度の膨らみには、つかえる天井がない。
 文字どおり天井知らずに、管生は膨らんだ。
 姿形も異形を超えて、濃霧の塊のような巨獣と化し、春の朧な星空に屹立する。
 それからおもむろに屈みこみ、小高い敷地ごと天辺から呑むように、炎も館も、何もかも一口に()んでゆく。
 そして、わずかに数秒後――。
 管生は、するりと慎一の肩に戻り、
「やはり実結らしい味はせぬな。鬼の味もない。館の他には、腐った大人の丸焼きだけぞ。ちょいと焼けすぎたが、なかなかオツな味であった」
 そう言って、餌を食べ終えた猫のように、小さな手先で自分の口元をくりくりと拭いながら、
「――どうする慎一。いったん病室に戻るか? あちらの様子も気にかかる」
 慎一は、管生が土台ごと呑んだ屋敷の跡を眺めながら、
「いや、ここはまだ実結の隠れ場所――桃の繭の中だ」
 確信に満ちた慎一の声に、管生は顔を上げ、
「おお、なるほど……これは……」
 たった今、自分で囓った広大な荒れ地が、見る見る内に、地面から生え伸びる桃の林に覆われてゆく。
 そこだけではない。
 周囲を見れば、丘全体が満開の桃林となってゆく。
 管生は、背後の門を振り返った。
 鋳鉄の格子門は以前のままだが、左右の門柱はすでに桃の木に抱き込まれ、アユタヤの仏像のように、ほんの一部を幹の表に覗かせている。
 管生は慎一の肩から飛び降り、門に駆け寄って、格子の間から下の町を見下ろした。
 元から広大な桃農園だった坂道一帯は、すでに全視界を埋めつくす桃林の一部となり、どこまでが本来の桃園だったのか判別できない。
 先ほどは遙かに臨めた海沿いの街並みも、その彼方の日本海も、見晴るかす限りが、桃色の雲のような桃花に覆いつくされている。
 そして空は、一片の雲もない春の星夜――。
「……さっきの部屋と違って、歩ける道はなんとか残っておるようだが」
 管生は呆然と言った。
「こう広いと、さすがに俺も呑みきれるかどうか……」
 慎一が隣に立ち、同じ世界を見渡しながら言った。
「いや、まだだ。呑んでもらう前に、実結を探して今の様子を確かめる」
「しかし……そもそも、探す世界の果てが見えぬ。館やアパートとは訳が違うぞ」
「たいして違わない。この景色全部が実結の記憶の中なら、間取りがないだけで、館やアパートと同じに限りがある。そして実結が今いる場所は、昔、自分と縁のあった場所のはずだ」
「しかし実結は旅にも出ておるぞ。確か、ずっと斎女と同じ学校であろう。ならば中学の修学旅行は京都、高校では東京のはず。昔、土産の『おたべ』や『東京ひよこ』を斎女にもらったから間違いない。山陰道や東海道まで桃並木が続いていたらどうする」
「たとえ世界全体にだって限りはある。地球の表面積は五億一千と十万平方キロメートル。それを俺に教えてくれたのは実結だよ。つい先月、公民館の図書室で読んだとか言ってた。ならば最悪でも有限――俺は必ず実結を見つける」
 話す間に、慎一の肩に戻っていた管生は、ぽつりと言った。
「その目かよ」
 言葉の意味がつかめず、慎一が管生を見ると、
「いや、今のおぬしの目は、なかなかのものぞ。昔、そんな目を見たことがある。あれは義経(よしつね)であったかな」
「は?」
「源義経を知らぬのか」
「いや、知ってるけど……」
「俺がまだ奥州にいた頃だ。京から逃れてきた義経たちを山道で見かけたのだよ。遠目では、あんな出っ歯でちんちくりんな男が噂の勇者(もののふ)かと呆れたものだが、(そば)を過ぎるとき、目を見てわかった。あれなら確かに郷御前(さとごぜん)静御前(しずかごぜん)も惚れる。目千両、そんな言葉があろう。海を渡って成吉思汗(ジンギスカン)になれる(おとこ)(まなこ)ぞ」
「へえ……」
「おぬしも、その目で桃御前を陥落(おと)したのであろう」
 冗談で力づけてくれているのだな――慎一はそう思ったが、管生は、あんがい真面目な顔をしていた。
「とりあえず、坂を下ろう」
 慎一は言った。
「実結が通っていた幼稚園も学校も、下の町だ」
「おう。俺の社――おぬしや斎女の家もな。あそこにいないとも限らんぞ。斎女が庭で小さな実結と遊んでやっていたのを、俺も覚えておる」
 慎一がうなずいて、門扉を押し開こうとしたとき――。
 背後から、いきなり光が射した。
 炎とはまったく違う、鋭い光である。
 あわてて振り向く慎一の肩で、管生が光から顔をそむけた。
「おう……」
 妖物だけに夜目が利く代わり、突然の光物は苦手なのである。
 慎一も目がくらみ、掌で目を覆った。
 指の隙間から覗き見ると、左右に離れた二つの円光が、間近に迫っていた。
「……ヘッドライト?」
「なんと……車かよ」

     ◎

 この車は、どこから現れたのか――。
 慎一も管生(くだしょう)も、面食らうばかりだった。
 かつて門から館に続いていた敷石の道は、ほとんど館ごと管生に()まれ、数メートル先で途切れている。残った道も桃林に侵食されている。車は、その桃林とは無縁に突然出現したとしか思えない。
 うずくまった慎一を轢く直前で、車は停止した。
 管生が言った。
「ここで轢かれていたら、どうなったであろうな」
「試してみるか?」
「……やめておこう」
 車の左の前ドアが開き、人影が降りてきた。
 慎一たちには目もくれず、そのまま門扉に向かってゆく。
 人がいたから停まったのではなく、単に門を開くために停まったのは明らかだった。
 車も運転者も、単なる過去の残像――。
 人影が門を開き始めた。なるべく音を立てまいとするような、小刻みな動きだった。門柱を抱き込んだ桃の木や、周囲の桃林を気にしている様子はない。
 慎一は立ち上がり、車を見分した。
 黒塗りの外車である。
「オースチン――この家の車だ」
「しかし、俺でさえ懐かしいほどの古物ぞ」
「戦前から使っていた車だ。俺も何度か見たことがある。最後に見たのは幼稚園の頃だったかな」
 昭和三十年代前半、この町で自家用車を持っている家庭は、ほんのわずかだった。まして戦前なら、平坂家の他には、町長や代議士の家だけだったのではないか。この国で、いわゆるモータリゼーションが進んだのは確か東京オリンピック以降、慎一が中学に上がってからである。
 助手席に座っているラフな洋装の女性を見て、管生が慎一に訊ねた。
「その時代なら、あれは実結(みゆい)の母ではないな?」
「ああ、祖母だ」
 当然、さきほど館の居間で見た老婆と同じ容貌ではない。まだ初老で、暗い車内灯の下では皺も目立たず、顔の輪郭も彼女の娘――実結の母親に似ている。
 それ以外、車内に人の姿はない。荷物らしい荷物もない。
 門を開き終えた人影が、こちらに戻ってきた。実結の祖父、やはり初老だった。
 管生が面白そうに言った。
「あの年で夫婦で夜遊びとは、お盛んなことよ」
 慎一は顔をしかめていた。
 夜半近くに、思い立って町のバーにでも出かける――この館の暮らしなら、ないことではない。しかし、ここでこの光景を自分たちが見ている以上、なんらかの形で実結の記憶が関わっていなければおかしい。
 ――今、このあたりに実結がいるのか?
 慎一は周囲の桃林を、すばやく、しかし念入りに見渡した。
 オースチンはそのまま発進し、門から坂道に下りてゆく。
「さほど遠くには行かぬ。門を開いたままだ。……おや?」
 そちらを見ていた管生が、いきなり慎一の耳を引っ張った。
「お、おい慎一! あれを!」
 桃林の坂を下るオースチンの後尾に、何か奇妙な光が見える。
 赤く点滅するふたつの尾灯の、ちょうど中央の少し上に、微かだが、青く揺れる炎のような光――。
「あれは陰火ぞ!」
 管生の叫びをスタートピストルにして、慎一は短距離走者のようにダッシュした。
 その坂は、麓の慎一の家を過ぎるまで、ほぼ一本道である。
 車も年輩者の運転らしく、さほどスピードは出していない。
 しかし道が曲がりくねっているため、じきにオースチンの後尾は見えなくなった。
 落ち着け俺、落ち着け俺、落ち着け俺――慎一は走りながら、今の状況を模索していた。
「――あのトランクに実結がいるなら、ここはたぶん昭和三十二年の四月だ」
 肩の管生に聞かせるというより、自分の思考を整理するために口にする。
 管生は怪訝(けげん)そうに、
「それだと実結は、まだ赤子であろう」
「生後一週間、産院から家に移った日だ」
「なんと……二十年前の夜かよ」
 実結が自宅から何者かに連れ出され、深夜、それに気づいた両親が警察に通報し、一旦は、その頃毎年のように全国で発生していた営利目的の児童誘拐が疑われた。しかし翌朝、付近を捜索していた警官と消防団によって、実結は無事に保護された。犯人の気が変わったのか、単に持て余されたのか定かではないが、いなくなった時のままの姿で、桃林の奥に放置されていたのである。
 管生は当惑し、
「しかし実の祖父母が、なぜこんな誘拐魔みたような真似をしているのだ? 兄妹の不倫の子と知って、どこぞに捨てようというのか?」
「わからない……俺にはわからないことばかりだ」
 慎一は、坂の途中で足を止めた。
 本来なら、そこは海が見えるはずの場所である。しかし今は地平線まで桃林が続き、それに紛れて道の先も見えない。彼方の桃林の狭間に、ちらりと車の尾灯が瞬いたが、すぐに曲がって消える。
 管生が言った。
「しかし、どのみち実結は無事に見つかるのだろう。焦ることはない」
「いや――俺はもう昔の話は信じない。実結の記憶も、自分の記憶も信じない。今の実結をこの目で見て、それだけを信じる」
 慎一はそう言ってから、管生に訊ねた。
「管生、お前、空を飛べないか?」
 管生は突飛な質問に面食らったが、すぐにいつもの皮肉顔に戻り、
「俺がモモンガに見えるなら目医者に行け。しかし、空に伸びろといわれれば際限なく伸びる。おぬしだって何度も見ておろう」
 慎一は、そんな事にも思い至らなかった自分に呆れながら、
「俺をくわえて伸びてくれ」
「おうよ」
 管生は、瞬時に白獅子の丈となって、
「くわえようにも、おぬしの襟首には毛皮の余りがない。俺の肩にしがみつけ。やめろと言うまで空に伸びようぞ」
「頼む」
 管生は気を利かせて横には膨らまず、上にだけ胴を伸ばした。傍で見ている者がいたら、獣ではなく、天を突く白い柱に見えただろう。その首にしがみついている慎一にとっては、星空に向かって真上に飛ぶのと同じことである。
 管生が風を切りながら言った。
「しかし見事な景色よの。上がれば上がるほど、どこまでも桃の林ぞ。――おう、麓の俺の社は、ちゃんと残っておるな」
 確かに、元から桃農園にあたる範囲の光景は、当時と様子が変わっていない。
 慎一は自分の生家を見定め、そこから記憶をたどって、ある場所への方角と距離を推し量り、そちらの道筋を注視した。
 案の定、オースチンのヘッドライトらしい豆粒ほどの光が、南への道筋を進んでいる。その農道は、少し先から車の入れない細道となり、戦前まで使われていた番小屋の跡地に続くはずだった。
「止まれ、管生」
「おう」
 ヘッドライトが向かう先に、黒い染みのような暗がりが見えた。番小屋だった廃屋と、その前の空き地である。
「あそこに降りたい。うまく曲がれるか?」
「おうよ。龍のように堂々とくねってみせるぞ」
 管生は、ぬい、と頭の向きを変えた。
 龍というより長大な虹のように、白い円弧となって丘と麓を結びながら、
「もしや、あそこで赤子の実結が見つかったのか?」
「ああ」
「そんな場所まで、おぬし、よく知っていたなあ」
「一度、見に行った。何年も後だけどな。見つけた消防団の人に聞いたら、いなくなったときの御初着のまま、土だらけで見つかったらしい」
「つくづく忠実(まめ)な男ぞ。おおかた実結に惚れてから、聖地巡りでもしたのであろう」
「……まあな」
「町でこっそり実結の後をつけたりもしたに相違ない」
「…………」
「まさか風呂や着替えは覗いておらんだろうな」
「いや、そこまでは……」
「夏の海水浴場あたりで、日がな一日、実結の水着姿を眺めていたことは?」
「…………」
「おぬし、よくぞこれまで、お巡りに捕まらなかったものよなあ」
 管生はからかうように言いながら、着地に備えて前足を構えた。
「まあ、ちゃんと籍を入れたのだから、ここは目をつぶってやるとしよう」

     ◎

 桃林に囲まれた広からぬ空き地に、管生(くだしょう)は巧みに前足をついた。
 際限なく宙に伸びていた胴が、瞬く間にするするとこちらに戻る。
 慎一は管生の背から、よろけることもなく土の上に立った。
「これは飛んだのと同じだぞ、管生」
 感心してねぎらう慎一に、
「宙に浮かねば飛べるとは言えぬ」
 管生は、真っ当な理屈で応じた。ふだんから尊大な物言いをするわりに、大言壮語は嫌いな(たち)らしい。
「それより――来たぞ、慎一」
 古い豆電球らしい橙色の光が、朽ちた番小屋の残骸に向かって、ゆらゆらと近づいてくる。車を細道の手前に残し、そこから先は歩いてきたのだろう。
 実結(みゆい)の祖父が懐中電灯で行く手を照らし、祖母は布の包みを胸に抱いている。
「あれが実結か?」
「……たぶん」
 さきほど車の後尾に漂っていた陰火は、今は見えない。しかし、抱いているのが御初着(おくるみ)に包まれた赤ん坊なのは確かだった。
 ふと、懐中電灯の光が横に逸れた。
 実結の祖父母は、廃屋の裏手に回ったらしい。
「……まさか!」
 慎一が、思い当たって叫んだ。
 いきなり脱兎のごとく駆けだす。
 管生も後を追い、
「まさかとはなんだ?」
「すぐ裏に古井戸が!」
「何!?」
 すでに涸れ井戸なのは慎一も知っていた。番小屋が放棄されてまもなく、遊びで忍びこむ子供たちが転落しないよう、ほとんど土砂で埋められたと聞いている。
 だからこそ――もし実結の祖父母が、実結の誕生を疎んでいるとしたら――赤ん坊の実結は、翌朝、土まみれで見つかる(ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ)のだ。
 即座に追ったはずなのに、慎一たちが裏に回ると、実結の祖父母は、もう次の行動に出ていた。
 崩れかけた石組みの井戸の中に、祖母が御初着ごと赤ん坊を投げ入れる。祖父は重そうな手押し車を傾け、井戸の中に土砂を注ぎこもうとしている。すみやかに事を運ぶため、以前から準備を整えていたのは明らかだった。
 慎一は、実結の祖父に渾身の力で飛びかかった。
 しかし、そのまま相手の体をすり抜け、もんどり打って後ろの藪に転がった。
 さきほどの館では、扉を破ることも実結に触れることもできたのに、今は記憶の世界に関われない体に戻っている。
 慎一は呆然と井戸を振り返った。
「実結……」
「任せろ慎一!」
 管生が叫びながら白獅子の丈に膨らみ、実結の祖父に躍りかかった。
「この外道!」
 管生の声も、相手の耳には響かない。しかし相手を倒し、喰らうことはできる。
 横に倒れる手押し車と、頭からばりばりと食われてゆく夫を、その妻はただ硬直して見つめていた。おそらく、頭から消えてゆく夫の姿が見えるだけで、管生の姿は見えていないはずである。それでも動転するには充分な光景だったらしく、実結の祖母は、転げるようにその場から逃げ去った。
 慎一は井戸の奥に身を乗り出した。
 元から埋められていた井戸なのが幸いして、御初着は手を伸ばせば届く深さにあり、まだ上半分が土砂から覗いている。実結の顔も、御初着から覗いている。赤ん坊の実結は、目を閉じて静かに眠っているようだ。
 しかし――その土砂や御初着に触れることができない。
「実結! 実結!」
 手を伸ばして叫び続ける慎一を、管生が押しのけた。
「落ち着け! だから任せろ!」
 管生は鼻で土砂を掻き分け、御初着ごと実結を咥え上げた。
 中身に歯を立てないよう気遣いながら、そっと井戸の横に寝かせる。
 慎一も動悸を鎮めながら、それを見守る。
「……かわいい子ではないか」
 管生は目を細めて言った。
 まだ生後一週間では、(のち)の実結を思わせるはずもないが、女の子らしく穏やかな顔立ちだった。
 でも――顔色がおかしい。
 慎一は、そう訝った。赤ん坊らしい血色が、ほとんど感じられない。
 慎一は実結の頬に、そっと指をふれようとした。
 しかし、やはり触れない。指先には虚空の感触しかない。
 管生も慎一の不安を気取り、おずおずと、赤ん坊の息を鼻先で(あらた)めた。
 鼻で撫でさするように、ゆっくりと顔中を探ってから、
「……のう、慎一」
 管生は、沈鬱な声で言った。
「気をしっかり持てよ――と言いたいところだが、おぬしには無理であろうな」
「…………」
「しかし事実は事実。ここは、はっきりと言うぞ。――この子は、もう死んでおる」
「……は?」
 慎一は、白紙のような顔で管生を見返した。
 やはり(うろ)がきてしまったか――管生は痛々しい顔で、黙ってうなずくしかなかった。
 慎一は実結の御初着を、触れない手で何度も抱き上げようとしていた。
 自分がそうしていることを、自覚しているわけではない。
 しかし、管生が思うほど自失してもいない。
 感情が感情を感情として認めるのを拒否し、むしろ離人症にでも陥ったように、心とはまったく別の部分で、この事態を他人事のように考察していた。
 実結の祖父母は、なぜこんな惨いことを――実結の血液型を知ったからだろうか。
 しかし、新生児や乳幼児の血液型検査が不正確であることは、周知の事実だ。四歳以上になってから再検査すると、半数が誕生時とは型が覆ると聞いている。そんな五分五分の可能性だけで、産まれたばかりの実の孫を闇に葬る覚悟ができるのか――。
 いや、できるかもしれない。実の息子と実の娘が、以前から契り合っていたことを知っているなら。
 今は没落していても、実結の祖父母には、かつて名誉ある旧家だった一族としてのプライドがある。現に戦前は栄華の頂点にいたのだし、戦後も人一倍プライドを重んじて醜聞(スキャンダル)を嫌う夫婦だったことは、慎一も幼い頃から瞥見している。
 慎一の耳に、あの館で管生が口にした言葉が蘇った。
「人など都合(つごう)しだいでいくらでも腐る」――。
 千年に渡って人の世を見てきた管生の言葉は、慎一にとっても、厳然たる真実に思えた。
 慎一の脳裏で、堰き止められていた感情の渦が決壊した。
 死んだ実結の前に正座してうつむき、両の拳を両膝に置いて震えている慎一の、その震える拳の甲に、たらたらと涙がこぼれ落ちる。
 その涙が、雫ではなく水の糸であることに、管生は一瞬驚いたが、すぐに内心で首肯した。
 まあ、こいつなら、これくらいの涙は流すだろうよ。相手が実結であれ、見ず知らずの子供であれ、あまりに不憫な姿を見ると、いつもふたり分の涙を流してしまう男だからなあ――。
 一度流れ出してしまった涙は、理屈では止められない。
 慎一は正座したまま、咆えるように慟哭していた。
 大の男にはありえないほどの、身も世もあらぬ号泣である。
 それがいつまでも続く。
「……泣けよ、慎一。涙が涸れるまで泣け」
 横に立つ管生は、独りごちるように言った。
「俺は子供のように泣く男が嫌いではない。己の非力を思い知って、泣かずに立ち上がる男など信用できぬ。そんな男は、いずれ己も他人(ひと)も裏切る」

     ◎

 そして、しばらくの(のち)――。
「そろそろ涙は涸れたか、慎一」
「……いや、まだだ」
 すでに泣きやんだ慎一は、濡れた顔を袖でぬぐいながら、
「残りは、これからの実結(みゆい)のために残しておく」
 そう言って管生(くだしょう)に向けた目は、涙で充血しているが、すでに迷いは晴れていた。
「それがいい。そうしろ」
 管生は安堵して、
「ここでのことは、しょせん夢幻(ゆめまぼろし)と同じことぞ。現世(うつしよ)に帰れば、ちゃんと大人の実結がおる。しかし現世(うつしよ)なればこそ、五十年先には皺々の婆さんぞ。すっかり呆けて、寝たきりの赤子同然になっておるかもしれぬ。そしておぬしは末長く、泣きながら毎日おむつを替えてやるのさ。だから涙は、いくらあっても足りぬ」
 これでも慰めているつもりなのだろうな――慎一は苦笑した。
 御初着(おくるみ)の実結に、改めて目をやる。
 顔色は白いが、眠っているのと同じ安らかさを感じる。
 慎一は立ち上がり、間近な桃の木から花の枝を一本、手折って戻った。
 実結の頭の横に、供えるように立てる。
 管生は、ほうほうと感心しながら、
「なるほど、人とは風流なものだ。俺では思いつかぬ。生き返ったときに目の前に花が咲いておれば、実結も楽しかろう。――のう慎一、おぬしもそう思って、そこに立てたのだろう」
「……ああ」
「つまり実結は『つてこはずれ』であった――そういうことだな?」
 そうとしか思えない――慎一は黙ってうなずいた。
『つてこ』とは、いわゆる『間引(まび)き』の別称である。
 植物栽培における作業としての『間引き』ではなく、昔、飢餓と貧困の時代、養いきれない子供が生まれてしまった際に、生まれなかった者として秘かに葬った、その行為を表す『間引き』――確かに惨い行為ではあるが、現代のような避妊手段や中絶技術がなかった時代、徒に責めるべき行為とは言いきれない。
 その『間引き』を、東北の一部では『つてこ』と言い習わしていた。単に『捨て子』から変化したと解釈する民俗学者もいれば、此岸で育てられない赤子を彼岸で生かすため、神仏の伝手(つて)を頼った『伝手子(つてこ)』――そんな哀れな説もある。
 しかし、そこから派生した、陰のさらに陰の言葉である『つてこはずれ』とは――。
 土に埋めても川に流しても死なずに戻ってきてしまう、一種超自然的な赤子――それが『つてこはずれ』である。神聖な子供として育てられるか、不吉な子供として嫌われるかは、育てる親の心、あるいは地域の慣習で決まる。
「『つてこはずれ』は鬼になる――そんな噂も故郷(くに)にはあったよ。貧しい時代が長かったからな。俺としては、本当にそんな鬼がいるならむしろ仲間内、ぜひ会いたいものだと思っていた。だから俺は、おぬしや斎女(ときめ)とは違う意味で、実結を贔屓にしたいのさ」
 管生は、今は息のない実結に、優しげな目を向けて言った。
現世(うつしよ)の実結は、二十年前、確かにそこの涸れ井戸に埋められたのであろう。しかし朝までに息を吹き返し、自力で土中から這い上がった。それから外に出て、山狩りの大人たちに救われた。埋めた二人はさぞ驚いたろうが、母親や父親、それから例の実の父親などは、確かに喜んだ――喜んだはず、と俺は思いたい。まあ十年後には、あんな修羅場になってしまったわけだがな」
 管生は、実結の頬に顔を近づけて、
「――そんなこんなで、鬼の実結も、俺にはけっこう可愛いのだよ。しかし今ここにいる実結は、少々悩ましいな。この場ごと呑んでしまえば、病院で寝ている実結の心が、まるっきりの赤子に戻ってしまいそうな気がする。それではおぬしも後が大変であろう。まあ、ここで実結の息が戻るのを待ち、捜索隊に救われるのを見届けてから、おぬしと病院に戻る――それだけでいいのかも知れぬ。慎一、おぬしはどう思う」
 慎一は、管生の問いに答えず、
「ここは、確かに夢幻(ゆめまぼろし)のようでも、あくまで実結の記憶の中の世界だ」
「それがどうした?」
「だったら、おかしいと思わないか、管生」
「あん?」
「生まれて間もなく死んだ自分の遺体の姿を、実結が記憶していることになる」
「いや、それは……」
 管生は少々うろたえ、
「しかし世の中には、自分の通夜を見てから三途の川の手前まで行って、また戻ってきて、棺の中で息を吹き返す奴もおると聞くぞ。自分が生まれたときの部屋の様子をちゃんと覚えている、そんな奴の話も聞いた。まして実結は『つてこはずれ』、並の赤子ではない。それくらいのことは覚えていても……」
「なら、死んでから生き返るまでの実結は、記憶のどこにいるんだろう」
「…………」
「屋敷の門で、車の後ろに陰火が見えたとき、俺は確かに実結の声が聞こえたような気がした。でも、こちらに降りてからは、何も聞こえない」
「それは俺も同じぞ。声までは聞こえなかったが、あれは確かに実結の陰火であった」
 管生は、自問するように、
「そうすると……もし、あのトランクの中で、実結が逝ったとしたら……実は、ずっといっしょにいたのではないか? 今もこのあたりにおるのではないか? 実結の、つまりこの赤子の実結の、その、いわゆる死霊とか、生き霊という奴が……」
 慎一が、ふと背筋を強張らせた。
 管生の言に怯えたわけではない。
 慎一は何かを探すように、あたりを見回している。
 管生が、おずおずと訊ねた。
「……実結の声か?」
「いや……でも、気配というか……」
 そのとき実結の御初着が、ふわりと動いた。
「息が戻った!」
 管生は御初着に駆け上がったが、
「これは……」
 御初着は、小さな管生のわずかな重みで、ぱさりと窪むように膨らみを失った。
「実結が消えたぞ!」
 管生が叫んで慎一を見ると、
「…………」
 慎一は、管生の頭上に手を差し伸べ、掌で何かを持ち支えていた。
 掌で受け止めた何かを、食い入るように見つめているらしい。
 管生も横に身を移し、その何かを見定めた。
「……桃の実?」
 慎一が、先ほど実結に供えた桃花の枝に、ひとつの瑞々しい実が生っていたのである。
「実結……」
 慎一がつぶやいた直後――。
 ずん、と足元の大地が消えた。
「わ!」
 わけがわからず宙に浮く慎一と管生を、次の瞬間、同じ大地が下から突き上げた。
「おう!?」
 直下型地震の縦揺れに似た激震が、慎一と管生を、鞠のように土の上で弄ぶ。
 慎一は桃の実を胸にかばって、揺られるままに転がるしかなかった。
 管生は小ささが幸いし、実をもがれた桃花の枝に縋って、さほど転がらずに済んだ。
 気が遠くなるほど長い揺れの後――実際は数分、あるいは数十秒だったのかもしれないが――微かな震動を残して、大地の揺れは治まった。
 管生は枝から体を離し、あたりを見渡した。
 周囲の景色は、揺れる前と何ひとつ変わっていない。番小屋の廃墟も、朽ちかけたなりにそのままの姿で残っている。その向こうには、相変わらず長閑な桃林が広がっている。花弁さえ散っていない。
「……俺を馬鹿にしているのか?」
 誰にともなくつぶやく管生に、慎一の声がかかった。
「こっちだ、管生」
 見れば慎一は、両手で桃の実を胸に守りながら、廃墟とは逆方向、あの涸れ井戸のあたりに半身を起こしていた。
「ほう、井戸が崩れたか」
 管生は、石組みの井筒が見えないのに気づき、ちょろちょろと慎一に近づいた。
「あれだけ揺れて、それだけのことかよ。あほらし――」
 言いかけて、管生は絶句した。
 先の大地が、地の底に引きこまれている。
 果てが見えないほどの、巨大な漏斗状の窪み――管生はそう見たが、慎一は、いつかテレビの海外ドキュメンタリーで見た、アリゾナのバリンジャー・クレーターを連想していた。しかし、その底はクレーターより何倍も深く、斜面に岩肌は露出していない。直径何キロもあろう漏斗の内側は、すべて桃林である。
 そして、今、慎一と管生が呆然と佇んでいる場所の直前から――あの涸れ井戸があったあたりから、ひと筋の坂道が、遙か眼下の地の底まで一直線に続いている。
「……行こう、管生」
 慎一は言った。
「この道の先に、きっと生き返るまでの――死んでいる間の、実結の記憶がある」

     ◎

 その窪みは、底に近づくにつれて傾斜が緩くなり、中央部でまた急激に地中に落ちこんでいるようだ。
 上から覗くかぎりは、そう見える。
 縁から数メートルは、傾斜がきつすぎて足掛かりになりそうな桃の木も根付いておらず、小さいままの管生(くだしょう)はともかく、慎一は、そのままではずり落ちるしかない。
 慎一は桃の実を御初着(おくるみ)に包み、番小屋の廃墟から持ち出した縄を工夫して背負えるようにした。あの状況で現れたからには、実結(みゆい)と無縁の物とは思えない。実結を見つけるまで、持っていたかった。
 残った縄の一端を穴の縁に近い桃の幹に結び、それを頼りに、直下の急斜面を下り始める。ほんの数メートルのこと、観光登山路の鎖場を思えば大したことはない。
「慎一、おぬしもずいぶん肝が太くなったなあ」
 慎一の頭で管生が言った。
「俺は正直、先を続けるのが恐い。この穴は、どうも厭な胸騒ぎがする」
「また伸びて、先の様子でも確かめたらどうだ?」
「やめておこう。地獄の閻魔が待ちかまえていたら困る」
「すぐに縮んで、こっちに戻ればいい」
「おぬしは伸びたことがないから気楽に言うが、もし閻魔に首をつかまれたらどうする。そのとき俺の後足は、何里も離れたこっちにあるのだぞ。戻るに戻れず、閻魔方向に縮むしかなくなるではないか」
「……なるほど」
「泣き虫小僧にしがみついているほうがまだましだ」
 怖がっているのか軽口を言っているのか判然としない管生の口調に、慎一は苦笑した。
「帰るときには伸びてもらうぞ」
「おうよ。逆方向ならいくらでも」
 管生は請け合った。
「しかし、御初着を藁縄でおんぶして崖を下る公民館職員は、おぬしが世界で初めてであろうな。千年生きた俺も、初めて見る雄姿ぞ」
 慎一は、また苦笑した。

 やがて、緩くなった斜面に足を下ろす。
 その先の坂は、当分、緩くなる一方のはずである。ただし長い。
 無限とも思える桃林の坂を、慎一は黙々と下った。
 歩いても歩いても先の底は見えない。暗い細道が、一直線に続くばかりである。もし実際に漏斗状の構造だとしたら、文字どおり底がないのかもしれない。
 しかし、見上げれば春の朧月夜、息を吸えば桃花の香り――。
 慎一にとっては、曲がりくねっていないだけで、むしろ懐かしい風情の道筋だった。
 幼い実結を、斎女(ときめ)といっしょに手を繋いで家まで送った、夕暮れの坂道を思い出す。
 なにがなし、慎一は肩の管生に訊ねた。
「……管生、お前も夢を見ることがあるか?」
「それはあるさ」
 管生は、道中の四方山話くらいの調子で、
「腹を空かしたまま寝ると、田村麻呂の軍勢を片端から貪り食った昔の夢など、よく見るぞ」
「夢の中で夢を見ることは?」
「……言われてみれば、あるな」
「じゃあ、起きている間に、昔のことを思い出した自分を、また後で思い出す――そんなことは?」
「それは……ないかと思ったら、やっぱりあるな」
 管生は、何か思い当たったように、
「思えば記憶とは不思議なものぞ。眠って見る夢とて、起きて思い出せばそれも記憶。起きているうちに見た現世(うつしよ)の記憶も、夢で見直せばただの夢――ならば世界の真実やら、(まこと)の自分とやらも、しょせん己の心ひとつなのであろうよ」
 慎一は、背中の御初着に包んだ白桃を思いながら、
「――先月、俺と実結が新婚旅行に行ったのは知ってるな」
「おう。沖縄であろう。土産のちんすこう(ヽヽヽヽヽ)は美味かったぞ」
「夜、ホテルのダブルベッドで、実結といっしょに寝た。結婚前も色々あったけど、俺は実家にいたし、実結は施設の寮にいたし、朝まで同じ蒲団の中にいたことは一度もなかったんだ」
「ほう……続けろ」
「明け方、ちょっと目を覚ましたら、隣の枕に、実結の顔じゃなくて桃の実があった」
「……おぬしに艶話(つやばなし)を期待した俺が馬鹿だった。まあいい。続けろ」
「不思議に思って見ていたら、いつのまにか実結の顔に戻って、ああ、これは夢だ、そう思ってまた寝たんだけど、その後、何度あの朝のことを思い出しても、あれは夢じゃなくて現実だったとしか思えない」
「まあ、おぬしの嫁は、名前からして実を結んでおるからなあ」
 そんな、微妙に噛み合わない会話を続けるうち、
「おい、慎一」
 管生が、慎一の耳を引いた。
「ああ」
 慎一も真顔になった。
 いつの間にか坂道ではなく、ほぼ平坦な道を歩いている。
 行く手に目を凝らすと、桃林の彼方に、ゆらゆらと揺れる炎が見えた。
 陰火ではない。荒々しい猛火でもない。
「焚き火?」
 懐かしい暖色の炎である。
 慎一は、子供の頃、あちこちの道端で見かけた冬の風物詩を思い出した。
 しかし管生は、
「いや――あれは篝火ぞ」
 そう言って身構えた。
 鉄製の籠を細い三本の脚で支え、その籠で薪を焚く、中世以来の夜間照明である。
 進むにつれて、その篝火は点々と増えていった。
 管生の記憶だと、(いにしえ)の戦場の陣中で焚かれていた篝火、あるいは薪能の篝火――いずれにせよ、そこには常ならぬ気配の人々が集っている。

     ◎

「……胸騒ぎが当たった」
 桃林の末から垣間見る異様な宴に、管生(くだしょう)は全身の毛を逆立てた。
 初めは、桃林の中に開けた草叢の遠近で、中世、あるいはそれ以前の貴族女性たちが、朧月夜の花見を楽しんでいるように見えた。
 しかし、数人ごとに緋毛氈を広げ、合わせれば幾十人いるのか定かではない女性のいでたちが、なにかおかしい。
 その多くは、昔、慎一が博物館で見た古墳時代の女性の衣裳のようでもあり、同時に中世以降の白い十二単のようでもある。つまり似ているようでいて、どこの時代の装束とも違う。ただ色は例外なく純白で、いずれも袖や裳裾が凝った襞で装飾され、中国大陸や朝鮮半島にそんな古代文化があったと言われればうなずけそうでもあるし、いっそシルクロードに近い西域の衣裳、そんなふうにも見える。
 ただ、大まかに見ればそうした一定の傾向が感じられるだけで、中には、装束のすべてが襤褸のように裂けている者もある。しかしその裂け方は古びや無頓着によるものではなく、むしろ前衛演劇の衣裳のような、明らかに崩した装い(ヽヽヽヽヽ)のための意匠と思えた。
 そして――。
 見れば女性たちの顔は、ことごとく黒ずみ、じくじくと爛れている。
 すでに目鼻立ちが溶けている者もある。
 目鼻立ちは残っているものの、その下が崩れ、白い歯並びや顎の骨が覗いている者もある。
 しかし皆がそんな顔でありながら、誰ひとり互いの醜怪さや無惨さを気にするふうでもなく、遠近に揺れる篝火の明かりのもとで、品を失わぬほどに軽やかに笑いさざめきながら、夜宴の酒肴を楽しんでいるのだった。
 管生は、慎一の首の後ろに隠れるようにして言った。
「……すまぬ、慎一。俺は、あの方々とは、まともに顔を合わせられぬ」
 逆立った管生の毛が、ざわざわと慎一の襟首をくすぐる。
「お前にも恐い物があるんだな。俺には閻魔様より優しそうに見えるけど」
「恐いというより、格が違いすぎるのだよ。きっとあれらは、噂に聞く黄泉醜女(よもつしこめ)の方々ぞ。うっかり御機嫌を損ねたら、俺のような小者など、酒の肴にされてしまう」
「なるほど……じゃあ、おまえはそこに隠れていろ」
 慎一は、宴の中を指さして、
「俺は実結(みゆい)をもらいに行く」
 管生は、慎一の頭の後ろから顔だけ覗かせて、慎一の指の先に目を凝らした。
 草叢の中ほどに、四隅に篝火を設えた、格別に明るい緋毛氈があった。
 その毛氈に、ひときわ華やかな――装束は他の黄泉醜女と同じ白だが、絹のように艶のある高貴な白装束姿の女性がひとり、左右に侍女らしい黄泉醜女を侍らせ、花と夜空を眺めながら、片手で盃を傾けている。もう片方の腕に抱いているのは、白布(しろぎぬ)に包まれた赤子である。
「と、いうことは……」
 管生は目を見張り、
「おぬしは実結を『つてこ』から『はずす』ために、ここまで呼ばれて来たのかよ」
「呼ばれたのか、勝手に追いかけてきたのか、よくわからないけどな」
「しかし、あの実結を抱いておられるお方は……もしや……」
 管生は、畏れ多くて、その名を口にできなかった。
 慎一は、畏れよりも、底知れぬ民族的記憶の源流に自分が立ってしまったことを実感できず、やはりその名を口にしなかった。
「誰であれ、俺は実結を返してもらう」
 慎一は、草叢に歩を進めた。
 間近な毛氈にいた黄泉醜女が、ふと仲間内との談笑を止め、不審げに言った。
「――生きた人の匂いがせぬか?」
 他の黄泉醜女たちは、
「やめてたも、気色が悪い」
「生きたまま坂を下ってくるのは男神(おとこがみ)くらいのものぞ」
「人ならば弓削是雄(ゆげのこれお)殿、それとも安倍晴明(あべのせいめい)殿――しかしお両名(ふたかた)とも、とうに黄泉(よみ)の官吏に就いておられる」
「いや、でも確かに、この生焼けの豚のような匂いは……」
 慎一の首の後ろで、管生がぼそぼそとつぶやいた。
「生焼けの豚は恐れ入ったな、慎一。失礼ながらこちらの皆様こそ、滋賀の鮒寿司か新島のくさや(ヽヽヽ)ほど芳しく香っていらっしゃる」
 まあ味は良さそうなのだがな、と付け加えるところが、萎縮していても管生は管生である。
 実は慎一も同感だった。
 黄泉醜女たちの顔貌や、装束から覗く手先を見る限り、壮絶な腐臭が漂っていてもおかしくない。しかし、息苦しいほどの臭いはするが、耐えられる臭いでもある。つまり腐臭ではなく発酵臭――たとえば西欧では、ある種のブルーチーズの匂いを『神の足の匂い』と形容するが、それに似た感覚である。
 黄泉の国の人々にとっては、生きた生きた人の匂いこそ、よほど悪臭かもしれない――。
 慎一は、最初に自分の匂いに気づいた黄泉醜女に、深々と頭を下げた。
「失礼いたします」
 こちらを振り返り、ぎょっと強張る相手に、
「お楽しみのところを不快な匂いでお邪魔してしまい、申し訳ありません」
 自分の言葉遣いが彼女らにとって正しいかどうか――それは大した問題ではない。慎一も文科出の地方公務員として、地元言葉のみならず、全国からの観光客の言葉に接している。片言の英語で外国人を道案内することもある。肝要なのは文法や単語の意味以前に、わかり合いたいという意図を伝えることだ。
(ゆえ)あって、このような不躾(ぶしつけ)な姿で横を通らせていただきますが、どうか御容赦を」
 相手の黄泉醜女は、強張ったまま、
「……そなたは、やはり陰陽寮のお方か?」
 警戒心の表れか、崩れた皮膚の間に、明滅する青い陰火が見えた。
「いえ、少しは陰陽を学んでおりますが、ただの小者です」
「小者に下れる比良坂(ひらさか)ではないはず……よほどの術者に相違ない」
 その毛氈を始まりに、黄泉醜女たちの不穏なざわめきが、波紋のように草叢に広がってゆく。
 人だとよ――
 生きた人ぞ――
 なんと珍奇な――
 等々、不穏なささやきと警戒の陰火が、あちこちで揺れる。
 慎一は再び頭を下げ、
「――なにとぞ、お気になさらず。ただ静かに通らせていただきます。どうかごゆるりと、宴の続きを」
 それから草叢の中央に向かって、ゆっくりと足を運んだ。
 近い毛氈の黄泉醜女たちから、興味津々の視線とともに、若い女性らしい言葉も漏れ聞こえる。
 いい男ではないか――
 是雄(これお)殿ほど厳つくはなし――
 晴明殿ほど痩せてもおらぬ――
 きっと近頃売り出しの術者ぞ――
 管生が、慎一の首の後ろから耳打ちした。
「慎一、おぬし、もてておるではないか」
「物珍しいだけだろう」
「いや、古い育ちの方々には、おぬしの末生(うらな)り瓢箪のような古い顔が、ありがたいのかもしれぬぞ」
 やがて、四隅に篝火を設えた、あの緋毛氈に近づく。
 慎一は、不躾ではない程度に離れて立ち止まり、丁重に会釈した。平伏するべきなのかもしれないが、いきなりの土下座は、えてして心が伝わらないように思える。
 赤子の実結を抱いている女性が、余裕の頬笑みで会釈を返した。
 顔貌はやはり爛れているが、豊かな黒髪は艶やかに梳かれ、白装束には少しの染みも乱れもない。
 我が身がどう腐ろうと、あくまで正しい居住まいを保とうとする貴人――そう慎一には見えた。
 やはり黄泉に下った女神(おんながみ)――伊邪那美命(いざなみのみこと)
「ほんに今宵は、面白いことばかり起こる夜よの」
 伊邪那美(いざなみ)は艶めかしい声で言った。
「比良坂の桃の木が、不思議なほど広く花を咲かせたと聞いて、いそいそと花見に出てみれば、かわいい赤子が坂下に寝ておる。それを拾って愛でていたら、こんどはそなたのような、生きた男が坂を下ってくる。なにか中津国(うえ)大事(だいじ)でもあったかの?」
 伊邪那美の抱く白布から、実結の顔が覗いている。
 安らかな寝息に、慎一は安堵した。
「こちらに下るべきではない子が、間違いで下ってしまいました」
 慎一は、努めて平生の声を保って言った。
「その子を中津国(なかつくに)に連れ戻したく存じます」
「ほう、そなたの(えにし)の子であったか?」
「はい。――二十歳の春に、わたくしの妻となる子です」
「……そなたの妻に?」
「はい」
 伊邪那美は、抱いた赤子をしげしげと眺め、それから、やや曇った顔で、
「――すまぬな。返したくとも、もう返せぬ。この子を初めて抱いたとき、昔、流してしまった(われ)初子(ういご)と同じ匂いがしたものだから、つい、黄泉の飴菓子を与えてしまったよ」
 伊邪那美の言を補うように、侍女らしい黄泉醜女のひとりが、木地の器を慎一に見せた。その器の中、そして侍女が持つ箸先には、なにか地虫の飴煮のような、得体の知れない食物があった。
 管生が慎一の襟首でつぶやいた。
「なんと……黄泉戸喫(よもつへぐい)を済ませてしまったか」
 慎一も愕然としていた。
 黄泉戸喫――黄泉で煮炊きした食物を一度でも口にしてしまった者は、二度と黄泉から戻れない。言い換えれば、黄泉醜女あるいは現在の伊邪那美のように、肉体の変貌を止められない。
 伊邪那美命の兄にして夫である男神・伊邪那岐命(いざなぎのみこと)が、妹にして妻である女神・伊邪那美の死を惜しみ、地上に連れ戻そうと黄泉に下ったときも、腐乱した妻の姿に恐怖し、結局はひとり逃げ帰った。ちなみに、先ほど伊邪那美が言った『吾の初子』とは、兄妹神の交合によって誕生した第一子、奇形神の水蛭子(ひるこ)である。長じて福をもたらす恵比須(えびす)に育ったとされるが、いったんは不吉な子として海に流されている。
 原始的であるがゆえに現代の倫理に縛られなかった、太古の大らかな神々――しかし大らかであるがゆえの直截さは、しばしば陰惨さを併せ持っている。
 しかし――それもまた神が神であることの証し、そして神が産んだ人が、人であることの証しではないのか――そう慎一は思った。それによって生まれながらの悲惨を身に負ってしまった実結も、人の世に戻ってさえくれれば、今後の禍福には幾許なりとも自分が関われる。
 慎一は伊邪那美に言った。
「……それでも、返していただきたいのです」
 伊邪那美は、じっと慎一を見つめた後、
「……これでもかえ?」
 抱いた赤子をくるんでいる白布の胸元を、そっと下げて見せた。
 一見、健やかに眠る実結の首筋は、すでに顎の下まで爛れていた。蛆が皮膚を食い破り、その不規則な食い跡からは、先ほどの黄泉醜女のような青い陰火の光が漏れている。
「……それでもどうか、お返し下さい」
 慎一は真摯に言った。
 伊邪那美は、慎一の顔を、内心を計るようにしばらく見つめていたが、やがて片手の甲を口元にあて、のけぞるように笑い始めた。
 ほほほほほほほほほほほほほほほほ―――
 それまでの声よりも、なお艶を増した笑いだった。
 左右の侍女が、声を重ねるように笑う。
 ほほほほほほほほほほほほ――
 ほほほほほほほほほほほほ――
 草叢中の黄泉醜女たちも一斉に笑う。
 ほほほほほほ――
 ほほほほほほほほ――
 ほほほほほほほほほほほ――
 ほほほほほほほほほほほほほほほほ―――
 やがて伊邪那美は笑いを納め、
「……伊邪那岐(あやつ)も、そなたのように腐り物さえありがたがる、底の抜けた男であればよかった。ならば、この吾をも見捨てまいに……のう?」
 慎一には答えられない。わかるのは自分の心だけだ。
「まあよい。わざわざ中津国(うえ)から背負ってきた赤子の夜着を、空で帰すのも気の毒であるしの」
「感謝いたします」
 慎一が御初着(おくるみ)を背中から下ろす拍子に、管生が、うっかり草叢に落ちた。
 黄泉醜女たちが嬌声を上げた。
「おお、オコジョじゃ」
「これは愛らしい」
「なんと美味そうな」
 管生は辺りを見渡して毛を逆立てていたが、
「……あとは任せた」
 そう言って慎一の頭に駆け上がり、髪の奥に潜りこんでしまった。
 それきり、どこからも顔を出さない。
 黄泉醜女たちは、けらけらと笑いながら、
「おや、オコジョではなく管狐(くだぎつね)であったか」
「術者殿の式神であろうよ」
「ずいぶん臆病な式神じゃの」
「そこがまた可愛い」
「ますます美味そうじゃ」
 笑いさざめく黄泉醜女たちに、伊邪那美は、なにかしら悪戯な微笑を向け、
「そなたらは、そんなに安穏としておると痛い目を見るぞ。この術者殿は、もっととてつもない物を、背中に負うてきておられる」
 慎一は、これのことか、と思いながら、伊邪那美の目配せに従い、桃の実を手にして周囲の皆に見せた。
「なんと!」
 黄泉醜女たちは顔色を変え、飛び上がって叫んだ。
「おお!」
「恐や!」
 叫びながら、文字どおり宙に飛び上がる。
「桃ぞ!」
「桃の実ぞ!」
「よくもそんな汚い物を!」
「恐ろしや恐ろしや」
 てんでに白装束の裾を翻して数十の弧を描き、草叢のただ一点に向かって、吸いこまれるように逃れ去ってゆく。彼女らが桃の実を忌み嫌うことを、伝説として知っていた慎一も、呆気にとられるほどの逃げ足だった。
 見れば、伊邪那美たちの緋毛氈からさほど遠くない草叢に、差し渡し数メートルほどの、黒々とした穴が開いている。
 慎一の頭の中で、管生が呆然とつぶやいた。
「あれが真の黄泉に続く道かよ……」
 同じく呆然としている慎一に、伊邪那美が訊ねた。
「なにゆえあれらが桃の実を嫌うか、そなたにわかるか?」
「……いえ、お嫌いなのは伺っておりましたが、その理由までは」
「桃の実は『(こん)』と同じ味がするからよ。『(こん)』など黄泉では汚くてかなわぬからの」
「『(こん)』……」
 慎一は、自問するように言った。
「人の『(たま)』は『(こん)』と『(はく)』から成り、人が死ねば『(こん)』は天に上り『(はく)』は地の底に沈む――中津国(うえ)では、そう言われておりますが」
「少し違うな。『(こん)』は、黄泉にはないが、天にも地にも元からある陽の気ぞ。そもそも人の命は『(こん)』だけで始まる。しかし母親の腹から外に出たとたん、外の世の(けが)れに(さら)される。そこで陰の気である『(はく)』が生じる。外で生きる内に、その『(はく)』が(こご)って『(こん)』を蝕む。『(はく)』が『(こん)』を凌げば、人の命は終わる。負けた『(こん)』は他の新しい命を探してそちらに移り、勝った『(はく)』だけが黄泉に沈む」
 伊邪那美は、残っていた侍女のひとりに、あの木地の器を手振りで所望した。
 得体の知れない虫のような飴菓子を指でつまみ、
「そしてこれも『(はく)』――命を蝕む陰の気の凝りぞ。それを黄泉の竈で、じっくり煮こんでおる。だからとても(けが)れが濃い。しかし現世(うつしよ)(けが)れが濃いほど、黄泉では清くて尊い。黄泉で長く暮らすのに、何よりの滋養となる。ここの者たちが、黄泉戸喫から抜けられぬ由縁もそれよ」
 伊邪那美は、その虫をぺろりと呑んだ。
「すると、その子は……」
 困惑している慎一に、伊邪那美は軽く笑って、
「情けない顔をするでない。ほんにそなたは術者のくせに、泣き虫の(わらべ)のような顔をする」
 からかうように言いながら、慎一が手にしている桃の実を、こちらに、と手振りで促す。
 少し迷いながら慎一が手渡すと、伊邪那美は、桃の実に鼻を寄せ、
「これは、桃の実に見えて、やはり桃の実ではないな」
「桃の実では……ない?」
「この子と同じ匂いがする。これは、この子の『(こん)』ぞ」
「ならば……」
「知れたこと。この子の内に戻せばいいだけの話」
 伊邪那美は桃の実を慎一に返し、
「そなたから食べさせてやるがよかろう。吾らでは、崩れた指の『(はく)』が混じりかねぬ」
 慎一は、まだ使われていない木地の器を受け皿に、桃の実の皮を指で剥きはじめた。
 瑞々しい果肉が顕れ、いくつかの雫が器にしたたる。
「その汁を、おすそ分けにあずかってもよいか?」
 伊邪那美が意外なことを口にするので、慎一は面くらいながらも、どうぞ、とうなずいた。
 伊邪那美は、その果汁を指先で舌に運び、
「……なんと懐かしき味であることよ」
 恍惚とつぶやき、それから、見守っているふたりの侍女に、
「その(ほう)らも、相伴にあずかるがよい。『(こん)』の味など何百年ぶりであろう」
 侍女たちは黒い顔を輝かせ、器の雫に指を伸ばした。
「失礼ながら……」
 慎一は、伊邪那美に訊ねた。
「あなたは『(こん)』が厭わしくないのですか?」
「黄泉に下っても吾は神ぞ。人とは違う」
「それでは、そちらのお付きの方々も、神……」
「神ではないが、黄泉醜女でもない。そなたが使う(くだ)の者ほど劫を経ていないが、そのぶん素直な、化生(けしょう)の者どもよ」
 言われて見れば、確かに面立ちが人とは違っているような気がする。
 慎一の髪から、いきなり管生が白い顔を出した。
「なんと、お仲間であったか。これは無礼をいたした。それでは改めて――お美しいお嬢様方、今後とも、なにとぞよしなにお願い申す」
 侍女たちは、崩れた顔で楽しそうにけらけらと笑った。鼬とも狐ともつかぬ声だった。
 慎一も苦笑しながら、桃の皮を剥き終える。
 伊邪那美は、実結をあやすように揺すり、
「ほらほら、家から迎えが来たぞ」
 目を覚ました赤子の実結は、少しむずかるようにしていたが、慎一が桃の果肉を箸先につまんで口元に運ぶと、ふと真顔になって、そのとろりとした果肉を小鳥のようについばみはじめた。

 種と皮を残して実を食べ終えると、赤子の実結は、また寝に就いた。
 体の爛れはほとんど消え、桃色の肌に戻ろうとしている。
 伊邪那美は名残惜しそうに、実結を白布から、慎一の御初着に移した。
「しっかり負ぶってゆけよ」
「はい」
「坂の途中まで送ってゆこう」
「いえ、そんなご足労は」
「なあに、ほんの酔い覚ましの逍遙であるよ」
 伊邪那美の声に、いささかの憂いが宿った。
「いっそ中津国(うえ)まで見送りたい子でも、今となっては吾こそが黄泉神(よもつかみ)、そんな気儘(きまま)は許されぬからの」
 ふたりの侍女も散策を好むらしく、主人より先に立ち上がっていた。

     ◎

 しばらく前には怯えながら下った桃林の坂を、こんどは和やかに登る。
 伊邪那美(いざなみ)と侍女たちは、人ならぬ身の逍遙らしく足を地に着けず、なかば漂うように慎一たちの供をしている。肩の管生(くだしょう)は、ときどき侍女たちに撫でられたり(つつ)かれたり、仲間内の馴れ合いに余念がない。
 伊邪那美が慎一に言った。
「その娘が中津国(なかつくに)で目を覚ましたら、一度、しっかり教えておくがよい。いくら黄泉醜女が恐くとも、桃の花を咲かせただけでは、なんの防ぎにもならぬとな。今度は、しっかり実を結ばせておけ。そうすれば黄泉醜女らには越えられぬ」
「はい。よく言い聞かせておきます」
「そして、そなたも気を抜くではないぞ。ひとたび黄泉(した)に曳かれ、黄泉戸喫(よもつへぐい)をした娘ぞ。中津国(うえ)に連れ帰ったとて、なにかと黄泉(した)に繋がりやすい。それに、もしそなたがその娘を疎んじるようなことがあれば、その子は生きながらに腐るであろうよ」
「……腐る?」
「鬼になるのだよ。吾のように、そして、この者らのように」
「もう鬼にはいたしません。私が一日も気を抜かずに見ております」
 慎一の気負った顔に、伊邪那美はくすくすと笑い、
「昔は吾にも、そんな熱い眼差しをくれる男がおったよ」
 それから伊邪那美は、朧な春宵の天を仰ぎ、
「……伊邪那岐(あやつ)は、今、どこでどうしておるのだろうな。近頃とんと噂を聞かぬ。男のくせに数多(あまた)の子を成しおったと聞くが……おおかた別の女神(おなご)とでも交合(まぐわ)ったのであろう」
「あいにく私は人なので、神々のことは存じ上げません」
 慎一は正直に伝えた。
「でも、あなたを失ったあとは、ずっとお独身(ひとりみ)との噂ですよ」
 少なくとも慎一が読んだ『古事記』において、伊邪那岐命(いざなぎのみこと)は新たな妻を娶っていない。
「……逃げたあとで操をたてられてもつまらぬわ」
 伊邪那美は、すねたような顔で、
「しかし中津国(うえ)の民らも、なかなかにしぶとい。きっと滅ぼしてやると伊邪那岐(あやつ)に誓ったのに、呪っても呪っても足りぬ。ようやく滅ぶと思えば、いつの間にかまた栄える」
「……どうか、お手柔らかに」
「神が神にかけた呪いは、和合なしには(ほど)けぬ。まあ、どのみち今の(はか)では、いつになったら呪いきれるかも知れぬがな」
 慎一は、少し先を流れる伊邪那美の、腐りながらも嫋々と優しげな顔に、ふと、こんな言葉をかけたくなり、そのまま口にした。
「あなたは、もうあの方を許しておられるのではありませんか?」
「許すものかよ。幾千幾万の呪いを重ね、今も黄泉から呪い続けておるというに」
 伊邪那美は、やや気色ばんで、
「……なぜそなたは、そんなことを言う?」
「いえ――そのようにお見受けしたものですから」
 慎一は、そう答えるしかなかった。
「吾は永久(とこしえ)に許さぬ。伊邪那岐(あやつ)中津国(なかつくに)も、永久(とこしえ)に呪い続けようぞ」
「しかし――永久(とこしえ)に呪い続けるということは、永久(とこしえ)に忘れずにいる、ということでも」
 伊邪那美は、呆れ果てたように慎一を見、
「……そなたの脳味噌の中は花畑かよ」
 くつくつと笑いながら、
「まあ、その娘には格好の下僕(しもべ)であろうがな。黄泉に曳かれながら、そなたのような能天気をたぶらかして『(こん)』を運ばせる――末恐ろしい娘ぞ」
「いえ、私が勝手に来たのです。昔から、末長く尻に敷かれたいと望んでおりましたので」
「もうよい。花畑に何を言うても花が咲くだけよ」
 伊邪那美は、なおくつくつと笑いながら、
「まあ、その内、吾もまた伊邪那岐(あやつ)と顔を合わせて、思うさま罵れることもあろうよ」
 それから、すっ、と宙に昇り、桃花香る夜気の中、過ぎた坂と先の坂を見渡し、
「いかなる盛者も必ず滅ぶ。神とて同じこと。いずれ辿るは黄泉路(よみじ)比良坂(ひらさか)ぞ――」
 ふたりの侍女も主人の意を汲んだように、その両側に浮いて控える。
「いつか伊邪那岐(あやつ)が下ってきたら、縛りつけてでも、二度と(のが)さぬ」
「……どうか、お手柔らかに」
「手加減はせぬぞ。縛りつけてでもまた伊邪那岐(あやつ)交合(まぐわ)い、また伊邪那岐(あやつ)の種を(はら)み、また人を、世界(なかつくに)を、この宇宙(うつ)を産みなおすのだよ」
 それならばいくらでも――慎一が恭しく低頭すると、
「そのときのために、これは、そなたら夫婦の土産としてもらっておくぞ」
 伊邪那美は、粒のような一寸に満たぬ何かを、指でつまんで慎一に見せた。
 それは、赤子の実結(みゆい)が噛めずに残した桃の種だった。
 慎一は、微笑してうなずいた。
 伊邪那美は、宙から慎一に先を示し、
「行け。そなたもその子も、百年は黄泉に姿を見せるな」
 ここでお別れなのか――そう慎一が悟った刹那、慎一と管生を包む夜気が、ふっ、と香りを変えた。
「そして百年、その子を鬼にするな――」
 伊邪那美の声が響きを終えたとき、慎一の前には、しだいに嶮しさを増す黄泉比良坂ではなく、子供の頃から見慣れた桃園の坂があった。
 そよ吹く風は、桃花の香りに微かな潮の香を含んだ、懐かしい春の朝の風である。
 先を見上げると、あの洋館の門が、かわたれ刻の白みはじめた空に、深閑と浮かんでいた。

     ◎

「どうなっておる、慎一」
 管生(くだしょう)が慎一の耳を引いた。
「また屋敷ごと呑むか?」
「いや……中を確かめよう」
「そうだな。そもそも、まだ火の気がない」
 門から庭の敷石を辿り、玄関のポーチへ――。
 ここが、何時(いつ)実結(みゆい)の記憶であるかはわからないが、現世よりも速やかに明けてゆく朝の光の中で、今の平坂家の屋敷は、慎一の子供の頃の記憶と何ひとつ違わないように見えた。
 背負っている赤子の実結が身じろぎしたので、慎一が首を曲げて見返ると、管生が先に実結の寝息を探っており、
「安心しろ。健やかに眠っておる」
 慎一たちは、館の中に足を踏み入れた。
 廊下の窓から差し始めた細い光芒の中に、わずかな埃が光って見えるが、あくまで微かな、手入れされた生活の中での埃である。
 やや警戒しながら、あの惨劇の居間を、開いていたドアから覗きこむ。
 中では老夫婦と中年の夫婦が、和やかに紅茶を飲んでいた。実結の祖父と祖母、そして母親と偽りの父親――しかし、そこには互いの微笑が行き交っている。
 管生が言った。
「修羅の家にも、確かに、こんな一刻(ひととき)があったのだろうよ」
 慎一も、それにうなずいた。
 一度は捨てた不倫の孫でも、育てる内に、真の情がわくことはあるだろう。常に夫を裏切りながら、その夫を、けして嘘ではなくねぎらう妻もあるだろう。惨い真実をまだ知らない夫は、もとより愛する家族のために、今朝も笑って仕事に出るのだろう。しかし、できることなら――罪のない娘にだけは、最後まで隠しおおせて欲しかった。
「実結はおらんな。まだ子供部屋で寝ておるのかな」
 管生が言った。
「念のため、そちらも確かめたほうがよかろう」
 慎一にも異議はない。
 あの階段を探し、二階に向かう。
 そして子供部屋の扉の前で、
「お、おい慎一」
 管生が焦った声をあげ、それまで乗っていた慎一の肩から、あわてて頭に逃れた。
「ああ」
 当然、慎一も気づいていた。
 背負っていた赤子の実結が、いつの間にか二十歳(はたち)の実結に変わっている。
 実結は慎一の両肩に両腕をあずけ、薄桃色のパジャマ姿で眠っていた。
「しかし、その夜着は妙ではないか。病院で見たのと違うぞ」
「いや、これでいいんだ」
 笑顔を返す慎一に、
「まあ、おぬしがいいなら、俺もかまわぬが」
 管生は首を傾げながらも納得し、慎一の頭から、ぴょん、とドアノブに飛びついた。
「おぬしの細腕で、うっかり実結を落として腰でも痛めたら大事(おおごと)ぞ」
 小さな体で、器用にノブを回して見せる。
「お入りくだされ、王子様。お姫様抱っこでなくお姫様おんぶなのは、少々不格好な王子様だがな」
 慎一は苦笑しながら、足で扉を押し開いた。
 先に入った管生は、板の間の上で辺りを見回しながら、
「……こういうことかよ」
 扉の奥は、また、あの台所だった。しかし桃の木は生えておらず、安アパートの台所そのものである。
 六畳間に進むと、そこも綺麗に片づいていた。
 明るい朝の光が、誰も座っていない座卓と、その上の灰皿や茶道具を照らしている。窓にカーテンはかかっているが、スーパーの日用品売り場で買った特売品なので、春の陽光を遮りきれない。
 さらに、隣の四畳半の襖を開けると、
「……いよいよ神田川のレコードを流さねばならぬな」
 同じ柄のカーテンを透かした朝の光を浴びて、慎一と実結の夫婦がひとつ蒲団に寄り添い、寝息をたてていた。
 枕元には、小長谷清実(こながやきよみ)氏の詩集『小航海26』と、ショパンの楽譜が置かれている。
「――先に実結が目を覚ます。いつもそうなんだ」
 慎一は頬笑みながら、蒲団の横にひざまずき、背負っていたパジャマ姿の実結を、いったん畳に横たえた。
 それから前に抱き直し、蒲団の実結に、そっと重ねる。
 手元の実結はそのまま蒲団に沈み、蒲団の中の実結と、ひとつに重なっていった。
「――それからお茶を淹れて、俺を起こす。ふたりで朝飯の準備をする。いっしょに洗い物をして、いっしょに家を出る――昨日の朝も、そうだった」
 実結は、まだ眠ったまま、蒲団の中で横に向きなおり、横で眠る慎一の胸に腕を回した。薄桃色のパジャマの肩が、蒲団から覗いて見えた。
 蒲団の慎一は、やはり眠ったまま横を向き、実結の腕を自分の腕に迎えた。薄緑色のパジャマの肩が、蒲団から覗いて見えた。
 管生が、なぜか不愉快そうに言った。
「……おぬし、いつもこんなふうに鼻の下を伸ばして寝ておるのか」
 (はた)で見ている慎一は、ふだんの自分の寝顔など知るはずもない。
「いや、わからない」
「こんな、骨を抜かれて海月(くらげ)になった猿のような寝顔を見ておると、今は無性に腹が立ってならぬ」
「……俺もだ」
「寝ているうちに鼻を囓られたくなかったら、明日までに松坂牛の霜降りを一貫目、俺の社に奉納しろ」
「……ボーナスが出るまで待ってくれ」
「よし、約束ぞ」
 管生は真顔でうなずき、ちょろちょろと慎一の頭に這い上がった。
「仕事は終わり、それでいいな」
「ああ。ここまでで精一杯――いや、今のところ最善だと思う」
「いやはや、きつい仕事であったよ。思えば牛一頭でも足りぬ」
 ぶつぶつ言いながら、管生は慎一の髪の奥に潜りこんだ。

 そして数瞬後――。
 松澤病院のベッドに横たわる実結の横に、慎一は帰還した。
 真っ先に実結の寝顔を確かめ、ほっと安堵する。今し方、朝のアパートの記憶の中にいた実結の顔と、少しも違っていない。
 管生が慎一の頭から顔を出し、
「おや? 妙に部屋が小綺麗になっておるではないか」
 そう言われて、慎一も辺りを見渡す。
 すでに夜の明けた明るい病室は、補修後の壁紙もなく、何より実結の体に、輸液チューブや計器類のコードが繋がっていない。
 ベッドの横では、斎女(ときめ)がパイプ椅子に座ったまま、うたた寝の舟を漕いでいた。
「姉さん……」
 慎一は戸惑いながら床に立ち、斎女の肩を揺すった。
 部屋や実結が、すっきり変わっているのと対照的に、斎女の仕事着は、あちこち煤けて染みだらけである。
「……慎ちゃん?」
 斎女が目を見開き、慎一の実在を確かめるように、両腕をつかんできた。
「よかった! 戻ったんだね!」
「あ……うん」
 我ながら大変な一夜だったとは思うが、あちらで穏やかな朝を迎えてきた慎一には、斎女の変貌と大袈裟な感激ぶりが、ぴんとこない。
「それより実結は……それに、この部屋は?」
 斎女の声を聞きつけたのか、松澤医師が急ぎ足で現れた。
「おう、やっと戻ったか、慎一」
 松澤医師は、白衣だけは清潔だが、そこから覗く袖やズボンの足元には、明らかに煤けが残っていた。
「……はい。でも、実結の具合は」
「大丈夫。もう小一時間前には完全に回復してる。かすり傷以外は健康体だよ」
 慎一は、ようやく心底から安堵できた。肩の管生も、うむ、とうなずいている。
「それより、なかなか戻ってこない君らのほうが、悩みの種でね。(とき)ちゃんも、あちら(ヽヽヽ)で万一のことがあれば、戻ってこれないとか心配してるし」
 松澤医師は、ちょっとこっちへ、と慎一を外の廊下に誘った。
「実結ちゃんの容態が安定したんで、向かいの個室に移ってもらったんだ」
 そう言いながら、その向かいの個室、つまり元の病室の扉を開けてみせる。
 中を覗いて、慎一も管生も絶句した。
 ベッドから計器類から四方の壁まで、まるで火事場の跡のような惨状である。床のあちこちに転がっている多数の消火器は、すべて使用済みらしい。
「いやあ、今度こそ病院ごと丸焼けにして、親父に勘当されるかと思ったよ」
 そう言って、松澤医師は磊落に笑った。

     ◎

 あれからもう何年が過ぎたか――。
 春の午後、妻の実結(みゆい)と並んで丘の上の小公園に立ち、眼下に広がる満開の桃の林、そしてその彼方で町と内海を隔てる白い防潮堤を見渡しながら、慎一は思う。
 その後、斎女(ときめ)と松澤医師の間には一男一女が生まれ、御子神斎女(みこがみときめ)の名跡は、その娘が無事に継いだ。さらにその娘、つまり慎一の姉の孫娘が、現在は管生(くだしょう)の竹筒を管理している。
 慎一は地方公務員を続けながら、その後も三度ほど管生と共に霊道行(たまのみちゆき)をこなしたが、今は同じ資質を持って生まれた最初の男孫に、その道を譲っている。
 そして実結は、あの日から一度も鬼になっていない。
 その後、必要以上に元気な男の子を三人ほど育て、一番忙しい時期に夫の慎一が『ふるさと創生一億円事業』による公民館の多目的ホール化を任されたため、いっとき火を噴きそうになったが、それはあくまで形容としての噴火であって、陰火でも陽火でもなかった。
 昭和から平成、そして令和――。
 令和に生まれた末の孫も、来年は高校に上がる。
 それらの歳月を重ねる内、この国の大地は、幾度もの惨禍を被った。
 都市が灰燼に帰することもあった。
 街々が海に呑まれることもあった。
 全土に疫病が広まることもあった。
 安全と思われていたこの山陰の町までが、数年前には、昂ぶった日本海の大波に洗われた。今、慎一と実結が桃林の彼方に眺めている白い防潮堤は、その後に造られたものである。
 神々の和解は、まだ先のことらしい。
 もう黄泉路(よみじ)も近いと達観している慎一だが、あの遠い記憶をその地中に秘めている小公園で、息子夫婦や孫夫婦、そしてまだ幼い曾孫(ひまご)たちの行楽を見守る実結の皺深い顔を、今でも可憐だと思う。
 美しい、と思うこともある。
 たとえば毎年の春、こうして桃林の町を眺める実結は、喜寿を迎えた今になっても、夏の実りを希う桃の花のように笑っているのだ。
 だから、一日でも長く生きるに越したことはない、とも、慎一は達観している。


                             ◎ 了

桃林羨道

桃林羨道

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  • 青年向け
更新日
登録日
2020-08-08

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