きみのやさしさにおかされてゆく
のあ、が、こわいくらいに、やさしかった日は、のあの、こいびとが、のあにやさしかった日で、こいびとにあたえられた、やさしさを、のあは、ぼくにも、おしつけてくるので、そういうときの、夜は、赤信号の光が、ちょっときもちわるい。
風がつよくて、月がまるくて、最終電車のはしる音がひびいて、のあの、きまぐれにふりかざすやさしさは、どこまでも残酷で。どうか、一夜かぎりのなれあいならば、はじめからふれないでほしい、と思いながら、ぼくのうでを、さこつを、くびを、くちびるを、ほほを、めもとを、ひたいをと、たどってゆく、のあのゆびに、ぼくはひとつとして抵抗できないのだから、矛盾している。
酸素がうすい気がしたとき、ちいさな星の破裂する音は、風船の割れる音とおなじく、かわいていて、かるい感じで、だれもすんでいない星ならば消滅してもかまわない、みたいな世の中の思考が、無意識のうちに、ぼくらをむしばんでいるので、だから、すこしだけ、テレビはにがてだった。ぼくのからだにふれているあいだも、テレビをけさない、のあの、ぼくに対する感情とは、しょせん、その程度なのだと、テレビをみながらでもできる、と言われているような、あの、浮上できない深さまで突き落とされた気分が、なんどもよみがえるのに、のあにふれられたところから、すべてがどうでもよくなってしまう。
(懐柔されている、の、では)
きみのやさしさにおかされてゆく