バレンタイン泥棒(有間ゆり)
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自分で言うのもなんだが、僕は少し、人の良すぎるきらいがある。
いい人、とみんな言ってくれるけれど、最近、いい人であることで何か利益があるだろうか、ということに気が付き始めてしまった。
実際、見てみたまえ、僕。ここは僕しかしない放課後の生徒会室、僕が抱えるのはみんなから引き受けてしまった仕事。
そもそも生徒会委員だって、断れずになったんだし。
そして今日はバレンタイン。僕が獲得したのは料理研究会に入っているらしいクラスメイトの中森くん (男)からのチョコレート一つ。
繰り返す。
いい人であることで何か利益があるだろうか。
他人を助けることに喜びを見いだせる人なら、あるかもしれないけれど、生憎、僕はそういう人種ではない。僕がいい人になってしまうのは、人の頼みを、人の要求を断る勇気すらない弱い人間だからなのだ。
ようやく雑用の山を片付けた僕は、学生鞄を肩に掛け、立ち上がる。戸締りを確認し、電気を消す。
だから決めた。僕はもう、人の為には動くまい。
硬い決意を胸に、生徒会室の重い戸を閉めた。
僕は階段を下る。
建物は静まりかえっていた。それもそのはず、生徒会室のある、この校舎の俗称は「旧校舎」、普通教室や特別教室が入っていないので生徒も教職員もあまり利用しない。この古くてこじんまりした校舎には、生徒会室や保健室があるくらいであとは空き教室しかない。
無音の校舎。身体の芯まで凍るような寒さに身を震わせる。
いや? 無音……ではない。
どうやら、僕の他にもだれか、いるらしい。人の声のような音が聞こえる。僕は少し階段を下りる足を速める。
少し近づいて、それが誰かの鼻歌であると解った。更に近づくと、その声の主の後姿が見えた。
その人は階段をゆっくり降りていて、僕には気が付いていないようだった。腰まで伸びた黒い髪に派手なリボンを付けた女子生徒だった。
向こうはこちらに気が付かず歌を歌っているし、追い越しにくいな、などと考えて速度を落とす。すると、階段の終わり、つまり一階にもう一人、人の姿が見える。
それも女子生徒で、だけれど髪は短かった。
そして、片腕に水のなみなみ入ったバケツを持って、殺気に満ちた表情をしていた。
階段を下りきった髪の長い女子生徒に向かって、バケツ少女が言う。
「あんた、律野規衣よね?」
リボンの女の子は一瞬、驚いたような顔をしたあと、
「ええ、そうだけど」
と肯定する。
「あたしになにか」
と、律野さんは言いかけた。だけど、言い終える前にバケツ少女は、なんと、バケツを律野さんに投げつけた。バケツは律野さんの顔面に命中、彼女は全身に水を浴びる。
「この、泥棒!」
吐き捨てるようにそう叫ぶと、唖然とする律野さんと部外者なのに唖然とする僕を残してバケツ少女は走り去る。
ずぶ濡れになる泥棒。
律野さんがぽつりと呟く。
「泥棒ってどういうことよ」
はっと我に返った僕は、まず真っ先に、彼女と関わらずに帰れますようにと神に願った。
そして、律野さんと目が合った。
神様なんていない。
「なに、キミ、さっきの女の知り合い?」
「全然まったく本当に知らない赤の他人です」
僕は否定した。正面から見た彼女は背が高く、目鼻立ちのはっきりした女子だった。僕の背が低いのと、彼女の背が高いのとで、身長差が十センチくらいはありそうだと思った。
「さっきのどういうこと?」
「さ、さあ」
どうして僕に訊くんですか。
「あたしのこと、泥棒呼ばわりしたわよね」
「は、はあ」
「泥棒ってどういうことよ」
律野さんは、キッと僕のことを睨みつけ、言った。僕は慌てふためいた。慌てふためきとりあえず、
「人のモノを盗む人のことを一般的に泥棒と言いますけど」
と答えた。
「じゃあなによ、あたしがあの女のモノを盗んだとでも言うの」
「そ、それは」
「はあ? 盗んでないわよ!」
律野さんが怒鳴る。僕は委縮する。
「すみません」
「許せないわ」
律野さんは女の去って言った方を睨みながら言う。
なんだかよくわからないけれど、無事では済まなそうなバケツ少女さん、ご愁傷様。
僕は静かに、そして足早に階段を下りた。水の滴る律野さんの隣をそうっと、そうっと、それはそれはそうっと通り抜け、無事帰路に
「なにそうっと帰ろうとしてるのよ」
つけなかった。
「……僕は本当になにも知らないんですよ」
「あたしが水浸しになってるのよ。関係無くてもどうにかしようと思いなさいよ」
確かに、今は2月。真冬。心は痛む。
でも僕は決めたんだ。人に利用される人生は数分前に終わりを告げたんです、律野さん。残念でしたね、律野さん。
律野さんは僕を見据える。
「服くらい、脱いで渡すのが礼儀でしょう」
「そ、それは」
「男なんだから3、4枚脱いだって平気よ」
「4枚も脱いだら裸ですよ!」
「じゃあ、体操服とかは」
「生憎今日は持ってなくて……」
「役に立たないのね」
滅茶苦茶だ。
「ああ、寒いわ」
うう。
「でも、そうよね。あなたは通りがかってしまっただけの少年。何もしてくれないからって恨むことはできないわ」
律野さんは言う。そうですそうです、わかっているじゃないですか。僕は何もしないことに心を痛める。でもしかたない。これが、人の為に動かないっていうことなんだ。
「どうぞ行きなさい。あなたの所為であたしは濡れた制服で下校して、あなたの所為であたしの身体は冷え切って風邪をひき、あなたの所為でそれをこじらせ肺炎になるけれど」
全然、わかってない。
けれど、僕はコートのポケットに手を突っ込んで逃げるように出口へと急いだ。昇降口のある新校舎までは屋外を移動する。校舎を出て見て驚いた。
一面の雪。
うっすらとだけれど雪が積もっている。授業が終わった時には雨だったのに、いつのまにか雪に変わっていたみたいだ。
敷地内は殆どアスファルトで舗装されているけれど、旧校舎から新校舎までの数十メートルは地面が露出している。一歩踏み出すと、ぬるりと上履きが土に食い込む。
そして、とてつもなく寒い。
……。
「すみません、これしかなかったんですけど」
そう言って毛布にもなりそうな大きめのひざ掛けを手に戻ると、制服を脱いでいる律野さんがいた。
「うわ、すみません」
「着替えてるんだから見ないでよ」
「すみません」
僕はひざ掛けを慌てて手渡し、後ろを向く。
律野さんのリボンをほどく音。律野さんのブラウスのボタンが外される。それから、律野さんの短いスカートのチャックが
「おい、変態」
「す、すみません」
音が聞こえるのも僕が悪いんですか。
暫くして、
「いいわよ」
と言われる。おずおずと振り向くと、彼女はひざ掛けにすっぽりくるまりストーブの前で丸まっていた。
「ストーブに近づきすぎです。燃えますよ」
「寒いのよ」
「これも、もしよければ使ってください」
僕は自分のコートとブレザーを脱いで、小さくなっている彼女に掛ける。仏頂面でそれを被った彼女はますますストーブに近づく。こいつ、僕の制服を燃やそうとしてるなあ、などと思いつつ僕は、床に脱ぎ捨てられた、水を吸った制服とタオルを拾いあげる。
雪の降る夕暮れ、外はあまりに寒かった。僕は結局、律野さんを見捨てきれずに、彼女を連れて旧校舎の階段を上がり、生徒会室にやってきたのだった。保健室に行けば着替え等あるのかもしれないが、「いやよ、面倒」と彼女が言うので止めた。
濡れた女子制服をハンガーに掛けながら僕は溜息をつく。結局いつもの通り、人様の為に動いてるじゃないか。苦笑しつつ、自嘲気味に考える。いいさ、これはレアケース、例外だ。人生リセットをちょっとだけ延期すればいい。記念すべき僕を最後に利用した人は律野さんです、おめでとうございます、ってことで。
「鞄も取って、山田くん」
「山田じゃなくって遊木です」
床に投げ出してある律野さんの鞄を彼女のそばまで持っていく。
「遊木くんっていい人ね」
その言葉にまた溜息が漏れる。
そんなことは気にもかけず、律野さんは鞄を開けて何やらポーチを取り出した。鞄の中から教科書の表紙が覗く。二年生か。律野さんのポーチにはたっぷりお菓子が入っている。溢れんばかりのお菓子の中から赤い包みを取り出す。中身はチョコレートらしい。
「やっぱり甘いものは落ち着くわね」
そうですか。
「紅茶はないの?」
あるわけないでしょう。
「まあまあ、遊木くんもそこらへんに座ったらどう? じっくり考えなさいよ」
何が、座ったらどう、ですか。僕はあなたの制服を乾かしてるんですよ。
「考えるって何をです」
「どうしてあたしが泥棒呼ばわりされたか、に決まってるでしょ」
どうして僕が云々、言いたいことは山の如し。だけれど、コートやブレザーは彼女に貸しているし、彼女の制服が渇くまで帰れそうにない。
「あたしはなにも盗んでないわよ。それに、あんな女、知り合いでもないわ」
僕はこの律野さんが如何なる人間か知らないし、出会ってからの態度から判断するにあまりいい人間ではなさそうだけれど、確かに何も盗んでないのだろう。盗んでいたら、バケツ少女は罵倒するだけじゃなく「返せ」と要求すると思う。
じゃあ、人違い? それもなさそうだ。バケツ少女は「律野規衣よね」と確認し、律野さんはそれを肯定していた。
つまり、律野さんは無意識にバケツ少女の何かを盗んだということ、になるのかな。
とすると。
「恋愛関係じゃないですか」
「は?」
僕は彼女が食べ散らかしたお菓子の包装紙を集めながら言う。
「自分の恋人が盗られたってことじゃないですかね。例えば律野さんの彼氏が実はバケツ少女さんと二股をかけていて」
「は、彼氏? そんなものいないわ」
「じゃ、じゃあ、バケツ少女さんの恋人が律野さんに一目惚れしてバケツ少女さんに別れを」
「は、ないわね」
「どうしてです」
「あたしに一目惚れなんかするはずがないからよ」
そう言い捨てる律野さんを僕は見る。見てから、言う。
「……美人だと思いますけど」
「言われなくても知ってるわよ。そういう意味じゃなくって」
僕を横目に睨みながら言う。
「あたし、保健室登校で一回も授業にも学校行事にも参加してないから、滅多に一目見られることがないって意味よ」
「はあ」
僕はもう一度律野さんを見る。そういうことってあるんだろうか。いや、実際、彼女自身がその実例だと言っているのだけれど。
「それって進学とか、大丈夫なんですか」
「大丈夫だから2年生なの」
よほど成績がいいとか、よほどの事情があるとか、なんだろうか。
「あたしは学校には行きたくないけど学歴は欲しいっていう願いをコネっていう魔法の道具でかなえたのよ、遊木くん」
自慢げに言う律野さん。彼女こそ、僕とは正反対で、自己中心体現したような人間だ、と考える。
「まあ、とにかく。じゃあ、恋愛っていう線はないんですね」
「ないわね」
うむ。
「そもそも、バケツの彼女はどうして律野さんのことを知っていたんでしょうか?」
一目惚れすら許さない深窓の御嬢様なのに。
「名前しか知らなかったみたいだけどね」
「名前を知っているとしたらクラスメイトですかね。あ、でも、1年の時のクラスメイトっていう可能性もあるのかな」
この学校では毎年成績に依ってクラス替えがある。
「一年の時とクラスメイトは変わってないわね」
この学校では毎年成績に依ってクラス替えがあるっていうのに?
「私、理数特化クラスに籍は置いているから」
なるほど。この学校で、三十人の理数特化クラスは3年間同じ面子だ。制度上は、成績の凄く悪い理数特化クラス生と成績の凄く良い普通クラス生が発生すれば、前者が普通クラスに降格し後者が理数特化クラスのその空いた席に入ることもできるということになっているようだけれど、そもそも高校入学時の試験の難易度が違う。つまり、入った時点で学力にかなり差がある。それに、基準となる「成績」っていうのが具体的にどの試験を指すのか生徒側に明らかにされてない。そんなわけで、今までそんなことがあった例は本当に稀だと聞く。
「あのバケツ少女さんはクラスメイトなんですか」
「さあ。知らないわ」
全然ヒントにならないじゃないですか。
行き詰った。
行き詰った僕は、律野さんの脇に溜まり始めたお菓子の包装紙を見ながら言う。
「……恋愛じゃないんですかね」
「しつこいわね」
「だって今日ですよ」
「どういう意味よ」
僕は彼女を見る。彼女は僕を見る。本当に、どういう意味よ、と言う顔。
「今日なんの日か知ってます?」
「はあ? ……校内模試の返却日でしょ?」
ロマンが無い。
「バレンタインですよ」
「ああ。……そんな行事もあったわね。あたしには縁のないイベントだわ」
「……僕にもですよ」
「さみしいわね」
「水浸しになってないだけましですけど」
「そういうこと言うからさみしいバレンタインを迎えるのね」
沈黙。
ええと。なんの話をしていたんだっけ。
「そういえば2年生は今日模試が返ってくるんですか」
「そうよ。そんなことでもなければ登校してこないわ」
僕たち、一年の返却日はもう少し後だ。僕は勿論理系特化クラスに上がれる程成績は良くないけれど、そこそこ勉強したんだ、今のクラスに留まれるくらいの成績ではあるはず……。
あれ。
「ってことは来年度のクラスも今日発表されたんですか」
「ええ。来年も今のクラスにいられるらしいって、今日分かったわ」
……なるほど。うーん。もしかしたら。
「なに?」
横目に僕を睨む律野さん相手に不確かな推測を口に出す勇気がない。そろそろ制服も乾くころだろうか。ハンガーにかかった短いスカートを見ながら考える。僕には関係のないこととはいえ、皺にならなければいいけど。
彼女の制服が乾いたら、少し寄り道をして帰ろう。
新校舎、昇降口を出る。
もう雪は止んでいる。あたりは暗い。僕と律野さんは微妙な距離をあけて校門まで歩く。
昇降口に向かう途中、僕と、僕についてきた律野さんが少し遠回りして見たのは、張り出してある2年生の成績上位者表。三十位に律野規衣。律野さんはそれまで自分の順位にはあまり興味がなかったらしく、
「へえ。あたしって三十位だったのね」
と言っていた。
そして三十一位の水澤誠代。おそらく彼女があのバケツ少女だろう。普通クラストップの彼女は理系特化クラスに上がることを希望していた。けれど、今日知らされた結果は惜しくも三十一位。普通ならそれで、悔しがって終わったかもしれない。だが、彼女の上にいたのが律野規衣だとしたら。律野規衣の三十位が本当に試験を受けて三十位だったのか、コネで三十位ということになったのかわからない。登校もせず、自分の欲しい席に座る律野規衣を「泥棒」と呼ぶ気持ちも、わかる。彼女が盗ったのは特化クラスの席だというわけか。
「水澤さんの靴箱を探して見れば、本当にバケツの彼女が水澤さんだったかわかると思いますよ。雪の中旧校舎から昇降口のある新校舎まで移動したなら、上履きが泥だらけになっているはずですから」
「いやよ、面倒。それだけわかれば十分ね」
律野さんはそう言って、とっとと靴を履き替え出て歩いて行ってしまった。
前方を歩く彼女の後姿を見ながら思わず言う。
「制服、皺になってませんかね。今からでも家庭科室に入ってアイロンを」
「なに、アイロンかけてくれるの?」
「いや……かけません。家に帰ったら自分でやってください」
振り返った律野さんがにやにやしながら僕を見る。
「心底いい人よね、キミ」
僕は溜息をつく。そして自分に言い聞かせるように言う。
「もう僕は自分の為以外に動くのは止めにしようと思うんです。つまり、いい人じゃなくなるってことです」
「へえ? さっきまでのは?」
「あれで最後です」
「ほほう」
「だって損ばっかりじゃないですか。いい人であることで何の利益があるっていうんです」
「ないかもね」
「いい人だからってバレンタインに女の子からチョコがもらえるっていうんですか」
「悲しい現実だこと」
「そうです! 悲しいです! だから、今この瞬間から僕は生まれかわったんです!」
「ふうん?」
「次、律野さんが水浸しになっていてもあっさり見捨てて、とっとと帰りますよ、僕は」
僕の決意表明を、律野さんはまるで真剣に聞いていないようだ。人を小馬鹿にしたように笑っている。
「じゃあ、もう遊木くんと関わることもなさそうね」
「その通りです」
校門まで来る。律野さんは手をひらひら数回振って僕とは反対側に帰っていく。数十秒、それを見送って、僕も歩き出す。
それにしたって寒い。手袋を持ってくるんだった。
背を丸め両手をコートのポケットに突っ込む。
ポケットの中で指に触れたものを取り出してみると、それは赤い包装紙に包まれたチョコレートだった。
バレンタイン泥棒(有間ゆり)
夏休みが終わってしまったようです。私も学校には行きたくないけど学歴は欲しいっていう願いをかなえてくれる魔法の道具が欲しい、そんな純粋な思いを込めて書きました。稚拙な文章ですが悲痛な学生の心の叫びが少しでも伝われば幸いです。