準幽閉

準幽閉

 母は常々自らをこう称す。
「私は閉所恐怖症なのよ」
 事実、僕が小学生の時だったか、日帰りで家族そろって足を伸ばした時、
観光名所の鍾乳洞へ足を踏み入れた際にはひどく恐れていた。
「怖い怖い、先さ進まんね!」
 上下左右を天然の壁で囲まれ逃げ場のない空間。
順路が狭くなるたび、悲痛な叫びをあげる母の後ろ姿、今でも忘れられない。
 その背中を僕も恐る恐る、着いていった記憶がある。

 かくいう自分もどちらかといえば母と同じく狭いところが苦手、高い場所は平気な方。
 東京タワーで一番好きなスポットは、強化ガラス越しに階下を覗くことができる地点。
この点、子どもの頃から変わらない。
 専門を学ぶため上京した20代後半、母と妹が僕の様子見がてら東京を訪れた時。
 幼少期以来の東京タワーでも数十年前と変わらず、
人や物がミニチュアのように見える様子にキャッキャはしゃいでいたところ、
「大人がみっともない、早くこっちゃ来い」
 母に叱られ進行を促された。
 余談であるが、僕が強化ガラスを離れて数分後、
昔の自分と同じ年頃の女の子が同じように騒いでいる光景に顔を赤くした思い出がある。

 時は変わって数日前、実家住まいの僕。
 起床直後、強烈な尿意をもよおしトイレに駆け込んだ。
 急ピッチで用を足す、スッキリ爽快感。
 手を洗いトイレを出ようとしたところ、ドアが開かない。
解除しようといくら鍵を回してもドアノブは固いまま。ロックが横にずれない。
 
 両親ともに基本一日中在宅の身であるのだが、
母は午前午後問わず用事で外出している場合が多い。
 父は大抵、母屋の裏に広がる畑で農作業している。
 そのため実質、午前中は広い我が家に自分一人というケースがほとんど。
 そしてタイミング悪く、この日も両親共に不在であった。

 窓は付いている。だが高さがある上いわゆるはめ殺し式のため、完全なる開閉は不可。
ゆえに脱出法はどうにかしてドアをこじ開けることだけ。
 そして僕は、トイレに閉じ込められるケースは今回が初。

 実家は長屋のように縦に細長い敷地。父が耕している畑は母屋から大分離れている。
どんなに大声を上げようとも訴えが届くことはまずあり得ない。
 それでも声を上げる、ドアノブを回しながら精一杯。
「助けて、助けて!ドア開かない、トイレから出らんね。助けて!」
 
 冷静に考えてみればここは実家。待てば必ず両親のどちらかが戻ってくる。
呼吸を整え心を落ち着かせ、静かに時を過ごせたならば玄関ドアが開く音なり、廊下がきしむ足音なり、
聴覚と共に人の気配を察知し、時間はかかれど必ず解放される。

 しかし僕はパニックに陥ってしまった。
ドアは締めても開くもの、その当たり前が覆されてしまった現状、
日常空間が非日常の密室へと化してしまった恐怖感が脳を支配。
 加えて場所が決して清潔とは言えないトイレだったことが、混乱に拍車を掛けた。
 
 息が荒くなり、叫び声は震え始める。
 一生ここから出られないのではないか、そんな妄想が脳裏をよぎる。
今僕を支配するのは絶望感、ただそれのみ。
 大げさに聞こえるだろうが事実そうだった。
と同時に、閉所恐怖症の気がある自覚もパニックに輪をかけて止まらない。

 幽閉状態から何分経っただろうか。
 偶然にも、奇跡的に父が畑から戻ってきた。
 僕のあまりの混乱っぷりに父まで焦ってしまい、会話が荒くなる。
 しばらくすると扉が外側に開き、目の前に父の姿が現れ、僕は密室から解放された。

 コロナ禍の外出自粛、その最中に起きた密室事変。思わぬ形での二重の閉所。
 思い返し、ため息が口をつく。
 解放感がどれだけ貴重でありがたいものなのか。身をもって体験したのであった。

準幽閉

準幽閉

  • 小説
  • 掌編
  • 青春
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-07-13

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