忘却のあいだと幸福のありか

朝妻 空

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連日、東京では熱帯夜が続いていた。
日中は体感温度が四十度を超え、記録的な猛暑が続いているとニュースキャスターが平坦な声で告げていた。
東京の外気は、誰かと熱を分け合うには熱すぎる。人の体温よりも高い温度で、夜でも冷房もつけずには寝られはしない。そのまま寝ようものなら、息苦しくなるような寝つきの悪さを味わう羽目になる。
だが、冷房で過ごそうとするには昼に照り付けられた熱が高すぎた。取り込んだ体の中でくすぶってしまうそれは、なかなかに消化しづらい。
はっきり言えば、彼はそんな熱を持て余していた。
吐く息すら熱いような。
そんな焦げそうな衝動は、持て余すには凶暴すぎる。
それを手っ取り早く消化する方法を、彼は知っていた。
他人の体を触って、なでて、なめて、体にこもった熱を発散すればいい。入れたり出したりの性交だけでなく、触れ合うだけのただ慰め合うような熱の発散の仕方でもいいのだ。
ただ、そのやりかたを教えたのは、細い女の手でなく、自分よりも大きな手だったが。
なだれこむようにそれを教えられた。熱いといえば慰めるように触ってくれたし、触り方も教えてもらった。
それまで彼はその手のことは何も知らなかった。だが、ここ最近の実践の数は教え込まれるまでの期間を凌駕しそうな回数だ。
無垢、というのは少し違う。奥手と言われればその通りであるが、彼はあまりその手のことに興味を示せなかった。
今時、といえばそうであるのだろう。どこにでもそういった情報は転がっている時代だし、男である以上そういう話も耳にする。
だというのにこれまで経験がなかったのは、そういう機会に恵まれなかったせいだ。と、言い切るには、小林は自分の顔を眺めて眉根を寄せてしまう羽目になる。
顔立ちは男臭さがないせいか、女性にはどんな年齢層でも受けがよかった。自分に対して好意が向けられて、その思いを口にされたこともある。
だから実体験につながる機会はいつでもあった。
ただ、小林はその好意をそのまま受け取れなかった。誰かの好意を利己的に判断した。そういうふうにしか受け取れなかった。
だから向けられたそれらを、利用しやすいものとして受け取った。
そういう考えをしているほうが楽だったのもある。友人関係だってそつなくこなすにはいろいろと面倒ごとがあるというのに、これが恋などというものに発展したら、と考えれば踏み出す気にもなれない。
適当に話題を合わせていれば、人間関係は何とかなった。だからあまり興味もなかった。
いや、そう断言してしまえば、多少ウソになってしまうのかもしれない。ただ、相手に興味と関心を持った先にあるのであろうそれが、あまり理解の及ぶものでもなかった。
だというのに。
教えられたことはひどく心地が良かった。そのせいか、小林は味を占めてしまった。
本能が求めるような衝動とは違っていた。人間が繁栄するような行為ではない。意味があるのかと問われればひどく答えづらいことだ。
それでも小林が求めたのは、女の柔らかさではなかった。
自分に心地よさを教え込んだ硬い男の体が、たまらなくほしかった。
はじめが硬い男の手に教えられただけにしろ、そこに理由も意味も関係がなかった。
ただ、これがほしい、と。
おもちゃを欲しがる子供のように、彼の心が鳴く。
意味があるとすれば、抱えた思いだけだ。そう思うからという理由は、どうしようもなさを孕んでいたけれど、あらゆる意味と理屈を述べたところで止められはしない。
そういうものなのだと、教えられた。
意味など必要なく。
ただ思うから、欲していいのだと。
どれだけ理屈を並べても、理由を探しても、ただ胸が詰まるだけだ。
今でも時折、理由を探しそうになる。夏の暑さのせいにしても、ただ意味が欲しくなってしまう。
これはそういうものだと受け入れようとするには、小林は理屈狂すぎるのだろう。
だが、そういうものなのだとなだめられてしまえば、彼の探求心も眠りにつく。とはいえ、定期的に繰り返してしまうあたり、探求心を捨てられないのだが。
その体の柔らかさに違いがあれど、他人と触れ合うのは心地が良い。だからというのもあって、相手が拒まないのをいいことに、彼は持て余した情動をぶつけていた。
昨夜も夏の暑さを理由に、くすぶる情動のままに、少々手ひどく扱った。
ひどくした、という自覚があるだけに、小林は相手が朝に起きなくとも何も言わなかった。仕方がないとすらも言わない。むしろ責任の一端は彼にあるだろう。
今日は予定があるとも聞いていないので、ゆっくり休ませてもかまわないだろうと朝食を食べ終える。
食器を水につけると、鞄を持った。そのまま出ようかと玄関に向かいかけたところで、思わず足を止める。
(・・・何も言わないのも)
無言で出ていくのもどうかと思って、とりあえず、今日は学校です、と書置きを残した。それを見るころには何時になるやらと小さく息を吐いて、今度こそ玄関へ向かう。
「いってきます」
帰ってくる言葉はなくとも、そう言って扉を閉じるのが日課になっていた。
同居人もよく、ただいまといってきますを口にする。
外は夏も盛りになったころだ。
世間では家族連れが、いたるところでにぎわいを見せている。
見た目だけなら顔に幼さの残る小林も、その賑わいの一端となっていそうだった。
くりんとした目は、青年と言い切るような大人っぽさを小林から奪っている。長いまつげは頬に影を落とし、彼の女らしさに拍車をかけていた。
その眼は理知的さをたたえた静かな色をしているが、その眼の大人っぽさが逆に情緒未発達の子供のような印象を与える。
顔だけ見れば整った美少女のようだ。だが、しっかりとした肩と腕が、華奢だという印象を与えない。その体と顔のアンバランスさが、彼を逆に幼く見せていた。そのため、中高生にさえ見えてしまいそうだった。
年相応に見えない自分の顔をコンプレックスに思う時間は、とうに過ぎていた。今では他人にいい印象を与えられる自分の顔をただ便利なものと割り切っている。
この顔が、彼から恋だとか浮かれそうなものからの興味を奪ったことを、小林は冷静に受け止めていた。
よくも悪くも目立つ顔は、いろいろな感情を向けられる。好意であれ悪意であれ、多種多様な感情を受け止めて入れば、できるだけ面倒なことは避けて通るようになっていた。
(・・・いいわけか)
苦々しく思いながら、彼はいつも通りに大学へと向かう。
今日は大学の試験の最終日だった。
この試験さえ終われば、あとはレポートの提出のみだ。それもすべて提出し終えているので、今日の試験さえ終えれば、長めの夏休みがやってくる。
『なあ、どっかいきたいとこあるか?』
夏休みというワードに、同居人がそう問いかけてきたことを、小林はぼんやりと思い出す。
同居人の男は楽しげに夏の予定を考えていた。
『夏は星がきれいだから、天体観測でもしに行くか』
海に行こう、山もいい、と楽しそうに予定を考えているのを彼は聞いていた。
『・・・あなたは、忙しいんではないですか』
あまりにも楽しそうにいうものだから、自分の答えはさておき、言い出した本人は予定がつくのかと小林は返した。
『俺の予定はどうにかするさ。お前はどうなんだ?』
そう質問に質問で返され、それに何とも返していない現状を思い出す。
どうしようかとぐるぐる考え込んでいれば、『まあ、考えておいてくれよ』と、粗雑な口調でやわらかく言われた。決して押し切ろうともしないし、押しつけがましくない。その点が、同居人の美点である。
そう言われてしまえば、小林もまさか、夏休みはバイトしかするつもりはない、と言えない。だがそう考えていたので、答えは保留していた。
それを伝えたら、同居人は落ち込みそうだった。
きっと文句も言わないだろうが、あからさまにがっかりとした態度をとることは間違いない。
(今日あたり、そのへんを話そう)
泊まりでなくとも、せめて一日だけ海に行くぐらいは可能だろう。さすがに夏休みに浮かれる男の予定をすべて拒絶するのも気が引ける。
相手が押し付けてこないのなら、自分もどこかで譲歩するべきだ。連日無茶もさせているわけだし、と考えながらマンションのエントランスを出た。
朝の早い時間だというのに、すでに日差しが強い。
青い晴れた空を見上げた。
天気予報を見忘れたと、そんなことを思いながら、夏になるたび、幾度も思い出す。
夏になるたびに思い出しているというのに。
瞼の裏に焼き付いていたはずの面影は、遠くなるばかりだ。
(野呂が、)
名前だけはずっとずっと、きちんと憶えているというのに。
(消えた日みたいだ)
記憶は、いつもとても脆い。
蝉すら鳴かない静寂に満ちた朝。
そうして小林は大学に向かった。
最寄りの駅の改札を定期で通り、ホームへと向かう。
彼には友人がいた。
人柄的にはおおよそ善良といえるような、おおらかな男だった。
だからその友人がいなくなってしまったとき、彼は調べざるを得なかった。
死んだという意味の亡くなったではない。
行方不明としてのいなくなった。
ただそれだけなのだと、小林は思った。
だから白か黒か、果たしていなくなったというのはどういう意味なのか、きちんとすべきだと思った。
彼のバイト先がバイト先なだけに、小林は行方不明者を探すことに長けていた。
小林は、箱崎探偵事務所、という探偵事務所にバイトとして働いている。
あくまでバイトの身分であり、本業は学生だ。だから本来であれば、バイトという身分の彼が行方不明者を探すことに長けるはずがない。
ただ少し。
何かが間違ってしまった。
そんなものだった。
もし間違いなんてものがあるとしたら。
きっとそこからだった。
間違いに起因しているのは、小林自身だった。
少し、小林はいろんなことができてしまった。
ただそれだけの話だった。
例えば自分の女顔を使うことにためらいがなかったり、格闘技ができてしまったり。
そんな、探偵業なんて何でも屋のようなところで働くのが向いていたのだ。
小林としては、自分の力を存分に使えることのできるよい職場だった。誰がどういったところで、そこそこ器用にいろんなことのできる彼自身の力は、そこでなければ持て余されていた。少なくとも小林自身はそう思っていた。
だから本当に、よい職場だったのだ。
所長である箱崎のもとで働いているのは楽しかった。
だというのに。
バイト先の所長は、自殺してしまった。
止める間もない死だった。思い詰めていた部分に気づいてやれなかった。そんな小林に残されたのは、事務所を維持することだった。
小林に向けて書かれた遺書のようなもの。
それには、『後を頼む』とだけあった。
狂気に落ちた男が、一瞬だけ正気に戻ったような言葉だった。そう思ってしまえば、助けを求めるように伸ばされた手のようにさえ見えた。
小林はその残滓を振り払えはしない。
だらりとぶら下がった体を見たとき、小林は泣けなかった。
それよりも、悔しさと、ぽっかりと穴が開いてしまったような気分だった。
どうして自分に言ってくれなかったのだ。
死ぬ前に、一言でも。
つらいとか悲しいとか苦しいとか。
そういうのを、小林は少しでもこぼしてほしかった。
だから、逆に行動は迅速だった。
何もできなかった。
ならば、今できることをするしかない。
ただ、その体を速やかにどうにかしなければならないという思いがあった。箱崎は家族の縁が薄い人だったため、葬儀はひっそりと行った。とくに連絡する家族もおらず、ただ事務所の人間といくつかの仕事で知り合った人との質素なものだった。
横たえた箱崎の横顔は、まるで眠っているだけのようだった。
バイト柄、物騒な事件に巻き込まれたこともある。人間の死体も見なかったわけではない。
だが、ただ体を窶すことなく亡くなった男は、いつもと変わらぬように横たわっていた。ふとすれば、目を開けて笑いそうだった。
その時の記憶はあいまいで、小林ははっきりと覚えていない。
ただ、今にも起き上ってしまいそうだった。
眠っているだけに見えた。
ずっとずっと、そう思っていた。
その感情だけをよく覚えている。
だが、それはもう、息もしない死体だ。
たしかにその現実があるというのに、目の前の光景が違うのだとささやいてくる。本当に、横たわった箱崎は、死体に見えなかった。
いつでも起きてしまいそうだった。
安い線香の香りは、鼻に残った。安い香りのそれが立てられ、死に化粧をされていけば、ますます寝ているだけのようだった。
だが、腐らないように冷凍処理された体は硬く、冷たい。
白い肌は蝋のように人間味がなかった。
(ああ、こんな)
ごう、と電車が目の前を過ぎていった。
ざあ、と髪が揺れるのを放ったまま、小林は立ち尽くす。
鉄の塊はゆっくりと速度を落としながら、駅に停車する。ぷしゅう、と音を立ててドアが開き、小林は人の少ない電車に乗り込んだ。
ドア付近に立って外の景色を眺めれば、すぐにドアが閉じて動き出した。
ガラスに映る自分の顔は、無表情だ。
あのときはずいぶんと白い色をしていたんだな、と今の自分の顔と比較してしまう。
そんなことばかり、覚えている。
伸ばす理由もなかったので、箱崎はさっさと燃やしてしまった。
その時に小林は気づいた。
いや、どちらかといえば、思い知らされたというほうが正しい。
頭を鈍器で殴られたような、痛くなるような気持ちの悪い目の覚め方をさせられた。
小林は箱崎の恋人の写真を入れたかった。
生きているものは棺桶には入れないと聞いた。それは写真もそうなのだ。生きている人間の写真は入れない。
ならば、あの世では二人でいられるように、と。
恋人の写真を入れるぐらい。
せめてそれぐらいは、してあげたかった。
それが、命を懸けて人を愛した彼への思いやりだと小林は思った。
けれど。
できなかった。
誰かに止められただとか、そういったことがあったわけではない。
ただ、単純になかったのだ。
入れるべき写真が。
なかった。
写真はすべて、消えていた。彼の恋人が映っていたものはすべて。
ただ一つの例外もなく。
それだけではない。
彼女の部屋も、彼女が残したものも、すべて。
きれいに、なくなっていた。
『小林君、それ、だあれ?』
誰に聞いても、そのように返ってくる。
そんなものは初めからなかったかのように、きれいに消え失せていた。
何を探しても、彼女の記録がない。
確かにいたのだ。小林の幻でも思い違いでもない。彼女は確かにここにいた。彼は確かに彼女を愛していた。
彼が死んだのはそのせいなのに。
なのに。
だというのに。
どこを探しても、彼女はいない。
いた痕跡すらない。
箱崎がなくなってしまった後、彼の最愛の人の記録はすべて消えてしまった。
まるですべてから忘れられたように。
はじめから存在などしなかったように。
彼女は、世界から消されていた。
箱崎と甘く笑う美しい姿は、小林の中にしかなかった。
それも、まさかこんなことになるとは思っていたために、ひどく朧気で、まるで幻のように儚く。
美化されているかのように美しかったのを覚えていた。
こんなことなら、かつての日常を脳裏に焼き付けていたかった。何気ない日々をすべて二度と忘れないようにしてほしかった。
傷さえつけるような、えぐいやり方でも構わない。
二度と忘れることがないように、深く深く。
刻み付けてほしかった。
美化されている自分の頭さえ腹が立った。自分の記憶は本当に都合がよいと思えてならない。人間の頭は簡単に真実をあいまいにする。
ただ、小林の都合のいいように、書き換えられてしまう。
この世界と同じように。
そんな美しかっただろうかと自問自答さえした。
正しく覚えていられないことが、どうしもなく。
ひどく、やるせなく。
世界から忘れ去られて、小林ができることは何もなかった。箱崎へあの世へのはなむけすらできない。
世界は、そんなことすら許しはしなかった。
小林があがく間もなく、箱崎は燃えてしまった。
ひどくあっさりと燃えたあと、骨だけになってしまった彼は、骨壺に入れられた。そうしてしまえば、ひどく軽く、小さくなってしまったように感じた。
自分よりも大きかったというのに。
両手で抱えるほどの大きさと軽さだ。
ふわりと感じる熱気のある白い骨を拾い、陶器の壺に収めていく。
強い火力で焼かれた骨はぼろぼろとしていた。人間はそれだけの火力がなければ焼けないのだろうと思えば、人間が骨だけになるのもとんでもないことのようだった。
墓をどうするか、という問題は、箱崎自身の保険金で賄った。
一応、箱崎から多少のお金は、相続人に指定されていたために受け取っていた。だが、さすがに墓となると、金額のかかる単位が違う。静かにやった葬式とはいえ、すでに百万ほど吹き飛んでいた。そこからさらに、と考えればどうしようかとも思いはした。だが、事務所を続けるなら、あったほうがいいとまわりに諭され、箱崎の保険金に手をつけざるを得なかった。
ようやく見つけた墓所に墓をたて、そこに納骨した。
墓も立てるかどうかと迷ったとき、お気持ち次第ですよ、と言ったのは葬儀屋ではなかった。
こういうものは残された人の気持ちですからと、やんわりと言ったのは葬式の時にきた住職だ。
導師を務めた男は、きちんと比叡山で修業をしたのだと聞いた。だが、昨今は坊主も就職が厳しいらしい。寺を持てず、片手間に住職をしているという。
その僧は、そうした現代に合わせたような生活をしている割に、世俗から遠く離れたような眼をしていた。
箱崎と顔も違うので、小林を兄弟とは思わなかったろう。
小林はその場で泣きもしなかった。
けれど僧侶は、欲の失せた黒い目で、小林にいろんなことを話した。
静かな眼は何もかも見透かしているかのように、私たちに必要なものなのですよ、と言い置いた。
『正直に申せば、遺体は墓を作れとも言いませんからね』
これを言ったら、この間、殴られてしまったんですが、と言ってほほ笑んだ男を、小林は殴れなかった。
その通りだった。
だから、小林は墓を作った。
自分に必要だと、その時は実感できなかった。それでも必要だという周りの言葉を信じたし、そうすることで安らかに眠れるのではないかと勝手に思っていた。
死体は何も、言わないけれど。
ただ。
それでも、一つだけ言えることがあった。
彼が愛したひとを、小林は永遠にそばにいさせてあげたかった。箱崎が口が利けたならば、そばに居たいと、そういうだろうと思った。だからこそ、墓は必要だという周りの言葉に流されることにしたし、墓があれば、それができるのではないかと思ったのだ。
だから、体はなくとも、そこに彼女の名前も刻みたかった。
しかし、記録も名前も存在しない女性の名を刻むことなどできはしない。
せめて、この世の未練を失うほどに愛した人は、一緒が良いと思った。
それすら幻のような儚い願いでしかない。
名前を刻むことなどできなかったのだから。
天国も地獄も信じるわけではないが。
それでも、もしがあるならと考えずにいられなかった。
だから小林はその事実に打ちのめされてから、ずっと祈っていた。
小林だけがただ一人、記録を許されたものとして。
せめて、死後は安らかに。
そして二人でいてほしいと。
ただ、ずっと祈っていた。
形として残すことはできなかったけれど、それでもただ祈っていた。
だが、それはしょせん祈りでしかなかった。何かにすがるように思い続けるだけの弔いは、最悪な形で小林を裏切った。
箱崎の葬式が終わって、何年かしたころ。
『とうしろうは?』
ふわふわと、茫洋とした目で微笑む、箱崎の自殺の原因が戻ってきた。
そのときのほうが、小林にとっては衝撃的で、ショックだった。
なぜ。
と、思った。
なぜ、いま――――。
(やめよう)
彼女が箱崎の自殺の原因であることは確かだった。けれどそれは口にすら出せない。
思うことすらも、間違いだと小林は思っている。
儚く笑う彼女が戻ってきてくれたこと自体は本当にうれしかった。
だって箱崎は本当に彼女を愛していたのだ。生きていてくれと、行方不明になってからずっと願っていた。
その彼女が、戻ってきてくれたのだ。小林とてうれしくないはずがない。
でも。
それでも。
だけど。
そう思う心はカビのように生えている。
考えを振り払い、がたがたと揺れる電車で大学の最寄りの駅に到着するのを待った。
今日は試験だし、一応ノートでも見ておくか、と小林は鞄からノートを取り出した。とはいっても、今日の試験はノートの閲覧可であるし、そういう場合はまずきちんと教授の話をメモしていれば、あまり問題はない。
それか、教授が勧めた本を読んでいればさして問題はなかった。
さすがに本を読む時間は足りないので、基本的に小林は講義をきちんと聞いて終わらせている。ただ、法律の授業はどうしてもこれは読んでおいて、と言われることもあった。
自分の走り書きを改めて眺めていると、大学の最寄りにつく。そのまま大学に向かい、指定された席についた。
電車内も学校も冷房が効いているが、そこから出ると、じっとりと背中に汗がにじむ。通学する間に、朝から徐々に温度が上がっていた。
じんわりとにじんだ汗に、今日も暑くなりそうだと小林は試験の開始を待った。
試験が終わったらバイトまで少し時間もある。
いったん家に帰ろうか、と関係ないことを考えているうちに試験が始まった。
そんなことに気をとられていたせいか、試験が始まって1時間ほどしたころ。
ブーとバイブレーションが鳴った。
しん、とした試験場ではそれがやたらと響く。
小林は無言でシャーペンを止めた。
(・・・俺だ・・・)
しまった、と冷房だけではない冷たさが背中に走る。
しかたなく、机の下で手だけ伸ばしてかちりとボタンを押した。幸いなことに、後ろのズボンのポケットにいれたままだった。
コールは続いているだろうが、これでバイブレーションの音は止まる。
解答用紙に思考を戻しながら、長さ的に電話だろう、と彼は思った。
(こんな、午前中に)
半分ほど埋まった解答用紙にさらにペンを走らせ、腕時計で時間を確認する。
回答の埋まった紙と腕時計を見比べ、このままだと時間もぎりぎりそうだと眉根を寄せた。どうせ今は確認することもできないからと、思考から電話のことは消し去る。
そしてとにかくこの問題の解答を頭から引きずり出そうと、意識を集中させた。
『そこまでです』
マイクで無機質に試験終了を告げられた時、小林は思わず息を吐いた。
(終わった・・・)
これで夏休みが始まる。試験の結果はこの際、二の次だと思考を放棄した。
ブブ、とまたバイブレーションが鳴った。
(そういえば、試験中・・・)
電源を切り忘れていた、と片づけをしながら、スマートフォンのことを思い出す。
黒いリュックに筆記用具と学生証を戻し、解散の合図を待つ。解答用紙の枚数の確認がまだ終わらないようで、まだ合図はない。
さすがに手元に解答用紙がないとはいえ、携帯の端末をいじるのは気が引けた。仕方なく大学の教務員たちを眺めていれば、そこに有名人の顔を見つけた。
『猫教授』と呼ばれる初老の男は、この大学の有名人だった。専門は日本の動物との関係史で国文学の教授だ。
別に顔が猫っぽいわけではない。目は鋭いが、猫目と言われるきつさはなかった。
ただ、若いころはさぞや浮名を流したろうと察することのできる整った顔はしていた。
その顔にもいくつかしわが刻まれ、研究者にありがちなように黒い目はすこし濡れている。彼は目の濡れた人間がそうであるように、視力があまりなく、眼鏡をかけていた。なので、今は顔の良しあしを判断しづらくなっている。
そんな男が『猫教授』と呼ばれる所以。
彼の周りではよく猫の鳴き声がするのだ。
彼の研究室では時折黒い猫がいるという噂もある。ただ、本人は猫を飼ってもいないし、研究室に猫なんて持ち込んでもいない。
ただ、『猫教授』と二人っきりだと、にゃあ、と猫の鳴き声がするのだ。それはかなり有名な話で、その鳴き声がすると教授はもう帰りなさいと学生を帰す。
小林は日本史の江戸時代に関する授業でこの教授の授業をとったことがあった。他の教授にありがちな、自分の専門を話すだけではなく、江戸時代全般について語ってくれ、なかなか面白い授業だった。
何回か話をしたことがあるが、教授というわりにはフレンドリーで、この間本を貸すよと言っていたことを思い出す。
せめて挨拶ぐらいはしていくか、と息を吐くと、『問題ありません、解散してください』とアナウンスがかかった。
小林も立ち上がると、『猫教授』と目があった。
彼はかなり背が高いんだな、と小林が遠目から眺めていると、彼はにっこりと笑った。そして招き猫のようにちょいちょいと手招きをされる。
一応会釈だけして、あたりを見間回してみた。だが、周りの生徒たちはばらばらと教室から出ていく。
(・・・自分、か?)
自信なくもう一度『猫教授』を見やったとき。
「ぅにゃあ」
と。
猫の声が聞こえた気がした。
(え?)
振り返ってみるが、何もいない。教室に猫などいるはずがない。
その場で立ち尽くしていれば、大学の事務員が出ていく途中、立ったままの小林を怪訝な目で見ていた。
『猫教授』はゆっくりと歩いくると、やあ、と白髪が混じった男とは思えない挨拶をする。
「・・・こんにちは」
「君はいつも挨拶がきれいだよねえ」
こんにちは、と返した男は、そうだった、と脇に抱えていた本を差し出した。
「君に、本を貸す約束をしていたことを思い出してね」
はいこれ、と渡された本は、茶色く、表紙がない。タイトルもかすんで見えなくなってはいるが、ぼろぼろというわけでもなかった。
あまり開かれてはいないだろうが、古い本ではないのかと思った。
「あの、これ」
大切なものではないのかとか、本のタイトルは、とか、色々な言葉を込めて問う。そうすれば『猫教授』は目を細めて笑った。
「私はね、学生に貸す時は、あだ名のとおり、『猫』に決めてもらってるんだよ」
そのあだ名は本人の知るところなのか、と小林は目を見開く。
「はは、君、知ってるんですかって顔だね。知っているとも。だって、本当に私の周りでは猫の気配があるしね」
昔からなんだよ、と年老いた男は笑った。
「不思議だろう?」
「不思議ですけど・・・」
それで済ませてしまう男の器の大きさに、どう言葉を返してよいか迷うところである。普通は気味悪がったりしそうなものだ。だが、この『猫教授』にとってはそうでもないらしい。
「私のそばにいる『猫』は、月のきれいな晩に、私を口説きに来るんだよ。だから君に貸す本の相談も乗ってもらったのさ」
内緒ね、と無邪気に笑う教授の姿に、小林も小さく笑った。
「月が美しいのは秋だから、これからますますうるさくなっていくんだよ。あ、引き留めてごめんね」
それ、返すのはいつでもいいから、と言うと、『猫教授』は教室を出ていった。
小林は手渡された本を見下ろし、夏の間に読み切ろう、とリュックに詰めた。
夏の予定がまた一つ追加される。
さすがに好意で貸してくれたものに、読んでません、知りませんと言いたくはなかった。
教室には次の試験のためか、ちらほらと人が入ってきている。
小林は教室を出ると、スマートフォンをズボンのポケットから取り出した。
着信は古賀からだった。古賀という男は、箱崎亡きあとに箱崎探偵事務所の新しい所長となった男である。
他にもゼロイチから始まる警察の番号からも連絡が入っていた。
(何かあったのか?)
そう首を傾げつつ、小林は大学を出た。
外は、眼がくらむような白い日差しだった。焼け焦がすようにアスファルトに照り付けている。このままでは逃げ水さえ見えそうだと、足を踏み出すのをためらった。
小林はせり出した屋根が作った陰で、履歴をさかのぼり、電話をかけた。
とりあえず警察の番号にかけると、すぐに『はい』とつながった。
部署と課名を告げられ、小林です、と名乗る。
「あの、お電話いただいたようなんですが」
『落ちついて聞いてください』
なんなのだろう、と小林は首をひねりながら、はい、と返事をする。

『まつりさんが、お亡くなりになりました』

その言葉を聞いたとき、彼は耳元にあてていたスマートフォンを落としそうになってしまった。

ひゅ、と息を飲む。
抜けそうになった力を逆に込めて、自分の手が痛いほど握りしめる。
「・・・は?」
理解できない、と思わず雑に聞き返してしまった。
自分は本当にきちんと警察の番号にかけたのかと疑う。
もしや、間違って古賀に電話をかけてしまったのではないのだろうか。あるいは、警察の番号に見えて、何かのいたずら電話の番号だったのかもしれない。
『茉李さんが、交通事故に遭われました。病院に運ばれて、二時間後に息を引き取りました』
努めて冷静な口調でそう繰り返される。
ぎぎ、と小林の口元がいびつに歪んだ。筋肉がひきつった口は、おかしな風に力が入り、楽しくもないのに笑みの形を作る。
笑えない。
全く面白くもない。
何の冗談なのだ。
そのあとも、自動音声のように彼女のいる病院の名前と最寄りの駅を告げられる。
小林はそれらを聞き流しながら、めまいを覚えた。
立っていることが難しい。このまま膝をついてしまいそうだ、と思わず壁に寄りかかる。
じりじりと湿り気のある熱気が体を熱くした。日陰にいても、体は気持ち悪いぐらいにだらだらと汗をこぼす。
(この)
この電話はどこにつながっているのだろうと、彼は乖離した頭でそう思った。
「・・・」
首の裏に汗が伝う。水の滴る感覚に、熱さと思考の温度が一致しない。
もしかしたら異界とか、ここではないどこかつながっているのではないだろうか。だからこんな、最悪の形の詐欺を行う。それならば、まだいくらか納得がいきそうなものだった。
彼女が交通事故で死んだというなら、それはありえないと小林は思う。
彼女が死んだという事実がそもそも間違いだ。
そんなはずはない。
こんなことがあっていいはずがない。
せっかく彼女は、戻ってこれたというのに。
これでは。
そんなことでは。
すべてがめちゃくちゃだ。
『小林さん?』
無言でいる小林をどう思ったのか、小さな機械の向こう側から気遣うような声がした。
電話の向こう側の、あえて無機質さを装った声は、小林に気をつかっていたのだと知る。
「大丈夫です」
そう答えてから、今から向かいますと答えた。
そう言う以外にどうすればいいのか、小林には分からなかった。
『・・・お待ちしております』
そしてぷつりと電話が切れる。
このままうずくまって頭を抱えてしまいたい衝動と小林は必死に戦った。
(意味が)
言葉を理解できていないのか、頭がぼんやりとした。
(よく)
体と思考が別になっているようで、一致しない。外は三十度さえ越しているかと思うのに、なぜだが寒いような気さえした。
自分の体を抱きしめてさすってしまいたい。じわりと泡立つ鳥肌に、震えだしそうだった。
それでも何もせず、動くことすらできず、小林はスマートフォンを眺めて立ち尽くした。
(わからない・・・)
受け入れようとする思考は現実で、理解しがたい心が悲鳴を上げていた。
うずくまって泣きわめいてしまいたかった。
意味が分からない。
理解できないと叫べたら、どんなに楽だろうと小林は冷静に思う。
涙さえこぼしてしまえば、と思うのに、幾度も経験を積んだ思考が、泣いてどうにかなるのかと耳打ちしてくる。
(でも)
立ち止まっているわけにはいかない。
このまま立ちすくんでも何ごとも進まない。
そういうことは、よくわかっている。
痛いほどに。
でも。
こんなことに立ち向かわねばならないのかと。
現実への一歩が踏み脱せない。
いっそ冗談のようだと口元が曲がりそうだった。
「は、ははは・・・・」
似つかわしくない乾いた笑いがこぼれる。まったく楽しくなさそうな声に、少しだけ気分が落ち着いた。
こんなのはたちの悪い冗談だと言い聞かせて、小林は足を一歩、踏み出した。
(い、いかないと)
教えてもらった病院に向かわなければ、と小林はただ足を動かした。
この眼で確かめるまでは、信じない。
そんなものは信じられない。
箱崎が死ぬほど愛したひとなのだ。
己の命だって惜しくないほど愛して愛していた。
自己犠牲さえ厭わぬほど、彼の心は明け渡されていた。
己の命と愛を天秤にかけることさえ厭わぬような、そんなひとだった。天秤は愛に傾き、その重さゆえに、かたりと命は天秤から落ちてしまったほどだ。
(でも)
じわり、と涙がにじみそうになった。
けれど視界はゆらゆら揺れるばかりで、自分の悲鳴はこぼれない。いっそこぼれてくれたら気分もすっとするのだろうかと思いながら、じわじわと太陽に焼かれて歩く。たしかに黒く熱せられたコンクリートの上を歩いているはずだ。だというのに、地に足がついている感覚がなかった。踏みしめる足は、どこかふわふわとしたものを踏んでいる。
ここが固い地面の上なのかわからない。まるで砂漠のように、踏みしめる大地の硬さを認識できなかった。
(だって)
涙が出そうになるのも許してくれと心の端で思う。
誰に許しを請うわけでもなく、ただ、許してほしかった。
泣いても、解決などしないけれど。
それでも、泣いてしまいたかった。
戻ってきたときは、どうしてと思いもした。彼女に抱く感情は、ただ好いているとか、嫌いだとかいった白黒つけられるような思いだけではない。
やるせなくて。
救われなくて。
どうしようもなく悲しい。
それでも小林はただ信じていた。
彼女の愛と、箱崎の愛を。
ほかのだれが覚えていなくても、小林しか覚えていなくとも、ただ生きてほしいと願った箱崎の愛は本物のはずだった。文字通り死ぬほど愛した人で、小林の美化であったとしても、覚えている限りは美しいものだった。
だからこそ。
彼女を再び見たとき、どうしてと思いながらも泣くことを許してほしかった。
泣かせてほしい。どうか、泣くのを許してほしい。泣きたい。
それらを口にできないまま、小林は彼女を見つめるしかできなかった。
どうして、箱崎がなくなってしまった後だったのだ。
どうして。
彼はあなたを、本当に本当に愛していたのに。
けれどそれさえ小林は口にできなかった。
なじるような言葉に意味などなかったからだ。
そんなことは言うまでもなく、記憶をなくした茉李でさえわかっていたことだ。
箱崎と茉李は本当にきれいな愛の証のような二人だった。
見ているこっちが恥ずかしくなるように甘い関係だったし、二人できれいに笑いあう人たちだった。
だというのに。
それさえも、真実かどうかは世界が立証を拒否し。
彼女は消え、箱崎は自殺した。
そのあとに戻ってきた彼女は、多くのことを忘れ、多くの記憶を消されていた。
『とうしろうは?』
茫洋とした目で、恋人の名を呼ぶ彼女に、誰が彼の死を伝えることができたろうか。
未だ彼を愛し、恋い焦がれた彼女に。
決して、彼女が悪くはなかったのに。
ただ愛を明け渡した恋人の帰りを待ち続ける彼女に、あなたの恋人はもういないと。
そんなことを、口には。
(できない。できるはずがない)
思い起こせば、息さえ苦しくなる。
ただ、小林しかそれを伝えられる人間はいなかった。
けれど、とても。
できたものではなかった。
(少なくとも、俺にはむりだ)
告げられた病院の名を、何度も何度も頭の中で繰り返す。
何もかも忘れていればよかったのに。
そう思うことも、少なくなかった。
彼女が彼との思い出を語るたびに。
彼女は結末だけを忘れていた。
ただ、自分には愛する恋人がいる、と。
そのことしか覚えてはいなかった彼女に。
何も知らないままで微笑む彼女が、哀れになることだってあった。
だから何度、決着をつけさせるべきかと。
世界は、あなたたちを無残に引き裂いたのだ。
あなたは、敗北したのだ。
あなたの愛は潰えたのだと、言うべきかと。
口を開いては。
(むりだった)
開いた口は、言葉にならなかった。
もつれそうな足は、ただ歩くだけだったはずが、気が付けば走りだしていた。
ぎらぎらという言葉が似合いそうな太陽の光は、痛いほどだ。外は汗が滴るほどの気温だというのに、小林は今にも震えだしそうだった。
すぐに駅について、定期で改札を駆け抜ける。
途中、人にぶつかりそうになった。女の人が、きゃ、と驚いたように小さな悲鳴をあげたのが耳に届いたが、すいませんと投げやりに謝るしかできない。
階段を駆け上がり、すぐに開いたままの電車に飛び乗った。
はあ、と息を吐き、頭の中で路線を考える。三つほど駅を過ぎてから乗り換えだ、と冷静に経路を考える自分が唐突にばかばかしくなって、小林は口元を歪めた。
泣きわめいてしまえたら楽なのに、と思う。
どうしようもないことに直面するたび、いっそ女のように泣きわめいてしまえたら楽だろうとは思う。けれどそれに意味があるのかと問うてしまう時点で、自分は泣くことができない。
生理的に条件反射のように体の機能としての涙はこぼれる。だけども感情がこぼれて落ちる雫はあまりない。
愛を交わすという意味で、体をつなげることが理解すらできなかった。
なるほどと本能的に受け取ったものはあるが、相変わらずうまく言葉で表せない。だからいつも、心の中で意味を求める衝動が頭をもたげている。
感情が豊かかどうかという点で、小林はすこし自分が欠陥的な気さえしていた。
だが、情欲は溺れてしまう沼のような一面さえあるわけで、それを色濃く残している人間よりは見えないほうが好意的に社会的に受け入れられる。そういう損得な面では、あまりそういうことに興味を示さない小林は、自分に対して否定的ではない。
(ただ、)
愛とは形に見えぬからこそあらゆる手段を尽くして表現し、伝えなければならない。
それを覚えたのは最近だが、それがわかってから、小林は箱崎と茉李を思うことが増えた。
(どうすればいいのかと)
理解できたからこそ、経験として積まれたからこそ、小林は自分がどうすればいいのかわからなかった。受け取るものは心地よく、それをなくしてしまった茉李にかけるべき言葉とは、果たして一体なんだったのか。
(いや、まだ、決まったわけではない)
否定しながらも、ガタガタと電車に揺られていれば、小林は現実を受け入れ始めていた。
そんな自分にまた笑いそうになり、口元を固く結んだ。

「なあ、小林、お祭りやってるってさ」
街中を歩いていた時、ビルの壁に張り付けられた広告を見て、野呂が言った。
「行ってみよう」
そういわれたとき、自分が何と答えたのか、もう小林の記憶ではあいまいだった。
行くことを渋ったのか、それとも楽しそうだなと同意したのか。今振り返れば、どちらもしたような気がした。予定にない思いつきに、気が向いて楽しそうだなと同意した気がするし、逆に人混みを嫌って、いくのか、と眉根を寄せた気もする。理屈を詰める部分はあるものの、ふらりと気が向けば殴り合いもする小林の性格を考えれば、どちらでもありそうな気がしていた。
どっちだったっけ、と聞ければ、それを己の脳みそに問い続ける必要はなくなる。
年々ぼんやりとしていく記憶に反して疑問ばかりが強くなる。
もやりと抱えたままの感情を消化すれば、きっとすっきりとするのだろう。
しかし。
果たしてどちらだったのか、答え合わせすることは永遠にできない。
答えを知るもう一人は、すでにいなくなってしまったからだ。
大人になるほどに、できることも増えるが、できないことも増えていく。
できないことは永遠にできないままのもので、それは努力だとか、費やす時間の多さではカバーしきれない。
できないことが増えていくたびに、後悔ばかり覚えていた。
どうしてと問うことも多くなった。それがたとえ無意味でも、問いかけた先に答えすらなくとも、思考は止まらない。人間は考える葦だというが、全く真理を得ている。思考した末に意味がないことでも、考えられずにはいられない。
思考にまみれた日々は、いろんなことを薄れさせてもいった。
「こばやし」
そういって笑う顔が年々薄らいでいくように。
後悔は時間とともに薄れ、罪悪感も薄らいでいくと知れたのはいつからだったろうか。
少なくとも、野呂の笑顔を向けられていたころ、小林はそんなことは知りもしなかった。
訳知り顔で笑っていればどうにかなる顔だと、自分にあきらめもついていなかった。
伸びない身長に悩んでいたし、ニキビの痛みに顔を歪めていた。かわいいといわれることが嫌で仕方なくて、毎日牛乳を飲んでいた。
『あーすげーはらへる』
笑いながらそう言って、露店の間を見て回った。
人は多かった。低い声も高い声も、たくさんの声があった。中学生ぐらいの子供たちは男女が多かったし、あれがほしいと泣き喚く子供もいた。
じゅうじゅうと何かが焼ける音と、ソースの香り。なにかわからないけれど、空腹を刺激するにおいは腹が減ったといわせるには十分だった。
『あ、金魚すくいある』
やろうと声をかけられて、何かを言う前に店番をしていた男に金を払った。
『やってどうすんの』
どうせ取れないだろうけど、と言いながらそばに立っていた。すぐにしゃがんで金魚の動きを追う男が、ふいに顔を上げた。
『小林、やろうよ』
そう声をかけられて、なんと返したのだったのか。小林には思い出せない。
けれど、その誘いを断ったことだけはよく覚えている。
『俺は、やらない』
今よりもいろいろなことが赦せなかった。
自分に向けられる秋波も、顔が原因であることも、忌々しくて仕方なかったときだ。小林は手加減を知らなかったし、丸さを知らなかった。
かわいいね、と言われれば、はあ?としかめた顔で睨み返した。時にはその言葉一つで相手を殴ったこともある。
かわいいわりに、と言われることもままあった。
顔で判断するから悪いのだと、その言葉で相手をあざけった。
ばかばかしいと、ただいら立ちを抱えて、なすすべのない棘をあらゆる方向へと向けていた。
今よりもっと、暴力的で、そうしなければ自分はそういうレッテルを張られるのだと、無意味に見え方すべてを突っぱねていた。周りのすべてが敵であるかのような、そんなくさくさとした気分を抱えているときもあった。
今思い返せば、何をそんなにとげとげとしていたのか、と笑ってしまう。
当時を振り返れば、別に悪意も敵意もそんなに向けられてはいないし、どちらかと言えば好意のほうが多かったはずだ。
ただ、あの時は周りも『そう』だったのだ。当時の同級生と会って、小林はそう思うことがある。
かつては、たしかにみんながとげとげとしていて、丸みのない正方形のようだった。折れることを知らない同級生はたくさんいたし、小林と殴り合いになったということは、お互い正方形だったのだ。
丸みがないから、お互いに譲り合うこともできない。衝突して、叩きつけられ、折れそうにひびが入る。
ぶつかり合って、手で触れあいながら攻撃をしていた。
今ではできぬような苛烈さだ。
そのことを思えば、苦い思いもわいてくる。
苦々しさは、寂しさと同居していた。
振り返れば、かつてとは確実に違う小林自身がいる。かつてを幼いと一括りにできるほど、小林は割り切れてはいない。
ましてや、そのさみしさの塊は、野呂の形をしているからこそ。
昔は若かったなどと、宣うことはできない。
『小林は、やさしいな』
そうして、金魚すくい一つ断った小林に対して、野呂はそう言って目を細めた。すぐによーしとるぞ、と意気込んだ野呂に、果たして小林の驚いた顔は見られたのだろうかと思った。
当時、言われることに飽き飽きしていた言葉とは違う言葉を、野呂はためらいもなく口にした。
『・・・なんだよ』
小林はすねたように言葉を突っぱねるしかできなかった。
ただ、その言葉が、ひどく。
苦く。
否定の言葉すら出なかった。
野呂の言葉が真実のような気すらしたせいだった。
使いつぶされたような同じフレーズなのに、どうして野呂の声はこうも正しく聞こえるのか。
それは相変わらず永遠に問いかけのかえってこない問いだ。かつての同級生に聞けばわかるのかもしれないが、波柴にすら聞けない。
悪いことは悪いと言い、正しいと思ったことはすぐ口にする。野呂は気に入らないからと相手を殴ることはなかったし、たとえどれだけ挑発されても手は出さなかった。
殴られても殴り返さなかった正しさを、あの頃の小林はよくわからなかった。
野呂は、神社の縁日ではまぎれるような出で立ちだった。特段、顔が美しすぎて神のようだとか、逆に悪人顔だとか、そういうこともない。
雑踏の中、たくさんの声がした。
たくさんの人が歩いた神社の玉砂利は汚れていた。
それでも、ただ、そこにいた野呂の微笑みが、なによりも美しかった。
やわらかな日差しの中で、まどろむようなあたたかさがあった。寒い冬の日に、窓辺でただ太陽の光に身を預けるような。
そんな陽だまりにいるような。
そんなものだった。
それから小林は、その時と、いまは違うと言えるまでに時を経た。
世のたたえる芸術も、装飾も、輝かしさも目にした。
それでも、あの男の善良さと正しさに勝る輝きはない。
そんな風に思い続けることが、まるで酒に酔ったようだった。
腹の底を焦がす度数の強い酒が効いている。酒は百薬の長だという。酔えば吐いて、毒気にさらすものが薬だとは笑える話だった。酒が入った腹が焼けるようだ。どうにもならなくて、じりじりと神経を焦がすから、どうにかしたくて、吐いてしまうしかない。
指をのどに入れれば、吐いてしまえるのに。
そうできると、小林は知っているというのに。
「小林・・・」
安置室からでた彼を、呼び止める声があった。
そこに正しさは存在しなかった。
あたたかなひだまりもなく。
まるで夜明け前のような静けさがある。病院の廊下とはこうも悲嘆に満ちている場所だったかと思考が飛んだ。
ひんやりとして、泣きすする声がするばかりで。
他には、何もない。
ぐしゃぐしゃに泣きはらした男は、涙もこぼさない小林を見て、また頬に涙をこぼした。
泣いてしまいたいと、漠然と思った。
すでに彼は病院についている。
何かしなければ、ということがあるわけではない。
泣けばいいのだ。
声を上げて。
だというのに、呼ばれた声にすら、何といえばいいのかわからなかった。
果たして泣くのにただ叫び声をあげればいいのか、それとも声を押し殺せばいいのか、泣くことにも作法がいるような、そんなことを考える。けれどそんなことを考えている時点で、ただの道化が笑わせ方をわからずに困惑しているようで、滑稽すぎていっそ笑いそうだった。
いっそそんなことすら、面白いといえたらよかったのだろう。
頭がおかしいか、ねじが外れたような間違い方をしたかった。もう、それはおかしいと言って、正してくれるひとはいないけれど。
泣けないことに、笑えもしない。
面白いと、口にもできない。
ぼんやりとすれば、すぐに先ほど見た茉李の姿がよみがえる。
視神経のつながった眼球の奥に焼き付いた映像は、消えろと願うほどに消えない。目の奥に焼き付いた、あるいは神経が間違ったところにつながったように、その映画は止まらない。
彼女は、見れたものではなかった。
茉李は、歩道を歩いていた最中に車が突っ込んできたらしい。電柱と車に挟まれて、顔は傷だらけで、腕も足もいくつか吹っ飛んでいてバラバラだった。胴体はぐしゃぐしゃにつぶれていて、内臓も飛び出ているようだった。
女性陣には全身の姿を見せなかったようだ。古賀が気を使ったのだろう。
小林は、古賀の立会いの下、その姿をすべて見た。女の裸体とはもう言えなかった。目にした姿は、ただの肉のようだった。
傷が残ってしまった顔が痛ましいと思った。
どうせ死ぬのなら、きれいな顔のままがよかった。年若い彼女の顔に傷なんて、きっと箱崎も悲しんだことだろう。
彼女は、肉塊といっても差し支えないほどにけがを負い、死んでいた。
きっと苦しんだろうと警察の人に言われた。
何よりも先に、余計なことを言うなという感情が沸き起こった。そんなことを言うぐらいだったら交通事故の発生数を減らすことに尽力してほしい。すぐに仕事に戻ってさっさと頭のおかしい連中を逮捕しろ、と怒鳴りたい言葉は、頭に浮かんでは消えた。
静かに目をつぶっている彼女を見れば、ただただ、美しく。
複雑な思いを持て余した彼女のことしか考えられなかった。
すこしだけ、苦しんだ彼女が哀れだった。
いつか死ぬだろうとは、小林だって思っていた。
だが、その死はいつだって漠然としたものだった。ぼんやりとしたいつか来る終わりは具体的に想像できるものではなかった。
けれど、いつか。いまは無理でも、彼女は幸せになってほしいと願っていた。箱崎を忘れなくていい。その愛をなくさなくていい。だから、ほかの誰かにもその愛を、二番目の愛を向けてやってほしいと願っていた。
小林は、彼女に自分の理想を押し付けられるだけの独りよがりを持ち続けられなかった。
確かに箱崎と茉李は美しい愛の形だった。
だから、彼女には永遠に箱崎を思っては欲しかったとも思う。けれど、そんな夢のような純粋な一途さを強要するほど、愚かしくもなれなかった。
きっと箱崎ならば、彼女の幸せを祈るのではないかとも勝手に思った。
死人は永遠にそれを口にすることはない。
だからこそ、生きていた彼女の幸せと自由を、小林は願った。せめてそういった幸せを享受して、彼女は老いて死んでゆくものだと思っていた。
それが。
そんな漠然とした終わりが。
それがこんなに早く訪れるものだとは、だれが思うだろうか。
これは彼女が生きた罰なのだろうかと、ぼんやりと思考の片隅で思った。
記録が消されて、存在を消された彼女が生きることを、相も変わらず世界は否定した。小林にはそう思えてならなかった。
いっそそうであるなら、より残酷でないのが不思議だった。
そうならば、もっとひどい死に方を与えるべきだった。
こんな、ある日突然、偶然のように死んでしまうのは、ただ運が悪かったようでしかない。
記録が消されて、恋人を失った彼女に、こんな死は似合わなかった。
ただ運が悪いだけのような死に方が彼女の終わりだなんて、小林は納得しがたい。
何も、伝えられていないのに。
何も、清算されていないのに。
小林が抱えていた、たくさんの事情を聴いたあと、まるで作られた物語のように大げさで信じがたい舞台で踊らされた挙句に、息絶えるような終わりを想像していた。少なくとも、彼女の死が訪れるなら、劇的であるべきだと小林は思っていた。
(それが、)
彼女は大きいといえるような交通事故で死んでしまった。
だがそれも、新聞の端に乗るか乗らないか程度のものだ。
嗤えそうだった。まるで誰にでもあるような不幸がたまたま彼女に降りかかったような死に方に、納得などできるはずがない。
これまで出会ってきた、異形の力に縋った人間の気持ちが分かったような気がした。
きっと、こうして納得しがたいものだったのだろう。
「小林」
思考に明け暮れる小林を現実に引き戻したのは古賀の声だった。
「君は、今日は帰りなさい」
涙声で伝えられた言葉がよくわからなかった。
何を言っているのかよくわからず、小林は思わず困惑したように首をかしげてしまう。
ちらりと脳裏に茉李の姿がよぎった。
数分と立たずに再生される映像は、壊れたビデオテープのようだ。
ただ一人、小林だけがいる映画館で永遠と繰り返されている。
傷のついた顔に、ばらばらになってしまった体は、相変わらず肉の塊だ。
その茉李はここにいる。これからどうすべきかは、かつての箱崎を思い起こせば、少しは理解できるものになった。
「葬儀屋に連絡しないとですよね」
思いついたことをそのまま口にすると、再びこばやし、とためらうように呼びかけられた。
「あんな状態にいつまでもしておくわけにはいかないですし、箱崎さんと同じところなら、すぐに引き取ってきれいにしてくれるんじゃ」
「小林君」
強い言葉で、小林の言葉を遮ったのは、中年の女性だった。
彼女もまた、泣きぬれた顔をしていた。
だが、悲しみに暮れているというのに、非難するように小林をまっすぐに見つめていた。
「あなたは、帰りなさい」
彼女は事務所で、経理と事務を中心に働いている吉村だった。
小林よりも大きい子供のいる母である彼女は、強い口調でつづけた。
「それは、あなたの仕事ではないの」
否定の言葉に、口元がひきつった。小林は首をかしげて、彼女を見つめ返す。
「でも、」
「これは、事務所の責任者で、大人である古賀君の仕事なの」
ばっさりと何かを切り離されたような気がした。お前などいらないといわれているかのような気がして、思わず小林は古賀を見た。
「ねえ、古賀さん、だって、箱崎さんのときだって」
「申し訳ない」
苦々しい声で、古賀は謝罪した。
見るに堪えないとでもいうかのように、顔をそらして。
「きみにそれをさせてしまった、俺たちの責任だよ」
は、と息を吐いた。笑い声を含んだ、かすれたような声は、ひどい暴力を秘めていた。
ふざけるなと怒鳴りつけたくて、それを必死で抑えた。言葉が出てこなくて、どうしていいのか、小林には分らなかった。
「小林君」
再び呼びかけられた吉村に、のろのろと視線を向けた。
「あなたは学生で、アルバイトなの。何ができても、まだ未成年なのよ。これからのことは、大人の仕事だわ」
「ふ、」
ふざけんなと、言いかけて、言葉を止めた。
吉村は痛ましそうな顔で小林を見ていた。
少しも視線をそらさずに何もかもを受け止める覚悟をもって言い切られているような目に、言葉が続かない。
そんな吉村に感情をぶつけそうになっている現状に、なぜだか負けたような気分になった。敗北感は口を鈍らせて、あふれそうになる感情に無理やり蓋をかぶせる。
「あなたにしてもらうことはないわ。できることもない」
迷う小林に畳みかけるようにそう告げる。迷いなく言い切るその言葉は、小林のそのほかの言葉を封じているようだった。
何もかも。
彼女の何もかもを、忘れていたのに。
その事実が、やはり『大人』だと言い切る彼らに感情を向けさせる。
何が違うというのかわからなかった。小林はたしかに未成年で19歳だ。だが現状、法律で18歳を成人にしようかという議論だってある。もし法律がそう改正されたなら、小林は大人になるのだろう。
仮に現状のまま成人になったとしても体つきは劇的に変わらないだろう。
だからこそ、何が違うのかと歯噛みした。
「・・・ごめんね」
何に対しての謝罪なのかと、怒鳴りつけたかった。ただ、吉村にそんなことをしても、小林の敗北感が増すだけなのはわかり切っていた。
「・・・」
何も言わずに、二人に背を向けた。
ぎしりと鳴りそうなほど歯をかみしめて、足を引きずる。
「いや、まて、小林君、一人で帰らないほうがいい。いま井村を呼ぶから」
やたら体が重たいような気がして、ずるりと足を這いずるように、病院を歩いていく。
きっとどこにいても茉李の姿は消えないのだろうと、視線を落とした。白い廊下にすら、ちぎれた腕が転がっているような気がした。
誰も覚えてもいなかった。
ただあの時、覚えていたのは小林だけだった。自分だけが許されていた。
だというのに、彼女がこんな不幸な事故で死んだあと。
何もするなという。
「小林君!一人で大丈夫なのか!?」
うるさいなあ、と雑に返しそうになった。そんなことは同居人にすらしたことがない。
だから声も出なかった。
「小林君!」
呼ばれた声を、振りほどけないことに笑った。
自嘲を含んだ笑みは自覚できるほど歪だった。
そんな顔を見せられはしないと。
あるいは、顔すら見たくないと。
ただ、立ち止まった。
振り向かなかった。
振り向けば怒鳴りたくなってしまう。子供みたいに八つ当たりをしたくて、それが八つ当たりでしかないとわかっている時点で、ばかばかしくてする気にもなれない。
それでも言葉を抑えるのは、灼熱の塊を飲み込んだみたいなのだ。する気が起きないと確かに思うし、そんなことは意味がないとわかっているのに、吐き出してしまいたくてたまらない。のど元は焼け落ちるみたいな暴言をため込んでいる。
すう、と息を吸い込めば、吐き出す言葉ひどい暴虐を帯びる気がした。
どうしてというただ一言は、本当に凶暴だ。
どうして彼女が死ななければならなかった。
彼女がどうして不幸な目に合わなければならなかったのか。
そればかりが熱を帯びて、吐き出したくて仕方ない。
感情ではそう強く思うのに、頭の冷静な部分が乖離して、意味があるのかとささやく。
「・・・だいじょうぶですよ」
だから小林は投げやりに、そう返事をした。
実際、問題はないのだろう。
持ち前の理性は非常に強固だ。ぐらぐらと揺れる感情があったとて、それを発散する意味を問うぐらいには余裕のようなものがある。
どうしてと問いかけたくとも、小林の世界はびくともせずにそれをはねのけられる。
「じゃあ、失礼します。自分にできることはなさそうなので」
口にした瞬間、嫌味のようだったかと、一瞬、小林に後悔がよぎった。
しかしそれも一瞬のことだった。
今はそれどころじゃないだろうと、彼は冷房の効いた病院の廊下を歩き始めた。
嫌味一つで動揺するような状態ではない。もっと対処をすべきことがある。
小林には何もできないことが。
はあ、と小さく息を吐く。
まるきりすねた子供と同じだ。
気に入らないから知らんぷり。顔をそむけて嫌と言っているようなものだ。それでただ、自分は悪くないと主張している。
何をしているのだろうと、考えることはできる。
だというのに、その答えが出ない。
(何を・・・)
しているのだろうか、と口にしたくて、それすら憚れる。
そんな己をひどく冷静に顧みる自分もいた。大丈夫とは言い放ったが、大丈夫ではないのだろうかと小林は冷静に観察する。
履き古したスニーカーはずいぶんと色あせていた。
ぎしりと足が軋むような気がして、足早にその場を去る。
「待ちなさい!井村を呼ぶから!」
と、背後から声が聞こえた気がした。
だがそれも気のせいだろうと、口の端を歪めて笑う。
呼んでどうにかなるものかと、あざけるような気分になった。
言い返したいことも、怒鳴りたいことも山ほどあって、それを口にする意味が分からないから、ぐるぐるとした灼熱を持て余す。
来たときは駆けあがった階段を使わずに、エレベーターに乗り込み、ボタンを押す。病に侵された人々に配慮された白い箱は、ゆるりと視界を遮って動き出す。
ひとり、ぽつりと隔離された箱の中で、思わずごつんと壁に頭を預けた。
いっそこの身ごと焼け落ちてくれと、感情の消却を願う。
この身を焦がして止まないどうしてを、だれか消し去ってほしい。
それが叶わないとわかっているからこその願いだということも、痛いほど理解していた。
何かしらの言葉を口にすればいいのに、それすらうまくできない。
(こんなに・・・)
がー、と地上について、エレベーターの扉が開く。隔離された場所から足を踏み出す。ひんやりとした室内には、待合室が広がり、調子の悪そうな人がたくさんいた。
ぺちゃくちゃとしゃべっている老人たちはとても具合が悪そうに見えない。しっかりとした足取りを見るだけで、どうして彼女もこうならなかったのだろうかと思った。
顔がしわくちゃになって、誰かと結婚して。
その誰かは、できれば箱崎がよかった。でもそれができないのなら、せめて、しわくちゃになった顔で、笑っていてほしかった。
消化できない思いは何を見てもわきだしてくる。
まるで景色すべてが小林を攻撃しているような気がしてしかたなかった。足早に病院内を出れば、むわっとした湿気と暑さに、一瞬視界がぐらついた。
夏の日は長いけれど、それも茜色に染まっている。これから夜になるにせよ、まだ時間がかかるのだろうと、駅に向かった。
(・・・うまく、できないものだったか)
吐き出す言葉を探して、感情の向ける先を考えて、それらが何一つ見つからないから、ただ口を閉じる。
正方形だったころの苛烈さがぶり返していた。きっといま、かわいいと言われたらにっこりと笑って問答無用で殴るに違いない。
近年は、ありがとうと受け流すことができていた。いくらなんでも10年以上もかわいいとかきれいとか女の子みたいとか、そういった言葉を言われ続けていれば、客観的にどう見えるのかがわかる。そういわれ続けてそういう風に見えるものなんだなと、あきれめもつこうとうものだ。
かわいいねの一言で激昂するほど、幼くもないし短気でもない。無難な人間関係を築いていくためには、自分が折れたほうが楽だと知っている。
そう、小林は知っているはずなのだ。
適度に、無難に、人間関係を築く方法を。
感情の吐露の仕方が分からないなんて、そんな思春期の子供のようなことを言うつもりはない。知っているはずなのだ。
「・・・」
ICカードで改札を通り抜けて、言葉を探す。
それと同時に、行き先に迷った。
(かえりたくない)
漠然と、二つに分かれた行き先の改札を背にして立ち尽くした。
遊ぶのが楽しくなって、帰りたくないとぐずるような、ゆるしてもらえるかどうかをおしはかるような、駄々に似ていた。
(かえりたくない。いやだ)
ちょうど夏休みに入るからと、ICカードにはたくさんのお金が入っている。漠然とした帰りたくないという感情は、結果として帰り道とは違う方向を選ばせた。
つきりと、胸に痛むものがあった。
ふと、脳裏によぎる面影が、人込みの中から現れそうな気がして、なぜこちらを選ぶのかと足を止めそうになる。人込みの中からゆるく目元を細める男が、にこやかに自分の名前を呼びそうな気がしてならなかった。帰らなかったらどう思うだろうかと、柔らかな男の顔が思い浮かぶ。心配させるだろうか、それとも怒るだろうかと、心によぎるものがあった。
なのに。
「もう、ほんと、さいあく~」
ふんわりとした声に、どきりとして、結局足が止まらなかった。
声は違うものだ、言い方がわずかに連想させるだけで、よく似ているとは言い難い。
それでも、帰りたくないを加速させるには十分だった。
ホームの端に立って、何をしているんだろうかと小林はうつむく。
ごう、と通り過ぎた電車が、髪をさらった。
『靴がぼろくなったな』
新しいの買いに行かないか、と誘われていたことを思い出す。
夕焼けから夜は、あの男がよく似合った。日没のような男だ。落ちていくときは、先の見えぬ闇にすら躊躇なく落ちていきそうな気がする。それでも小林を、目の端を和らげて見つめる男は、落ちかけた日輪のような輝きで闇から這いずりあがってくる。夜と茜色の極端な二つの世界を行き来しているからなおのこと、大きな背が似合うのだと思う。
(かえりたくないよ・・・)
その思いが加速して、帰れずに、来た電車に乗った。
足取りはわずかに重くて、空いた席にぐったりと座り込む。夏場の暑さに配慮されて、電車内は冷房が効いていた。汗をかいた体には寒いくらいで、ひんやりとした電車内で小林は身を縮こまらせる。
助けてほしいと思う。
小林は心の底からそう思う。
それでも、両手を広げて自分を抱きしめる男のところは帰りたくなかった。
帰れば、あの男は確実に甘やかすし、どうしたとささやいてくる。
たぶんそれで小林を助けてはくれるのだろう。やさしくして、あまやかして、ねだれば気のすむように取り図ってくれるに違いない。
そのままいれば、ずぶずぶと溺れて、這い上がれないようにすらできるだろう。あの男はきっとその手段を知っているし、それだけの手管を持っている。
そして何も心配がないように、きっとあの男のことだけを考えてれば済むようになりたいと、小林が望めばそうしてくれると思う。
それで楽になれればいいと、小林の堕落すら許すのだろう。
そう、小林があの男のことをそれだけわかっているように。
あの男も、それだけ小林のことをわかっている。
それが嫌なのだ。
相手の手の内を知っているということは、それだけこちらの手の内を知られているということだ。帰れば確実に自分の様子に何かしらを感じ取るに決まっているし、いろいろなことに聡いあの男には、小林自身の、把握しきれないところまで把握されるに決まっている。
そのことにいら立つと、確信できるからこそ余計にいやなのだ。
こんな時に、あの男にさらにぐちゃぐちゃにされてはたまらない。自分すら把握できないことにいら立って八つ当たりなんてしたくはない。
小林は、あの男が基本的にはこわい男であるという認識はある。
そのこわさにめげるどころか、つぶして迎え打ってしまいたくなるから、小林は結局のところ、恋が分からないのであるが。
(大体、かえって話したくない)
自分の口から今日起きた事実を、伝えたくはない。
事務所にも出入りがあるからすでに把握しているかもしれない。だが、それでも帰って、どうしたといわれて、小林の口から事実を伝えられるような気がしなかった。
(なあ、野呂)
朝焼けのような、ひだまりを思い出す。
がたごとと電車に揺られながら問いかけた。
なあ、と、小さく口を動かして。
日没とは対極にあるように、あたたかくて。
目を細めてしまいたくなるような、善良に。
遥か遠くから投げかける。
(俺は、)
失うことが少なくはない。かつてよりも得たものがあり、得た分だけ減ったものがある。
それがさみしくて、人混みにいても孤独で仕方ない。そんなことはわかっているのに、それを当然と、したり顔で割り切れるほど、すり切れずにいる。
(どうしたらいい?)
はるか遠くで、微笑む顔がある。すでに顔さえあいまいなのに、記憶だけはひどく美しくさせる。
そんなことすら嫌で仕方ない。
きっと、茉李もそうなっていくのだ。彼女も小林の記憶の中にとどめられ続ければ、それは痛みを伴う美しさに変わる。
そんなことはいやだと叫びたい。
誰か助けてと泣いてしまいたい。
それに意味があるのかと、問いかける声さえなければ。
ひどく体が重たいような気がした。歩く気力すらわかないような、それでいて助けを求められない暴虐が、顔を嗤わせて、拳を握りしめたくなるような、そんなふらふらとした気分になる。
自分を好きだという男の顔は確かにちらつく。
それに助けを求めてしまえばいいのだということも、そういうことができる存在だというのも、理論的にはわかっている。
帰らないことで、心配をかけることもよくわかっている。
それでも帰りたくはなかった。
どこに行きたいのでもない。
帰らなければそれでいい。
どこかを目指すことはなく、ただ家から離れる幼稚さに、小林は小さく笑った。

黒い眼が、輝く瞬間が好きだ。
好きなところは、と聞かれれば、いくらでも答えることができる、だというのに、彼はそんなことを聞いては来ないし、好きなところを言い出してもへえ、ふうん、とそっけない返事が帰ってくるだけだ。
普段は理知的に澄んだ、落ち着いた色のある黒い眼。それがときに苛烈に怒りを宿して輝き、そして悲しみに揺らいで光り、美味しそうに頬張って目を煌めかせる。
その目が、きれいだと思う。
(まー、きれいはきれいだけどねえ)
夜の帳が落ちた中を、車を走らせる。
ぷかぷかと煙草をくゆらせながら、きれいな目をしたあの子の居所を、ナビで確かめた。
井村の恋人は、穴が開くほど見つめても、飽きないほどきれいな顔をしている。美人は三日で飽きるというけれど、今のところ飽きは来ないし、これからも来そうな気配はない。
飽きる心配よりも飽きられる心配のほうが先に立つべきなのだろう。
恋人はまだまだうら若い上に、万人受けをする男くささのないきれいな顔をしている。
向けられる秋波を、本人もそこそこ自覚はしているが、それもそこそこだ。女はともかく、男からも向けられる秋波はもっと意識してもよいのではないだろうと思う。
きめの細かい白い肌は、そこら辺のアイドルに引けを取らないほどに滑らかだ。陶器のような、というのはこういうことなのだと、彼を見て知っている。頬に落とすまつ毛の影の長さを見つめるたび、そこらへんの女がざわめくのもわかると、うなずきたくなって仕方がない。
(俺なんか普通だよねえ・・・)
身長と筋肉こそあるが、それは荒事で鍛えたものなので声を大きくして言いにくい。
荒事に慣れた男というのは、往々にしているものだし、いくら穏やかそうに見えても、男という生き物は人生に一度ぐらいは荒事に直面するときがある。それらを鑑みれば、飛びぬけて個性があるような類の人間ではない。
しいていうなら、という程度で井村自身の特徴を上げるならば、どちらかと言えば切れ長めの目は、剣呑に見えるという点ぐらいだろうか。そういった点が、見た目の穏やかさとは程遠いといえよう。
井村がにこにこと笑っていても、時折ごまかされないものを恋人が目ざとく見つけては、咎めるようににらんでくる。
井村からしてみれば、自分を見ているという裏返しにますます口の端が緩んだりするのだが、そこを見てくれる子ではない。そこはさみしいなあと井村はいつも思っている。
(と、ここらへんかな・・・)
車を走らせた先は横浜だった。開港の歴史を紡いできたこの地は、財力と人間性だけは豊富だ。どこにいても海の匂いがするし、日本と異国の混じった独特の文化がある。
恋人がいると思われる山下公園の海沿いは、デートスポットとして有名だ。だが、夏の暑い夜には人も少なかった。
木の多さで影を作り出されるそこは、神奈川県庁の前でもある。日中ならば人もいたのだろうが、暗い港近くに人気はない。良い子は一人ではふらついたりしないだろう。ただでさえ繁華街である中華街が近く、治安がいいかどうかといえば微妙である。
道路で適当に車を止めて降りた。まさか居場所を特定されるなんて思っていないだろうな、と思うと、していることの罪悪感がわいて出る。
(でもなあ、心配なんだもんなあ・・・)
いざとなれば、こんなことが無意味だということも井村は知っている。それでも、最大限の安全を確保したいのは、好きならば当然だろう。
そのへんを保護者面と履き違えているあたり、恋人の経験のなさにうれしいやらさみしいやら、井村は複雑だった。
好きならば大切にしたいし、守りたいのは当然だ。決して幼さをすくい上げているのではなく、好意ゆえのものなのだと、少しぐらい思い上がってくれないものか。
そうは思うけれど、まあ、難しいだろうとあっさりとあきらめてもいる。
(あのこ、あたまで色々考えないとだめだもんなあ・・・)
重たい溜息をこぼしながら、港際の道路沿いを歩く。
恋人の人となりを表すのなら、典型的な男らしいタイプだと井村は思う。口で言いくるめたり、理屈をこまごまと考えるよりは、基本的に拳の代わりに足が出るのがその証拠だ。
ようは感情主体の生き物なのだ。だから好き嫌いで根本では判断しているくせに、本人にはその自覚はまったくない。
潮交じりの空気は熱さと水分を含んでいて、息苦しさすら感じるほどだ。夜だから気温が下がってこの程度で済んでいるけれど、日中は出歩けたものじゃないなとげんなりした。
(あ・・・)
口の端にくわえた煙草の煙が流れた。
井村が立ち止まっても、海風は容赦なくたばこの煙をさらっていく。
そんな井村からさらに先に、海際の手すりに背を預けて、ぼんやりとしている青年がいた。
白い街頭に照らされて浮かび上がる首は、血の気がない白い紙のようだ。足元に闇をまとわりつかせている姿は、まるで絵のように様になる。聖者が這いずったような、まるでずたぼろの体をしているかのように疲労感に満ちている姿は、宗教画を見ている気分にさせた。
その青年が、何人かの集団に話しかけられていた。
幼さの残る中世的な顔は、その身長と体躯に似合わず、何も知らない子供のように見える。また、さらに輪をかけてそう見せるのは、眉を伏せて話しかけられた人数の多さに、幼い子がするように不安そうな顔をしているせいもあるのだろう。
そのアンバランスさが、余計人目を引くのだ。
いい加減自覚してくれと井村の中にいら立ちがわいた。
(きれいだよなあ・・・)
す、とすがめた眼で眺めていれば、ひどく遠くに少年がいる気がした。手に入らないもののようで、ほんとうに手中に収められたのだろうかと疑問がわく。
遠くから眺めるくりんとした丸い眼が、ぞろりと一瞬でも光らなければ。
(うわうわうわ、)
やばい、と、井村は思わずシガレットをかみしめてしまった。
す、と青年が手すりから背を離す。
なんの誘いなのかはわからなかった。井村にまで話し声は届かないが、それでも漂う集団の情欲と、あからさまな秋波に気づかない少年ではない。
それでもあえて子供のように装う不自然さに、うわあ、と顔が引きつった。
ぎゅ、と青年の拳が握りしめられる。
「あーあ」
(やる気満々だよなあ・・・)
思わずあきれを声に出して、煙草を手で握りつぶした。
火の熱さを感じる前に、ぐお、と少年が拳を振りかぶる。
どご、と。
届かないが、効果音としてはそんな感じで、青年はいきなり集団のひとりの顔を、吹き飛ばす勢いで殴った。
問答無用の一撃に、浮ついた雰囲気が一気に失われる。容赦なく顔を狙う加減のなさに、仕方ないなあ、と井村の口の端が緩んだ。
『大丈夫って言ってたから、平気だと思うけど・・・』
念のため迎えに行ってくれと、事情を聴いた電話で頼まれて、なるほどと納得する部分もあった。
彼の予定を聞いてはいたので、昼過ぎには戻ってくるはずだった。それなのに素直に予定の時間に帰ってこない理由としては、十分すぎる理由だ。
古賀からの電話で、少年の心の一部が砕けて戻らないことを知れば、帰ってこないのも許せた。
『まあ、小林君だし・・・』
大丈夫だろうという古賀に、あとは任せてくれ、とにこやかに電話を切った。
大丈夫、と言いながら帰ったのは実に少年らしい。
作り上げた外面は相変わらず強固な理性で揺るぎもしない。そう見せるだけの彼の精神力は、本当に19歳とは思えない強さだ。
それでも。
彼の人生は、いまだ20年も経過してはいない。
彼をすくい上げて、彼が幸せを享受した時代そのものの一部が、とうとう失われてしまった。そのことに平然として耐えきれるほど、成熟しきってもいない。
その予兆はずっとあったのだ。それでも彼は絶妙なバランスの中で、日常を保っていた。
仮初でしかないと、青年は知りながら。
気のせいだと、少年は眼をそむけながら。
降りかかった偶然の不幸は、絶妙なバランスで立っていた彼の周囲を無茶苦茶にするだろう。来なくともわかるその未来に、井村は胸を躍らせつつ、かわいそうに、とも思った。
彼が思いを寄せるものが減ったのは喜ばしい。
それでも、彼が悲しむのは、可哀そうだ。
相反する思いを抱えつつ、それでも迎えに行くのは当然のことだった。
「大丈夫、ねえ・・・」
遠く、距離を置いて気配を消す自分が、かなり悪い顔をしている自覚はあった。
集団の誰一人として逃す気はないような少年の荒ぶり具合に、井村はひっそりと口元を歪ませる。
殴って。
殴り。
殴る。
顔も腹でも腕でも、声をかけたことこそが悪いのだと、それこそ事故か何かのように相手を痛めつける。
その余裕と節操のなさが、不憫だった。
理不尽さを体現しながら、それでいて少しも楽しそうでない少年が可哀そうだと、井村は笑った。
携帯端末を取り出すと、人払いと、人の処理を命令した。さすがにこれで警察が呼ばれて、いつも通りの対応ができるとは思わない。
集団のあらかたが地面に伏したころあいを見計らって、あえて靴音を立てて、井村は近寄った。
最後の一人の襟首を、逃がさないとつかんでいた少年は、井村に気づいたようだった。
ぐい、と乱雑に襟元を引き寄せて道路とは反対に放り投げる。ひい、と恐れおののいた声を上げた集団の一人など構いもせず、無表情に井村に視線を向けた。
「やあ、かわいこちゃん。ご機嫌いかが?」
あえて煽るような言い方を選べば、青年は赤くなっている拳を握りしめた。殴りつけた相手の血だけではない赤さが痛々しいなと思いながら、緩めた口元を引き締められない。
色のない黒い瞳は、感情が図れなかった。そこには何を考えているかを悟らせないようにするためか、あらゆる光を飲み込む黒色がじっと鎮座していた。
「・・・」
ふわ、と姫が愛しい人を見つけたように、青年が微笑んだ。
街頭に白い肌が照らされて、色なく光悦と微笑む姿に、井村はぞっとした。
真夏の海辺、暗がりの港町だ。今の季節は夏。その熱さにめまいさえ起こすような日常だというのに、まるで極寒の中で雪女に出会った気分だった。
ここは雪山かと、井村の背筋にぞわぞわとしたものが走る。それが単なる寒気ではないと理解しながら、すぐに情欲につながらなかった。
ひたすら白い肌が、人工的な明かりでモノクロだ。女でないのに、口をわずかに開けて微笑む姿は、あでやかだが無垢な姫のようだった。それと反するような、雪山で男を誘い、その命を落とす妖魔の類のような怪しさが影にまとわりついている。女ではないが、どこまでも落とすような、まるきりその性質をなぞるような美しさが目を奪う。
じっとりと背筋に走る熱気に、体まであぶられるようだ。女ではない女の集約の形を目にしている。それは歌舞伎の女形のような、女でないのに、まるきり性質のなぞられたそれを、男にしか表現できない女そのものを見ているかのようだった。
それはときに目を奪うような、美しさだけを集約した、生々しくはないが、いびつな女の形だ。
(ああ、)
無意識に口の端をなめて、井村はその色気に充てられたことに気づく。
これだからこの少年はたまらないな、と井村は思う。
ときに相手を拳で痛めつける手段を知りながら、こうして壮絶な女のような歪さで色をにおわせる。
ましてや、その手のことに免疫も何もなかった青年にそれらを教え込んだのは井村なのだ。
その事実だけで、まるで情事のようにぞくぞくして顔が緩みそうになる。そこに滲む殺意や苛立ちがあるからかろうじて平静を保っているが、今すぐ路地裏に連れ込みたいぐらいだった。
(たまんねえなあ・・・)
青年の色ごとをにおわせる顔が、井村は最高に興奮するのだ。
これは自分が教え込んだのだ、と。
そう思わせてくれるから余計に。
井村が教えて、飲み込んで、鮮やかに体現する。その姿は、彼に対する井村の征服欲を満たしてくれた。
そうでなければ、井村の恋心はいろいろとしてしまいそうだった。今のところ暴走せずに済んでいるのはそういった部分が大きい。こういうところが本当に井村を健全たらしめていると思う。
彼はわかりやすく、きっと彼自身が自覚するよりも、井村を特別扱いしてくれる。だから不安はあまり感じずに済むし、余計な勘繰りもあまりせずに済んでいる。
(まあ、心の明け渡し先が、わかってるってのもあるけど・・・)
場違いな自分の興奮具合に、いかんよなあ、少し冷静になった井村が、にこにことしていれば、ふ、と青年の姿が消えた気がした。
「おおっと?」
ぱし、と顔に向かってきた拳を手のひらで受け止めると、ぎょろりときれいな顔ににらめつけられた。
「・・・こっわいかおぉ~」
近くで見た黒い目には、不安と、絶望と、悲しさがないまぜになっていた。それを見つければ、井村の体の興奮は冷めていく。
井村は、貞操観念などそこら辺の雑草より低めな自覚があった。生きざまが生きざまだ、というのもある。だが、それにしても楽しいことを覚えすぎていた。そのうち少年の殺意にも興奮できそうだなと井村自身うっすら思っている。
だがしかし。
さすがにぐちゃぐちゃになっている恋人を前にして、そういうことに誘うつもりはない。いくら体ともども楽しいことに弱くとも、わきまえられるぐらいの分別はあった。
「・・・な、よしき」
硬く、知られたくないと強く握りしめた拳がいたそうだった。だから大丈夫だと伝える代わりに、握りしめた拳から手首を握って、そのまま、ぐい、と井村は彼を自分のそばに引き寄せる。
手を首の後ろに回しても、まるで力の抜けた人形のようにぐったりとしていた。腰に手を回して、力の抜けた体を預ける恋人を腕に抱く。
「な、ほら、大丈夫か」
いつもなら大丈夫ですけど、とつっけんどんに返してきそうな唇は、色なく言葉を探した。少し開いては閉じて、そして結局、探るように井村を下から見つめてくる。
「・・・ねえ、しませんか」
すう、と息でも吸うように、小林は口元を歪曲させて、回した腕に力を込める。
空いた腕も井村の首に手を回すと、井村の口の端に小林の唇で触れた。
井村が首に回された腕の強さに顔を下げると、花を見つけた姫のように黄色い声を上げて、けたけたと笑う。
首筋をべろりとなめられて吸われる。色事に積極的でない小林がそれだけのことをしているという事実に、また性懲りもなく体が熱くなりそうだった。
「・・・ッ」
(あーあ・・・)
はあ、と重たい息を吐いて、井村は遠くを見つめた。
体はもう抱えている熱だけで、いつでもことに及べそうな勢いだ。昨夜だってしたのだし、まあ多分体は特に問題ないだろうなと冷静に井村は思う。
だけど力なく縋る少年が、そんなことをしたくてしているわけではないのは、よくわかってしまうのだ。
どうにか熱をそらしたいと視線だけ遠くに投げる。
視線の先では呼び寄せた部下が、少年がぼこぼこにした集団を回収していた。
まったく、と腰を抱える腕に力を込めた。
端から見たら、カップルがイチャコラしているだけだろう。
だというのに、悲しいかな、井村はひたすら我慢を強いられている。
「・・・ねえ、・・・しょうご、さん」
誘うように上目遣いで見つめてくるのがたまらなくて、井村はへにょりと眉根を下げた。少しぐらいはいいだろうかと、そっと口づける。
推し量るような小林の視線が絡んだ。黒い眼は、ちがうと言わない口の代わりに、いやというほど言葉を伝えてくる。
そのまま小さなくちの中に、舌までいれてぐちゃぐちゃにしたいという欲望に打ち勝って、井村は触れるだけのものにした。なだめるようなしぐさに変えて、なでる代わりにゆるりと抱きしめる腕に力を込める。
できもしない誘い方で、もうするなら何もかもわからなくしてくれと懇願するような眼だ。小林のそんな心の内が分かるから、もう何が何でも耐えきってやるぞ、と井村は決意を固くした。
「おれを、だいてよ。せっくすしようよ」
言いなれない言葉は、ひどくたどたどしくて、常ならば井村はさらに煽られただろう。据え膳食わぬは男のなんちゃらで、ここまでおいしそうに懇願されたら、ホテルすっ飛ばして車のなかでいただいてしまいそうだ。
でも、色のない白い紙のような顔が、泣いてないことを知らせるから。
だから、したくないと、踏み潰してしまいそうなゆるい理性で耐え抜いているのだ。この時ばかりは己の雑草程度しかない貞操観念が恨めしかった。
(まったく・・・)
小林は泣きたいからセックスに走りたいだけだ。受け身になって、よがり狂いたいだけだし、それができると知っているから井村にこうして懇願してくる。
わかっていて、それを選んでくるあたりが本当にかっこよくて参ると井村は小さく息を吐いた。
計算高くて、利己的で、そういうエグさは本当に見込みのある男だ。
自分の顔もよくわかって割り切れているし、自分のしたいことを並列に並べて、効率の良さで妥協点を見つけられることが本当にうまい。
時に手段を選ばないその思い切りの良さは、本当に男らしくて、見た目のきれいさを除いたって、女からモテるに違いなかった。
井村だってそういう思い切りの良さがかっこいいなあと思うのだから、頭の良い女ならば気づいて好感を持つに違いない。そのことが分かるから、心配だと井村はよく思う。
「・・・だめだ」
しない、と言い切れば、小林は目を丸くした。
そういわれると思っていなかったのか、小林はうろたえて、じっとこちらを見つめる。黒い眼が、探るように井村を見つめていた。
「絶対、嫌だ。それはしたくない」
「は、はあ・・・?」
ふざけんなよ、と言いたげな顔で、小林は口の先をとがらせた。あからさまに誘うような顔を引っ込め、苛立たし気に目を吊り上げる。
はあ、と井村は重い溜息をついた。
「ともかく、その理由でセックスはしません」
井村はぷいと顔をそらした。小林が腕の中から逃げる気配はないので、これぐらいは大丈夫だろうと、拒絶を突き付ける。
「・・・あんたな・・・」
腕に回っていた手が外れて片手が井村の顔をつかんだ。両頬をつかまれて、ぐい、と顔を戻される。
「いつもしようっていうのは、あんただろ。そういうことをできる関係じゃないんですか」
(でもねえ・・・)
腕に囲った少年が、どれだけめちゃくちゃになっていても愛せる自信のある井村としては、誘われたらすぐにイエスをだしたい。というか、もうだいぶ我慢レース中だ。
何をどう言われても視界に入れた時点ですでに食べてしまいたい。それにもう、このきれいな顔が壮絶な色気を放っている時点で体が熱いのだ。していい関係なのだから、別に構う必要なんてないことぐらい、井村のほうがよくわかっている。
けれど。
でも。
「そうだなあ。けどねえ、愛のないセックスなんかごめんなんだよ、俺は」
言葉の意味に気づくほど、小林はその手の駆け引きに慣れてもいない。いまだ、井村がいろいろなことを教えることのほうが多いのだ。
「・・・あいのないせっくす・・・」
わからないと言いたげに復唱する小林に、井村はにへら、と相好を崩して笑った
「歩けるか?近場にホテル取ったから行こうか?」
いつまでもこんなところにいて抱き合っているわけにもいかないだろうと言えば、その言葉に小林は首を傾げた。
「は、あ・・・?するの・・・?」
『ホテルに行く』をそういうことの誘い文句だとわかるようになった。その事実にずいぶん成長したんだなと井村は人ごとのように思った。
この年でその言葉すらいまいちピンとこない小林が、少々潔癖という面も否めないのだが。
「しない。普通に寝るだけ。だって家にいっても、のんびりできないだろうし」
ゆるく腕の拘束を外すと、小林は首をかしげながら離れた。
ぐったりとした様子もなく、強固な理性でいつも通りだ。
そのように見える程度には落ち着いたらしい。
並んで車まで歩きながら、まあ、いつも通りに見えるだけで、その皮膚の下はぐちゃぐちゃだろうなと井村は冷静に観察する。
家に帰って、息をついて、外では張っている緊張の糸を緩めたとして、小林が穏やかになれるはずがない。外では張っている緊張の糸が緩んでしまえば、強固な理性がどろりと溶けて、混乱するだけだ。
今日、家に戻れなかったのがその証拠だ。小林の口から、今日あったことをきちんと伝えられるわけがなく、それでも聞かれるだろうからと先回りして、手っ取り早く、それをしないで済む方法をとった。
それが家に帰りたくないだろうし、素直に帰れなかった一番の理由だろう。
そして適当に逃げた先で、適当に憂さ晴らしをしたというところだ。少し遅かったら見知らぬ誰かについて行って、適当に情事に及んでいたかもしれない。
(いや、まあ、ないか・・・)
よくわからない、と井村の言葉を考え込んでいる小林は、正直、その手のことにあまり興味がない。関心もあまりないので、特に誰かとしたいという欲求にかられることもなかったらしい。
よく人は選ぶようだし、そもそも適当にその辺の人間をひっかけて、情事で憂さをはらす、という方法はしないかとも思う。
されたらされたでイラついて、正直井村は自分を制御できる自信がまったくないので、できれば選んでほしくない。
井村の職業は家の仕事を継いだものの、ヤのつく自由業だ。荒くれた世界に身を置いてきた人種をよく見ているし、女も男もそういう環境には身持ちの堅いのはあまりいない。
だから憂さのはらし方と言えば、相手を痛めつけるか、気持ちのいいことでごまかすか、の選択肢が出てくるのだ。井村も正直、気持ちいことでいろんなことの憂さ晴らしをしたことがある。
けれど。
(イライラぐらいはいいけど・・・)
小林が車に乗り込むのを見届けてから、井村も乗り込んだ。
うつむいているきれいな横顔を眺めながら、井村は少しだけ迷う。
暗い海が近くにあって、きらきらと船についた明かりが輝いていている。ざぱざぱと打ち付ける波の音も、車の中に入ってしまえば届かなかった。
「井村さん?」
視線に気づいた小林が、シートベルトをしめてこちらを見やる。困ったような顔に、どうしたもんかな、と井村も息を吐いて迷った。
「いくか。どっかで飯食う?」
ハンドルに手をかけて、前を向いた。いや別に、と言いよどむ声から、本当に食事をしたいわけではないと感じ取る。
アクセルを踏み込んで、車が動き出せば、小林は口をつぐんだ。
(わるい・・・)
心の中で謝りながら、泣かせてやるという選択肢を奪ったことに、罪悪感もわく。井村にお願いをしてきた部分は非常にうれしいけれど、それでもやっぱりそれをしたくはなかった。
八つ当たりならいくらでもしていい。井村だって、これが彼女のことでなければ、いくらでもめちゃくちゃにしただろうし、そのついでで色々な楽しいことを教えてやっただろう。
けれど。
(でもねえ、茉李さんだからねえ・・・)
彼が本当に大事に思っている部分だからこそ、井村は八つ当たりを許せない。
楽しいことで頭をばかにして、めためたにされて、泣いて、それで感情だけすっきりとする。そんなことは井村だってやったし、その手段に使われたことだってあるし、そうするほうが簡単で、楽だということぐらい、よくわかっている。
それを体験したからこそ、よくわかるのだ。
そうしてごまかしたことは、まったく古傷になってくれないことを。
セックスでごまかして、割り切れるならばそれでいい。でもそうでないのなら、そんな手軽な手段を選んでほしくないし、そんなことを覚えてほしくない。
悲しいならただ泣けばいい。彼女のことを思って、泣くだけ泣いて、そしてきれいな思い出としてしまえるようになってほしかった。
たとえ痛みをともなうものでも構わないから、傷になって、そしてかさぶたになってわずかに皮膚に跡を残すぐらいでいい。
いなくなってなお、小林の中で息づいてほしくはない。永遠に心縛り付けるだなんて、そんなことを井村は許せない。
つらくて苦しいなら、いくらだって井村は慰めてやる。ただしそれが、ごまかすものでなく、きちんと受け止めるという限定付きでだ。
(ひどいことするな、俺も・・・)
簡単な手段を選ばしてやったほうが、そういうものなのだと悟れるだろう。だからそれを許せないのは、井村の身勝手ではある。
それでも、彼の若さにはやはり、直視に耐えがたいものも、井村にはあるわけで。
うら若い青年の未来を奪っている自覚は大いにあるし、常に囲い込む努力だって惜しまない。彼の中に残るものは、できるだけ井村が多く占めていてほしい。好きというには一方的な独占欲だし、身勝手だ。
ひどいとわかっていても、井村はそういうことができてしまう人間だ。大切は大切だけれども、時に苦しめることにも喜びを覚える人間なのだ。
(楽しいことを、覚えすぎてんな・・・)
糾弾されないことをいいことに、小林に甘えているという部分もあるのだろう。
苦しいことも、苦しめられることも、面白い、楽しい、気持ちいいと変えることのできるようになってしまっている。体だけでなく、心もそうして楽に生きてしまっているから、そういう世界に身を置きすぎていると、小林を見るたびに思うのだ。
だからこそ、心を砕いて、さみしさを寂しいと言える青年はうつくしい。
(ま、しばらくはお預けだな)
煩悩まみれの井村には少々つらいなあと思う。それでもきれいな少年が、きちんと心を整理するためならば、雑草の程度しかないゆるい貞操観念を大木ぐらいに引き上げて耐えるしかない。
しかたないなあ、と重い溜息をこぼすのだった。

(死体みたいだな・・・)
すう、と小さく息を吐きながら、丸まって寝ているさまは、動かない死体のようだ。白い顔が余計にそう見えるのだろう。
理由が分かり切っているからこそ、哀れで仕方ない。
あまり顔色がよくない頬を、かわいそうに、と井村は指先でなでる。
大きなベッドに丸まっていると、小林はまるで少女のようだった。女顔というのもあるのだろう。そんなはずはないのに、とても小さく見える。小さな姫を囲っているような、そんな気分にすらなった。それはそれで間違ってもいないし、倒錯的な気分に陥って、井村は体が熱くなりかける。
昨夜は、ふらふらとしていた小林を横浜で回収して、そのまま横浜の適当なホテルに転がり込んだ。スイートルームとまではいかないものの、そこそこいい部屋を、もともと取っていた。場所を特定する前にホテルを取っていたのは、ここまででないにせよ、小林は自宅には帰れないだろうとうっすらとわかっていたからだ。
ホテルについてからも、小林は結局、何も口に入れることができなかった。
ホテルの中にあったレストランで食事をとらせようとはした。だが、気分でないから、と小林はやんわりと断った。
普段ならばそんなことを言われても適当に丸め込んでしまうだろう。小林は食べる姿が非常にきれいで、おまけに顔よりも目をキラキラとさせるので、正直眺めているのが一番楽しい時間だ。一食だってそのチャンスは逃したくはない。
だが。
普段通りの顔をしながらも、警戒心むき出しの小林にそれをするのはためらわれて、井村も強く出なかった。だから結局、スポーツドリンクやら水分を補給させて、寝かせるにとどまった。
寝る前も大変だったな、と思わず井村は昨夜を思い出して遠い眼をする。
風呂に出てから、水も滴るいい男だなと小林を眺めている井村に。
『されるのがだめなら、俺がするのでもいいんだけど・・・』
だめ?と下からかわいく覗きこまれて、年甲斐もなく顔が熱くなった。顔色は変わっていなかったのか、小林にそれを指摘されることはなかったことが、唯一の救いだった。
指摘されていたら、どういう理由で赤くなっているのかを体に教え込みそうだった。
『・・・しょうごさん』
ねえ、という小林に、甘ったるく呼びかけるな、と怒鳴りたい気分で、井村は視線をそらした。そして大きく息を吐いて湧き上がったあれやこれやを鎮めた。
もう井村としては完全にニンジンをぶら下げられた馬の気分である。
ずっとおいしそうだなあと思っていた。それが、好きだなあ、欲しいなあと自覚してから、それはもう、じりじりと時間をかけて、腕の中に落とすというところまでいかないまでも、その肌に触れてよい範囲まで近づけたのだ。
付き合うまでに、体で落とすところから始めなかった時点で、もう井村には信じられなかった。この子は違うからと、普段ならばしないような計画を練り、性格をきちんと把握することを務めた。
何度襲ってしまうかと思ったか、数えることなどできはしない。
それでもやり切ったのだ。
好きだなあ、ほしいなあ、と自覚をしてからも大層長いこと、我慢を強いられていたが。
『・・・』
これからも『これ』に耐えるのかと思うと、味を知らない頃よりしんどい気がした。本当に耐えきれるのか、と小林を目の前にして、雑草のような理性はぶちぶちと抜けて行ってしまいそうだった。
それでも。
『・・・しません。しねえっつったらしねえの』
視線をそらしながら、濡れたままの髪を、小林の首にかかったタオルで拭いた。
何も知らないような顔をしている少年に、頭が狂いそうな、おぞましいまでの淫らを教え込んでやりたい。
楽しいことにもっともっと弱くなればいいのにと井村は思う。それがないとだめだというくらい、頭をおかしくさせたい。
そこまで落としてやりたいなあ、と思う。
けれど。
白い顔を眺めていれば、やはり、ためらいはでてくる。
ただでさえ色恋に興味や関心がない人生を送ってきている小林だ。自分で律していたにしろ、この年まで無関心を貫いていれば、それは性質に近いものになっているだろう。
多感な時期に、そういう方面へ流れなかった、という事実が、小林をきれいにさせている面もある。
そんなきれいなものに、頭がおかしくなるほどの快楽を教えてやるという言葉だけでも、背徳感がある。まるでとてもいけないことをするような、白い砂浜にごみを捨て去るような、そんな気持ちになる。
だからずっと、その手のことは、井村は手加減に手加減を重ねていた。
そんなことを覚えてしまった小林が、井村以外の他人への選択肢を広げてしまったら困るというのもある。気持ち良ければそれでいいからと、自分以外を選んだ際に、小林を生かしておけるかどうか、井村は不安だった。
だから持ち得る手管で落とさなかったのだ。
とはいっても、そういったことに不満があるわけではない。井村が基本的に役割的には女役なのは、小林を追い詰めすぎないで済むという面もある。きれいな顔のきれいな青年を押し倒して見下ろすのは、背徳感と罪悪感でどうにかなりそうだった。主に興奮しすぎるという意味で。
(考えるだけでもやばい・・・)
はあ、と重たい息を吐いて、井村は波のように押し寄せる熱をやり過ごす。
(別にいいんだよな、これで)
小林が男らしい顔で自分を求めてくるところには最高に興奮するし、井村からしてみればどっちの役割なんてわりとどうでもいい問題だ。
そもそも、小林のガードがかなり固いことは十分に理解している。
色恋を初めてとして、自分の手先の器用さとともに、大部分の心を拾い上げた男に明け渡しているからだ。小林の心は大部分がそれらに占められていて、他の余分なものは入る隙間がない。それは、ほかは興味がないということの、裏返しでもある。
それを思い出すだけでもイラっとするのだが、一番嫌いな男はすでに過去になっているし、それに引きずられる原因も過去になったので、すぐに落ちつく。
それでもちりちりと頭の端で焦げ付くようないら立ちを抑え込み、昨夜、井村は髪を乾かしてやり、ベッドに押し込んだ。すると、小林は疲れていたのかすぐに目を閉じて静かな寝息を立て始めた。
きれいな顔が寝ている間に、暴れて傷めた手のけがを処置しながら、まあ、これが限度だろうとあきらめもした。
ただでさえ、今の小林は警戒レベルが引き上げられている。井村から何か聞かれるのではないかと怯えるような警戒心むき出しの状態だ。
そんな小林にいろいろと押し切れるわけがない。強く出れるのは、せいぜいセックスを求める声に、応じないことぐらいだった。
(困った子だな、ほんと・・・)
小林が寝た後に外へでて、服をはじめ、いろいろとそろえた。その間に、仕事に関する電話が入ってきて、仕方なく顔を出した部分もあったけど、もう気が気ではなかったので、そうそうに小林のもとへ戻って寝た。
何もしないけれど、一人寝でもないのは久しぶりだった。きれいな顔がすよすよとそばで寝ているだけでつらく、右手と久しぶりに仲良くしないといけないのかと思うと気も滅入った。
けれど。
それでも。
自分の好意と愛を受け取ってくれた存在が間近にいるという事実をかみしめると、泣きそうだった。
(・・・よかった)
小林の心の明け渡し先も、また一つ、過去になったのだ。
ひどいことなのはよくわかっている。
彼がとてもつらいことも。
それでもうれしいのは、周りに嫉妬してもいい立ち位置にいるから仕方ないと思う。彼が好きで、井村はそれを許されている。
ベッドに横になって、眺めた先の、いまだ幼さを残す青年がうつくしくて、井村はたまにどうしていいかわからなくなる。
小林はガラス細工みたいだった。
たまに硬質で、許せないことだっていっぱいあったりするのに、透けて見える時がある。それだけいろんなことを、許せるか許せないかを判断しながら、感情との折り合いをつけるべくいろんなことを考える。たまに強い衝撃で、ひびさえ入ってしまいそうな不安定さで、それでも人の手にはあまる強さと硬さだ。
折れないことも、曲がれないことも時には必要だ。男ならば特に。そういう物が必要な時は多い。意地と根性で切り抜けねばならないときもある。
でもガラスだから、そこに陽の光が差し込めば、きらきらと輝いているのだ。
その善良さを、井村は時にまぶしく思う。
うとうととそんなことを考えながら、ただそばで眠ったせいか、朝は早くに目が覚めてしまった。
(朝はたべれるだろうか・・・)
いまだすやすやと夢の国の住人のままの小林を眺めて、昨夜買いそろえた食料に視線を送った。
ぼんやりと考え込んでいれば、ブー、と充電をしていた携帯端末が震える。井村が立ち上がって着信先を確認すると、古賀からだった。
(どうしたんだ?)
とりあえず電話に出てみると、古賀はおはよう、ときちんと挨拶をした。
「おはよう。どうした。ずいぶんと早くに」
『ああ、朝からすまない。その、昨日の件で・・・』
言いにくそうに声のトーンを落とした古賀に、ああ、どうしたんだ、と井村はあえて軽く問いかけた。
『その、昨日は小林君には、茉李さんの葬儀の手続きはこちらでやると、そう言ったんだが、みんなに連絡したときに、彼女の面倒をよく見ていたのは小林君なのだから、締め出すのはどうかという話になって・・・』
古賀が気乗りでないのは、その口調から十分察せられた。
他の誰かから出た意見で、古賀自身はその意見には賛成ではないようだった。
言葉の端から、小林が追い打ちをかけられたのはそういう部分もあったんだろう、と井村は推察した。箱崎の時は小林がすべて手続き関係は行ったという話だから、今回も小林はそれをしなくては、と考えたに違いない。
そして口にしていれば、古賀だったら止めたはずだ。
おおよその昨日のできごとが理解できた井村は、ふうん、と相槌を打った。
ちら、とベッドのほうに視線を向ける。するとちょうど、ベッドの上で、芋虫のようにうごうごとしている姿が視界に入った。
どうやら声で起きだしてしまったようだ、ここで詳しい話はできないな、と井村はすぐに打ち切ることにした。
「費用の件もあるし、一度打ち合わせしよう。今日このあとは?」
大丈夫だ、という古賀に、じゃあ、詳しい時間と場所については改めて、と伝えて、電話を切った。
さて、どうするか、と携帯端末を眺めていると、井村さん、と声がかかった。
視線を向けると、若干眠そうな小林が、上半身を起こしていた。
寝ているときもそうだったが、顔色は優れない。
ベッドに腰かけると、井村はおはようとにこやかに笑いかけた。
「悪い、少し用事が入ったから、出てくる。終わったら戻ってくるから、昼頃ここにいてくれ」
「・・・井村さん」
小林のぼんやりとした声は、感情が図れなかった。まだ眠いのか、と顔を覗き込んでも、うつむいていて、こちらを見ない。
「どうした?」
「・・・俺たち、付き合ってるんですよね?」
朝の挨拶より先に、確認するような言葉がきた。違和感を覚えつつ、そうだな、とうなずく。
嫌な予感がした。
なんでそんなことを確認するんだ、と井村はひやりとする。
「・・・あの、」
小林はうろうろと視線をさまよわせた。何か言葉を探すような、ためらうよな、迷うような姿に、いやな予感は高まる。何が言いたいのかまでは察しはつかないものの、ひどいことをされるような気がしてならない。
小林は、しばらくしてからようやく井村を見た。
だがその顔はいつもの強固な理性をまといすぎていて、感情が図り切らない。困っているような顔をしているが、本当に困っているのかどうか、あえてそういう顔を装っているのか。寝起きのぼんやりとした顔付きも相まって、井村にはこれから何を言おうと決意したのか、わからなかった。

「・・・俺と、別れてください」

「・・・・・・は?」
だから言われた言葉が、本当に分からなくて、井村はそんな声を上げてしまった。
理解できずに、思わず小林を眺めて固まる。意味が分からずに、わかれるってどういう意味だったっけ、と言葉の本来の意味すら考えてしまった。
(なんて、いった?)
この少年は、寝起き早々、何を言ったのだ。
わかれる。
その言葉の意味を、むしろ小林こそわかっていないのではないか、と思わずそんなことを考えてしまう。
「ちょ、ちょちょ、ちょっとまった。は?なに?意味が分からねえんだけど、」
どういう意味かというのは、言葉の意味ではなくて、単純に理由を知りたかった。そういう趣旨だった。
だが小林は。
「おれとの恋人関係、終わりにしてください」
きれいに言い直した。
「ふざけんな!」
きれいに言い直された言葉に、井村は思わず怒鳴った。いい部屋なので外に聞こえることもないだろう。
そうではない。
そうじゃない、と心の内で連呼しながら、井村は頭を抱えた。
さすがにいくらなんでも意味が分からなさ過ぎる。どういうことかと井村は年下の恋人を眺めた。ぼんやりとはしているが、それでも服を着こんだように、その目には理知的な光がある。
どういう理屈にせよ、小林は小林なりにある程度の理屈を立ててそう言ったに違いない。それが感情由来だとしても、なにかしらの理由は作っているはずだった。
それがこれだ。
朝、起き抜けで。
おはようという挨拶よりも早く。
別れてくれという。
(どういう回路でそうなった!?)
昨夜の行動も言動も、どうひっくり返しても、何がどうなってそうなったのかわからない。どういう経路をたどれば、茉李が死んで悲しくてつらいから、自分も別れようになるのだ。まったくつながりがわからない。
何がいけなかったのだ、と井村はぐるぐると思い返す。
そんなに琴線にふれたのだろうかと思い返した。
そしていやな事実に気づき、思わず目をすがめる。
職業柄、脅すことには慣れている。きつい顔をすれば、顔色を窺われることも多いというのに、小林はそんな顔にも動じない。
いら立ちがぼこぼこと湧き上がり、井村ははあ、と重い溜息をついてしまった。
「ああ・・・そう・・・」
こぼした声は、恫喝をするように低かった。だがもう、目も据わり、そんなことに気を回している余裕など井村にはみじんもない。
とん、と小林を押し倒した。ふたたび柔らかなベッドに沈み込んだ小林の上に馬乗りになって、手首を押さえつける。
小林がどこにも逃げられないように、威圧的に上から見下した。
いっそ本当に頭をおかしくしておけばよかったと井村の中に苦い後悔が沸き起こる。
手加減なんかせずに、貞淑な脳みそに、おぞましいほどの淫蕩さを覚えさせればよかったのだ。そうすればもう逃げられないし、戻れない。そんなところまで落としておけばよかったと、井村はひりついた心で思った。
心のうちは全く穏やかではなかった。自分でもひりついているのが分かるし、さすがの小林も、そんなことを察せないほど鈍くはない。
井村はひどい顔をしているはずだった。
それなのに、そんな井村の視線にも怯まず、小林は静かに見つめ返している。
「・・・・なに、俺がセックスしねえっつったのがそんなにダメなわけ?抱かれたいの?」
それ以外心当たりがないと、わざと嘲るように口にする。
どれだけ我慢に我慢を重ねたと思っているのだ。その体にそういうことを教えたのが誰なのか、本当に小林はわかっているのだろうか。
井村が教えて、この手で覚えこませたというのに。
それなのに。
たかがセックス一回断った程度で振られるとは、その程度かと思う。そうであれば、井村はもう泣けてくる思いがした。
我慢したのが馬鹿みたいだと自嘲すらわいてくる。好きなひとを目の前にして反応しない男がいるわけがない。そんな奴はポンコツだ。
「そんなに気持ちいーことに弱いとは思わなかったわ・・・つーか、だって、してくれないからほかに行きたいってことでしょうがよ。ああ、そう。そんなに気持ちいーことしたいならしてやろうか、頭おかしくなって、日常生活難しくなるぐらいに」
はああ、と重たい溜息を吐いて、思わず顔を伏せた。
昨夜、拳をふるったあとに誘ってきたとき、ちがうと叫んだような眼をしていた。普段の行動から考えても、ちがうと叫んでいるのはほんとうによくわかる思いがした。
だというのに、こんなことを言われるというのは、結局は井村の読み間違いだったのだろう。
せっかくのお誘いを死ぬほど我慢した。
雑草みたいにゆるい理性を総動員して耐えた。
まあ、そんなことですっきりすることなんて覚えさせてやるかという若干の身勝手さもたしかにあった。そもそも茉李のことで盛大に心を動かしているのが気に食わなかったから、当てつけのようないら立ちもあった。
それにしたってそれだけで昨日の今日で振るか、という気持ちでいっぱいだ。
怒りよりも悲しいやら情けないやらで、正直井村は言葉がなかった。
「相手、だれでもいいんだろ?だったら俺でいいじゃねえか。俺だったら、気持ちいことだけ覚えさせてあげるよ。もういやだっていうくらい、気持ちいいことを教えてやる」
なあ、と井村は頭を上げて、小林の顔を覗き込んだ。
「・・・」
井村の言葉に、小林は絶句していた。
目を丸くして、驚いている。
なんで小林がそんな顔しているんだ、泣きたいのはこっちなのに、と言いたくて、井村は抑えた。
泣きたいだけにしては、ひどいことをした自覚があまりないようだ。小林は井村を現在進行形でずたずたにしているというのに。
まあ、井村のほうがひどい男なのは言うまでもないのだが。
「・・・なあ、なんども言うけどさ、俺は好きだよ、芳樹が」
そっと小林の手首から手を離して、頭をなでる。
「愛してる。だから頼む、俺を締め出さないでくれ」
その目にはっとしたように、驚きが浮かんだ。
けれど言葉を探すように、先ほどの言葉を撤回しない。
どういう回路でそう言ったのかわからない以上、あまり強くは言えない。それでも伝える部分だけは伝えておかなければと、井村は口を開く。
「気に食わないとこととか、いやなところがあれば言ってくれ頼むから。なんで別れてほしいんだ?すくなくとも俺は、納得できる理由がないまま、はいそうですかなんて言えねえよ」
まあ、それ相応の理由があったとて、はいそうですかをするつもりはないけどな、と井村は心の中で付け足す。
正直、小林に他に好きな人ができたといわれたら、相手をじりじり追い詰めていくぐらいはやるだろうと思っている。井村の恋の病は自覚できるほどに重症だ。
「・・・まさか、付き合ってると思ってなかったとか、そういうことは言わないよな?」
確認してきた事実を振り返って、恐る恐るその可能性を口にすれば、さすがに小林は首を振った。
「ちがう・・・」
ぱさぱさと白いシーツの上で髪がはねる。否定の言葉が帰ってきたことにほっとして、井村は表情を緩めた。
「・・・ちがうんです・・・」
消えそうなか細い声で、小林が否定の言葉をこぼす。目をきつく力を入れているのを見れば、泣きそうな顔をしているように見えなくもない。
「・・・うぐ・・・」
小林の弱々しい姿に、井村は思わず小さく呻いた。
普段は過激な面もあって、叩かれたら打ち返すぐらい気概のある男らしい小林が、困ったように泣きそうな顔をしている。
そんな顔すらかわいくて仕方ないのだから、もう井村の恋の病は不治の病かもしれなかった。
(ぎゃんかわ・・・)
今すぐ、よしよし、怖かったな、と慰めてやりたかった。もう言わないな、と言質だけとって、めそめそとする小林を甘やかしてやりたい。
と、何を言われたかがすっぽ抜けていきそうになる。
すぐにはっと我に返り、井村は顔を引き締めた。
(いかんいかん・・・)
今は別れ話を切り出されていたんだった、とすぐに冷静になる。
長いこと小林を思い煩う時間があったせいで、新しい一面を発見するとすぐに思考が飛んでいく。いい加減この癖をどうにかしたいと、この時ばかりは本気で思う井村だった。
(いや、まあしかたないよな?すきだし)
それでも井村の思いが届かず、絶賛別れ話の最中である現実に戻れば、なんだかなあ、という気分になる。一方的なのはわかり切っていたけれど、ここまでだとはさすがの井村も想像していない。
(よくある、こんなにすきなのに、がちょっとわかる)
報われない想いほど救われないものはないな、と井村はちょっとセンチメンタルな気分になった。
「・・・ねえ、井村さん。俺は、・・・そういうのとか」
小林が困ったように視線をそらして言葉を絞り出した。
「・・・その、あの・・・ほんとうに、よくわからなくて、だから、俺・・・」
はあ、と重たい息を吐いて、井村はその言葉の続きを吸い取った。唇に触れるだけは拒まれない。それをいいことに、慰めるようなキスだけを繰り返している。
(あ~したいれてえ~)
雑草のような理性をかき集めて井村はすぐに顔を離すと、体も一緒に離した。
「考える時間が必要なのはわかる。俺もすげー頭にきてるから、ああそうですかっつって、オーケーもできないし」
だからな、ちょっと冷静になろうか、と井村は立ち上がった。
正直な気持ちとしては、今すぐ小林の腕を縛り上げて家に監禁して、もう言葉もろくにしゃべれなくなるぐらい犯したい。そんな気持ちでいっぱいだ。
でも腕を縛っても小林は気合で抜け出しそうだし、よしんばそれを受け入れたとして、余計ぐだぐだになることなんてわかり切っている。
「ここ、夕方17時ごろまで取ってるから、好きにしてていい。昼過ぎぐらいには俺は戻ってくる予定だけど、もうここにいてくれとも言わないよ。自由にしてていい」
だから、井村はあえて囲わずに手を離す。
「横浜、散歩しててもいいし、家に帰っててもいい。だけどまあ、夜には迎えに行くからそれだけな、わかっといてくれ。あとはなんかあったら連絡してくれ」
椅子に掛けたままのジャケットを羽織ると、必要なことを告げて、にこやかに笑う。目が笑っていなかったかもしれないが、そこはご愛敬だろうと井村は自分で思った。
「・・・うん・・・」
ぼんやりとした小林の返事が、少し心配になった。
それでもこの理論が大好きな感情生物に、考える時間は必要だ。
それに井村も、すこし冷静になる必要はあった。
「着替えは新しいの置いてあるから。部屋には水分しかないけど、財布に金入れといたから、好きに食べてくれ。ルームサービスを頼んでもいいし」
じゃあ、行ってきますと、と必要なことだけ告げて、井村は足早に部屋を出た。必要最低限の、ホテルのルームカードと携帯端末が手元にあるのを確認すると、出てくすぐ、ドアに寄りかかった。
井村はち、と舌打ちをして、その顔から作っていた表情を消した。ごっそりと表情が抜け落ちた顔は、相当剣呑だったようだ。
廊下を通り過ぎたホテルの従業員は、さっと視線をそらして頭を下げた。
(クソ・・・)
小林がいればまぎれていたいら立ちも、その姿がなければむき出しだ。
どうして別れ話を切り出されたのかわからない以上、ああするしかなかった。
精一杯の虚勢を張った最善の策だと、井村は自分で思う。
(くそくそ)
それでも、納得はできない。
壁をぶち抜きそうな勢いで殴りつけてしまいたくて、必死でこらえながら歩き始める。
古賀には昼頃に新宿で待ち合わせようと連絡をした。
そしてもう一つ、普段使うものと同じ形をした、別のスマートフォンを取り出す。
通知がずらりと並んだそれを眺めて、井村はさらに目をすがめた。ちょうどやってきたエレベーターに乗り込み、通知を眺める。
一階につくなり足早に地下の駐車場に向かった。すぐに新宿に向かいたいところだったが、そうもいかない仕事の多さに、辟易する。
地下に作られた駐車場は夏場だというのにひんやりとしていた。地上は真夏の日差しが人間すら焼きそうな勢いで降り注いでいるというのに、外とは思えない冷たさだ。
まるで死体が埋まる土の下のようだ。ここに肉が放置されても多少は腐らないに違いない。井村はポケットに詰め込んだ煙草を取り出した。最後の一本だったようで、ソフトパックの中身はやけに軽く、すかすかだった。ぐしゃりと片手で握りつぶすと、ぽい、と壁に向かって放り投げる。
白くて細いシガレットを口にくわえ、かちりと音を立てて、火をつけた。音一つがやけに響くから、駐車場では悪だくみは向いていない。
火気厳禁の張り紙を無視してライターをポケットにしまい、自分の車のもとまでポケットに手を突っ込んだまま歩いた。
当然のように車の後部座席に乗り込むと、ゆっくりと足を組んだ。
はあ、と白い煙を吐き、煙に含まれた毒を口から再度ゆるりと吸い込む。
「さっさと出せ」
低く命じると、おやおや、とサイドミラー越しに、視線を投げられた。
「ずいぶんとご機嫌がよろしくないようで」
運転席に座った黒いスーツの男が、眼鏡を通して笑う。
その視線に一瞥を向けると、さっさとしろという代わりに助手席を蹴飛ばした。助手席に座ってぐーすか居眠りをしていた男が、んあ、と声を上げた。
「あうぁい。おあよぅ・・・あ~ぃ」
見た目はアイドルにいそうなほどかわいらしい顔をしている少年なのに、蹴られたことに文句も言わずににこにことしている。赤子のような声を上げて、元気よく返事をする少年を無視して、井村は運転席の男に視線を送った。
「はいはい。今向かいますよ」
すぐにあきれたように車のエンジンを入れ、ゆるりと車を走らせる。
サラリーマンのようにきっちりと黒いスーツを着こなしている運転席の男は、すらりとしていた。どこにでもありそうなネクタイと、カラーシャツを身にまとい、夏場だというのに、ジャケットを羽織っている。
クールビズとは縁遠い格好だった。
この国の企業というのは夏場であろうともきっちりとした格好を好むものだ。政府がクールビズを推奨しているのがその証拠だった。
そうでもしなければ、世間の社会人は夏場であろうともジャケット着用が求められている。近年その悪しき習慣にほころびが出始めてはいるが、まだまだ頭の古くさい連中は、カビのようにはびこっている。そのために夏場であろうとも暑苦しさを求められるのがその証拠だった。
もっとも、見た目と受け手の意識を最大限に利用したそのスタイルを理解しながら着用している時点で、この男がただ慣習に身を浸しているだけとは言い難かった。
男は手足が長いのか、運転席に窮屈そうに収まり、席をだいぶ後ろにしている。
背が高そうだという以外は、一見、毎朝電車に揺られて通勤しそうな見た目の男だった。きっちりとしている割にはすきが見えるような雰囲気があって、どことなく色気が漂っている。
「新宿に、昼にはつけろ」
その命令に、はいはいと軽口で返した男は、灰皿、と声を上げた。
その声に反応できずにぽかんとしている助手席の男を、井村は無言でもう一回蹴飛ばす。
「『はいざら』」
その声にようやく反応して、あーと声を上げながら、助手席に座った男が紙束を差し出してきた。
紙束を受け取ろうと手を差し出せば、にこにことしながら振り向いて差し出してくる男の首筋に、べったりとあざの跡がついていることに思わず顔をしかめた。さらに手が黒く汚れていることに気づいて、井村は小さく舌打ちをする。
「何か?」
運転席の男に、お前なあ、とサイドミラー越しに険しい視線を投げた。
車のドアについた灰皿で煙草の灰を落とすと、助手席の男は、不思議そうな顔をする。
「・・・俺相手にそんなもん丸出しにすんじゃねえ。たつもんも勃たねえよ。大体、それには一回も手ぇだしてねえだろうが」
ああ、と隣の助手席をちらりと見やると、運転席の男はにこやかに笑った。
「いやあ、ないと思いますよ。ないとはね。でもほら、未遂はありましたし、あなた結構快楽主義ですし、私はそのことをよく知ってますし、本当にこの灰皿は覚えが悪いですし、何よりこの灰皿、あなたのこと大好きですしね」
その全部に否定できず、井村はふう、と『灰皿』に向かって煙を吐いた。
けほ、こほ、と小さくせき込む童顔の男に『前を向け』と伝える。
「・・・・『はいざら』の手がきたねえぞ」
どうにかしとけ、と命じて、紙を受け取った。
名前を呼ばれた男は首をかしげて、運転席に座る男を見やった。運転席の男は赤信号で車が止まったタイミングで、ため息をついてハンカチを差し出していた。
その逢瀬を視界に隅に追いやり、煙草を吸いながら、紙の内容を確認していく。
「・・・ッチ、相当ことがでかくなってんな・・・」
あとで燃やしとけよ、と言い捨てて、井村は紙を座席に放る。
煙草の灰を車の灰皿に落とすと、あー、と赤子のように、『はいざら』が声を上げた。
「ぁ、あ、二きぃ・・・ぁいだ・・・ア、おれ」
ひどい声で、『はいざら』が言葉にならない声を上げる。手を上にあげて、ばたばたとふって、何かを求めていた。
しゃべり方は赤子のようだが、『灰皿』は年相応だ。年齢は見た目以上で、年齢通りの頭がある。決して知能面で劣っているわけではない。しいていうなら情緒が未発達かつ単純、というぐらいだろう。そのことをよく知っている井村は、仕方ねえな、と手を伸ばした。
ふーと煙を吐いて、井村は煙草の火を消す。
そして後ろから助手席の男の頭をなでた。
「わかってる。そうだな、今回もよくやった」
小林に使う気持ちの10分の1も感情のこもらない声で雑に頭をなでた。
だというのに『はいざら』はにこー、と無邪気に笑って顔を緩める。
それを見ていたのか聞いていたのか、運転手の男はチッ、と露骨にいやそうに舌打ちをした。
「おい」
「だからいやなんですよ、あなたの迎えは・・・」
井村の咎める声に、運転手の男はいらだたし気に答える。
「あなたは、あの少年にときめいてる時点で信用してないんですよ。私の灰皿にまで手を出さないでくれませんか」
「たたねエッつってんだろうが!」
反応しないといくら言い募っても、この男は一向に信用しない。あんなにかわいくてかっこよかったら反応しそうだが、でもなあ、とおとなしく頭をなでられている男を見やる。
正直で大変申し訳ないが、『灰皿』にはお気に入りのインテリアか、野良猫に向けるぐらいの好意しかない。
とはいえ、この『灰皿』に手を出しかけたのもまぎれもない事実だ。男とは悲しいかな、右手が好きでなくとも、反応できる単純な生き物なのだ。
井村の否定に、どうだか、と男は前を向きながら肩をすくめた。
「あなたは楽しければどっちでもかまわんでしょうが。たたないなんてことが大きな問題なんですか、あなたは。・・・女だけにしておけばよかったのに、余計なもんまで覚えやがって・・・」
ち、と眼鏡の下で目をすがめるから、嫌がらせに少しだけ優しく『灰皿』の頭をなでてやった。
快楽主義なことも、『灰皿』が井村になついていることも否定しない。
この高度難聴を抱える『灰皿』にとっては、唯一聞き取りやすい音域の井村の声が、指示として通りやすいだけだ。それでなついているというのもあるし、『灰皿』扱いだったこの男を引き上げて、『凶器』にしたのは井村だ。
そして井村のおかげで生活がしやすくなった、楽になった、という単純な動機と思考から慕っているという面もある。
だから、極端な話、『灰皿』にとって井村は飼い主で上司ぐらいの認識しかない。
まあ、井村が手を出しかけた前科はあるし、その際にも『灰皿』が一切抵抗もしなかったので運転席の男がわめくのも大いにわかりはするのだが。
それにしたって雑だろうと、『灰皿』から手を離した。
「おまえ、ほんと『あれ』以降、俺の扱いが格段に雑だよなあ、日野」
井村が、ノリと勢いと日野と『灰皿』の微妙な関係にじれて『灰皿』に手を出しかけた。それで部下とはいえ、日野に殴られたものの、当て馬となった井村をきっかけに仲良くなったようなので、そのことは不問としている。
年単位で昔のことだというのに、いまだに日野はその件については言及する。おまけに小林と同棲して以降、さらにうるさくなった。
はあーあ、と重たい息をついて、井村は背を柔らかいシートへと預ける。
「・・・ァ、にぃ・・・き?」
『灰皿』が心配そうな声を上げたので、気にすんな、と井村は手を振った。
「仲がよさそうで結構だよ。ま、とりあえず仕事か」
そういえば、あー、と元気に『灰皿』が声を上げる。
「そうですね、『はいざら』拾ったときといまではあなたの地位も違いますから、格段に違いますよ、問題のレベルがね」
日野もどうのこうのと言いつつすぐに切り替える。『はいざら』に関するあれこれはあいさつのようなものだった。
『灰皿』を拾ったのはずいぶんと昔だ。『灰皿』が未成年の時だったし、日野も井村もだいぶ若いころだ。
若かった時代を、井村はただただ走り抜けた。
一つ一つ、きれいな宝石を抱えていくような小林とは大違いの生き方だ。
井村は昔、『はいざら』については捨て猫を拾うぐらいの気持ちだったし、実際、本当に灰皿扱いされていたぼろぼろの子供は、警戒心のある子猫みたいなものだった。
『はいざら』は根性焼きだなんて、今更はやらないことを散々されて、暴力を受けていた。
ただの非力な子供だったら、よく見る風景でしかなかった。大人からも、同年代からも、男で子供であればよく受ける仕打ちだろう。
ただ、その子供が、殴られては倍以上の勢いで殴り返して、暴力を働くから、目についてしまったのだ。
やられたら、やりかえす。
相手が、動かなくなるまで。
手を痛めてもやめない『はいざら』が面白かった。たぶん、はじめは子供同士のささいないじめだったのだろう。それが何かのはずみで、不良がつっかかった。
そして不良という生き物は、井村のような自由業と違って、利益を考えない分、己のメンツでしか生きられないものだ。やられたらやり返すをしていた『はいざら』にやられた不良が、さらに強そうなものを引きずり出すという悪循環に陥っていた。
さらに馬鹿な下っ端の構成員がひっかかって、やり返すためにそこそこの人数を動かしたので、井村の目に入ってしまった。
『はいざら』はもとから、かなり重たい聴覚障害を患っていた。ろうあ者、というほどの、全く聞こえないというレベルではないにしろ、その程度は軽くない。
レベルで言えばかなりろうあ者にかなり近い状態だ。普段の日常生活に支障をきたすレベルだし、補聴器がなければ日常生活すらろくに送れないだろう。
人間の悲鳴の大部分は聞き取れず、さらに絶命の瞬間のような大声で喚かれてようやく聞き取れるほど障害は重いのだ。それも聞こえる音域が限定されているので、高い音はほとんど聞こえないらしい。
だというのに。
おれははいざらだ。
と。
聞こえないがゆえにうまくしゃべれない、加減のできない大きな声と小さい声の混ざった声で、放った言葉がそれだ。
井村は良くも悪くも快楽主義だ。面白くて、楽しければそれでいい。どんなに世間が重たい、危ない、と後ろ指を指そうが、そんなことで揺らぐ基準など持ち合わせてはいない。
おれははいざらだと、そういう子供が面白かった。まるで子猫が火を嫌がる姿をみて、ライターをちらつかせるような、そんな子供じみた好奇心だった。
(おもしろい)
親にも裏切られて、やくざに差し出されたことなど、聞こえないからわからないに違いない。ずっとそうして生きてきたのだろう。わからないのは仕方がないとあきらめながら、それでも暴力をやり返す姿が面白かった。
そこには罪悪感もなく、この子供は、ただ暴力が好きなタイプの人種だったのだ。それをあっさりと受け入れている姿も面白かった。
だから、拾った。
セキュリティ兼秘書を務める日野に、セキュリティの役割を振るものが欲しかったというのもある。そういう意味では、この子供は非常にちょうどよかったといってもいい。
基本的な世話は、日野に押し付けた。なにしろ何も人としての生活を知らない猫のようだったし、日野の仕事を振る以上、そばでやり方をしつけたほうが早そうだと思ったからだ。
日野がゲイなのは、井村も知っていた。でも日野は大人の男と寝ていることが多いのも知っていたので、まあ、間違いなど起きないだろうと高をくくっていたのだが。
それがまさか、まめまめしく猫のような『はいざら』の世話を焼いた挙句、手を出すのをためらうほどベタ惚れするなどと、誰が思うだろうか。
正直、それに気づいたときは、井村は腹を抱えて爆笑した。
まあ、もう井村は人のことを笑えないのだが。
「6億はでかいよなあ・・・」
「よりによって中国マフィアから巻き上げたのですからね。闇カジノに浸って羽振り良くなっても、こっちにも流してたんで見逃してましたが、相手が最悪ですよ」
昨夜、すぐに小林のもとに帰れなかったのはこの件だった。
井村のいるさらに下の傘下の3次会の組の一つで、下っ端の構成員と、組長を務める男の妻が、闇カジノを始めた。
それ自体は別にいい。
組長の妻はずいぶん若く、下手をすれば娘と父親ぐらいの差がある女だ。下っ端をどう捕まえようが構いやしないし、そこで起こる修羅場は組内の話だ。井村たちが出る幕ではない。
ただ、その女の見境がなさ過ぎたのだ。
中国マフィア相手に6億もイカサマ仕込んで巻き上げてしまった。そもそもは世間知らずの金持ちをひっかけていたようだが、今回は相手を見誤ったようだ。
「しかもブラックチャイナ、黒社会中国の上海の犯罪シンジゲートとは最悪ですねえ。やつらは金に執着がありすぎますし、あらゆる大陸に顔が利きすぎます」
はは、と井村は明るく笑った。
まるで明日は晴れるといいな、程度の気安さで。
「女が見る目がねえと悲惨だなあ。今頃、海津興業の、海津組長は戦々恐々だろう。死体で発見されねえかな?」
何悠長なこと言ってるんです、と日野は口の先をとがらせた。
「こっちにまで被害が来そうだから、あんたに連絡がきたんでしょうが」
井村は煙草をもう一つ取り出し、口の端にくわえた。
「おれが動かねえといけねえ時点で最悪だろうな」
火をつけて、煙を思いっきり吸い込む。
普段、井村はこちらの仕事にはあまり顔を出さない。
今どきのやくざは、そんなあからさまに犯罪に手を染めているほうが難しい。いかに普通の人間を装えるかが肝だ。世間の目を欺くことも高度な技術が必要になった。情報化社会の余波は、こうした自由業にもついて回る。
「額が桁違いですからね、今回は。1千2千万じゃ、あなたを動かしませんよ」
だろうなあ、と井村はひっそりと笑う。
「昨日の時点で、向こうには話をつけてきた。まあ、向こう金だけよこせって話だったのは上海マフィアの系列だけある。それも譲歩して、4.5億は回収してくれって言われたけど、うちもうちで探す手間だからな、向こうが勝手に巻き込まれたってことで、痛み分け3億と男にしてきた」
助かります、と日野は静かにハンドルを切った。
「女はさっさとフロに沈めとけ。顔が悪くねえなら、フロ沈めたって、高級清潔をうたってるうちのとこなら、月100万ぐらい余裕だろ。そんでバンバンまわしとけ」
はい、という日野が久しぶりのような気がして、井村は煙草の煙をくゆらせた。
もとから井村はこういう人種なのだ。『はいざら』を拾ったのも気まぐれと、残酷さに楽しみを覚えるような子供のようなわくわくからだ。
身持ちなど保てるほど硬くもない。落ちるところまで落ちていると言われればその通りだ。生まれがそうなので、今更落ちるもへったくれもないし、これがいけないことだとは井村はあんまり思わない。良心の呵責なんてものは母親の腹の中においてきた。
けれど、恋人のきれいな姿がよぎるたび、なんだかなあ、と思うこともある。
自分を汚いだとか、そういう風に自虐するつもりはない。足元すくわれて落ちる頭の悪さが悪いのだ。価値として、利益に返還されてしまう人間が愚かしいだけだ。
それでも。
やはりきれいな生き方をする恋人を見ていると、それだけで満たされるような気分があるのも真実だ。自分にはないきれいさは、芸術品を眺める気分に似ている。
まあ、どれだけ高価な宝石も絵画も、井村にかかるとすぐに現金返還されてしまうのだが。
別れてと言われて、今更どうすればいいんだという気分も井村にはある。そう言った理由が分からなくて最高にいらいらするけれど、それでもあのきれいな青年を見ることすら叶わなくなるのは、純粋にさみしかった。
「・・・ま、金を持ち逃げできる量なんてたかが知れてるからな。逃げ場の検討なんてすぐにつく」
外のうだるような明るさに比べて、井村の笑みの暗さは冬の夜のごとく澄んでいる。触れたものをそぎ落とすような効率の良さは、他のあらゆることをなげうった。
人間はいくらでも金になる。経済を回すという意味では、普通の会社と一緒だ。
たぶん、本当に利益だけを純粋に追求すれば、こうした回し方をせざるを得ないのだ。同じ人間を家畜として扱うということは、己も家畜扱いされても文句が言えないから、世間はしないだけだと、井村は笑った。
「まずはうちとは違う系列の組のシマ。それもクラブとかで、あえて人の出入りが激しそうなところにバーテンとかで紛れ込んでる。そして偽名だが、あえて『中国人名』を名乗っている可能性もあるな。中国人相手に巻き上げるぐらいだから、まあ、簡単な言葉ぐらいは使えるだろう」
く、と井村は目元を和らげて笑った。
「まあ、命乞いの交渉なんて、できやしないだろうがなア・・・」
言葉の壁は意外と大きい。だからこそ巻き上げられるだけ巻き上げられたというのもある。
「アー・・・」
相変わらずにこにことする『はいざら』が、目の色を変えた。純粋さのなかに交じる狂気は、もうずっと昔からだった。
「日野、殺さないように言っとけよ」
煙草をふかしながらきちんと伝えれば、ああ、はい、まあ、と濁った返しをした。
「なんだ?」
「いえ、『はいざら』は、また耳が悪くなったようで・・・」
「補聴器はちゃんとつけさせてんだろうな」
難聴は、補聴器をつけることで一定の効果がある。時には改善傾向さえあると聞いたこともあった。
『はいざら』は井村が拾うまで、ろくに医療機関を受診していなかった。どうやら彼の両親は、自分の子供が重度の障がい者という事実が認められなかったようで、だいぶ放置していたらしかった。
そのため、『はいざら』は年齢にしては幼く、単純構造だ。聞き取りもうまくはできないし、そもそも音のない世界が長すぎて、音を拾う気がない。
「数値的にみると、また聞こえにくくなってるみたいなんですよ。でも、そもそもこいつ、補聴器嫌いですからね」
ああ、と井村は笑い交じりに拾ったばかりを思い出した。
拾ったばかりの子供が、どうやらうまく音が聞こえないようだと検査を受けさせ、難聴だと発覚した。あまりにも難聴が重たかったので、補聴器を用意したところ、耳に何かあるのが落ち着かない、いやだといって、すぐにとっていた。
「まあ、暴れだすと止まらないのはいつものことですが、さらに止まりにくくて」
「あれだ、首に電流流すのでもつけとけよ。犬用とかの。それかリードとか」
それでいいだろ、と返して、煙を吐く。そうだと、いいことを思いついて、井村はにんまりと笑った。
「それで夜も楽しめよ。オマエ大好きじゃねえか、か弱い生き物をなぶりつくすの。はは、サイテーだよなァ」
日野の性癖を笑えば、てめえ、と思いっきりミラー越しににらめつけられた。
「身の程を振り返ってください」
「怒んなよ。事実だろ」
殴りてえ、と低い呟く男に、井村は思わずげらげら笑った。
否定が帰ってこないのは、それが事実だからだ。知能面では劣ってないけれど、こどもみたいな頭の弱い言動をする『はいざら』が日野にはドストライクなのだ。小さい子供が好きなわけではなく、普通の体をした強い男が、赤子のようなしゃべり方をしているのがたまらないらしい。
そんな性癖は残念だから井村は持っていないので、その部分についてはあまり分かり合えない。
はあ、と重たい息を吐いた日野は、やがてゆるりと車を止めた。
「つきましたよ。新宿の東口です。それと、帰りは迎えにきませんから、自分の足で帰ってください」
冷たいな、と煙草の火を消すと、ざまあみろ、と日野が吐き捨てた。
「くそ熱い中を、どうぞごゆっくり横浜まで」
「はいざら~おまえのパパは厳しいな?」
くっく、と井村がのどを鳴らすと、何もわかっていないらしい『はいざら』が、名前に反応して、あう~と声を上げる。
「・・・はいざら、ちゃんと補聴器つけろ」
それだけ言って、頭にぽん、と手を置くと、車を出た。
日野は相変わらずいやそうな顔をしている。だが言われた仕事はきちんとこなすはずだ。
「・・・一応聞いておきますけど、セキュリティ、いります?」
車のウィンドウを開けて、ついでのように訪ねてきた日野に、井村は眉を下げて笑った。
本当は、一緒に住むなら『はいざら』にすべきなのは井村も日野もよくわかっている。どれだけかかわらないようにしていても、井村は結局、暴力と恫喝の世界に身を置く人間だ。
「・・・いらねえよ」
でしょうね、と日野は顔を前に向けると、眼鏡を押し上げた。
「殺されたら、ぶっ殺しますから」
「死んでんのに殺されるとかたまんねえな、せいぜい長生きするから安心しとけ」
どうだか、と肩をすくめると、日野はさっさと車を出した。『はいざら』はにこにこしながら手を振る。
車が走り去るのを見届けると、井村ははあ~と重たい溜息をついた。
(はあ~上海マフィアと海津興業にロケット突っ込まねえかなあ・・・)
ぼんやりと考えながら、暑い中、古賀との待ち合わせ場所へ向かう。
基本的には井村も普通の社会人と同様、働くのなど好きではない。井村が働かされるときなんて、どうしようもなくなって問題解決しなくてはいけないときがほとんどだ。それだけ面倒なことが多い。
ふらふらと歩いていれば、すぐに古賀の姿を見つけた。
だらけだらと汗が滝のように流れる。その熱さに思わず井村はジャケットを脱いだ。
「古賀さん、待たせて悪い」
暑かったろう、と日が高くなった空の下で待たせたことを詫びれば、いや、大丈夫だよ、と汗をにじませた顔でにこやかに笑った。
「でも外で話し合うにはお互いつらいだろう、どこか入ろうか?」
そうだな、と同意して、近くの喫茶店に足を運んだ。平日ということもあってか、人があまりいない。人の熱気が少なく、よりひんやりとした室内に汗が引いていく。
アイスコーヒーを注文すると、古賀は重たい溜息をついた。
「その、君に任せてしまったけれど、小林君は、大丈夫だったかな」
井村は熱さが引くのが待てずに、シャツの袖をまくり、苦笑いを浮かべた。
「・・・まあ、あのこのことだから、古賀さんにはいくらでも大丈夫と言って、いつも通りに笑うでしょう。昨夜はだいぶ荒れてましたよ。出しませんけどね、外には」
そうか、と古賀はうつむいて、手を組んだ。
言葉を探すように、古賀は口を固く結んでいる。上着さえ脱がずにうつむいたまま、静かに思惑に暮れていた。
その間にウエイトレスが二人分のアイスコーヒーを運んできて、静かに去ってゆく。
「・・・波柴くんに、怒られてしまって」
困ったようにうつむく古賀の、悩ましい顔は、その少年の怒りを受け入れられはしないようだった。
怒られた、と言いつつ、その響きには逆に非難するようなものさえ垣間見える。
「波柴、ね・・・」
ストローの紙を破り、井村はグラスにさした。古賀は渇きに耐えかねたように、アイスコーヒーではなく、先に出されていた水を飲む。
「なんて?」
ずる、とアイスコーヒーをすすり、あえて遠回しもなく尋ねる。
古賀は眉根を下げて、小林君に、と恋人の名を口にした。
「彼に、葬儀の一切を任してやれと、そういわれてしまって・・・。世話をしていたのだから、最後までやらせてあげるのが筋なのではないかと、そういわれてしまったんだよ」
はは、と井村は遅れることなく明るく笑い声をこぼした。一拍でも遅れてしまえば不自然にさえとらえられていた動作は、ここぞというタイミングが大事だ。
別の感情を隠すのならなおのこと、動きはタイミングを合わせなければならない。
言いたいことを好きに言いやがって、という気分が抜けなかった。だからこそ、あえて険しくならないように笑って、井村自身すらごまかす。
(余計なことを・・・)
弧を描く口元の裏側で、ふつふつと湧き上がるものを正確に受け止める。そして、湧き上がるそのままの苦さを浮かべた。
「まあ、正論ではありますね」
まあね、と古賀も肩をすくめた。
それは正しい言い分だと、井村も思う。
世話をしていたのだから、始末も最後まで。
余計なことを言いやがって、とか、言いたい放題、言いたいことだけ口にしやがって、と思わなくもない。だが、それが若さという奴だろう。若者は勝手なことを言っていい。そういうことは、井村もした覚えがある。
たしか小林と同年代の、まだ十代の青年だったはずだと記憶を掘り起こした。
「若いなあ・・・」
井村の声に、そうなんだ、と古賀も同意した。
「若いねえ、そして正しいよ。きっとそれが筋だっていうならそうなんだ」
認めながらも、眉間のしわが抜けない古賀に、井村は口の端を持ち上げた。
「でも、古賀さんは、賛成できないんでしょう?」
古賀は片眉を上げて、口元を緩めた。
「だって、そんなこと、いまする必要ないじゃないか。たしかに箱崎さんのときは小林君がやってしまったんだろう。できてしまったし、小林君の代わりにしてあげる大人もいなかったんだろう。でもねえ、今は私たちがいるわけだから」
そんなことをさせるのは、かわいそうだよ、と古賀は言い切った。
「子供がこどもでいられる期間は短いんだから、こどもでいたらいいんだ。いずれくる親なりなんなりの時に知ればいい。そのときはいやでも大人にならざるを得ないんだから。なのに、あの子たちはどうして、大人がしないといけないことまで背負い込もうとするんだろうね」
(なるほど、)
井村は子供だからとか、大人だからとか、そういう区別のつけ方はわからない。
古賀はきちんとした大人なのだろうな、とは前々から思っていたことだった。
まだ彼らが若いということで、古賀にとっては茉李の葬儀にかかわらせたくない理由としては十分のようだ。
それが理由になると学べただけでも、こうして会う価値はあったと井村は思う。
「世話をしていた人の死なんて、棺桶で顔を見るくらいで十分だよ。むざむざ、死体と向き合う必要なんてないと、私は思うんだよ。それに小林君は、平気な顔して笑うだろう?」
ふ、と井村は思わず吐息に笑い声を混ぜた。
「まあ・・・、昨日も相当でしたよ」
「私はね、なんなら小林君は、お通夜にも来なくていいと思っているよ。だって、見ていられないだろう。普通に笑っていた人が、死体になっているんだよ」
目を伏せて、古賀は悩ましげに語った。
それは愚痴のようでありながら、そうすることが望ましくないとわかっているような口ぶりだった。
「誰かの死に向き合うのは、たいへんなことだ。つらくてかなしいことだよ。それを受け入れるのは、誰だってたいへんなことで、目に、記憶として残さないことのほうが、いいこともある」
大人はもう向き合いすらしないけどね、と古賀はそこで口調を軽くした。
古賀は比較的善良な大人だと、井村は思う。
彼と話していると、自分はだいぶねじが飛んでいるな、と思わなくもない。
とはいえ、善良でも彼はもう大人だった。若さに対して理不尽を働く身勝手さがあるし、それを身勝手さとわかってなお、貫き通すだけの面の皮の厚さがある。
「・・・もういっそ、誰も呼ばずに、燃やすだけ燃やしてしまったらどうですか?死に方も死に方ですしね。わざわざお通夜だなんだってしているほうがかわいそうじゃないですか」
ばらばらになっていることを暗に示すと、そうだねえ、と古賀もうなずいた。
「みんなには悪いけど、そうさせてもらおうかな」
「葬式だってのに、ああしろこうしろっていうのは、当事者以外の外野ですし、こういうのはもめるもんですよ」
古賀の心を軽くしようと適当なフォローを入れれば、経験が違うね、とあっさりと打ち返される。
「私なんて、どうしようか悩んでばかりなのに」
「そんなものでしょ。俺だって言うだけですよ。まあ、費用についてなら多少は協力できますけど、大々的にやるとなると・・・」
葬式でも利益がでる、と現実的なことを言いそうになって、井村は口をつぐんだ。
仕事の余韻が抜けきらない自分に苦笑して、アイスコーヒーをすする。
「彼女には身内もいないようですし、箱崎さんの恋人だった、ってずっと言っていたんですから、真偽はどうであれ、彼の墓に入れてもいいんじゃないですかね。個別で、となると管理も大変ですし」
現実的なことしか口にできないのは、井村の性格もさることながら、古賀の言う通り経験もあるのだろう。井村はそこそこ人を見送ったことがあるし、どういう風に動くかも知っている。
茉李に対して、複雑な感情はあった。
小林が気を使っているのはイライラするし、していた。理由と経緯はどうであれ、なぜかまめに面倒を見る小林を、にこにこしながら全く許していなかった。
でも、彼女に小林が抱いているのは恋愛のようなものではなかった。
はたから見ているだけでもわかる親愛は、まるで遠いものに投げかけているかのような態度だった。
贖罪と。
信仰と。
井村であればくそくらえと言ってしまいそうな、何か柔らかい形をしたものを、小林は遠くから眺めるように投げていた。茉李が箱崎の名前と、ただその男の帰還を信じてやまない言動を繰り返しても、どこか安心するような顔をするときすらあった。
だから、嫌いな男の名前がいくら出ようと、その態度を見ていれば自分に向けるものと違うことぐらいわかるから、井村は何も言わなかったのだ。
「・・・君が冷静で、だいぶ助かるよ」
からりとそんなことを言う古賀に、おつかれさまです、と井村は苦笑した。
「泣いてわめいてられるのは、子供と女の特権ですよ」
死体は腐る。
ごたごたともめている猶予が少ないことを、子供たちは知らないし、知らぬままでいいのだろう。それを純然たる事実として受け止めれば、そのとき、もう誰かの死は重たいものでなくなる。男は葬式でもあまり泣かない。それは感情経路が違うのかと、井村は喪服をまとうたびに思っていた。
死んだ人間は、死しただけであり、それは肉だ。
いくら昨今の技術がどれだけ進もうとも、その原理は永遠に変えられない。今、死んだ人間は冷凍保存して葬式を行うのだ。
死体が腐るから。
凍った体は、ひんやりとして冷たくて、固まっているから、足だけでも持ち上げれば体全体が浮いてしまう。
そんな姿をみて、果たして彼が耐えられるのだろうかと、井村はひんやりとしたコーヒーをすすりながら思った。
「そうだねえ、その立場に甘んじていてくれればいいのにね」
アイスコーヒーをすすり、井村は古賀と具体的な費用と日取りについて話し始めた。
こんなところで、真夏の昼下がりに話す内容ではないと思う。
別れてくれというきれいな男が、頭によぎる。
きっといろいろなことを怒ると思った。
井村は身勝手だし、古賀も身勝手だ。
果たして何が最良なのか、そもそも死んだ人間に最良などという道順があるのかどうかも怪しい。こうしてあげたほうがいいのでは、といくら生きている人間がわめいたところで、死した人間は何も言わない。
極端な話、葬儀を上げてくれとも言わないのだ。
それでもなお、考えずにはいられない。
どうしたほうがいいのか。効率か、感情か。ともあれ、こういうものはごたごたとする。そういうものだ。送る側になるたびにそう思う。
そのたびに、生きることはままならないと、冷静に思っていた。
かつて抱いたその感情を、井村はずいぶんと久しぶりに、苦々しく思った。

「うわあ、小林君ひどーい。サイッテイ」
軽い言葉は、ばさりとしていて、しかし的確に、小林を断罪した。
(どうしたらよかったんだ・・・)
悩む言葉は口には出ない。そのかわり、ふと思い返すのは小林が『サイッテイ』を押し付けた男のことだった。
「・・・」
ぼんやりと、カフェの一角に座りながら、外の景色を眺めて小林は朝のことを思い返した。
今朝がた、ひんやり、と背中に冷気を感じて、さむいと目が覚めた。
瞼の接着はゆるりとはがれて、そばにあるぬくもりに身を寄せる。さら体を丸め、人肌に近づいて暖を取った。そうすれば、動きに気づいたのか、腕が回ってきた。ずっしりとした腕は、暖かいけれど重みがあった。
本当に肉布団だなあ、と小林は定まり切らない意識で目を開いた。
目の前には、平たい男の体があった。それは肉付きがよく、見慣れた胸板だ。あたたかい、と顔を上げる。
ぼやぼやとした意識は定まり切らないものの、すよすよと眠る男の顔をとらえた。
まだ夜中なのだろう。朝は近いかもしれないが、それでも日が昇ってはいないはずだった。差し込む光はなく、薄暗い。
ふと見上げた男の顔に、うっすらと髭が生えている。その顔を眺めながら、なんとなく、さみしさに耐えかねて、顔を戻した。
(あーあ)
ぼんやりとした意識は、ずっと棘のように思っていた心を浮き彫りにさせる。なぜだか体がばらばらにすべて砕けてしまうような気がした。そんなはずはないのに、なぜか落ちて割れるような気がして、より近くなったぬくもりに身を寄せる。

(どうしてこの男は、自分だけのものに、ならないのだろう・・・)

ぼんやりとした目で、すぐそばに自分の恋人を置きながら、小林はやるせなさに支配されていた。
意味がない、と思った。
こんなことをしている意味が分からなくなった。
このぬくもりから今すぐ離れたくて、けれど眠くて体がだるくて動かない。ばらばらになっていきそうな意識だけが澄み渡って、かろうじて残っている。
体が、壊れてしまいそうだった。
なのに、自分を囲う腕のせいで、ばらばらにもならない。
結局この男は自分のものにはならないのだと、小林はその事実をよく知っていた。自分だけのものにならないのか、など考えるだけ時間の無駄だった。
それは泣いてしまうのと、同じくらい。
意味がなくて。
時間の無駄だ。
「・・・」
なんの意味も見いだせないやるせなさが、気だるくて仕方なくて、結局動くのすらためらわれる。
行動するのは、きちんと目が覚めてからでいいだろうと再び目をつむった。
箱崎が死んだ。
茉李も死んだ。
野呂ももういない。
本当は、波柴に伝えねばならないことがある。
抱え込んだ事実に窒息しそうだった。小林はいつだって言葉にできないものを抱え込んでいる。体は寝ているのではなく、倒れ伏しているのかもしれないと、重たく力の入らない自分の四肢を持て余す。
はじめは何も言えないことなんてなかったはずだった。
けれど、気が付けば重たい箱を抱えていた。自分の器用さの、使い方を教えてもらい、導かれた先の景色はうつくしかった。
だからそっと、箱のなかにひとつずつ、詰めていたのだ。
箱崎への尊敬も好意も。彼の、彼女以外はいらないという愛の模範も。野呂の形をした善良も。
小林には、かけがいのないものだった。
それが、気が付けば、詰め合わせた箱の中身は、だいぶ減っている。入れ込んだ中身は本当に美しいもので満ちていたというのに。
もう、箱崎と茉李の幸福な姿は永遠にみることはできない。
甘やかにふたりで笑う姿はとても美しく。
それを幸福と呼ぶのだろうと、小林は思っていた。
だというのに。
箱崎は恋人を失って狂った。そして自殺してしまい、あれだけ生還を願った彼女は、いろんなことを失って、それでも戻ってきた。
箱崎が、自殺した後に。
小林に、遺書を残したあとに。
『とうしろう』
そうしてあまやかに笑う彼女だけが、小林には残っていた。
すでに小林にはそれだけしかなかった。もうあなただけなのだと、毎日が祈るような心地だった。
小林にとっては、彼女は愛の欠片のようなひとだった。
『やさしいな』
そうして、小林を評する善良な姿も、小林には見えないほどにおぼろげになっていて。
だからこそ、小林は茉李の幸福を、箱崎以外の誰かとの幸福を祈った。愛の模範のような姿を知っていた。それが元に戻らなくとも、ふわふわとして、夢のような彼女に、愛を取り戻してほしかった。それにまみれて笑う様を、もう一度でも見たかった。
一途に彼を思う姿も許せた。それをやめてくれとは思わなかった。嘘みたいな一途さが、その純愛が、逆に安心した。
それでも彼女の自由を奪うつもりも、彼女の幸福も捨てられなかった。
だから、ぼんやりと、誰かとの幸せも望んだ。
それだけでも、叶ってほしかった。
それだけしか、すでに小林の箱の中身は残っていなかった。あとは、口にできない波柴への秘密があるだけだ。罪悪感と後ろめたさにまみれた秘密の告白は、取り出すことが難しくなっている。それは茉李に伝えなければならない真実も同様だった。
言わなくてはと思いながらも立ち止まらなかったのは、小林はそれでも箱にいくつかのものが残されていたからだ。
ごちゃりとした沼に沈み込んだように、箱の中身には規範が埋まっていた。こうあるべきだと、箱崎は小林への方針すら打ち立てていったのだ。
日々薄れていく、箱の中身の記憶を悲しく思った。
それでも。
『君ならできるよ』
その意思が込められた遺書は、小林の在り方を示していた。
かなしいと、思う心は確かにあったけれど。
ああ、それでも泣いて立ち止まってなどいられないと、箱崎からの手紙を握りしめていた。その手には常に彼の遺したものがあった。野呂が見つけて残した古賀も、小林には遺書のように思えてならなかった。
『君ならできる』
そんな声が、ただ小林の背中を押した。
箱を抱えていた。
小林の両手は、すでにふさがれていた。
抱えたそれは、離せないものだった。
箱の中身は眺めるだけで美しく、宝石みたいだった。だからいつも抱えて、小林は大事に眺めていた。輝きは次第に薄れていくものであっても、それはたしかにそこにあると、断言できるものだった。
だというのに。
ちっとも箱の中身をきれいとは言わない男が、小林の箱を取り上げた。
それは、両手で持っていなくともいいと。
おいて、いいのだと。
両手でその箱を抱きしめていては、触れることができないから、置いてくれないかと乞うてきた。
それは時に、食事であったり。
映画であったり。
動物園とか、水族館ですら、あった。
ともに出かけて、気を使われて、じりじりと小林に近寄った。箱を抱えて離せない両手に近づくころには、その男を見上げることが多くなっていた。
そしてそっと、男は両手に触れて。
抱えていた箱を、がしゃりと落とさせた。
その瞬間、本当に小林は抱えていたものを、がしゃりと落としたのだ。
まだ、茉李がいたのに。
それなのに。
触れたいと言われて、小林は拒まなかった。
箱はまだあって、がしゃがしゃとなる残骸があったはずなのに、小林は、それを部屋に置き去りにした。生活しやすいように、整えられて、男が作り上げた部屋の片隅に、小林はそれを置いた。
それでも、罪悪感がとんでもなくあった。自分だけはきちんと覚えていなくてはならない。本来伝えるべきことを、波柴にも伝えていないのだから、その景色を忘れていいはずがない。
そもそも、遺された小林自身が、どうして自分を拾い上げた箱の中身を置いていけるのか。小林こそ拾われた側だと、箱を置いてからも散々迷った。
それでも。
(これがほしい)
見上げる男をそう思う、子供のような心に勝てなかった。
男が作り上げた居心地の良さから抜け出せなかった。
ここにいていい。
それでいい。
深く考えなくていい。
そういう甘言に惑わされた。ぼんやりしていて、それでいいんだなとうなずいた。手を引かれて彼女を示されて、納得をした。
『とうしろう』
と、茉李が呼ぶことに安堵して、常に持っていなくとも平気なのだと言い訳をした。箱を置き去りにしてもいいのだと、そう思い込んだ。
だって彼女は、まだ覚えているから。
小林一人だけでなくて、彼女がまだ抱えているから。
彼女が別の誰かと幸せになることを祈りながら、それでも、その姿を見て、平気だと言い訳をしていた。
後ろから抱きかかえる男の腕を、小林が振り払えなかったから。
この男は、決して自分だけのものにはならないと、知っていながら箱を置いてしまった。
好きだと愛を伝えてきた男との逢瀬に、おおよそ甘やかなものなどなかった。時には殴り合うし、目を見つめてお互いに微笑むような、そんな時間はなく、むしろ視線をぶつけ合うことのほうが多かった。
気に入らないことがあれば殴ったし、正直、経験人数を聞かれたときには息の根を止めてやろうかとも思うほどだった。胸倉つかんで、はあ?としかめっつらで威嚇したこともある。
小林が知っている、『幸福』とは程遠いような関係だった。
愛の模範にすら、程遠い。だからきっと、これは愛とか恋とかそういう甘ったるいものではないのだろうとぼんやりと思っていた。
それでも理由のつかない心地よさを与えてくれる腕を拒まなかった。ここにいていい、それに理屈など必要はないとささやく声によって、らしくなく囲われていた。
その腕が、他の女を抱いていると、わかっていても。
その腕から、逃げることを考えなかった。
大体、不自然すぎるのだ。絶対に家に帰ってきてシャワーを浴びるし、携帯のメッセージは小林のいるところでは返さない。よくやっていたほうだとは思うが、たまに遅くに帰ってきて、抱き着いてきた男から漂う甘い香りに、他にもいるんだろうと、ぼんやりと小林は思っていた。
自分以外の誰かも、こうして愛をささやかれているんだろうと至極冷静に思っていた。金はあるし、気もよくきく。
しかたない、と恋人の男を眺めて、冷静にあきらめてもいた。
精悍な顔立ちは、男らしいと言えるし、その手のことの経験が多いせいか、妙な色気もある。さらにしっかりとした筋肉質の体に、金もあるとなれば、女だってほおっておかないだろう。
そんなことをぼんやりと考えながら、うとうとと眠ったせいだろうか。
朝、目が覚めて。
大丈夫かと心配するような顔が、小林には猛烈に煩わしく思えた。
(いらない)
もう、箱崎もいない。
茉李もいなくなってしまった。
野呂もいない。
波柴には、伝えねばならないことがある。
箱の中身は、もう残っていない。
(これも、どうせ・・・)
なくなってしまうのだと、目の前の男を見て思った。
あれだけうつくしかったものは、もう戻らない。
小林はそのことをよく、知っていた。
(いらない)
けれど、なくなってしまうのだということが、この男だけは惜しくて仕方なくて、そしてたまらなく。
(これも、いらない)
どうせ、箱の中身と化して、いずれこの男もいなくなるというのなら。
はじめから、いらないと。
煩わしさは、至極冷静に意味を見出せずにいた小林の心を浮き彫りにした。
『俺と、別れてください』
その言葉は、小林にしてみれば、遅いか早いかの違いだった。いずれくるなら、今だって変わらない。今言うか、そして一か月後か一年後か、そのちがいは大差がない。
結果、井村はかなり怒っていたが、頭を冷やすと言って早々に出て行った。
正直一発殴られる覚悟はしていたので、拍子抜けと言えば拍子抜けだ。
「・・・そうかな」
「恋人が言わないから、私が言ってやってんの。あのね、さすがに最低だよ」
答える赤い唇は、言葉とともにあきれを吐き出した。
小林は、一通りの出来事を伝えていた。自分の大事な知り合いが亡くなってしまった。そのあと、思い立って起き抜けに、別れを切り出したら怒られたがうまく承諾してもらえなかったとそんな感じのことだ。
「・・・仲が冷え切っていたんだ。誘いも断られたし、ね」
昨日、ふらふらとして、ぐらぐらとしていた小林は、いろいろと暴れたおかげか、今は少しだけ冷静だった。
適当な集団を殴りつけて暴れて、すっきりとした。それで最後は情事でわけがわからなくなってしまえば最高だった。
何もかも忘れてしまいたかった。
だから甘えて誘えばそうしてくれるだろうと思って恋人に甘えてみたのに、ぐらぐらと揺れたような顔をしながら、結局はすべて拒絶した。
とはいえ、そんなことをされてもむなしくなるだけだったろう。今になって思い返せば、小林は誘いながら、どうしたらいいと問いかけているようなものだった。
めちゃくちゃにされていたらそれはそれでやるせなくなっていた気がした。
だからあの男の拒絶はある意味正しかったのだ。
そんな先のことまで見越していたとしたらかなり腹が立つな、と小さく息を吐く。
色事におぼれて、ぐちゃぐちゃになっていれば、きちんと向き合うことができずに、折り合いがつかなくなっていたことは間違いない。
今となっては、拒絶をしてもらってよかったと思う。
とはいえ、そういう経緯があったせいで、もう何もいらないという心のままに告げた別れは、『セックスをしなかったから別れを切り出された』という誤解を生んでしまったわけだが。
「嘘おっしゃい。そんなことで別れたいなんて言うはずがないでしょう」
きつく縁取られたアイラインがわずかにゆるくなる。
するりとついた嘘は、あっさりと見抜かれた。ここで引き続きその嘘を継続させるために何か言おうかと考えるものの、小林はおっくうになってやめてしまった。
冷静にはなったけれど、それも少しだけだ。逆にものすごく冷静な気もしていて、だからこそもう何もいらないと拒絶を突き付けた気がしていた。
「・・・まあ、これは私の個人的な意見だけれど、どちらかというと、『自分のものにならない』っていうほうが、いやなんじゃないの?」
小林は海が見える景色から、改めて向かいに座る人物を見た。
人工的に染められて赤い髪は、ふわりとしていて、まとまりがないように見えてきちんと整えられている。目鼻立ちをはっきりとさせた化粧は、まつ毛も長く、銅色のアイシャドウがよく映えていた。きつくアイラインで目元を縁取っているものの、見た目ほど中身はきつい人物ではない。口紅が塗られた赤い口元が動くたび、話す内容よりはそちらに意識が向く。
夏らしく、肩を出した服と、短いスカートで、細く長い脚がむき出しだ。ただでさえそこそこ身長があるというのに、ハイヒールを履いているせいで、小林よりも頭一つ分高くなっている。全体的に赤みが強い女の格好は、目だけがコンタクトで緑色だった。
見た目だけならどこのモデルだというほどに、きちんとした女の格好をしている。
目の前の人物は、こうしてカフェのなかで小林と向き合っているだけでもかなり目を引いていた。
小林は、これが実は男なのだと見抜ける人物はどれほどいるのだろうかと、ため息をこぼす代わりに、すっかり冷めてしまった紅茶を口に含んだ。
彼の恋愛関係を思い出し、小林は、逆に問いかけた。
「・・・よく、誰のものにもならない、って言ってるけど、誰のものにもならない側としてはどう?正直、楽しみたいだけなら、そういうひとと、自分だけのものになって、とかあってないと思うんだよ」
あは、と妙に高い声を上げて、赤い唇がゆっくりと弧を描いた。
困ったような子を見るその目は、強い己の世界に戻っている。
「・・・わたしとあなたじゃ、その意味合いが違うと思うけど?私は、別に男が好きだなんて思ったことは残念ながら一度もないもの」
女の格好をした男、ではあるが、その中身はこうだった。
曰く、男に抱かれるなんてぞっとする、らしいのだが、女でも男でもどちらでもいいらしい。実際、女と付き合うこともあれば、男と付き合うこともあった。
小林はそういうものか、と話を聞いて思うばかりだ。ただ、彼が確固たる己のルールを維持しているというのはよくわかっていた。
そして時に、その確固たる彼のルールとの社会との摩擦で、大変そうだなとも思っている。だから小林は目の前の基本は何事も軽く見せる男が、その実、相当苦労を積んでいるのではないかとも思っていた。
「大体、誰かのものになるなんて無理な話じゃない?私は私だけのもので、あなたはあなただけのものでしょ」
「その理論でいくと、最初の質問は意味が分からないけど」
小林があきれを隠さずに息を吐けば、むむ、と眉根を寄せた。
「無理な話って思うのは私の意見で、あなたは誰かのものだって意識があってもいいわけよ。そういうこと」
なるほどね、と肩をすくめて、小林は視線を落とした。
「・・・どうなんだろう。俺は、あんまり、カレン君ほど、こうあるべき論はない・・・かな」
言い淀んでしまうのは、託されたものに従う部分は確かにあるからだ。小林は、遺されたものを残し続けるために動く部分はたしかにある。
カレンは、にんまりと口を曲げて笑った。
「まあ、たしかに、私はこうあるべき論は強いかな。私ね、ルールの中でしか生きていけないんだよねえ、だからつい、法律みたいに自分ルールを課しちゃう」
カレンは、アルバイトを通じて知り合った男だった。男っぽくしてみたり、時にそこらへんの女らしく姿と見た目を変える。
とはいえ、化粧とその姿の変え方は趣味でしかないらしく、普段は国立大学に通う経済学部の学生だった。カレン、というのも本名で、別に偽名というわけではないのは、学生証を見て知っている。
小林が彼と仲がいいのは、その化粧スキルを伝授してもらったからだ。見た目の変え方は基本的には彼経由で教えてもらっている。特に女の化粧については、流行もあって、ただ無難に化粧をしていればよいというわけではないので、その流行を追うために、たびたび教えてもらっていた。
「・・・ねえ、なんでカレン君は、そんなに見た目を変えるの?男の人、別に好きじゃないんでしょ」
ふと、気にはなっていたが、一度も聞いていないことを思い出して口にした。なんとなく聞くのがはばかれていたけれど、この際だと聞いてみることにした。
冷静のようでいて、そうでないかもしれないと小林は思った。
普段の自分ならそつなく話して終わるだろうに、困った挙句、自分の恋愛まで話すなんてどうかしている。
いや、もともとそういう方面に疎くはあるので、カレンが男も大丈夫ということもあって、たまに話してはいる。だがここまで深くカレンの核心に触れたこともなければ、小林自身を掘り下げて話すこともなかった。
深くかかわってしまうのは面倒だ。そつなくこなすうえでは、あまり自分のことは話さないほうがいいし、相手のことも深く知りすぎないほうがいい。
カレンは目を丸くした後、んーと人差し指を口元にあてて、少し首を傾げた。その動作は一見すると女のようで、動き方が堂に入っていた。
「・・・『俺』ね、実は、妹がいたんだよ。双子の、妹。まあ、双子だから上も下もないんだけど、一卵性だったからこれまた瓜二つでさー」
いた、という過去の言い方にぎくりとした。
「でも、中学生の時に、交通事故でぽっくり。『俺』だけ残されちゃってさ」
いやあ、困ったよ、とけろりとカレンは口にした。
「親がね、悲しんじゃってもう、下にも兄弟いたんだけど、全然だめでさ。生活もままならなかったんだよね。片方はいないのに、よく顔の似たもう片方が残ってるわけで、母親が病んじゃってさあ、だからほら、『私』が服を着れば、ごまかせるなって」
軽い口調に、聞くのではなかったと後悔がよぎった。それでも、彼にとってはそれぐらいで語るものなのだと思いもした。
「『俺』もね、髪をのばして、鏡をみると、妹がいるわけ。それからかな。二重人格とかじゃ全然ないし、間違いなく妹はいないんだけどさ。でも、一緒に死ねなかったから、結構な頻度で、今生きてたらを考えちゃうんだよね」
に、と彼が眼を細めて、首を傾げた。
「・・・重くてびっくりした?」
どこかからかうような視線に、小林はゆるく首を振った。
「・・・俺も、亡くしたひとがいて、どうしてって考えちゃうから、そんなに。なんか大変そうだなって」
んふふ、とカレンは相好を崩して笑った。
「小林君の、そういうとこいいよね。大変は大変だったよ。でも、今は親とも離れたから楽。これは趣味。生きてたらこれぐらいなんでしょっていうのを実感したいだけなの」
からりと笑う彼の中には、たぶんきっと、本当に妹がいるのだろう。それは切り離せないような重さで、彼の中で生きている。
「でもね、わからない。本当のところは」
にひ、と明るく笑うカレンに押されるように、小林も言葉を探した。
けれどうまい言葉が出てこず、琥珀色の液体を眺める。
「・・・小林くんには、ちょっとだけ教えてあげる。わからないよ、でもね、もうね、『俺』は妹のものなの。誰にも渡さない。・・・あげられないよ」
困ったように笑う顔に、小林は息が詰まる思いがした。
他の誰にも渡さない。もう自分は彼女のもの。死んだひとのものだから、ほかのひとにはあげられない。そういう思いを持つひとを、小林は知っていた。
彼女は、何もおぼえてはいなかったけれど。
けれど、知っていた。
ごめんね、とカレンが申し訳なさそうに謝った。その謝罪に、小林はゆるく首を振る。
「だから、もう誰のものにもなれないんだ。そんな気分が抜けなくて。でもね、ほら、小林くんと私は違うでしょう?」
カレンに優しく、それでいて遠くから眺められて、小林はうつむいた。
「・・・俺もね、なんでかわからないんだ」
小林は、カレンのように茉李を思うことなどできない。たとえそれが井村でも、小林はこんな風に思い続けることなんてできないと思う。
「なんであの男のそばを選んだのかわからない。前にも言ったけど、別に甘ったるい、ドラマみたいな恋愛関係じゃなかったし」
好きなのかと言われると、そうでない気がした。
別れてくれと言えているのがいい証拠だと思う。
これでいいんだ、大丈夫、こういうものだからと言われるたび、そうなのかとうなずいていた。
けれど、理由を探して、見つからなくて、やめてしまいたくなる時は、あった。
それが積もりに積もってしまったような気もするし、ただ煩わしくて仕方なかっただけのような気もする。
けれど、口にしたときは確かにせいせいとしたのだ。
それは間違いがなかった。
「・・・でも、別に男でも平気だったんでしょ?」
まあね、と小林はうなずいた。
「ぶっちゃけて聞くけど、カレン君、男とやれる?」
思い切ってあけすけに尋ねてみれば、うん、と彼はにっこり笑ってうなずいた。
「男役も女役もどっちもしたことあるよ。でも大抵、男とやっても、できるだけなんだよねえ。まあ、私が誰とでも付き合っちゃうからかもしれないけど」
小林が少し目を伏せると、カレンは苦笑した。
「なあに、男と付き合うことを悩んでるの?そんなタイプじゃないと思ったけど」
ううん、と小林は首を振った。
「それ自体はあんまり、悩んでない」
問題なのはなぜ男なのか、というところではなく、なぜ『あの男』なのか、という点だ。
静かに目を伏せた小林に、満足そうにカレンは笑った。
「だよねえ、そういうとこも好き」
ありがとう、とあいまいに笑って返す小林に、カレンは一転してニヤリとして面白そうなものを見たような顔をした。
「でも、恋してるって感じだよねえ、だって別れ話したのに、ずーっとその人のことを考えてるんだもんね」
「は・・・」
猫をかぶった仮面がぼろりと剥げそうになるような指摘に、小林は目を丸くした。指摘は全くその通りだが、それが恋かと言われると微妙だと、小林は思う。
思わず口を開けたままぽかんとすれば、やだ、かわいい、とカレンが赤い口の先をとがらせる。
「小林君だったら楽しくできそう。どう?別れたんなら私と付き合ってみる?」
判別のつかない軽々しい口調に、小林は呆れを隠さなかった。
「軽いなあ・・・」
「私には日常茶飯事だしね」
片目でウインクを飛ばされて、小林はため息を吐く代わりに冷たい紅茶を口にした。
たしかに、小林がきちんとした形で付き合ったのは井村だけだ。他を知らないと言えば確かにそうだし、相手が承諾していないにせよ、別れ話をしている最中なのは確かだった。
「相手が納得しないなら、他に好きな人ができたからは無難だと思うよ」
カレンからの助言に、ううーんと小林は悩んだ。
そんな簡単に心が移ったとか言っていいものか、そもそもカレンと付き合った場合、ぶっちゃけできるのかが悩みどころである。
ただ、井村以外の誰か、というのは選択肢になく、それを経験として試してみるのは、悪い選択肢ではないように思えた。
あの男と他の人では、何が違うのか。実際にほかの男を試してみるのは、悪くないかもしれない。自分が『あの男』に囲われていた理由も浮き彫りになるかもしれないと、冷静に考えた。
「・・・ううん、まあ、たしかに、悪くないかも」
「まあ、無理だよねー、うんうん。って、・・・・え?」
小林の言葉に勝手に納得しかかっていたカレンは、目を丸くさせていた。
何を驚いているのかと小林は首をかしげる。
「わ、わるくないかも・・・?」
恐る恐る、といった様子で訪ねてくるカレンに、小林はこくりとうなずいた。
「悪くないかも。カレン君と付き合ってみるの」
ひえ、とカレンは引きつったような声を上げて、あたりを見回した。
何を探しているのか、小林も室内を見回してみるが、昼間には不釣り合いな、黒いスーツの男が座っているだけだった。
視線を戻せば、ほっとしたような顔をしているカレンがいる。
「あーびっくりした。いや、ほんと。リアス海に沈められるとこだったよ、俺・・・」
意図せず口調が素に戻っていることに、何か驚くことがあったかと首を傾げた。
とりあえずやれやれ、と胸をなでおろすカレンに間が持たず、紅茶をすする。
「・・・は~つか、まじかわいそ~小林くん本気?だったらほんと、まじで最低だよ、わりと」
最低、の意味が分からず、小林は紅茶をすすりながら眉根を寄せた。
「・・・そんなに?」
繰り返される言葉に、自分は本当に最低なんだろうかと、小林は悩んでしまった。
しかしどれをもってして自分が『最低』なのかが判断がつかない時点で、ダメなのかもしれないとも思う。
「まあ、誰のものにもならない私は、あんまり言えた義理じゃないんだけどね。ましてやずっと、妹が忘れられないわけだし。だって、亡くなったから、別れたいって、それ、その人とは何にも関係ないじゃん?」
カップを口から離して、小林は思わずカレンの顔を凝視した。
複雑な関係を知らないと言えばそうだし、小林の中の細かな心情を話していないというのもある。だからそう指摘されるのは仕方のないことではあった。
ちがう、と、とっさに言えればよかった。
だが、小林の口からは否定の言葉が出てこなかった。言葉を探して口を開き、そして見つからずに閉じてしまう。
「その人が浮気したわけでもない。いや、してるのかもかあ。だって、小林くんのものにはなってくれないもんね。それで?それって、今回、小林くんが大切に思ってた人が亡くなっていたのと、関係ある?」
「・・・」
関係あるとは言えない。そうした事実だけ並べれば、確かに因果関係のようなものはまるでないのだ。
カレンは軽そうな言動とは裏腹に頭がいい。大学ではきちんと勉強しているようだし、お金がないからという理由と、自分の見た目を変えるのが好き、というだけで女装した人がサービスをするバーで働いているぐらい、効率の良さを重視する。
「だから嘘おっしゃっいってったのに。・・・小林くんはさあ、いろんなことがうますぎるんだよねえ。でも、上手すぎるから、そういうところが分からなくなっちゃうんだよ」
「そういう・・・ところ?」
どこ?と首を傾げれば、カレンはあは、と妙に高い声で笑った。
「たぶんね、たぶんだよ。私は小林くんじゃないし、自分ルール強いし・・・きっかけなんだよ、その人が亡くなったのはさ」
どういうこと?と小林は思わず顔をしかめた。
これが恋の話の延長だと言われたら、わからないのは仕方がない。そう思ってしまうほど、小林はそういうことから離れてきた。
「今まで、不満があって、でもそういうのひっくるめてそれが大切な人に意識が向きすぎていて、直視してなかった部分に、気づいちゃったんだよ。だから、恋してるんでしょ?だって、興味なかったら、もっとうま~くやりそうだもんね、小林くん」
実際、モテるけど、そつなく断るもんね。近づかないしね。
と、けろりと言われて、小林は絶句した。
(こい・・・)
にぱー、と明るく笑う男が脳裏によみがえる。能天気そうに眼を細めて笑う、黒いシャツを着ているやくざに、恋。
似合わなさ過ぎて、小林の想像力が崩壊した。あのやくざに恋か、と思わず遠い眼をする。
(こい・・・こいね・・・)
「ないな」
思わず断言した。
殴り合いをする男と恋。どんな事情があれば、そんな恋人を殴れるのだ。殴って楽しむ趣味は小林にはない。
小林は殴るし胸元ひっつかんで怒鳴るが、少なくとも茉李と箱崎はそんなことしなかった。箱崎は真綿でくるむように優しかったし、茉李も箱崎に優しかった。
それが翻って、小林はどうだ。
優しさとは程遠い。ふざけんなよ、と殴るし、恫喝する。おまけに性欲お化けなあの男にいろいろされたし、されることにブチギレたことも少なくない。
(ない・・・考えれば考えるほどない・・・)
ますます思考が迷宮入りした小林をみて、カレンはもう、と口の先をとがらせた。
「早く認めたほうが楽だと思うけどなあ・・・。まじでかわいそうだし・・・・まあでも、本当に他の人を試してみたくなったら、予約は一番ね、私のところおいで」
ね、と念押しされて、考えておく、と小林はうなずいた。
「コバヤシさん、デスかネ?」
訛りの強い言葉で話しかけられて、小林は思わず顔を上げた。
先ほど室内を見渡した時にいた、黒いスーツの男がそばに立っている。小林が首をかしげると、ちょっと来てください、と言われる。
「・・・僕に用ですか?」
すぐに外行きの不安そうな顔を作ると、男は、にやりとかすかに口の端を歪めた。簡単そうだなと余裕がにじむその表情に、なぜだが嫌な予感がする。
「ワタシの主人、あなたに用アル。あなたの恋人のハナシ。ちょっときてホシイ」
井村から何も聞いていないことが余計に不安だった。なぜ知らない男がいきなり話しかけてくるのだ。しかも井村のことで、と言われると、浮気相手による呼び出しか、それともこれから修羅場なのか、と考えるものの、井村の職業を考えれば、そういう痴情のもつれでない可能性も大いにある。
そしてそうであった場合、今ここにいるカレンにまで被害が及ぶのは避けたかった。
小林はあえて困ったように、カレンを見た。
そしてすまなそうな顔を作り、ごめんね、と口にする。
「ちょっと、行ってくるね。今度、この埋め合わせはするから」
呼び出したのに申し訳ない、とこちらが悪いという態度を作る。
カレンはにっこり笑って、大丈夫だよ、と言ってくれた。
「あ、でも私があげた、夏限定のやつはちゃんと持っててね、私もバイトあるから、次がいつになるかわからないし」
うん、ありがとうとかすかに笑って、小林は席を立った。自分の分のお金を置き、ついていく、という従順な態度を見せれば、男がくちの端を吊り上げた。
その笑い方を目ざとく見とがめ、修羅場は修羅場でも浮気やらとは違うものかもしれないと小林は判断した。ここで逃げて変にカレンに被害が及ぶのだけは何としても避けたい。
男の言うままについていくと車に乗せられた。
このままどこかに行くようだと、小林は不安そうな顔の裏で、冷静に道を記憶した。

小林がいなくなってしまった空席に向かって、カレンははあ、と重たい溜息をついた。
「勘弁してえ~小林くんはすきだけど、ここまでは聞いてないんですけど~」
もう、と口の先をとがらせながら、カレンは携帯端末を取り出す。黒い画面で少しだけ口紅が落ちているのに気づく。
直さないとなあ、と思いながら、携帯の画面を操作して、電話帳を開いた。ネイルで彩られた爪先でタップして、すぐにコールをかける。
呼び出した男はすぐに『はい?』とつながった。
「超さいあくなんですけど。小林くん、なんか中国人っぽい男に連れてかれたんですけどお~っていうか、わたし、そこまで聞いてなーい。聞きたくもなーい」
不満をぶうたら混ぜつつ報告すれば、そうですか、と涼やかな返事が返ってくる。
『どんな感じの男でしたか?』
「フッツーの男。日本語へたくそなぐらい?思わず中国語で話してやろうかと思ったぐらいには、へったくそ。まあ、ほらあ、ここ中華街近いから~」
なるほど・・・と向こう側で悩むような声が聞こえた。
小林は本当にいい子だし、きれいだからカレンは友人としてかなり好感があった。ただ、小林を好いている男が物騒すぎるのを、小林はちっとも自覚していないから、困り者だと思う。
(ぶっちゃけ、ふわってしてるとこがあるからねえ)
小林が男にもかなり好かれるのをカレンはよく知っている。女装するとめっちゃかわいいのもよく知っている。
だから、小林の恋人が、その仕事の力を使いまくってあらゆるところから威嚇をしているのも、まあよくわかるのだ。カレンのバイト先は、彼の恋人の傘下の傘下ぐらいの系列だ。そんな端っこの系列にもかかわらず、小林が化粧を学ぶために女装する子専用のガールズバーに体験入店してきた直後ぐらいに、圧力をかけてきた。
おまけに仲良くなったカレンにまで取引を持ち掛けられる始末だった。
どれだけ余裕がないんだと呆れもしたが、本業相手に立ち向かえるほどカレンも強気ではない。長いものには巻かれるに限ると、あっけなく取引に応じた。
(ていうか、ふつーに心配だよねえ。意外と隙だらけだし)
小林はいろんなことをそつなくこなすなあ、と思う。にっこり笑って、はねのけるというよりは受け流す、ということがとてもうまい。
けれども、今日の恋の話には少々驚かされた。
そつなく小林にも、うまくいかないことがあるらしい。
(・・・わたしもらしくなく、重たい話しちゃったなあ・・・)
話した内容について、カレンは苦々しい思いが消えない。そんなことを話すつもりはちっともなかった。なのについつい、悩んでいる小林に、いらぬことを言ってしまった。
小林のらしくなさを笑えないのは、自分の過去まで引きずり出してしまったせいだろう。
(でも、しょうがないよ、わかるもん)
誰かをなくすと悲しい。
つらくて苦しい。
カレンはそのことをよく知っている。だから自暴自棄気味に、何もかもを突っぱねてしまいたくなる気持ちもよくわかる。
悲しくてしかたないから、その人のことだけを考えたいから、そのほかを締め出してしまうのだ。
何もいらない。
気遣いは無用だ。
ただ。
亡くしたあの人のことだけに、溺れていたい。
カレンの場合は、親がそうだったし、カレン自身がそうだった。
(でも、俺はよかったよ。だって同じ顔だもの)
だからかわいそうに、と小林を思った。
それだけ大切な人をなくしたのだ。
カレンもよくわかる痛みだ。
そしてその痛みの意味のなさも、よくわかっている。
(でも、死んだことと、締め出すことと、他人の好意を無下にするのは、関係がないんだよ~)
とげとげして、ひどいことを言ってしまうのは甘えなのだ。
結局のところ、それをしてもいい相手にしているに過ぎない。
それに小林は愛されている自覚が足りなすぎる。
愛されている男がどんな男かの危機感がまるでない。
小林のあらゆる小物に発信機とか盗聴器とかをしかけているような男だ。それを聞いたとき、カレンは正直引いた。小林自身が知らないにせよ、そこまでするのかと思っていたし、うわあ重いなあとカレンは思っていた。
今日渡した化粧品だってそうだ。GPSが仕込まれている。そんなものをカレンが渡しているなんて、小林は気づかないだろう。
まあよくあんな重いの平気だな、と思っていたが、小林はまるっとそういう自覚がないのだから、重いもへったくれもないのだろう。
(私からの誘いが軽いなっていうのはわかるのにねえ)
全くよくわからないよね、とカレンは小さく息を吐く。
『・・・今、チャイともめてるのは?』
知ってるか、と言外に言われて、知ってますう~とカレンは口の先をとがらせながら応じた。
「わたし、そこまで入り込みたくないんですけどぉ・・・。いやー聞きたくなーい」
世の中には知らないほうがいいこともある。知ってしまえば墓場まで持っていかなければならない時もあるのだ。
それならば、何も知らない阿呆をしていることがいい時もある。だから女たちはそうするのだと、カレンはよく知っていた。女は馬鹿なほうが良い。少なくとも、自身がすごいとあからさまに口にはしないものだ。マウントを取ろうとしてくる女は十中八九、マジもんの馬鹿である。そんな地雷女とは絶対にかかわりたくない。
ふ、と電話の向こう側で笑い声が聞こえた。
『お前は頭がいいですねえ。だから電話したんでしょう』
「いやん、照れちゃいますう~でも、そこまで落ちるつもりはないので悪しからず。私は、わたしのすきな小林くんをまもりたいだけです~」
取引に応じたのも、ひとえに小林が好ましいからだと強く言う。
実際その通りだし、これが小林でなかったら、そんな取引には応じない。
どういう考えにせよ、小林は喧嘩もそれなりに強いのでついていったのかもしれない。だが、小林は本業相手に気が強すぎる。ああいう人種は手加減も法律も知ったこっちゃないのだ。
「あ、あと、小林くん、今日かれぴーに別れ話したみたいですね?ほかの人に行くぐらいなら私のとこで留めときますから、よく言っておいてくださいね~横からかっさらう気はありませんので」
おっかいない恋人にきちんとくぎを刺すのも忘れない。
たかがアルバイト一つにも圧力かけてくる男がこわすぎる。そんなおっかない男に敵うとは到底思えない。
(まあ、小林くんが本気で選んでくれたら別だけど)
試してみたいぐらいなら自分にしておけと言ったのも本心だ。基本的に手を出すつもりは毛頭ないけれど、小林が本気で選んでくれたならカレンも小林のために本気になってもいい。それぐらいには好きだった。
ただ、それはないだろうとカレンは冷静に思っている。
あの口調だとまるっきり恋人のことが好きで仕方ないようだった。とはいえ、それも小林なりに、という愛し方だろうし、強い否定から、小林が『恋』というものに理想を抱いている可能性も高い。
(両片思い、みたいな?)
不毛だな、と鼻で笑いたくなってしまいそうだった。
だが、それでも小林は小林で本気で悩んでいるらしい。
『ああ、それで機嫌が悪かったんですね、あのひと』
ふ、と鼻で笑う声に、うわあ、とカレンは引きつった笑いを浮かべてしまった。
(強すぎなんだけど・・・)
そんなおっかない人に別れ話を切り出す小林は強すぎる、とカレンは遠い眼をした。
『大丈夫ですよ。それはこちらで何とかします。あのひとの問題ですし、ね』
よろしくおねがいします、と伝えて、カレンは電話を切った。
「ごめんね、小林くん」
カレンは少しだけ申し訳なさそうな顔をして、謝罪を口にした。
でも心配だから許してね、と心の中でひっそりと付け加えて。

狼徹がいつも頭に浮かぶのは、『もう何も見なかったことにして帰りたい』である。自分の目で見てしまったこと、聞いてしまったこと、そのすべては何もなかった、聞かなかったことにして家に帰り、何日も干していない湿ったベットの中でゆっくり目をつぶって、うとうととして、そのまま死にたい。息だえて干からびたミイラとかがいいと、長いこと思っている。
あるいは次の日の朝、目が覚めてなあんだ、夢だったのか、と起きて、母親の準備する朝食を食べて、普通に学校に通う。
それが若干中学二年生にして徹が抱いた夢であり、常に頭の片隅で希望し続ける望みだった。
昨夜も昨夜とて、『もう何も知らない。見なかった』とぶつぶつとつぶやきながら、ベットへ入り込んだ。
残念ながらシーツもタオルケットもきちんと干されて洗濯され、きちんと乾いており、汗の香りもない。太陽のような、植物のような甘いにおいのするさらりとしたベットの居心地の良さに負けてうとうとした。
『とおる、よくやったわねえ』
そう母親が頭をなでていた。
それが夢だとわかっていながら、顔も浮かばない母親は、徹の頭をゆっくりとなでる。
そうだよ、がんばったんだ。
そう伝えたいのに、次第に母親の顔は消えていった。代わりにぶくぶくと顔が膨らみ、首に縄をかけた男が、とおるぅ、と自分の名前を呼んだ。
『どうしてどうしてどうして、どうしてもっとはやくたすけてくれなかったんだ。どうしてだ、とおる。どうして』
「う・・・」
男は徹の首に手を伸ばした。息ができない。ぎちりと気道をふさがれるように息苦しくて、それでも徹は男から逃げられなかった。
『どおしてえ・・・』
「クォイラン、クォイラン」
ぺちぺちと頬を叩かれた気がした。息ができない、苦しいともがいていれば、ふう、とのどに空気が入ってきた。
ついでのように、あたたかいものが口をぐちゅりと探る。舌をとらえられ、ずるずると吸われると、ぞわりと腰に何かが走った。動物が餌をねだるような動きが執拗で、体が熱くなるのがぼんやりとしながらもわかった。
(あ、まずい・・・)
ちゅぱ、と飴をなめ終わったような、水の音がした。ぺろりと唇をなめられて、ぞわりとしたものが、はっきりとした形を持ちそうになって、徹はまずいと意識を覚醒させる。
(やばい、たつ・・・)
せっかくきれいなシーツなのに、汚してはしまうかもしれないと、ゆるりと意識を浮上させた。
意識は取り戻したものの、ぼんやりとしていて頭が重い。
目を開けても瞼が重たくて、ずきずきと視神経がつかまれているような気がしてならない。
昨夜はかなり遅かったのに、ろくに寝られもしなかった。
その日常に、辟易する。
徹は、朝からもう二度と目を覚ましたくないと顔をしかめながら起床した。いつものようにひどい隈は少しも薄れていないに違いない。
その事実にすら憂鬱として、目を開ける。
「早上好(おはよう)、クォイラン」
起きた瞬間、ぼやけた視界いっぱいに、美しい顔が広がっていた。
(・・・見なかったことにしたい)
朝から湧き出る希望が、少しも通らないことはわかり切っていても、このまま目を閉じてしまおうか迷う徹だった。
自分を覗き込んでいたのは、切れ長目の美しい男の顔だ。油っ気のない黒く長い髪を後ろで一つにまとめ、涼し気な目元はどこぞの俳優の微笑みかと思うほど、ゆるく細められている。その姿はドラマで俳優が恋人役に朝あたりに、微笑む姿そのものだった。
世の女たちが黄色い声を上げてしまいそうなきれいな顔を、すこしぼやけた視界いっぱいに映す。
このままでも十分観賞用の広告になりそうだと、徹はきらきらとした効果でも付きそうな顔を見上げた。
この顔がきらきらしているから余計に、敵うはずがないとわかっていても、ひどい隈をひっさげた自分の顔を見て徹は憂鬱になる。
不健康なほどに白い自分の肌と、不眠症から生じるひどい隈。眼鏡をかけているから顔立ちのぼやける自分は何もかも違いすぎる。
あきらめにも似た心地で徹は己の欠陥品具合に死にたくなるのだ。
人間として盛大に劣っているような気がして仕方がなくて、同級生の顔もろくに見れない。
見るに堪えないと向こうも思っているに違いないと、中学生から大学生になった現在までそう思っている。
徹は年を重ねれば重ねるほど、きちんとした大人になれない自分自身が嫌で仕方なくて、なぜ相も変わらず生きているのかと毎回自問自答する羽目になる。
(しにたい・・・)
徹がぼんやりとしていれば、きれいな顔は、近寄ってきてこめかみに唇で触れた。
「起きれますか?ごめんなさい、昨日も遅かったの知ってるんですか、主人がこちらに寄られるそうなので」
その言葉を聞いて、徹は男を押しのけて上半身を持ち上げた。それと同じように自分にはい寄る希望を心の片隅にガラガラと押しのける。
「起きます。ジィェン、コーヒーお願いできますか。あと僕、の、眼鏡は・・・?」
昨夜は何も考えずにベットに倒れこんだような気がした。徹がもしかして眼鏡をしたままのなのかと不安になって自分の顔に触れると、男はにこりと笑う。
「なくても平気でしょう?」
指先にいつも触れる眼鏡の感触はなかった。
だから徹は、まあ、と男にあいまいに返す。実際、視力は左右に偏りがあるのでしている、いわゆるがちゃめというものなので、普段の日常ではそんなに必要ではない。必要なのは文字を見る時だけだった。
眼鏡はあきらめて、すぐに風呂に入ったのかどうかを思い返す。
しかし頭は重くどんよりとしていて、世界がぐるぐると回っている気がした。
男はさっさと部屋から出て行ってしまい、風呂に入ったのかどうか、徹は自分の記憶と格闘する。
あたりを見回しても眼鏡はなく、もしかして壊したのではないかと一抹の不安がよぎった。
服は半そでを着て下着をつけているだけだった。半そでが昨日の服と違うので、風呂に入ったのか、と思うも、いまいち思い出せない。自分の体臭を確認しても、徹では判別がつかなかった。
重たい溜息をつきながら来客に備えて白いシャツと黒いスラックスに着替えて、男の後を追う。
「ジィェン、あと、思い出せないんですか、ぼく、お風呂は入ったんでしょうか」
自分の記憶に頼らず、居間でコーヒーを入れていた男に問うと、きれいな顔は困ったように微笑みの形を作った。
「あまりにきれいな発音なので、ジアと呼んでくださいとお願いしたかと思うんですが、クォイラン」
あなただって、ぼくのことをそんな風に呼ぶじゃないか、と徹は顔をしかめて言いたくて、言葉を飲み込んだ。
代わりにすいません、と謝って、居間のソファに座る。
「それにしても元気ですね、あのひとは・・・。僕と同じぐらいまで起きていたはずですが、もう起きたんですか」
「日ごろの差ではないですかね。あと、お風呂はきちんと入れましたのでご安心を」
日ごろと言われると、徹は反論する言葉がない。ろくに寝れないのはもう10年以上のことで、それを毎回笑われていた。
(何が楽しいんだか・・・)
ずきずきと目元が痛む。徹が頭を抱えていると、ふんわりとしたコーヒーの香りが漂ってきた。
こと、と机に陶器が置かれた音に顔を上げると、ジアは優しそうな顔をしていた。
その表情に、自分がひどく至らないから気を使われているような気分がして憂鬱になった。
「・・・入れたので、ということは、またあなたに頼ってしまったんですか」
ふと気が付いて問いかけると、ジアは首を傾げた。
(ぜったい、このひとが入れたんだ・・・)
記憶がないのでそういうことだろうと断定した。大学生にもなって風呂もまともに入れないとは人間としてどうかという思いがぬぐえない。
「・・・昨日はだいぶ、お疲れのようでしたからね。今日はゆっくりと休みましょう、クォイラン」
慰めのように当たり障りなく労われて、徹は気がめいりこんだ。
「なにもなければ、そうします。ジア、コーヒーどうも」
カップに手を伸ばし、カフェインで眠気を吹き飛ばす。同時に胃に迫る吐き気をこらえて、徹は少しだけ目を閉じた。
ポーン、とチャイムが鳴る。
反応して顔を上げれば、見てきます、とジアがにこやかにかけていった。
(なにもないはずないけどな・・・)
不眠症とPTSD、いわゆる心的外傷後ストレス障害を抱える徹の体調はいつも最悪だ。
おまけにフラッシュバックが出ることもあるので、日常生活を送ることさえままならない。不眠症は少しでも眠ろうものなら繰り返す悪夢のせいで、それを克服することができない精神の弱さに気がめいるばかりだ。
精神障害を抱える徹は、少しでも寝れば夜に叫ぶことがあるようで、一人暮らしができない。
だからといって徹自身のことをよく知らない、自分の後見人から斡旋された男とくらすのはいかがなものかと、思い悩む時がないでもない。だが、ジアは根気強く優秀だった。
徹のいろいろな病を知り、時には本などで学んだ。癇癪と勘違いできそうな病を正しく理解し、できるだけ生活のしやすいようにサポートしてくれている。
昨夜は後見人の男の仕事に付き合わされ、久しぶりに見なかったことにしたいがたくさんあった。本来であればこんなことを知らずに生きてゆけるのでは、という思いから発症する憂鬱さが徹の中にはびこっている。
こういうとき、多分夜にわめいたりしているのだろうが、徹には前日の夜の記憶のない。
うすらぼんやりとしていて、もやがかかったようにあいまいではっきりとしていないのだ。
きちんと寝たのか、食事をとったのか、風呂に入ったのか、そのあたりさえあいまいだ。
体の疲労感だけが残り、たまに腰がやたら痛い。でも記憶がないので、何が起こったのかは同居人に聞くしかなかった。
それでもジアは、あいまいに笑って、お疲れでした、というだけだ。
(どうせ昨日もろくなことをしていないに違いない・・・)
そして今日もそうなる可能性が高い。
主人がやってくるということは仕事の話だろう。
仕事の話はいつだって憂鬱だ。
人間なんて全部滅べばいいのに、と徹は心の底から願っている。
「よぉ、相変わらず死にそうなツラしてんなぁ、ワン公」
ガチャリとリビングに笑い交じりに入ってきた男に、徹はどんよりとした視線を向けた。
黒いシャツに白いジャケットを着て、色素の薄い眼を面白そうに細めている。暴力も恫喝も何もかも楽しいと嗤うその目が、何年も前から変わらないまま、徹を眺めていた。
顔は特段美しいということはない。それでも鍛えられた体は、服の上からでもわかるし、健康的な顔は精力的で美丈夫とは言えるだろう。
だが、この男はただただ、恐ろしい。
そのことを、誰よりもよく、徹は知っている。
「・・・昨日ぶりですね、おはようございます」
ばかいえ、もう昼過ぎだ、と男は笑い、徹の向かいのソファに腰を下ろした。
ポケットを探り、白い煙草の箱を取り出したところで、男は動きを止めた。
「お前には禁煙だって、日野が言ってたな。どうせ昨日も乱交だろ?お楽しみだったか」
肩をすくめて煙草の箱を戻す。
何年前の話を持ち出すんだと、徹は小さく息を吐いた。
そして、上司というよりは主人からかまされるセクハラに、はあ、と徹はあいまいな返事を返す。
「ジア、井村さんにもコーヒーをお願いします。・・・・いつも言ってますが、記憶がないんですよね。もう煙草も気にするような年ではないですので、どうぞ」
ジアが目を丸くしていたので、徹は首を傾げた。
井村は眼を細めて面白そうに笑い、その視線を受けたジアは金縛りが解けたように動き出す。
徹はローテーブルに足を乗せるガラの悪い男を前に、コーヒーをすすった。飲んだとたんにきついカフェインのせいで喉元まで迫りくるものがある。
徹はせり上がる胃液を、口元を抑えてこらえた。
「・・・で、何かあったんですか。通訳はもういいでしょう?」
昨夜、巨額な損失を出した中国マフィア相手に、通訳をしたのは徹だった。ただの通訳だが、三億に押しとどめる男の手腕をすべて翻訳するような行為は、事件のあらましをすべて把握するには十分すぎた。
女は余計なことしかしないから嫌いだと、こうして通訳の仕事をさせられるたびに徹は思う。
「・・・お前の親の借金が1千万にしろ、いい買い物だった。俺はお前を本当に評価してるよ」
悪意のない、子供のような顔で、さらりと言われても徹は憂鬱が増すだけだ。褒められるのも目立つのも苦手だった。
今すぐ寝室に引きこもりたい、と視線を下げる。
この男が仕事の話をしないことと、徹の質問に答えを返さないことに嫌な予感がした。
徹が憂鬱そうにしているのに気付いたのか、目の前の男はげらげらと笑う。
「お前の謙虚を過ぎて鬱になるのは俺のせいだからな。死ぬ以外ならなんでも要求していいぞ」
しぬのはもったいないだろう、と出会ったときにも言われた言葉をかみしめる。
死ぬのはもったいない、お前は臓器売るよりも価値があると、肉よりは徹自身を評価されていた。
徹は頭を切り替えるべく、重い溜息を吐き出した。
頭が痛いし、吐き気もひどい。大学生になってからは日野たちから離れ、こうしてジアと生活するようになった。それももうすでに二年ほどたっているが、相変わらず一人で寝ていては症状が軽くもならない。
仕事の話をせずに笑う男が、あまり機嫌がよくない気がする、と徹は肩を落とした。
いつも言いたいことだけ言う、暴力の塊みたいな男だ。享楽的で、つまらなければ猫のように熱した鉄の板の上で踊れと命ずるような性格を、徹はよく知っている。
「あー・・・じゃあ、久しぶりに死ぬほど犯してくれませんか。日野さんと、灰の兄さんたちともやってないんで、正直、寝たいんですけど・・・」
享楽的な男の側近のもとで、徹は5年以上、一緒に暮らしていた。人となりに感化されているとは思いたくないが、余計な遊びはそこそこ覚えてしまった。その遊びに抵抗のない頭を、どうかと思うときがなくはない。
だがそれでも、そういう手段を用いてでも、体の不調をどうにかするために、徹は少しでも眠りたいのだ。
がっしゃーん、と陶器の割れる音がした。
驚いて徹が振り返ると、ジアが青い顔をして立ち尽くしている。
「・・・気にするな。お前のことを詳しく話してなかっただけだ」
なぜか井村が気まずそうに顔をそらした。
ずきずきとする頭ではろくに気も回らない。
徹は、どうしたのかとジアに尋ねるも、なんでもない、と首を振られて終わりだった。
「ジアはどうしたんでしょうか、らしくもないですね」
「・・・お前は中学生ぐらいから日野たちと暮らしてるからなあ、倫理とかそういうのあんまないだろ」
母親の胎の中に倫理を置いてきたような男にしみじみと言われ、徹は納得がいかなかった。
昨夜もその口で、女は風俗に入れてこちらで稼ぐだけ稼ぐが、欲しければくれてやると言っていた。好きに使え、なんなら男もいるかと示しておきながら、相手のメンツのぎりぎりを攻め、回収額の4.5億を持っていかれては、探す手間に見合わないと言い切ったのだ。
その時の冷たい空気を思い出すだけで、徹は臓腑がひやりとする。
「・・・一番寝やすいのがセックスなんで、手段ですけどね。風俗に行くかどうかは悩みどころです。日野さんたちに混ぜてもらえばいいし、金もかかるし。というか、そんなご褒美やるぞって話をしに来たんですか?」
呆れたような声を出せば、井村は悩ましい顔をした。
昨夜の冷え冷えするような顔はどこへ行ったのか。こうしてただ話しているだけならば、ヤクザというよりは、世話焼きな親戚の兄のようだった。
「いやーまあ、それは日野に打診するしかねえかなあ~恋人いるから今はやんねえよ、俺は。ご褒美もあるけど、追加で仕事」
やっぱりか、と、徹はまたコーヒーをすすった。
今日も記憶をなくすに違いないと憂鬱になった。
ジアがようやく井村の前にコーヒーを置き、徹の後ろに控える。なぜこっちに、と思わなくもないが、徹はカップをテーブルに置いた。
「・・・俺のなあ、恋人にちょっかい出してきたからさあ、3億なんてやるもんかっておもってさあ・・・」
ぼそりと幾分低い声で呟かれた言葉に、徹は思わず頭を覆った。
相手の中国マフィアは何てことしてくれたんだ、という気持ちでいっぱいだ。
機嫌が悪い理由はこれか、と原因が判明した。わかったところでどうにもならないが、中国マフィアがやったことが最悪すぎて吐きそうだった。
この男はそう見えにくくはあるが、義理堅く、情に厚い。裏切りが一番嫌いだし、自分のものだと認定したものに手を出されるのはもっと嫌いだ。はっきりと口にしないにせよ、そういう側面があるのは事実だった。
彼の側近である日野は弱いものをいたぶるのが好きだし、容赦がないし、何事にも手加減しない。
そんな男をそばに置くものの、この男はそういう趣味がなかった。
弱いものに興味はなく、どちらかと言えば弱いものは、基本的にはすく上げるほうでもあった。徹はそんな男の気まぐれのような一面で恩恵を受けた身である。
男は猫を拾うように、その弱々しさの中に何かを見つけて弱いものを拾い上げた。
灰皿と呼ばれるろうあ者のパンチドランカーと、借金まみれの没落通訳こと徹を手元に引き取ったのがその証拠だ。
二人とも力のない子供のころに引き取られ、にやにやと楽しそうに笑う享楽的な男に才能を見出されたのだ。
灰皿のほうが早くに引き取られた上に、徹よりも年上だった。顔を見ると灰皿が童顔なのでいつも年齢が逆転しているように見えるが、彼は彼で年上らしいところがある。
そんな彼は、徹よりも早くに拾われ、凶暴な凶器そのものになった。その点を見出されて伸ばされた灰皿は、確かにそういうことが向いているし、才能がある。
暴力的な面がなりを潜めている灰皿は、年相応で結構愉快なお兄さんであった。常識が吹っ飛んでいるが、彼は彼なりのルールがあって、寝れない徹はよく一緒に寝てもらっていた。
灰皿はやさしい。情がある。そして灰皿がそうあるのは、才能を見出して、それを伸ばすために教育したこの男の影響であり、この男の姿を見て育ったからだった。
だから、子供の教育でさえそうする男が、恋人、なんて彼のもので、大事なもので、一番情を注ぐようなものに手を出されるのは、この男にとって地雷を踏まれたに等しい。
地雷を踏まれた男がとる手段はただ一つ。
憂さ晴らしだった。
(憂さ晴らしがさいあくなんだよな・・・)
聞かなかったことにしたい、とじわじわ思いが募る。
なぜこの恐ろしい男の地雷をピンポイントで踏み抜いた。いくら何でも地雷すぎる、と徹は肩を落とした。
この男は本当に恐ろしいのだ。いや、恐ろしいことを言い出す人間なら徹だって他にも知っている。
だが、今の恋人に手を出すのはだめだろうと、昨夜顔を合わせた中国人たちをなじる。
「オーマイガー・・・」
もうしばらく、記憶のない日々が続きそうだった。
その事実を思うだけで、徹の頭はずきずきと痛み、三叉神経が悲鳴を上げる。頭を抱える徹を、かわいそうになあ、と向かいの男が笑った。
『クォイラン、いいですか?』
突如中国語が降ってきて、徹は顔を上げた。
ジアが中国語を使うときは、大体、徹が聞かなかったことにしたい話だ。
けれどそれは、残念なことに、自分の後見人で主人である井村には必要な話である。
(拒否したい・・・)
のろのろと井村に視線を向ければ、察しの良い男は鷹揚にうなずいてみせる。
『どうぞ』
許可をもらって話を促せば、昨夜話した中国マフィアの金烏会についてだった。
『あそこも、一筋縄ではない可能性があります。旦那の恋人に手を出してきたのも、昨日の、星扇(セイパン)とは別の系統では?』
『羅(ロン)とは別の?』
是(はい)、とうなずかれ、そんなことがあるのかと徹は首を傾げた。
『・・・日本に来てまで、そんな派閥割れを明らかにする意図は?そんなことをしてどうなるんです?』
『昨日、旦那が風俗に落とすと言った女、中国人でしょう。それでは?』
「はあ!?チャイニーズ!?」
思わず声を上げて、頭が痛んだ。
徹はしまったと頭を抱え、顔をしかめる。
(ねたい。ねむりたい)
でもだめだ。寝れない。どうせ息ができなくて苦しいだけだ、と徹は顔をしかめた。
「・・・おい、ワン公」
幾分、温度の下がった声に、徹は重たい溜息をこぼした。その声だけで、もう何も聞かなかったことにして永眠したいと心の底から願うぐらいには、恐ろしい。
「・・・海津興業の、組長の女、中国人らしいです。だから、そちらとつながりのある別系統が手を出してきたのでは、と、ジィェンが」
「・・・なるほど、だから横浜でマンションバカラか。横浜はそもそも、中国人が多いし、ある意味では中国人の裏社会があるところだからな。それも昔から。やりやすくはあるだろうなあ」
楽しそうに口元を割いて笑う男に、今すぐ調子が悪いですと言って寝室に戻ってしまいたかった。
そもそも事件自体は、昨日今日の話ではない。およそ2週間前には事の次第が発覚し、中国マフィアが男を狙ってシマをうろついていた。その殺気だった様子に、何事かと井村たちが割って入って全貌が明るみに出た。
そのころには海津組の組長が女を高飛びさせる準備をしており、男は隠してしまっていた。だが6億ともなれば、さすがに一人の組でどうにかなる裁量を超えている。組に迷惑をかけることも必須だ。落とし前云々になれば、井村が出ないわけにはいかなかった。
井村は出て早々、これはまずいと、まず賭場を取り上げた。マンションに入れていた闇カジノは取り潰し。つまりマンション一つが手に入ったことになる。
それが横浜だった。空いたマンションを、もともとカジノ目的で住居人がいないのもどうかと徹が呼び寄せられた。今は横浜の高級マンションの一室にいる徹だったが、この間までは反対側の西船橋のマンションにいた。
「フィリピンマフィアもひっかけてたみたいですが、そこはあまり手を出さなかったみたいですね。いや、良かったですよ、あそこらへんはガチで犯罪者集団でしょう」
事情聴取で徹はフィリピン人たちとも話したが、彼らはあまり搾り取られておらず、イカサマをされた様子はなかった。
バカラはカードゲームの一つで、運次第と一般的には言われる。だがその分金額が動きやすく、カジノの中でも特にアジアでは広く使われる。闇でなくとも、マカオのカジノの中には9割がバカラを占めているところもあるほどだ。
「・・・はは、これは、ロン・セイパンに借り作るチャンスか?」
金烏会という中国マフィアは、昨日の話し相手だった。介入した井村が求めたのは、6億の折半だ。だから3億なのだ。6億のうち半分は、井村たちの取り分になる。
井村は中国系の男たちに一様に、中国語でやり取りをしろと命じていた。それで同郷だと思わせ、相手から情報を引きずり出すためだ。
裏切りの声を、あえてかけやすくするための布石でもある。だが、それはかかればいいぐらいの罠だ。本気でそれにかかるとは思っていない。中国という国は、他民族を抱え、その国の中で争い続けてきた。だから裏切りをそそのかしやすく、同郷同士で固まりたがるものなのだ。
そしてその集まりの中で、派閥争いを起こすという哀れな性質を持っている。
その罠の起動スイッチの確認役で、中国系の部下たちが裏切らないよう、徹がいるのだ。
「どおりでロンから連絡がきたわけだ。昨日まとめた話とは違うことをされていると・・・身内割れが露呈するわけか・・・」
く、とハトが鳴くように口の端を持ち上げて井村が笑う。その頭の中は恐ろしいことしか考えていないはずなのに、どうしてか楽しそうに見える。
(いつもそうだ)
井村はいつも楽しそうに笑っている。
徹が借金のカタに自殺しようとした時も。使えると判断して、手をさし伸ばす時も。自殺防止にとジアを紹介するときも。お前のセキュリティだとジアをあてがったときも。
笑っていた。
ちりんちりん、と鈴の鳴るような電子音に、徹は思考を止めた。あたりを見回せば、後ろからするりと携帯端末が差し出された。
「ありがとうございます、ジィェン」
携帯端末を受け取って名前を確認すれば、それは井村の側近の男の名前が表示されていた。
「すいません、日野さんからです」
「おう、でてやれ」
許可を得て電話に出ると、『もしもし』と見知った男の声がした。
『起きていましたか』
「いつだって起きていますよ」
そう返すと、そうでしたね、と優しいトーンの声がした。
『また遊んであげましょうか?眠りたいのでしょう?』
「ご褒美は日野さんにねだれって言われたので、考えます。何かあったんですか?井村さんは目の前にいますが」
何か伝えることがあるか、と声に滲ませれば、んん、と悩むような声がこぼれた。
『恋人に別れ話されたようなので、やさしくしてあげてくださいね、クォイラン。ちょうどいいのか悪いのか・・・灰皿使ってあなたの取り戻しに行く予定って伝えてください』
聞かなかったことにしたい、と思いつつ、徹はわかりましたと返事をした。
別れ話を切り出されている最中に、中国マフィアが手を出してきたとか最悪だ、と徹は遠い眼をした。今なら意識を飛ばせるかもしれない、と思いつつ、コーヒーをすすっていた井村に視線を向ける。
「井村さん、日野さんが、ちょっかい出してきたところに灰の兄さん連れて殴り込みに行って井村さんの取り戻してくるそうです」
そうか、と井村は口元を曲げた。
「そのままやれ。そして、回収したら、ここに連れてこいと言え」
「え・・・どっちですか?」
恋人か主犯か、どちらのほうだと徹は聞く。
その意図を把握した井村は眼を細め、俺のもののほう、と答えた。
「お前にも見せてやる。あまり見せたくないんだがな」
にやにやとした楽しそうな顔に、徹は憂鬱さが増した。見なかったことにしたい。聞かなかったことにしたい、今すぐ電話を切りたいと思うも、重い溜息を吐いてこらえる。
「・・・日野さん、回収はそのまましてよいそうです。そして、井村さんのものは僕のところに連れてくるように、と」
『・・・どういう作戦ですかね。クォイランで癒されて思いとどまらせようとしてるんですか。アニマルセラピー?』
「僕のほうが癒しが欲しいくらいなんですが」
『癒されるかもしれませんよ。非常にきれいな子なので』
冗談でしょうと否定し、じゃあよろしく伝えてくださいというやり取りをして、徹は電話を切った。つきつきする目元を抑えていれば、目の前の男から命令されるような気がした。
その空気に反応して顔を上げれば、面白そうに口の端を持ち上げてカップを口にしている。
「・・・なぜ、僕のところに連れてくるんですか」
徹は直視に耐えきれず、視線をそらして問いかけた。
「・・・」
何も答えない男が、続きを促しているような気がした。吐き気がして、気持ち悪くて、視界がぐらぐらと歪む。
本当ならこの男に会うこと自体、とてつもなく精神的負荷がかかるのだ。トラウマの一端を映す男は恐ろしい。フラッシュバックを繰りかえす一因でしかなく、本来なら心的外傷後ストレス障害の多くの人がそうであるように、回避行動として、この男に関わるのを避けるはずなのだ。
「井村さん、今の恋人はこういうの関係がない方だから、関わらせないようにしていたんじゃないんですか」
見せるのも嫌がっていたじゃないですか、と疑問を口にすれば、井村は片眉を持ち上げて肩をすくめた。
「俺の恋人は残念ながら超かっこよくてイケメンだから、放っておくと荒事に自ら突き進んでいくんだよなァ、でも、お前を見たら気が変わるかもしれないだろ?」
なぜ、という言葉を聞くまでもないのか、井村はコーヒーをすすって答えた。
「お前は弱くて、夜になれば遠吠えばかりする哀れな狼だ。それも俺に飼われていれば、犬のようなものだろう。それを見れば、人が良くてきれいなあの子は、衝撃を受けるだろうな。ああ、やばい。考えるだけでぞくぞくする・・・」
すぐに色事に変換できる頭をうらやましく思いつつ、答えになっていないと徹は言い募った。
「僕が何かを変えられるとでも?」
「言ったろう。俺はお前を評価している。1千万以上の価値があると、そう思っている。投資は無駄じゃない。まあ、俺に優しくしてくれ、絶賛別れ話を切り出されているから」
聞かなかったことにしたいと、徹は顔をしかめた。
「お前には、あの子と遊ぶことを許す。別れ話を切り出されているが、あの子には整理する時間が必要なんだ。それと、これからを考えるきっかけが、な」
もちろん別れる気はないんだろうな、と徹は重い溜息をついた。自分に何かができるとは思えない。徹はそんな評価されても困ると視線を下げた。
またちりんちりんとまた電話が鳴る。名前を確認すれば、知らない番号からだった。今度は井村に確認せず、徹は電話に出た。
「はい」
『クォイラン、イムラはどこにいる!?』
知りません、と中国語でまくし立てる声に徹は静かに中国語で答える。
『私は通訳です。あなたたちがしたことに対して、何かあっても、知りません。なぜ私に電話してきたのですか?』
『誤解なんだ。私たちはイムラと喧嘩したいわけではない』
『結果として、そうなっているわけです』
徹は目の前の男に視線を送ると、にい、と口元を割いて笑った。
徹が話している電話口の相手をあざけるようだった。この電話の相手が誰なのか、中国語が分からなくとも察しがついているに違いない。
『クォイラン、横浜の店を2軒あなたに差し上げたい。なので、どうかイムラに誤解なのだと伝えてくれないだろうか』
少し冷静になったのか、相手は取引を持ち掛けてくる。徹はため息をこらえて、いりませんと答えた。
『私は通訳です。正当な報酬をもらって仕事をするだけです』
『今の報酬の倍は出す』
『いりません』
いい加減にしてくれという気持ちがいっぱいだった。
徹はどれだけ金を積まれても、井村を裏切ることはない。
通訳をしていればよくあることだった。毎度のことながら嫌気がさすものの、多くの人間がごまかしを求めてくる。イタリア人もアメリカ人も、フランス人も、そうして金でごまかそうとする。
『私たちは金烏会だよ、クォイラン。良いビジネスパートナーになれる。そんな島国では使いつぶしてしまうような才能だ。イムラに話をさせてくれれば、君の将来も約束したい』
「・・・日本語もわからぬ四つめが・・・」
しつこさに思わず悪態がこぼれてしまった。
今度はため息をこらえず、徹は重たい息を吐き出す。
『そんなものはいりません。必要であれば、あなたに電話がいくのでは?昨日と話がちがう件について』
つまり電話がなければ、必要がないからだろうと徹が言えば、クォイラン!と悲鳴のような声がした。
『君は、我々のことを軽んじているのか!?』
不是(いいえ)、と徹は低い声で答えた。
『なんのために剣を与えられていると思っているんです、あなたたちが恐ろしいことなど、よくわかっています』
与えたのは誰であるのか、井村と交渉をした男がわからないはずがない。
くそ、という悪態の後、とにかく、と男は言葉を変えた。
『我々と、動いた人間は何も関係がない。好きにしてくれ。昨日の約束をなんら違えるものではない。我らの金烏に誓って』
『・・・あなたの言葉は、もし会えたら伝えておきますよ、羅』
ぶつりと電話を切ると、徹は、はああ、と重たい溜息をついた。
もう何も聞かなかったことにしたいと目を閉じた。頭を抱えてもういやだとうつむいていれば、目の前の男はゲラゲラと笑う。
「ロンか、なんだって?」
「誤解だと。動いた人間は好きにしていいそうです。昨日の約束を破ってはいないと」
「ふうん、いくら積まれた?」
「彼らの持つ横浜の店2軒と、今の報酬の倍だすと。あと、将来を約束するとか」
ぶは、と井村は噴き出して笑った。
聞かれたから答えたというのに、と徹は眉根を寄せていれば、井村は哀れだなあ、とちっともそう思っていないような声で呟いた。
「見る目がなくて困るなあ、クォイラン」
やめてください、と徹はうつむいた。
だがその通りだった。別に徹は金銭も約束された未来もいらない。
そんなものは望んでない。
「ノア、フランチェスコ、リアム、ジャック。どの名前でもお前には金が積まれる。俺の見る目は正しかったとわかってうれしいよ」
徹は唇を固く結んだ。
主人の機嫌がよくなるのはよいことだ。この男はそうそう、内側に入れた人間を手ひどく扱うことがないが、機嫌が悪い時は話が別だ。
だが、主人の機嫌がよくなる一因だとわかっていても、その評価がとてつもなく苦しいのだ。徹はその評価を喜ばれるたびに寝室に潜って二度と目覚めたくなる。
(しにたい・・・)
もう何も聞かなかったことにして、終わりにしたい。あと何日生きればこれが終わるのか、徹にはわからない。今までもひどく長い日常なのに、ここからさらに続くことに耐えられる気がしなかった。
「・・・相変わらず死にそうなツラだな、ワン公」
笑いを引っ込めた井村に、挑発的に言われる。
機嫌が悪くなったのが分かったが、いっそその機嫌の悪さで首でも飛ばしてくれないかと思う徹は救いようがなかった。
恐ろしい、こわいと、徹はそう思う。
それでも、だからこそ、殺してくれるのではないか、という希望が捨てきれない。
他の人間ではだめだった。殺してくれるかもしれない、終わるかもしれないという夢と、自分には何もなかったんだと思わせるようなこの日常を作ってくれる井村ではないとだめなのだ。この男の力があるから、徹はこうして仕事を手伝い、部下として働いても、まるで普通の大学生のように暮らせていける。
恐ろしくて、情があって、徹が普通の人間と錯覚させてくれる、強い男。だから従い続けることができるのだ。
「可哀そうになあ、俺は死なせてやらねえよ。代わりにほら、お前が望んだ夢を、見させてやってるだろう?」
その言葉に、徹は頭を抱えながらうなずいた。
コーヒーを飲もうかと思ったが、カップは空だった。ごまかすものがなくて、精神病のための薬を飲むしかないかと肩を落とす。
「わかっています。こんな僕を使ってくださるのも、夢を見させてくださるのも、あなただからということを。・・・本当は、死にたいと思うのはおかしなことなんです。僕は病んでいます・・・」
それだけわかっていてもなお、どうしようもなく生きる希望を見出せない徹を、よく井村は捨てないでいると思う。彼にとって使いやすいだけにせよ、慣れてしまったにせよ、いずれにしろ精神病を抱える徹は面倒なはずだ。
錯覚をしていたかった。
自分は普通なのだと。
だから薬を飲みたいと、頭を抱えながら思う。
がたりと音がして、徹は顔を上げた。
カップの中身を飲み干したらしい井村が、立ち上がっている。
「素直なのはいいことだ。安心しろ、お前も灰皿と同じ、俺のかわいいワンちゃんだ」
井村はぐしゃりと徹の頭をなでると、もう行くな、とにこりと笑った。
「・・・あなたのものならもうすぐ来ると思いますよ。会っていかれないんですか?」
まさか、と井村は肩をすくめた。
「このタイミングじゃあ、俺もイライラするから会いません。うまく言っておいてくれ」
出ていこうとした男が、あ、そうだと何でもないことのように、無邪気な笑みを向けた。忘れ物か、と徹が視線を向ければ、出口へ向かっていた男は足を止める。
「俺のものには手を出すなよ。誘われてもなびくな。俺がやらせる以外は、やるの禁止な。胸糞悪いから」
一瞬意味が分からず、徹はぽかんと口を開けた。
それでもにこにことして、動こうとしない井村にようやく理解が及び、徹は顔をひきつらせた。
「冗談やめてください。あなたのものなんか絶対やりませんよ。バイブか生かの差なら、バイブ突っ込まれたほうがましです」
井村の言葉にこれ以上ないイエスを返せば、彼は満足そうに笑った。
「うんうん、いい子だなあ、ノア。あ、今はクォイランか。でも俺は心配だなあ~なあ、ジア?俺の犬が、お肉が欲しいって腰振り出したらどうしようかなあ・・・」
何が言いたいのかさっぱりわからないと、徹は眉間にしわを刻んだ。なぜジアに話を振るのかもわからないし、そもそもセックスなんて眠りたい以外の理由で徹にはする意味がない。
(大体、そんな比喩交じりのスラング、ジアにわかるわけが)
「私がきちんと見ていますのでご安心を」
さらに言い募ろうとした徹の言葉より先に、それまで黙っていたジアが答えた。
意味が理解できたのかが分からず、振り向けば、きれいな顔が徹に向かって静かに微笑む。
「ええ、きちんと面倒をみますので、ご安心を。ご主人」
「頼むぞ~。俺はよくわからないのと交尾させるつもりはないからな!きちんと世話しろよ!」
じゃ、と言って楽しそうに出ていく男に、徹は重たい溜息をついた。
いつ会っても嵐のような人で、何も見なかったことにしたくなる人だ。
(ねたい・・・)
心の底から記憶をなくすぐらい寝たいと徹は頭を抱えた。
でもそんなことはできない。これから、自分の主人の大事な人が来るのだ。せめて少しでも精神を安定させようと、徹は顔を上げた。
「ジィェン、薬をくれませんか」
にこ、と笑ったジアは、身を屈めて後ろから徹の顔を覗き込んだ。
きれいな顔が近くで観察していることに居心地の悪さを感じて、視線を逸らす。
「・・・」
すぐに差し出されると思っていた薬の代わりに、べろ、と頬をなめられた。
「ッ、ジィェン!?」
ひんやりとした濡れた感触に驚いてジアを見つめる。
そして徹は視界に入れて後悔した。
普段の優しい顔が嘘のように、ジアは顔を歪めて笑っていた。片目をすがめ、口元は曲がるというよりは歪んでいる。黒い眼は絶対零度の温度まで下がっているような冷ややかさがあった。鬼というよりは、まるで雪女のようだ。そんな顔でも美しいが、それが余計に徹に寒気を走らせる。
美しい顔がする凄惨な表情に、徹はひい、とのどをひきつらせた。
徹がおびえた様子を見せれば、すぐに引いてくれる優しい男はそこにはいない。
ジアは覆いかぶさるように背もたれに手をつき、冷ややかに徹を見下ろしていた。
(こ、こわい・・・)
まるで猛獣が目の前にいるような気分だった。
青ざめていれば、さらにジアは気分を害したように目を細めた。
「聞いていませんけど。あなたが、そんなに淫乱だなんて」
「い、いんらん・・・いや別に、するのが好きなわけではなくて・・・寝るのに相手してもらってるだけで・・・あれ、い、言ってなかったでしたっけ・・・いや、ほら、仕事仲間に積極的に話すような内容でもないですし・・・」
しごとなかま、と片頬を上げて笑いながら繰り返すジアが、怒っていることは徹もわかった。
(い、言い訳が苦しいよな・・・)
何も遮るものがない顔に、さらに近づいてくるジアから逃げようと身じろげば、ずるりと体勢を崩してソファに体を倒してしまう。
ジアは逃げ道をふさぐように顔の隣に手をつき、上から徹を見下ろした。
徹はこれ以上見ていませんと主張するように、顔をそらした。
「あなたは仕事上の上司に、犯して、なんてお願いをするんですか?上司相手に?」
客観的に事実を言われて、徹はうっと呻いた。
毒されていないと思っていたが、相当毒されているかもしれないと改めて思う。ジアに口にされた客観的な事実は、どう考えてもおかしすぎると視線が戻せなくなった。
「いや、井村さんは別っていうか、上司とかっていうよりは・・・僕は所有物か、オナホ程度っていうか、ものみたいなもんですし、他意なく。それに・・・ほらあの人、セックスも仕事みたいなもんですし・・・!」
「あなたね!」
「あ~う!」
勢いよく言い訳を口にした瞬間、ジアが吹っ飛んだ。
ジア視界から消えたことに目を白黒させていれば、あう~と赤子のような声が、楽しそうに笑っている。
目を丸くしたまま体を持ち上げると、そこには灰皿と、同い年だろうと思われる、きれいな少年が、徹と同じように目を丸くして立ち尽くしていた。
「うわあ・・・」
思わず徹は声を上げて、目を丸くした少年を眺めてしまった。
間違いなく、これが井村の恋人だろうと確信した。ちょっとそこら辺では見ることがないぐらい、きれいな顔をしている。
女顔というのもあるのだろうが、育ちのよさそうな品のある顔立ちをしていた。長いまつげは白い頬に影を落とし、瞬くたびに小さく揺れる。ぱっちりとした目と、顔立ちのはっきりとした明るさのある姿は、歩くたびに人が振り返るに違いない。
それでいて少女のよう、という印象を受けないのは、きれいな顔のわりに、きちんと体に筋肉がついているからだろう。肩は骨ばっているように見えるが、それでいて細すぎるという印象がない。
(・・・どうしよう、今の会話きかれたか)
瞬時に頭を切り替えるものの、まずいという感情しか湧いてこない。殺されるのならまだしも、痛めつけられたらどうしよう、と徹は肩を落とした。
「あう~」
うつむいた徹の視界に、灰皿が顔をのぞかせる。明るい髪をした、年下のようなろうあ者は、笑顔でぽんぽん、と肩を叩いた。
『大丈夫か、兄弟』
『兄さん・・・』
案ずる言葉と、気遣うような目に、少しだけ気持ちが浮上した。
しかしよく見れば、灰皿は服をはじめとして血だらけだった。そして首筋にべっとりと付いたキスマークに、徹は顔を引きつらせる。
『・・・首、すごいことになってますよ』
『井村さんに今の恋人ができてから、不安らしい。これで安心するなら、俺は別に気にしない』
そうですか、と返して、置き去りの少年に目をやる。
彼は困ったように立ち尽くしていた。
(そりゃそうだ、兄さんが説明なんかするはずもないしな)
『兄さん、汚れているので、風呂に入ってきてください。服は替えのものを用意しますから』
『そうだな。きっと、日野もそういうだろう』
そういうと、あうあう~とへたくそな鼻歌を歌いながら部屋から出て行った。
徹ははあ、と重たい息を吐き、首うらをぽりぽりとかく。
静かに立ち上がると、所在なさそうにしている少年の前に立った。
徹よりも頭一つ分は小さい少年を見下ろして、視線をさまよわせる。
やがて決意をして静かに見下ろすと、少年は少しもそらすことなく、徹を見上げていた。
その視線の強さに、思わず回れ右をしたくなってしまった。
(幼いように見えるが、実は年上かもしれない・・・)
きれいな顔は直視に耐えないと、徹は唇をかむ。
そしておずおずと手を差し出して、へら、と口の端に笑みを乗せた。
「・・・はじめまして、井村さんの部下の、おおかみ、とおると申します」
彼は視線をそのままに、ぎゅ、と手を握りしめた。
「小林、芳樹です。はじめまして」
その手の堅さに、きっと顔の通りかわいらしいだけではないのだろうと、徹は思った。
(手を出すなんてとんでもない)
くぎを刺すまでもないだろうと、徹はその美しくきれいな顔に、打ちのめされていた。

「オイオイ、死にそうなツラだなあ、ジア」
井村は部屋に入って、開口一番にそう言った。
正確には死にそうというほど生気を失った顔はしていない。男は黒い眼をさらに暗い闇に浸して、ソファに座り込んでいた。手を組み、祈るように額につけている。
顔色は悪いが、女と見まがう肌の白さは朝の陽ざしに今日も輝いていた。
いやあ、と井村が苦笑すると、ジアはさらに手を強く握りしめた。
(まったく、どうしてこうもじゃじゃ馬かね)
苦笑しながら、徹に貸し与えた部屋の中を見回す。
部屋の中にいるのは、あくびをしている灰皿とジアだけだ。
井村のかわいい恋人と、言語に堪能な青年の姿はない。
「・・・旦那、許可をください。俺が必ず見つけてきますので」
徹の前ではにこにことあでやかに微笑み、ジアはその美貌を存分に輝かせていが今は、その笑みも引っ込み、ひどく冷徹な顔をしていた。
氷のような冷たさをはらむ目は、あたたかさなど一切ない。氷結の黒さは光もなく、宙をにらんでいた。
井村はどちらかというと、こういう顔のほうになじみがあった。
ジアはそういう男だと思っていたし、今でも徹の前の姿のほうが信じられない。
「お前なあ・・・そんな殺気立つな。あいつに対して寛容がなさすぎだ」
今すぐにでも飛び出していきそうな、冷たい空気をまとう男をいさめる言葉を口にすれば、当のジアは、口の端を持ち上げて皮肉気に笑った
「俺は、あの子の剣なんでしょう?あの子を守っていいんでしょう?だったら、俺が行っていいはずです。そうだ旦那、あんたの恋人もついでに戻してきてあげますよ」
口の端は笑っているが、ジアの目が笑っていない。
このまま行かせたら小林と戦いになりそうな気がする、と井村は遠い眼をした。
(会ってないからこいつらがどんな印象だったのかまではわからないけど、まあ、このジアが行ったら、間違いなく徹を守るだろうな)
徹は、戦闘に関しては全くと言っていいほど縁がない。暴力を振るわれていたことはあるが、もともとは裕福な家庭で育っていたこともあって、そういうものを忌避する傾向にある。
精神病を患ってもいる影響もあるが、徹は食事を受け付けない時も多い。そのためか、基本的に体は21世紀の飽食の時代を生きているとは思えないほど肉付きが悪い。
ひょろひょろとして顔色の悪い男は、小林の庇護欲をそそったはずだった。
それだけはなんとなくわかるだけに、いざとなったら小林とジアの戦いになりそうな予感はひしひしとする。
「あ、あ!」
呆れたように口を開いたのは灰皿だ。レポート用紙に大きく『馬鹿』と書いて、ジアに突き付ける。
「・・・達磨にされたいのか」
すぐに目を険しくするジアに、灰皿がべ、と舌を出す。
「こらこら、お前ら」
子供の喧嘩じゃないんだからと、井村は笑いをこらえて冷静にたしなめる。正直、噴き出してげらげら笑いたいが、井村はわきまえられる男だった。
ジアの冷静さを欠いているのが面白すぎる。徹の前で見せる二面性もそうだが、ジアの徹に対する余裕のなさは、冷静な手段に及ばず感情だけでことさら面白い。
『弟に対する信頼がないな。おまえ』
その言葉に、ぎり、とジアが歯を食いしばって灰皿をにらみつけた。
「ちがう」
『それとも信用してないのか?』
「不同(ちがう)!!」
ジアがつかみかかりそうな勢いで立ち上がった。
「あの子は眼を離したら死んでしまう!俺が管理をしなくては!世を儚んで身投げしてしまう!だからだめなんだ!俺がそばにいなくては!」
ぴく、と灰皿は片頬を上げた。
「あぁ、」
ばか、と口が動いた。灰皿が立ち上がり、握りしめた拳をジアの顔面に叩き込む。
「おあ゛えがぁ、いつよおなあけらあろうあ!!」
大きさの違う声で、ばらばらな言葉を叫んだ。ジアはその拳を手のひらで受け止めると、ぎい、と口の端を持ち上げて獣のように笑った。
「なに言ってるかわからない」
ジアのあざける言葉に、井村は頭を抑えた。
(・・・はやく徹とジア、くっついてくんないかな・・・)
自分の恋人との仲も案じねばならないのに、井村は部下の恋路まで憂いている。本当はそれどころじゃないんだ、振られそうなんだ、だから早くどうにかなってくれと切に願った。
(まあ、むしろできてなかったのか、って知ったのが昨日だから仕方ないか)
徹とジアを揶揄したつもりだったのに、昨日は思わぬ地雷を踏んでしまった。灰皿と日野と暮らしていた時は、その二人に巻き込まれるような形で、徹は散々淫らな遊びをしまくっていたくせに、ジアとはそういうことはしていないらしい。
(まったく)
ぶっちゃけ最後まではいってはいないが、井村も少し徹と遊んだことならあった。ジアには口が裂けても言えないが、徹はそういうところは結構緩いし、気持ちいいことに弱い。
ばちばちと視線の火花を散らす二人を、井村はおい、と低い声を出して諫めた。
「いい加減にしろ。お前らが争ってどうする」
む、と顔をしかめた灰皿は、ぷい、とそっぽを向いた。
ジアはどさりとソファに座り込み、顔を歪めた。
「・・・どうしてですか。なんであんたはそんな平気なんです、あの子と一緒にいるの、旦那の恋人でしょう」
ジアの言葉の通り、小林は徹と出て行った。
朝方の早い時間に出て行ったらしかった。起きだして止めようとしたジアに、徹は自分の頭に銃を突きつけ、こう言った。
『かけおちに、ついてくるのは野暮ですよ』
井村は徹がジアのことをどう思っているかは知らない。
徹だけは井村も何を考えているかよくわからない部分がある。日野や灰皿の考えはそれなりにわかるが、死にたいと言いながら薬物摂取する徹の気持ちが分からない。
だが井村は、徹の忠誠を疑わない。
徹を信用しているし、信頼している。
どれだけ裏切りに見えても、井村はその行動を非難はしない。井村だけは唯一、どれだけ徹が批判されようが、手放しで信頼を向けられる。
徹はそれだけ、有能だからだ。
盲目のような忠誠ではなく。
恋のような鈍感さではなく。
井村のためを思って、などという妄信ではなく、こう動けと命じる前に、徹はそれを理解して動けるのだ。たとえそれが正道でなくとも、結果は井村の満足するものを持ってくる。
「俺は、心配してない」
井村が面白げに目を細めて言い切れば、ジアはうなだれた。
「どうして、どうしてです・・・。アンタの恋人は死なないかもしれないけれど、あの子は、あの子はだめなんです・・・」
ジアのそれは、依存と言っても差しつかえないだろう。
うなだれながら徹の行方だけに心を砕く姿が、井村には目に余った。
とはいえ、井村はジアの実情を口にはしない。
ジアに、お前のほうが依存してるんだろうと指摘するのは簡単だった。実際灰皿も『お前が必要なだけだろうが』と口にしたわけで、自覚のないジアに言うだけならばたやすいことだ。
(でもなあ・・・)
それを指摘するだけで解決する問題ではない。ジアが依存しているにしろ、徹には付き添う人間が必要なことは確かだ。
徹の精神病は、PTSDから派生して時折拒食も起こす。手首は傷跡だらけ、耳はピアスの跡だらけだし、放っておくと医師から処方された薬を過剰摂取しだすし、屋上から飛び降りたがる。
だからジアの嘆きもわからないでもない。今の徹のそばにいればいただけ、このひとは私がいないとだめなんだという感情を抱かせやすいのは確かだ。
「もういやなんです、俺は。あの子がいなくなるのは耐えられない・・・あんたに協力してるのは、あの子のためだって、知ってますよね、旦那」
ジアが顔を上げて、口元を歪めた。目の笑っていない顔は、ダメだとわかると懐柔する気もなく、脅しをかけてくる。
その脅しを打ち返してしまうのは簡単だ。
だがそれではつまらない。
さてどうしたもんかと井村は面白そうに笑って対峙するように見せかけて考えた。
「・・・金烏会、片付けましょうか?あんたの3億、おじゃんにしてほしいんですか?」
ジアはそうして目を細めた。
酷薄な顔は、徹に見せてやりたいと井村は心の底から思う。いつも見せられないのが非常に残念だ。
ジアは、ただ戦闘に長けた中国人ではない。井村の下についてはいるが、世界でも幅を利かせる三合会の一つ、天狼会という中国組織の人間だ。
日本の中華街を取り仕切る男の側近の一人で、ジアの言葉一つで井村の組織は世界総出でつぶされる。
上海で幅を利かせる金烏会とはレベルが違う。天狼会は、香港を拠点とする黒社会の総括だ。香港は経済特区だけあって、人脈と金の動きの規模が違った。天狼会と激突すれば、中国社会が揺れ、世界経済が大きく揺れ動くだろう。
「あのなあ・・・」
井村は重たい溜息をこぼした。井村も相当余裕のない自覚はあるが、ジアはその比ではない。
「俺ならできます。なくなるのは3億ぐらいでしょう」
ジアが鼻で笑うのに、井村は頭を押えた。
ジアとは考えるレベルの規模が違う上に、井村のあれやそれの詳しい事情など考えてはくれない。
それにこの男はやると言ったら本気でやる。
徹をほしいと言ってきたときもそうだったのだ。
『あなたのところに、少年がいますよね』
ジアが徹をほしいと言ってきたとき、井村はみじんも受け渡すつもりはなかった。
どういう男かを知っていてむざむざ渡すほど、井村も鬼でもない。
『リアム、いえ、今はジャックですか。あのこを、私にくれませんか』
ジアの、ほしいという言葉を、うそだろうと嗤った。
冗談交じりに、じゃあ土下座でもして、俺の部下になれ、5千万円払ってな。そうしたら世話でもさせてやると言ったら、その場で土下座して、5千万は現金かと聞いてきたので、正直引いた。
どう考えても頭がおかしい奴だ。心を病んだ少年相手に見せる執着が異常すぎる。そんなやつにせっかく拾った犬を攫われてはたまらないと、井村は世話をすることだけ許したのだ。
「やりたかったらやれ。それを知った徹がどう思うかを考えてな」
徹は他意なく、灰皿のように面白がって拾ったわけではない。面白くあったのは否定しないが、能力の高さがわかったから拾ったのだ。そこそこの金をかけても、有能な人材に育つだろうと思っていた。
そしてその読みは、予想を大きく外した。
徹は有能に育ちすぎる、という方向で。
彼はあらゆる言語に精通した。それも日本を一歩も出ることなく、英語に始まり、スペイン語、イタリア語、中国語、ロシア語と、人並みに会話できるくらいには習得している。
育ちが裕福で、金のある家に育ったため、美術品にも詳しい。あれが中国なんたらのシルクで、これは少し系統と違うので調べたほうがいいとか、徹はそのあたり細かく理解していた。井村に言われてもさっぱりわからないのだが、日野は重宝していると言って、いろいろな芸術に触れさせている。
「ジア、徹に世話するのを『許されている』ことを忘れるな。徹がお前を要らないと言ったら、俺はお前を解雇する」
あえて脅すようでなく、井村は普通に言い切る。
実際にジアに金烏会を潰されたらと思うとヒヤッとする思いはあるが、すべてが台無しになるかもしれない、という微妙なラインに胸が高鳴ることも確かだった。
どうなるかわからない、という未知は面白い。
身の破滅だろうがなんだろうが、賽が降られて落ちるように、決定づけられるのは偶然の重なりだ。
それを楽しんでいた。
今だってそうだ。
井村は間違いなく、そういう生き方が向いている。
それだけで十分なはずだった。
けれど、それらの部分を押し殺してなお、井村はきれいな少年に恋をしたのだ。
彼のためならすべてを捨てたっていいと、そう思っていた。実際そう思っている。
拾った犬猫など目ではないくらい、井村は彼を愛している。
(だから、わからないでもない)
ジアが己の力をすべて使い果たしても徹を求める気持ちが。
ジアは内側に入れるには厄介な相手だが、それでもその恋心がよくわかるから、少しばかりの同情はあった。
恋とは厄介な病だ。相手を焦がれて仕方がないというのに、その呪いが、相手にかかっているとは限らない。
小林はそうなのだろうと、井村は思う。井村同じくらいに、その熱病に侵されてはいない。
さらに言うならば、そんな病になどかかってもいない。
それでも伸ばした腕の中に囲われてくれた。逃がす気なんて毛頭ないけれど、井村は小林の自由を奪うつもりはない。
だから、小林が徹と逃げることを選んだのなら、今すぐに取り戻す必要はない。この腕に戻ってくればいいように、なんやかんやと策を弄するだけだ。
井村は小林が、ただ甘えてくるだけの子供だなんて思っていない。腕に囲ってそれに甘んじてくれるだけの堕落などあの男にはなかった。あれは間違いなく、いっぱしの男で、曲げられない信念のもと、時に勝負さえ挑んでくる。
だから策を弄するにしろ、それなりに時間は必要だ。
(まあ、それも最高だけどな)
全く井村からしたら、小林は簡単な男ではない。
だけどその一筋縄ではいかないところに振り回されて、それすら楽しいのだから、この病は困ったものだ。
ましてや、小林が選んで連れて行ったのは徹だ。一筋縄でいかなさそうな匂いがさらに増す。そんな相手をよく選んだものだと、称賛する気持ちすらある。
小林は、灰皿でもジアでもなく、ひょろりとした寝不足の男を選んだ。精神病を抱えて、一見すると面倒くさそうな、徹を、だ。
彼も彼で見る目がありすぎると苦々しい思いに駆られる。だけどそれこそが小林だ。彼の煽るような行動が、楽しいのだから仕方ない。
(それに徹なら、俺がやるなっつったらやらねえだろうしな)
二人でいてもどうにかなることはないだろう。
そのあたり、井村は小林よりも徹を信頼している。
「・・・くそ」
ジアが揺れているのがありありとわかった。
徹が有能なのもさることながら、この男を手元に置くうえで、徹がすべての事情を知っていると把握させることが必要だった。徹がどう思うか、というのは最高の脅迫になる。今は見せていないお前の一面が露呈するぞ、という脅しが、暴走しそうな時のストッパーになる。ジアは、徹の前ではただの護衛でいたいらしい。理由はよくわからないが、その点はよく利用させてもらっている。
仕事なんて関わりたくありませんという顔をしている徹には可哀そうだが、井村に目をつけられたのが運のツキだ。さらに恐ろしい男に目をつけられてなお、井村が守っているのだから、それでプラマイゼロだろう。
「・・・どうして、あの子を助けたのがあんたなんです、旦那。あとすこしで、俺はあの子を助けることができたのに、あとすこしだったのに」
ジアが恨めしそうに井村を見上げる。
井村は呆れてため息をこぼした。こんな男に好かれている徹が不憫でならない。ジアは徹に対する執着心をむき出しにしていなければ、あるいはこんなに力がなければ、手元に置きたくはないタイプだ。
『・・・自分本位なんだ、お前』
べ、と舌を出して灰皿が突き付ける。
井村は思わずぶふ、と噴き出して笑ってしまった。
所かまわず殴りつけて暴力振るう凶器が言うのが面白すぎた。お前が一番自分本位だろうと井村はゲラゲラと笑いたかった。
「お前のような、うまれつきのエタにはわからないだろう。あの子は、こんなところにいていい子じゃない。あんなふうに、世を儚むような子じゃなかったのに、あんな、あんな・・・」
呻くジアが、頭を抱える。
井村はまったくと、ため息をついた。
徹とジアの関係は、井村には分らない。ジアの口ぶりからすると過去に何かあったようだが、徹はジアに、はじめましてと迷うことなく言った。徹のほうは何も覚えてないようだ。ただこんな男に過去に見かけたか何かでひとめぼれされたのだとしたら、徹は不幸になる星のもとに生まれたに違いない。
ちりんちりん、とテーブルに置かれたままの、徹の携帯が鳴った。知らない番号からで、井村は迷いなく電話に出た。ロックなどかけられてもいないあたり、徹の策略を感じないでもない。
『・・・どうも』
徹の眠たげな、かすれたような声が聞こえた。
井村ははは、と思わず声を上げて笑い、おうと応じた。
『井村さんですか、よかったです。そろそろいるんじゃないかと思っていました』
ほっとしたような声に、この状況で俺の名前を出されるとおもしろいからやめろと言いそうになって言わなかった。
井村はわきまえられる男である。
『しばらく家出かましたら帰ります。反抗期ってことで』
「ネコかお前は」
まあ、思春期ですかね、と少しも面白くなさそうに徹が応じる。
『・・・あなたの言ったことを、少しは汲んだつもりです。近場にはいないほうがいいでしょう』
攫われるような、近場に、というのは言外の言葉から読み取れた。
これだから徹は便利だとひっそりと笑う。
徹は井村の意図を汲んで、小林を逃がしにかかったらしい。どちらが言い出したのかは知らないが、二人で逃げてくれたことに助かっているのも事実だった。
井村は小林に手を出されたことに相当腹が立っていた。井村が動かなければいけないことも多かったので、正直さらわれそうにない遠くへ行っているのはありがたくすらある。
『内側に何かいてもいやなので、そのスマフォで操作できる発信機を小林さんにつけました。井村さんがつけていたものは、すべて散らして、ばらばらの場所に置き去りです』
そうか、と井村はその行動が間違っていないと肯定した。
井村の意図を汲みすぎているが、それは心地よい。
いつも徹は話が早くて助かっている。
徹は静かに息を吐いて、それと、と続けた。
『トカレフちょっと借りました。僕たちは楽しく遊ぶだけなので、お気遣いなく』
「・・・世話係が、犬に逃げられて、たいそう気落ちしている」
井村はちらりとジアに視線を向けて、そうこぼした。
ジアはそれだけで電話の相手がだれか分かったのか、顔を上げて目の色を変えた。
え、という戸惑った声をあげた徹は、なにがしかの言葉をつぶやいた。それは中国語ではなく、英語か何かだったが、井村では聞き取れなかった。
『・・・きゅ、休暇でも、あげたら良いのでは・・・?』
「探しに行くぞ、犬を」
こ、困ります、いや困るのでは、と徹が進言してきた。
『だ、だって、今回の件で、ジアが情報を与えてくるの、おかしいじゃないですか』
井村はスマホのスピーカーボタンを押すと、ジアに向けた。
『あの男は、何者なんですか。僕にはわからないんです。知らなくていいというならそれでいいんですよ、でも、あなたの敵かもしれないでしょう?』
あなたの敵は、受け入れられません、当然でしょう、と続けた徹の言葉に、ジアが悲壮な顔をした。言葉をなくして青い顔をした男を横目に、井村はく、とのどの奥を鳴らして笑う。
「ああ、そうだなあ」
『・・・てっきり、僕のそばに置いて、泳がせてるんだと』
井村の口ぶりからそういった意図はないと気づいたらしい徹が、困惑したように言葉を探す。
そういう風に見えていたのかと、井村はただひたすらにおかしくて仕方がない。だがジアを牽制するには最高の見方だ。
そしてその可能性は、間違ってもいない。中国人で、違う組織の人間であるジアが絡んでいる可能性は、全くのゼロではなかった。
とはいえ、手元に徹がいる限り、井村を陥れる手段を取らないだろうという一点で、可能性はかなり低くはあるのだが。
「お前の知り合いだというから、お前のそばに置いていただけだ」
他意はない、と口にすると、えぇ、といやそうな声がスピーカーからこぼれた。
『ジアはまじめに、休暇を与えたほうがいいのではないですか』
ぼくに、と続く言葉の先を予想して、井村は口角が上がりそうになるのを必死でこらえた。
『あんなきれいな知り合いは、あなたに紹介されるまで、いませんでしたよ』
ジアが青い顔をしたのが分かった。息をのんで、叫びそうになるのを必死でこらえている。
井村はそうか?と、疑問形で返す。
「お前の、昔の知り合いかもしれないだろ」
はぁ、という重い溜息を電話越しについた徹は、憂鬱そうに、どうでしょうね、と返した。
『説明不足ではないですか。きちんと言ってありますか、僕の、記憶がないことを』
「き、きおくが・・・な、い・・・」
思わず、といった様子で呟いたジアの声が聞こえなかったのか、やれやれとあきれたように徹はつづけた。
『まあ、ご自由にしたらいいですけど。僕はしばらく、会うつもりはないので』
「それは、少年もか?」
スピーカーを切って、自分の口元に戻す。その問いに、徹は迷うように黙りこくった。
『・・・さあ・・・彼次第です・・・』
「俺の犬が、すり寄ったのか、吠えたのか、その印象を知りたいんだよ、俺は」
いんしょう、と舌足らずにつぶやいて、ばうわう、と見事な発音で犬の真似をする。
『・・・・・・僕は、死んでもいいです、彼のためになら』
「は・・・」
その言葉を聞くのは、2回目だった。
正確には、井村が言われたことがある言葉だ。
「・・・ちょっと待て、お前・・・」
だいじょうぶですよ、と眠たげな声が、続きを遮った。
『きちんと、あなたの思う通りにしますから』
いつもみたいに、という言外の言葉を付け加えて、徹は電話を切った。
ぷつりと切れた携帯を眺め、井村はそれをポケットにしまった。
「・・・ジア、行くぞ。お前の嫌疑を晴らしにな」
うつむくジアが、のろのろと顔を上げた。
「・・・どうしろっていうんです、旦那・・・」
簡単さ、と井村は口の端を歪めて笑った。
「少年に手をだした女、捕まってないんだぜ。それだけでも捕まえれば、少年も、クォイランも戻ってくる」
ぼんやりとしながら、ジアは井村を見上げていた。
「クォイランは、あの女が中国人だと情報を与えたお前を怪しがっていただろう?」
だからお前が捕まえればいいと、井村はささやいた。
ぼんやりとしながら、ジアは井村を見上げていた。
酷薄な表情はそこにはなく、恋に破れた男がそこにいるだけだ。だが、依存に等しい執着が、それぐらいで消えるものでないことぐらい、井村はよくよくわかっている。
「簡単なことだろ」
徹は、小林が井村の大切なものだとわかっていたから徹を連れて逃亡した。
井村が巻き込むような形で小林を関わらせてしまったことに腹がっているのを察して、だ。
巻き込まれないような遠い場所に行ったほうが良いという判断は間違っていない。
「お前なら、その情報を知ることなど造作もなかったろう。耳に入っただけの話でも、お前の正体をしらないクォイランは、俺の敵を許さない」
俺の敵でないと、クォイランに見せればいいと言う。
ジアが冷静な判断をできたとて、この提案に乗らないはずがない。徹ほしさに土下座する男だ。簡単に動くだろう。
それを読んでの打算は、しかし、にやりと唐突に笑ったジアの酷薄な表情に打ち消された。
「俺を許しているのは旦那じゃない。金の『がちょう』程度に、そんなに慌てるなんて、あの子を本当に任せておいてよいのか、不安になりますね」
あっさり乗って動いてくれたら楽だったのに、と井村は内心で舌打ちした。やはりジアはそう簡単に乗ってくれる相手ではない。
弱っているところに付け入るのはヤクザの常套手段だ。
だが、それもこの男には通じない。
やりづらいったらないと、井村は表面を笑顔で取り繕った。
「・・・だったらどうする?俺でも殺すか?」
御冗談を、とジアが笑う。笑っているのに少しも和やかさも楽しさもないのは、表情を取り繕うのが下手すぎるのか。
「俺はあなたについて行きますよ。あの子が俺を許す限り、ね。でも俺もそう安い男でもないんです。ご存知でしょう?」
にい、と口元を割いて笑う男は、確実に国に薬物ばらまく歴史の出身者だった。あの国は拷問方法もこれでもかというほど残酷なものがある。破滅も残虐性も兼ね備えた史実の流れを汲む性格が隠しきれていない。
それほどの残虐性があるのに、なぜ徹に隠すのか。隠したところで疑われていたら世話がないと、小さく息を吐いた。
「・・・金でも出せってか」
「それでこそとんでもない。俺はただ、あの子を探す許可が欲しいだけです」
まだあきらめてなかったのか、といら立った気持ちが急速に冷めていく。
井村は、はいはいと大仰にため息をついた。
「来るなってクォイランが言っているのに?休暇でも出せってか」
「代わりにあなたに教えてあげます。あなたの恋人に手を出した女は、海津組長の女の妹だ、ってね」
井村がふうん、と目を細めると、ジアも片頬を上げて笑った。
「ロンとは母親が違うんですよ。海津組長の女はね。あなたの恋人に手を出した女、パイリンは、その女、メイリンと母親が同じ。つまり派閥は違えど、正当な金烏会の跡目の一人です」
完全な内輪もめなのか、と無表情で算段を整えていれば、ジアは表情を消してその目にぎらぎらとした感情を燃やした。
「ロンの、我々は関係のないという言葉は信用できませんね。ロンはまだすべての実権を握っているわけではないですから。海津組長の女、フロで回すより、もっといい使い道があると思いますよ」
なるほどねえ、とつぶやいた井村は、おおよその意図が把握できた気がした。
「日本でうまく金稼ぎをする予定だったんだろうな、そのパイリンは。あの女は手先か」
小林を誘拐しようとしたパイリンと、今回闇カジノでマンションバカラに手を出した女、メイリンはつながっている。そう確信できるのは、姉妹だから、というだけではない。
そうであれば今回の話の筋はおおよそ読めるからだ。
金烏会だというのに、同じ金烏会の一派が、話をつけたロンと井村の間の協定を破るような一手をどうして指してくるのか。井村にはそれが分からなかった。
一枚岩ではないとはいえ、井村に喧嘩を売ってくることは、総じて金烏会の利益にはならないはずだ。
だが、派閥争いなら話は別だ。
目的が金烏会の利益ではないのなら、その行動も納得できる。
彼女たちの目的は、金烏会の利益ではないのだ。
金烏会を手に入れること。
それが目的なのだろう。
もともと、日本のやくざを使って、うまく稼ぐ予定だったはずだ。姉はそのための足掛かりだったのだろう。あるいは、闇カジノを日本ですることによって、ロンたちから金を巻き上げ、勢力を削ぐ狙いだったのかもしれない。
いずれにせよ、ロンと対立関係にあるパイリンたちの目的は違うところにあった。
だが、今回、彼女たちは失敗してしまった。姉であるメイリンは捕まり、ロンが金烏会として話をつけた。姉を取り戻そうとした妹は、話をつけた日本のやくざに手を出した。そこはロンの顔に泥を塗る結果となったのでよかったのかもしれない。
だが、相手が悪かった。
「ロンはいらないよなあ、女なんて。・・・内輪もめの禍根になりそうなものをこっち側が処分してくれるなら願ったりかなったりだ。母親が違っても父親は同じ。派閥の一角が減るわけだからな」
その通りで、と氷のように目を細めたジアに、仕方ない、と井村は息を吐いた。
彼女たちは悪くない。
不手際があったとしたら、井村という男を読み切らなかった。その読みの甘さだけだ。
だが、その一手の読み間違いが、命取りになるような世界なのだ。
だから、井村は仕方ない、と息を吐く。
「まあ、お前がマークされてるわけじゃないと思うがな、そのあたりだけ注意してくれ。逃げたと言っても、守りが心もとないことには違いない。一端、北海道へ向かってから休暇開始だ」
「・・・仙台あたりではだめですか」
早く追いかけたくて仕方ないジアが、もう少し近場でいいじゃないかと抗議する。
追加の守備として派遣するんだから、それぐらい妥協しろ、と井村は半眼でにらんだ。
「北海道なんて飛行機で一時間だろ。行ってこい。蟹でも買って、クォイランに食わせてやったらいいだろ」
「・・・承知しましたよ、旦那」
しぶしぶ納得したジアが、立ち上がって部屋から出ていく。ばたりと部屋のドアが閉まって灰皿と二人きりになり、ぷあ~と井村は息を吐いて座り込んだ。
(ったく・・・)
もたらされた新事実に算段を巡らせる。ただ金を回収すればいいというわけではない事態に、どうしたもんか、と思案に暮れた。
弱っているところを攻めるのがヤクザのやり方だ。そんな内輪もめの最中に、奪えるものを奪わないで何がヤクザか。弱みはうまみだ。すすれるだけすすって、せいぜい楽しく生きるための資本にさせてもらう。
弱みを見せるほうが悪い。強いものを手元に置けないのが敗因だ。弱者は何も言う権利がない。そういう世界だ。ルールも遵守もくそくらえと嗤われる。
悔しければ、頭使って蹴落として強くなるしかない。
だから井村は算段を巡らせる。
駒を盤上で動かすように。
ルールはないが、法則はあった。机上で賽を振る。駒を動かし、選択によって勝敗は分岐する。その一手が、井村もろとも滅ぼすことさえある。命懸けの危険なゲームのようだ。
落ちるなら落ちてもいい。
と、そう思う。
その危険が楽しくて仕方ない。
井村はそういう生き物だ。
「・・・あ~・・・くそ・・・」
だというのに。
いまいちそのゲームに集中できずにいる。
原因はわかっていた。井村はああして、自分のものだと取り戻しに行くジアがうらやましい。策は必要だとわかっている。小林には逃がして、距離を置くことも策の一つになると思う。考えさせる時間も必要だ。
それでも、恋しい相手に今すぐにかけていきたかった。
抱きしめて、好きだと言いたい。もう別れるなんて言わないでくれと、泣いて許しを請いたかった。
小林の『別れてくれ』がどれだけおかしいかわかっていても、縋りついてしまいたい。
そんなことをしたって小林は井村のもとには戻ってくれないだろう。だからタイミングはよく見ないといけない。
「あーなー」
うぅ、と灰皿が、端末を差し出してきた。
そこには日野からの連絡で、男を見つけたと文字が打たれている。
『・・・迎えをよこすよう伝えろ』
手を動かしてそう伝えれば、にこ、と無邪気に笑った灰皿が、端末にぽちぽちと文字を打ち込む。
「・・・さて、俺らも行くか」
まだまだ小林には会えそうにないと冷静に思った。
少なくともこの件がひと段落しないと難しいだろう。
(・・・何やってんだろうな)
今やっていることの意味がふと見いだせなくなるぐらいには、虚しさがあった。
徹を非難するつもりはないし、怒るのは検討違いだ。そうわかっている。だからジアの前でも何も心配していないという態度を貫いた。
実際、あまり心配する必要はないのだ。そのことをよく井村はわかっている。
徹と一緒にいればあまり心配はいらない。
それぐらいには信頼を置いている。
けれど。
熱病にうなされた心が叫ぶのだ。
そういう理性のような、頭が理解しているものを差し置いて湧き出るものがある。
どうして彼が選んだのは自分じゃないんだ。どうして彼の隣にいることができないんだ。どうして別の男がそばにいるんだ。
「あー・・・くそ」
平気だと頭に言い聞かせて言い聞かせる。
それでも、声上げて泣いてしまいそうなくらい、苦しかった。
心が叫ぶ。
ただ、会いたい、と。

「う・・・あ・・・」
うう、と呻いた自分の声で、徹は目を覚ました。ぼろぼろと目から涙がこぼれている。こわい、と漠然とした不安感に、自分の近くにある体温にすり寄った。
すぅすぅ、と息を立てる灰皿が、徹のそばで寝ていた。室内はまだ陽も明けていないのか、真っ暗だった。
無駄に広いマンションには空き部屋があって、別室にはジアと小林が眠っている。
結局、小林はあの後普通に食事をとり、そしてつつがなく会話をして、眠るという流れになった。
時折何かを推し量っているような視線を向けられることがあったが、徹は何も見なかったことにした。
(・・・どうして兄さんが・・・)
寝る前はいなかったはずなのに、と徹はぼんやりとした頭で考えた。
(・・・くすりのまなかったせいか)
寝る前に薬を飲みたかった。けれど飲まずに寝てしまったのだ。
徹は精神が打ちのめされていた自覚はあった。自分が安定していないのもわかっていた。だから飲んでおいたほうがいいだろうと思っていたのに、小林が来て、完全にタイミングを逸した。
とはいえ、ジアも飲ませる気はなかったのだろう。空気を読むのがうまいジアが、寝るまでに薬を差し出してこなかったのがその証拠だ。
薬の管理は、基本的にジアがしている。というのも、徹は自分の異常さに病という名前を付けられてから、精神安定のために処方されている薬を過剰摂取していた。
ただ、楽になりたい一心で。
何もかも、忘れてしましたくて。
一緒に暮らしてから、ジアに過剰摂取していることに気づかれるのは早かった。
そしてきちんと医者から処方された薬にもかかわらず、飲みすぎて依存していることも見破られた。違法な薬をやっているのと同じようなぐらいに意識がとんでいる状態にあった。そのせいで、薬を抜くまでの間、徹はベッドに縛り付けられた。
そのときの記憶はあいまいだ。泣いてわめいて叫んで暴れた。ような気がする。怖いとすすり泣いて顔をかきむしった。だから手首を縛り付けられた。ような気がする。薬がないとだめなのにと追い詰められた。たすけて、とジアに縋った。ような気もする。
どれもこれもそんな気がするだけで、徹の記憶は定かではない。
それでも世話をされたんだとわかっていた。途中、おぼろげに誰かに何か言われたりしたことはわかっていた。
薬が抜けて意識が鮮明になったころ、ジアのほうが傷だらけだったから、この男が付きっきりだったのだろうと思った。
ジアの体はぼろぼろだった。腕に噛まれたあとはあったし、顔には引っかき傷があって、かさぶたがあった。腹にはあざもあって、暴れて傷つけたのだろうと、ぼやぼやとした頭で理解した。
それでもようやく目の焦点を合わせた徹を見て、ジアはひどく安心したような顔をした。
それがひどく遠い昔に見た気がして、また頭がぐちゃぐちゃになればいいのにと、と徹は性懲りもなく思ってしまった。
ジアは暴れるばかりでろくに食事をしていなかった、やせ細った徹をそのあとも手厚く看病した。時には食事を嫌がって泣き喚きだすような不安定さに、ジアは根気強く付き合った。
なんとか薬を抜いて、並の人間に戻ったとき、いくらそれが仕事とはいえ、ジアには割に合わないような気がした。
夏休みを消費して、うつろ目から脱した徹は、ジアはそれを仕事として選べる人間なのだろうと納得した。物好きだ、と評するのは彼に失礼な気がした。きちんとできない徹が悪いのだ。
『私なら、そばにますから、坊ちゃん』
徹の幼さをそうして悼み、ジアはいいですよね、ときれいな日本語で付け足した。
『私に、管理させてください』
傲慢なセリフとは裏腹に、徹はそう願われた。
そこまでされて、さすがの徹も否とは言えなかった。
他人事のように、薬物中毒に陥っていた人間から薬を抜くのは大変だったろうにと思う。ましてや精神疾患を抱えていて、精神状態の安静を欠くから、医師の判断に基づいて処方されているのに。
薬に頼るほうが、圧倒的に楽ではあるのだ。簡単に精神を安定できる。悪夢で飛び起きることもない。
薬を飲んだほうがジアも手間はかからないだろうに、彼は徹が薬を飲むことをよしとしない。
泣き喚いたのだろうかと、涙の止まらない自分を見て思った。瞼が重い感触は久しぶりのような気がして、ため息が出る。
妙に頭がさえて、徹は灰皿にタオルケットをかけると静かに寝室を出た。
タオルで顔をぬぐい、めそめそと涙の止まらない自分を持て余して、リビングに置いてある棚の引き出しを開ける。
そこに入れられた煙草とライターを取り出すと、からからとベランダの窓を開けた。
ふわ、と潮交じりの夜風が吹き付ける。水気のはらんだ風は夜だというのに生暖かく、息苦しいような気がした。
ずきずきと頭が痛み始めて、煙草を取り出して火をつける。
ふう、と息を吸うと、その痛みもすこしまぎれた。
横浜のこのマンションは、みなとみらいの夜景が一望できる高級マンションだ。船の明かりがちらちらとまだらに散っていた。夜明けが近いからか、ここではよく船が出入りするのが見える。明かりがあるのはそれだけ人がいる証だ。
それでも徹は今ここに一人。
誰とも明かりを分け合えない徹は、こうしてベランダにいれば身投げしてしまいたくなるのだ。
ここから落ちて、このさみしさを丸ごと世界に返してしまいたかった。
それでもここは、一人ぼっちの暗闇ではなかった。夜明け前で、夜は暗闇ではない。ちらちらと光る明かりは誰かのあかしだ。分け合えはしなくても、ひどく小さくても、遠い位置に他人がいた。
まるで世界で一人のような夜明け前でも。
徹は、暗闇にひとりではない。
(・・・それにしても、)
ぷかぷかと煙をふかしながら、ぼろぼろと涙をこぼす。
自分の精神の異常さはいつものことだ。特段気にすることはなく、別室に眠っているきれいな顔をした男を思い返した。
きれいな男はもちろん小林だ。徹からすると、ジアはきれいには含まれない。
ジィェンは井村が見つけ出してきただけあって、雰囲気は黒い海のようだ。そこのない暗さをまとっていた。あれは単純に顔の造形が整っているだけだ。そして見せ方をわかっているあたりが、きれいというよりは美しい。
対して、井村の恋人は本当にきれいだし、かわいいと思う。
顔立ちもそうだが、時折見える、隠しきれない男らしさは潔さがあった。
徹とちがって、ぐずぐず思い悩んで自壊するより前に、きちんと選択をする気がする。その潔さのような清廉さは、打ちのめされるというより、憧れのようなものを抱いた。
(顔がいい・・・)
だからまとう空気含めて、小林はきれいで、顔がいい。顔がいいから、とにかく何を言われても許せる気がする、と徹は遠い眼をした。
小林は、さわやかな空気の中に、冬の暖炉の前のような温かさがある。そういうやさしさのようなものも顔に滲んでいるから、あれは好かれるだろうと徹は思った。
けれど恋心のようなものは抱かなかった。それから派生する欲情も一切ない。
井村の恋人だから、というわけではなかった。
もちろん他人の恋人、というのも理由の一つではあるが。
徹だけが、例外なのだ。
(・・・おっかない)
絶対に恋人としては付き合いたくないと心の底から思う。
あの男は井村とは別方向で恐ろしい。
徹には春の雪解けの清流のような、きれいな小林が何を考えているのかわからない。どこかきれいで、それはすこしすぎるぐらいだ。
潔さ過ぎて、時に死ぬのさえためらわないような。
そんな気さえする。
徹が恋人だったら耐えられない。そもそも恋人を作ること自体が、精神疾患を抱える徹にはかなりハードルが高いが、大切で依存したい相手が、ある日あっさり死んでしまうかもしれない予感を常に纏っているなんて、恐ろしすぎる。
だから彼の視線の意図を図るのは、はなからあきらめていた。
何事も見なかったことにすることが、徹は大得意だ。今のところ全部見なかったことにしている。徹は小林と特にわかり合いたくもないし、仲良くもなりたくもない。
何せ井村の恋人でもあるからして。
「・・・たばこ、吸うんですね」
いきなり声がして、ひ、と徹は声を上げて肩をはね上げた。煙草を手にして慌てて振り返る。
誰かと思えば、小林が、ベランダの入り口に立っていた。
(びっ・・・・・)
くりした、と言葉を飲み込んで、ああ、まあ、はい、と視線をそらして、うなずいた。
やはり徹のものでは小林にはサイズが大きすぎたようだ。開いた襟ぐりと、肩の落ちた半そでの姿から徹はそう思った。
けれど灰皿では肩幅が広すぎたし、ジアでは身長が高すぎる。結果として、頭一つ分程度の差の徹の服が一番近かったのだから、仕方ないかと徹はひっそりと煙とともにため息を吐き出した。
「となり、いいですか」
聞いておいて断る隙も与えず、小林は徹の隣まで来た。
できるだけ小林には関わりたくないと、徹はベランダの端でうなだれた。他人の恋路に首など突っ込みたくはない。
近づかないでください、あなたとは仲良くはなりたくないんですという言葉を飲み込んで、徹は仕方なくどうぞ、と煙を吹きながら言った。
「・・・」
小林は特に何も言うことなく、徹の隣で同じように景色を見ていた。徹は小林が煙草を嫌がってくれないのかと願った。けれどすぐに、そういえば井村も吸っているから、煙を嫌がって去ることはないかと肩を落とす。
夏の夜は短い。日中の消え切らない温度を残したまま、ぬるい空気の中で、二人でただ景色を眺めていた。
「・・・寝れないんですか」
沈黙に耐えかねたのは徹が先だった。
徹は小林には顔を向けなかった。仲良くなりたくないという思いは揺るがない。
徹はただ、となりに男がいても一人きりだ。目の前のちらつく明かり以外、唯一残された煙草のわずかな光だけが頼りだった。この光が、ただのひとりであることを徹に教え続けている。
徹が景色を眺めたまま問えば、小林ははあ、と重い息を吐いた。
「・・・夜明けが、いやで」
なんで、と小林は小さく続けた。
「明日が、くるのかな・・・」
その言葉に引き寄せられて、徹は隣の青年を見てしまった。
小林は、弱ったように柵に肘をついて徹を見上げていた。
彼の白い肌は、夜だと幽鬼のようにあやしく浮かび上がる。黒い眼がわずかな夜の明かりに反射して、徹に視線を向けていた。
なるほど、きれいな顔でそうして見上げられれば、ひどく芸術的にさえ見えるのだと徹は冷静に思った。春画を眺めるように、芸術的な価値で素晴らしさこそ感じることはできても、それが性欲として反映されることはない。
艶めかしいな、というのは、単純な美しさを評価する言葉に置き換えられて、徹はその芸術をしばらく眺めた。
「・・・」
この隣の青年にそんな面を見出せば、不思議と恐ろしさはなくなった。遺伝子と芸術は似ている。はるか遠くに作り出された芸術は、ただ美しいだけだ。それと同じく、組み合わせでこうしてきれいな生き物を作り出すのだから、人間は不思議な生き物だ。
煙草の煙を静かに吸いながら、徹は見なければよかったかもしれない、と久しぶりに後悔した。
見なかったことにしたいではなく、見なければよかったという後悔は久しぶりだった。正しく現実を受け止めたことが、普段の自分の欠落具合を浮き彫りにするようで、憂鬱になる。
「・・・夜明けは、きらいですか」
重たい言葉を吐き出すように問えば、小林は柵に置いた自分の腕の中に顔をうずめた。
「きらいです」
徹は自分が芸術品と会話をしているのが不思議で、相変わらず明けもしない夜の空を眺めた。
「夜明けが来ると、明日が来る。日が昇って落ちて、それでまた明日が来る。そしたら、」
小林はゆっくりと顔を起こすと、徹に視線を向ける。
それを目の端でとらえながら、何かに誘われている気がした。気のせいだと流すには強すぎる視線が、徹の意識に残る。
そしたら、とかすれた小林の声は、何となく聞き覚えのあるような響きをしていた。
「忘れてしまうのに」
そのことがひどくいけないことのような顔をして、小林は徹を見つめていた。
徹はその視線を受け止め、静かに煙草をふかした。
(ああ、そうか・・・)
徹はそれを知っている。
忘れたくない。忘れたい。でも忘れてはいけない。
だから、苦しい。
息をして、心臓を動かして、食事をして、寝ればここから遠くに行ってしまうから。
それを食い止めるすべを、徹たちは持っていないのだ。
徹はその矛盾に真綿で首を締められ、自壊した。緩やかに、体の一部が少しずつ割れてこぼれていくように、壊れて欠けた。
覚えのあるものを見ている気分だった。しゃべりなれた言葉を聞いているようで、是呵(そうだね)、と口をついて同意がこぼれる。
「・・・どうしてわすれてしまうんですかね」
徹は小林のことを何も知らなかった。
けれどだからこそ、隣にいても平気だった。
それはきっと、明日なんて来ないでほしいと、夜明け前の港を眺める小林もそうなのだろう。
何も知らない徹だから、小林は隣にいる。ただ煙草を吹かすだけの徹ぐらいが、きっとちょうどいい。徹だったらそんな存在を選ぶ。
自分の世話を焼く男でも、兄のように背を叩いてくれる灰皿でも、恐ろしい主人の井村でもなく。
生い立ちも知らない、ただ横にいても平気な存在だ。自分とは何もかかわりがない。それでいて、夜明けを嫌うことを知っている。そんな空白を見たことがある、それに理解があるのがいい。
「・・・たばこ、いります?」
徹がポケットから差し出すと、小林はじっと白いくしゃくしゃの箱を見つめた。そして子供が好奇心をのぞかせるように首をかしげる。
「おいしいですか?」
「・・・まあ?」
慣れると、という言葉を飲み込んで、徹は口にくわえたままの煙草の火を消した。ベランダに置かれた植物のない植木鉢に短くなった煙草を押し付けると、小さく息を吐く。
夏の朝はまだ遠い。
朝まで語り合うには長すぎると、視線を外した。
「・・・僕はもう寝ますよ」
迷いたくない。
わかり合いたくない。
見なければよかったなんて思いたくないと、徹はこの位置から抜けることにした。
彼ならたくさん助けてくれる人がいるだろう。だから彼に徹は必要ない。どれほどちょうどいいかが分かっていても、余計なことは考えたくないと、そう告げた。
「・・・泣くのに?」
寝れるんですか、と揶揄するような響きがあった。
ああ、やっぱりか、と徹は思う。自分は泣いて暴れたのだ。
だから小林は起きてきたし、灰皿は隣で寝ていた。
「・・・僕の涙に、意味はないんです」
徹はうつむいたまま、小さくつぶやいた。
ぽとりと、目から涙がこぼれた。意味がない水分の塊が、ベランダに落ちる。
「僕の涙は、終わったことがこわくて流れるだけなんです。でもそれはもう終わっていることで、・・・忘れたくないのに、忘れたいから」
徹は行き止まり。進むことも戻ることもない。井村のもとに来たことが、もうすでに行き止まりだった。
「意味なんてないんです。泣くことに、」
それでも怖いと記憶が言う。かつては幸福だったと脳が嘆く。
どれだけ薬で麻痺しても、セックスで我を忘れても、徹は失えないものがある。
「だって泣いても、行き先なんてないんですから。ここから、僕はどこにも行けないんです」
かなしい。
苦しい。
忘れたい。
それを徹は永遠に繰り返すだけ。
夜明けを嫌うよりはずっと、朝が来るより遠く、もうないものを思い続ける。
「だから寝たいんです、もう目が覚めないくらいに、深く」
「寝るよりは・・・忘れてしまえたほうが、きっと楽ですよ」
自分で口にしたのかと思って、徹は顔を上げた。
そこでは小林が、じっと、立ち尽くしていた。
「泣いてどうにかなったら、泣いてるでしょう」
でも、意味がないから、という硬い声に、泣かない小林と、泣く徹は、本質的には変わらないのだと、徹は小さく笑う。
ああ、うん、と小林が、視線を落として、何かを決意したように顔を上げた。
いやな表情だと、徹は苦々しく口元を歪めた。
「・・・俺と、逃げませんか」
少しも潤まない目を、苦々しく思って、徹は冗談でしょうと口元を曲げた。
「あなたと遊ぶのは許されていますけど、駆け落ちまでは許してもらってないので」
健全で清らかな男から誘われる逃亡は、魅惑的に思えてしまえた。楽なのだろうと思う。きっと、お互いちょうど良く散歩に出るように逃亡できる。
それでもそれに、素直に『是(はい)』ということはできない。
「・・・何をするにも、許可がいると?」
「僕は、あの人の所有物ですので」
あたりまえでしょうと、徹は返した。
その言葉は小林のお気に召さなかったようだ。
小林は、にや、とあでやかに笑った。目を細めたそれはただあでやかというよりは、何かをたくらむような、面白いものを見つけたと言わんばかりの顔だった。
それが機嫌のよい顔でないことぐらい、さすがの徹もわかった。
井村によく似ている、と苦々しく思う。
同時に、逆らうことをやめそうになる。
しかしさすがに二人で逃亡なんて真似はできない。小林は井村の恋人だ。
徹の抱える病は一人でもどうにかなるので、その誘いに乗ること自体は簡単だ。だが、二人でどこかへ消えたら、さすがに井村が黙っていない。
「・・・じゃあ、あなたが俺と逃げてくれたら、井村との別れ話、考えると言ったら、逃げてくれますか?」
「は・・・」
ぱちぱちと目を瞬いて、徹は小林を眺めた。
小林の口元は笑っているが、何かを推し量るようにこちらに視線を向けている。
気がした。
(・・・なんてひとだ・・・)
聞かなかったことにしたいと思ったが、そうもいかない。
この男は、それが取引材料になるとわかっているのか。その判断はつかない。だが、徹の主人が愛する相手を、みすみす逃すわけにはいかない。
なぜなら、井村が逃がす気がないから。
それを、徹は知っている。
これだから何もかも聞かなかったことにすればよかったと憂鬱になった。
そんな選択を迫られる羽目になるのだから、何も知らないほうがいいのだ。
逃す気はない井村が、小林には考える時間が必要だと言っていた。小林を徹に会わせたわけがこれだとしたら、自分の主人はどこまで先を読んでいたのだとめまいがしそうになる。
(・・・二人でどこかへ行くことさえ、計算のうちか)
恐ろしい人だと小さく息を吐く。
『あいつから目だけは離すな。お前が近くにいろ、犬』
夕方、そんなことを徹に命じたのはこういうことだったのかもしれなかった。
『お前ができることだ。そこに泊めていい。だから、お前は眼を離すな』
徹は井村を裏切らない。
だから、どれだけ知りたくなくても、教えられれば享受する。聞かなかったことにしたくても、きちんと聞く。
だからその命令も、聞かなかったことにしたいが、そうもいかない。
それに小林が巻き込まれないような遠くに逃げるのは、井村の意志には反しないだろう。実際、小林を巻き込まれたことにはかなりご立腹しているようであるからして。
「・・・いくらなんでも、それでは割には合いませんよ、そうでしょう。あなたにはどんな男に見えているのか知らないですが、井村さんは僕の主人です。主人のものを攫うなんて、僕に命懸けの逃避行をしろっていうんですか?」
質問に質問で返す狡猾さを、小林は指摘しなかった。
そのかわり、これではやはりだめなのかと、小林が思案するように視線をそらした。
徹はそれを見逃さなかった。
やりたくないことは山ほどある。できることなら布団にくるまってミイラになりたい。地球が滅びてくれれば、徹はこんな思いをせずに済むのだ。その日まで布団にくるまっていたいと、徹は心の底から思う。
でも、やれ、と命令されたのなら、その希望すべてを押しのけて、井村の望む結果をもっていかねばならない。地球は滅びないし、それが徹の意義だ。肉以上、臓器になるよりは意味があると、すくい上げられた理由なのだから。
「あのひとは、あなたと逃げたと知ったら間違いなく、僕を殺しますよ。小林さんは、あのひとがそうしないと言い切れますか?」
井村は井村で、徹に会わせた意図があるはずだった。
それをどういう方面にしろ、推し量ることを、求められている。そして徹の見方を、主人が否定することは、おそらくない。
「・・・わかりました」
小林は、何を理解したのか、そうして顔を上げた。
妙に清々しい顔をして、迷いを吹っ切るような顔をしている。
(いやな顔だ)
見なかったことにしたいと心の底から思った。井村が腹をくくったときのような顔をしている。それはたいてい、腹をくくっているので、何事も乗り越えてしまうときの顔だ。
絶対に負けない時、そんな顔をするのを、徹はよく知っている。
つまりこの男は、井村に負けるつもりがない。
(・・・なんてひとだ)
ほら、おっかない男だと、徹は眼をそらした。
「俺が、あなたを守ります」
そうして何が分かったんだと言いたいぐらい、小林はその顔を使ってきれいに笑い、それでいいですよね、とごり押しをした。
「・・・」
言葉をなくした徹を、にこにこと小林が笑う。
げんなりとした顔をしているというのに、小林はめげなかった。
けれど、その言葉が出てきたのなら、仕方ないと徹は息を吐いた。
「じゃあ、行きますか」
散歩に誘うような勢いで、徹はうつむきつつそう言った。
「え・・・」
「何も持たないでください。いいですか、必要なものはあとで買いますから」
はあ、とため息を吐いて、服だけ変えてくれと徹は言い放った。
「明日の服、僕が渡しましたよね?あれ着てください。そしたら玄関出て待っていてください」
それだけを言い渡し、ベランダから出ようとすれば、いいんですか、と震えた声が聞こえた。徹は顔だけを夜明け前のベランダに取り残された男に向ける。
「・・・あなたが、守ってくれるんでしょう?命かけるんですから、僕が横恋慕したと勘違いされて殺されそうになったら、阻止してください」
静かにそれだけを告げれば、小林はなぜか目を輝かせた。
(なぜだ)
とにかく準備をしなければ、と重い溜息をつきながら徹は部屋に戻った。
寝ている灰皿に肩までタオルケットをかけ直して、徹は服を変える。
財布からクレジットカードにキャッシュカードと、何枚かの万札を引き抜き、ズボンのポケットに入れる。
さらにクローゼットの奥から、靴の箱を取り出して、箱を開ける。中には黒い小さな銃がある。
(まあ、トカレフぐらいは許してくれる、はず・・・)
上にジャケットを羽織り、ポケットに拳銃を入れた。
「・・・兄さん、ちょっと行ってくる」
聞こえるはずもないが、それだけを告げて、部屋を出る。リビングに出れば、先にばたりと閉まる音がした。
(あの人は、先に出たらしい)
丁度良かった、と小さく息を吐くと、徹もそのあとに続こうとした。
「坊ちゃん」
だが案の定、物音も立てずに背後に立った男が、声を投げてくる。
(やっぱりな)
「・・・ジィェン、どうしたんですか?まだ、日も明けていないのに」
徹は白々しく、振り返ってそう問いかける。
ジアは、白い顔をして無表情で立っていた。そうしていると幽霊のようだ。不自然なほどの場にそぐわないきれいな笑顔で、ジアが問いかける。
「どちらへ行かれるんですか?」
「・・・散歩ですよ」
不同(ちがう)、とジアは眉根を下げてつぶやいた。
だが、そうつぶやいた次の瞬間には、再び不自然なほどの笑顔を作っていた。眉を下げた顔は見間違かと思うほど、さきほどと同じ顔だ。
「私も行きます」
「・・・だめです。ステイヒア、ジア」
坊ちゃん、となおも縋りつく声に、徹はトカレフを取り出した。
黒い拳銃に、ジアは動じなかった。
徹はジアの正体を知らないが、彼が中国人である以上、小林の近くに置いておくのは危険だ。井村の意志に反する。かもしれない。安全だと確定していない以上、近づけるわけにはいかない。
徹はその拳銃を、自分の頭に向けた。
ごつ、と拳銃を頭にあてた姿で、口元を持ち上げて笑う。
その動作に、ジアが驚きを顔に浮かべた。
割に会わない仕事を好む男だ。徹の世話を好んで焼くおかしな男。
だが、ただ一つ言えるのは、この男はなぜか知らないが、徹を健全に、そして生かしたいらしい。
(別にいいのになあ、死んでも)
「・・・駆け落ちに、ついてくるのは野暮ですよ。わかりますよね?ジア」
その言葉に、ジアが泣きそうに顔を歪めた。
「・・・坊ちゃん・・・・わたし、私も、連れて行ってください、おねがい、お願いします・・・なんでも、しますから・・・ね、おねがいです・・・」
徹は残念ながら、井村のように優しくはない。どちらかというと日野寄りで、その日野にさえも、お前はやるときはやりすぎるぐらいですね、と褒められたことがある。
この無慈悲さを、井村もほめそやした。
だから、これは間違ってはいない。
「だめです。待て、です。僕のお願い、聞いてくれますよね?できれば、僕の脳漿が飛び出る前に、是(はい)と言ってほしいのですが」
「・・・・・・是」
絶望的な顔で、ジアがそう返事をした。徹はポケットにトカレフをしまうと、小さく息をついた。
「じゃあ、行ってきます」
そうしていつも通りにあいさつをして、小林とみなとみらいをでた。横浜の駅まで歩き、始発を待つ間、24時間やっている大型量販店で、リュックだけ買い込んだ。
始発の時間になったら新幹線乗り場まで行き、そのままチケットを買って新幹線に乗り込む。うとうととする小林の頭を肩に置きながら、徹は寝不足の顔のまま景色を眺めた。
そして。
「うわあ、伏見稲荷って、入り口から鳥居があるわけではないんですねえ」
なぜか、楽しそうに目を輝かせる小林と、徹は京都にいた。
(来るんじゃなかった・・・)
徹はげんなりとしながら、楽しそうな小林の隣に立っていた。息さえままならぬような湿気と暑さに、だらだらと滝のような汗をこぼしている。ここは本当に同じ日本なのか、と海風のあった横浜が恋しくなった。
気分は鉄板の上で踊りの練習をさせられる猫の気分だった。つまり拷問に近い。江戸時代には拷問ではなく、猫に芸を仕込む時にやったすべなのだが。
「あの赤くてずらっとしてるの、この奥にあるんですかね、有名な鳥居。あ、でも中はわりと普通に神社っぽいんですね、すごい!神楽の舞台もある」
小林も徹が感じるような暑さの中に同じく立っているはずだが、生き生きとしていた。京都駅から伏見稲荷まで電車でやってきて、今はその伏見稲荷大社の入り口の門をくぐったところだった。
徹は門の影に移動し、静かに息を吐いた。
小林が楽しそうに古い建築をあちこち見て回っている。
その楽しそうな姿に、まあいいかと納得を示す。井村に殺されるかもしれない、という事実をちらつかせて、小林を離さないようにしたのは徹だ。小林の正義感に漬け込むぐらい造作もない。
これで徹でさえ察知できない、井村の目のない遠くへ消えられることはないだろう。徹が生きていれば小林はそばから離れないはずだし、そもそも生かすために力を尽くしてくれるだろう。それに徹を見捨ててはいくような人間性ではない、と、そこは小林の人間性にかけるしかなかった。
殺されたらその時はその時だな、と徹は冷静に思う。殺される可能性も、ないではない。
徹と小林を天秤にかけられたとき、井村の中でどう傾くかは、徹でさえ図り切れない。
「ねえ、俺、上のほうまで行ってみたい、な?」
影でも少しも楽にならない呼吸にぐったりとしていれば、小林がしたから小首をかしげつつ覗き込んだ。
きれいな顔は、それだけでなんでもお願いを相手に聞かせてしまいそうだ。なぜか小林にはそんな魔力があるようで、甘ったれたようなその言い方にもあまりわざとらしさがない。
しかし残念ながら、今の徹にはその魔力にかかるだけの人間性がなかった。
暑さに人間性はとっくに蒸発した。
京都というのはどうしてこうも鉄板のような人間焼きを体現する地面なんだと影の下で嘆くのに忙しい。
だからおひとりでどうぞと投げやりに答えた。
この暑さの中、山を登るなんてどうかしている。
できれば今すぐ、確保しているホテルに入って冷房の中でくつろいでいたかった。
「えー、俺、徹さんを一人にはできないですし」
「いや、赤子を駐車場に置いていくんじゃないんですから。」
大丈夫です、と答えると、違いますよ、とにこやかに否定された。
「俺がいない間に、殺されたらたまりませんから」
「・・・えー・・・でも、山・・・」
殺されたら、という言葉を本気にしているのかと問いただしたい気持ちもあった。井村はそんな側面を見せていたのだろうかと思う。
そして殺しにかかる井村とやり合えるのかと思えば、ますます小林とは敵になりたくなかった。
「山登りたくないんですけどぉ・・・小林君、体力ありすぎでは?」
いやいや、と首を振れば、行きましょうよ、と小林に腕を引っ張れる。意外と力が強かった。
「むり・・・焼けたくない・・・」
「なに女子高生みたいなこと言ってるんですか!せっかく観光地に来たのに!俺、伏見稲荷行ってみたかったんですよね~あの赤い稲荷の間を、飽きるほど見て、へ~って観光客みたいにしたいです!」
「京都の観光地なんかどこもかしこも山ですよ・・・貴船神社も山だし。山しかないんですよ、この鉄板大地」
なんで来てしまったんだと思ったが、口には出さなかった。
京都を選んだのはほかでもない徹だ。
「・・・えー行きたかったなあ・・・」
しょぼん、とあからさまに肩を落として力を緩めるので、徹はため息をついた。
「少しだけですよ」
はあ、と重い溜息をついて、影から日の下へと歩き出した。じりじりと地面に降り注ぐ白い光のまぶしさに目を細め、神社の奥へと向かう。木が生い茂って多少は日差しを遮ってはくれるが、それもささやかすぎてあまり効果がない。
それでも小林は上機嫌に元気よく歩いていくから、同じぐらいの年のはずなのに、この差はなんなのかと思う。
「でも、なんで京都なんですか?」
先を行く小林が、振り返って問いかけてきた。
「ここまで来ておいて、今更過ぎませんか」
まあ、と否定せずに照れたように頬を緩めた。そして小林はへへとごまかすように笑う。
「今後の参考にしようかと」
逃げる気かと問いただしたかったが、そこはぎりぎりでこらえた。逃がさないぞ、徹でなくて井村がと心の中で付け加えて、徹は日差しに目を細める。
そして、人の出入りが激しいからと答えた。
「地元民でさえ逼迫する観光客の多さが逆に見つけられにくいから、です。逃げるんでしょう」
「・・・」
うん、と小さくつぶやいた声を、徹は聞き流さなかった。
「明日か明後日には、京都をでる予定です。熱海に寝泊まりできる家があるので、最終的にはしばらくそこに」
「え、徹さん家持ってるの!?」
僕のではないです、とため息交じりに答えた。やはり伏見稲荷大社は山だったようだ。どんどん階段を上っていく羽目になり、ため息なのか体力不足の息切れなのかわからない息がこぼれる。
「僕をかくまってくれる人の家です・・・」
ぜえ、と息を切らして登っていると、ひときわ大きな赤い鳥居が見えた。その奥に、ずらりと赤い鳥居が続いている。
「うわあ・・・すごい。なんか、ちょっと怪しい感じする・・・」
徹は息を切らせてうつむいた。肩で息をするぐらい体力の消耗が激しい。だというのに小林は少しも息を切らせた様子がなく、体力の差を思い知らされた。
「・・・あいつがいたら、写真撮りたいとか言いだしそうだ」
くつりと小さく笑ったきれいな横顔が緩む。そのあいつが誰なのか、徹には分らなかったし、誰なのかと聞く気にもならなかった。
ただ、彼の恋人であってほしいと願った。
どうか井村であってくれと思う。
そしてそれが井村なら、どうして徹を選んだのだろうと思った。今、隣にいてほしいと願うのは、井村であってほしい。
徹は心の底から、自分をすくい上げてくれた男の幸福を願っている。
「・・・徹さんは、・・・誰かをなくしたことある?」
ためらうような言葉に、徹は息を落ち着かせて、隣の小林を見た。
自分より小さい青年は、まっすぐに自分を見つめていた。黒い眼がきらきらと輝いて徹を見ている。それは期待に輝くものでなく、命がはじけているような、そんな力強さだ。
きれいだと、そう思う。
徹とは違うのに、この隣の人は、誰かをなくしたことがあるのだ。
徹と同じように、大切な何かをなくして、それで苦しんでいる。
忘れたほうが楽だとわかっているのに、忘れることが惜しくて仕方ない。
忘れたいけど、忘れたくない。
そんな矛盾を抱え込んでいる。
徹はその自己矛盾に耐えられない。だからいつも死にたくてたまらない。
でも彼は、死にたくはなっていないのだ。
徹はその苦しみに、死んでしまいたいのに。
終わらないから、終わってほしい。それでも忘れたくはない。ならば自分の存在ごと消えてしまいたかった。
「・・・」
「ごめん」
ふ、と答えないでいた徹に、彼は吐息交じりに謝った。そして先へと歩き出す。幾重にも続く鳥居の下をくぐり、鳥居の隙間から山の景色を覗いていた。
そのあとに続きながら、徹はリュックを握りしめた。
「・・・ほか、」
ほかに、と徹は小さな背中に声をかけた。
小林が振り向き、驚いたように目を丸くする。
『誰かをなくしたことある?』
答えられない自分が、弱くて情けなかった。
なくしたものはたくさんある。
けれどそれを口に出せば、思い出してしまう。
小林と二人の状態で騒いでしまったらと思うと、口にするのは憚れた。徹には耐えきれるものではないからだ。
井村に殺されるのは、小林が井村のもとへいるときだからいい。けれど、他の人間に殺されたときは小林も危険にさらすことになる。
それは徹の本意ではない。
他の誰かに『徹が殺される』、というリスクがある以上、小林を巻き込まないように回避するのが徹の役目だ。そんな裏事情は、小林は知らなくていい。これは井村の仕事の領分に入ってくるからだ。
「・・・どこか、いきたいところはありますか?いつまで続くか、わからないですけど、でも、熱海に行くまで・・・君の希望は、聞けますから」
「・・・え、大丈夫なんですか?なんか予定とか、計画とかあるんじゃ」
「予定立ててませんから」
きっぱりというと、えっと小林が驚いた声を上げた。
「今日のホテルは確保してますけど。大体、僕の荷物も、小林君の荷物も、携帯も置いてきたでしょう。服さえないのに、何の計画を立てるんですか?」
「ええ・・・だって、だってほら、迷いなく京都に行きます、ってチケット取ったし、てっきり計画的なのかと」
はあ、と徹はあきれ交じりのため息をこぼした。
やはり山を登るのは体力的に厳しい気がする、と遠い眼をした。
「僕は、殺されるって言いましたよね。そんな僕が、事前に計画立てていたとでも思うんですか、冗談きついですよ」
「うそうそ」
「ほんとほんと」
嘘を言ってどうする、と思ったが、口にしなかった。なぜ小林が驚いているのか、徹にはよくわからず首をかしげる。
「計画的な家出なんてないんですよ。まあ、ほら、寝て風呂入るだけなら、ラブホでもいいわけですからね、別に宿も何も確保してません。いいですよ、三重とか奈良とか行っても。四国は遠回りなので、遠慮してほしいですけど、最終的に熱海に行き着けばいいだけですから」
熱海にある家は、夏になるとそこに駆け込む別荘のようなものだし、駅に近いので新宿まで2時間もあれば行ける便利な場所だ。熱海の家には徹をよく知る男がおり、そこならば安全だった。何より井村の息がかかっているので何かあったら井村にきちんと連絡が行く。
そういう理由で最終目的地を設定しているのであって、それ以外に計画はまるでない。移動で時間が遅くなったらどこかに泊ればいいと思っている。
「えっ。つまりそれは俺とヤろうってそういう、」
「冗談やめてください殺されます」
思わず全力で答えた徹だった。
「大体、僕、バリネコですよ。できないでしょ」
あきれ交じりに吐息をこぼすと、ねこ?と疑問形の声があがった。
「あー・・・もしや小林くん、ゲイではない?」
「・・・あんまり考えたことがない・・・です」
すごいなこのひと、と横目で眺めつつ、抱かれる側の話です、と徹は一応解説を添えた。
「男同士だと、抱かれる側と、抱く側があるでしょう。抱かれる側の人間はネコっていうんですよ」
「ああ・・・でも、それだったら大丈夫ですよ」
「えっ」
思わず大きめの声を出して、徹は小林を凝視してしまった。
小林はすたすたとそのまま参道を歩いていく。本当に山の頂上まで行く気かと聞きかけたが、それよりも考えなければならないことがあった。
大丈夫。大丈夫ということはつまり、と考えると、ひえ、とのどが干上がった。
(つまりつまりつまり・・・えっと、井村さんがだかれてる・・・)
ぐるぐると突き付けられた事実に頭がついていかない。
けれど、気持ちいいからでは、という理由に行き着くと、納得もしてしまった。
気持ち良ければ何でもいいのか、節操ないな、と思うが、それも井村ならありそうだった。楽しければどうでもいいという性格はよく知っているし、徹は最後まで行ってないにせよ、少しは井村と遊んだこともある。気持ちいいなら誰とでもいいという井村が、気持ち良ければどっちでもいい、と変換されるのはありえる。
女をとっかえひっかえしていた井村がなあ、と思うと少しおかしくもあるが、もともと女とか男とかそういうくくりに反応する人ではない。
思わぬことを知ってしまったが、聞かなかったことにしよう、と硬く心に誓った徹だった。
「俺、二条城も行ってみたいです」
ふと振り返って、小林がそうリクエストする。
「いいですね、京都駅近くですし、服の調達もありますから、小林さんもリュック、いりますよね?」
色々そろえましょう、と口にすると、なぜか小林は目を輝かせた。
「本当に駆け落ちみたいですね、徹さんとっても頼りになります」
「やめてくださいほんと」
好感度を上げたらしい小林に、本気で徹は憂鬱になる。
早く熱海へ行って、この二人きりの状況を避けたほうがいいかもしれないと今から計画を練り始めてしまった。

「すこし、あの男にお願いしてほしいだけなのよ」
ピンクのきらきらした口元がさえずるように、そんなことを言った。
「恋人のおねだりなら聞いてくれるでしょう?メイリンを、返してほしいだけなの。お金なら用意するわ」
小林は首をかしげて、おびえたように首をすくめた。
もっとも、内心は何言ってるのかを見極めるのに必死だったが。
小林はカレンといたホテルのラウンジの喫茶店から、見知らぬ中国人に連れられ、中華街にいた。
連れてこられたのは大きな中華料理屋だった。漢字ではあるが、普通の漢字と書かれた字が微妙に違っていたので、どういう名前なのか、小林にはわからなかった。
店の部屋の奥、ひときわ大きな部屋に連れてこられた小林を待ち構えていたのは、派手な顔立ちをした女だった。
ピンクを基調とした化粧に、白いチャイナドレスを着こんだ女だ。あからさまに中国人らしさを演出した見た目とは裏腹に、流暢な日本語で小林に話しかけてきた。
「あなたがクォイランなのは、わかっているのよ。あの男が大切に大切にしているのでしょう?お金、必要よね?私に協力してくれれば、好きなだけあげるわ」
にこ、と化粧の施された顔で笑う女が、取引を仕掛けていることだけは理解できた。
そして小林を、誰かの『恋人』で、クォイランと呼ばれる男と勘違いしていることも。
(あの男って・・・井村のことか?)
よくわからないので、わからないまま首をかしげる。わからないという態度を貫いていれば、女はじれたように片眉を上げた。
「~、——」
女が何かを言った。中国語だろうと思うが、小林には判別がつかない。
首を傾げた小林に、女が不審そうな顔をした。
そのときだった。
どおん、と大きな音がした。
それは確実に背後のドアから響いており、小林は思わず振り返る。
「あー?」
間延びした声が聞こえるだけで、ドアは何ともない。けれど確実に背後の閉じられた扉の向こう側で何かが起こっていた。
次の瞬間。
ばきい、と木製のドアから、足が一本飛び出した。
(ドアを、蹴破った・・・?)
それも、ただ蹴りが強すぎたからドアを突き抜けたのだ。
足を出した人物は相当に力があるか、力の使い方がうまい人間だ。
あるいは洗練された技を持っていると、強い人間の出現に、小林は思わずじっとドアを眺めた。
片方だけ飛び出た足はすぐに引っ込む。
そして次の瞬間にはどおん、と穴の開いたドアが弾き飛ばされた。
留め具を吹き飛ばすまでに至らず、まるで爆弾をくらったようにドアは半分壊れた。ドアが開く形としては不自然に動き、半壊したドアがぎい、と鳴る。
「・・・あー?うぅ・・・」
壁から弾き飛ばしたドアの隙間からゆっくりと中に入ってきたのは、黒服の赤毛の男だった。手に黒いグローブのようなものをつけ、何事もなかったように、歩いて室内に入ってくる。
赤茶けた髪の若い男は、女を見てけらけらと笑った。
赤子のように笑う男は、ぐ、と拳を握りしめる。
「なんなの!?どうして!?外には人がいたはずでしょう!?」
女が動揺したように声を上げた。その動きと同時に、がたりと椅子を蹴飛ばして立ち上がる。
「・・・まあ、クォイランではないみたいですね。でもとりあえずむかつくから殺しときますか」
赤い髪の男の後に入ってきたのは、眼鏡をかけたスーツ姿の男だった。
「いやあ、お粗末ですよ。先日のロンとの協定は何なんですかねえ、ジャパニーズ、ばかにしてます?」
眼鏡をかけている以外は、ひょろりとしていて特筆すべきことはない普通の男だ。電車に乗って通勤でもしていそうだった。
営業でもするようににこやかに笑っていた男は、あたりを睥睨した。
顔の筋肉は笑みの形を作るのに、眼鏡の奥の眼光は鋭く、少しも楽しそうではない。一貫して冷たい眼をした男は興味がなさそうに女から視線を逸らすと、手を動かして何かを指示した。
「灰皿、やれ」
「あう~」
その号令だけで、赤毛の男には十分だったようだ。
彼はそばにいた男を、大きく振りかぶった足で、顔面から吹き飛ばした。
勢いをつけたその足の振り方は、小林が知る技術とは少し違うものだ。腰に重心を置いた体の動きは、体幹がぶれない。ただ一つの動きだけを何度も繰り返して、繰り返されたとわかる、練習の極致がそこにあった。
抜きんでた技術がわかったのだろう。足技は、それだけでこの男が強いと知らしめた。その強さに反応して、この場にいる男たちはいっせいに赤毛の男に向かっていた。
けれど彼一人が機関銃のように、一人一人を無効化していく。その敵のさばき方は、足にとどまらず、体を使った動きすべてが洗練されていた。
きれいな動きに見入っていると、号令を出した男は小さく舌打ちした。
「それにしてもお粗末ですよねえ、本当に・・・ロンであれば、クォイランを間違えることもないですし・・・おまえ、なんなんですか?」
顎を上げて見下ろすように言う男に、女が顔を歪めた。
そして中国語で何かを吐き捨てると、部屋の奥へと走り去る。
「おい、何してる。追え」
赤毛の男に続いてスーツ姿の男たちがぞろぞろと入ってくると、奥へ消えた女を追いかけ始める。けれどそれを止めようとする女の部下とのもみ合いになり、ぱあん、と空を切る音がした。
「・・・小林さんですね。行きましょう、井村から話は伺ってます」
ひょろりとした男が、小林にそう声をかけた。
「あの、何がなんだか・・・」
困惑したまま、眼鏡をかけた男を見上げる。男はわかっていますと小さくうなずくと、小林の腕をとって連れ出した。
「井村の部下なんです」
そう名乗った眼鏡と車で待っていると、さきほどの赤茶けた髪をした男が、乗り込んできた。
「すいませんね、本当は、井村もそうですけど、あなたを巻き込む羽目になるなんて想定していなくて。今、ちょっともめているんですよ」
迷惑をかけました、と謝罪する男が、運転をしながら、どこかに向かう車のミラー越しに、小林を見た。
そしてそのまま、小林はとあるマンションに連れてこられた。
クォイランと呼ばれる、不健康そうな、青年のもとへ。
『熱海―次は熱海ですー』
間延びしたようなアナウンスに、うつらうつらしていた瞼を開ける。小林は、自分の肩に乗った頭を見下ろした。
閉じられた目の下には黒いよどみが残っている。穏やかに見えて、その位置から程遠い男の寝息は健やかだった。しかし本当に寝ているかどうかまではわからない。
二人で逃亡して3日以上が経過していた。その間、ともに行動し続けたわけだが、徹はほぼ寝ない状態が続いている。
『寝たいんです』
と、徹が口にしていた言葉を、小林は甘く見ていたかもしれなかった。
徹はうとうととするが、意識をぼんやりとした状態でいるだけだ。小林が夜起きると大抵起きるし、朝起きる頃にも起きている。
今も、すうすう、と静かな寝息を立てている。だが、それは微睡んでいるだけで、その実、睡眠状態にはなっていないのだろう。
逃亡を始める前は少しは寝れていたのかと思えば、小林との逃亡は徹にとってはつらいものかもしれなかった。徹には悪いことをしているのかもしれない。
けれど、小林にとって徹のそばは居心地が悪くなかった。
彼は小林に何も聞いてこないし、何かをお願いすることもない。小林の希望を聞くこともあっても、いろいろなことに無関心を貫いてくれている。
徹のほうが、自分に合っているような気がした。
井村といる時のいら立ちも、あの男に向ける子供のような独占欲も、それが満たされるはずがないとわかっているのに向けずに済むのは楽でいい。
いらいらして、心が軋むような思いをしなくてよかった。
それは、凪のように穏やかで。
平穏だった。
「・・・着きましたか」
ぱち、と隈の残る眼を開いて、徹が頭を持ち上げる。抱えていたリュックをもう一度抱き込むと、ガタン、と揺れた動きに立ち上がって荷物を背負う。
小林も同じように立ち上がってリュックを背負った。主に衣類の詰まったリュックは、あまり重くはない。大きめのリュックを背負っているが、衣服自体もそんなに入っていなかった。
衣服はその日、宿にした場所でまず初めに洗っている。風呂に入って、ベッドで眠りたいでしょう、と徹に最低限の確認をされたとき、徹はそれをしなくとも平気なのかと疑った。
徹は小林が思うよりたくましかった。風呂だとか、最低限の身だしなみを整えられないことを、我慢できない人種は多い。きちんと生活している人間は、現在の生活基準より水準を落とすことが難しいものだ。
夜、逃げませんか、と誘っておいて小林は、失礼ながら、あまり徹に期待はしていなかった。
彼は逃亡に誘った夜、叫んでいた。
『——————、ァ!!』
声が枯れるのではないかというほど、泣いていた。
『あ、ああぁぁ!ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい、ご、ぉ、め、んなさいぃぃ』
ゆるしてください、と叫ぶ声に起きてみれば、聞こえないはずの灰が誰より先に起きだしていた。ばたばたと暴れて苦しむ徹を、力ずくで抱きしめて、赤子にするように根気強くなだめていた。
『あぃろお、う・・・・あぃろおう』
なんどもそう繰り返して、ただ抱きしめている姿は、行き場のない子供のようだった。
二人は二人だけで完成していて、二人にしか分かち合えないものがあるかのように、徹は灰の腕の中に囲われていた。
兄弟がお互いだけを頼りとするかのように、徹はうつろな目で、荒い息を吐きながら灰に抱きしめられていた。
彼は孤独だった。
助けがない暗い中にいるのだと、そう思った。
『僕に、行き場なんてないんです』
夏の夜明け前、泣くことに意味がないという徹を連れ出したかった。
そんな言葉を吐かないでほしいと、泣く男を前に、小林は立ち尽くした。
小林は、愛と、己の命を天秤にかけた男を知っていた。
だからベランダにいた徹に、ぞっとした。
彼もまた、苦しみを抱え込んだ末に、身を投げてしまうのではないかと、そう思ってしまった。
首を縄に置くように、そこから落ちてしまいそうだった。
苦しみが行き止まり。
そこから先は、何もないという。
そんな暗い絶望の色を、小林はみたことがあった。
小林の知っている彼は、そういうことを口にする前に、命を絶った。
(ここで苦しみが終わるなんて、そんな、そんなこと・・・)
もし箱崎が生きていたら、亡くした苦しみを抱えてさえいれば、彼は報われたのだ。
なのに、もう終わりだと、彼自身で終止符を打ってしまったから、誰も救われなかった。
茉李でさえも。
そして彼女もまた、何も知らないまま、終止符を打たれた。
小林が、何も言わなかったからだ。
そして二人とも亡くなった。
だから徹を夜明け前のベランダに置いていたくなかった。
小林が知っている男と同じ末路を歩んでいきそうな青年を置いてはいけなかった。
どうか、小林には手が取れないあの男の手の取り方を教えてほしい。
そして、ここ以外に行き場がないなんて、そんなことを言わないでほしい。
苦しみが、ここで終わりなんて、そんな目をして泣かないでほしかった。
いつか、小林へと遺書を残してすべてを投げうちそうな。
そんな暗い顔を、しないでほしかった。
『逃げませんか』
だからその言葉に、徹に対する期待は何もなかった。
身投げしそうな男をどうにかしたい、という身勝手さがあっただけだ。
徹の泣き顔に、耐えられなかった。苦しみにうなされて叫ぶ声を、どうにかしたかった。どうにもできないとわかっていて、それでも手を差し伸べたかった。
善良な男であれば、そんなことはきっとしなかっただろう。
差し伸べる手で責任が取れるかどうかを考えれば、そんな不条理は選択しないに違いない。手を差し伸べるのではなく、言葉を尽くして癒すべきなのだ。
自分で、立ち上がれるように。
そんな思いからだったため、小林は徹を世話するのは自分だろうと思っていた。
だが彼は、逃亡の何たるかをよく心得ていた。
彼は身の回りのことは自分でできたし、あのマンションで遭遇したような叫びはなかった。ただ睡眠が浅いだけで、体調の悪さをカバーするだけの健康管理もきちんとできる。洗濯も自分でできたし、荷物を最低限にするにはどうしたらよいか、よく知っていた。
それに普通の人への溶け込み方を、よくわかっていた。服装から始まり、見た目に気を遣うことにも長けていた。それに助けられるのは小林のほうが多かった。
「小林さん?」
改札をでたあたりで心配そうに振り返る男に、小林ははい、と返事を返した。
「大丈夫ですか、また、最近暑いし・・・」
「大丈夫ですよ。むしろ、俺こそ徹さんが心配ですけど」
あーまあ、と視線をそらした男は、そろそろ寝れるので、ともごもごと答えた。
「あ、せっかくだし足湯でもしていきますか、すぐそこにありますよ、ほら」
じりじりと地面を焼く太陽のもとに出るのが嫌なのか、影の下から出たがらない徹が、視線を屋根が集合しているほうへ向ける。
潮まじりの空気はたっぷりと熱をはらんでいて、これで吹き付ける風がなければさぞ暑苦しいだろうと小林は苦笑した。それでも、徹には暑すぎるようで、だらだらと汗をこぼしている。
「徹さんは?」
「陽の元に一秒でも出たくないです。焼けたくないのでいいです」
「じゃあいいです」
ええ、と嫌そうな顔をする徹にも、小林は慣れた。いやいやする割に、きちんと逃亡に付き合ってくれる徹に、好感度は上がるばかりだ。
「ひどいなあ、どうして俺と離れたがるんです?俺はこんなにも離れたくないのに」
「小林さんと仲良くしたくないんですよ、察してください」
つれないことを言う声に嫌悪感もいら立ちもない。とげのない言葉は穏やかで、彼といると非常に楽なのは確かだった。
彼のほうが、自分と合っているのではないかと、そう思うのに。
どこか、さみしいと思う。
(くそ・・・)
そばにいないというのに、さみしいと思う事実に小林はいら立つ。笑顔での下で、自分をすきだという男を考えると、いっそ忌々しいような気さえする。
「坊ちゃん!」
明るい声に、徹が顔を上げた。
小林もつられて顔を上げると、金色の髪をした大柄な男が、手を振っていた。
「・・・迎えがきたみたいです」
行きましょう、と徹がため息をつきながら歩き出す。
金色の髪をした男は、よく見ると目が青みがかっていた。鼻が高く、甘い顔立ちをしているというのに、それらをすべて否定するように、顔に大きく傷跡があった。右の眉間から鼻筋を通って左頬まで大きく顔に傷跡がある。
「今はクォイランです、ジェイ。小林さん、こちらが今回お世話になる知り合いのジェイです」
こんにちは、と頭を下げれば、ジェイもこんにちは、と明るく答えた。
顔は少し引きつるように動くが、その目と表情は悪いものではない。顔の傷は深いものだったのだろう。顔の神経までやられているから、うまく動かないに違いない。
「じゃあ、さっそく向かいましょう。詳しいことは車の中で」
止めっぱなしなので、と苦笑されて、徹と小林は車に乗り込む。
助手席には小柄な男が座り込んでいた。運転席と助手席の男は正反対の男たちだった。
助手席の男はじろりと小林を鏡越しに一瞥すると、すぐに窓の外に視線向ける。
ジェイは運転席に乗り込むと、ほどなくして車を発進させた。
「今日はケイまで来てるんですね、どういう風の吹きまわしですか」
やがて車が動き出してすぐ、徹はおかしそうに口元を緩めた。
別に、と憮然と答えたのは助手席に座る小柄な男だった。
「いやあ、坊ちゃんが来るの待ちきれなかったみたいで」
「おいッジェイ!!」
「最近、坊ちゃん、休みでもこちらに来てくれなかったでしょう。だからもう、ケイは待ち遠しくて」
「ジェイ!!」
大きな声で顔を真っ赤にして叫んだ男が、ばっと後ろを振り向いた。口元を緩めたままの徹を見て、顔を歪めて前を向く。
「・・・小林さん、この人はケイさんです。ネットで仕事をしているひとなので、このように熱海に引きこもっているんです。熱海って実は温泉地域ですからね、隠居には最適なんです。ジェイは別荘の管理人が仕事です」
徹の説明に、他に言うことはないのか、と小林は呆れ交じりに思った。
だが、ジェイは気分よさそうに運転をするばかりだし、ケイは不機嫌そうに、いや多分照れ隠しなのだろうが、黙っているばかりだ。
「徹さんて、何者なんですか?」
改めて聞けば、ばうわうと見事な発音で鳴きまねをした。
「犬ですよ、ただの」
「坊ちゃん」
その回答に低い声で、呼びかけてきたのはケイだった。
どこか責めるような響きにも徹は動じる様子なく、小林に視線を向けた。
「しばらくは、食事も宿も考えなくていいですから、楽になりましたね。どうします?せっかく熱海に来ましたし、観光でもしますか?」
「・・・」
いつもと変わらない、二人で逃げる時のような提案に、小林はじっと徹をみつめた。徹と視線は合わない。どこかずれた眼が、興味深くこちらを向いている。
「・・・そうですね、少し、・・・疲れたので、2、3日休んで・・・そのあと考えます」
わかりました、と軽い同意を示した後、徹は前に向き直った。
「すいません」
すぐに隣から聞こえた謝罪に、今度は小林が徹を眺める番だった。
「・・・ええっと」
なにが、とかどうしたんですか、という言葉を探す前に、小林はへらりと愛想笑いを浮かべた。
徹は小林に踏み込んでこない。
だから小林も踏み込まない。
二人で行動するうちに作り上げた暗黙のルールで、つい、小林は踏み込むのをためらった。
たとえ踏み込んだとしても、徹はうまい具合にごまかすし、それを追求するような真似を、小林もしなかった。
お互いが線の際でそうして押し問答を繰り返していたから、その線から大きく踏み出すことはできなくなっている。
「・・・僕は、答えられないことが多すぎるし、聞かないことが多すぎるな、と」
それの何がいけないのだろうと、小林は続きを待った。
それは楽だし、徹の長所だと小林は思う。人はだれしも、聞かれたくないことがある。
「これでは、永遠に苦しいままですね」
そう言って苦笑した徹に、小林は思わず目を見開いた。
「・・・」
どこにも行けないという徹は、結局そのままだ。
小林も聞かないし、徹も聞かないからだ。
小林も徹も、引かれた線を越えることが、とてつもなく苦しみを伴うと知っている。相手を傷つけて、その痛みを引きずり出すという過程が癒しには必要だ。けれど、小林も徹も相手の痛みを引きずりだすというその過程を乗り越えられるほどの覚悟も、残虐さも持ち合わせてはいない。
どうにかしたいとは思うのに、小林は徹を救いきれずにいる。
「・・・着きましたよ」
そう言って、ジェイはマンションのような建物の、道路に面した車庫に車を入れた。
エンジンを止めて、こっちです、と車を降りて先行する徹に続く。車庫の内部はコンクリート造りでひんやりとしていた。車庫から直接上へと上がる階段を、徹は軽快に登っていく。そのあとに続いてのぼる最中、車庫内から視線を感じて見下ろすと、ケイがじっとこちらを見上げていた。
小林が見返したとわかると、彼はすぐに視線をそらし、車の後ろで荷物を取り出すジェイのもとへ向かう。
「・・・小林さん?」
呼ばれて顔を上げ、階段を上り切る。すぐ上は物置のようで、いろいろなものが置かれていた。そのままさらに上がると、そこが玄関のようだった。大きな木の靴置きと、木で張られた廊下が広がっている。
徹は靴を脱いであがると、そのまま勝手知ったると言わんばかりに歩いて行ってしまう。小林がお邪魔しますと小さく言って上がると、ちょうど背後のガラス張りの引き戸ががらがらと開いた。
「はい、どうぞいらっしゃい。あ、ぼっちゃーん!小林さんおいて行ってます~」
ジェイが明るく口にすると、すいません、と徹が足を止める。
徹が止まった先には階段があるようだった。小林が靴をそろえて上がると、徹はこの上が部屋です、と階段を指さした。
「ここはもともと、小さな旅館だったんですが、買い取って改装したんです」
その徹の説明にあたりを見回せば、室内は和風の造りになっていた。階段は古い木のものだが、土壁のような壁は、古さがない。階段を上り切ると、確かに旅館だった名残のように、細い廊下にいくつかのドアが並んでいた。
徹が二つ目のドアの中に入っていくのに続けば、中は想像よりも広かった。大きなドアは海に面しており、太陽の光に反射して、黒い水面がきらきらと揺れている。どこまでも広がる海の広さに、小林は思わず見入った。
まだ空が青いが、それも微妙にクリーム色がにじみ始めている。
「ここ、きれいでしょう」
日差しに目を奪われていた小林は、その言葉にハッとして振り返った。
徹が苦笑しながら、荷物を置いている。こんな景色を前に冷静に荷解きを始める徹に、小林は自分がしっかりしなくてはとはじめに思っていたのは間違いだったとつくづく思った。よく来ているという話だったから見慣れているのかもしれないが、それにしても行動が冷静すぎる、と小さく息を吐く。
「すいません、ちょっと吸いたくて・・・」
そのため息をなんと受け取ったのか、徹は荷物から煙草とライターを取り出して苦笑した。
室内にあるローテーブルにのった灰皿を手に、窓を開けた。
少し身を乗り出せるようになっている、ベランダというにはささやかすぎる手すりに灰皿を置くと、窓辺に座り、煙草をくわえて火をつける。
小林も荷物を置いて、徹と同じように窓辺に腰かけて、外を眺めた。
そういえば海か山に行こうと井村と話していたことを思い出した。だというのに、別の男と先に海に来てしまった。
(くそ・・・)
徹と二人でいても、こうして思い出すことに小林はイライラとした。
同じ時間を過ごした時間があまりにも長かったのだろう。
ふとした瞬間に思い出される回数は、そばにいる時よりも、いない時のほうが多い。
徹は、煙草を吸いながらうつむいていた。考え事をしているのか、こうして静かにしていることが多い男ではある。
徹とは、沈黙が苦にならない。旅行をしていても、苦しい思いをすることもなかった。
ふと、カレンの助言を思い出した。
他の誰かを選べば、離れることができるのか。
あるいは、他の誰かとあの男がどう違うのか。
それを検証するのに、井村が大事にしている徹でも、悪くはないような気がした。
「・・・徹さん、俺とセックスしません?」
ぶほ、と徹が煙を吐き出し、こちらをみた。
何言ってるんだこいつ、と言いたげな顔でいやそうに顔をしかめて、小林を眺める。
「・・・何言ってるんですか?」
そして案の定、顔通りの言葉を吐いた。
「口説けとは言いませんけど、何ですか、いきなり」
「ムラムラしたから?」
「疑問形ならやめてくださいよ・・・」
はあ、と徹は呆れたように煙草を灰皿に落とした。
「言っておきますけど、僕、井村さんとはヤッてませんから。穴兄弟になりたいんだったら他の女をあたったほうが早いですよ」
「ああ、そうか・・・」
あの男に抱かれた女も相当数いるんだと、小林は今更ながら気が付いた。
他の女を抱いていることは知っている。そのことに対してあきらめもある。
だが、それでもその女たちに手を出そうと思わないのは、香りがいつも違うからだ。特定の香りではなく、複数の香りがある。だから、とっかえひっかえしているのだろう。
小林にするように、執着することなく。
(でも、)
徹は違う。
それだけは、少しの間で、よくわかっている。
その場限りの手を取るわけではなく、手を差し伸べ、井村を助け、そして彼に忠誠をささげている。
「でも、とっかえひっかえできるものは・・・なんか違う気がして・・・」
徹は彼の部下で、井村が拾って、大事にしているものだ。井村に身近で、そして井村とは違う男。その男だったらどうなのか、は知る意味があるような気がした。
「どうちがうんです?」
その言葉に、小林は首を傾げた。よくわかっていない部分を言葉にするのは難しく、思わず眉根を寄せてしまう。
「だって・・・誰でもいいんでしょう、井村は。そうじゃなくて・・・俺は、・・・井村がうざくて、うるさいし、俺のことばっかり気を遣うし・・・でも、俺以外にもたくさんいるし・・・その、たくさんはどうでもいい人なのかもしれないけど、でも、俺以外の誰かとの道があるなら・・・そのひとのことも、知ってみたいだけで・・・」
小林がだめだと思うことをどうにかできるなら、それをこなす人間を知りたいだけだ。
そうだ、他の人間との可能性を知りたいだけなのだ、とうなずいた。
「つまり、井村さんが小林さん以外の特別があるなら知りたいってことですかね」
徹は煙草を口にくわえてしばらく白い煙を吸い込んでいたが、ふう、と顔をそむけて息を吐く。
「・・・それじゃ、僕に焼き餅焼いているようですよ」
勘弁してくださいよ、と苦々しく口にされ、小林はあんぐりと口を開けた。
「・・・は?」
何か聞き捨てならないものを聞いた、と顔をしかめる小林に、徹は呆れたように煙草をふかした。
「『井村さんのもの』だから僕が欲しいんじゃないんですか?」
「いやいやいや、それはおかしいんじゃ・・・だって、だってほら、そうしたら灰さんとか・・・あの人もそうでしょう?」
動揺して口走れば、あの人は恋人がいるからでしょうと冷静に返される。
「あの人は『井村さんの部下』ですけど、『もの』ではないですからね」
「いやいやいやいや・・・やきもちって、そんな、・・・それじゃ俺が・・・」
まるで、とても井村のことを好きのようで。
と、口にしそうになって小林は言葉を飲み込んだ。
「・・・好きなんじゃないんですか?」
不思議そうに問われて、小林は言葉を探した。
カレンにも同じような指摘を受けた。『恋』をしている、と。
その指摘だけではうなずくことはできなかった。
指摘されたときは思わず否定したが、わからないものはわからない。
小林の知る恋は、お互いを見つめ合って、手を握り合うような、そんな甘い逢瀬があったからだ。
あれとそんな逢瀬がないことは、小林が一番よく知っている。
「・・・徹さんは、恋をしたことはありますか」
恋人の途切れないカレンには聞けなかった。
聞いたところで、たぶん、これが恋、と言われるだけだろうと思った。そんなことを言われてもどうせもわからないと思ったからだ。
「・・・恋よりも、苦しみでいっぱいですからね、僕は」
それどころじゃないんですよ、という言葉に、小林はうつむいた。
「・・・俺も、同じなんです」
それどころではない、というのは本当にその通りだった。
徹はうまい言い方をすると思う。
箱崎に拾われた。井村に出会った。茉李を救えなかった。そして箱崎がなくなった。
でも、茉李が戻ってきた。
すべてを忘れて。
小林の心は、井村よりもそちらに向いていたし、向いている。
「・・・ほだされてはいるとは、思います。でも、それを好きかと言われると・・・」
わからないのだ。小林にはわからない。
思い出しても穏やかになれない男を、好きだというのか、小林にはわからない。
ふぅ、と白い煙を吐ききった徹は、煙草を灰皿で消した。
「・・・僕の家にいた、ジア、覚えていますか」
はい、と小林はうなずいた。
女かと見まがういっそ神々しいまでの美貌を持つ男を忘れることなどそうそうない。飾り気が一切ないというのに、宝石のような美しさがあった。
徹がいた小林の前では優しく穏やかだったが、あの男は冷酷さも兼ね備えているように見えた。徹の前ではにこにこと笑っていたが、腹に一物を抱えていそうな雰囲気はする。
「僕はジアのことを信用していませんでした。まあ、今もあんまりしていないですけどね。だから置いてきたわけですし。井村さんの敵かもしれないから、あれは全く油断ならない男ですが、それでも僕は、ジアがそれなりに好きですよ」
ざあ、と海の音がここまで響いた。あけ放ったままの窓から、くーと鳥の鳴き声が聞こえた。何の鳥かもわからない。
けれど潮交じりの生ぬるい風が、ずいぶんと遠くへ来させた気がした。
強い風にやられて、ばさりと徹の髪が揺れる。顔の半分を覆い隠した髪もそのままに、徹は口元を歪めた。
「僕がどれだけ暴れても、どれだけ吐いても、どれだけ叫んでも、ジアは僕に献身的だから。それこそ絆されたんですけどね。つい最近まで、ジアは僕の関係者ではなく、得体のしれないひとで、井村さんの商売敵だと思ってましたから」
徹は隈のある顔でからりと笑った。
黒い眼は、小林を見ているようで見ていない気がした。
突然彼が、夏の夜のベランダに戻ってしまった。
深い黒さを宿す目は、ぽろりと涙をこぼしそうな気すらする。泣きながら、どこにも行き場がないとこぼした男が、そこにいる。
夜明け前から連れ出したはずの男が、なおそこにいることに、小林は目が離せなくなった。
「絆されたと言って、そばに置くのを許しているんでしょう、小林さんも」
徹はこちらを見ないまま、煙草を口にくわえた。
「そばに置く、ということ自体が、・・・・相当に好いているんじゃないですかね?」
まるで確認するような言葉は、小林の中にすとんと落ちた。
恋か、そうではないにせよ、自分は相当に井村という男を好いているのだと、よく似ている徹が反射のように映しているからわかった。
尋ねるような疑問形は、同じようでいて似ているだけの小林に対する確認で、徹自身への確認だった。それは小林自身が確認をするのと同じで、反射の光のように映される言葉に、小林は納得を見た。
「まあ、僕はそこを終着点にも、次の行き先にもできませんでしたけど」
そう言って笑う徹は、少しだけ小林の先を行っていた。
鏡というよりは、足跡が正しいかもしれない。
先を行くことがよいことだけではないのは、その姿から目を離せないでいればわかることだった。
海風に髪を奪われる徹が、やはりどこか身投げをしてしまいそうだ。
彼は、抱えた苦悩をもって歩きすぎている。
いつか、天秤にかけて、ことりとどちらかを落とすほどに。
そんな予感を、小林に感じさせるほどに。
「・・・ねえ、やっぱり、俺としません?」
「いやですよ」
何をとは言わずともわかったようだ。本当にいやそうに顔を歪めて徹が新しく煙草に火をつけるので、小林はひどいなあと笑った。
「浮気でしょう、看過できませんよ」
「好ましいんですよ、徹さんは」
煙草をくわえて火をつける姿は、どこか疲労感がにじみ出ている。疲れたような姿は妙な色香を放っている気がして、小林は押し倒せそうだと思った。
小林は徹を好ましいと思っている。
居心地がいいとも。
それは嘘ではなく本心だった。
「そばに置いているなら、もちろん徹さんだって好きですよ」
「・・・でも、思い出すんでしょう、井村さんを」
ぷか、と白い煙を吐く徹が、やはり気だるげにそうつぶやく。
その言葉を小林は否定できなかった。
どれだけ徹といても、思い出してしまう。
あの男が何気なく放った一言とか。からりと笑う顔とか。こちらを見つめる顔を、思い起こして仕方がない。
それが、やたらイラつくのだ。
「さみしいんでしょう、井村さんがいなくて」
まさか、と小林は肩をすくめた。
「せいせいしますよ。静かだし」
「・・・」
じい、と黒い眼でしばらく小林を眺めた徹は、やがて、とりあえず今はそういうことにしておきます、と口の端を持ち上げた。
「本当ですよ」
本当に静かだと、小林はそう思っている。井村がいないとこうなのかと、居心地のよさと、それでいて言い表せない静けさがある。
それに、ひりつく心も。
「はいはい」
白い煙をふかす徹は、少しだけこちらに戻ってきたような気がした。先ほどまでの、今すぐ落ちていきそうな気配がない。
そのことに、小林は少しだけ安堵した。
「・・・僕が、何ものかって、聞きましたよね」
徹は、ふいにそう言って小さく笑った。
「それなんですが、」
「坊ちゃん」
言葉を遮る声に、徹が目を丸くして反応した。煙草を持ったまま、入り口に視線を向ける。
「ジェイが、呼んでますよ」
そう言ったのは、ケイと名乗る黒い髪の小柄な男だった。
ケイは非難するように小林を眺めていた。
「・・・はあ、まあ、これはまた後日にしますかね」
徹はすう、と煙草を吸うと、ぐしゃぐしゃと灰皿で火を消す。煙が小林にかからないよう、白い煙を吐き出して、ゆっくりと立ち上がる。
ふんわりと匂う煙草の匂いを残したまま、徹はその場から離れていく。そのことは、井村に覚えるよりもはっきりとした寂しさを残した。
ケイのそばを通り過ぎて、徹は階段を下りて行ったようだった。
とんとんと遠ざかっていく音を見送り、小林は煙草の煙が残る中から動けなかった。
ケイはその位置から動くことなく、小林を見下ろしている。
小林はその視線に取り合わず、あえて無視を決め込んだ。
このにおいは、なぜか妙に心地が良かった。井村を思い出してイラつく心を少しはなだめてくれる。
しばらくそれに浸ろうと、小林は窓の外をぼんやりと眺めた。
きらきらと太陽の光に反射していた海には、オレンジ色の陰りが広がっていた。太陽と海が近づき、暮れかけた日差しがまぶしい。わずかに手で遮りながら、夜を引き連れてくる海と太陽の逢瀬を見つめた。
「あの、・・・坊ちゃん、・・・徹さんに、昔のことは、聞かないでもらえませんか」
そして声をかけられてようやく、小林は視線を向けた。
ケイはその場から動かず、じっと小林を見ていた。
「・・・なぜですか」
「坊ちゃんが苦しむからです」
ああ、と小林はそれで納得するものがあった。
「・・・俺が、聞いてはいないのに?」
自分が何者かを、徹は答えなかった。
答えられないことを謝り、それだから変われないのだと、つぶやいた。
変わりたいと思ったのか、何の心境の変化があったのかは、小林にはわからない。
けれど、答えることを避け続けた徹が、あえて口にしようとした。
それも、自分から。
「あの子には、昔のことを話す必要なんてないです」
きっと徹は苦しいのだろう。
口にすることも。
抱えていることも。
どちらでも苦しくて仕方ないのだ。井村に何一つ語れなかったからこそ、小林にはよくわかる。悲しいことは、口にしたくはない。
けれど、もうなくなって、終わってしまったことを抱えていることも、苦しい。どちらをとっても、苦しいことに変わりはない。
それでも、徹は選んだのだ。
口にすることを。
だというのに、そんなことはしなくてよいとケイは言う。
「昔のことなんて、必要ない。つらいだけですから」
彼は、そう言って視線をそらした。
「・・・」
そして、失礼しますとその場から去ってしまった。
「・・・それを決めるのは、あなたではないはずだ」
思わず、口をついて反抗するような言葉がこぼれた。
頭にきた、というのは少なくともあるのだろう。小林は自分でとげとげとした言い方をしたなと、そう思った。
口にするのも、抱えるのも、それを決めるのは自分自身だ。
他人が制限するものでも、決めるものでもない。
(ああ、ほんとうに)
ちり、と火でも走りそうないら立ちを抱えて、小林は膝を抱えた。
徹と小林の抱えるものが同じだとは思わない。徹はきっともっと、大変な目にあっている。でも小林も、まるで切り傷のように苦しみを負ったのは確かだった。
痛くて、苦しい。吐き出し方がわからない。
いっそ腹の何もかもを吐いてしましたい。
でも吐き出したくないのだ。
その傷は、大切な痛みだから。吐き出したら忘れてしまうかもしれないから。
忘れたいけれど、忘れるのは耐えられない。
井村は、小林がそれを口にするのを待った。
痛いだろうと、そう言うだけだ。傷跡を眺め、じっと小林が傷を見せるのを待っている。
傷跡も確かめずに、見なくてよいと包帯を巻いたりはしなかった。
井村は、言ってほしいと、抱えたものを話してくれというだけで、無理やりに言わせるようなことも、言わなくていいと決めつけることもなかった。
煙草の匂いが薄れて、海風が吹いてくる。
日が暮れて温度の落ちた潮風で涼をとりながら、あの男は元気なのだろうか、と小林は離れて初めて、気遣いがわいた。
近くにいた時より、井村のことを考えていた。
景色すべては茉李を思い起こすように攻撃的だったはずだ。
だというのに気が付けば、茉李を思い出すとじくじく痛む程度になっている。
目に映るすべてが、彼女を連想させることはない。
(変だな・・・)
あの男の顔を思い出しては、小林はいら立っている。考えなければいいのに、ふと思い出されてしまう。そしてそのたびにいら立つ。
そうして慢性的に、むなしい苛立ちを持て余していた。
その事実がおかしくて、小林は小さく笑った。
そばにいたときは、煩わしくて仕方なかった。
いずれなくなる。茉李がふいに事故にあうように。野呂が命を落としたように。井村も、どうせいなくなる。
だったらいらない、と強く思って、別れを口にしたはずだった。
だというのに、思い出す頻度は茉李よりも多い。
いらないという別れは、はたから見れば、一方的に小林が井村を捨てたようなものだった。井村から離れて、気づいたことでもある。
そんなのは理不尽だ。
と。
本当は、きちんと言葉を尽くして話し合って、井村の理解を得るべきなのだ。
それがきっと、正しい別れ方なのだろう。
きちんと手順を踏んだ、別れ方だ。
でも、別れは唐突に訪れる。納得できない別れが突き付けられることを、小林はよく知っている。
(でも・・・)
だからと言って、それをしていいのかと、迷う。
別れが唐突に訪れるからといって、小林がその別れを突き付けていいものなのか。
(あれ・・・?)
ふと、小林は気づいた。
(あれ?でも・・・)
気づいてしまった。
井村であれば、正しい手順を踏んで、話し合って、別れることができる。
と。
小林は、そんなことに気づいてしまった。
井村は死んでいるわけではない。生きている。小林が動けなくなったわけでもない。
きちんと言葉を伝えて、お互い話し合って、納得して別れることができる。
という、当たり前の事実に、今更ながら気づいてしまった。
小林は愕然として、ひとり、座り込んだまま、動けなくなった。
(ま、まてまてまて・・・え・・・?)
なんで、と思わず小林は小さくつぶやいてしまった。
(なんで、俺は、それをしなかった・・・?)
きちんと話し合って、別れる。
ということをなぜしなかったのか、という疑問に、小林は頭が混乱した。
普段の自分ならそんなことはしないはずだ。
計算高く生きている自覚はある。小林は利己的に考えがちだ。好意は便利なものとして考えてしまうきらいもあった。
だというのに、小林がした行動は、端から見れば、ただ感情的になって叫んだのと変わらない。冷静に考えれば、そうして感情的に『別れる!』といって揉めないはずがない。
そんなことは、小林にだってわかる。
今わかっているのが、その証拠だ。
(ということは、俺は、俺は・・・)
まったく、冷静でなかったのか、と小林は思い至る。
煩わしいから。
うるさいから。
もういやだ。
というのは、感情であって理由でない。
理由も、いつ言うかの差だと思っていた。
いずれ終わる。それならば、今だってかわらないはずだ、と。
そう思っていたはずなのに。
その前提が、めちゃくちゃではないか、とふいに疑問が首をもたげた。
(終わる、と、俺は・・・決めつけていた・・・なぜ?)
いつか終わる。
それ最後に『絶対に』がついていた。
では、なぜそう思うのか。
簡単だ。
茉李が亡くなったから。
箱崎も野呂も。
小林の手の届かないところへ行ってしまったから。
(わ、わからない・・・)
小林は、わからないと、思考を投げ捨てた。
本当は、理由に気づいてしまいそうだった。
カレンの言葉が真実を語っていたかもしれない。
けれど、並べ立てられてしまいそうな理由を黒く塗りつぶした。
気づきたくない。わかりたくない、と思考を手放した。
井村を思い出すたびに感じるいら立ちの正体など。
気づきたくはなかった。
気づいても、苦しいだけだと、小林はわかっている。
忍び寄るような想いを、理解したくないと投げ捨てた。わかりたくない。知りたくない。わからないままでいたほうがいいと、思考を止める。
小林は急に息苦しくなった気がして、目をつむった。
「小林さん?」
ぱち、と瞼の裏が急に明るくなった。
うっすらと目を開けると、室内が人工的な明かりに照らされている。
畳の緑の明るさに、顔を上げると、不思議そうな顔をした徹が、部屋の中央から垂れ下がる電球のひもを持ったまま、首を傾げた。
「どうしたんですか、こんなに暗い部屋のままで・・・」
夜から抜け出してきたのは、徹ではなかったのかもしれない。助けるつもりで、助けられていたのではないかと、小林は思った。
ここが、あのマンションのベランダでなくてよかったと、小林は薄く開いた目のまま思った。
「・・・とおる、さん」
呼びかけた声に、徹は困ったように小さく笑う。
彼は小林のそばに来て、夜のベランダより近い隣に座ると、灰皿と煙草を手にした。
小林は呼びかけただけだった。
だが彼はそれだけで何かを感じ取って、隣に座って、ただそばにいる。
徹といるとこんなにも穏やかで、平穏だ。
とても冷静になれて、だからこそ、小林は井村といる時の自分は冷静ではないのだと思い知った。
その事実は小林をいら立たせることはなかった。
ただぽっかりと穴が開いたような虚しさが押し寄せるだけだ。
あの男といると、小林は冷静ではいられない。
子供のように感情でわがままを振り回す。
いらない、と投げ捨てておいて。
小林は、子供のように、やっぱりいると思っている。
そんな分別のつかない子供で甘んじることを、小林自身が赦せなかった。
何もかも見ないふりをして、気づいたことにも蓋をして、徹の隣から離れない。離れることが、ひどくいけないことのような気さえした。
彼のそばにいれば、小林は鈍いままでいられる。
それはひどく空しくすら感じるけれど。
気づきたくは、なかった。
ぽっかりと空いた空虚感を、徹で埋めることなどできないとわかっている。
さみしいと、どんな理屈も押しのけてあふれ出てくる思いがあった。
そのさみしさを紛らわすには、一人でいることはできなかった。
本当は、徹ではなく、別の男を呼びたいのだとしても、今の小林には、それを認めることはできない。
「・・・さみしいですね」
その言葉が、夜風のように吹き抜けた。
(ああ、)
言葉をかみしめれば、なぜだか涙がこぼれそうだった。ここにいない男が脳裏によぎって、小林は眼を閉じた。
ふんわりと煙草の香りが漂う。
煙草に火をつけた徹に、小林はあきらめたように小さくうなずいてしまった。
(ああ、さみしい)
泣けはしなかったけれど、泣いてしまいたかった。いつも泣いてしまいたいと思うのに泣けはしなくて、そのたびに息が詰まりそうだ。
今もすこしも息は楽ではない。
徹は隣で、ただ無言で煙草をふかしている。
徹との沈黙は苦にならない。
むしろ、心地いいとも思う。
それでも、さみしいと、小林は思った。
隣にいてほしいのは、徹ではない。
気づきたくないから、そんな思いにすら蓋をする。
そして小林は、徹が吸う煙草の匂いが井村のそれと同じなのだと。
隣で煙を吐かれて、ようやく思い出した。

じゃかじゃかと流れる音楽を耳障りと感じないほどすり切れた心で、男は夜の街を歩いていた。あちこちに立つ勧誘の視線を一顧だにしない。すえたような空気も、安っぽい電飾も、彼の城そのものだった。
夜だというのに、その暗さに不釣り合いなほどそこかしこでネオンが輝いている。
昼と遜色のない明るさの中、その男は散歩でもするように歩いていた。
男は、夜でありながら明るく照らされた街そのものだった。
まとう空気は夜のごとく昏さをはらんでいるというのに、人工的な明かりのような、不自然な快活さを滲ませている。そんな、己の城のように、いることが当然のように歩く男に気づくと、視線だけで勧誘の男たちは首を垂れる。
その視線に応じる黒い眼は、どこまでも澄みわたる酒のようだ。黒さの中に、墜落と酩酊を滲ませた男を咎めるものはいない。
そのせいか、常ならばすぎるぐらいに一般人を装う普段の姿はなかった。
酔いの回る液体のような、醸造されたあとのような黒い眼が面白そうに己の支配地を見ている。
普段ならば完全にはがれることのない、作り終えられたひとでなしは、久方ぶりにその顔を見せていた。
そんな彼に声をかけるものはいない。
彼が誰か気づいたものは、普段とは違う雰囲気に視線をそらし、男を知らぬものはそのおぞましさにそっと視線を逸らす。
男としては機嫌の悪さが一周回って、いっそ気分がよくなっていた。
だから、本人としては気分がいいと思っている。
内面の混沌具合がにじみ出ていることに、彼自身は気づいてもいない。
その内面の歪さで他人を近寄りがたくさせていることにも自覚はないようだった。
彼は、持っていた端末が震えたことに気づいて、ポケットから取り出した。
足を止めて電話番号を確認し、その電話に出る。
『こんばんは、少々、よろしいでしょうか』
「おう。ずいぶんかかったな」
低い声で応じれば、電話相手はしばらく黙った。
『怒らないでください。逃げそうな彼を見張っていてるんですから』
あなたの命令通りと、言わずとも伝わってくる言葉に、彼は小さく笑った。無茶な命令をしている自覚はある。
だがそれでも。
自分の大事な恋人といる男にいら立ちが募ってしまうのは仕方がない。
『僕は、あなたの忠実な犬ですよ。だからこうしてご連絡してるんでしょう?』
そうだなと笑いを滲ませた男の言葉に、あとすこしなんです、と懇願する声が届いた。
『彼は自覚するはずです・・・まあ、きっとでたぶんで、間違ったら殺してくれていいですけど』
「・・・」
彼は、少し考えた後、口元を割いて笑った。
「・・・『クォイラン』、それより先に、俺に言うことがあるよなァ?」
ひっ、と電話の向こうで息をのむ声がした。
怯えた顔を想像しながらも、彼は、電話の向こうからの言葉を待った。
『・・・小林さんを連れてごめんなさい、僕がそばにいてごめんなさい。でも何もしてないです。一切何もないです、井村さんがネコとか知らないです、ごめんなさい』
何の話してるんだと井村は呆れた顔を作った。そうじゃないだろ、と心の中で突っ込み、視線をわずかに伏せる。
「それだけか?」
『・・・ほかに何かあります?』
井村の低い声に、電話の向こう側の声はそろりとした緊張を滲ませた。
彼は音もなく笑い、目を細める。
「おまえ、どこまで計算した?」
『・・・』
井村はただ、自分の犬の言い訳を待った。
静かに電話を持ったままでいれば、はあ、とため息が聞こえた。
『計算していたのは、井村さんでしょう。小林さんが、僕を誘って逃げようと言い出すところまで、読み込んでいたのでは?見張れと言ったのは、僕をそれについて行けという指示だったんでしょう?』
さすがにそこまで先は読んでない、という言葉を飲み込んで、井村は肩をすくめた。わざわざ否定をする必要もない。
黙っていれば、はあ、と向こう側からため息が聞こえた。
『・・・あなたの恋人は、恐ろしい人ですよ。善い人だからなんとか付け入る隙があっただけです』
とても敵う相手ではないと告げる言葉に、井村の気分は少しだけよくなった。
「じゃあ、『クォイラン』が、俺の恋人だと思わせるよう仕向けたのも、隙に付け入った結果か?」
『・・・』
井村が拾った少年は、今度こそ言葉を探したようだった。
「メイリンもパイリンも、もう知ってるな。パイリンは、俺たちに一泡吹かせたくて必死だ。俺の恋人に手を出したいぐらいにな。どうやら、少年は『運悪く』恋人に間違えられたらしい」
不自然さに気づいたのは、相手の動きがおかしかったせいだ。
相手は小林ではなく『クォイラン』を探していた。
井村がメイリンを抱えているなら、取り戻すための交渉カードとして、井村の大事なものを手に入れようとするのはわかる。
他人にも物にも執着のない井村と交渉するには金か、はたまた応じざるを得ない交渉カードが必要だ。
隠していた井村の『恋人』の存在をつかんだのはいい。
だがそれが、本来の小林ではなく『クォイラン』ということになっている。
それは明らかに何かの情報操作があったはずだった。
派閥が別れているとはいえ、相手は金烏会の一派だ。情報に食い違いがあるのなら、それはどこからか、誰かしらの意図が介入されていると考えるのが妥当だ。
「金烏会の標的はお前になっている。どういうことだ『クォイラン』」
『・・・もちろん、あなたの意図に従ったんです』
当然でしょう、と彼は小さく笑い交じりにつぶやいた。
『小林さんが被害を被るなんて許せるはずがない。徹底的に存在を明かさなかった、あなたの態度を、僕は、知っています。だからこちらにいたスパイを、僕の犬にして、少し動かしただけですよ』
やっぱりなと、井村は苦々しい気持ちで、口をつぐんだ。
徹は、日野のもとで色々学びすぎてしまった。弱いものをいたぶるのが好きな日野のもとで、いたぶり方を学んでしまったのだ。そして気持ちいいことも覚えた。
結果、拷問と快楽を使い分けることで、人間がどう壊れるのかを理解してしまった。
徹自身が壊れかけたからこそ、よく理解した。
日野はその手腕を誉めて伸ばした。
使い勝手がいいと、暴力を忌避する徹に、拷問をさせていた。
そのことを、井村は2年前まで気づけなかった。
『犬を作るのは久々でしたけど、よくなつく、物分かりのいい子でしたよ。まあ、あなたの恋人を『間違えた』パイリンが癇癪を起して殺してしまったみたいですけど』
井村は徹にそんなことは覚えさせる気はなかった。
灰皿ならまだしも、徹にそんなことをさせたくはなかった。
「やりすぎだ。わかってるのか、お前。殺されるかもしれないんだぞ」
徹では、いざ命を狙われたら抵抗できない。一番死にやすい。
それに徹は何よりも、死にたがりだ。
井村の言葉が縛りになってはいるが、いつ死んでも構わないと、本気で思っている。
『僕が死にたがりなのはご存知でしょう?』
「誰が死んでいいと言った?俺はそこまでやれと言ってない」
低い声で威圧的に言えば、向こう側で息をのむ気配がした。
『・・・ちゃんと、勝算はつけてます。ジアの動きも、計算してますので・・・その、すいません・・・。ジアはよくわからないですけど、僕のことを守りたがってるし、世話したがってますから、その・・・』
「パイリンにぶつけようって?」
その軽々しい計算で中国闇社会の二大巨頭がぶつかり合うことになる。まったく、と井村は頭を抱えた。
ジアに徹を追わせたのは間違いでなかったと、今更ながら自分の采配を褒める。誰もほめてくれないから仕方ない。よくやった俺、と心の中で軽口を叩いた。いっそジアの正体を徹に伝えたほうが安全な気がする、と考えを巡らせる。
『パイリンは、あなたには邪魔です。死んでもらったほうが、都合がいいでしょう?・・・勘違いさせるようにしましたが、あの女は、あなたの恋人までたどり着いた。それは事実です』
徹の言葉は一理あった。
たしかに、隠していた存在にたどり着いたパイリンは邪魔だ。たどり着くだけの人脈と能力がある証明なのだから。
「そうだな」
はあ、と井村は重たい溜息をついた。
徹は自分を犠牲にしたが、それでもその機転で、小林に何も被害がなかった。徹の計略で、小林は守られた。
やりすぎているとは思う。
だが、その采配に助かってもいる。小林に何かあったら、井村は何も考えず金烏会とぶつかり、横浜の勢力図を書き換えていただろう。
それすらも楽しみながら。
井村は自分の性質を苦々しく思ってしまった。
そんなことを思う日が来るとは今日この日まで考えもしなかった。
どうあろうと楽しめる自分を全面的に肯定していた。
だというのに、恋に狂った自分がやることを、肯定はできない。
横浜の勢力図を書き換えたら、いろんな仕事が派生する。
それは井村の望むところではなかった。
「・・・よくやった、とは思う。お前の行動は間違ってない。俺の意図を汲んでるよ」
すぎるくらいに、と井村は眉根を寄せた。
小林とともに逃げたことといい、徹は確かに井村の意図をすべて汲んでいる。
やりすぎだとは思うが、井村では動けない部分をすべてすくう行動に助かっているのも事実だ。
「でも、俺はお前も大事だ。命を簡単に捨てるな」
それが追い詰めるとわかっていて、井村はそう口にする。
『・・・ぅぅ・・・』
小さく呻いた徹のそばには、小林がいる。
ひりつく心はあるが、彼なら徹を少しぐらいは癒すこともできるだろう。
「それで・・・お前なら、金がどこにあるのか、わかってるんじゃないか?」
問題は金の回収だ。
さすがに億単位はそうそう簡単に動かせるものではない。
その金のありかが、いまだにわからないでいた。メイリンはパイリンのことを口にしない以上、情報源としては使えない。
捕まえた男は熱海あたりに隠していて、絶賛箱根の山奥あたりで拷問中だ。
口を割らせる係は熱海にいる部下に任せていた。
だが、今のところ何も情報が上がってこない。
その点を考えると、捕まえた男も情報源としてはあまり期待できそうになかった。
「ま、察しもつかないんじゃいいけどなっていうレベルだ」
小林と同じくらいの年の徹に、積極的に暴力的な世界に身を浸らせるつもりはなかった。
それでも拷問も、徹が一番うまくやりはするというのが非常に困る点だ。
彼に惚れている男がいるから徹をこちら側に関わらせていたはずなのに、徹はずいぶんとよく使える部下へと成長しつつある。
やりすぎて、無慈悲で、そしてやさしさを与えるタイミングのうまさは、人こわすのに向きすぎている。
だから徹の手腕を日野がほめそやすのも、井村はわからないではなかった。
『・・・男は、名古屋にいましたね』
その一言に、笑っていた井村の顔が固まった。
「・・・クォイラン、」
『名古屋で、少し長めに滞在してしまいました。小林さんが、名古屋城と、松平の領地である三河を見て回りたいと言ったので』
「おい」
『時間があったんです、僕には』
ひどく平坦な声で告げられた言葉に、井村は眉を吊り上げた。
『あとは仕上げを、熱海でしているだけですよ。きっとあなたにすり泣くよいこになっています。ここ掘れわんわんと鳴くように』
「誰が命じた?」
井村は思わず低い声で恫喝した。
そんなことはするなと言ったばかりの暴露に、心がささくれ立つ。
『・・・金の情報を握っているのは、メイリンのほうです。パイリンも、金のありかが分からないから、メイリンを取り戻したがってるんです』
と、僕は予想します、とささやき声が、電子機器越しにこぼした。
『男はきっと本当に金のありかを知らないんでしょう。だから、快楽で苦しめても、苦痛を与えても、何も言わないんです。何度も言ってましたよ』
俺は知らない。知っているのは女だ。助けてください。許してください。知らなかったんです。
井村はふとそう叫んでいた男の姿を思い出した。
『だから、僕が勝手に動きました。メイリンを、壊して口を割らせるために』
「それであの女が口を割るか?」
『少なくともマワすよりは効果的かと思いました。なぜメイリンはあの男を選んだのか?問題はそこです』
状況を整理する言葉に感情はない。
さながら名探偵の推理じみていると、井村は音もなく笑った。
『彼女なら、一人だってできたはずですよね。仮にも金烏会の跡目を狙う一派の一人なのでしょう?そのコネを使えば、一人で十分だったはずですし、そもそも、金を彼女一人で抱え込む必要はなかったです』
ふうん、と井村は小さくうなずいた。
徹の視点は動機に着目したもので、なぜなどは基本的には井村が一番捨て置くものだ。
だから真逆の位置からの着想は面白くあった。
『僕は、そこに付け入る隙があるのではないかと思いました。あの男は、メイリンの計画に不要なものです。せっかく得た、海津組長の女、という立場を揺るがしかねないものですから。それを、切り捨てずにここまできて、そして事件が起きたという状況に』
付け入る隙はある、と徹は言外につぶやいた。
「だからまずはあの男をってか」
『あの男が壊れていたら、どう思いますかね、メイリンは』
少なからず情があったのだろうと読んだ徹の手腕に、井村は口の端を持ち上げた。
もう何もかも嫌だという顔をするくせに、弱みに付け込む徹のやり方は完全にヤクザのそれだ。
かわいそうにと思いもするが、徹が落ちてくるならば話は別だった。
「・・・そうか、今回は不問にしてやる」
『ありがとうございます』
金の回収も滞りなく行えそうだ。部下の有能さも存分に味わえている。
そのことに井村は少しだけ気分をよくした。
「・・・だけど、死ぬなよ。俺のためでも、少年のためでも、死ぬな」
井村がヤクザとしてではなく、ただの飼い主としてくぎを刺した。
死にたいと思っているのはよく知っている。
それだけ苦しんでいるのもわかっていた。
けれどやはり、拾い主としてペットくらいの愛玩はある。死なれるのは気分が悪い。それに将来も期待できる有能な男だ。
忠義なんて、金の価値にもならない代物に、命を懸ける必要はない。
井村は少なくともそう思う。
生きていればいくらだってどうにかなる。どれだけ落ちても這い上がれるのだ。
『・・・生きるって、なんなんですかね』
いつもなら、呻いて、もちろんですと引きつったように笑うはずの徹は、ふいにそうつぶやいた。
ぼんやりとでもこぼれた言葉に、井村は思わず目を見開いた。
『・・・今回、僕はひとを痛めつけていましたけど、戻ると、小林さんがいるんですよね』
徹は不思議そうな声で、ささやくようにこぼした。
「・・・」
『なんでか、むなしく、そう。むなしくなるんです。僕はもう、痛めつけることに、何も思わなくなってしまいました。でも、彼は、そんなことは・・・知らないんだと思って』
「もういい」
井村は端末を握りしめたまま、反射的に答えてしまった。
すぐにはっと我に返り、苦々しい気持ちで、もう一度、もういいとつぶやいた。優しくなるよう声音に気を使いながら、どうして徹が近くにいないのかと、肩を落とした。
「つらいならいい。少年のそばにいるな。俺の命令なら、もう戻ってきていい」
間違えた、と。
井村は強く思った。
小林なら、徹の心を軽くできるかもしれないと、そんなことを思ったのは井村の計算違いだった。
(だめだ)
生きることに向き合おうとする姿勢になっていることが、普段の徹ならばありえない。
それはよいことだ。
幸福から絶望へ。
井村のところまで落ちてきて、落ちるところのない底辺に来た。
そんな徹にとって、生きることに意味が見いだせないのは当然だ。死にたいというのも、井村はわからなくはない。
ただ、気持ちはわかっていても、所詮はわかるだけだ。
生まれたときから暴力と略奪がはびこる世界にいる井村には、つらかろうと想像するしかできない。
往々にして、徹のような一般人を落とす側なのだ。
どうしたって徹側にはなりえない。
自分の命さえ賭けものだ。賭博は遊戯と同じ。その遊びにしてしまえる精神で、ピンチもチャンスも乗り切った。
どんなことも遊ぶのと大差がない。
楽しい、面白いと転落さえ快楽に変換できる井村が、理解しきらないのは仕方ないことだ。
死にたいと思う前に、その絶望すら笑ってしまえる。
そういう風に、生きすぎた。
けれど、よくはわからなくとも、感情が全く理解できないわけではない。つらかろうと想像することができるように、その絶望がわかりはする。
井村に拾われるようなところに落ちるまで、徹は普通に暮らしていた。
そこからの零落が、どれほど彼を蝕んだのか想像に難くない。
だから徹は、何もないように、『普通に』生きることで現実から逃避して精神状態を保っている。精神にかかった負荷が大きすぎて、精神状態がうまく保てないのはそのせいだ。
徹が他人を痛めつけたきっかけは、やむにやまれぬ正当防衛だったからだった。
だが、日野はそれを繰り返させることで、徹の身に起きたことは、特異なことでも何でもないのだと、ささやいた。
他人を痛めつけるのも、壊すのも壊されるのも普通のことだ。何もおかしなことはない。
徹はその甘言に従い、他人を壊すことに躊躇がなくなった。
『これは当たり前のことだから、暴力をふるうのは悪いことじゃない』
そう言い含められて、徹はそれに従った。
そうすることが、自身に起きたことも、徹自身が誰かを痛めつけることも、何もかも肯定するためには必要なことだった。徹は自分に起きたことは仕方のないことだったと思い込むためにそれに従った。
だから半ばこちら側に身を浸す徹が、小林の普通さに触れたとき、苦しむことになると。
そのことを予想できなかったのは、まったくもって考えなしだとしか言いようがなかった。
(・・・会わせるべきじゃなかった)
徹を壊したくはない。
落ちるところまで落ちてきて、拾った愛玩だ。犬猫程度の思いしかなくとも、徹は犬ではない。きちんと心のある人間だ。
たとえどれだけ壊れかけていても。
井村は、徹を壊したいわけではない。
むなしくなるなんて言葉を、徹に言わせるつもりはなかった。
そんな言葉を言わせてしまったのは、井村が間違えたからだ。
「ジアをよこす。もういい。それ以上、お前が無理はするな」
髪をかき上げて眉根を寄せると、あはは、と端末の向こう側から、自然な笑い声が聞こえた。
そのことにも驚いて、井村は目を丸くした。
『そんなに心配しなくても大丈夫です。僕は大丈夫ですよ』
「・・・その言葉が、一番信用ならねえよ」
井村が絞り出すようにつぶやくと、なんでしょうねえ、と不思議そうにつぶやく声が届いた。
『・・・むなしかったんです。なんだかなあって思いました。でも、僕、このひとのためになるんだろうと思うと、井村さんのためになるんだろうなあと思ったら、なんか・・・これでいいのかと、そう思って』
徹の言葉を聞きこぼさないように、井村は神経を向けた。
あなたのために働くのはいつものことなのに、と徹は苦笑交じりにこぼした。
『不思議ですよねえ・・・』
柔らかな声が、静かに変化を語る。
少なくとも井村の知る徹は、こんな穏やかな声を出せはしなかった。
『あなたはいつだってやさしい。僕は甘やかされていますよね』
「俺のものを甘やかして何が悪い」
愛玩を、愛するのは当たり前だ。
井村は、灰皿も徹も分別をつけるつもりはない。自分が拾ったから自分が責任を持っているだけだ。
『でもあなたの恋人は、きっとあなたの愛情を、自分一人に向けてほしいんですよ』
「は・・・」
井村が言葉をなくせば、徹は電子機器越しに笑ったようだった。
徹が笑っている事実に井村は息をのみ、言葉を探す。
「ど、どうしたんだ・・・そんな」
どうしたんでしょうねえ、とまるで自身もよくわかっていないかのように、徹はどこ吹く風で答えた。
『あの人のそばにいたからわかったんですよ、そんなことが。・・・あなたがいつも、僕を間違っていないというから』
少しだけ責めるような口調に、あたりまえだろう、と井村は眼を伏せた。
「お前は間違えない。俺が欲しいものを持ってくる。俺はいい買い物をしたんだよ」
『だからですかね、・・・きっと、僕が推測する彼の心は当たっていると思うんです』
あなたが保証するから、と付け足した徹に、井村は自分の恋人を思い出した。
眼の裏に焼き付いたその顔が、より一層美しいような気がしてならなかった。だからこそ寂しくて会いたくて仕方ない。
「・・・そうか。・・・でも、これまでのお前だったら言わなかっただろうな、そんなこと」
そうですね、と徹は悩むようにつぶやいた。
『・・・過ぎたことは元には戻らないけれど、だからこそ、過ぎたこともすべて、僕なんだと・・・いえ、もう何もかも元には戻らないと、そう思い出してしまって』
どこか寂しそうな口調に、井村は言葉が出なかった。
「・・・」
井村は今度こそ端末を握りしめて立ち尽くした。
感動がざばりと押し寄せてきて、それと同時に、徹がそんな言葉を口にするまでそばにいられなかったことへの悔しさのようなものもあった。手を離れて、拾った犬はいつの間にか大きく成育していたらしい。
涙が出そうな感動に、思わず顔を歪めた。
『僕は大丈夫です。パイリンに狙われるのも、犬を作ったのも、僕の選択なので』
力強い声は、聞いたこともなかった。
いつも憂鬱そうにうつむいていた。涙を見ることのほうが多い。
けれど、暗い顔をした徹の顔は、きっともう古い記憶になるのだろうと、そう思う。
いつの間にそんなに強くなったんだと、井村は小さく笑った。
男子は三日会わなければ刮目せよとか、かわいい子には旅をさせよとかいうが、古語もあながち間違いではないようだ。
少し離れていただけなのに、徹は成長している。まるで別人のような言葉を聞けば、寂しさとうれしさがないまぜになった。
『・・・あの、やっぱり、前言撤回で。あんまり大丈夫ではないです。主に小林さんとは早く離れたいです』
その言葉に井村はまた笑った。
「・・・俺も、早く解決させたいよ」
ほんとですよ、と苦々しい同意を添えて、徹はそれではと電話を切った。
井村は通話の切れた携帯端末をじっと見つめる。目を細めて、湧き出てくるうれしさにしばらく身を浸した。
しばらくしてから端末をポケットにしまい、また歩き始める。
すぐには無理でも、きっとこれから少しずつ、徹は変わっていくのだろうと井村は思った。
そんな予感をさせるほど、徹は井村の知る子供ではなくなっている。
そんなことをいう子ではなかったのにという、親心としては寂しさもあった。けれどそれは良い方向だと思うから、きっと仕方のないことなのだろう。割り切って、素直に成長を喜ぶべきだ。
(すごいよなあ・・・)
素直な賛辞に、愛しさがにじんだ。
小林は、きちんと正しい方向に徹を導いたようだ。
井村では彼を救うことができなかった。
けれど小林はどうにかして徹を救ったようだ。
少なくとも、前を向けるようになった何かがあったのだろう。
それをしてしまった小林が、誇らしくて、そしてたまらなく愛しかった。今すぐ会いに行って、抱きしめたいと、顔を緩ませる。
「ずいぶん機嫌がよさそうですね」
道路に車を置いて井村を待ち構えていた日野は、そういって目を細めた。
ああ、まあな、と返事をして後部座席に乗り込むと、しまった端末を再度取り出す。
す、と画面を滑らせて、にこやかな顔で別の男の名前を呼び出すと、その名前をタップした。
『はい』
「俺だ、ジア」
ああ、と残念そうな声も、今日は許してやろうという気になれた。
だから小さく笑って、今どこにいる、と問う。
『今ですか、三重ですけど』
「クォイランは熱海だ。ジェイとケイは知ってるな、そこだ」
だから早くいけと暗ににおわせれば、どうしたんですか、と緊張感をはらんだ声をこぼした。
『あなたが私に味方をするなんて』
「・・・俺は機嫌がいいんだよ」
『あの子に何かあったんですか』
全く余計な勘が働くやつだと、井村は音もなく笑った。
「正確には、何かありそう、だ。少年といたことで、だいぶ前向きにはなっていたんだが、それが危ないな」
あいつは、自分をおとりにしてる、とつぶやいた言葉に返事はなかった。
「パイリンに、あえて勘違いをさせたらしい。金烏会にだぞ。それも、ロンではなく、跡目争いで、手段を選ばないパイリンだ」
わかるな、と井村は低い声を出した。
「あの女に、クォイランが狙われている。お前をどうのと言っている場合じゃない」
く、と向こう側で、笑い声がこぼれた。
『・・・生きていれば、それでいいんですよね?』
そうだな、と返せば、なにがしかを中国語で呟いた後、電話が切れた。
「・・・」
ゆっくりと耳元から端末を外して、じっと画面を見つめる。
そして静かにポケットに戻すと、緩やかに動いていた車体が、音もなく停車した。
「・・・ひどい顔をしていますよ、若頭」
く、とのどを震わせて、井村は口も端を持ち上げた。バックミラーに視線をやれば、ひどく歪んだ顔をして嗤う男がいる。
(少年には見せられないな)
長年、井村のセキュリティを務め、そばで井村を見続けてきた男は、視線を上げることはなかった。前を見つめたまま、信号の変化でまた車を発進させる。
「クォイランは、ジアをぶつける算段を整えたんですね」
その声に感情はなく、井村もそうだな、とポケットから煙草を取り出した。
「あなたと、あなたの大事なものを守るために」
「そうだな」
煙草を口にくわえると、火を探して、上着を探った。
「・・・ジアでは、ダメですよ。わかってるんでしょう?」
その声は暗く、憂いに満ちていた。
「・・・」
井村は上着から火を取り出して煙草に火をつける。はあ、と白い煙を吸うと、首を傾げた。
「何がだ?」
「間に合うはずがないでしょう。あの子は自分から、さらわれに行って、死に行く気です。あの子の死にたがりを理解しているはずなのに、自分の死体をもって、ジアの怒りを引き出すような作戦を許すんですか」
井村は否定しなかった。
たぶん、間に合わないのもわかるからだ。
そして徹が自ら犠牲になりに行くことも、理解はできる。
「・・・ずいぶん、真っ当な口をきくんだな。可哀そうか、アレが」
「金が戻ってきて、ロンを叩きのめす交渉材料にはなるでしょう。うちに入る利益は大きいです。側近予定の子飼いが、協定を破って殺されることになるんですから」
でも。
と、重たい口調で、日野はハンドルを切った。
「私だって、あの子の面倒を見ていたんですよ。私は自分がおかしいと自覚がありますが、それでも情くらいあります」
「・・・もう元には戻らないと、それを思い出したと言ったんだ」
井村は困ったように、日野に伝えた。
「徹が。俺はそれにかけてみることにした」
「それがどういう意味か、私にだってわかりませんよ」
そうだな、と苦笑し、井村は煙草をふかす。
「だが、ジアをぶつけると決めたのはあいつだ。怒り狂ったジアが、間に合ったらどうなるか。さすがにそこまでわかってはないはずがないだろ、クォイランは」
「評価が高すぎますよ。あの子は、そこまで考えているわけじゃないでしょう」
「どちらにせよ、あいつは死なない。俺の命令は破れないからな」
はあ、と重たい溜息をこぼした日野は、同意するように肩をすくめた。
井村はぼんやりと外の景色を眺めた。
移り行く景色は、どうしても明るい。昼間のように明るく、不夜城と呼ぶにふさわしい景色が流れている。夜だというのに日中と遜色ない賑わいは、それだけ住人の多さを映している。昼と夜では人間の入れ替わりが起きているはずだ。
だが、それでなお減らない人間の多さに、夜という闇の広さを実感する。
徹は、小林とどういう景色を一緒に見たのだろうと井村は思いをはせた。
どういう景色を見たら、徹はああいうことを口にできるようになるのか、興味はあった。
すくなくとも、電気の明かりに照らされた無機質な看板の色ではないだろう。
夜だというのに星さえ見えないスクリーンのような人工物の中からはそんな言葉は出てこない。
これまでともに過ごしていたというのに、徹は前向きな言葉を吐くことはなかった。
死にたいといい、その理由と、許可を求めていた。
殺してほしそうに甘えたような目で見ていることも多い。わざと井村を怒らせようとしたこともあった。殺されるタイミングを、いつも伺っていた。
だからこそ、井村は徹が自身を犠牲にして、死ぬ覚悟すらあることを理解している。
徹は口にはしないが、自分の身を差し出すのだろう。
徹がボロボロになっただけでも、十分な交渉材料にはなる。徹が死んだら、交渉はなおの事円滑だ。死にたがりの徹は自分がようやく死ねると安心することだろう。
徹には、自身を犠牲にすることの利益が見えている。
徹はそのことを一切言わなかった。
非難した井村に、大丈夫といった。
だが、井村はすべて理解している。
徹が利益を差し出すのなら頓着はしなかった。
井村は死ぬなと命じていて、それを破らないと思っているからだ。
それだけは、ずっと死のうとするたび、約束を守っているからこその信頼がある。
命令を破られたら金烏会とぶつかるだけだ。ぶつかり方が変わるだけ。いずれにせよ、協定違反でロンとは対峙することになる。
そのぶつかる時の立ち位置が少しだけ変わるだけだ。
可哀そうとか、やめろと思う気持ちはわずかながらある。
だが、井村は所詮、こういう生き物だ。
可哀そうを押し切って助けるほど、お人よしでもなければ正義感なんてものもない。そんなものは生まれる前からどぶに捨てている。
相変わらず夜の街から離れられない自身を自嘲して、井村は静かに煙草をふかした。

あつい、と小林が寝苦しさに服の上を脱いだ時、ふと隣で眠る男を見やった。
暗い室内で、徹は小林の隣の布団で、すやすやと静かに息を吐いている。熱海にたどり着くまでは、横になることもあまりなかった。
だが、熱海についてから徹は、横になることが増えていた。目をつむって寝ているような徹の姿を見ると、小林は安堵を覚えた。
すぅすぅと小さい呼吸を繰り返す男が、そうして目を閉じる前、まえに、と口を開いていた。
小林はいまだ夜の残る中で、ひとり、徹が寝る前に話し始めた言葉を思い出していた。
「前に、大切な人をなくしたことがあるかって、聞きましたよね」
徹は畳に敷かれた布団の上で、横になる前にそんなことをつぶやいた。
熱海での生活は、2、3日休みたいという小林の要望を聞いてか、ジェイたちのもとから特に出歩くことはなかった。
それまで観光のようなことを繰り返していただけあって、自覚はなかったものの、疲れはたまっていたようだ。食事をして寝て過ごすというだけで、沈み込んでいた小林の気分は少しだけ浮上した。
さみしいと思う心を自覚してしまってから、小林は動くことができなくなっていた。前向きになれず、そんなことでは埋まらないとわかっているのに、徹から離れなられなくなってしまった。
「聞きましたっけ?」
小林は電気を消すと、少しだけ笑ってごまかした。
「忘れちゃったんですか?京都のときに」
聞いていたじゃないですか、と答える徹の声は少し眠たそうだった。そのことに安心して、小林は眼を細めた。
「そうでしたっけ、でも覚えてないってことは、その程度なんですよ」
小林も横になって徹を見やると、うつぶせに体を倒した徹が、顔だけをこちらに向けていた。
「本当は、名古屋で答えようかと思ったんですが、・・・まあ、いいです。じゃあ、勝手に言うので聞いてください。僕、実は親が死んでるんです」
その言葉に息を詰まらせた小林を、徹は小さく笑った。
引きつるような、へたくそな笑いではなく、すこしだけおかしそうに。
「借金があって、いわゆる心中ですね・・・。でも、今となっては昔の話なんですけど」
徹は、眠たそうに笑うだけだった。
顔を引きつらせことも、歪ませることもない。
小林がふざけて好意を寄せている言葉を口にするほうが、よほどいやそうにする。それほど、この時は陰りなく笑っていた。
まるで明日は晴れるといいね、と小さな祈りを口にするように。
軽い口調だった。
(・・・どうして、カレンくんも、そうだけど)
「どうして、そんなに、明るく言えるんですか」
明るい話題じゃないだろう、と小林はたまらず口にした。聞いたときに答えなかったということは、避けたい話題のはずだ。
誰かの、あるいは大事な人をなくした話なんて。
小林だって、口になんかしたくはないのに。
なのにどうして今になって、そんなに明るく言うんだ、と責めるように顔を向けた小林に、徹は少しだけ目から輝きをなくした。
「・・・暗く、したくないんです。それにここなら、泣いてもわめいても、迷惑にならないでしょう」
「・・・迷惑だなんて」
「ここに来るまで、あなたに迷惑をかけたくなかった。僕は障がい者だ。叫ぶのも泣くのも暴れるのも、とてもじゃないが、耐えられないんです。我慢とか、そういうことができるレベルじゃないんです、これは」
徹はやがて、眠たそうに瞬いた。
「本当は、言うつもりも、・・・なかったんですけど」
でも、と徹は困ったように笑った。
「ずっと、気になっていて」
京都に到着したばかりで、聞いたときの小林は、徹のことを今よりもよく知らなかった。
隣にいることがこんなにも楽だなんて思わなかったのだ。
そしてその楽さは、彼が傷ついているからそうなのだと。
知らなかったから、そんなことを聞けたのだ。
「あなたにとっては、大事な質問じゃないのかと、そう思っていて」
その時の小林は、茉李の死で、ずたずたになっていた。
何もかも拒絶してしまいたかった。
だから井村もいらないと捨てた。
「・・・でも、無理はしなくても」
いいんですよ、と小林は視線をそらした。
「・・・どうかな、僕も、きっかけがほしかったのかもしれないです」
徹は、少し目を細めた。
「誰かに、聞いてほしかったのかも」
はは、と力なく笑う姿は、瞼がだいぶ重そうだった。眠たそうな顔に小林はほっとして、ならよかったと小さく笑う。
「ぼく、苦しくて・・・でも、あなたの姿を見て、きれいだと思ったから・・・」
眠気と戦っているのだろう、口調がおぼつかなくなり、徹は瞼を閉じた。
「すいません・・・なんだかとても・・・」
「おやすみなさい」
睡魔の波に引きずられる徹にそう告げて、小林も眠ったはずだった。
だというのに夜も明けきらない時間に、また目が覚めてしまった。
徹は、隣の布団ですやすやと寝息を立てていた。叫ぶことも泣くこともない。
小林は脱いだシャツを畳み、枕元に置くと、膝をついて小さく息をついた。
徹は、想像以上に小林に気を使っている。
京都から奈良、名古屋と通過して、電車で揺られながらいろいろな話をした。同じ時間を過ごしただけ、わかり合っている。
きっといま、さみしさに耐えかねて、小林が徹から離れがたくなっていることにも気づいているに違いない。
小林は、静かに眠る徹の顔を覗き込んだ。片手を顔の横につき、上から見下ろす。
白い肌は、日に焼けてもなお白い。不健康そうな目の下のクマは、最近はずいぶんと改善されてきた。
徹は自分の顔を10人並みだというが、悪い顔立ちはしていない。華やかさには欠けるかもしれないが、造作は整っていて、品のある顔をしている。
手っ取り早く、胸の中にわだかまるいら立ちを解消する方法を、小林は知っている。この連日の暑さにやられたことを理由に、恋人に散々していたのだ。
(あつい・・・)
少しくらいいいか、と小林は思った。
徹は静かに寝息を立てていて、起きそうにない。視線でその状態を伺い、かたりと気持ちが傾いた。
たった一人の男が不在で寂しい。
そんなのは気のせいだと思った。思うことにした。
それがなんなのか、小林はわからないしわかりたくもない。
わかってしまうのは、苦しいだけだと予想がつく。
徹に乗り換えられるのなら、それはそれで楽なのだろう。
徹は、小林だけにしてほしいと言えばきっとしてくれる。小林がいなくてはだめなのだと、そうしてくれるのだろうと思った。
あの男とは、違って。
小林が顔を近づけて、唇に触れようとしたとき。
「なにしてるんですか?」
ぱちり、と徹が眼を開いた。
「・・・」
まさか寝込みを襲おうとしていましたとは言えず、小林は動きを止めて思考を巡らせた。
はあ、と徹が重たい溜息をついた。下からあきれたように見上げられ、じとりと半眼でにらまれる。
「油断も隙もないですね、ほんと・・・なんで僕なんですか、そこ。井村さんがいなくて寂しいんでしょう?」
少しだけ眠たそうな顔で、徹は不可解そうに顔をしかめた。
「そこは井村さんに会いたい!好き!ってなって駆けだすところではないんですか?王道だと思うんですけど」
はあ~と視線をそらして重たい溜息をつく徹に、井村が言いそうなセリフだなと小林は場違いに少し笑った。
「ねえ、そう『すべき』なんじゃないですか?だって、僕のそばにいてもどうにもならないんでしょう?」
見抜かれていたことに苦笑して、小林はなおのこと顔を近づけた。
「だったらわかりません?」
「・・・わかりませんよ。僕、昔から男には異様にモテるので。その一環ですか?」
小林に向ける目は、なぜだか少し怯えたような色をはらんでいた。怖がる姿は煽情的で、男の支配欲を駆り立てる。
ああ、こういうところなのだろうと、小林はひっそりと笑った。
その笑いにすらおびえたように体を硬くするから、小林は止めどころが分からなくなる。
「言いましたよね。徹さんは好ましいって」
一回ぐらいの出来心ではあるが、小林としては消化しておきたい部分ではあった。
すなわち、どうしてあの男でないとだめなのか、という部分だ。
寂しい。
あの男の不在がさみしいことを小林は認めざるを得ない。
けれど、どうして徹ではだめなのか。
どうしてそばには徹がいるのに、こんなにさみしいのか。そのさみしさを、認めざるを得ないけれど、理由まで理解したくはない。
乗り換えられるのならば、試したいのだ。
「俺は、確かめたいだけです。真実の愛があなたなら、あなたを選びたいって思うのは当然でしょう?」
自然と、甘ったるく微笑んでしまった。
小林が頬を緩めれば大体の人間は陥落する。
そして徹はもう一押し、といったところだった。複雑そうな顔をして、どちらかと言えば顔をしかめて、小林を見返している。
ちなみに一番この顔でどうにかしやすいのは井村だった。井村なら簡単なのにな、と笑みを深める。
「・・・詩人みたいですね」
「口説いてるんですよ」
はあ、と徹は視線をそらして眉根を寄せた。
「あなたは本当に、たちが悪いひとだ」
徹は、あきれたように額に手を置いた。
「そんな顔をするぐらいなら、井村さんのもとに行けばいいのに」
そんな顔とはどんな顔なんだと聞こうとして、小林は口を閉じた。
「・・・必要なんですか?」
徹は逡巡するように視線を巡らせた。
「え?」
小林は思わず徹の顔を覗き込んだ。
一通り視線を動かした後、彼はじっと小林の顔を見つめていた。黒い眼は、何かを図るように小林に視線を向けている。
「どうしても、必要ですか?僕と触れ合うことが」
「・・・」
言葉を詰まらせた小林に、徹は眼を細めて手を伸ばした。
「仕方のないひとですねえ」
するりと頭の後ろに手が伸びる。後ろ髪をゆるりと撫でた手に、力がこもった。小林がその手の動くまま引き寄せられていくと、唇はどこにも触れることがなく、肩口に押し付けられた。
徹に覆いかぶせるように抱きしめられた。
小林は骨ばって硬い体を枕にして、体重をかけようか迷った。
徹は男の体をしているのに、なぜだか壊れそうなほどに骨ばっていて華奢な印象があった。
小林より背も高いのに、なぜだか細くて柔らかいような、小さい生き物にさえ思えて仕方ない。
その徹に体重をかけると、潰してしまいそうで、こわかった。
横で寝ることはあっても、徹は小林を寄せ付けなかった。
だから触れ合うのはせいぜい隣に座るぐらいだ。
押し倒したような近い距離は、徹の甘い香りが鼻についた。何も香水はつけていないことをよく知っているのに、徹はなぜか甘い香りがする。
それに交じる煙草は、彼を拾った男の香りだ。
「・・・」
「花火、きれいでしたね」
ただただ、この場で二人で過ごしていた。
二人で過ごした熱海はよく花火が上がる場所だった。先日、たまたま花火大会があったようで、人工的に作られたサンビーチで二人で花火を眺めた。
砂はきれいで、貝も石もない。人工的にならされた浜辺には多くの人がいて、暗い中、二人で花火を眺めた。
「・・・」
「ちょっと、散歩に行きましょうか」
徹は小林を抱きしめたまま、そうつぶやいた。
「どうせなら、恋人みたいに手をつないで。それぐらいで許してください」
腕の拘束が緩まって、小林は体を持ち上げた。
徹は下から穏やかに笑って、小林を見上げている。
さみしい。
と。
漠然と思う。
それは徹が受け入れてくれないからではない。
そのことを、よくわかっていた。
「・・・そうですね」
小林が上からどけば、徹は起き上がった。小林も脱いだシャツを羽織り、部屋を出る徹に続く。
徹はジェイにもケイにも告げずに、サンダルを履いて外に出た。
「・・・小林さん」
はい、と外を行く徹に手を差し出されて、小林は手を取った。
細い手に指を絡めた。指を握りしめて、徹に手を引かれて歩く。
夜とはいえ、もう夜明けに近いようだった。朝はすぐそばまで来ている。暗さの中に白み始めた明るさがあり、外は想像よりも明るかった。
海のそばが山になっている熱海は、海に向かうのに階段を降りなくてはいけない。足元に注意しながら歩きつつ、小林は目の前の背中を眺めた。
部屋の中で伸びてきた腕に抱きしめられてから、小林はやるせなさをかみしめていた。
(・・・どうして)
海のすぐそばまで来ると、人工的に作られた浜辺についた。
そこからさらに波打ち際まで歩いていく。
人気がないのをいいことに、小林は手を離さなかった。徹は波打ち際まで歩くと、小林に向かって小さく笑う。
「・・・僕ね、昔の記憶があいまいなんですよ」
ざざん、と波の押し寄せる合間に、徹はつぶやいた。
「・・・どうして?」
小林の問いかけに、さあ、と徹は肩をすくめた。
「恐ろしい体験をしたから」
医者はそういう判断です、とあっさりとした口調で、徹は言い切った。
「・・・」
朝方の海辺には人はいない。日中は熱かろうと、陽が上まで登り切らなければ、肌寒さすら感じた。
夜の暗さが残る朝を、二人で歩く。夜の残る海水は冷たく、潮の香りがほんのりとあたりに漂っていた。ざざ、と押し寄せる波打ち際で、足を冷やすように海水と戯れながら、浜辺をたらたらと歩いた。
徹とつながっているのは、小林の腕の長さだけ。それ以上の距離は作られない。
徹が手を離したそうに、指から力を抜いた。
小林はそれに応じることができずに、ことさら力を込めて手を握りしめた。
徹は足を止めて、小林を振り返った。
浜辺から見えるはずの初島はまだ見えない。あたりは静かな夜が覆いかぶさったままだ。日中は青い海も、まだ闇の色をしている。
水平線の先を眺めて、小林は言葉を探した。
「・・・どうして、いろいろ教えてくれるんですか?」
徹は困ったようにうつむき、足元で波と遊んだ。ぱしゃりと水をはねさせ、冷たかったのか、わずかに顔をしかめる。
「・・・苦しくて、いいと思っていました」
徹は顔を上げて、そう答えた。
水平線の先を眺める徹は、手を離せば消えてしまいそうな気がした。色をなくしたように淡い存在に見えて、小林は徹の指先を握りしめ直した。
「覚えてなくても、苦しいから。このままでもいいはずで、変われなんてしないと」
すい、と視線が小林に向く。
まっすぐに小林を見つめる徹の目には、空に残る星が輝いているようだった。黒い中にわずかに光るきらきらとした輝きが、すこしだけはじけた。
「でも、小林さんと、こう、旅をして・・・・」
再度、海に顔を向け、徹は首を傾げた。
「答えを出そうと、もがく姿を見ていました。小林さんは悩みながらも、一生懸命だと、そう思って・・・」
助かるには、どうしたらいいいのかと考えましたと答える声が、波間にまぎれてしまいそうなほど小さかった。
ざらざらと砂をこする水の音に負けそうな言葉は、けれどたしかに小林に届いた。
「だから、そうしてもがくあなたが、僕に問う返事を、僕も返したかった。小林さんが救われるのか、僕にはわからないんですけどね。・・・でも、」
あなたと見た景色は、きれいだったから、と小さく徹が笑った。
ぎこちなく、笑い方がへたくそな男は、そこにはいなかった。
まるで、芸術品を初めて眺めたような、そんな感動を知った顔をしていた。
小林はぎちりと、胸が締め付けられたような気がした。
指をほどきたがる徹に従って、小林は手を離す。
腕一つ分の距離で、小林は立ち尽くした。
「僕は長い間、景色をきれいとは思えませんでした。何もかもが吐き気を催すだけでした。でも、僕も、変わることができるのかな、と思いまして」
徹は眼を細めて、小林を見つめた。
「話して、答えることは、その一歩のような気がして」
その目を、小林は知っていた。
そうして見つめるひとが、小林にもいた。
彼らは一様に、そうして小林に柔らかく笑いかけた。
そして手を差し伸べてくれた。
けれどそれはかつての話で、もう小林は、彼らに会えないのだ。
ぐ、と息がつまった。
潮交じりの空気をうまく吸い込むことができなくて、困惑した。
「でも、やっぱり、誰かに聞いてほしかったのかもしれないです。僕に起きたことを、誰も話さなくていい、知らなくていいと、聞いてはくれなかったので」
徹は、足を止めて動くことができずにいる小林を笑った。
そしてじゃりじゃりと音を立てながら、静かにそばまで歩み寄ってくる。
「・・・連れ出してくれて、ありがとうございました」
きらきらと、太陽の光に反射して、黒い瞳が輝いていた。
夜のような気配がするというのに、徹はそれでも出会った時よりははるかに自然な顔で笑う。
朝日に照らされて、徹の不健康な白い肌が照らされる。その顔には変わらずに隈があるというのに、徹は顔を引きつらせることなく笑っていた。
小林は眼を見開いて、その顔に見入った。
ばくりと動く心臓が、痛くて苦しくて仕方なかった。
その顔を、本当に美しいと思う。
きれいだと小林は思った。
(どうして、)
「そんな、」
助けたいと思った。
それだけだった。深くなんて考えてはいなかった。
ただ、かつて徹のしていた表情を、小林はよく知っていたのだ。
その男がたどった結末も。
どこか、ベランダから落ちそうな気配があった。
だからこそ、その一歩を踏み出さないでくれと願った。
もう、同じ景色を見たくなかっただけだ。
知り合った男の、死にそうな気配を見過ごせなかった。
それだけだった。
(そんな、ことを)
「春が、きらいでした」
まだ、目元に黒い隈を残した顔で、徹はそうしてくしゃりと顔を歪ませる。子供が川辺できれいな石を見つけたような感動を、顔に浮かべていた。
「夏なんて来てほしくなかった」
柔らかい言葉だった。
その言葉を、小林は知っていた。
桜を見てかなしくなる。青々と茂った木の緑陰で、うつむいた。秋の落ち葉の間で立ち尽くす。冬の吐息の白さに目をつぶった。
過ぎ去る日々の絶望感を、これからやってくる未来の明るさを、呪う気持ちを知っている。
「だって、何も・・・」
ないから。
めぐりゆく季節は、思い出すらも消し去ってゆくから。
小林たちは、それを許せなかった。
それがこわくて、恐ろしくてしかたない。
「・・・なくなるけど、でも、人生に、やり直しは、きかないので」
震える声は、小林の声ではないのかと思った。
足元の海水だけが冷たかった。
じりじりと照り返す太陽の熱に、涙すら枯れているかのように、小林と徹は泣けない。
置いて行かれたものばかり抱えていた。
それを手放すすべを、知らなかったし、知りたくなかった。
季節が廻り、月が満ちて欠ける。
太陽が昇って沈んで、潮が引いて満ちいく。
そんな当たり前の中で笑う人はもういない。
どれだけそれらの景色が美しくても、美しいと思う景色に、彼女も彼ももういない。
「あったことは、なかったことにはできないんです。わかっているんですけど、僕は、何も覚えていなかったから」
その通りだ。
それは当たり前のことで、そんな当たり前を、小林も徹も、うまく乗り越えることができない。
ぐう、とのどが鳴りそうな気がした。
目は熱くて、泣きそうで、けれど涙はこぼれなかった。
「・・・そ、な・・・そんな、ありがとうは、俺が言うべきで・・・」
小林はうつむいて、言葉を探した。
(ああ、どうして)
小林は苦しくて、息ができなくなりそうだった。
こんなに、徹と小林はわかり合っている。
苦しみも、その感謝も、小林にはよくわかった。
感謝したいのは、小林のほうなのだ。だからそのありがとうは、徹に送られるべきで、小林が送るべきだった。
(ああ、)
ずっとずっと、思っていた。
(どうして)
徹といると楽だ。
徹は、小林のことをよくわかってくれている。
だというのに。
こんなに楽で、美しい景色すら共有したというのに。
(どうして)
徹では、こんなにさみしいのだろう。
と。
(こんなにさみしい・・・)
小林はその事実が、悲しくて仕方ない。
(このひとだったらよかったのに)
どうしようもないと、小林は顔を歪めた。
こんなにこの人は、小林のことを知っていて、小林もよく知っている。共有できるものはきっと、井村よりもたくさんあるはずなのに。
ひゅ、と息をのんで、小林は、徹の顔を絶望的に見つめた。
眼の柔らかさが、小林が忘れられない人たちに、よく似ていた。
「とおる・・・とおるさん、俺は、俺は本当に」
徹は静かに、小林の言葉を待ってくれた。
それが苦しくて、言葉にならない。
どうしてだと、強く強く思う。
この人で、寂しさをぬぐえたらよかったのにと、強く思った。
「・・・あなたが、すきなんです」
ようやく口にした思いは、苦しさにのど元を締め付けた。
「そうですね」
その同意は、まるで当たり前のことを聞いたような口ぶりだった。
「そうですよね。僕も、小林さんが好きです」
でも、あなたではない、と徹は静かに拒絶を突き付けた。
すきだけれど。
あなたではない。
恋人という関係にはなれないのだと、はっきりと、口にする。
(どうして)
まるで間違いのようだと小林は思った。
「・・・っ」
この人ならば、と思う。
徹がいいと、小林は思う。
徹をあいしたかったし、あいされたかった。
そうすれば、こんな思いはしなくて済むのに、と小林は顔を歪めた。
息が苦しくて、呼吸の仕方が分からなくなることなんてない。どうしていいかわからなくて遠くへ逃げ出さずに済む。誰かを捨てるなんて選択をしなくていい。
捨てるなんて、ひどいことをしなくてもいいのに。
「どうして、」
目の前のあなたではなくて。
あいつなんだ。
あいつでないと。
と。
そんなことを思うんだ。
ぐしゃぐしゃに心臓をつかまれたようで、小林は言葉を探した。納得のいく理由が見つからなくて、きちんとした理由が欲しくて、首を振る。
「そのどうしてを、・・・」

「きっと、恋と呼ぶんでしょう」

ふ、と面白そうに笑った一言に、小林の心臓はぐさりと刺された気がした。
「うん、そうですね。きっと、どうしてが、恋なんですね」
顔を上げた小林を、徹は眼を細めて見つめていた。
「あなたは、恋をしているんですね」
その一言で、徹がひどく遠くに行ってしまった気がした。
「とおるさん、」
「・・・そんな顔をしないでください」
徹は困ったように、小林の顔を覗き込んだ。小林よりも頭一つ分高いひょろりとした男は、吐息が触れそうなほど近くに、顔を寄せて見つめている。
「ねえ、覚えていますか。僕と逃げたら、井村さんとの別れ話、考えてくれるって」
小林は隈の残る顔色の悪い男の顔を見つめた。目を見開いて見つめる小林に、徹はこつりと額を寄せる。
「考えてください。そんな顔は見たくないんです」
でも、と震える声で、小林は腕を上げた。
縋るように、首に手を回して、抱きしめる。
「でも、苦しいんです。俺が知る恋は、もっときれいで、こんな苦しみはなかったはずなのに。何も甘くない。にがいばかりで、ひどいことだらけ、くるしいだけな、こんな、」
こんなものが。
恋と呼ぶのかと。
小林は、まだ信じられない。
「・・・あなたがよかった」
あいしたい、とつぶやいた声は、海風に溶けていった。
「・・・苦しくても、いいんじゃないですか」
徹は、あたたかくはなかった。
海風に吹かれて潮交じりの香りが吹き抜ける。
体温は解けてはいかなくて、徹と小林はどこまでも二人きりだった。
「だって、どうしようもなく、あいしているんでしょう?」
自分ではだめだろうと、徹に言われている気がして小林は身じろいだ。
徹は少しだけ顔を離して、困ったように眉根を下げた。
「徹さん、だって」
「困った人です。・・・じゃあ、これでいいですか」
ふ、と唇に、柔らかいものが触れた。
伏せられたまつ毛は、顔に影を落としていた。
よく見ると一重で、線がきれいな顔なんだと、小林は場違いに思う。がさがさの唇は不健康さが露呈していて、小林は世話をしたくなってしまった。
「・・・」
触れただけで去っていく口を眺めていれば、徹はやはり困ったように、そしてはじめて見たように口元を引きつらせた。口元は歪ながらも辛うじて笑みの形を作った。
「ああ、殺されるぅ・・・」
がっくりと頭を落としながら、首に回った小林の腕を外して、一歩、距離をとった。
「とお、」
「きちんと、考えてください。あなたの恋を。僕との逃亡は、いったん休憩です」
はい、と徹は何かを差し出した。小林は細い腕が差し出したものを反射で受け取る。それは、折り畳み式の携帯電話だった。
「逃亡は、いつまでしたいですか?」
まるで、もう茉李の傷がふさがりつつあるのを見透かされた気分だった。茉李のことは何も忘れたくはなくて、同じように箱崎のことも、忘れたくない。
小林は忘れたくないことがたくさんあった。
徹との逃亡は、忘れたくないものに茉李を数え入れることになっていた。
その事実が、小林を打ちのめす。
そんなことにするつもりはなかった。傷は傷のままの予定だったのだ。かさぶたになる予定は、小林にはなかった。
「・・・」
「僕、少し仕事があるので、あなたのそばを離れます」
でも、ここにいてくださいね、と徹は眉根を寄せた。
彼は憂鬱そうな顔をして、少しうつむく。
「その携帯には、井村さんの携帯の番号が入ってます」
「これ、・・・」
「僕、すぐ戻ってきますよ。本当は、朝言うつもりだったんですけど」
徹はそっと、人差し指で口元に触れた。それが先ほどの触れるだけの口づけを意味するのだろうと、小林でも理解できた。
「連絡してもいいですよ。あなたはあなたの思うままに、していいです」
じゃあ、またと、放課後別れるように、徹は背を向けて歩き出した。その背が小さくなるのを見つめ、小林は海の向こう側へと視線を移した。
朝が、すぐそこまで来ていた。日差しは見えていたが、まだ日が昇っていなかったのだと、小林は水平線を眺めて立ち尽くした。

あつい、と小林が寝苦しさに服の上を脱いだ時、ふと隣で眠る男を見やった。
暗い室内で、徹は小林の隣の布団で、すやすやと静かに息を吐いている。熱海にたどり着くまでは、横になることもあまりなかった。
だが、熱海についてから徹は、横になることが増えていた。目をつむって寝ているような徹の姿を見ると、小林は安堵を覚えた。
すぅすぅと小さい呼吸を繰り返す男が、そうして目を閉じる前、まえに、と口を開いていた。
小林はいまだ夜の残る中で、ひとり、徹が寝る前に話し始めた言葉を思い出していた。
「前に、大切な人をなくしたことがあるかって、聞きましたよね」
徹は畳に敷かれた布団の上で、横になる前にそんなことをつぶやいた。
熱海での生活は、2、3日休みたいという小林の要望を聞いてか、ジェイたちのもとから特に出歩くことはなかった。
それまで観光のようなことを繰り返していただけあって、自覚はなかったものの、疲れはたまっていたようだ。食事をして寝て過ごすというだけで、沈み込んでいた小林の気分は少しだけ浮上した。
さみしいと思う心を自覚してしまってから、小林は動くことができなくなっていた。前向きになれず、そんなことでは埋まらないとわかっているのに、徹から離れなられなくなってしまった。
「聞きましたっけ?」
小林は電気を消すと、少しだけ笑ってごまかした。
「忘れちゃったんですか?京都のときに」
聞いていたじゃないですか、と答える徹の声は少し眠たそうだった。そのことに安心して、小林は眼を細めた。
「そうでしたっけ、でも覚えてないってことは、その程度なんですよ」
小林も横になって徹を見やると、うつぶせに体を倒した徹が、顔だけをこちらに向けていた。
「本当は、名古屋で答えようかと思ったんですが、・・・まあ、いいです。じゃあ、勝手に言うので聞いてください。僕、実は親が死んでるんです」
その言葉に息を詰まらせた小林を、徹は小さく笑った。
引きつるような、へたくそな笑いではなく、すこしだけおかしそうに。
「借金があって、いわゆる心中ですね・・・。でも、今となっては昔の話なんですけど」
徹は、眠たそうに笑うだけだった。
顔を引きつらせことも、歪ませることもない。
小林がふざけて好意を寄せている言葉を口にするほうが、よほどいやそうにする。それほど、この時は陰りなく笑っていた。
まるで明日は晴れるといいね、と小さな祈りを口にするように。
軽い口調だった。
(・・・どうして、カレンくんも、そうだけど)
「どうして、そんなに、明るく言えるんですか」
明るい話題じゃないだろう、と小林はたまらず口にした。聞いたときに答えなかったということは、避けたい話題のはずだ。
誰かの、あるいは大事な人をなくした話なんて。
小林だって、口になんかしたくはないのに。
なのにどうして今になって、そんなに明るく言うんだ、と責めるように顔を向けた小林に、徹は少しだけ目から輝きをなくした。
「・・・暗く、したくないんです。それにここなら、泣いてもわめいても、迷惑にならないでしょう」
「・・・迷惑だなんて」
「ここに来るまで、あなたに迷惑をかけたくなかった。僕は障がい者だ。叫ぶのも泣くのも暴れるのも、とてもじゃないが、耐えられないんです。我慢とか、そういうことができるレベルじゃないんです、これは」
徹はやがて、眠たそうに瞬いた。
「本当は、言うつもりも、・・・なかったんですけど」
でも、と徹は困ったように笑った。
「ずっと、気になっていて」
京都に到着したばかりで、聞いたときの小林は、徹のことを今よりもよく知らなかった。
隣にいることがこんなにも楽だなんて思わなかったのだ。
そしてその楽さは、彼が傷ついているからそうなのだと。
知らなかったから、そんなことを聞けたのだ。
「あなたにとっては、大事な質問じゃないのかと、そう思っていて」
その時の小林は、茉李の死で、ずたずたになっていた。
何もかも拒絶してしまいたかった。
だから井村もいらないと捨てた。
「・・・でも、無理はしなくても」
いいんですよ、と小林は視線をそらした。
「・・・どうかな、僕も、きっかけがほしかったのかもしれないです」
徹は、少し目を細めた。
「誰かに、聞いてほしかったのかも」
はは、と力なく笑う姿は、瞼がだいぶ重そうだった。眠たそうな顔に小林はほっとして、ならよかったと小さく笑う。
「ぼく、苦しくて・・・でも、あなたの姿を見て、きれいだと思ったから・・・」
眠気と戦っているのだろう、口調がおぼつかなくなり、徹は瞼を閉じた。
「すいません・・・なんだかとても・・・」
「おやすみなさい」
睡魔の波に引きずられる徹にそう告げて、小林も眠ったはずだった。
だというのに夜も明けきらない時間に、また目が覚めてしまった。
徹は、隣の布団ですやすやと寝息を立てていた。叫ぶことも泣くこともない。
小林は脱いだシャツを畳み、枕元に置くと、膝をついて小さく息をついた。
徹は、想像以上に小林に気を使っている。
京都から奈良、名古屋と通過して、電車で揺られながらいろいろな話をした。同じ時間を過ごしただけ、わかり合っている。
きっといま、さみしさに耐えかねて、小林が徹から離れがたくなっていることにも気づいているに違いない。
小林は、静かに眠る徹の顔を覗き込んだ。片手を顔の横につき、上から見下ろす。
白い肌は、日に焼けてもなお白い。不健康そうな目の下のクマは、最近はずいぶんと改善されてきた。
徹は自分の顔を10人並みだというが、悪い顔立ちはしていない。華やかさには欠けるかもしれないが、造作は整っていて、品のある顔をしている。
手っ取り早く、胸の中にわだかまるいら立ちを解消する方法を、小林は知っている。この連日の暑さにやられたことを理由に、恋人に散々していたのだ。
(あつい・・・)
少しくらいいいか、と小林は思った。
徹は静かに寝息を立てていて、起きそうにない。視線でその状態を伺い、かたりと気持ちが傾いた。
たった一人の男が不在で寂しい。
そんなのは気のせいだと思った。思うことにした。
それがなんなのか、小林はわからないしわかりたくもない。
わかってしまうのは、苦しいだけだと予想がつく。
徹に乗り換えられるのなら、それはそれで楽なのだろう。
徹は、小林だけにしてほしいと言えばきっとしてくれる。小林がいなくてはだめなのだと、そうしてくれるのだろうと思った。
あの男とは、違って。
小林が顔を近づけて、唇に触れようとしたとき。
「なにしてるんですか?」
ぱちり、と徹が眼を開いた。
「・・・」
まさか寝込みを襲おうとしていましたとは言えず、小林は動きを止めて思考を巡らせた。
はあ、と徹が重たい溜息をついた。下からあきれたように見上げられ、じとりと半眼でにらまれる。
「油断も隙もないですね、ほんと・・・なんで僕なんですか、そこ。井村さんがいなくて寂しいんでしょう?」
少しだけ眠たそうな顔で、徹は不可解そうに顔をしかめた。
「そこは井村さんに会いたい!好き!ってなって駆けだすところではないんですか?王道だと思うんですけど」
はあ~と視線をそらして重たい溜息をつく徹に、井村が言いそうなセリフだなと小林は場違いに少し笑った。
「ねえ、そう『すべき』なんじゃないですか?だって、僕のそばにいてもどうにもならないんでしょう?」
見抜かれていたことに苦笑して、小林はなおのこと顔を近づけた。
「だったらわかりません?」
「・・・わかりませんよ。僕、昔から男には異様にモテるので。その一環ですか?」
小林に向ける目は、なぜだか少し怯えたような色をはらんでいた。怖がる姿は煽情的で、男の支配欲を駆り立てる。
ああ、こういうところなのだろうと、小林はひっそりと笑った。
その笑いにすらおびえたように体を硬くするから、小林は止めどころが分からなくなる。
「言いましたよね。徹さんは好ましいって」
一回ぐらいの出来心ではあるが、小林としては消化しておきたい部分ではあった。
すなわち、どうしてあの男でないとだめなのか、という部分だ。
寂しい。
あの男の不在がさみしいことを小林は認めざるを得ない。
けれど、どうして徹ではだめなのか。
どうしてそばには徹がいるのに、こんなにさみしいのか。そのさみしさを、認めざるを得ないけれど、理由まで理解したくはない。
乗り換えられるのならば、試したいのだ。
「俺は、確かめたいだけです。真実の愛があなたなら、あなたを選びたいって思うのは当然でしょう?」
自然と、甘ったるく微笑んでしまった。
小林が頬を緩めれば大体の人間は陥落する。
そして徹はもう一押し、といったところだった。複雑そうな顔をして、どちらかと言えば顔をしかめて、小林を見返している。
ちなみに一番この顔でどうにかしやすいのは井村だった。井村なら簡単なのにな、と笑みを深める。
「・・・詩人みたいですね」
「口説いてるんですよ」
はあ、と徹は視線をそらして眉根を寄せた。
「あなたは本当に、たちが悪いひとだ」
徹は、あきれたように額に手を置いた。
「そんな顔をするぐらいなら、井村さんのもとに行けばいいのに」
そんな顔とはどんな顔なんだと聞こうとして、小林は口を閉じた。
「・・・必要なんですか?」
徹は逡巡するように視線を巡らせた。
「え?」
小林は思わず徹の顔を覗き込んだ。
一通り視線を動かした後、彼はじっと小林の顔を見つめていた。黒い眼は、何かを図るように小林に視線を向けている。
「どうしても、必要ですか?僕と触れ合うことが」
「・・・」
言葉を詰まらせた小林に、徹は眼を細めて手を伸ばした。
「仕方のないひとですねえ」
するりと頭の後ろに手が伸びる。後ろ髪をゆるりと撫でた手に、力がこもった。小林がその手の動くまま引き寄せられていくと、唇はどこにも触れることがなく、肩口に押し付けられた。
徹に覆いかぶせるように抱きしめられた。
小林は骨ばって硬い体を枕にして、体重をかけようか迷った。
徹は男の体をしているのに、なぜだか壊れそうなほどに骨ばっていて華奢な印象があった。
小林より背も高いのに、なぜだか細くて柔らかいような、小さい生き物にさえ思えて仕方ない。
その徹に体重をかけると、潰してしまいそうで、こわかった。
横で寝ることはあっても、徹は小林を寄せ付けなかった。
だから触れ合うのはせいぜい隣に座るぐらいだ。
押し倒したような近い距離は、徹の甘い香りが鼻についた。何も香水はつけていないことをよく知っているのに、徹はなぜか甘い香りがする。
それに交じる煙草は、彼を拾った男の香りだ。
「・・・」
「花火、きれいでしたね」
ただただ、この場で二人で過ごしていた。
二人で過ごした熱海はよく花火が上がる場所だった。先日、たまたま花火大会があったようで、人工的に作られたサンビーチで二人で花火を眺めた。
砂はきれいで、貝も石もない。人工的にならされた浜辺には多くの人がいて、暗い中、二人で花火を眺めた。
「・・・」
「ちょっと、散歩に行きましょうか」
徹は小林を抱きしめたまま、そうつぶやいた。
「どうせなら、恋人みたいに手をつないで。それぐらいで許してください」
腕の拘束が緩まって、小林は体を持ち上げた。
徹は下から穏やかに笑って、小林を見上げている。
さみしい。
と。
漠然と思う。
それは徹が受け入れてくれないからではない。
そのことを、よくわかっていた。
「・・・そうですね」
小林が上からどけば、徹は起き上がった。小林も脱いだシャツを羽織り、部屋を出る徹に続く。
徹はジェイにもケイにも告げずに、サンダルを履いて外に出た。
「・・・小林さん」
はい、と外を行く徹に手を差し出されて、小林は手を取った。
細い手に指を絡めた。指を握りしめて、徹に手を引かれて歩く。
夜とはいえ、もう夜明けに近いようだった。朝はすぐそばまで来ている。暗さの中に白み始めた明るさがあり、外は想像よりも明るかった。
海のそばが山になっている熱海は、海に向かうのに階段を降りなくてはいけない。足元に注意しながら歩きつつ、小林は目の前の背中を眺めた。
部屋の中で伸びてきた腕に抱きしめられてから、小林はやるせなさをかみしめていた。
(・・・どうして)
海のすぐそばまで来ると、人工的に作られた浜辺についた。
そこからさらに波打ち際まで歩いていく。
人気がないのをいいことに、小林は手を離さなかった。徹は波打ち際まで歩くと、小林に向かって小さく笑う。
「・・・僕ね、昔の記憶があいまいなんですよ」
ざざん、と波の押し寄せる合間に、徹はつぶやいた。
「・・・どうして?」
小林の問いかけに、さあ、と徹は肩をすくめた。
「恐ろしい体験をしたから」
医者はそういう判断です、とあっさりとした口調で、徹は言い切った。
「・・・」
朝方の海辺には人はいない。日中は熱かろうと、陽が上まで登り切らなければ、肌寒さすら感じた。
夜の暗さが残る朝を、二人で歩く。夜の残る海水は冷たく、潮の香りがほんのりとあたりに漂っていた。ざざ、と押し寄せる波打ち際で、足を冷やすように海水と戯れながら、浜辺をたらたらと歩いた。
徹とつながっているのは、小林の腕の長さだけ。それ以上の距離は作られない。
徹が手を離したそうに、指から力を抜いた。
小林はそれに応じることができずに、ことさら力を込めて手を握りしめた。
徹は足を止めて、小林を振り返った。
浜辺から見えるはずの初島はまだ見えない。あたりは静かな夜が覆いかぶさったままだ。日中は青い海も、まだ闇の色をしている。
水平線の先を眺めて、小林は言葉を探した。
「・・・どうして、いろいろ教えてくれるんですか?」
徹は困ったようにうつむき、足元で波と遊んだ。ぱしゃりと水をはねさせ、冷たかったのか、わずかに顔をしかめる。
「・・・苦しくて、いいと思っていました」
徹は顔を上げて、そう答えた。
水平線の先を眺める徹は、手を離せば消えてしまいそうな気がした。色をなくしたように淡い存在に見えて、小林は徹の指先を握りしめ直した。
「覚えてなくても、苦しいから。このままでもいいはずで、変われなんてしないと」
すい、と視線が小林に向く。
まっすぐに小林を見つめる徹の目には、空に残る星が輝いているようだった。黒い中にわずかに光るきらきらとした輝きが、すこしだけはじけた。
「でも、小林さんと、こう、旅をして・・・・」
再度、海に顔を向け、徹は首を傾げた。
「答えを出そうと、もがく姿を見ていました。小林さんは悩みながらも、一生懸命だと、そう思って・・・」
助かるには、どうしたらいいいのかと考えましたと答える声が、波間にまぎれてしまいそうなほど小さかった。
ざらざらと砂をこする水の音に負けそうな言葉は、けれどたしかに小林に届いた。
「だから、そうしてもがくあなたが、僕に問う返事を、僕も返したかった。小林さんが救われるのか、僕にはわからないんですけどね。・・・でも、」
あなたと見た景色は、きれいだったから、と小さく徹が笑った。
ぎこちなく、笑い方がへたくそな男は、そこにはいなかった。
まるで、芸術品を初めて眺めたような、そんな感動を知った顔をしていた。
小林はぎちりと、胸が締め付けられたような気がした。
指をほどきたがる徹に従って、小林は手を離す。
腕一つ分の距離で、小林は立ち尽くした。
「僕は長い間、景色をきれいとは思えませんでした。何もかもが吐き気を催すだけでした。でも、僕も、変わることができるのかな、と思いまして」
徹は眼を細めて、小林を見つめた。
「話して、答えることは、その一歩のような気がして」
その目を、小林は知っていた。
そうして見つめるひとが、小林にもいた。
彼らは一様に、そうして小林に柔らかく笑いかけた。
そして手を差し伸べてくれた。
けれどそれはかつての話で、もう小林は、彼らに会えないのだ。
ぐ、と息がつまった。
潮交じりの空気をうまく吸い込むことができなくて、困惑した。
「でも、やっぱり、誰かに聞いてほしかったのかもしれないです。僕に起きたことを、誰も話さなくていい、知らなくていいと、聞いてはくれなかったので」
徹は、足を止めて動くことができずにいる小林を笑った。
そしてじゃりじゃりと音を立てながら、静かにそばまで歩み寄ってくる。
「・・・連れ出してくれて、ありがとうございました」
きらきらと、太陽の光に反射して、黒い瞳が輝いていた。
夜のような気配がするというのに、徹はそれでも出会った時よりははるかに自然な顔で笑う。
朝日に照らされて、徹の不健康な白い肌が照らされる。その顔には変わらずに隈があるというのに、徹は顔を引きつらせることなく笑っていた。
小林は眼を見開いて、その顔に見入った。
ばくりと動く心臓が、痛くて苦しくて仕方なかった。
その顔を、本当に美しいと思う。
きれいだと小林は思った。
(どうして、)
「そんな、」
助けたいと思った。
それだけだった。深くなんて考えてはいなかった。
ただ、かつて徹のしていた表情を、小林はよく知っていたのだ。
その男がたどった結末も。
どこか、ベランダから落ちそうな気配があった。
だからこそ、その一歩を踏み出さないでくれと願った。
もう、同じ景色を見たくなかっただけだ。
知り合った男の、死にそうな気配を見過ごせなかった。
それだけだった。
(そんな、ことを)
「春が、きらいでした」
まだ、目元に黒い隈を残した顔で、徹はそうしてくしゃりと顔を歪ませる。子供が川辺できれいな石を見つけたような感動を、顔に浮かべていた。
「夏なんて来てほしくなかった」
柔らかい言葉だった。
その言葉を、小林は知っていた。
桜を見てかなしくなる。青々と茂った木の緑陰で、うつむいた。秋の落ち葉の間で立ち尽くす。冬の吐息の白さに目をつぶった。
過ぎ去る日々の絶望感を、これからやってくる未来の明るさを、呪う気持ちを知っている。
「だって、何も・・・」
ないから。
めぐりゆく季節は、思い出すらも消し去ってゆくから。
小林たちは、それを許せなかった。
それがこわくて、恐ろしくてしかたない。
「・・・なくなるけど、でも、人生に、やり直しは、きかないので」
震える声は、小林の声ではないのかと思った。
足元の海水だけが冷たかった。
じりじりと照り返す太陽の熱に、涙すら枯れているかのように、小林と徹は泣けない。
置いて行かれたものばかり抱えていた。
それを手放すすべを、知らなかったし、知りたくなかった。
季節が廻り、月が満ちて欠ける。
太陽が昇って沈んで、潮が引いて満ちいく。
そんな当たり前の中で笑う人はもういない。
どれだけそれらの景色が美しくても、美しいと思う景色に、彼女も彼ももういない。
「あったことは、なかったことにはできないんです。わかっているんですけど、僕は、何も覚えていなかったから」
その通りだ。
それは当たり前のことで、そんな当たり前を、小林も徹も、うまく乗り越えることができない。
ぐう、とのどが鳴りそうな気がした。
目は熱くて、泣きそうで、けれど涙はこぼれなかった。
「・・・そ、な・・・そんな、ありがとうは、俺が言うべきで・・・」
小林はうつむいて、言葉を探した。
(ああ、どうして)
小林は苦しくて、息ができなくなりそうだった。
こんなに、徹と小林はわかり合っている。
苦しみも、その感謝も、小林にはよくわかった。
感謝したいのは、小林のほうなのだ。だからそのありがとうは、徹に送られるべきで、小林が送るべきだった。
(ああ、)
ずっとずっと、思っていた。
(どうして)
徹といると楽だ。
徹は、小林のことをよくわかってくれている。
だというのに。
こんなに楽で、美しい景色すら共有したというのに。
(どうして)
徹では、こんなにさみしいのだろう。
と。
(こんなにさみしい・・・)
小林はその事実が、悲しくて仕方ない。
(このひとだったらよかったのに)
どうしようもないと、小林は顔を歪めた。
こんなにこの人は、小林のことを知っていて、小林もよく知っている。共有できるものはきっと、井村よりもたくさんあるはずなのに。
ひゅ、と息をのんで、小林は、徹の顔を絶望的に見つめた。
眼の柔らかさが、小林が忘れられない人たちに、よく似ていた。
「とおる・・・とおるさん、俺は、俺は本当に」
徹は静かに、小林の言葉を待ってくれた。
それが苦しくて、言葉にならない。
どうしてだと、強く強く思う。
この人で、寂しさをぬぐえたらよかったのにと、強く思った。
「・・・あなたが、すきなんです」
ようやく口にした思いは、苦しさにのど元を締め付けた。
「そうですね」
その同意は、まるで当たり前のことを聞いたような口ぶりだった。
「そうですよね。僕も、小林さんが好きです」
でも、あなたではない、と徹は静かに拒絶を突き付けた。
すきだけれど。
あなたではない。
恋人という関係にはなれないのだと、はっきりと、口にする。
(どうして)
まるで間違いのようだと小林は思った。
「・・・っ」
この人ならば、と思う。
徹がいいと、小林は思う。
徹をあいしたかったし、あいされたかった。
そうすれば、こんな思いはしなくて済むのに、と小林は顔を歪めた。
息が苦しくて、呼吸の仕方が分からなくなることなんてない。どうしていいかわからなくて遠くへ逃げ出さずに済む。誰かを捨てるなんて選択をしなくていい。
捨てるなんて、ひどいことをしなくてもいいのに。
「どうして、」
目の前のあなたではなくて。
あいつなんだ。
あいつでないと。
と。
そんなことを思うんだ。
ぐしゃぐしゃに心臓をつかまれたようで、小林は言葉を探した。納得のいく理由が見つからなくて、きちんとした理由が欲しくて、首を振る。
「そのどうしてを、・・・」

「きっと、恋と呼ぶんでしょう」

ふ、と面白そうに笑った一言に、小林の心臓はぐさりと刺された気がした。
「うん、そうですね。きっと、どうしてが、恋なんですね」
顔を上げた小林を、徹は眼を細めて見つめていた。
「あなたは、恋をしているんですね」
その一言で、徹がひどく遠くに行ってしまった気がした。
「とおるさん、」
「・・・そんな顔をしないでください」
徹は困ったように、小林の顔を覗き込んだ。小林よりも頭一つ分高いひょろりとした男は、吐息が触れそうなほど近くに、顔を寄せて見つめている。
「ねえ、覚えていますか。僕と逃げたら、井村さんとの別れ話、考えてくれるって」
小林は隈の残る顔色の悪い男の顔を見つめた。目を見開いて見つめる小林に、徹はこつりと額を寄せる。
「考えてください。そんな顔は見たくないんです」
でも、と震える声で、小林は腕を上げた。
縋るように、首に手を回して、抱きしめる。
「でも、苦しいんです。俺が知る恋は、もっときれいで、こんな苦しみはなかったはずなのに。何も甘くない。にがいばかりで、ひどいことだらけ、くるしいだけな、こんな、」
こんなものが。
恋と呼ぶのかと。
小林は、まだ信じられない。
「・・・あなたがよかった」
あいしたい、とつぶやいた声は、海風に溶けていった。
「・・・苦しくても、いいんじゃないですか」
徹は、あたたかくはなかった。
海風に吹かれて潮交じりの香りが吹き抜ける。
体温は解けてはいかなくて、徹と小林はどこまでも二人きりだった。
「だって、どうしようもなく、あいしているんでしょう?」
自分ではだめだろうと、徹に言われている気がして小林は身じろいだ。
徹は少しだけ顔を離して、困ったように眉根を下げた。
「徹さん、だって」
「困った人です。・・・じゃあ、これでいいですか」
ふ、と唇に、柔らかいものが触れた。
伏せられたまつ毛は、顔に影を落としていた。
よく見ると一重で、線がきれいな顔なんだと、小林は場違いに思う。がさがさの唇は不健康さが露呈していて、小林は世話をしたくなってしまった。
「・・・」
触れただけで去っていく口を眺めていれば、徹はやはり困ったように、そしてはじめて見たように口元を引きつらせた。口元は歪ながらも辛うじて笑みの形を作った。
「ああ、殺されるぅ・・・」
がっくりと頭を落としながら、首に回った小林の腕を外して、一歩、距離をとった。
「とお、」
「きちんと、考えてください。あなたの恋を。僕との逃亡は、いったん休憩です」
はい、と徹は何かを差し出した。小林は細い腕が差し出したものを反射で受け取る。それは、折り畳み式の携帯電話だった。
「逃亡は、いつまでしたいですか?」
まるで、もう茉李の傷がふさがりつつあるのを見透かされた気分だった。茉李のことは何も忘れたくはなくて、同じように箱崎のことも、忘れたくない。
小林は忘れたくないことがたくさんあった。
徹との逃亡は、忘れたくないものに茉李を数え入れることになっていた。
その事実が、小林を打ちのめす。
そんなことにするつもりはなかった。傷は傷のままの予定だったのだ。かさぶたになる予定は、小林にはなかった。
「・・・」
「僕、少し仕事があるので、あなたのそばを離れます」
でも、ここにいてくださいね、と徹は眉根を寄せた。
彼は憂鬱そうな顔をして、少しうつむく。
「その携帯には、井村さんの携帯の番号が入ってます」
「これ、・・・」
「僕、すぐ戻ってきますよ。本当は、朝言うつもりだったんですけど」
徹はそっと、人差し指で口元に触れた。それが先ほどの触れるだけの口づけを意味するのだろうと、小林でも理解できた。
「連絡してもいいですよ。あなたはあなたの思うままに、していいです」
じゃあ、またと、放課後別れるように、徹は背を向けて歩き出した。その背が小さくなるのを見つめ、小林は海の向こう側へと視線を移した。
朝が、すぐそこまで来ていた。日差しは見えていたが、まだ日が昇っていなかったのだと、小林は水平線を眺めて立ち尽くした。

あつい、と小林が寝苦しさに服の上を脱いだ時、ふと隣で眠る男を見やった。
暗い室内で、徹は小林の隣の布団で、すやすやと静かに息を吐いている。熱海にたどり着くまでは、横になることもあまりなかった。
だが、熱海についてから徹は、横になることが増えていた。目をつむって寝ているような徹の姿を見ると、小林は安堵を覚えた。
すぅすぅと小さい呼吸を繰り返す男が、そうして目を閉じる前、まえに、と口を開いていた。
小林はいまだ夜の残る中で、ひとり、徹が寝る前に話し始めた言葉を思い出していた。
「前に、大切な人をなくしたことがあるかって、聞きましたよね」
徹は畳に敷かれた布団の上で、横になる前にそんなことをつぶやいた。
熱海での生活は、2、3日休みたいという小林の要望を聞いてか、ジェイたちのもとから特に出歩くことはなかった。
それまで観光のようなことを繰り返していただけあって、自覚はなかったものの、疲れはたまっていたようだ。食事をして寝て過ごすというだけで、沈み込んでいた小林の気分は少しだけ浮上した。
さみしいと思う心を自覚してしまってから、小林は動くことができなくなっていた。前向きになれず、そんなことでは埋まらないとわかっているのに、徹から離れなられなくなってしまった。
「聞きましたっけ?」
小林は電気を消すと、少しだけ笑ってごまかした。
「忘れちゃったんですか?京都のときに」
聞いていたじゃないですか、と答える徹の声は少し眠たそうだった。そのことに安心して、小林は眼を細めた。
「そうでしたっけ、でも覚えてないってことは、その程度なんですよ」
小林も横になって徹を見やると、うつぶせに体を倒した徹が、顔だけをこちらに向けていた。
「本当は、名古屋で答えようかと思ったんですが、・・・まあ、いいです。じゃあ、勝手に言うので聞いてください。僕、実は親が死んでるんです」
その言葉に息を詰まらせた小林を、徹は小さく笑った。
引きつるような、へたくそな笑いではなく、すこしだけおかしそうに。
「借金があって、いわゆる心中ですね・・・。でも、今となっては昔の話なんですけど」
徹は、眠たそうに笑うだけだった。
顔を引きつらせことも、歪ませることもない。
小林がふざけて好意を寄せている言葉を口にするほうが、よほどいやそうにする。それほど、この時は陰りなく笑っていた。
まるで明日は晴れるといいね、と小さな祈りを口にするように。
軽い口調だった。
(・・・どうして、カレンくんも、そうだけど)
「どうして、そんなに、明るく言えるんですか」
明るい話題じゃないだろう、と小林はたまらず口にした。聞いたときに答えなかったということは、避けたい話題のはずだ。
誰かの、あるいは大事な人をなくした話なんて。
小林だって、口になんかしたくはないのに。
なのにどうして今になって、そんなに明るく言うんだ、と責めるように顔を向けた小林に、徹は少しだけ目から輝きをなくした。
「・・・暗く、したくないんです。それにここなら、泣いてもわめいても、迷惑にならないでしょう」
「・・・迷惑だなんて」
「ここに来るまで、あなたに迷惑をかけたくなかった。僕は障がい者だ。叫ぶのも泣くのも暴れるのも、とてもじゃないが、耐えられないんです。我慢とか、そういうことができるレベルじゃないんです、これは」
徹はやがて、眠たそうに瞬いた。
「本当は、言うつもりも、・・・なかったんですけど」
でも、と徹は困ったように笑った。
「ずっと、気になっていて」
京都に到着したばかりで、聞いたときの小林は、徹のことを今よりもよく知らなかった。
隣にいることがこんなにも楽だなんて思わなかったのだ。
そしてその楽さは、彼が傷ついているからそうなのだと。
知らなかったから、そんなことを聞けたのだ。
「あなたにとっては、大事な質問じゃないのかと、そう思っていて」
その時の小林は、茉李の死で、ずたずたになっていた。
何もかも拒絶してしまいたかった。
だから井村もいらないと捨てた。
「・・・でも、無理はしなくても」
いいんですよ、と小林は視線をそらした。
「・・・どうかな、僕も、きっかけがほしかったのかもしれないです」
徹は、少し目を細めた。
「誰かに、聞いてほしかったのかも」
はは、と力なく笑う姿は、瞼がだいぶ重そうだった。眠たそうな顔に小林はほっとして、ならよかったと小さく笑う。
「ぼく、苦しくて・・・でも、あなたの姿を見て、きれいだと思ったから・・・」
眠気と戦っているのだろう、口調がおぼつかなくなり、徹は瞼を閉じた。
「すいません・・・なんだかとても・・・」
「おやすみなさい」
睡魔の波に引きずられる徹にそう告げて、小林も眠ったはずだった。
だというのに夜も明けきらない時間に、また目が覚めてしまった。
徹は、隣の布団ですやすやと寝息を立てていた。叫ぶことも泣くこともない。
小林は脱いだシャツを畳み、枕元に置くと、膝をついて小さく息をついた。
徹は、想像以上に小林に気を使っている。
京都から奈良、名古屋と通過して、電車で揺られながらいろいろな話をした。同じ時間を過ごしただけ、わかり合っている。
きっといま、さみしさに耐えかねて、小林が徹から離れがたくなっていることにも気づいているに違いない。
小林は、静かに眠る徹の顔を覗き込んだ。片手を顔の横につき、上から見下ろす。
白い肌は、日に焼けてもなお白い。不健康そうな目の下のクマは、最近はずいぶんと改善されてきた。
徹は自分の顔を10人並みだというが、悪い顔立ちはしていない。華やかさには欠けるかもしれないが、造作は整っていて、品のある顔をしている。
手っ取り早く、胸の中にわだかまるいら立ちを解消する方法を、小林は知っている。この連日の暑さにやられたことを理由に、恋人に散々していたのだ。
(あつい・・・)
少しくらいいいか、と小林は思った。
徹は静かに寝息を立てていて、起きそうにない。視線でその状態を伺い、かたりと気持ちが傾いた。
たった一人の男が不在で寂しい。
そんなのは気のせいだと思った。思うことにした。
それがなんなのか、小林はわからないしわかりたくもない。
わかってしまうのは、苦しいだけだと予想がつく。
徹に乗り換えられるのなら、それはそれで楽なのだろう。
徹は、小林だけにしてほしいと言えばきっとしてくれる。小林がいなくてはだめなのだと、そうしてくれるのだろうと思った。
あの男とは、違って。
小林が顔を近づけて、唇に触れようとしたとき。
「なにしてるんですか?」
ぱちり、と徹が眼を開いた。
「・・・」
まさか寝込みを襲おうとしていましたとは言えず、小林は動きを止めて思考を巡らせた。
はあ、と徹が重たい溜息をついた。下からあきれたように見上げられ、じとりと半眼でにらまれる。
「油断も隙もないですね、ほんと・・・なんで僕なんですか、そこ。井村さんがいなくて寂しいんでしょう?」
少しだけ眠たそうな顔で、徹は不可解そうに顔をしかめた。
「そこは井村さんに会いたい!好き!ってなって駆けだすところではないんですか?王道だと思うんですけど」
はあ~と視線をそらして重たい溜息をつく徹に、井村が言いそうなセリフだなと小林は場違いに少し笑った。
「ねえ、そう『すべき』なんじゃないですか?だって、僕のそばにいてもどうにもならないんでしょう?」
見抜かれていたことに苦笑して、小林はなおのこと顔を近づけた。
「だったらわかりません?」
「・・・わかりませんよ。僕、昔から男には異様にモテるので。その一環ですか?」
小林に向ける目は、なぜだか少し怯えたような色をはらんでいた。怖がる姿は煽情的で、男の支配欲を駆り立てる。
ああ、こういうところなのだろうと、小林はひっそりと笑った。
その笑いにすらおびえたように体を硬くするから、小林は止めどころが分からなくなる。
「言いましたよね。徹さんは好ましいって」
一回ぐらいの出来心ではあるが、小林としては消化しておきたい部分ではあった。
すなわち、どうしてあの男でないとだめなのか、という部分だ。
寂しい。
あの男の不在がさみしいことを小林は認めざるを得ない。
けれど、どうして徹ではだめなのか。
どうしてそばには徹がいるのに、こんなにさみしいのか。そのさみしさを、認めざるを得ないけれど、理由まで理解したくはない。
乗り換えられるのならば、試したいのだ。
「俺は、確かめたいだけです。真実の愛があなたなら、あなたを選びたいって思うのは当然でしょう?」
自然と、甘ったるく微笑んでしまった。
小林が頬を緩めれば大体の人間は陥落する。
そして徹はもう一押し、といったところだった。複雑そうな顔をして、どちらかと言えば顔をしかめて、小林を見返している。
ちなみに一番この顔でどうにかしやすいのは井村だった。井村なら簡単なのにな、と笑みを深める。
「・・・詩人みたいですね」
「口説いてるんですよ」
はあ、と徹は視線をそらして眉根を寄せた。
「あなたは本当に、たちが悪いひとだ」
徹は、あきれたように額に手を置いた。
「そんな顔をするぐらいなら、井村さんのもとに行けばいいのに」
そんな顔とはどんな顔なんだと聞こうとして、小林は口を閉じた。
「・・・必要なんですか?」
徹は逡巡するように視線を巡らせた。
「え?」
小林は思わず徹の顔を覗き込んだ。
一通り視線を動かした後、彼はじっと小林の顔を見つめていた。黒い眼は、何かを図るように小林に視線を向けている。
「どうしても、必要ですか?僕と触れ合うことが」
「・・・」
言葉を詰まらせた小林に、徹は眼を細めて手を伸ばした。
「仕方のないひとですねえ」
するりと頭の後ろに手が伸びる。後ろ髪をゆるりと撫でた手に、力がこもった。小林がその手の動くまま引き寄せられていくと、唇はどこにも触れることがなく、肩口に押し付けられた。
徹に覆いかぶせるように抱きしめられた。
小林は骨ばって硬い体を枕にして、体重をかけようか迷った。
徹は男の体をしているのに、なぜだか壊れそうなほどに骨ばっていて華奢な印象があった。
小林より背も高いのに、なぜだか細くて柔らかいような、小さい生き物にさえ思えて仕方ない。
その徹に体重をかけると、潰してしまいそうで、こわかった。
横で寝ることはあっても、徹は小林を寄せ付けなかった。
だから触れ合うのはせいぜい隣に座るぐらいだ。
押し倒したような近い距離は、徹の甘い香りが鼻についた。何も香水はつけていないことをよく知っているのに、徹はなぜか甘い香りがする。
それに交じる煙草は、彼を拾った男の香りだ。
「・・・」
「花火、きれいでしたね」
ただただ、この場で二人で過ごしていた。
二人で過ごした熱海はよく花火が上がる場所だった。先日、たまたま花火大会があったようで、人工的に作られたサンビーチで二人で花火を眺めた。
砂はきれいで、貝も石もない。人工的にならされた浜辺には多くの人がいて、暗い中、二人で花火を眺めた。
「・・・」
「ちょっと、散歩に行きましょうか」
徹は小林を抱きしめたまま、そうつぶやいた。
「どうせなら、恋人みたいに手をつないで。それぐらいで許してください」
腕の拘束が緩まって、小林は体を持ち上げた。
徹は下から穏やかに笑って、小林を見上げている。
さみしい。
と。
漠然と思う。
それは徹が受け入れてくれないからではない。
そのことを、よくわかっていた。
「・・・そうですね」
小林が上からどけば、徹は起き上がった。小林も脱いだシャツを羽織り、部屋を出る徹に続く。
徹はジェイにもケイにも告げずに、サンダルを履いて外に出た。
「・・・小林さん」
はい、と外を行く徹に手を差し出されて、小林は手を取った。
細い手に指を絡めた。指を握りしめて、徹に手を引かれて歩く。
夜とはいえ、もう夜明けに近いようだった。朝はすぐそばまで来ている。暗さの中に白み始めた明るさがあり、外は想像よりも明るかった。
海のそばが山になっている熱海は、海に向かうのに階段を降りなくてはいけない。足元に注意しながら歩きつつ、小林は目の前の背中を眺めた。
部屋の中で伸びてきた腕に抱きしめられてから、小林はやるせなさをかみしめていた。
(・・・どうして)
海のすぐそばまで来ると、人工的に作られた浜辺についた。
そこからさらに波打ち際まで歩いていく。
人気がないのをいいことに、小林は手を離さなかった。徹は波打ち際まで歩くと、小林に向かって小さく笑う。
「・・・僕ね、昔の記憶があいまいなんですよ」
ざざん、と波の押し寄せる合間に、徹はつぶやいた。
「・・・どうして?」
小林の問いかけに、さあ、と徹は肩をすくめた。
「恐ろしい体験をしたから」
医者はそういう判断です、とあっさりとした口調で、徹は言い切った。
「・・・」
朝方の海辺には人はいない。日中は熱かろうと、陽が上まで登り切らなければ、肌寒さすら感じた。
夜の暗さが残る朝を、二人で歩く。夜の残る海水は冷たく、潮の香りがほんのりとあたりに漂っていた。ざざ、と押し寄せる波打ち際で、足を冷やすように海水と戯れながら、浜辺をたらたらと歩いた。
徹とつながっているのは、小林の腕の長さだけ。それ以上の距離は作られない。
徹が手を離したそうに、指から力を抜いた。
小林はそれに応じることができずに、ことさら力を込めて手を握りしめた。
徹は足を止めて、小林を振り返った。
浜辺から見えるはずの初島はまだ見えない。あたりは静かな夜が覆いかぶさったままだ。日中は青い海も、まだ闇の色をしている。
水平線の先を眺めて、小林は言葉を探した。
「・・・どうして、いろいろ教えてくれるんですか?」
徹は困ったようにうつむき、足元で波と遊んだ。ぱしゃりと水をはねさせ、冷たかったのか、わずかに顔をしかめる。
「・・・苦しくて、いいと思っていました」
徹は顔を上げて、そう答えた。
水平線の先を眺める徹は、手を離せば消えてしまいそうな気がした。色をなくしたように淡い存在に見えて、小林は徹の指先を握りしめ直した。
「覚えてなくても、苦しいから。このままでもいいはずで、変われなんてしないと」
すい、と視線が小林に向く。
まっすぐに小林を見つめる徹の目には、空に残る星が輝いているようだった。黒い中にわずかに光るきらきらとした輝きが、すこしだけはじけた。
「でも、小林さんと、こう、旅をして・・・・」
再度、海に顔を向け、徹は首を傾げた。
「答えを出そうと、もがく姿を見ていました。小林さんは悩みながらも、一生懸命だと、そう思って・・・」
助かるには、どうしたらいいいのかと考えましたと答える声が、波間にまぎれてしまいそうなほど小さかった。
ざらざらと砂をこする水の音に負けそうな言葉は、けれどたしかに小林に届いた。
「だから、そうしてもがくあなたが、僕に問う返事を、僕も返したかった。小林さんが救われるのか、僕にはわからないんですけどね。・・・でも、」
あなたと見た景色は、きれいだったから、と小さく徹が笑った。
ぎこちなく、笑い方がへたくそな男は、そこにはいなかった。
まるで、芸術品を初めて眺めたような、そんな感動を知った顔をしていた。
小林はぎちりと、胸が締め付けられたような気がした。
指をほどきたがる徹に従って、小林は手を離す。
腕一つ分の距離で、小林は立ち尽くした。
「僕は長い間、景色をきれいとは思えませんでした。何もかもが吐き気を催すだけでした。でも、僕も、変わることができるのかな、と思いまして」
徹は眼を細めて、小林を見つめた。
「話して、答えることは、その一歩のような気がして」
その目を、小林は知っていた。
そうして見つめるひとが、小林にもいた。
彼らは一様に、そうして小林に柔らかく笑いかけた。
そして手を差し伸べてくれた。
けれどそれはかつての話で、もう小林は、彼らに会えないのだ。
ぐ、と息がつまった。
潮交じりの空気をうまく吸い込むことができなくて、困惑した。
「でも、やっぱり、誰かに聞いてほしかったのかもしれないです。僕に起きたことを、誰も話さなくていい、知らなくていいと、聞いてはくれなかったので」
徹は、足を止めて動くことができずにいる小林を笑った。
そしてじゃりじゃりと音を立てながら、静かにそばまで歩み寄ってくる。
「・・・連れ出してくれて、ありがとうございました」
きらきらと、太陽の光に反射して、黒い瞳が輝いていた。
夜のような気配がするというのに、徹はそれでも出会った時よりははるかに自然な顔で笑う。
朝日に照らされて、徹の不健康な白い肌が照らされる。その顔には変わらずに隈があるというのに、徹は顔を引きつらせることなく笑っていた。
小林は眼を見開いて、その顔に見入った。
ばくりと動く心臓が、痛くて苦しくて仕方なかった。
その顔を、本当に美しいと思う。
きれいだと小林は思った。
(どうして、)
「そんな、」
助けたいと思った。
それだけだった。深くなんて考えてはいなかった。
ただ、かつて徹のしていた表情を、小林はよく知っていたのだ。
その男がたどった結末も。
どこか、ベランダから落ちそうな気配があった。
だからこそ、その一歩を踏み出さないでくれと願った。
もう、同じ景色を見たくなかっただけだ。
知り合った男の、死にそうな気配を見過ごせなかった。
それだけだった。
(そんな、ことを)
「春が、きらいでした」
まだ、目元に黒い隈を残した顔で、徹はそうしてくしゃりと顔を歪ませる。子供が川辺できれいな石を見つけたような感動を、顔に浮かべていた。
「夏なんて来てほしくなかった」
柔らかい言葉だった。
その言葉を、小林は知っていた。
桜を見てかなしくなる。青々と茂った木の緑陰で、うつむいた。秋の落ち葉の間で立ち尽くす。冬の吐息の白さに目をつぶった。
過ぎ去る日々の絶望感を、これからやってくる未来の明るさを、呪う気持ちを知っている。
「だって、何も・・・」
ないから。
めぐりゆく季節は、思い出すらも消し去ってゆくから。
小林たちは、それを許せなかった。
それがこわくて、恐ろしくてしかたない。
「・・・なくなるけど、でも、人生に、やり直しは、きかないので」
震える声は、小林の声ではないのかと思った。
足元の海水だけが冷たかった。
じりじりと照り返す太陽の熱に、涙すら枯れているかのように、小林と徹は泣けない。
置いて行かれたものばかり抱えていた。
それを手放すすべを、知らなかったし、知りたくなかった。
季節が廻り、月が満ちて欠ける。
太陽が昇って沈んで、潮が引いて満ちいく。
そんな当たり前の中で笑う人はもういない。
どれだけそれらの景色が美しくても、美しいと思う景色に、彼女も彼ももういない。
「あったことは、なかったことにはできないんです。わかっているんですけど、僕は、何も覚えていなかったから」
その通りだ。
それは当たり前のことで、そんな当たり前を、小林も徹も、うまく乗り越えることができない。
ぐう、とのどが鳴りそうな気がした。
目は熱くて、泣きそうで、けれど涙はこぼれなかった。
「・・・そ、な・・・そんな、ありがとうは、俺が言うべきで・・・」
小林はうつむいて、言葉を探した。
(ああ、どうして)
小林は苦しくて、息ができなくなりそうだった。
こんなに、徹と小林はわかり合っている。
苦しみも、その感謝も、小林にはよくわかった。
感謝したいのは、小林のほうなのだ。だからそのありがとうは、徹に送られるべきで、小林が送るべきだった。
(ああ、)
ずっとずっと、思っていた。
(どうして)
徹といると楽だ。
徹は、小林のことをよくわかってくれている。
だというのに。
こんなに楽で、美しい景色すら共有したというのに。
(どうして)
徹では、こんなにさみしいのだろう。
と。
(こんなにさみしい・・・)
小林はその事実が、悲しくて仕方ない。
(このひとだったらよかったのに)
どうしようもないと、小林は顔を歪めた。
こんなにこの人は、小林のことを知っていて、小林もよく知っている。共有できるものはきっと、井村よりもたくさんあるはずなのに。
ひゅ、と息をのんで、小林は、徹の顔を絶望的に見つめた。
眼の柔らかさが、小林が忘れられない人たちに、よく似ていた。
「とおる・・・とおるさん、俺は、俺は本当に」
徹は静かに、小林の言葉を待ってくれた。
それが苦しくて、言葉にならない。
どうしてだと、強く強く思う。
この人で、寂しさをぬぐえたらよかったのにと、強く思った。
「・・・あなたが、すきなんです」
ようやく口にした思いは、苦しさにのど元を締め付けた。
「そうですね」
その同意は、まるで当たり前のことを聞いたような口ぶりだった。
「そうですよね。僕も、小林さんが好きです」
でも、あなたではない、と徹は静かに拒絶を突き付けた。
すきだけれど。
あなたではない。
恋人という関係にはなれないのだと、はっきりと、口にする。
(どうして)
まるで間違いのようだと小林は思った。
「・・・っ」
この人ならば、と思う。
徹がいいと、小林は思う。
徹をあいしたかったし、あいされたかった。
そうすれば、こんな思いはしなくて済むのに、と小林は顔を歪めた。
息が苦しくて、呼吸の仕方が分からなくなることなんてない。どうしていいかわからなくて遠くへ逃げ出さずに済む。誰かを捨てるなんて選択をしなくていい。
捨てるなんて、ひどいことをしなくてもいいのに。
「どうして、」
目の前のあなたではなくて。
あいつなんだ。
あいつでないと。
と。
そんなことを思うんだ。
ぐしゃぐしゃに心臓をつかまれたようで、小林は言葉を探した。納得のいく理由が見つからなくて、きちんとした理由が欲しくて、首を振る。
「そのどうしてを、・・・」

「きっと、恋と呼ぶんでしょう」

ふ、と面白そうに笑った一言に、小林の心臓はぐさりと刺された気がした。
「うん、そうですね。きっと、どうしてが、恋なんですね」
顔を上げた小林を、徹は眼を細めて見つめていた。
「あなたは、恋をしているんですね」
その一言で、徹がひどく遠くに行ってしまった気がした。
「とおるさん、」
「・・・そんな顔をしないでください」
徹は困ったように、小林の顔を覗き込んだ。小林よりも頭一つ分高いひょろりとした男は、吐息が触れそうなほど近くに、顔を寄せて見つめている。
「ねえ、覚えていますか。僕と逃げたら、井村さんとの別れ話、考えてくれるって」
小林は隈の残る顔色の悪い男の顔を見つめた。目を見開いて見つめる小林に、徹はこつりと額を寄せる。
「考えてください。そんな顔は見たくないんです」
でも、と震える声で、小林は腕を上げた。
縋るように、首に手を回して、抱きしめる。
「でも、苦しいんです。俺が知る恋は、もっときれいで、こんな苦しみはなかったはずなのに。何も甘くない。にがいばかりで、ひどいことだらけ、くるしいだけな、こんな、」
こんなものが。
恋と呼ぶのかと。
小林は、まだ信じられない。
「・・・あなたがよかった」
あいしたい、とつぶやいた声は、海風に溶けていった。
「・・・苦しくても、いいんじゃないですか」
徹は、あたたかくはなかった。
海風に吹かれて潮交じりの香りが吹き抜ける。
体温は解けてはいかなくて、徹と小林はどこまでも二人きりだった。
「だって、どうしようもなく、あいしているんでしょう?」
自分ではだめだろうと、徹に言われている気がして小林は身じろいだ。
徹は少しだけ顔を離して、困ったように眉根を下げた。
「徹さん、だって」
「困った人です。・・・じゃあ、これでいいですか」
ふ、と唇に、柔らかいものが触れた。
伏せられたまつ毛は、顔に影を落としていた。
よく見ると一重で、線がきれいな顔なんだと、小林は場違いに思う。がさがさの唇は不健康さが露呈していて、小林は世話をしたくなってしまった。
「・・・」
触れただけで去っていく口を眺めていれば、徹はやはり困ったように、そしてはじめて見たように口元を引きつらせた。口元は歪ながらも辛うじて笑みの形を作った。
「ああ、殺されるぅ・・・」
がっくりと頭を落としながら、首に回った小林の腕を外して、一歩、距離をとった。
「とお、」
「きちんと、考えてください。あなたの恋を。僕との逃亡は、いったん休憩です」
はい、と徹は何かを差し出した。小林は細い腕が差し出したものを反射で受け取る。それは、折り畳み式の携帯電話だった。
「逃亡は、いつまでしたいですか?」
まるで、もう茉李の傷がふさがりつつあるのを見透かされた気分だった。茉李のことは何も忘れたくはなくて、同じように箱崎のことも、忘れたくない。
小林は忘れたくないことがたくさんあった。
徹との逃亡は、忘れたくないものに茉李を数え入れることになっていた。
その事実が、小林を打ちのめす。
そんなことにするつもりはなかった。傷は傷のままの予定だったのだ。かさぶたになる予定は、小林にはなかった。
「・・・」
「僕、少し仕事があるので、あなたのそばを離れます」
でも、ここにいてくださいね、と徹は眉根を寄せた。
彼は憂鬱そうな顔をして、少しうつむく。
「その携帯には、井村さんの携帯の番号が入ってます」
「これ、・・・」
「僕、すぐ戻ってきますよ。本当は、朝言うつもりだったんですけど」
徹はそっと、人差し指で口元に触れた。それが先ほどの触れるだけの口づけを意味するのだろうと、小林でも理解できた。
「連絡してもいいですよ。あなたはあなたの思うままに、していいです」
じゃあ、またと、放課後別れるように、徹は背を向けて歩き出した。その背が小さくなるのを見つめ、小林は海の向こう側へと視線を移した。
朝が、すぐそこまで来ていた。日差しは見えていたが、まだ日が昇っていなかったのだと、小林は水平線を眺めて立ち尽くした。

忘却のあいだと幸福のありか

忘却のあいだと幸福のありか

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更新日
登録日 2020-07-05

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