【中編】夜のカフェテラス(5) 原稿用紙191枚

【中編】夜のカフェテラス(5) 原稿用紙191枚

完結作品。201911完成。

(5)

 妹が帰ってきて、程なくして父さんも帰ってきた。七時頃だ。みんなで夕食を始めて、父さんは先に風呂に入ってから途中で席に着いた。父さんが向かいに座って、少し僕は緊張した。下ばかり見てカレーを口に運び、分からないようにまたちらちらと父さんを盗み見た。妹は陸上部で、タイムが伸びないと愚痴をこぼしていた。あちらの世界でも妹は陸上部だったが、こんなに部活に熱心ではなくて、帰る時間ももっと早かったはずだ。同じ中学の同じ陸上部だから、どちらかが部活の終わる時間が早かったり遅かったりするはずがないから、あちらの妹は一体どうしていたのだろうと不思議に思った。
「中学もテスト期間だろ、まだ部活があるの?」と僕は妹に話しかけてみた。妹は表情を明るくして、「そうなんだよ、冬も大会があるから、うちの部活はまだ引退もないしね!」と快活に答えた。やけに素直に受け答えするので、僕は少し面食らった。あちらの世界の妹は、「キモい」と「ヤバい」、「ウザい」だけで、ある程度の会話を成立させるという特殊技能を持っていたのだ。「大変だね」と僕が感想を漏らすと、「お兄ちゃん、また勉強、教えてよ!」と言った。前の世界では「兄貴」と呼ばれていたので、僕はひそかに身震いした。そういえば昨日の初穂も勉強を教えて欲しいと言っていたのを思い出した。やけに教えを請われるのを僕は不思議に思った。その時の僕は、そうやって求められる理由が分かっていなかったのだ。
 父さんは始終、何も言わないでニュース番組を見ていた。父さんが食事を終えると、黙って母さんがビールを出して父さんの前に置いた。そして父さんはまた何も言わずにビールをゆっくりと喉に流し込んだ。母さんは飲まなかった。父さんと一緒に黙ってニュースを見ていた。あんなに酒が好きだったのに、と僕は思った。なんとなく僕はそれを懐かしく思った。本当にみんな別人みたいだな、と思った。テレビが中東の情勢について報道すると、「自衛隊の人もこれからまた大変かもしれないなあ」と父さんが小声で漏らして、それに応じて母さんも「そうねえ」と小声で呟いた。
 実はその時、僕は何かを父さんに話しかけてみたいという衝動に駆られていた。が、何故だかそれができないでいた。きっかけの一言が口に出せなかったのだ。何を話したってよかったはずだ。確かにいざとなると具体的な話題も浮かばなかったし、緊張だってあった。ただそれよりも、なんとなく父さんと母さんのあいだに成立する空気のようなものが感じられて、それが話しかけてはならないような気にさせられて、躊躇してしまったのだ。父さんが今度は児童虐待のニュースを見て「親になる資格がない」と呟くと、母さんは何も反応しないで、黙って同じテレビ画面を眺めていた。
 部活で汗をかいていた妹が先に風呂に行き、母さんは洗い物を始めた。そして父さんと僕が残った。ようやく父さんと話せる機会が訪れて、僕は喜んだ。しかし、これといって話題もない。何を話したらいいのか、よく分からない。迷いに迷って、「父さん、仕事は順調なの?」と、取って付けたような何の興味もない話題を振って、それだけで何か失敗したような気分になった。
「ああ? 普通だよ」と父さんはよく分からないという顔をして言った。「何だよ、急に」
「いや、いつも仕事、大変そうだなと思って」
「別にそんなでもねえよ」と父さんは言った。「やることやってりゃ、大概なんとかなるからな、責任さえ負ってれば」
 それからまたしばらく無言の時が流れて、テレビの音と、母さんが片付ける食器の重なり合う音だけがした。父さんはおもむろに立ち上がると、何も言わないでリビングから出て行った。その動作の一部始終を観察してから、僕一人が何もしないでリビングに残っているのに気付いた。父さんはトイレか何かに行ったのかと思って、戻るのを待ったが、一向に戻ってくる気配はなかった。しびれを切らした僕は、父さんはどこに行ったのかな、と母さんに声をかけてみた。
「ええ? 歯を磨いて、寝室のマッサージ機でしょ。それが済んだら、いつもそのまま寝ちゃうじゃない」
 テレビはずっとニュース番組が流れていた。キッチンで水の流れる音がする。僕はなんとなくそれほど興味もないバラエティー番組にチャンネルを変えて、足を投げ出してそれを見ていた。その番組は地方の珍しいルールのある学校に潜入という企画を組んでいて、若手の芸人がそれを騒ぎ立てていた。それほど面白いわけではなかったが、見ている内にあんまり馬鹿げているので、ははははは、と釣られたような気のない笑い声をあげた。
「珍しいわね」と母さんが変なものを見るような目で言った。「そんなテレビを見るなんて」
 何が珍しいのかよく分からなくて、笑った際に開いた口のまま、僕は母さんを見ていた。やはり母さんは同じ目をしたまま僕を見ていた。その空気に耐えられずに、僕は「下らないんだよ、この芸人」と真顔で言ってみた。
「そうなの」と母さんは言うと少し迷った様子で、それからまた家事を続けた。「まあ、たまにはいいかもね」
「今から勉強するよ」と非難されているように感じた僕は言った。
「お任せします」と母さんは言った。「ほどほどにね、体を壊してもよくないから」
 自室に向かう途中、階段の前で風呂上がりの妹が「お兄ちゃん、お風呂、空いたよ」と言った。素直な妹に慣れなくて、「後で」とだけ言うと、僕は階段を上っていって自室に入った。それから勉強机の前に座ると、母さんの態度がどういうことなのかを考えてみた。考えても、何かおかしなところがあったようには思えなかった。「珍しいわね」と母さんは言った。こちらの世界のボクはあまりテレビを見なかったのだろうか。環境の差で多少は趣味が違ってくることもあるのかもしれない。気分転換にスマホで動画でも見ようかと思ったが、極端に成績を落として赤点や補習になるのはさすがに嫌だったので、それはやめておいて代わりに参考書を本棚から取り出すことにした。しかし本棚の内容が、入れ替わる前の、あちらの世界の内容とはずいぶん違っている。大量の問題集や参考書、それからサイエンス系の雑誌も揃っている。僕はその雑誌の内の何冊かを適当に取り出して、ぺらぺらとページをめくってみた。量子コンピューターやニュートリノ、最新の遺伝工学といった様々な特集が組まれていた。
 そういえば必死になって古本屋を回って揃えた、往年の少年漫画全巻がない。そちらの方が僕にとってはショックだった。馴染みのある本が見当たらなかったので、学校での教材を漁って僕はテキストやノートを取り出した。そしてそのノートをしばらく眺めていて、あることに気付いた。
 書いてある内容は入れ替わる以前に、僕があちらの世界で受けていた授業の内容と同じだった。ノートに書いてある筆跡もそれほどきれいなわけではない。それは確かに僕の字だったし、場合によって普段、僕が書いている字よりもかえって雑なくらいだった。それはいいのだが、その入れ替わる前のボクが書き記したそのノートの、ページを順によく見ていくと、授業の内容がかなり正確に、余すところなく要点が書き写されていた。しかもただ書いてあるだけはない。考えた痕跡のようなものが随所に垣間見えて、よく整理されていた。どの教科のノートも同じで、抜かりない。緊張感さえ伝わってくる。几帳面なものだな、と僕は他人のノートを見るような気分で思ったものの、そこにある字はやはり紛れもなく僕のものなのだ。
 その日の晩は、勉強をするというより、ただただこちらの世界にいた入れ替わる前のボクの足跡を、ノートの上に追い求めて夜が更けていった。

【中編】夜のカフェテラス(5) 原稿用紙191枚

(6)へつづく

【中編】夜のカフェテラス(5) 原稿用紙191枚

  • 小説
  • 掌編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-07-02

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