【中編】夜のカフェテラス(4) 原稿用紙191枚

【中編】夜のカフェテラス(4) 原稿用紙191枚

完結作品。201911完成。

(4)

 父さんがいるのといないのとで、人生にどれほどの違いが生じるのか、正直に言って僕には想像もつかなかった。が、初穂と話して父さんが生きてそこにいる理由がはっきりすると、いまだ信じがたい気持ちはあるものの、自分や世界を疑うような胸の内の混乱はなんとか収束してきて、一方でどこか楽観的な気分さえ持ち始めていた。それはたとえ環境がどれほど違ったとしても、僕という人間の持って生まれた能力は一定であり、また外的要因に左右されない確固とした自己、つまり先天的な個性というものがあるはずだと信じていたからだ。もっと簡単に言うと、どこにいたって僕は僕だ、そんなに違いがあるものか、と考えていた。だから些末な違いはあるものの、乗り越えられないような途方もない困難があるとは到底、思えなかった。
 周囲の人達においても、僕「入れ替わり」をしたとは気付かないのではないかという気がした。確かに僕にとっては突然、父さんが表れて狼狽し、混乱をきたしたわけだが、考えてみれば父さんの側からすれば、変わらず僕はずっとそこに息子としていたわけだ。こちらの世界の母さんや妹、クラスメイトにしたってそれは同じだ。彼らがすごしてきた日常に、僕がこっそりと入っていって、人知れず途中で中身だけ入れ替わったとしても、一体それを誰が気付けるというのだろう。彼らにとっては表面的には何も変わらない。しかも入れ替わったのは別人ではなく僕自身だ。僕が僕自身と交代したのだ。それが問題になるはずがないではないか。
 父さんを初めて見た時に、僕はその父さんをどう扱い、どう考え、どう向き合うかを最初に考えた。しかも父さんが何故そこにいるのかという根本的な疑問が残ったまま、それもないまぜにしてひどく混乱した中での話だ。しかし、それは間違いだった。どう向き合うか。僕が何故この世界にやってきたのかは分からない、が僕にとって父さんという存在の意味がとても大事なのは確かだ。大事ではあるが、きっとそれはもっと後の話なのだ。まずはこの世界に溶け込むことを先に考えなければならないのだ。きっと何も考えなくても自然と生活できるところまでいって、ようやく見えてくる種類の問題なのだ。そのためにはやはり、初穂の言う通り、あちらの世界とこちらの世界との違いを知り、一つずつ解決していくしかない。
 その機会はすぐにやってきた。まず驚いたのが母さんが家にいたことだ。
 
 母さんが家にいること自体は何もおかしくはない。こちらの世界にやってくる前にも、母さんはこの家で寝起きしていたし、毎日顔を合わせてもいた。しかし初穂に「入れ替わり」の話をした翌日、学校から家に帰ってきた僕は、母さんを見てひどく驚いてしまった。
 リビングに正座して洗濯物を床に畳んで並べていた母さんは、ぽかんとした顔をして立ち尽くす僕を見ていた。日の当たった窓のレースがやけに明るく感じた。母さんのうしろにあるテレビでは、ワイドショーが人気俳優の不倫について報道していた。所属事務所から届いたファックス全文をこれから検証するそうだ。
「あれっ、仕事は?」と僕は、しばらくの無言の後に言った。学校指定のバッグをまだ肩にかけたままで、呆然と立ち尽くしていた。リビングには仏壇がなくて、いつもより広々しているように感じられた。
「今日は早いんだね」と僕は言葉を換えて話しかけてみた。「ただいま」
「おかえり」と母さんは眉をひそめて言った。「何、早いって? 家事はいつも通りよ」
「そうみたいだね」と僕は適切な言葉も分からずに言った。「勉強するよ」
 状況が飲み込めないまま僕は階段を上がり、自室に入った。それからこちらの世界での母さんは外で仕事をしていないのだと思い当たった。僕の知る母さんは「ヤクボ大海生命保険」という聞いたこともない保険会社の外交員を仕事にしていて、残業が当たり前で、帰りは夜の九時か十時がほとんどだった。小学生までは朝、余裕があれば母さんが晩ご飯を作り置きしてくれていたし、用意ができない時には夕食代が置かれていて自分達でコンビニ弁当を買って食べていた。中学生にもなると、ほとんど自分達でなんとかするようになって、適当に外で買って食べることもあれば、野菜炒めだとか適当な料理を作った時には、母さんの分も含めて用意しておいて、「ご飯あるよ」と携帯に連絡を入れておくのが常だった。
 スーツ姿の母さんは夜、帰宅すると座卓の前に潰れて座り、その座卓の上に体を投げ出した疲れ切った姿で、伸ばした腕の先に握った缶ビールを、たまに起き上がってちびちびすすっていた。その横で僕や妹は、母さんが帰る前から流していたテレビの、適当なバラエティー番組を見ているのだが、「そのうっさいの、消してくんない? 疲れているから」と決まって母さんは潰れた格好のまま、座卓の天板に向かって言うのだった。言い争いもしたくないし、疲れているのも分かっている僕達は、素直に従ってテレビを消すと、「ご飯、食べたら? あるよ」と声をかける。すると母さんはまた座卓の天板に向かって「あんがと」と言ったきり、やはり動かないのだ。
 酒が入ると母さんは時々、「何よう、あの殺人級のノルマはよう、できっこないわよう」と言ってしくしく泣くことがあった。そして「人が減ったらその分、プラスオンて頭おかしいだろうがよう」とそれがしばらく続くのだ。泣かれるとさすがにやかましく感じて、「食べないなら、風呂でも入ればあ?」と声をかけるのだが、そのまま風呂に向かうこともあれば、時には「何だよ、冷てえなあ、それでも息子かよう。もっとやさしくしてくれよう」と言って余計に泣くこともあった。
 そういう母さんをいつも見ていたから、平和そうに洗濯物を畳む姿はあまりに大きなギャップがあって、僕は驚いてしまったのだ。自室に入ると僕は床にバッグを放り投げて、ベッドに寝転んだ。そしてこの世界に体を馴染ませるようにしばらく布団の上でうつ伏せになって、気持ちを整理した。
 この前日にあたる、初穂に「入れ替わり」を話した日は、帰りが遅かったために、母さんが働いていないことに気付かなかったのだ。僕は初穂の両親が帰ってくる少し前まで初穂の家にいて、「また明日」と初穂と別れた後も、すぐに自宅に帰る気がしなくて、街を徘徊してコンビニや本屋で時間を潰していたのだ。自宅には「ご飯は外で済ませる」と携帯アプリで連絡を入れておいた。やはりどういう顔をして父さんに会ったらいいか分からなかったのだ。ようやく夜遅く家に帰ると、「ただいま!」と言ってすぐ、そのまま風呂に直行した。そして風呂を出ると、二階の自室に逃げ込むように入って、それから朝まで出て行かなかった。玄関から風呂までの途中、すれ違いざまに座卓に座る父さんの背中を見て、「いる」と僕は思った。
 朝はさっさと支度をして家を出たから、父さんと何かを話すこともなかった。朝食をとっているあいだ、父さんと一緒にいる空間に緊張はしたが、特別に何か会話をしなければならないような必要性はなかった。だからただ黙って朝食を掻き込んだ。その朝に父さんの声を聞いたのは、朝食を食べ終わった時の「ご馳走さま」という言葉くらいだった。その日は父さんより先に家を出て学校に向かった。家に帰ったらまた父さんがいる。そのことばかり考えて帰宅したら、今度は家にいる母さんを見たのだ。
『これから君は、お父さんのいる人生と、お父さんのいない人生の、何が違うのかを自分の目で確かめていくんだよ』と初穂は言っていた。それは努めて意識するたぐいのことではなかった。ただ日常をすごしてさえいれば自ずと目の当たりにし、そしてその新しい人生に自分の体を少しずつ馴染ませていかなければならないはずだった。土から出て皮を脱いだばかりの、風に震える小さな虫のように。
「いい?」という声とともにドアがノックされて、ドアが開かれた。その時、僕はベッドに寝転んだまま今度は仰向けになって、天井を仰ぎ見て一つ息をついたところだった。突然、ドアが開いたことに驚いた僕は、ベッドに肘をついて跳ね上がるように半身を起こすと、ほとんど反射的に背後のドアを見た。母さんだった。
「何!」と僕は自分でも思いの外、大きな声で言った。「どうかしたの!」
「どうも何もないわよ、声をかけても返事がないんだから」と言って母さんは部屋に入ってきた。「お茶どうぞ」
「お茶? わざわざお茶を持ってきてくれるの?」
「何、お茶じゃ嫌だった? 珈琲か何か淹れ直す?」と母さんは言って部屋を見回した。「勉強をしていたんじゃなかったの?」
「いいよそのお茶で、また喉が渇けば自分で勝手に飲むし」
「ああ、そう」と不思議そうに母さんは言った。「何よ、まだ着替えてもいなかったの? そんな格好で寝転がって、制服が皺になるじゃない」
 やけに口やかましくなったなと思ってふてくされる僕を、母さんはじろじろと見ながら勉強机にお茶を置いた。
「急にだらしなくなったわね、昨日も帰りが遅いし。昨日はどこにいたの?」
「どこでもいいじゃないかよ、友達の家だよ、詮索すんなよ」
「何よ、急に口まで悪くなって、何か嫌なことでもあったの?」
「何もねえよ、うっせえな」
「お茶、ここに置いておくからね!」
 門限のあるいいところのお嬢様じゃないんだから、急にがたがた言うんじゃねえよ、と僕は思った。が、僕にとっての母さんと、今そこにいた専業主婦の母さんが違っているように、母さんにとってのこの世界のボクと、今ここにいる僕は違っているのだと後になって思い当たった。だから口やかましくなったというよりは、この世界の母さんなりにボクの変化を目の当たりにして、困惑していたのだとようやく理解できた。そう考えると、不用意に困らせたのを申し訳なく思った。それに、僕がこの世界のボクと入れ替わった事実を、そのような不用意な言動から、意図せず悟られるのは僕としても不本意だった。生きている父さんを前にした僕にとっての問題より先に、この世界に生きる、入れ替わる前のボクの生活があった。それを成立させなければ、たとえそれが遠回りであっても、結果的に深く今回のことを考える余裕も手に入らないだろう。
 階段を下りて、キッチンで晩ご飯の支度をする母さんの隣に立つと、僕は冷たいお茶の入っていたグラスをキッチンの天板に置いた。母さんは手早い動作で野菜をざくざく切りながら、グラスを置く僕の動きを横目に見て、「なあに、おかわりなら冷蔵庫の中」と言った。
「さっきは、ごめん」
「何よ、あらたまって」と母さんは手を止めて笑って言った。「そんな大したことじゃないわよ、あんなの。今度は急に心配性になったの?」
「疲れていたんだ、テスト前だからさ、緊張もあって」
「まあ、がんばりなさいよ」
 そう言って母さんはまた料理にとりかかった。しばらく僕は母さんを眺めていた。そうしようと思って、そうしたわけではない。なんとなく見てしまったのだ。それは僕の知る母さんと、目の前の母さんは違うのだと気付いたために、無意識にそうしてしまったのだと思う。母さんは僕が知るより、こぎれいに見えた。というより、疲れた顔も気を張った顔もしていなかった。僕の知る母さんの顔は、そのどちらかだった。中間がないのだ。とにかく搾り出すように働くか、燃料切れで止まってしまうか、ほとんどそのどちらかだった。目の前の母さんは違う。子供も大きくなった平和な家庭で、ただ家事をこなしていた。体型はあまり変わらなかった。どちらの母さんも中年太りで、しっかり腹に肉を蓄えていた。あんなに忙しなく働いていたのにどうしてだろうと、それを僕は不思議に思った。おそらく酒と間食のためだろう。母さんはよく夜中に酒を飲んだり、嫌なことがあると文句を言いながらバリバリと音を立てながらポテトチップスを頬張ったりしていた。いくら必死で動き回っても、あれでは痩せるのは難しいだろう。
「何よ、まだ何かあった?」
「ごめん」と僕は言った。「何を作っているのかなと思って」
「お惣菜の唐揚げに、カレー」と母さんは言った。「手抜き」

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(5)へつづく

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  • 小説
  • 短編
  • SF
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-07-02

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