獣の国の王子様

 卵土(ランド)。
 果てなき闘争に明け暮れる世界。
 しかし、荒涼たるその地にいま〝転機〟が訪れようとしていた。
 姫――
 仕える騎士に無限の〝騎力〟を授けるとされる伝説の存在が、長き時を経て卵土に帰還したのだ。
 各国が動いた。
 その中でも活発な動きを見せたのが、二大軍事国家と言われる〝機印(キーン)〟と〝牙印(ガイン)〟だった。それぞれ『械騎士(かいきし)』『獣騎士(じゅうきし)』と呼ばれる異形の騎士を擁する彼らはこれまでも衝突をくり返し、その争いに巻き込まれる形で多くの小国が滅んでいった。
 そんないつ踏みつぶされてもおかしくない小国の一つ――いや国とも呼べない自治都市に姫がいるという報せが牙印の王のもとに入ったのは半月ほど前のことだった。
 すぐさま奪取の命が下された。
 荒々しい獣を駆る獣騎士の部隊がその自治都市へ攻めこんだ。
 強国の精鋭として各地を蹂躙してきた猛者たちだ。小さな一都市などそれこそ歯牙にかけるという言葉さえ大仰なほど簡単に落とせるはずだった。
 はず――だったのだ。


× × ×


「なるほど」
 報告を受けた牙印王は、酒杯を手の内で転がしながらにぶい息を吐いた。
 手の内――正確には指の内と言うべきか。
 巨漢だった。
 絨毯にあぐらをかいて座っているその姿だけでも、十数人の男が入ってなお余裕がある天幕のその天井に頭が届くと思わせる圧迫感があった。
「ぶふぅう」
 空気に酒臭が満ちる。
 使者の男が身をふるわせる。彼はそんな自分の動揺を押し隠しつつ、
「姫はほぼ我らの手中に落ちていました」
「ふむ」
「ですが、思いもかけないことに」
「………………」
「思いもかけないことに……その……」
 直後、
「言え」
「……!」
 いつ近づいたのか。巨体が視界を圧する位置にあった。
「手短に。簡潔に」
「は、い……」
 もはやふるえを抑えられないまま、
「姫は奪われました。仮面をつけた男に」
「無駄」
 ぱちゅっ。
 果実のつぶれるような音を立て、男の頭は牙印王の指につままれはじけとんだ。
「!?」
 我に返る。
 あたふたと自分の頭と顔とをなでさする。
「あ……」
 錯覚――
 いや、それがいつ現実になってもおかしくない〝気〟がそこにはあった。
「ひ……ぃっ……」
 悲鳴まじりの息をもらし、それでも最低限の礼は失してはならないと、男は王に向かって頭を下げつつ天幕の外に出ていった。


「ぶふぅ」
 王は、元いた場所に座り直した。
「………………」
 無駄だ。まったく無駄だ。
 あのような報告などいらない。姫を連れてくるようすでに命令は下した。ならば、そのためにただ動けばいい。
 うまくいかなければ、うまくいくよう手を尽くせばいい。
 それだけの話だ。
 こちらは察する。期日を越えても姫が届かない段階で不手際が起こったのだろうと。
「ぶふぅ」
 情けない。その思いのこもった息がもれる。
 獣騎士は獣と一つになる者。
 心はどこまでも獣に近づかなければならない。
 獣とは、決して乱雑でも野卑でもない。
 冷徹――
 目的のため一切の無駄を許さない厳しさがなければ、過酷な世界で生き延びることなどできはしない。
「ぶふぅ」
 皮肉である。
 自分たちと同じ厳しさをもって卵土における覇を競っているのが、獣の世界から最も対極に位置する機械の国であるというのは。
「それが理というものか」
 そのときだ。
「王!」
 入口の布を上げ、大きな影が天幕の中に入ってきた。
 巨漢である。
 並外れた体躯の王にはさすがに劣るが、そこには王にない若く清々しい生気が満ちあふれていた。
「行かせてください!」
 単刀直入。まさに獲物を前にした獣の敏速さで男が言う。
 王は――
「………………」
 眉を軽く上げただけで何も言わなかった。
 若き巨漢は、くっと言葉に詰まるも、
「行かせてください」
 くり返す。
「姫の奪取に失敗したと聞きました。自分でも力になれることがあれば」
「ない」
 一言。それで話は終わったというように、王は指間の杯をかたむけた。
「く……」
 悔しげに唇をかみしめていた彼は、しかし、そうしていることが無駄だとわかったというように天幕から出ていった。
「ぶふぅ……」
 酒臭い息だけが残った。


「行くぞ、ティオ!」
「おやめください、若」
 主人である少年ジュオを、サーベルタイガーのティオが落ち着いた口調で制する。
 少年――
 ジュオはそう呼ばれる年齢だった。
 事実。顔には年相応の幼さを残している。しかし、その身体は少年と呼べるものではない。下手な成人を上回る背丈。それも常人でなく、牙印の獣騎士たちの間にあっても見劣りがしない。引き締まり力強く盛り上がった筋肉も同様で、実際ジュオとまともに力比べできる者すらわずかだ。
 加えて、騎士としての鍛錬を欠かさない。
 物心ついたときから騎士槍を手にしていた彼の肉体は、これ以上ないほど戦士として磨き上げられていた。
「………………」
 無言のまま、ジュオは己の騎士槍〝双牙(そうが)の槍〟を握りしめる。
 持ち主同様に長大なその槍は、両端に反り身の穂先がついているという他にない騎士槍だった。そう、ちょうどそれは目の前にいるティオ――サーベルタイガーの牙をそのまま組みこんだような見た目だ。
「ティオ」
 愛馬――でなく愛虎であるティオの頭に手を置き、
「俺は行くんだ」
「だめです」
 目をそらすことなく。同じ言葉をくり返す。
 ぐっ。
 ティオの頭をつかむ手に力がこもる。
「なぜ、だめなんだ」
 ぐぐぐ……さらに力がこめられていく。かすかに顔をしかめるも、しかし、ティオは目をそらそうとはしなかった。
「っ」
 不意に。我に返ったように手を離す。
「ティオ……俺……」
 巨体の自分をも乗せられるたくましい身体におろおろとしがみつき、
「大丈夫だったか……」
 何も。ティオは言わなかった。
 しかし、確かに伝わってくる優しい想いをジュオは感じ取る。
「ごめん……」
 年相応のあどけない謝罪に、
「がる」
 ティオはただ微笑みで返した。
「けど……けど……」
 ジュオは、これもまた年齢にふさわしい聞き分けのなさで、
「姫を連れてくるのがうまくいかなかったんだ」
「がる」
「仮面をつけた騎士が邪魔したらしい。なんだよ、それ。わけがわからないだろ」
「がるがる」
「だから、俺にも」
 はにかむように口ごもりつつ、
「俺にも……できることがあるんじゃないかって」
 再びティオが沈黙する。
 その沈黙の意味するところがわからないわけではない。ずっと一緒に兄弟のようにして育ってきたのだ。
 しかし、ジュオは自分の感情を止められない。
「俺にだって」
 涙がにじんだ。
 情けない。そう思えば思うほどかえって涙が止まらなくなる。
 こんな姿はティオにしか見せられない。いや、彼にだって見せるのは恥ずかしい。
「俺はもう子どもじゃない」
「がる……」
 困ったような吐息が聞こえる。それでも止まらず、
「どうしてだめなんだ! 俺は……俺はもう一人前の騎士なのに」
 何を言うべきかと戸惑う気配が伝わってくる。
「くっ」
 牙印では、槍を手にできたものは即騎士と見なされる。
 手にできるといっても、常人では持ち続けることすら困難な騎士槍だ。それを使えるということは、すなわち騎士の資質があるということを示している。
 そして、ジュオにはすでに己の槍がある。
 なのに――
「……ごめん」
 狂おしい思いの中、再び謝罪の言葉を口にする。
 ティオは何も悪くない。そんなことはわかっている。主人である自分のことを想って止めてくれているのだから。
「でも」
 唇が噛みしめられる。
 今度のことばかりではない。
 ジュオは、これまでずっと騎士としてあつかわれないできた。
 重要な任務や侵攻に限らず、戦いと呼ばれるようなものをほとんど経験させられないままできた。
 すべては牙印王――実の父の判断によるものだ。
(どうして……)
 牙印の王位は血統によるものではない。獣と同じく最も強い者が頂点に立つ。
 ゆえに自分も幼いころから鍛錬をかかさなかった。その甲斐あって、若年ながら他の獣騎士たちに劣らない力をつけたという自負があった。
 なのに、父は――
(もっと……強くなれば)
 槍を握る手に力をこめる。
「行くぞ」
「若……」
「違う」
 努めて冷静な表情を作り、
「鍛錬だ。いつものな」
「……がる」
 ほっとしたようにティオがうなずく。
 その背に飛び乗る。がっしりとした肉食獣の背は、ジュオの巨体を頼もしく受け止めてくれた。
「………………」
 頼もしく――
 ティオのように父もいつか自分のことを――
「……行くぞ」
 己の弱さをふり払うように。
 ジュオはティオの首筋を軽く叩き、人虎一体となって走り出した。


「止まれ!」
 そうするどく言うまでもなく、ティオは荒野を駆ける足を弱めていた。
 飛び降りる。
 ジュオの目は正確だ。
 牙印の者は広い原野を渡りゆく暮らしで視力を鍛えられている。
 そんな彼が視界にとらえたのは、
「おい」
 呼びかける。
 足元にあったのは、行き倒れと思しき男の身体だった。
「おい」
 再び。声をかける。
 もう息絶えているのか――確かめようと顔を近づけたとき、
「!」
 動いた。
「うーん……」
 その男は寝返りを打つようにあお向けになり、
「もう食べられない……」
「は?」
「くらい……食べたい」
「………………」
 寝言だったようだ。
(えっ?)
 かすかながら驚きが生まれる。
 寝言――つまり寝ていたというのか。
 こんなところで。
 行き倒れていたのならわかる。
 ここは人家どころか木陰すらないような見渡す限りの荒野だ。
 そもそも、行き倒れてしまうような旅人自体を見かけない一帯である。
 人目に触れないということでジュオはここを鍛錬の場として選んでいた。隠すような何かがあるわけではないが、そもそも牙印では鍛錬といった〝人為〟なことを馬鹿にするところがあった。鍛錬をする獣などいない。強い者は元から強い。そういった考えが根底としてあるためにだ。
 そういった理由もあって、倒れている(眠っている?)とはいえ自分以外の人間に出くわすのは思いもかけないことだった。
「おい」
 抱きかかえ、三たび呼びかける。
 細い身体だった。
 牙印の者でないことはそれだけでわかった。たとえ騎士でなくとも、獣の国で生きる者にこのようなか弱さは許されない。
 ならば、やはり旅人ということなのだろうか。
 道に迷ったのなら、このような荒野で行き倒れていても不思議ではない。
 行き倒れという空気がまったく希薄ではあるのだが。
「ティオ」
 こうして見つけてしまった以上、放っておくこともできない。ジュオは愛虎を呼び、その背に意識のない――というか眠っている男を乗せた。
「がる」
 かすかに心配するような鳴き声をもらす。
「いい」
 軽く意地のようにそれをはねつける。
 牙印はよそ者を好まない。獣の本能として、同族以外の者を排除対象と見なすことが多いからだ。
「いい」
 くり返し。ジュオは言い、横たえられた男のその後ろにまたがった。

 王都――
 牙印のそれは固定のものではない。
 略奪をもって糧としている牙印という国は、常に新鮮な〝獲物〟を必要とする。果てがないと言われるほど広大な卵土のすべてが牙印にとっては餌場であり、ために国の要である都も一つ所にあったことはない。
 それでも、大国ではある。
 王都の活気ゆえに、常にそこには大きな市が立つ。
 王の住まう国の中枢に相対するように市場は形成され、その外縁付近にジュオが起居する天幕は建てられていた。一人前としてあつかわれないことの悔しさが、王を中心とした獣騎士たちから距離を置かせていた。
「おい」
 寝床にいる男に声をかける。
 最初は医者を呼ぼうかと思った。
 しかし、男のあまりに無邪気な寝顔を見ていたら、とてもそんな気は起こらなくなってしまった。
(こいつ)
 何者なのだろう。
 旅人――と思ったがそれにしてはあまりに荷物が少なすぎる。
 無謀すぎる。
 何の準備もなしで、かつ一人で牙印の勢力圏を行くなど自殺行為と言っていい。
(一人……だったよな)
 あのとき、荒野には目の前の男しか倒れていなかった。見晴らしのよかった場所ゆえにそれは断言できる。
(仲間に置いていかれたか)
 情けなさそうな男だ。足手まといとして切り捨てられたのかもしれない。それなら荷物が少ないことにも説明がつく。
(獣騎士たちに追われて……それで)
 めずらしいことではない。
 牙印の者にとって、旅人など野兎のような格好の獲物だ。多少武装していても、血を高ぶらせるくらいの効果しかありはしない。略奪がより凄惨になるだけの話だ。
 それでも――
 獣騎士たちの行く場所に人々は集まり、そこに街は生まれる。
 理由は単純で、危険を押してでも牙印で商売をすることに利得があるからだ。
 まず牙印の人間は金離れがいい。戦いながら世界の各地を転々としている彼らにとって、余剰の富は行動を鈍らせる元となる。ならばそれらはきれいに使ってしまい、足りなくなればまた奪えばいい。それが基本的な考え方だ。
 加えて、欲望に忠実である。商人にとっての得意客なのだ。
 上納金を収めれば最低限の庇護は受けられるということもあり、こうして行く先々で市場とそこで商売かつ生活する者の暮らす〝王都〟が形成されるのである。
(こいつもそれが目当てで)
 そして運悪く途上で行き倒れたのだろう。
(でも、やっぱり)
 そのような過酷なことがあったにしては、目の前で寝ている男の顔はどう考えてものんきすぎるというか。
「!」
 開いた。男の目がぱっちりと。
「ふわーあ」
 戸惑うジュオの前で、のんきなあくびと共に身を起こす。
「あ」
 ぐうぅ~。
「お腹すいちゃった」
 そう言って、悪びれずに舌を出した。
「………………」
 何をどう返していいのかわからなかった。
「う……」
 見つめられた。指をくわえてものほしそうに。
「お、おい」
 ずうずうしい。
 さすがにそう言いたくなるが、
「くっ」
 見つめられ続ける。たまらず、
「待ってろ!」
 男に背を向け天幕を出た。
「くそっ」
 とんでもないものを拾ってしまった。いまさらながらの後悔が悪態となってこぼれた。


「やあ、兄さん!」
 強い日差しの下、それに負けない陽気な呼び声がジュオの足を止めた。
「……おう」
 言葉少なに応える。
 正直、人と正面から向かい合うのは苦手だ。ティオを相手するようにはいかない。
 声をかけてきたのは顔見知りの野菜売りの男だった。
 荷が崩れて弱っていたところをたまたま助けてやって以来、男はこちらに親しく接するようになっていた。
「どこ行くんだい? 急ぎじゃなけりゃ持ってきなよ」
「う……」
 まただ。
 ジュオは人の頭ほどに大きな西瓜を三つも持たされる。こうして通りかかるたびに何か渡されるのは今日に限ったことではない。
 そのたび、きちんと代金を払おうとするのだが、
「いいっていいって、余りモンなんだ。悪くしちまうより兄さんに食ってもらったほうがいいだろ」
「お、おう」
 口下手なジュオは困ったように眉を下げる。
 そして、男に笑顔でパンパンと背中を叩かれると、西瓜を受け取ったまま小さく頭を下げてその場を去ることしかできなかった。
 すると、すぐに、
「おや、兄ちゃん」
「今日は西瓜かい?」
「だったら、うちのも持ってきなよ!」
「ほら、こっちも!」
「これくらいじゃ足りないだろ? 立派な身体してんだからよ!」
「お、おい」
 あたふたと戸惑っている間に、腕の中は見る見る食べ物でいっぱいになってしまう。
「うぅ」
 正直困る。断り切れない自分も悪いのだが。
 外縁ではあるものの、市場の近くに住んでいるため商人たちと知り合いになるのは仕方ないとは言える。
 しかし、ここまでされるような関係ではないはずなのだ。
 確かに人が集まる場所ではトラブルが多い。しかもここは、牙印のつかの間の宿営地にできた市場だ。荷物がこぼれる、売り台が倒れるといったことだけでなく、荒々しい気性の獣騎士たち相手の商売は常に危険を伴う。
 そのような中、ジュオが何度か危ういところを救ったような形になったことはある。
 といっても、こちらに明確にそのような意思があったわけではない。こちらの顔を見た獣騎士のほうから退散したというのが実状だ。
 王の息子――その権威は他国ほどに大きなものではない。
 しかし、皆無でもない。
 供のような者もなく生活する立場だが、それでも王の子を相手にいざこざを起こしたくないというのは自然な感情なのだろう。市場の商売人相手に乱暴をする程度の下等な騎士なら、権威を恐れる気持ちはいっそう強いはずだ。
 そう。それだけの話なのだ。
 なのに、ここまでしてくれる彼らの気持ちがわからない。
(知らないから)
 その考え方が一番妥当とは思う。
 事実、自分たち普通に暮らす者たちのそばに、他国なら〝王子〟としてもてはやされる人間がいるなどと想像もつかないだろう。
 おそらく、口下手な牙印の若造くらいにしか思っていないはずだ。
(俺はここまでされるような人間じゃない)
 言いたい。しかし、言えないのがジュオという人間だった。
 つまり、
「人気者だね」
「!」
 驚いてふり返ると、
「おまえ」
 にこにこと。天幕で横になっているはずの男の笑顔がそこにあった。
「人気者なんだね。とっても」
「っ」
 面と向かってそんなことを言われ、たちまち顔が熱くなる。
「そ、そんなんじゃ」
「あるよ」
 言い返せない。言い返したいのに。
「ちょっとしゃがんで」
「えっ」
「しゃがんで、しゃがんで」
 この男からせがまれるとなぜかこばめない。
 自分でも納得できないものを感じつつ、ジュオは大きな身体をかがめる。
「いい子、いい子」
「!」
 どさどさどさっ。抱えていた食べ物が足元に落ちた。
「な……な……」
 何をする! とっさにそう怒鳴りそうになるも、
「ふふふっ」
 あまりに無邪気な笑顔を前に、その言葉をぶつけることがどうしてもできない。
「なんだか、したくなっちゃった」
「く……う……」
 照れくささ恥ずかしさと共に、あらためて憤りがこみ上げる。
 子ども扱いするな!
 一体、こちらを何歳だと――
(……う)
 年齢。それで言えば、確かに子どもと見なされてもおかしくはない。
 そして、気がつく。
 子ども扱い。
 それをされたことが自分にはあっただろうが。
 相手を下に見るという意味ではない。〝子ども〟として扱われたことがあったのかと。
(俺は……)
 牙印の王――父にあたたかな眼差しを向けられた記憶がない。
 いつも同じ。
 あの濁った無関心な目を注がれるだけだ。
 母は早くに亡くなったと聞いている。一応、世話をしてくれる者たちはいたが、それも最低限という心のこもらないものだった。
 サーベルタイガーのティオや獣たち。
 そちらのほうにジュオはずっと親しみ、慈しまれてきたという思いしかなかった。
「だめだよ」
 またも不意に。
 笑顔から変わって眉根を寄せた顔がこちらをにらむ。それでも愛らしさというかあどけなさは変わりがなかったが。
「そんな顔してちゃだめだよ。子どもなんだから」
「子っ……!」
 直接その言葉を言われ、さすがに血がのぼる。というか、人を子ども扱いするそっちは何歳なのだと言いたくなる。
 見た目は自分よりもずっと――
(ずっと……?)
 そこで気づかされる。
(こいつ……)
 この男は――一体いくつだ?
「んー?」
 見つめられ、きょとんと首をひねる男。
 まるで子どものしぐさ。
 しかし、そこに子どもと言い切れない〝何か〟をジュオは感じていた。
 年齢不詳。
 一言でいえばそんな存在だった。
「おいおい、大丈夫かい」
 成り行きをあぜんと見ていた周りの者たちが、落とした食べ物を拾ってくれ始める。
「こちらの人は兄さんの……えーと」
 彼らにもわからないのだろう。二人がどういう関係なのか。
「あ」
 ぐうぅ~。
 のんきな音が響き、男が再び情けない顔で腹を押さえる。
「もー、ほら、早く拾って拾って」
「えっ」
 落としたのはそっちのせいだろう。正確には動揺してしまった自分のせいではあるのだが。
「キミのことがかわいいからってみんながくれたんだよ。乱暴にしたらだめでしょ」
「か……!」
 誰がそんなことを言った、誰が!
 と、周囲に笑いの波が広がる。
「かわわいかー」
「確かに兄さん、かわいいとこあるもんな」
「な……!?」
 そんな目で見られていたのか、自分は!
「ほーら、いい子いい子」
「……!」
 またも激高しかける頭を必死に落ち着かせる。
 このままでは、完全にこの男のペースだ。
 とにかくいまはここを離れなければ。それだけを考え、ジュオは落としたものを拾い集めることに専念した。


「わー、ごちそうだー」
「たいしたものじゃない」
 目をそらしながらジュオは言う。
 と、はっとなり、
「もらった食べ物はちゃんとしたものだ。ただ、ごちそうなんてほどの料理ではないと言いたかっただけで」
 天幕の絨毯には、もらった食材を簡単に調理したものが並べられていた。
 事実、たいしたものではない。手がかかっていて焼くか蒸すか。果実のようにただ切っただけというものも多い。
「料理、うまいんだねー」
「そうじゃないと言っているだろう!」
「みんな、おいしそー」
「だからそれは食べ物そのものがいいだけで、俺はたいしたことなんて」
「ある」
 心の隙をつくように。真っすぐすぎるほど真っすぐな目がこちらを見る。
「たいしたことある」
「く……」
 この男は時折こういう顔をする。逆らえない何かを感じさせる顔を。
「たいしたことあるある。みんな、キミのことが好きだからいろいろたくさんくれたんだよ」
「す、好きとかじゃない」
「好きとかじゃある」
 またも逆らえない何かを感じさせつつ断言し、
「で、キミは僕のことが好きだもんねー」
「はあぁ!?」
 顔が火照っていくのを止められない。
「好きだからこんなにおいしそうな料理を作ってくれて」
「ば、馬鹿なこと言ってないでさっさと食え!」
「そうだね」
 男は相変わらずの無邪気さでにっこり笑い、
「いただきまーす」
 能天気に言うと、並べられた料理を手づかみで食べ始めた。横着なわけでなく、牙印では手づかみが基本なのだ。
「フ、フン」
 戸惑いをごまかすように鼻を鳴らし、ジュオは天幕の外に出た。


「おい」
「が、がる」
 すまなそうに頭を下げているティオを前に、
「なぜ、あいつを外に出した」
「がる……」
 ますますうなだれる。
 市場へ食べ物を調達に行く際、ジュオは男のことを見張っておくよう彼に言いつけた。無害には思えたが、万が一、何か不穏なことでもされないようにと。
「申しわけありません、若」
 いつもの折り目正しい口調ながら、猛々しき肉食獣の一族らしく隠し事はしないという態度で、
「止められなかったのです」
「何?」
 サーベルタイガーのティオを押しのけて無理やり出てきたというのか。それほどの力がありそうにはまったく見えないが。
(いや)
 腕力だけが〝力〟ではない。
「何かおかしな術でも使ったのか」
「術……」
 ティオは口ごもり、
「確かに術かもしれません」
「そうか。一体何を」
「………………」
 わずかな沈黙の後、真剣な顔で、
「なでられました」
「何っ!」
 どきっとなる。
「な、なでられただと」
「なでられました」
 くり返し。ティオが言う。
「あの者に頭をなでられるとどうしても逆らうことができず……それで」
「そ、そうか」
「若?」
「!」
 あわてて怒った顔を作り、
「なでられただと! あの男に!」
「なでられました」
「おまえは虎だぞ! サーベルタイガーだぞ!」
「なでられました」
「く……」
 こうも堂々と言われてしまうと続ける言葉がない。
 仕方なく、
「どういうやつなんだ、あいつは」
「不可思議な者としか言いようがないかと」
「それは」
 わかってる! いまではわかりすぎるほどに。
「とにかく」
 動揺している自分を見られたくない。
 強引に話題を切り上げようと、
「あいつの素性をはっきりさせる。どこの者かわかったらそこに送り返す」
「それがよろしいかと」
 うなずくティオ。
 と、その表情がかすかに沈んだことに気づく。
「おい」
「……!」
「未練があるのか」
「未練などと……そのような」
「あるんだろう! あの男になでられることに! いい子いい子に!」
「いい子いい子?」
「っ……な、なんでもない!」
 灼熱する頬を感じながら、あわてて背を向ける。
 だめだ! このままでは自分たちはどんどんおかしくなってしまう。
(さっさと出ていってもらうぞ)
 自分に言い聞かせる。
 そうだ、あの男を拾った時点ですでにおかしかったのだ。
 いまの自分にそんな余裕などないはずだ。
 姫の奪還――
 それは牙印の今後を左右する重大事。いつ自分に命令が下ってもいいよう万全の態勢で待機していなければならない。あのようなおかしな男の相手をしている暇などないのだ。
(出ていってもらう)
 あらためて。心の中で念を押しながら、ジュオは天幕の中に戻った。


「ごちそうさまー」
「な……!?」
 あぜんとなった。
 自分が外に出ていたのはほんのわずかな時間だったはずだ。
「全部……食べたのか」
「うん」
 口の周りをべたべたにしたまま、相変わらずの無邪気な笑顔でうなずく。
「おいしかったよー」
 絶句する。
 あれだけの量を食べ切るのは自分でも無理だ。それをこの男はちょっと目を離した隙に完食してしまったというのか。
「あ」
 嘘のようにお腹をパンパンにした男が、いま気づいたという顔で、
「ごめんね。キミの食べる分、残してなかった」
「お、おう……」
「おっきいもんね。きっといっぱい食べるもんね」
「………………」
 自分よりはるかに小さな身体でとんでもない量を食べつくされた後では、皮肉を超えて冗談にしか聞こえない。
「よし」
 ぱん。手を叩く。
「こうしよう。僕、なんでもする」
「は?」
「キミの言うこと、なんでも聞くから」
「………………」
 またも返す言葉をなくしてしまう。
 目の前のひ弱な男にまともにできることがあるとは思えない。それ以前にしてもらいたいこと自体がない。
「何を言ってるんだ……」
「えー」
 男は困ったような、すねたような声をあげ、
「だーかーらー。なんでもしてあげるって言ってるの」
「なんでも……」
 次の瞬間、
「!」
 とっさに『いい子いい子』のことが思い浮かび、あわてて頭をふる。
「な、何もしなくていい!」
「遠慮しないで」
「いい! するな! 何もするな!」
「息も?」
 子どもか! 怒鳴りつけそうになる。
「まー、努力してみるけど。十秒くらいならなんとか」
「そういうことを言ってるんじゃない!」
 結局、怒鳴ってしまう。
「でも……それじゃ、キミがかわいそうだよ」
「は!?」
 かわいそう? この自分が?
「な、何を。そんなことが」
 ほろり。
「!」
 頬にふれる。涙だった。
「え……」
 なぜ? ジュオは混乱する。
「あ……あ……」
 入り混じった感情があふれて止まらなくなる。かろうじてできたのは男に背を向けることだけだった。
「くっ」
 止めようとする。
 止まらない。
 気持ちも。涙も。
「大丈夫」
「っ」
 抱きしめられた。後ろから。
「大丈夫だよ」
 何が大丈夫だというのか。
 しかし、背中越しに感じるぬくもりは、確かに気持ちを落ちつかせてくれた。
「………………」
 何も言えないまま。その熱だけを感じる。
「……とう」
 自然と言葉が口をついて出ていた。
「ありが……とう」
「どういたしまして」
 にこやかな声と共に身体が離れるのを感じる。
「あ……」
 それを惜しいと思う気持ちが、かすかな息となってこぼれる。
 そんな自分の弱さにまたも戸惑いつつ、それでもジュオは太い腕で顔をぬぐって後ろをふり向いた。
「だーめ」
 笑顔で。男が言う。
「子どもがそんな顔してたら」
「子どもじゃ……」
 子どもだ。ろくに素性もわからない男の前で泣き出してしまうなど、子ども以外の何者でももない。
「だめだよ」
 再び言う。
 と、その目が伏せられる。
「本当に……だめなんだ」
「……?」
 こちらの視線に気づいたのだろう。男は気まずそうに顔を上げ、
「僕ね、昔、失敗しちゃったんだ」
「失敗……」
「そう」
 せつなげに目が細められる。
「大事な息子をね、とっても傷つけてた」
「えっ!」
 目を見張る。
「いるのか? 子どもが」
「うん」
 あまりに簡単にうなずかれてしまい、またも言葉をなくす。
「葉太郎(ようたろう)って言うんだ」
 男は言葉を続け、
「僕は僕なりに葉太郎のことを想ってたんだけどね。気づいたら壊しそうになってた」
「……!」
 壊す。
 目の前の柔和な男から出た過激な言葉がジュオを凍りつかせる。
「だから、今度子どもを育てるときは、ちゃんとその子にとって一番いいことは何かわかるような父親になりたいんだ」
 と――
 慈愛に満ちた目がこちらを見つめ、
「僕の息子になる?」
「――!」
 真っ白になった。
「……む……」
 目の前の情けなさそうな男の? 息子に? 自分が?
「おーい」
 ひらひらと。眼前で手をふられる。
 はっとなったジュオは、高鳴る心臓を押さえつつ、
「な、なんで、俺がおまえの息子に」
「ならないの?」
「な――」
 なるわけあるか! その言葉は、しかし、どうしても放たれなかった。
「くっ」
 なんだ! 何なんだ、この男は!
 そして、自分は一体どうなってしまったんだ!
「名前」
「なんだと!」
 叫ぶと同時に男をにらみつける。
 しかし、男はにこにことした――そこに〝父親〟らしい余裕さえ感じさせる表情を崩すことなく、
「僕の息子は葉太郎って言うの」
「聞いた、それは!」
「だから」
 男の細い指がこちらに向けられる。
「キミの名前。ほら、お父さんが息子の名前を知らないなんておかしいでしょ」
「おかしくなんか」
 おかしい。
「……ある」
「でしょー」
 うれしそうに微笑み、
「僕は森ね」
「えっ?」
「花房森(はなぶさ・しん)」
「な、何が」
「だから、なーまーえ。お父さんの」
「おっ」
 おまえは俺の父親じゃない! しかし、その言葉もなぜか出てきてくれない。
「お、おまえっ……。俺っ……は……」
 何度もつかえつつようやく出たのは、
「……ジュオ」
 ぱぁっと。
 男――森の顔が輝く。
「そうか、ジュオって言うんだ! いい名前だねえ!」
「いい名前……」
 そんなことを言われたのは初めてだ。
「花房樹生(はなぶさ・じゅお)。んー、いいね、うちの子っぽい」
「だ、だから」
 どんどん話を先に進める森にあせあせと、
「な、何なんだ、おまえは」
「んー?」
 きょとんとした顔で首をひねる。この男のこういう通じないところにジュオは怒りをかき立てられつつ、
「何者だと聞いている」
「花房森」
「名前じゃない!」
「お父さん」
「役割でもない!」
「そう、役割じゃないよ。お父さんは『お父さん』っていう」
「そういうことを聞いてるんじゃない! 俺は……」
 にっこり。
「何を知りたい?」
「っっ」
 微笑まれる。
「あっ……だ、だから」
「んー?」
「だから、つまり、俺は」
「んふふー」
 愛らしいものを見る目で見つめられる。
「ジュオはかわいいねえ」
「!」
 爆発した。
「かわいくなんかなーーーーーい!」
 どうしようもなく敗北を悟った瞬間だった。

「はぁぁっ!」
 荒野に力のこもった雄叫びが響く。
「ふん! はあっ! たあぁっ!」
 一突き、一突き。
 ジュオは全身に気合をこめ、手にした〝双牙の槍〟をふるい続けた。
「っ」
 だが視界に森の姿が入るたび、たちまち気持ちを乱される。
「がんばれー、ジュオー」
「っっっ」
 なぜ、ここにいる――
 遅い昼食の後(あれからジュオは市場に戻って簡単な屋台料理で腹を満たしていた)。
 荒野で拾ったこの男は、当然のような顔をして自分の鍛錬についてきた。
 最初は、仲間のところへでも帰るのかと思っていた。しかし、彼は平然と自分たちについてきて、そのまま見物をしているというわけなのだ。
「くっ」
 意識すまい意識すまいとしてきたが、さすがに限界だった。
「おい!」
 荒々しく足を踏み鳴らして森に詰め寄る。
「何なんだ!」
「森なんだ」
「っ……」
 頭に血がのぼりかけるも、なんとかこらえる。
「父さんなんだ」
「誰が! 誰のだ!」
「んふふー」
 にやにやと。当てつけるようにこちらを見られて早くも我慢ができなくなる。
「俺は!」
 ダンと! 勢いよく踏みこみ、
「俺は……俺なんだ!」
「ジュオはジュオだよ」
「だから……」
 その先がどうしてもうまく言葉にできない。
「いい子、いい子」
「!」
 踏み出して頭が低くなったところをまたも無造作になでられる。
「や……やめろ!」
「照れなくていいのにー」
「照れてない!」
 必死に声を張る。
「だ、だから、俺は」
 そこで気づく。
「俺は……獣騎士だ!」
 ようやく確かなものにたどりついた。声に自信を取り戻し、
「獣を駆り地を行く最強の武人! それが俺だ!」
「わー、すごいねー」
 ぱちぱちぱち。
「くっ」
 微妙にわかっていない。そんな空気を感じつつもいまさら引けず、
「見ろ!」
 手にした槍を前へ突き出す。
「この槍こそ騎士の証! おまえに俺と同じようにこれが振るえるのか!」
「んー?」
 軽く首をひねって〝双牙の槍〟を見ると、
「じゃー、やってみよー」
「おい!」
 無造作に手を伸ばされ、あわてて後ろに引く。
「何を考えてる!」
「えー」
 森は口をとがらせ、
「ジュオが言ったんでしょー。『振るってみろ』って」
「振るって〝みろ〟とは言ってない!」
 やはり通じていなかった。
「もういい」
 相手にするだけ時間の無駄だ。ジュオは背を向ける。
「俺にはしなければならないことがある」
「しなければならないこと?」
「強くなることだ!」
 槍を持つ手に力がこもる。
「俺はもっと強くなる。獣騎士として。そうすれば」
「そうすればどうなるの」
「……!」
 問いかけが胸に刺さった。
「それは」
 後ろをふり向く。なぜか悲しげな目でこちらを見ている森に、ぐっと悔しさがこみあげる。
「どうなるなんて関係ない!」
 声を張る。
「俺は獣騎士だ! 強くなければ獣騎士じゃないんだ!」
「ジュオはジュオだよ」
「だから、俺は」
 それ以上の言葉を制するように、
「ジュオはとっても優しい……いい子だよ」
「……!」
 ふわり。笑って言う森に、
(こいつは……)
 抑えようもなく胸が熱くなるのを感じながら、
(こ、こいつはこればかりだ! 騎士のことなんてぜんぜんわかってない!)
 感情を押しこめるように心の中で叫ぶ。
「……いらない」
「えっ」
 ぽつりつぶやいたジュオに森が目を丸くする。
「優しいとかなんだとか! 俺を馬鹿にするのもいいかげんにしろ!」
 森の瞳がゆれる。そこへたたみかけるように、
「そんなもの牙印にはいらない! 牙印に必要なのは力! 力だけなんだ!」
 そう、力。
 その力がないから、自分はいつまでも戦いに加えてもらえない。
 王に――父に認めてもらえない。
「だから……俺は……」
 何も言えずに立ち尽くす森。
 ようやくわかったか。かすかな勝利感と共にそんな彼のことを見下ろす。
「………………」
 森は――
「!」
 抱きしめられた。正面から。
「な……」
 ジュオのほうがはるかに大きいため、胸に顔をうずめられているという感じではあったが。
「お……おい!」
 昨日も抱きつかれたが、後ろと前ではその〝抱きしめられている感〟がまったく違う。あわてたジュオは無理やり引きはがそうと、
「っ」
 その手が止まる。
 年上らしいものの、自分よりはるかに貧弱な森を相手に本気を出してしまったら――
(か、構わないだろう、そんなこと!)
 頭ではそう思っても、止まった手はどうしても動いてくれなかった。
「かわいそう」
「……!」
 顔が上がり、うるむ瞳がこちらを見つめる。
「かわいそうだよ、ジュオは」
「く……」
 何を! 何をまた言っているのだ、この男は!
「ねえ、ジュオ」
 にこっと。こちらを元気づけようとする笑顔を見せ、
「僕と一緒に行こう」
「は!?」
「だから。ジュオはジュオのままでいられるところに行くの。優しいジュオのままで」
「………………」
 それはつまり――
「俺に……牙印を出ろと」
「せいかーい」
「ふ……」
 怒りが燃え上がる。
「ふざけるなっ!」
 ぐうっっ! 激情のままに胸倉をつかみ、高々とつり上げる。
 しかし、森は苦しそうな顔一つ見せず、
「そうしたほうがいいよ、ジュオ」
「うるさいっ」
 ぶぅん!
「あっ」
 力まかせに森を投げ飛ばした瞬間、我に返った。
「待っ……」
 手を伸ばすも、それは当然届かず、
「がるっ!」
 ドン! たくましいティオの身体がクッションとなって森を受け止めた。
 ほっと――
 安堵する自分に気づいたジュオはすぐさま頭をふり、
「お……俺は悪くない!」
 動揺する自分をごまかすように、身をひるがえしながら槍をふるう。
 ぶん! ぶん!
 そのまま、懸命に突きの動作をくり返す。
 背中越しに森のことが気になりつつ、そんな自分をふり払おうとジュオは必死になって身体を動かし続けた。


「はぁっ……はぁっ……」
 気づくと――
 荒野に沈む太陽が目を刺す時刻になっていた。
「………………」
 動きを止める。
 と、同時に疲労感に膝をつく。
「くそっ」
 毒づくもただ空しさだけがこみあげる。
「くそ……」
 顔を手で覆う。長時間に及んだ鍛錬も、いまはまったく意味がないもののように思えて仕方なかった。
「ティオ」
 いつまでこうしているわけにもいかない。
 相棒の名を呼びつつ、ふり返る。
 そこには同じ場所で変わらずかしこまっているサーベルタイガーの姿があった。
「帰るぞ」
「がる」
 と、ジュオは気づく。
「あいつは」
 ティオがすまなそうにうなだれる。ジュオは悪い予感を覚えつつ、
「おい! あいつはどうしたんだ!」
「がる……」
 ティオは目を伏せつつ、
「行きました」
「行った?」
「ずいぶん前に……」
 ずいぶん前に? 一体どこへ行ったと――
「許しをもらってくると」
「許し? 誰に? 何のだ?」
 口ごもるティオ。
 と、ジュオはまたもはっとなる。
「まさか……」
 あり得ない! 即座にその考えを否定する。
 しかし、
(あの男なら……)
 あり得る。そういう人間だ。
「おい」
 ジュオはそれを知りたくないというようにおそるおそる、
「あいつは……街に戻ったのか」
「がる」
 ティオがうなずく。
「戻って……それで……」
 そのあとの言葉につかえながらも、
「頼みに行ったのか」
「………………」
「許しを……俺が……」
 自分が牙印を出ることの――
「馬鹿なっ!」
 駆け出していた。走りながら声を張る。
「ティオ!」
 地を蹴る巨体が脇に並ぶ。
 ジュオは大柄な見た目に似合わない俊敏さでその背に飛び乗り、
「行け!」
 荒野を疾駆した。


〝王都〟に戻ったジュオは、まず自分の天幕を確認した。しかし、そこには当然というべきか森の姿はなかった。
 一瞬、何も言わずに去ったのではという考えが浮かぶ。
「おい」
 入口のそばにいるティオに再度確認する。
「本当にあいつは許しをもらってくると言ったのか」
「がる」
 だとしたら一体誰に。
 あのわけのわからない男のことだ。何をするか知れたものではない。
「なぜ止めなかった」
「がる……」
 遅ればせながらの叱責にティオはすまなそうにうなだれ、
「あの方に頼まれるとどうしても……」
「くっ」
 そうだ。最初にここから抜け出したときもそう聞いていた。
「それでも俺に知らせるくらいはできだだろう」
「知らせないでほしいと言われて」
「なぜだ!」
「一生懸命に修練しているところを止めては悪いと」
「くぅっ」
 矛盾している。強くなることに価値がないような態度を取っておきながら。
「どこだと思う」
「がる?」
「あいつが行くところだ」
「がる……」
 戸惑いを見せるティオ。
 確かに答えるのが難しいとは思う。それは森が牙印の国のことをどの程度理解しているかにもよるからだ。
「もういい」
 やや乱暴に言い捨てる。
「あの男のことだ。俺たちが考えてもわかるわけがない」
「がる」
 それでも不甲斐なさそうに沈んでいるティオを見て、思わずなぐさめるようにその頭をなでる。
「聞いて回るしかないだろう。まずは――」


「なんだと!?」
 思いもかけない……いや考えようによってはあの男らしすぎる行動だった。
「王の? 王のところへ行ったというのか、あいつは!」
「行ったかどうかはわからないよ……」
 店じまいの途中だった顔なじみの商人が目を伏せる。
 そのおびえた様子に気づき、
「すまない……」
 謝罪の言葉に、ほっとした顔を見せる商人。
 ジュオは努めて冷静な表情を作り、
「聞かせてほしい。何があったか」
「いや、急にあの兄さんが来てな……」
 それから語ったところによると、森は牙印王がどこにいるのか聞いてきたらしい。なぜ知りたいのか尋ねると『お願いしたいことがある』と言ったのだそうだ。
「もちろん、止めたんだよ。あの人が誰か知らないけど、牙印の者にはとても見えなかったからね」
「くっ」
 最悪すぎる展開だった。
「すまない」
 再びその言葉を口にしてきびすを返す。
 宵闇の迫る通り道。ジュオのあせりは増すばかりだった。

「ぶふぅ」
 変わらない。広い天幕の中で酒臭い息をもらしながら王は言った。
「何の用だ」
「それは……」
 そこまで言って口ごもってしまう。
 どう言えばいいというのだ、森のことを。
 まして『自分が牙印を離れることの許可をもらいに来ているはずだ』などと言えるはずがない。
「く……」
 あまりにも考えなしだった。
 至急会いたいなどと取り次ぎに言ってしまったが、それが意味のないことだったと痛いほどに思い知らされる。
 もし森が王に会っていたとすれば、いまさらそれをどうこうできるはずもないのだ。
「姫のことか」
 たんたんと。王が言う。
 その口ぶりからは森に会った可能性は低そうに思えた。
「ぶふぅ」
 またも。感情のつかめない息をもらしながら、
「去ね」
「……!」
 冷たい言葉が胸に刺さる。
「あ……」
 ジュオは思い出す。
(かわいそうだよ)
 あのときも――
 言葉は胸に刺さった。
 しかし、違う。
 同じところなのに、感じるこの気持ちは――
「く……」
 結局、何も言えないまま、ジュオは一礼して王の前を去るしかなかった。


(まさか……)
 王の側近たちの天幕が並ぶ通りを行きながら、ジュオはまたも悪い予感に顔を青くした。
(王に会おうとして……その前に誰かに殺されて)
 ない話ではなかった。荒々しさ粗暴さが当たり前の獣騎士たちなのだ。
「くっ」
 またもどうしようもなく胸が痛む。
(あんな……あんな男……)
 どうなったっていい! そう自分に言い聞かせる一方で『どういうつもりだ』という疑問の声が消えない。
 自分を牙印から連れ出す?
 そんなことができるはずがない。頼んだ覚えもない。
 確かに自分は行き倒れていたあの男を助け、食べ物まで用意してやったが。
「……!」
 おわび――そういうつもりなのか。
 なんでもする。あの男はそう言っていた。
 それは料理をすべて食べてしまったことに対してだけでなく、危ういところを助けられたことも含めて。
「馬鹿に……するなっ」
 吐き捨ててしまう。
 おわび? お礼? そんなもののために自分は動いたわけではない。
 自分は騎士だ。
 そして、強い者が弱い者を庇護するのは当たり前のことだ。
「っ」
 弱い者を庇護。
 それは自分がいるこの場所、牙印では当たり前のことだっただろうか。
「くっ」
 いまはそんなことはどうでもいい。
 あの男を探す。それがいま自分のするべきことだ。
「俺の……」
 自分の――
「………………」
 本当に――するべきことなのだろうか。
「く……」
 いいではないか。いなくなったならいなくなったで。
 死んでいたって――構わない。
 余計なことをされるのが気がかりだったが、それがないとわかればもう――
「あはははー」
「!」
 足が止まる。
 あの男だ。あんなのんきな笑い声を出す人間が他にいるとは思えない。
(生きていたのか)
 安堵する自分に気づいた瞬間、すぐさま頭をふり、
「な……何をしている、あいつは!」
 荒々しく足を踏み鳴らしながら声の聞こえたほうへ向かう。
「……!」
 そこでは、
「あはははー。僕の勝ちだねー」
「な……!?」
 あぜんとなる。
 そこにいたのは森だけではなかった。
 大勢の獣騎士たち。
 その中に混ざり、夜天の下、なんと森は酒盛りを楽しんでいるところだった。
「あはははははー」
 すでにかなり飲んでいるのだろう。赤ら顔の森はごきげんそうにのんきな笑い声をあげ続けている。
「っっっ……」
 たちまち頭に血が上り、
「おい!」
 大柄な獣騎士たちを押しのけ、敷布の上にあぐらをかいている森の前へ出る。
「あー」
 これまで以上にぽんやりとした目がこちらを見上げる。
「ジュオだー」
「っっ……」
 こみあげる怒りにたまらず、
「ふざけるな!」
 びくっと。周りにいた獣騎士たちから笑顔が消える。
 が、酒の入っている彼らはすぐ上機嫌に戻り、
「これはこれは、坊ちゃん」
「一緒に飲みますかい、坊ちゃんも」
「っ……」
 坊ちゃん。
 その呼ばれ方はジュオにとってこの上ない屈辱だった。
 自分のことを王の子としか見ていない。その王からもまともに相手されない〝子ども〟なのだと。
「おい」
 獣騎士たちを無視して森をにらみ、
「何をしている」
「何をしているんでしょーか」
「っっっ……!」
 早くも限界だった。
「おい!」
 胸ぐらをつかんでつりあげる。
「坊ちゃん、それくらいで」
 そばにいた獣騎士が苦笑しながら止めようとしてくる。
 ジュオはその男に、
「何をしていた」
「え?」
「こいつは! ここで! 何をしていた!」
 怒気に男は一瞬ひるむも、
「見ればわかるでしょう。いつものやつですよ」
 いつものやつ。
 確かに獣騎士たちは毎晩のように天幕の外で酒宴を開いている。
 戦いのないとき、獣は無駄に動くことをしない。そして存分に英気を養う。王もそうであるように酒は獣騎士と切っても切り離せないものだ。
 己の野性を鎮めるためにも。
「く……」
 ジュオは酒を飲めない。
 年からすればおかしいということもないが、それは密かな劣等感でもあった。
「こいつは」
 あらためて森をにらみ、
「酒盛りをしていたのか。一緒になって」
「まあ、そういうことになりますかな」
 酒臭い息をもらしながら男が言う。
「夕暮れごろここに来て、いきなり『王様に会わせて』と言いやがる」
「……!」
 やはり、そうだったか。
「こいつは王に会って何をしたいと」
「それがね」
 男は頭をふり、
「こんなか細いやつが何をしにと思ったが『用件は王様に会ってから話す』としか言いやがらねえ。もちろん、何ができるとも思わねえが、それでも知らねえ男を王のところには通せないでしょう。そしたらなんて言ったと思います、こいつ」
 酩酊した男が饒舌に語る。
「……何と言ったんだ」
「それがねえ」
 にやにやと。心から愉快だというように、
「勝負するって言ったんですよ、俺たち相手に」
「……!」
 やはり、まともではない。どんな下位の獣騎士だろうと、森より貧弱な者などいるはずがないのだから。
「それで……おまえたちは」
 声が上ずるのを抑えきれないまま聞くと、
「やりましたよ」
「!」
 顔を引きつらせるジュオの前で、男がくいっと盃をかたむけるしぐさをする。
「こう、ね」
「えっ」
「したんですよ。飲み比べを」
「………………」
 飲み比べ――
「そ、それで」
 動揺をごまかそうと、
「どうなったんだ、勝負は」
「驚きましたぜ。こっちが負けちまいましたよ」
 酔いつぶれて倒れている男を指し示す。きっとそれが勝負を受けた獣騎士なのだろう。
 そういえば森も『僕の勝ち』と言っていたのを思い出す。
「このちっこい身体で、とんでもねえ量を平然と飲みやがりましたよ」
 小さい。
 平均的な成人男子としてはそこまで小柄とは言えないが、山のような体躯を誇る獣騎士たちから見れば子どものようなものだ。当然、自分たちが負けるとは思っていなかっただろう。
「ねー、ほめてほめて、ジュオー」
 赤ら顔の森がふらふらと立ちあがる。
「お、おい!」
 後ろにひっくり返りそうになるのをあわてて支える。
「あははー、ほめてー」
「誰がほめるか!」
「あの、坊ちゃん」
 話を聞かせてくれた獣騎士の男が興味津々の顔で、
「そいつは坊ちゃんの知り合いですかい」
「知るか!」
「えー、ひどいよ、ジュオー」
「うるさい!」
「コラ、そんなこと言っちゃだめでしょ。ジュオは僕の子ど――」
「おい!」
 あわてて口をふさぐ。
「いいから来い!」
「えー、歩けないー」
「くっ」
 ぐずぐずしていられないと、ジュオは森の身体を抱え上げる。
「わーい、お姫様だっこー」
「違う!」
 傍目からはそれにしか見えない。
「くぅっ!」
 抱え直す時間も惜しく、赤面したジュオは早足でその場を去った。


 ジュオは乱暴に森を天幕の寝台に投げ出した。
 すこしは怒るかと思ったが、
「あははー。おもしろかったー」
「く……」
 ちっともこりていない。もっとも、森のほうでこりるようなことはなく、罪悪感なども当然皆無だろう。
「はぁ……」
 こりたのはこっちだ。
 本当にとんでもない拾いものをしてしまった。
 いますぐ追い出してやりたい。しかし、そんなことをすればまたどこに行くか知れたものではない。
 それに、すでに夜も更けている。
(っ……そこはどうだっていい!)
 夜中だろうとなんだろうと追い出せばいいのだ。この男が寝床もなくさ迷うような羽目になろうと、自分はなんとも――
「ねー、ジュオー」
「……!」
 寝台の上からとろんとした目がこちらを見る。
「やっぱり、ジュオは人気者だねー」
「! 何を」
「かわいがられてたもんねー。『坊ちゃん』『坊ちゃん』って」
「あれは」
 悔しさと恥ずかしさに歯噛みしつつ、
「からかわれていただけだ。子ども扱いされていただけだ」
「だって、子どもだよ」
「子どもじゃ」
「子どもだよ。僕の」
「くっ」
 話にならない。
「……いいか」
 ジュオは森をにらみ、
「あいつらがさっきみたいに呼ぶのは」
 そのことを口にするとき、わずかに胸の痛みを感じつつ、
「俺が……牙印王の息子だからだ」
「おー」
 森が無邪気に目を輝かせる。
「そうなんだー。じゃあ、ジュオは王子様だね」
「っ」
「獣の国の王子様だー。カッコイイなー」
「カ……」
 カッコよくなんかない! とっさにまたも言い返そうとしたが、
「………………」
 ふと。
 力がぬける。
 今日一日、空回りばかりしていた自分に気づいて。
「ジュオ」
 酒気でとろけた――しかしその奥に確かな優しさを感じさせる目が向けられ、
「ジュオは王様になりたいの」
 思わぬ質問に口ごもる。
「そんなこと」
 混乱する。これまで考えたこともなかった。
「……わからない」
 正直に。そう口にした。
「そっか」
 にっこり微笑んで、
「じゃあ、僕とジュオは」
 言った。
「敵になるかもしれないね」

 鳥の声を耳に、ジュオはうっすらと目を開けた。
 上り始めた陽光が遠くの天幕や屋台を照らしているのが見えた。
「………………」
 行く先々で野鳥の鳴き声は異なる。しかし、不思議と、どの土地でも明け方に最初に聞くのは鳥の声なのだ。
(あいつもそろそろ)
 自分の天幕のほうを見ないまま、ぼうっとした頭でそんなことを考える。
(あいつ……)
 昨夜の衝撃の言葉。
(俺とあいつが? 馬鹿な)
 苦笑しつつ頭をふる。
 あり得ないだろう。冗談に決まっている。
(しかし)
 あり得ない。本当に言い切れるのか。
 正面切って戦うだけが〝敵〟ではない。
 思えば、初めて会ったときから正体不明な男ではあった。いや、その正体の不明さはいまも変わらない。
(あいつと俺が……敵……)
 牙印に敵は多い。二大軍事国家と呼ばれるくらいだから当然だ。
(復讐……か)
 あの男が牙印の滅ぼした国の出身で、その恨みを晴らすために自分に近づいた。
 いや、とてもそうは思えない。
 そんな暗くて重いものはまったく感じ取れなかった。
(だが)
 それこそ、感じられない〝ように〟しているというのか。
 本当の気持ちに――仮面をつけて。
「くそっ」
 わからない。
 考えれば考えほどにわからなくなる。
 しかし、いつまでもこのままというわけにはいかない。
 なんとかして、あの男の正体を――
「むにゃ……」
「!」
 鳥の声ではない。
 人の寝言。しかも、すぐそばで聞こえたそれにジュオは身を硬くする。
「まさか」
 自分の寝台を森に渡したジュオは外で睡眠をとっていた。
 衝撃の発言を受けて同じ場所に居づらかったということもあるが、天幕のそばにはティオがいてくれた。
 その身体に寄り添い、予備の毛布を身体に巻いて眠った。
 ティオの体温が夜気を遠ざけてくれた。行軍の途中など、こうして眠りにつくのは珍しいことではないのだ。
「くっ!」
 あわてて毛布をめくりあげたジュオは目を見張った。
 わかっていた。こういう男なのだと。
「おい!」
「んあー」
 間の抜けた声が返ってくる。いまさらすぎるくらいいまさらな問いかけだと思いつつ、
「何をしている、おまえは!」
「おはよーございます」
「あいさつはいい!」
 朝からこちらの怒りをかきたててくれるも、それをまったく気にしないのが森だ。
「よくないよー。起きたらちゃんと朝のあいさつしないとー」
「この状態がすでにちゃんとしてないだろう!」
「だって、息子だけ外で寝かせられないよー。お父さんとしてー」
「っっ……」
 この男はまだこんなことを。
「あっ、ごめん、ティオがいたよね。いいよねー、ティオのそば、あったかくて」
「が、がる……」
「あっ、そうだ。これからはずっとティオのそばで寝ようよ。親子仲良く……」
「おい!」
 こいつは……こいつはぁぁぁ!
「くっ」
 しかし、そこでジュオはいったん自分を落ち着かせる。
 懸命の努力で。
「……おい」
 そして、あらためて、
「あんたは一体」
 だが、その努力もむなしく、
「あ」
 ぐぅぅ~。能天気かつ平和すぎる音が響く。
「おなかすいたねー」
「………………」
 完全に勢いを削がれた。
「えへへー」
 照れくさそうに頭をかく森。それを見てもう何を言う気もなくしてしまう。
「来い」
 立ち上がり、歩き出す。
「わー、朝ごはんだー。どんなごはんかなー」
「食えないものは出てこない」
「もー、そういう言い方だめだよー。一日の始まりなんだから、ちゃんとおいしく食べないとね」
 空をあおぐ。
 顔に手を当てて嘆息するしかなかった。


「おーい、ジュオー」
 何かと思ってふり返る。
「がんばれー」
 にこにこと笑って手をふっている森。
 脱力しつつ、それでもなんとか槍を持つ手に力をこめ直す。
「くぅ」
 集中できない。
 昨日と同じく一人鍛錬を積むジュオだったが、森に見られていることで完全に意識をそちらに持っていかれていた。
 外への感覚を断ち切って、槍の動きに没入することもできない。
 また森が勝手にいなくなるのでは――その予感が頭の中にあるためだ。
 ティオに言い含めてはあるものの、いざというとき止められるかは心もとない。彼に頼りがいがないというわけではないが、森のつかみどころのなさは思い知らされていた。
「……くっ」
 動きを止める。
 やはり、先延ばしにしていてもどうにもならない。
 だが正面から聞いてまともな答えが返ってくるとも思えない。
「っ――」
 ふと。一つの考えがひらめく。
「……う……」
 手の内が汗ばむ。
(やるか……)
 やってしまえばいい。そうではないか。
 ふり返る。
(槍を……)
 この槍を森に向かって――
(い……いや!)
 とっさに頭をふる。しかし考え自体は捨てきれない。
 確かに一番はっきりする方法ではあるのだ。命が失われそうなそのときまで自分の本性を隠していられる者などいるはずがない。
「………………」
 ジュオは――
 手にした槍をゆっくりと、
「坊ちゃん」
 びくっ! ジュオの身体が大きく跳ねた。
「な、なんだ!」
 声を上ずらせつつ呼ばれたほうを見る。
 そこにいたのは、昨夜、酒盛りの場で話をした獣騎士だった。
「動きますぜ」
「えっ」
「王が。腰を上げるってことですよ」
「――!」
 震えが走る。
「いよいよか」
 王が動く。
 それはつまり牙印の中枢戦力が動くことを意味していた。
 と、はっとなり、
「それは俺も同行していいと」
 意外なことを言われたというように目を丸くした男は、すぐに笑みを見せ、
「もちろんですよ。じゃなかったら、知らせには来ないでしょうが」
「そうか」
 槍を手にしていないほうの拳を握る。
 いよいよだ。ついにこのときが来たのだ。
 王が出るほどの大規模な行軍は、ジュオにとって初めてのことだ。聞けば、大きな国を滅ぼす際の決戦や、牙印と並ぶ軍事国である機印との正面衝突においては幾度かあったらしい。
 それらと並ぶ重大事となれば――答えは一つ。
「姫だな」
 男がうなずく。
 彼も聞いているだろう。派遣した獣騎士たちが姫を守る〝仮面の騎士〟に倒されたということは。
(そいつを討てば)
 もちろん敵が仮面の騎士だけとは限らない。
 しかし、牙印の中枢に匹敵するだけの戦力が向こうにあるとは思えない。
 恐れるべきは、機印が先んじることだけ。
 だからこそ一気に姫を奪還すべく王自ら出ることに決めたのだ。
(とにかく、これはチャンスだ)
 戦いの場に行ける。
 たとえ自分が仮面の騎士を倒せなかったとしても、ここで鍛錬を続けるよりはるかに獣騎士として活躍する機会が与えられる。
 そして、ジュオにはこれまで積み重ねてきたものを活かす自信があった。
(そうすれば……王も
 期待に胸が熱くなる。と、すぐさま自分をいましめる。
(のぼせ上がるな。俺にとって)は初めての戦いなんだ)
 初めて。
 その意識がさらに胸を高鳴らせるも、ジュオは深い呼吸をくり返してなんとか熱を鎮めていった。
「よし」
 自分が落ち着いたのを確かめて、
「知らせてくれたこと、感謝する。すぐに出立の準備を始める」
 硬い返答に苦笑したものの、男はうなずくと己の乗騎であるサーベルタイガーにまたがり去っていった。
「……よし」
 あらためて。ジュオはつぶやき、
「ティオ。おまえも一緒にこれから」
 言葉が止まる。
「ティオ……」
 こちらを見ていたティオが、はっと身体をふるわせる。
「がる? がるがる?」
 あたふたと。いつも落ち着いている彼にはめずらしい動揺ぶりで辺りを見渡す。
「………………」
 いなかった。
「おい……」
 ジュオはあぜんと、
「いつ消えたんだ、あいつは」
「も、申しわけありません」
 説明するより先にティオが頭を下げる。
 それから語ったところによると、伝令の男が来てそちらに気を取られていた隙にいつの間にかいなくなっていたのだという。
「不覚でした。あれほど言いつけられていながら」
「もういい」
 よくはない。だが、知らせに気を取られていたのは自分も同じだ。
「がる……」
 仕方ないというように頭をなでられたティオは、ますますすまなそうにうつむいた。
(あいつ)
 今度はどこへ行ったのだ。
「あ……」
 昨日と同じように王のところへ?
 あり得る。
 昨夜、獣騎士たちと騒ぎをくり広げていた森。
 あのときは無理やりつれ帰ったが、彼は「勝ったら王に会わせる」という約束で飲み比べの勝負をしていた。
 そして、その勝負に――勝っているのだ。
「馬鹿な」
 いまこのときに。
 あの男が騒ぎを起こしたら自分はどうなる。
 無関係とはさすがに言えない。一緒にいるところを多くの者に見られている。
「くっ」
 あらためて何なのだという思いにとらわれる。
(こんな大事なときに)
 目のくらむような怒りを覚えつつ、ジュオはティオを駆り、伝令してくれた男の後を追うようにして街へと馳せた。


 見つからなかった。
「どこへ」
 あせりが声となってこぼれる。
 あの後、さりげなさを装いつつ王のそばにいる獣騎士たちに聞いて回ったが、森の姿を見たという者は一人もいなかった。
「くそっ!」
 枕を叩く。
 夜――
 本来なら遠征の準備に費やさなければならないのに何も手につかず、日が暮れてもなお心は乱れたままだった。
「くっ」
 昨日、森を寝かしつけた寝台を見る。
 もちろんそれは本来ならジュオのものであり、はるかに小柄な森では飲みこまれてしまいそうに不釣りあいだ。
「あいつ……」
 なぜいなくなった! その問いかけが何度もくり返される。
 わずかな心当たりはすべて探した。それ以外にあの男が行くところなど――
(俺は……)
 自分は――あまりに彼のことを知らない。あらためてそのことに思い至らされる。
 昨日会ったばかりの人間に対してそれは仕方ないと言えるが、それで済まないほどに森のことはジュオの中で大きくなっていた。
『とっても人気者なんだね』
『そんな顔してちゃだめだよ。子どもなんだから』
『花房樹生(はなぶさ・じゅお)。んー、いいね、うちの子っぽい』
 と、はっと我に返り、
「ち、違う! 俺は」
 そうだ、違う。
 正体不明のあの男が何かしかねないから心配なのだ。
 それ以外の感情などあるはずが――
「あるはずが……ない」
 バン! 再び音高くジュオは枕を叩いた。


 同じ夜――
「待たせちゃったね、白椿(しろつばき)」
「ぷる」
「それでどうだった?」
「ぷる。ぷるぷる」
「そっか。やっぱり頼りになるなー、白椿は」
「ぷるる」
「僕のほうは……ちょっと迷っちゃっててね」
「ぷる?」
「ふぅ」
 星空を見上げ、つぶやく。
「どうしようかなあ」

 出立の時は来た。
 全体の準備に要したのは、わずか一日。
 他国ならこれほどの短時間で戦争規模の兵士が動けるようになることはあり得ない。
 常在戦場。どのようなときも王を中心とした〝国〟そのものが臨戦態勢にある牙印ならではの強みと言えた。
(よし)
 ティオに乗ったジュオの身体に武者震いが走る。
「楽に行きなよ、坊ちゃん」
「そうだ。初めてはあせっちゃだめだぜ」
 共に並ぶ獣騎士たちから下卑た笑い声があがるも、いまの彼にはほとんど耳に入ってこなかった。
 果てしなき戦いの続く卵土制覇の鍵を握るかもしれない――〝姫〟。
 その奪還にこれから赴くというのだから。
 しかし、大人数ということもあってか他の騎士たちにそれほどの緊張は見られなかった。行軍の成功を疑っていないのだ。
 それはもちろんジュオも同じなのだが、
(あいつ……)
 ふと。またも森のことが思い浮かぶ。
 不安なままに夜を過ごしたジュオ。いつまでも彼のことを気にしているわけにはいかず、朝まで寝ないで出立の準備を調えた。
 結局、彼が何か騒ぎを起こしたというような話は伝わってこなかった。
(なら、つまり)
 逃げ出した。そういうことなのだろう。
 商人たちは最後の仕事――つまり戦いに必要な物資の取引を終えると、早々に〝街〟から離れていった。戦いを前にした牙印人の気の荒さを卵土で知らない者はいない。普段から危険をおして商売をしている分、その変化には敏感だった。
 ジュオと親しく接してくれた市場の者たち。彼らと再び会えるかはわからない。
 そして、森とも。
「フ……フン!」
 感傷的な自分に気づき、強く鼻を鳴らす。
 これから戦いの場に赴くのだ。日常を懐かしがっているようでどうする。
(日常……)
 森との時間はさすがに〝日常〟とは言えないものがあった。
 それもいまとなっては、いなくなった人間とのことだ。
 これからの自分には何の関係もない。
 何の関係も――

『僕の息子になる?』

「フ、フン!」
 いっそう強く鼻を鳴らし、その面影を頭から追い払う。
 そこに、
「――!」
 来た。進軍の銅鑼だ。
 笑っていた獣騎士たちの顔もさすがに引き締まる。
「行くぞ」
 相棒の首すじをなで、ジュオは周りの者たちと共に前へ向かって、
「止まれ!」
 雷鳴のような声が軍勢をふるわせた。
 息をのむ。
 王だ。
「っ」
 光が目を刺した。
「あれは」
 周りの者たちがざわめき出す。
 ジュオも〝それ〟を見て息を飲む。
 地を覆うと思われるほどの人と獣の大軍の前に立つ――
 たった一つの影を。
(いや……)
 一つではない。シルエットでわかったが、その人物は馬に乗っていた。
「おお」
 興奮にふるえる声がジュオの耳に届く。
 見ると、そこには軍の中枢である巨大な輿から降りた王の姿があった。
「あれこそ……〝聖槍(ロンゴミアント)〟」
「!」
 戦慄が走った。
(あの〝聖槍〟だというのか)
 それは伝説の中でのみ語り継がれている騎士槍。
 はるかな過去に〝姫〟を守護する騎士が手にし、彼女の喪失と共に卵土から消えたと言われる。伝わっているのは絵画で残るその意匠と、書物にある最強の槍という記述のみ。
(まさか)
 あらためて馬に乗った男のほうを見る。
 日の光を照り返し輝く騎士槍。それを手にした人物の顔には、
「! 仮面……」
 さらなる戦慄が走る。
 仮面を付けた騎士。それは〝姫〟を守り、牙印の騎士を退けたという――
「行けぃ!」
 するどい声が軍旅の隅々までをもふるわせた。
 獣騎士たちの動きはすみやかだった。王の下、一体の獣とまで言われる牙印の者たちにためらいはなかった。
「っ」
 その動きに遅れるジュオ。しかし、懸命に先頭に追い付こうとティオを駆って、
「!?」
 爆ぜた。
「え」
 何が起こったかとっさにはわからなかった。
 群れとなって仮面の騎士に押し寄せた獣騎士たち。
 その一部が、まるで何かが爆発でもしたように空高く吹き飛ばされた。
「!」
 ドーン! ドーン!
 離れていてもそれとわかる衝撃が伝わってくるたび、巨体の獣騎士たちがおもちゃのように空に舞い上がっていく。
「う……あ……」
 あり得ない。
 眼前の光景を成しているのはおそらく、いや間違いなく一人の騎士。
 獣騎士の精鋭でもこんなことは――などという比較がすでに意味がない。いままとめて打ち払われているのは、牙印中枢のその精鋭たちなのだ。
「がるるる……」
「あっ」
 ふるえが伝わり、ジュオは自分たちが動きを止めていたことに気づく。
「テ、ティオ」
 落ち着かせようと首すじをなでる。しかし、その手も細かくふるえていることを自覚しないわけにはいかなかった。
「若」
 問いかけてくる。
「あれは……何なのですか」
 わかるわけがない。
 と、
「……!」
 断続的に起こっていた衝撃が止まる。
 何が起こったのだ? ジュオはとっさに、
「ティオ!」
「が、がるっ」
 主にうながされたティオが前へ進む。
 獣騎士たちをかきわけ、その先にジュオが見たのは、
「あ……」
 立っていた。
 一人。
 無数の獣騎士たちに遠巻きながらも隙間なく囲まれて。
 彼らよりはるかに小柄な男が。
 一人――
 白馬に乗った仮面の騎士が悠然と槍を手にしてそこにいた。
「っ」
 我に返る。
 動揺していたためだろうか。遠巻きの囲みから、ジュオは突出するような形で一人に前に出てしまっていた。
「う……」
 仮面の向こうの目がこちらを見すえる。
「くぅっ!」
 退きそうになるのをこらえ、ジュオは前へと踏み出した。
「うらぁぁぁっ!」
 自分よりはるかに小さい。
 しかし、そこにはるかに大きなものを見ていた。
 勝てない。絶対に。
 死――
 それでもジュオはティオを駆って突撃した。
 仮面の騎士は、
「!」
 騎士の突撃――
 それに対して己の槍をくり出すことさえしなかった。
「な……」
 素手。
 槍を持っていないほうの手でジュオの突撃はつかみ止められた。
「うぁ……あ……」
 やられる。その確信と共に絶望が心を覆った瞬間、
「!」
 ジュオの意識は途切れた。

 死んだ。
 自分は――死んだのだ。
「………………」
 だとしたら――
 死んだと、そう感じている〝これ〟は何なのだろう。
「ぅ……」
 息がこぼれる。
「………………」
 ――息!?
 死んだ者が息などするはずがない!
「お、俺は」
「まだ起きないほうがいい」
「!」
 声――それは、
「ああっ!」
 ふるえる。
 驚くほどすぐそばに。たき火に照らし出された――仮面。
「くっ!」
 とっさに槍を手で探る。意外ではあったがそれはすぐそばにあった。
「そこまで」
 頭に手が置かれた。
「お……おぉ?」
 優しく押される。そして気づく。
「あっ」
 頭の片側にぬくもりを感じる。
(ひ……)
 ひざ枕!?
「うおぉっ」
 驚いて身体を起こす。
「あっ、もー」
 仕方ないというようなその声にはっとなる。
(あいつ……)
 花房森。あの男が口にしたようにジュオには聞こえ、
「っ」
 しかし、そこにあったのは仮面の騎士の顔。
 たちまち戦意が燃え立ち、ジュオは手にした槍を――
「そこまで」
 またもおだやかに。
 しかし、完全にジュオの腕は抑えられていた。
 完全に。
 それ以外の表現がないと思えるほど、ジュオの手はまったく動かせなかった。
 自分よりはるかに小柄な男によってだ。
「きっ、貴様」
 悔しさに唇をふるわせながら、
「なんだ……何なんだ」
 仮面の騎士は、
「ファザーランサー」
「!?」
 名乗った。
「ファ……ザ……」
「ファザーランサー」
 あらためて。仮面の男がその名を口にする。
「くっ」
 混乱する頭でジュオは思う。
 ファザーランサー。それが目の前にいる仮面の騎士の名前。
 獣騎士たちを塵芥のように粉砕した。
 そして、自分を――
「お、おい」
 そこでようやくジュオははっとなり、
「俺に……何を……」
「さらってきた」
「はあ!?」
 さらった! それは、この自分をか?
「ふ……」
 ふざけるな! 憤りのまま再び身体を起こそうと、
「っ!?」
 押さえられた。
 逆らえない。力がこもっているとは思えないのに、どうしても。
「いまは休むときだよ」
 それは確かな優しさのこもった声だった。
「いい子、いい子」
「……!」
 まさか。やはりこの仮面の騎士の正体は、
「く……」
 眠気が襲う。脱力感にどうしようもなく身体を支配され――
 ジュオは眠りに落ちた。


「う……」
 まぶた越しの淡い光に、ジュオはゆっくりと目を開けた。
「くっ」
 頭をふりながら身体を起こす。
(俺はあれから……)
 切れ切れの記憶をつなぎ合わせる。
 仮面の騎士に戦いを挑み、そして意識が途切れた。
 意識が戻ったとき、そこには仮面の騎士の顔があった。
 彼は自分に――ひざ枕をしていた。
「くぅぅっ!」
 耐えきれない羞恥に身もだえしつつ、あたふたと辺りを見渡す。
「あ……」
 いなかった。
「………………」
 がっかりと。ふとそんな気持ちがこみあげる。
 もうすこしだけあの感覚を――
「!」
 じ、自分は何を考えているんだ!
 あんなこと! 獣騎士である自分が望むはずがない!
「くぅっ!」
 悔しまぎれに勢いよく立ち上がる。
 あらためて自分のいまいる場所を確認する。
「ここは……」
 濃厚な緑の香りが鼻を突く。
 森――
 それも木々の密集した深い森林の中にジュオは立っていた。
 見上げれば、背の高い広葉樹の間からうっすらと光が差しこんでいる。おそらく月の光だと思えた。
「くっ」
 あれから――どれだけの時間が経ったのだろう。
 というか、自分に何が起こったのだ? なぜ自分はこんなところに。
「!」
 感じた。
 かすかながらも、それははっきりとわかる。
 空気を裂く――いや、突く気配。
「……っ」
 誰かがいる。それも騎士が。
 とにかく誰かを確かめたい思いで、ジュオは気配のするほうへと向かった。
「くっ!」
 不意の強い光に手のひらをかかげる。
「……!?」
 森を出た――と思ったが、よく見ればそこはまだ木々に囲まれていた。しかし、その間隔は大きく開かれていて広場のように感じた。
 その中央で、
「あ……!」
 いた。仮面の騎士だ。
 彼は槍――〝聖槍〟を手に突きの動作をくり返していた。
 流れるように。踊るように。
 ジュオを思わず息を詰め、その動きに見とれる。
「すごい……」
 自分ではとてもあのようにはいかない。彼に比べれば自分の動きは無骨で鈍重なだけだ。
 力強さだけは――いやそれすらもかなわない。
 事実、自分の突撃は片手で止められてしまったのだから。
「ふぅ」
 仮面の騎士が突きの動作を止め、軽く頭をふる。
 光の中、髪がはためく。
 気づく。彼は汗ひとつかいていなかった。
「ファザー……ランサー」
 その名がジュオの口をついて出る。夢うつつの状態だったが、耳にしたそれははっきりと記憶されていた。
「っ」
 仮面の騎士――ファザーランサーがこちらを見た。
 思わず身構える。槍は手にしていた。あのような状況で眠りについても、騎士の本能というべきかそれは手放さなかったのだ。
「……!」
 ファザーランサーが近づいてくる。
「く、来るな!」
 とっさに口にした自分に気づき、頬が熱くなる。
 何を! こんな弱気な言葉が出るなんて、それでも騎士か! たとえかなわないとわかっていても、いやそんなことすら考えないのが騎士だ。
(俺は)
 悔しさに唇をかむ。それでも身体のふるえは止まらない。
 と――
 ファザーランサーが足を止めた。
「よく眠れたかい」
「……!?」
 何を言われたのか最初はわからなかった。
 仮面のせいで、相手の表情をはっきり読み取ることもできなかった。
「あ……う……」
 じわじわと。言われたことが頭に入ってくるつれ、いっそう混乱してくる。
「何なんだ……」
「ファザーランサー」
 再びその名前を口にする。
「ちょっとね、準備をしてた」
「準備……?」
「そう」
 驚異的な力を見せたその印象と裏腹に、彼の口調はおだやかなものだった。
「く……」
 徐々にではあるが緊迫したものがほどけていく。しかし、油断はできないとジュオはファザーランサーをにらみ、
「俺に……何をした」
「するのはこれからだよ」
「……!」
 息をのむ。あせる気持ちを抑えられず、
「どういうことだ! 俺をどうするつもりだ!」
 まさか――人質!? ないとは言い切れない。仮にも王の息子だ。
「む、無駄なことはよせ!」
 無駄。
 言い放った言葉が自分に突き刺さる。しかし、落ちこみかけた心を叱咤し、
「お、俺はおまえなんかには」
 ヒュッ!
「!」
 息が止まる。
「う……」
 目が離せなくなる。突き出された槍の先端から。
 と、すぐさま彼は槍をひるがえし、再びあの流れるような〝槍舞〟を見せ始める。
「う……」
 ぼうぜんと。またもその舞に見入る。
「ほら、久しぶりだから」
 槍と共に動きながら、ファザーランサーが口を開く。
「ちょっとね、身体を動かしておかないと」
「久しぶり……」
 なんだ? 何をしようというのだ、この男は。
「キミにはこれから強くなってもらう」
「っ」
 強く――!?
「あれ? 強くなりたくない」
「そ、そんなこと」
 なりたい! なりたいに決まっている!
「僕がキミを強くしてあげる」
「……!?」
 またも――意味不明な言動に心を乱される。
「なぜ……」
「してもらいたいことがあるから」
「してもらいたいこと」
「そう」
 ファザーランサーは、のぞく口もとに笑みを見せ、
「キミには牙印の王になってもらう」
「!」
 絶句。
「ば……」
 馬鹿なことを言うな。
 そう言い返しそうになるも、かろうじてそれをとどめる。
「………………」
 言えない。
 彼の言葉を否定するということは、つまり『王になれない』と認めてしまうことだ。
 かつて、森を相手にも言った。
 なりたいかなりたくないかは正直わからない。
 しかし『なれない』ということは受け入れがたかった。それは、自分をその程度とおとしめてしまうことなのだから。
「異論はないみたいだね」
「あ……」
 あるに決まっている! そうだ、牙印には、
「牙印には……王がいる!」
 とっさに口にした言葉だったが、それに勢いづき、
「王がいるところにどうやって王になれと言うんだ!」
「王がいなくなればいい」
「……!」
 あまりにも簡単に言われたが、その意味にジュオは凍りつく。
「おまえ……」
「ああ、違う違う」
 仮面の男はひらひらと手をふり、
「僕がどうこうするつもりはないから」
「じゃあ……誰が」
「キミだよ」
「!」
「キミがやるんだ」
 悪魔がささやくように、
「キミが王を倒す。そして王になるんだ」
 最大級の衝撃に襲われる。
「ば……」
 馬鹿な――同じ言葉を口に出そうとしてやはり出せない。
「あり得ない……」
「何があり得ない?」
「それは……」
「何が? 何がどうあり得ない」
「う……」
 追いつめられるような思いで、
「王は……牙印の象徴だ」
「象徴?」
「獣騎士としての……最も強い獣騎士が王として」
「なら、それより強くなればいい」
「……!」
 言葉を失う。あまりにも簡単にこの男は。
「おかしいことじゃない」
 ファザーランサーは軽い口調のまま、
「おとろえたリーダーに成り代わって、力に満ちあふれた若者が新しいリーダーとして立つ。獣の世界なら当たり前のことだ」
「う……」
 その通りだ。だからこそ牙印では血統が他国ほどには意味を持たない。
「なら」
 逆に疑問が生じる。
「どうして俺を」
 王の息子である自分を――
「強くなりたいんだろう」
 またも。悪魔の誘惑のように、
「キミは強くなりたい。そして僕は強くなりたいキミを求めてる」
「どう……いう……」
「ジュオ」
 不意に。男がこちらに身を乗り出す。
「強くなりたい」
「う……」
「強く」
「っ」
「なりたい」
「………………」
「なら」
 手が差し出される。
「キミは僕の手を取るべきだ」
「う……く……」
 なおもジュオが何も言えないでいると、
「よし」
「……っ……」
「テストしてみて」
「えっ」
 テスト。その思わぬ言葉にさらに戸惑っていると、
「ほら」
 ファザーランサーが両手を広げる。
「いいから」
「……?」
「来て」
「なっ!?」
 何を言っているのだ、この男は!
 来いと――自分の胸に飛びこんで来いと!?
「遠慮しなくていい」
 いや、遠慮というような問題ではない! なぜ自分が目の前の男の胸に――
「来て」
「あ、う……」
 ジュオは、
「で……できるかっ!」
「意気地なし」
「っっ!?」
 思いもかけない侮辱が頭に血をのぼらせる。
「よし」
 仮面の男はあくまで軽い口調のまま、
「僕から行こうかな」
「っ……!」
 たまらずびくつく。
 が、それはすぐ別の感情に取って代わられる。
「あ……」
 はっとなる。
 仮面の男は槍を置き、そばに落ちていた木の棒を手に取った。
「うん。これならいいかな」
 気づく。
 彼が来いと言ったのは、つまりそういう――
「……っ」
 とたんに新たな血がのぼる。
 侮辱だった。
 これならいい。つまり自分は槍で相手するに値しないと。
 棒きれ程度で十分だと。
「ふざけるな……」
「真面目だよ」
 冷静な言葉がさらに怒りをかき立てる。
 高ぶる感情のまま、
「うぉぉぉぉぉぉぉっ!」
 飛びこんだ。
 静かな目がこちらを見すえる。
「!」
 怒りの炎は芯から凍りついた。
「うくっ……」
 動けない。
 仮面の騎士に届く寸前、槍はおのずからその動きを止めていた。
「く……ぅぅっ!」
 押しこめない。もう一押しがどうしても。
「よかった」
「……!」
 こうなることはわかっていた。そんな落ち着き払った声が耳に届く。
 自分の無事をよろこんでいるのではない。
 よろこんでいるのは、逆に――
「ここで止まれないようなにぶい子だとは、さすがに思ってなかったよ」
 屈辱だった。
「結局、僕がテストした形になっちゃったかな」
 飄々と。言葉がつむがれる。
 ぶつけることのできない激しい想いにジュオは目がくらみそうだった。
「よく聞いて」
 声が真剣さを増す。
「残酷だけど……キミには他に道がない」
「!」
 どういうことだ? 思わず凝視すると、
「いいかい」
 あらためて。噛んで含めるように、
「僕はキミをさらった」
「……!」
「そのことは牙印のみんなが見ている。それがどういうことかわかるかい」
「そんなの」
 仲間たちに恥をさらしたということだ。
「くそっ」
 悔しさにたまらずうつむく。
 初めての戦で自分のことを認めさせるつもりだった。それがまったく逆の結果になった。
「こっちを見て」
 ほっそりした手が頬にふれる。無理やりというより導かれるように前を見たそのすぐそばに仮面の騎士の顔があった。
「これは大切なことなんだ」
「く……」
 そんなこと、言われるまでも――
「いまのままではキミは牙印に帰ることはできない」
「!?」
 そ、それはどういうことだ!
「そういうことになるんだ」
 より真剣さをにじませ、
「僕にさらわれるところを見られた。そんなキミが何もなしにみんなのところへ戻ったらどうなる?」
「それは」
 不審に思うだろう。
 さらったからには、さらっただけの理由があると普通は考える。
 それが無事に帰される。
 おかしく思わないはずがない。
「けど、実力で」
 実力で打ち負かして逃げることができた?
 突撃を素手でつかまれるような自分では、よけいに信じてもらえないはずだ。
 うまく隙をついて逃げ出したなどと言っても、そんなことのできる器用さがないことは周りも自分もよく知っている。
「じゃあ」
 絶望的な思いにさらなるめまいを覚えつつ、
「俺は……どうすればいい」
 答えはシンプルだった。
「強くなるしかないんだよ」
「っっ……」
「だろう」
 微笑みかけてくる。相変わらず悪魔のように思える笑みで。
「僕ならキミを強くしてあげられる」
「く……」
「あとは」
 仮面の向こうで眼光がきらめく。
「キミが決めるんだ」
 息がつまる。
「く……う……」
 何が目的なのかまったくわからない。
 自分を強くして王を倒させる? どうしてそんなことを。
 あれほどの力――〝聖槍〟の力があれば、王を倒すことはおそらく不可能ではない。
 それを……どうして――
「答えは?」
「!」
 ジュオは、
「お……」
 否応もなく答えさせられていた。
「俺は――」

「がるっ!」
 眠りに落ちかけていたティオは、はっと身をふるわせた。
「がる? がるがる?」
 反射的に周囲を見渡す。
 夜の闇であろうと、サーベルタイガーであるティオの目には不自由がないくらいに見通すことができた。
 加えて、頭上には月が煌々と輝いている。
「………………」
 視界に入るのは、見慣れた荒野ばかりだった。
「がる……」
 主人であるジュオが姿を消して――
 あの仮面の騎士につれさられてから少なくない日数が過ぎた。
 一瞬で意識を奪われたジュオがあの男の手に落ちるまでの間、ティオには何もすることができなかった。
 ただただ恐怖が身体を縛り上げていた。
 周りの獣騎士たちにしてもそれは同様だったが、つれられていく主人を前に何もできなかったことの悔しさは他の誰とも比べようがなかった。
「がるぅぅ……」
 あのときの無念が疲労しきった身体に力をくれる。
「がる!」
 短く咆哮を上げ。ティオは踏み出す。
 乾燥しきった荒野では、においも風にさらされほとんど残ることがない。
 それでも主の手がかりを得ようと懸命に、
「……!」
 不意にかぎとった――しかしそれは人間のにおいではなかった。
「がる……!」
 目で確認する。
 月光の下、白い身体を輝かせるようにして立っていたのは、
「がるぅぅぅぅ……」
 たちまち戦意が満ちていく。
 見間違えるはずがない。
 あの白馬だ。仮面の騎士をその背に乗せていた。
 吼える。
 激情と共に襲いかかる。
「!」
 かわされた。
 いや、かわされたという感覚すらなかった。
 いなかった。
 空気に向かって飛びかかったような感覚にティオは戸惑う。
 が、すぐに気づく。
 そうだ。ただの馬のわけがない。
 精鋭の獣騎士たちをたった一人で圧倒したあの仮面の騎士の馬なのだ。
 かと言って、この荒野に身を隠す場所などあるはずがない。それほど離れていない場所にきっといるはずで、
「!?」
 驚愕する。
 いた。
 信じられないほど、すぐ近くに。
「……!」
 白馬が身をひるがえす。
 引きこまれる思いでティオはその白い影を追う。
「……っ……」
 月光の中、
「………………」
 ティオは――奪われるようにしてその意識を喪失させていった。


 ジュオがいなければ、自分もまたいなかった。
 獣騎士の騎乗するサーベルタイガー。牙印独自の手法により、それは半野生という形で育てられる。
 ティオもそんな厳しい世界に生まれ落ちた。
 弱き者が強き者に喰らわれる世界に。
「……!」
 いけません! そのするどい声にはっとなると同時に、ティオはあたたかな手に抱え上げられた。
「ジュオ殿……」
 あきれたような、困ったような声が聞こえる。
「情けをかけるものではありません。それはその子虎のために、ひいては牙印のためになりません」
 こちらを抱く手にかすかに力がこもった。負担にならないよう強すぎることはなく、それでいて離す意思はないとはっきり感じさせるものだった。
 声のほうには聞き覚えがあった。サーベルタイガーたちの面倒を見ている男のものだ。といっても、こちらの野生を削ぐことがないよう、餌をくれたり個々の怪我の手当てをしてくれるというようなことはまずなかった。
 このとき――傷ついたティオもまた放置されていた。
 傷つくことには慣れていた。生まれたときから身体が小さく、周りの子どもたちから絶好のいじめの標的とされていたために。
 弱きものは淘汰される。仕方のないことだ。
「ジュオ殿」
 たしなめる調子が強くなる。
 ジュオ。それが自分を抱きあげている人間の名前らしかった。
「いいかげんになさい!」
 厳しい声に対し、首を横にふる気配が伝わってくる。
「いやだ」
 はっきりと。
 彼――ジュオはティオを手放すことをこばんだ。
「………………」
 覚えのない感情がこみあげてくる。
 何なのだろう。このあたたかなものは。
 親からも兄弟からも見放されていたティオにとって、それは初めて感じるものだった。
「いいか」
 顔の高さにまで持ち上げられる。
 ティオは、正面から彼と見つめ合った。
 人間の中では子どもの部類に入るのだろう。幼さを感じさせる顔立ちの中、しかし、強い何かを秘めた目がまっすぐこちらに向けられていた。
「おまえは俺と共に生きるんだ」
「がる……」
「強くなるんだ」
 そっと。胸の中に抱きすくめられる。
「俺と一緒に」
「………………」
 ティオは、
「がる」
 うなずいていた。いじめられるまま、流されるままに生きてきた自分が、はっきりとした意志をもって。
「知りませんよ」
 あきれたような声が届く。
「とても獣騎士と共に戦えるとは思いませんがね」
「………………」
 ティオは決意していた。
 強くなる。
 目の前の少年に言われた通りに。
 彼のために。
 知らなかったぬくもりを与えてくれた人のために。
 そして――
 かつての貧弱さが嘘のように成長したいまも、ジュオへの想いは変わっていない。
 何があろうと共にいる。
 共に生きる。
 共に――


 はっと。
 ティオが目を開いたとき、その景色は荒野から一変していた。
「が、がる……」
 さすがに戸惑いを抑え切れない。
 森。
 目に見えるそれも、湿ったにおいもここが密林であるとはっきり示していた。
 いつの間にこのようなところに。
 あのとき自分がいた場所の近くに森林などなかった。いや、そもそも牙印本隊のいた地域一帯にこれほどの規模の緑地などなかったはずだ。あれば真っ先に捜索の手が入っている。
「がるぅ……」
 捜索――
 意識を失ったジュオをつれた仮面の騎士が姿を消したあと、牙印王はすぐさまその後を追わせた。足取りを見失ってからも、全軍をあげて仮面の騎士の行方を追い求めた。
 一言も――ジュオの救出を口にすることはなかった。
〝聖槍〟だけが王の望みだった。
 どのような手段を用いてもそれを手に入れよ。
 何を犠牲にしても構わないと。
 犠牲。その言葉の中にジュオが入っているのかすらも疑問だった。
 せめて、自分だけは。
 いや、何があっても主人を見つけ出そうとジュオは単騎で荒野をさすらった。
 そして、いま――
「!」
 草を踏みわけてくる音に、とっさにそちらを見た。
 常緑樹の間から現れたその姿は、
「落ち着いてください」
 彼女――きらめく肌をした白馬は凛とした声で言った。
 吼えた。
 落ち着けだと! ふざけるな!
 止まらない咆哮と共にティオはその首すじに向かって、
「!?」
 かわされた。
 すぐさま再び身構える。
 しかし、白馬の姿は木々の間に溶けこむように動き、身体の大きなティオでは無理に飛びこんでいくことができなかった。
「落ち着きなさい」
 聞き分けのない子をさとすように。白馬が言う。
「これはあなたの主人にかかわることです」
「かかわることに決まっている!」
 吼えた。
「おまえたちが……おまえたちが若を!」
「まだ間に合います」
 声があせりを感じさせ始める。
「早く。壊れてしまう前に」
「!?」
 いま何と言われた?
 壊れる? それはジュオのことを言っているのか!
「若のもとにつれていけ! 早く!」
 最初からそのつもりだと言いたそうに、白馬はすぐさま身をひるがえした。


 密集した木々を押しのけるようにしてティオは走った。多少のすり傷など気にしていられる状況ではなかった。
「!」
 不意に視界の開けた――そこに、
「若!」
 悲鳴まじりの咆哮をあげてしまう。
 駆けていく。
 うずくまっていた。大きな樹木の下に。
 その姿を追い求めていた主が。
「ご無事ですか!」
「………………」
 ジュオは何も言おうとしなかった。抱えこんだひざの間に顔をうずめ、大きな身体をただただ小さくしようとするばかりだった。
「若……!」
 尋常ではないその様子にティオは息をのむ。
 と、気づく。
「……!」
 ふるえていた。
 細かく。
 かたかたと身をふるわせながらにじみ出すその感情は、
「……て……」
「っ」
「やめ……て……。もう……やめて……」
 声を失う。
「なぜ、このような」
 ジュオはいやいやをするように首をふるばかりで何も答えてはくれなかった。
「がる……」
 あらためてティオは絶句する。
 その胸にふつふつと抑えきれないものがこみあげてくる。
 ジュオを! 自分の大事な主人をこんな目に!
 許すことはできない!
 殺意をみなぎらせ、ここまで案内してくれた白馬のほうをふり向く。
「!?」
 消えていた。
 月明かりの下、その輝きにとけてしまったかのように。


「失礼します」
 湖のほとりに腰かけていたファザーランサーは、白馬――白椿の呼びかけに、しかし、じっと水面を見つめたままだった。
 そんな主人のそばに近づいた彼女はたんたんと、
「御言いつけ通り、こちらにつれて参りました」
「うん」
 ようやくふり返るファザーランサー。その力のない微笑に白椿は胸をつかれる。
「ありがとう、白椿」
「いいえ……」
 それだけを言い、目をそらすようにしてうつむいてしまう。
「あまり……ご自分を責められるようなことは」
「んー?」
 彼は「どういうこと」と言いたげに首をかしげ、
「あはは。そんなことしないって」
「ですが」
「あり得ないよ」
 その視線が沈み、
「責められるような資格だってありはしないんだ」
「………………」
 何を言っていいのかわからない。
 と、そんなこちらの空気を察したのか再び笑みを見せ、
「やっぱり、ちょっと無理があったのかな。ううん、ジュオは悪くないよ? あの子はとってもいい子なんだから」
 つぶやきながら、またも笑みが消えていく。
「本当にいい子だから……止まらなくなっちゃうのかな」
「っ……」
「ああ、そうだ、あのときもそうだったんだ。『この子のため、この子のため』って思って結局は」
 そこまで言って言葉につまる。
「ははっ」
 仮面を押さえ、天を仰ぐ。
「僕のせいだ」
「………………」
「今度こそ大丈夫って思ったのに……なのに」
 声がかすれゆくように消える。
 沈黙が続く。
「っ」
 はっと。
 不意に立ち上がった主人を見て、白椿はあわてて付き従おうと、
「……!?」
 手のひらをかかげられる。
「もうすこしジュオをここにいさせたいから」
「は、はい……」
 それとなく見守っていてほしいというのだろう。
「僕がいたら、休めないからね」
「………………」
 白椿は、やはり何も言うことができなかった。


「がる……」
 震えが落ち着いてきたのを見て取り、ティオはゆっくりと身体を寄せた。
「………………」
 反応を見せないジュオ。
 と、ぽつり、
「すま……ない……」
「……!」
「俺が……猛々しき獣であるおまえの主が……こんな……」
「がる!」
 それ以上は言わなくていい! ティオは強く鳴く。
「がるぅ」
 寄り添う。
 いまはこれくらいしかできない。そんな自分を、ティオもまた主人に負けないくらい情けなく感じていた。
「ティオ……」
 無骨な手が毛並みをそっとなでた。
 変わらない。たとえ手がごつごつと大きくなろうと、自分を抱きあげてくれたときとそのぬくもりは同じままだった。
「情けない」
 再びその手が震え出す。
「何も……できなかった……」
「それは!」
 ティオはあわてて、
「決して若が力不足なのではありません! 他の獣騎士たちもあの仮面の騎士には」
「違う!」
 激しく。子どもがかんしゃくを爆発させるように首をふる。
「違う、違う! 違うんだ!」
「わ、若……」
「あの男は」
 どっと。涙があふれ、
「あの男は俺を強くしようとした」
「えっ」
 何を言われたのかわからなかった。
「強くしようと」
「そうだ」
「あの男とは、まさか」
「ファザーランサーだ」
 それがあの仮面の騎士の名らしいとティオは察する。
 すると、ますます混乱してくる。
 なぜ、ジュオをさらった仮面の騎士がジュオを強くしようとするのだ。まったく意味がわからない。
「他に道はなかった」
 独白は続く。
「あいつは俺を……お、俺を」
 がくがくがくっ!
「若!」
 わななくジュオの身体を必死に押さえる。
「がるぅぅ……」
 彼が体験したであろう恐怖がこちらにも伝わってくる。とにかく、こうなっては一刻も早く安全なところにつれていくしかない。
「がる? がるがる?」
 周囲を見渡す。
 深い森が不意に途切れたかのような広々とした空間。
 そして、夜空には月。
「がるぅ……」
 やはり――このような場所はティオがいた荒野とはかけ離れている。
 どうすれば戻れるのか見当もつかない。
「がる!」
 それでも行かなければ。自失状態のジュオを背に乗せると、記憶を頼りにもと来た森のほうへ、
「無理はいけません」
「!」
 あの白馬だった。
「がるぅぅ……」
 わき立つ怒りを抑えられない。
 しかし、いま背にはジュオがいる。従うのは悔しいが確かに無茶なことはできなかった。
 白馬はこちらにすまなそうな目を向け、
「ここで心と身体を癒やしてください。それが主の意思です」
「がる!」
 誰が、ジュオをこんなにしたというのだ! その『主』ではないか!
「ここは特別な場所です」
「がる……!?」
「月の庭園」
 夜空を見上げ、詠うように彼女が言う。
「外の人間には干渉されない」
「……?」
 何を言っていると思ったが、すぐあることに気づく。
 まやかし。幻術。
 いや、この世界そのものを組み替えてしまうような力。
 牙印や機印のような大国ではないが、そのような能力を持った者たちを擁する国はいくつか存在する。
「魔印(マイン)……それとも冥印(メイン)か罪印(ザイン)の」
「主は」
 かすかに言葉を選ぶようなそぶりを見せたあと、
「ファザーランサーはそれらのどの国の利益のためにも動いていません」
「ならば」
「姫」
「……!」
 そうだ。
 ティオも噂にはもれ聞いていた。
 姫――
 卵土の鍵を握ると言われるその存在を獣騎士たちから守ったのが仮面の騎士だと。
「がるぅぅ……」
 ティオはますます敵意を強め、
「姫のために獣騎士たちを止めたというのか。その上、若までも!」
「その通りです」
「っ!」
 感情が沸騰する。
 しかし、ゆらぎのない彼女の目がティオを止める。
「姫など」
 吐き捨てる。
「知ったことではない! 若の! 若のことだけが!」
「同じです」
「!?」
 近くに――
 驚くほどすぐそばに白馬の姿があった。
「大切なのです」
「が、がる?」
「この世界において姫と呼ばれる方は、主にとって守らねばならぬ存在なのです」
 かすかに言葉につまったあと、
「姫の……母君と共に過ごした主には」
「……!」
 母! 姫の!?
「おい」
 そのとき、
「聞かせろ……」
 ジュオが顔を上げていた。
「がる……!」
 無理をしないでほしいと鳴くも、
「聞かせろ」
 ティオの背から降りると白馬に詰め寄り、
「あの男は。一体何なんだ」
「………………」
 白馬は、
「伝説の騎士」
「!」
「そう……呼ばれていました」
 呼ばれて――いた?
「どこで……」
「わたしたちの世界で」
「――!」
 わたしたちの世界!?
 なんだ? 何なのだ、この者たちは!
「聞かせろ」
 あらためて。ジュオが言う。
「聞かせてくれ……」
 切々と。白馬に向かって訴えかける。
「あの男は何をしようとしている」


「ぶふぅ」
 伝令を下がらせた王は重苦しい息を吐いた。不快の息だった。
 必要がないのだ。
 不首尾の報告など。
 しかし、その不快さは普段と違い、己自身に向けられていた。
 報告を求めたのはそもそもこちらであったために。
(魅入られた……〝聖槍〟にな)
 そのあせりの表れだろう。王は冷静に自分の心を観察する。
 牙印王として、いや一人の獣騎士としてそれは〝姫〟以上に魅かれるものだった。
 はるか過去に失われたとされる槍。もちろん実物を見たことはない。記録もあてにならないと思っている。
 しかし、はっきりと感じた。
 あれは〝聖槍〟なのだと。
 ゆえに進軍を止め、ためらいなく総力を挙げてその行方を追わせた。
(しかし)
 これだけの日数をかけて見つからないとなると、新たな可能性を考えなければならない。
(逃げたのではなく……〝隠れた〟か)
 隠形の術にすぐれているのは罪印の影騎士(えいきし)たちだ。
 仮面をつけて正体を隠しているところは、それらしいとは言える。姫の強奪を仮面の騎士に妨害されたと聞いたときも、罪印の関与を疑った。
 しかし、あれが影騎士だとは思えない。あまりにも堂々とし過ぎている。
(ならば)
 魔印――あるいは冥印。
 魔印ならば交渉は可能だ。牙印と魔印のつながりは古く、現在上空から捜索を行っているグリフォン等の魔獣も元は彼の国から提供されたものだ。
 冥印では、話が変わってくる。あの国は外部と交流することを好まない。というより〝死〟を扱う彼らを他の国が忌避しているのが実状だ。
(いや)
 最も懸念すべき可能性に思い至る。
(機印――)
 彼らの技術による隔離空間への退避。あり得ない話ではない。
 が、逆に、機印の関与がはっきりすれば、戦を好まない魔印を引きこめるかもしれない。そもそも彼らが牙印とつながりを持ったのは、機械技術という相いれないものへの敵対意識ゆえなのだから。
「ぶふぅ」
 軽く頭をふる。
 情報がすくなすぎる。いまは何をどう判断しても空論の域を出ない。
 そのような無駄な思考をしている自分を、しかし、王は不快ではなかった。
 興奮している。
 獲物を追う獣として。
 すくなくとも、何の目的もなく仮面の騎士が牙印の前に立ちはだかったとは思えない。
 目的――
「姫か」
 その可能性が最も高いことは、さすがに推論するまでもない。
 姫を守ったというのも仮面の騎士。
 それとあの騎士が同一人物かは断定できないが、まったくの無関係とも考えられない。
「ぶふふ」
 探す必要などなかったのかもしれない。
 自分たちが進軍を再開すれば、またあの仮面の騎士は現れるだろう。
 確信が胸に兆した――と、そのとき、
「むぅん!」
 酒杯を足元に叩きつけた王は、そばにあった騎士槍をためらうことなく天幕の向こう目がけて投げつけた。
「ぶふぅ」
 直接手にしていなくとも、手ごたえのあるなしはわかる。
「危ないなあ」
 そう言って中に入ってきたのは、
「外にいた者はどうした」
 無駄だ。聞くまでもない。
 やはり興奮している自分を感じ、王は笑みをもらす。
 すると、仮面の騎士もまた、
「無駄なんだよね」
 嘆息と共に口にする。
「王様を倒してしまえば全部終わり……っていう国じゃないんだものね」
「その通りだ」
 頂点をつぶす。確かに他の国ならそれで片がつくかもしれない。
 牙印は獣の国だ。
 もちろん群れに頂点はいる。この自分だ。
 しかし、それが絶対不変でないことは誰もが知っている。
 大きくなればなるほど群れは一つの意思では治まらない。四人の大公を始めとした実力者たちは常にこちらの首を狙っている。
「だからこそ、無駄は許されん」
 王は、
「むふぅ!」
 跳んだ。仮面の騎士目がけて。
 酒杯を手放さない男と思えないほどにその踏みこみはするどかった。
「ねえ」
 仮面の騎士が乱れのない声を放つ。
 止められていた。
 牙印の誰より巨体を誇る自分の全力の拳が片手で。
 それくらいはとうに予測していた。
 止まらない。
 いつ以来になるかわからない全身全霊の力をもって、王は途切れることのない打撃を目の前の男に注ぎ続けた。
「無駄が嫌いなんだよね、王様は」
 答える意味すらない。まさしく無駄だ。
「それって」
 仮面の奥に冷光がまたたく。
「自分の子どものことも無駄なの?」
 見えた! かすかな体の乱れ。それを王は見逃さなかった。
「ぶふぅん!」
 手ごたえあり。
 下からのすくい上げるような拳を腹に受けた仮面の騎士は、天幕を突き破る勢いで上空へと吹き飛ばされた。
「ぶふぅう」
 勝った。槍を取るまでもなかった。
(いや)
 獣には油断も過信も許されない。
 気を探る。
 上だけではない。四方を隈なくじっくりと、
「決めたよ」
「……!」
 正面だった。
「ぶふぅ……」
 汗が。どっと吹き出る。
 いつだ。
 いつ、そこにいた。
(違う)
 いたのだ。最初から。
 幻術のたぐいか。いや、熟練の術師でも視覚だけでなく五感すべてを使って獲物をとらえる獣騎士をあざむくのは難しい。
 そして気づく。
(なんだ、この男は)
 とらえられない。
 目の前にいるのに。
 まるで、そこにいないかのような。
 空――
 そんな言葉が脳裏に浮かぶ。
「そうだ、最初からそうすればよかったんだ」
 逆にこちらがいないかのように仮面の騎士が語り出す。
「そうすればあの子も解放される。なんの問題もないじゃないか」
「何を……言っている」
 不吉な予感に王は口を開く。
「ああ」
 いたのに気づいたというように仮面の奥の目が細められる。
「壊してしまおうと思って」
「……!?」
「だから」
 ふわっと笑い、
「消してしまうんだよ。牙印という国を」

「この道でいいんだな!」
 足を速めながらジュオが大きな声で確認する。
「がる!」
 主人の後ろを行くティオは「どうなのだ!」というように白椿のほうをふり返る。
 道。
 木々の間にそう呼べるものはなかったが、それでも大きな身体をすべりこませるようにして一行は進んでいた。
「おい!」
 主人のあせりを代弁するように声を張るティオ。
「嘘をついているのではないだろな!」
「そのようなことはありません」
 白椿が凛と言う。
「主に言いつけられています。外に出たいと言われたときは案内するようにと。ただ」
 かすかに目を伏せ、
「もう少しここで休まれてから……とは思われていました」
「くっ」
 休ませたい。それはティオも同じ気持ちだ。
 身体に大きな傷はない。しかし、心に大きすぎるほどの傷をジュオは負っている。
「申しわけありません」
 駆けながら謝意を口にする。鋭敏なティオの聴覚はそれを正確にとらえる。
「言うべきではなかったのでしょうね」
(どちらにしろ……)
 ジュオは心に新たな傷を受けることになっただろう。
 ほんのわずか前、彼に問い詰められた白椿は語った。主人――ファザーランサーが牙印王のもとへ向かったと。
 とたんに顔色を変え、
「俺をここから出せ! いますぐにだ!」
 その勢いに白椿は逆らえず、結果、こうして共に出口へ向かっている。
「出口……」
 ティオはあらためて、
「やはり、ここはあの荒野から切り離された場所なのだな」
「ぷる」
 白椿がうなずく。
「月の庭園。庭園というには広すぎる空間ですが」
 なぜこのような場所のことを知っている。口にしそこねたその疑問をいまさらながらにぶつ
けようとするが、それより早く、
「ご友人です」
「……!?」
「この場所のことは、主がご友人の方から教わりました」
「友人……」
「ええ」
 たんたんと、
「主とわたしがこちらの世界に来たとき、力になってくれた方です」
「……!」
 こちら――
 そのことについての説明はすでに受けていた。
 卵土とは異なる世界。はるか昔、姫の魂が迷いこんだ世界から彼らは来たのだという。
「わたしたちの後から真緒(まきお)さん……姫もまたこちらに来たと知りました。そのために主は」
「守るのか」
「っ」
 ジュオが足を止めていた。
「守るのかと聞いている……」
 こみあげる不安のためか、いまにも泣き出しそうに瞳をふるわせながら、
「そのために王を! 牙印のことを!」
「その通りです」
「!」
 見開かれる両眼。
 白椿は一切ごまかすつもりはないという顔で、
「牙印が姫を求めていることは明らかでした。主にとってそれは決して看過できないことなのです」
「く……う……」
「けれど」
 その声が重くなる。
「主は牙印を『知ろう』としていました」
「えっ」
「わたしも」
 ジュオの目を見つめ、
「主とは別に、牙印の獣たちに話を聞いて回っていました」
「そうだったのか!」
 驚きの声をあげたのはティオだ。
「そのようなことを」
「していました」
 堂々と。答える。
「そして知りました」
「何を」
「牙印という国が」
 澄んだ目が今度はティオに向けられ、
「人と獣の確かな絆で成り立っている国なのだと」
「……!」
「あなたとジュオさんのように」
「が、がる」
 面はゆくなり、たまらず目をそらす。
「そして、主は牙印の方々とまじわり、やはりその心根が〝悪〟でないということを知りました」
「っ」
 上からに思える言い方にかすかに不快さは覚えたものの、戦場で見たあの実力の一端だけでも一人で国を相手にできる騎士だというのは確かなのだ。
「ですが」
 すっと目が細くなる。
「彼らと姫でしたら、主はためらいなく後者を取るでしょう」
「く……」
「ただし」
 再びその目がジュオに向けられ、
「家族――〝息子〟でしたら話は違います」
「!」
 ジュオの身体がふるえる。
「若……?」
 そのふるえの大きさにまた恐怖がよみがえったのかと、
「あっ!」
 駆けだす。
「わ、若!」
 あわてて後に続き、一行は再び森の中を進み始めた。
 と、間もなく、
「――!」
 木々の隙間から一際強く月光が差しこみ――
 光の中、意識は途切れた。


× × ×


「戻ってきたか」
 つぶやくジュオ。
 目を開く。
 景色は一変し、そこは見覚えのある乾いた夜の荒野だった。
 出口――
 空を見上げる。
 煌々と光る月の光が大地に注がれていた。
 あの場所と共通する月光。それこそが〝扉〟だったのだろう。
 程度の心構えがあったジュオは、片膝こそついたものの無様に倒れ伏すようなことはなかった。
「が、がる……」
 見れば、ティオも軽く頭をふりつつ、すでにいつでも動ける体勢にあった。
「……!?」
 白椿。
 あの白馬の姿が消えている。
 ――と、
「!」
 気づく。
 風に乗って漂ってきた――血の匂い。
「ティオ!」
 抱いていた懸念がふくれあがり、こちらの叫びに応えて四肢に力をこめたティオにすかさず飛び乗る。
 駆けてほどなく、それは目に映った。
「あ……」
 凄惨。そうとしか言いようのない光景が広がっていた。破壊された輜重の荷車、吹き飛ばされた無数の天幕、そして――そこかしこに倒れている獣騎士たち。
「くっ」
 これをファザーランサーが。
「早かったね」
「!」
 風に乗って届いた声。
 ふり向いた瞬間、目を見開いたまま動けなくなる。
「う……ぁ……」
 累々と積み重なる獣騎士たちの山。
 その頂きに座り、月光に照らされた仮面の騎士が微笑んでいた。
「ファザー……ランサー」
「いつかは知られることになると思ったけど」
 ふわりと。風に舞う羽根のような優雅さで下に降りる。
「もうすこし先であってほしかったな」
「く……」
 たまらず後ずさりそうになるも、なけなしの気力をふりしぼってそれににあらがう。
「王は」
「やっぱり、お父さんのことが気になる?」
 当たり前――と言いかけた自分に気づき、そうではないというように声を張る。
「答えろ! 王をどうした!」
「餌だよ」
「!?」
 餌。それはどういう。
「王がいなくなっても牙印という国はなくならない」
「っ」
 その通りだ。力のある者があらたな王になるだろう。
「でもね」
 軽やかに笑い、
「放ってはおけないよ。自分たちの王を倒した騎士を」
「――!」
 唐突に。その目論見を悟る。
「あんたは」
 声のふるえを懸命に抑えつつ、
「王を倒した自分を囮として……牙印の騎士を」
「だってさー」
 まったく変わらない軽い口調で、
「大きいからね、牙印の国は。さすがに僕だけですべてを追いかけることはできない」
「すべて!?」
 この男は本気で牙印を卵土から消そうというのか。
「キミのためでもあるんだ」
「!」
 息が止まる。
「国そのものがなくなれば裏切り者なんて疑われる心配もないだろう? 疑う人そのものがいなくなるんだから」
「な……」
 限界だった。
「ふざけるなぁ!」
 響く怒号。しかし、向こうはすずしい顔のままだった。
 こちらがはるかに卑小な存在であるように思われ、それをふり払おうと声を張り上げる。
「俺のためだと!? 俺が……俺が……」
 涙が落ちていた。
「俺の……ため……」
 その通りだ。
「俺のせいで……」
 ファザーランサーはジュオを強くすると言った。
 強くすることで、王になってもらうと。
 それはつまり――
 最も牙印が〝傷つかずに済む〟方法であったのだ。
 もちろん、ファザーランサーの言うことに盲目的に従うつもりはない。それでも、何がなんでも姫を手に入れ、卵土の覇権を握りたいという思いはジュオにはない。獣騎士としての覇気がないと言われても、それが本心だ。
 そんな自分を、仮面の騎士はきっと見抜いたのだ。
「だけど、俺は」
 挫折した。あっさりと。
 笑顔でこちらを追いつめる。なんの悪意もなくそうしてくる彼への恐怖に負けた。
「俺は……俺は……」
「泣かなくていい。キミは悪くな――」
 そのとき、
「ぶふうぉぉぉぉぉぉお!!!」
「!」
 うず高く積まれていた獣騎士たちの山。そこから飛び出してきたのは、
「王!」
 踊りかかる。無防備なファザーランサーの背中に。
「生きていたんだ」
 仮面の騎士がすずやかにふり返る。
「っ」
 猛獣。それをも超えた嵐のような狂乱。
 拳、脚、爪、頭、さらには噛みつきまでもふくめたありとあらゆる攻撃を、まるで暴風のようにあびせる。
「お……」
 押されている。無敵の騎士が。
 落ち着き払った様子は変わらないものの、立て続けにくり出される王の攻撃に彼は後退を続けていた。
「ああ、そうか」
 ファザーランサーは何かに気づいたというように、
「そういうことか。やっぱりすごいよ、騎士でなくなったのにここまで戦えるなんて」
「……!」
 騎士で――なくなった。
「知ってるよ」
 後ろに下がりつつ、彼は遠くを見る目で、
「この力の源。それは」
「むぉう!」
 一際猛々しい咆哮と共に放たれた拳が、
「!」
 顔面をとらえた。
「ああ……っ!」
 予感はしていた。〝彼〟が自分と接触し、他の獣騎士たちとも親しく酒盛りをしていたのを思い出したときに。
 吹き飛ばされた仮面の――その下にあったのは、
「ふふっ」
 森がうれしそうに笑った。
「そうだったんだ」
 そんな彼に続けざまの打撃をと思いきや、
「!?」
 崩れた。膝からというような生易しいものでなく、朽ち木を思わせる勢いで王の身体が前に倒れ伏した。
「王!」
 とっさに駆け寄り、その身体を抱えこむ。
「――!」
 目が合った。王にはまだ意識があった。
「あ……」
 その瞳の中にジュオは信じられないものを――
「彼はもう騎士として戦えない」
「!」
 あらためて聞いた衝撃の言葉に、たまらず森をにらみつける。
「ふざけたことを言うな! 王は獣騎士の頂点に立つ者だ!」
「冗談じゃないんだよ」
 かすかに悲しみをたたえ、
「それがね……〝聖槍〟の力なんだ」
「……!」
〝聖槍〟の――
 いや、それはおかしい! 戦場で自分がやられたとき騎士の力が失われたという感覚は、
「あっ」
 思い出す。
 森――〝聖槍〟を手にしたファザーランサーは、あのとき素手で自分を制したのだ。
「キミから力を奪いたくはなかったから」
 こちらの気づきを察したように微笑しながら言う。
 と、その目が冷え、
「他の人間は話が別だ」
「!」
「僕は姫を狙う相手に力を持たせておくつもりはない」
「そんな……なら……」
 あふれ返りそうに様々な想いがうずまく中、
「最初から言ってくれれば」
 冷たいままの目がこちらを見すえる。
「く……」
 ジュオは、いまにも泣きそうになりながら、
「最初からそう言えば……俺は……」
「キミは逃げたんだ」
「!」
「悪いとは言わない。けど、逃げた人間に僕はもう期待をかけない」
 その目が静かに伏せられ、
「かけたりしたら……いけないんだ」
 あらためて。
「く……っ……」
 ジュオは自分の不甲斐なさに絶望する。
 と、不意に、
「っ」
 王が動いた。
 ふるえる腕を上げ、ジュオを押しのけて前へ出ようとする。
「や、やめろ! 無茶だ!」
 本当に騎士の力が失われているのだとしたら――
 王は……それでもなぜ――
「別の力だよ」
 はっと、森を見る。
「別の……力……」
「わかるかい?」
「……っ」
 ジュオはあたふたと、
「お、王としての誇りだ! 獣騎士の頂点に立つ者として最後まで」
「愛だよ」
 突然のことに、
「あ……」
 愛!?
「………………」
 何を言われたのかわからなかった。
 あぜんとなるジュオに、森は微笑みかけ、
「わかるでしょ」
「わ……」
 わからない。
「キミへの愛だよ」
「!」
 すかさず、
「あり得ない!」
 大声を張り上げる。その勢いは止まらず、
「愛だと!? 俺への? そんなものあるはずがない!」
 何も言い返されない。
 あふれるジュオの感情は奔流となり、
「王は、王だ! この俺の……たった一人の人間のことなど気にかけるはずがない! それでいい! それでこそ、王だ!」
「………………」
「だから、俺は、愛なんて……あ、愛なんて」
 いらない。
「っ……」
 言えない。
 愛などいらない。そう言い切ることがジュオにはできなかった。
「あ……あり得ない」
 その言葉をくり返すしかなかった。
「ね」
「っ!」
 またもいつの間にか。すぐ目の前に森の笑顔があり、
「わかったでしょ」
「う……」
 とっさに王の表情を確かめそうになるも、
「くっ」
 できなかった。
 もし、森の言うことが虚言だったらと思うと、
「……!」
 虚言だ! 嘘に決まっている!
 王にそんなー―
「言えなかったんだよ」
「っ!?」
「キミのことを愛してるって」
「い……」
 言えるわけがない、そんなことが!
 顔を灼熱させるジュオに、
「キミが大事だから、言えなかった」
「!」
「はっきりわかったよ」
 思いをはせるように月を見上げ、
「僕は二度も失敗しちゃったけど」
「えっ……」
「期待」
 一言。森が言う。
「一方的な期待をかけることで、僕はキミを傷つけた」
「……!」
「そういうことを」
 すずしい目がこちらを見る。
「キミのお父さんはしたくなかったんだよ」
「そんな」
「期待だけじゃない。愛情や親しみもまたキミのためにならないと思った」
「そ、それは」
 わからなくはない。獣騎士たる者にそんな甘い感情は不要である。
「危険だからだよ」
「えっ……!」
 またも思わぬ言葉を聞き、ジュオは目を剥く。
「危険……」
「そう」
 森がうなずく。
「キミが王にとってかけがえのない大切な人間だと思われることが。とても危険だった」
「………………」
「だって、そうだよね」
 軽く肩をすくめ、
「牙印の王位を狙っている人間はたくさんいるんだから」
「……!」
 その通りだ。
 牙印王は世襲ではない。そういう意味では、子どもであるジュオが狙われる理由はないとは言える。
 しかし、現実はそう単純でない。
 王になるためには、まず現在の王にいなくなってもらわなくてはならない。
 それが王を動揺させ、隙を作れるとなれば――実子であるジュオを狙うという可能性がないとは言えないのだ。
 と、そこで気づかされる。
 そもそも、森自身がこの自分をさらって王を動揺させるようなことをしたのではないか。
「お……おい!」
 新たな怒りがこみあげ、
「あんたは……あんたは王を倒すために俺を!」
「そうだよ」
「!」
「言ったじゃない」
 すました顔で、
「キミを強くして王になってもらうって」
「それは……」
 言った。確かに。
「でもね」
 どこか引け目を感じさせるような笑みをこぼし、
「キミのお父さんは息子を探すことに必死だったよ。自分のいるこの本隊をほとんど空にしちゃうくらい」
「そんな……!」
 確かに。
 ざっと見回しただけでも、倒れている獣騎士たちの数は本来の兵員から考えて明らかにすくなかった。
「だからさー、餌にするしかなかったんだけど」
「っ……!」
 餌――
 再び聞いたその言葉にどうしようもなく怒りをかき立てられる。
「取り消せ……」
「取り消す」
「っ」
 あっさり言われて思わずよろめく。
「キミのお父さんは、ちゃんとお父さんだった」
「ち……」
 またも反射的に、
「違う! そんなことのために王は」
「じゃあ、どんなことのため?」
「それは」
 言葉に詰まるも、
「決まっている! 〝聖槍〟のためだ!」
「違う」
「……!?」
「違うよ。そんなことのために」
 冷然と、
「自分に扱えない槍のために本気にはならない」
「えっ」
 扱えない?
「なぜ」
「だってさ」
 あくまでも軽い調子で、
「騎士の力をなくしちゃう槍なんだよ。そんなの普通の騎士に持てるわけないよ」
「それは」
 王は並の獣騎士ではない! おまえこそ一体何なのだ!
 様々な思いがめぐる中、
「し……知らなかったんだ」
「んー?」
「王は自分にならと」
「ジューオ」
 またも。すぐそばに森の顔があり、驚きのけぞる。
「わかってるでしょ」
「く……」
「わかってるよ」
 こちらの目をのぞきこみ、
「お父さんは――」
 そのときだった。
「黙れ」
「……!」
 立ち上がった。
「お、王」
 あぜんと声をふるわせる。
 立っていた。
 最後の力までもふりしぼり切り、とても動けそうになかった男が。
「黙れ」
 くり返す。森に向かって。
「やっぱり」
 微笑む。
「そう言うってことは息子のことを」
「黙れ!」
 声を張り上げたのは、しかし、ジュオだった。
「王は……王は……」
 その後の言葉が続かない。
「!」
 ぐっと。王の太い腕が後ろに下がらせようとする。
「っ……」
 下がれない。このまま下がることなどできない。
「花房森!」
「なーに」
「く……!」
 この男はどこまでも――
「俺は……俺は……」
 唇を噛みしめ拳をわななかせ――ジュオは、
「構えろ」
 構えられた。
「うっ……」
 こうもまたあっさりと。
 しかし「構えろ」と言ったのは自分だ。ジュオもまた己の槍を前に向ける。
「やめろ」
 王の声が強くなる。
「おまえでは無理だ」
「っ」
 無理だろう。無理に違いない。
 戦うどころか修行すらまともについていけなかった自分なのだ。
 それでも引けなかった。
 引きたくなかった。
「これが最後の教えってことになるかな」
 静かに言う。
 悠揚としながらも、ジュオはそこにゆるぎのない真剣さを感じ取っていた。
「………………」
 死ぬ。
 命はとりとめても騎士として自分は死ぬだろう。
 不思議と恐れる気持ちはなかった。
「下がれ」
 王が言う。
「下がれ」
 再び。
「………………」
 無言のまま。ジュオは首を横にふる。
「ティオ!」
 飛び乗る。こちらの覚悟を感じ取ったのか相棒にためらいはなかった。
 覚悟――
 そのような強いものではない。
 ジュオの心は、なぜか驚くほどに静かだった。
「いいよ」
 森もまた白椿に乗る。
「そうだよ、ジュオ」
 その目によろこびをたたえ、
「それでいい」
「っ」
 ここに来ても師匠――いや父親面をするというのか。
「ふぅ」
 自分を落ち着かせる。
 よけいなものなどまじえられない。自分がこれから槍を合わせようとしているのはそういう相手だ。
「さあ」
 森が言った。
「始めよう」

「あ、ちょっと待って」
 がくっ!
「な……」
 これから『命』をかけた戦いが始まるというその寸前での「待った」に、さすがに前のめってしまうジュオ。
「何を言っている!」
「忘れてたから」
「忘れてた?」
「忘れてた、忘れてた」
 無造作に。
「!」
 接近される。
「はい」
 当てられた。顔に。
「? ?」
 ふれて確かめた――それは、
「仮面……」
「ライオランサー」
「!?」
 あぜんとなるこちらに向かって再び、
「ライオランサー。キミの名前だよ」
「ライオ……ランサー」
 ぼうぜんとつぶやく。
 再び距離を開けた森も仮面をつけ、ファザーランサーとなる。
「これでいい」
「……!」
 あせりに突き動かされながら、それでも心を鎮めつつ、
「突撃(ランスチャージ)――」
 腰だめに。
〝双牙の槍〟を構える。
 ファザーランサーは待ちの姿勢だ。
(馬鹿にして……)
 いや、いまはその態度に惑わされている余裕はない。
 力をこめていく。
「ふぅ」
 静かに。
 渾身の一撃を。
 自分のすべてをこめた一突きを放つために。
「行けぇ!」
 ティオを駆る。
 馳せる。まっしぐらにファザーランサー目がけて――
「突撃(ランスチャージ)」
 静かに。
 ファザーランサーが口にした。
 構えを取る。
「!」
 圧される。
〝聖槍〟――伝説にうたわれるその槍の〝圧〟が迫る。
「うおおおおおおおおお!」
 吼える。
 獣騎士として。
 乗虎と一体となった『獣』として。
 その咆哮を〝聖槍〟にぶつける。
「違うよ」
 あっさりと。
「どこを見ているんだい」
 突先が眼前に迫りながらも、彼は言う。
「キミが突き貫くのは槍じゃない。僕だ」
「!」
 はっと。
 瞬間に突先を――
「はあっ!」
 前へと突き出す。
〝聖槍〟にとらわれるのではない。
 その先に立つ――
 自分が……超えるべき――
「っ」
 キィィィィィィィィィィィィィィィィィィィン!
 音は――
 いや、それは音ではなかった。
 ふるえる。
 空間が。世界が。
「く……」
 ふるえている。こちらもまた。
 身体を通して――魂が。
 存在そのものが。
「だ……」
 だめだ。
 受け止めきれない。
 突き合わせた槍を通して伝わる圧倒的な騎士の力の源――騎力(きりょく)。
 飲みこまれる。
 ちっぽけな自分など。
 そばにいて何度も感じたつかみどころのなさ。
 違う。
 自分がつかめなかっただけ。
 いや、きっと誰もがつかみ切ることなど、把握し切ることなどできない。
 空。
 果てのない。
 そこに飲みこまれていく。
(あ……ああ……)
 失われていく。
 力が。
 騎士としての自分が。
(いやだ……)
 あらがう。
 何の意味もない。
 すべての力を、意識ごと――
(俺は)
 小さい。小さすぎる。
 こんな自分が何をできるつもりだったのだ。
 獣騎士だ。そんな自負など、笑えてしまうくらい何の意味もない。
(俺は……)
 毎日一人で修練してきた。それが泣けるほどに無価値だった。
(できない……何も……)
 そのとき、
「っ!」
 ティオの猛々しい吠え声が、絶望に沈みかけていた心を呼び戻す。
(そうだ)
 一人ではない。
 自分のそばには常にティオがいた。
「くっ!」
 押される一方だった槍を持つ手に力がこもる。
 しかし、
「くぅ……」
 圧される。
 槍そのものにではない。槍を通してこちらを侵食してくる力をふせぎようがなかった。
「あ……あぁ……」
 騎士でなくなる。
 あらためてその恐怖にくずれてしまいそうに――
「むぅん!」
 背中に。感じた。
「あ……」
 引きとどめるように。
 奪い返すように。
 大きなこの自分の身体をも包んでくれる。文字通りくるみこむような、そんな体格を誇る者は自分の知る限りただ一人。
「ち……」
 父――牙印王!
 なぜ、王が自分の後ろに? しかも、支えてくれるようにして。
「――!」
 支える。
 王は自分と共に――
「なるほどね」
 突撃を続けながら、ファザーランサーがつぶやく。
「お父さんが受けるつもりなんだ」
「っ」
「このままだとキミは聖槍にすべてを奪われる。その身代わりになるつもりなんだ」
「そっ……」
 そんなことができるのか!?
「行け」
 耳元で言う。切れ切れの声で。
「行け! 牙印の……獣騎士の誇りを受け継ぐものとして!」
 獣騎士の誇り――
(俺は)
 賭けるしかない。
 賭けて、駆けるしかない!
 突き抜けるしかない!
「うおおおおおおおおおおおお!」
 吼えた。
「ふふっ」
 笑った。
「騎力を奪う」
「……!」
「奪った騎力をそのままぶつける」
 はっと。
(そうか)
 理解した。
 初遭遇のとき、爆発するかの勢いで次々と舞い上げられた獣騎士たち。あれは突撃した自分の力をそのまま返されていたから。
 いや、それ以上だ。
 騎士でなくなる。
 つまり、すべての騎力を奪われる。
 それをそのまま返されたとしたら――
 全力でなく、全騎力。
 生涯をかけて磨かれる騎士としての力を、一瞬で。
 吹き飛ばされて当然だ。
 牙印の大兵力で向かっても、それと同じ、いや以上の力が返ってくる。
 全滅して――当然だ。
「でも」
 苦笑する。
「すでに騎力をなくした器から、あらたに騎力を奪うことはできない。そしていまの彼を支える力は〝聖槍〟でも奪うことはできない」
「っ」
 愛――
「僕の負けだよ」
 あまりにもあっけなく、
「!」
 消えた。
 その姿が馬上から。
「あ……」
 勢いよく後方に吹き飛んでいくファザーランサーを見て、
「………………」
 しかし、勝利の喜びはわいてこなかった。
 信じられなかった。
 こんなにもちっぽけで無力な自分が――
〝聖槍〟を……伝説に語られる槍を持った騎士を――
「……!」
 はっとなる。
 背後にあった王の身体から力が抜けた。
「大丈夫か、ち……王よ!」
 自分によりかかってくる巨体をあたふたと支える。
 答えはなかった。
 今度こそ、王は完全に意識を失っていた。
「王よ! 王……」
 止められない。感情が絶叫となってほとばしる。
「父上――――――――っ!!!」
 月の荒野に。
 その声はどこまでも遠く響いていった。

「これからどうなるのかなあ」
 森は――
 馬上から白椿にそう問いかけた。
「ぷる……」
 困ったように鼻を鳴らされる。
「わからないよねえ」
 苦笑しながら頭をかく。
 ただ、予想できることはいくつかある。
 牙印からの〝姫〟への干渉はひとまず収まるだろう。王がその力を失ったいま、次の王の座をめぐって争いが始まるのは明らかだからだ。
「次の王様はジュオ……ってわけにはいかないよね」
 またも頭をかく。
「だめだなあ。僕は急ぎすぎちゃうから」
 なかば自分に向かってつぶやく。
「ゆっくり大人になればいい。ジュオはいい子なんだから」
 心からそう口にする。
 そして、確信している。いますぐではないにしろ、彼は必ず牙印という国を導くことのできる人間になると。
「さーて、次は機印かなー」
「ぷる」
 白椿がうなずいた――そのとき、
「っ」
 彼女の足が止まる。
「あはっ」
 森が笑う。その見つめる先に立っていたのは――


「こんなことだろうとは思った」
 悔しさも何もわいてはこなかった。
 当然だと思った。
 森が――あれほどに圧倒され決して叶わないと思えた相手がいまの自分に倒せるはずはないのだから。
「誤解だよ」
 またもこちらの心を読んだかのように、
「キミは僕に勝った。それは事実だ」
「違う」
 首を横にふる。
「仮に勝てたと言えるなら、王がいたからだ」
 そして、
「あんたはああなることをわかっていたはずだ」
 すました顔で何も答えない森。
 しかし、ジュオにとってそれは十分に〝答え〟だった。
 思い出す。
 あの後――
 意識を失った王を懸命に介抱している間に、森と白椿は共に消えていた。
 王を放っておくことはできず、その後やってきた別動隊の獣騎士たちの力を借りて安静にできる場所へと運んだ。
 それからは大混乱だった。突如として国の頂点が倒れたのだから。
 その騒ぎもひとまず静まり、ジュオはこうして森を追いかけてくることができたのだ。
「お父さんのそばにいなくていいの」
 森が言う。
「俺にできることはない」
 再び首を横にふり、
「俺は……子どもだ」
「子どもだからいいんだよ」
 森は言う。
「子どもには無限の未来がある」
 瞳をわずかにうるませ、
「その未来に、自分の希望を託せる」
「そんなことはない」
「そんなことはなくないよ」
 森も首をふる。
「きっと、そばにいてほしいと思ってるよ。自慢の息子に」
「っ」
「あー、ジュオが僕の息子だったら、ずっとそばから放さないんだけどなー」
 と――
 森の顔がかすかにこわばる。
「だめだね。そういうことをするから僕は息子を……子どもを壊しちゃうんだ」
 言いながら白椿の首を返し、こちらに背を向ける。
「おい」
 森は止まらない。
「おい!」
 呼び止める。止まらない。
「行くな!」
 行ってしまう。
「行くなよ!」
 叫び声と共に涙が飛び散る。
「なんで行っちゃうんだよ!」
 止まる。
 白椿の――森の足が。
「行くなよ……」
 切れ切れの声で訴える。
「俺は一人で、どうすればいいんだ」
「一人じゃないでしょ」
 笑顔で。ふり返る。
「ジュオにはお父さんがいる」
「だから」
 乱暴に涙をぬぐう。
「俺は……強くなりたい」
「ジュオ」
「言っただろ」
 濡れたままの顔で森を見る。
「あんた、俺を強くしてくれるって」
「ジュオは強いよ」
「弱い!」
 ためらいなく吐き捨てる。
「弱い、弱い、弱い!」
「………………」
「だから」
 あらためて。森を見つめ、
「約束しただろ」
 一呼吸置かれる。
「したね」
 うなずく。
「なら俺を強くしてくれよ……親父」
「!」
 森の肩が跳ねる。
「お……」
 きらきらとその目が輝き、
「親父? 親父って言った!? 僕のこと、親父って!」
「お、おう」
 さすがに目をそらしてしまう。
「そうかそうか、親父かー」
「おかしいかよ」
「いい!」
 びっと。親指を上げる森にたまらず、
「あ、あんたが息子って言うから、だから」
「いいよ」
 優しい眼差しが向けられる。
「いい」
「おう……」
「ふふっ」
 森が笑い。
 ジュオも笑った。


「というわけでー」
 あぜんとなっている一同の前で、
「ジュオは僕の息子でーす。よろしくねー」
「………………」
 いっそうあぜんとした空気が流れる中、
「お、おう」
 ぎこちないながらも、ジュオは頭を下げた。
「あの」
 おそるおそるというように、
「息子……って」
「息子は息子だよー」
 森はジュオを抱き寄せ、
「だから、僕は『親父』ねー」
「親父!?」
「いいよねー、親父」
 うっとりとなり、
「なんだか、胸毛もじゃもじゃーってカンジで」
「もじゃもじゃ……」
「加齢臭ぷーんってカンジで」
「そ、それが父さんの理想なの……」
 あぜんとつぶやく。
「もじゃもじゃしてないでしょ、父さんは」
「えー」
「『えー』じゃなくて。実際そうだし」
 ちょっぴり照れくさそうに目を伏せ、
「一緒にお風呂に入ったことだってあるんだから。知ってるよ」
「だよねー」
 納得したようにうなずき、
「じゃあ、ジュオとも一緒に入ろー」
「ええっ!」
「家族水入らずで」
「か、家族って」
「でしょー。ジュオは葉太郎の弟なんだから」
「弟!?」
 驚きの極みという声があがる。
(この人が)
 あらためて『彼』のことを見る。
 花房葉太郎。
 森の息子。
 過去に傷つけたという――
 しかし、そんなことの暗さをまったく感じさせず、
「お、おかしいよ、父さん!」
「なんで?」
「なんでって、だって」
「もー、いつまでも父さんに甘えてたらだめだよ。葉太郎はお兄ちゃんなんだから」
「お兄ちゃん!?」
 ちらり。葉太郎がこちらを見る。
 ジュオはあわてて、
「おす、兄貴!」
「兄貴!?」
 その声は葉太郎ではなく、そばにいた少女からだった。
「葉太郎様、兄貴って呼ばれちゃうんですか!? あ、でも、お父様が『親父』だから、えっと」
「アリスちゃんは『姉貴』ってことになるかな」
「えーーーっ!」
 アリスと呼ばれた少女がさらなる驚きの声をあげる。
「姉っ……! というか、こんな大きな男の人にそんな」
「あー、ジュオはアリスちゃんと同い年だよ」
「そうなんですか!?」
「それに、大きさでいったら葉太郎もジュオより小さいでしょ」
「それは……そうなんですけど」
「で、アリスちゃんのほうが先に葉太郎の妹になってるから、お姉ちゃんってわけ」
「妹というか、従騎士なんですけど」
 弱々しく訂正するも、笑顔の森が相手ではどうにもならないという思いが表情ににじんでいた。
 ジュオはそんな彼女――アリス・クリーヴランドにも深々と頭を下げる。
「おす、姉貴」
「やっぱり、姉貴って呼ばれちゃうんですか……」
 そこに、
「ぷりゅーっ」
 パカーーーン!
「おうっ」
「って、白姫(しろひめ)!?」
 いきなりジュオを蹴り飛ばした白椿そっくりの白馬――白姫にアリスはあわてて、
「何をしてるんですか!」
「なんでだし」
「えっ?」
 白姫は鼻息荒く、
「なんでアリスが『姉貴』って呼ばれるし! 偉そうなんだし! アリスのくせに!」
「べ、別に望んで呼ばれてるわけじゃないですよ」
「シロヒメのことも姉貴って呼ばせるし!」
「無理ですよ、白姫、三歳で」
「ぷりゅーっ」
 パカーーーン!
「きゃあっ」
 目の前でくり広げられる騒ぎにジュオはあぜんとなる。
「お、おい」
 止めなくていいのかという目で森を見るも、
「仲良しだからねー、アリスちゃんたちは」
 仲良し……なのか?
「うー」
「っ」
 見ると、アリスのそばにいた別の少女がこちらの服のすそをつかんでいた。
「な、なんだ」
「……ユイフォンも」
 自分のことを名前で呼んだ少女・何玉鳳(ホー・ユイフォン)は、
「ユイフォンも……あねき」
「お、おう?」
「それはだめだし」
 アリスをいじめていた白姫が口をはさむ。
「ユイフォンはナイトランサーの娘なんだし」
「う」
「妹じゃないんだし。だから姉貴って呼べないんだし」
「う!」
 ショックを受けたようにユイフォンが身体をふるわせる。どういう事情がよくわからないながら、無口なジュオは疑問を心の中だけにとどめる。
「じゃあ、何ていうふうに呼べる?」
「そんなの知らねーし。ユイフォンなんかユイフォンでいいし」
「うー」
 不満げな彼女にどうしようかと思っていると、
「じゃあ、紹介も終わったところで」
 ぽん。森が手を叩く。
「行こっか」
「えっ」
 ジュオをうながす森に、葉太郎はあわてて、
「い、行っちゃうの」
「だーかーらー」
 曲がった服の襟を直してやりつつ、
「葉太郎はお兄ちゃんでしょ」
「う……うん」
「僕はね、ジュオを王にしなくちゃいけないんだ。どこに出しても恥ずかしくない王様に」
「お、おう」
 うなずきつつ、あらためて身構える。
 耐えられずに一度は逃げ出した。
 しかし、今度は逃げない。
 逃げたくない。
〝聖槍〟と向かい合ったあのときに比べたら恐れるものなど何もない。
 自分には、森の授けてくれた――
 弱い心を鎧ってくれる――仮面がある。
「おう」
 再びうなずく。
 もう恐れや迷いはなかった。
 そこに、
「がんばるのだぞ」
 凛とした声援が送られる。
「お、おう」
 森のときとは違う意味で身構える。
 鬼堂院真緒(きどういん・まきお)。
 自分の膝までもないほどに小さく、そして幼い彼女こそ、牙印が手に入れようとしていまだ果たせていない――この卵土の命運を握るという〝姫〟なのである。
「………………」
 初めて彼女が姫と教えられた瞬間を思い出す。
 驚きはなかった。
 小さいながらも堂々と立つその姿には、こちらを納得させる何かがあった。
 そして、聞いた。
 獣騎士たちから彼女を守った仮面の騎士――
 それは森=ファザーランサーではなく、仮面をつけた葉太郎――その名もナイトランサーだったのだと。
 姫を守る騎士という栄誉を担う〝兄〟。
 同じ仮面の騎士として、自分も兄に負けない騎士となりたい。
 ジュオはそのとき強く思った。
(よし)
 歩き出す。
 森の――〝父〟の後に続いて。
 一人ではない。
 葉太郎たち――あらたな〝家族〟のあたたかな視線を感じつつ、ジュオは力強く踏み出していった。

獣の国の王子様

獣の国の王子様

  • 小説
  • 中編
  • ファンタジー
  • アクション
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2020-06-25

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二次創作物であり、原作に関わる一切の権利は原作権利者が所有します。

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