危ないイエロー

r.Takigawa

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「一種のタイム・トラヴェルのような、枕に向かって囁くときのような、習字帳の余白のいたずら書きのような」(The swimming pool library p6)

「ごめんなさい」

そう言って僕の腕の外側に発泡スチロールほどおそろしく質量のなさそうな身体をぶつけた彼女の声は想像していたよりもわずかワントーンほど、低かった。が、不満というわけもない。むしろ意外性は僕の鼓膜を柔く人知れずくすぐり、数秒前の彼女の残像を幾つもいくつも魅惑的なものにさせた。

行くぞと男がひとり、自分の彼女に触った――言葉はいつも都合が悪くそして良い――馬の骨の僕に対し粘ついた視線をくれる、もちろん嫌悪の。何処かで見た顔だった。緑と赤のラインの入ったスニーカー、おそらくGUCCI。が、上着のMA-1はどうみても国民的衣料品店のチャックだけはおそろしく丈夫なやつだった。人の匂いでむせかえるシネプレックス。PEPSIの服を着た烏龍茶とアールグレイティー。気休めあるいは主役より主役なフライド・ポテト。入場開始を知らせるアナウンスが聴こえ、左側のパンツに突っ込んでいたチケットを取り出し軽くしわを伸ばしてやる。若かりし頃の祖父なら今トイレに行っている僕の彼女を待っただろう。が、僕はすっと座高よりはるかに長い脚を進め、GUCCIじゃなくVANSの靴で、シアター1へと生まれつきすかした顔で入った。


映画はよかった。甘ったるすぎて逆に軽薄なラブロマンス。予告あたりですみません、と他人の前を横切り隣のJ-13に髪の長い女が座った。僕の彼女だった。

「ごめんね」 「何が?」

「怒って先に行っちゃったんでしょ」

僕は返事をせずスクリーンを観ているまんまだった。その時脳裏の監視室のよな僕のもうひとつのテレビにも、ちら、となにかが映った。カップを持ったままわずかに開いた脇の下の、あのカーディガンの中の、もっと下。はみ出した下着の色は淡く、それでいて官能的な――たぶん僕だけにとってだ――黄色をしていた。少しの間をあけ僕は「怒ってないよ」とようやく答えた。


僕は悲劇的なほどに劣悪な家庭状況のなか育った。客観的に見れば、という意味で。熱しすぎたフライパンに滴らせる水のよう、僕の親父は数年前どこかへ消えた、そして母も。いまだに思うのは何も買い物の途中で意を決しなくともいいのに、という事だ。スーパーからその足で祖父と祖母の家に行き、その日の夕方には「明日からじいちゃんちから学校に通うんだ」という祖父のつやっとした笑顔と言葉を、僕はポケットに手を突っ込んだまま受け入れた。それが中学一年生。僕のもうひとつ、悲劇的なほどのこの顔もあった。アルバムのどの時期にしてみても完成されているほどに整った顔。おそらくこの母方の祖父からの。プレイボーイだったらしい事が窺える昔のモノクロ写真は、まったく僕の兄だと言って通用するほど今の僕に瓜二つだった。

ばあちゃんも年のわりに清楚で、けど悪く言えば高慢ちきなふうの女性だった。なにかと火遊びを楽しむ祖父のハートを射止めた唯一の女という立場に酔ってるふうな感じもしたが、愛はあるようにも思えた。それに僕を祖父同様、すこぶる可愛がってくれたという事もある。時折向けられるにぶい性欲の視線にはかなり困ったが。なわけで、女性に困るシーンは人生で一度もなかった。ちなみに父と母の顔は、肝心なはずなのに、もう思い出せなかった。

「蛍」と僕を呼ぶ涼しげな声。同時に彼女の妖しいつるのよな両腕。ぽってりした唇が僕の形の良すぎる下唇を噛みそれから先をせがむ。人よりわずかに長い舌をアルコール臭のきつい口に突っ込み、ゆっくりと泳がせる。のけぞる彼女の上から顔を下ろす僕の額に、撫でつけていた前髪がぱら、と落ちた。


数日経ち、深夜にサッカーの試合を観ていたときにそれはふっと降りてきた。あいつじゃあなかったか?名前だけがまるで誠実だとひとり叫び歩いているような。クリスティアーノ・ロナウドが艶めく黒髪と張り出した脛でボールを勢いよく飛ばす。そうこうしボールがゴールに突っ込み、キーパーが魚のように跳ねた瞬間に思い出す僕のタイミングの良さ。手を頭の後ろで組む。「紺野」と僕は言っていた。あのGUCCI。僕の高校にいたような気がする――が、あの彼女の記憶が頭の中のケースから出てくる事はなかった――紺野拓人。彼に関しても情報はそこでぱたん、と途切れた。代わりにスクリーンにはまた、黄色いあの下着が声と共に再生された。


起きて仕事に行くといった単調な朝のルーチンが続くと僕はきまって過去を反芻した。が、まわりに心配されるような思いには至っていない。運転しながら母や父の事、昔付き合っていた彼女や祖父の想い出話とは名ばかりの武勇伝、腕っぷしではなくいかにありとあらゆる女たちが俺を愛したかといった類の。微笑ましいとさえ思えたのはきっと僕が、おそらく現役の――いつが引退時期だったかなんて知り得ないが――彼よりも果てしなくロマンスに恵まれた存在だったからだ。実際デートの途中に知らない女から声をかけられたり、モデルや舞台俳優にスカウトされる事も少なくなかった。そんな時、決まって僕のそのときどきの彼女達は妖しく笑い、無言で僕の腕を取り見せつけるような態度をとった。


仕事終わりにスーツのままネクタイだけ外し、電車を降りてくる彼女を壁に凭れかかり待っていた。通行人のなめるような視線。慣れきらない方がおかしい。生まれたときからすかした顔、僕がぼくにつけたキャッチ・コピー。唾を飲む女の瞳は見ないがあからさまに変態だと見てとれる中年おやじの顔には眉をしかめてやるとすぐに立ち去った。数分し、僕に気づいた彼女と近くのバーに入った。出来立てほやほや、ベイビーブルーの看板、控えめなライト。食事する気分じゃあなかった。30分足らずで彼女のマンションへふたりで指を絡ませながら帰った。タクシーの運転手が穏やかに、こりゃあ、雨だな、と笑った。なにが可笑しいのか分からなかったが、ビジネスライクな笑顔を返してやった。スタイリッシュなそこに辿り着き1300円を支払い降りる。彼女の腰に手を掛け僕は笑い、また離した。さっそうと軽く、あたりさわりのないけど決して不幸ではないナイト&デイ。古臭い音楽と気取った文章、物わかりの良い僕のベイビー。過去は置き去りにされ、僕の髪型がころころ変わるようこんなふうに今が過ぎていく。そしてこれから先もずっと、恐ろしくなるほど永久に。かけたてのパーマがぴちょんと濡れてカールをきつくさせる、ヒステリックなほどに。出っぱった僕の鼻っ柱に当たるそれがこそばゆかった。向かいの歩行者通路に誰かいた。後ろ姿を数秒見つめた後、彼女に腕を引っぱられた――で、めちゃくちゃに雨が降り出し、僕達は走ってエントランスに入った。なぜ、振り返ろうと思ったのか分からなかった。振り向いたさっきの向こう側には、まだそこで立ち尽くしていた、あの「僕の」彼女がいた。

今朝は祖父の青春の1ページ――ザ・スウィート・メモリィを思い出していた。正確に言うとそれを聴かされていたあの頃の僕の事を。部屋でしこたま抱いた彼女を送っていった後のあの学生時代の僕。高原蛍から神田蛍になりたての、ピッカピカの中学三年のセクシー・ガイ。ちなみにこれはさすがに自ら名づけ親にはなってない。


「よくあいつ以外の女と」タールの強い煙草独特の、持ち手のコルク風カラーに目がいった。「一緒にいるところを見られてな。そりゃあもう、おっそろしい思いをした」70を過ぎておきながらばあちゃんの事を祖父は人に話す時も名前で呼んだ。が、たぶんアルコールの魔力も手伝って。僕はそれを何となく気に入っていた。

「連れ込んでたんだろう」
 とわざと笑ってやった。

祖父は煙草を僕にん、と向けたが、右手を掲げノーを出した。何も言わなかったのでまた僕が喋った――家で?外で?

「両方だな」

ねじらず灰皿に中間まで吸ったやつを押し付ける。

「段々、それが癖になってね」

「癖になるもん?」

「あぁ、なるね」

僕は笑いを噛み殺したが少し声が漏れた。

「飼ってた犬がいたんだが――年とった柴犬」
 そいつが小便したスリッパで顔をひっぱたかれた時は、さすがにまいったね。

こらえ切れず、僕の声はヤニで黄色くなった天井にまで届いた。ばあちゃんがクレンザーで病的なほど磨き上げた銀のやかんが僕の隣で同時に揺れていた。


信号が黄になり大人しく止まる。しばらく変わらないそれを見ていた。じゃあじゃあ降りの雨、昨日の。僕。「あの」彼女の事を思い出していた。ちなみに言わずもがな「僕の」ではない。が、気分は良かった。赤が青に変わる。僕はじわっとアクセルを踏み込んだ。朝からセックスしたからじゃあない。失くしていたものを見つけた時のような気分だった、例えるなら。それも、おそろしく長い間。何か。

仕事を終え夜がくると同じく一人になりたくなった僕は、彼女からのメッセージを一旦確認した後やたらでかい音のなる玄関を開けた。がらがらと石畳のそこに僕のでかいアディダスのマークの靴。和柄の木のサンダル、それも垢だらけ。僕は中一の頃急遽住む事になったこの家にいまだ籍を置いていた。二十歳の今も。ばあちゃんはかなり目が悪くなったし――そのぶん耳が死ぬほど良くなったように思えていた――あとかなり美味かった、飯が。祖父は去年、膵臓がんで79年の生涯を閉じた。いかした最期だった、ぎりぎりまできつい痛み止めを使わずに男を見せ、僕の祖父は逝った。ばあちゃんと大量のモノクロ写真、それにいくつもの危うい想い出を残し置いて。僕を置いて。


居間にいた祖母に声を掛け洗面所でうがいをし手を洗いながら鏡を見上げた。あの頃の祖父を現代版にしたよな男前がこちらを悩ましく見ていた――瞳の奥が心なしか少年のよう弾み、燃えているような奇妙なきらめきがそこにはあった。が、嘘くさく疑問に思ったりなんて、しなかった。自分の事は自分が一番分かっている。実際、僕は彼女より僕と固い何かで結ばれている。と、思う。軋む階段を上り二階へ。祖父の寝室はそのままで学生時代と変わらぬ僕の部屋。そこのベッドめがけてばたん、と倒れ込んだ。しばらくしてからランダムに並べてある本達の中からくじ引くよう一冊を抜き取る。いつの日か図書館のリサイクルブックコーナーから持ち帰った『The swimming pool library』。気に入っていた6ページの文章を読んだあと瞳と本を閉じた。胸から鼻へ不埒な思いが通り抜けていき、出た後、また戻った。そしてそれは血液にまで流れ込み、やがて、僕の全身を駆け巡った。

「蛍」という名前をつけたのは僕の母だったと聴いていた。ばあちゃんが反対しそうな名前だと思った――案の定「私は嫌だった」と憎らしい口調で言っていた。儚い命の生き物の名前なんて、と。が、母は押し切ったらしい、初孫にもかかわらず、姓名判断もろくにあてもせず。蛍と書いてケイ。悪くない――漢字はともかく読みはよかった。やたらと男っぽくも女々しくもない。少なくとも僕は。


ファミレスの有線で『Rock with you』のメロディが流れていた。ジャスト・フィットなフレィズ。君とロックしたい、君と。スクリーンには声だけが流れた。一週間経ったからだろう、あの僕のあいつ――馴れ馴れしすぎか――の姿も手掛かりも残り香ひとつだって嗅がせてもらえない、惨めな僕。見た目とのコントラストは傑作だった。どこかでひどくマイナーな賞を貰えるほど。


「よぉ、蛍」

待ち合わせに数分遅れて友人が向かいのソファに座った。中・高とよくつるんだ内の一人。といっても彼は私立、すべり止めで文字通りそこに滑り止まった。やたらと制服だけは上品だった。校風は最悪が裸足で逃げ出すほど最悪だったが。相変わらず、かわいこちゃんな顔してんなお前と友人はほくそ笑み声をかけた。隣のテーブルの女三人組がちらちらと、会話を続けながら僕を見る。

「仕事?」
 友人の声。

「あぁ。休憩中」

「へぇ」

煙草を取り出した彼は一度止まった後、それをしまった。喫煙席じゃあなかった。

「お前女と別れたんだってね」

事実だった。二日前なんの脈絡もなく彼女に別れを告げたのだ――が、眉をしかめる。どっ、と後ろの茶色いクッション部分に背中を擦り当てた。

「なんで知ってる?」

言った直後に、いや、言わなくていいと続けた。ソーシャル・ネットワークの便利すぎて不便なことよ、と今僕が考えていた事を見事に返され、歯を見せ笑った。

「まぁ、どうでもいいけど」と友人は言い、ボタンを押し水のお代わりと珈琲を頼んだ。

「お前の事、どうせ次がいんだろ」

「どうかな。自信ないよ」

友人が不思議そうな顔をした後ふと隣のテーブルに瞳をやり、さっきの女三人のうちの一人、こっちを見ていた彼女に「なぁ?」と言った。女は顔を真っ赤にして困ったように笑っていた。そして、残りの二人の方に助けてというような悲愴な表情を向けた。

「会えるけど会えないような気がする」

「何だそりゃ」鼻で笑い、口の片端を上げた。入り口から大学生くらいの男達や、小さな子供を連れた夫婦がぞろりと店に入ってきていた。午後13時を過ぎたあたり。無愛想な若い女の店員がまとめて水を出しに行っていた。

「僕の高校の――科にいた、紺野っての覚えてるか」

心なしか、友人の周りの空気がひんやりとした気がした。そして、気のせいというには不自然なほどの、彼のひきつった顔。カップに落としていた視線を戻し、身体を起こす。

「何だよ」

友人は、しぃぃ…と歯を閉じたまま息を吐き、続けた。一瞬だけ、僕の瞳に息を飲んだあと。隣の女がまた僕を見ていた。


「あいつ死んだよ」

夜中に呼び出されて家の前の色気のない通路を出、やたらとピンク色の花が咲いている公園へと僕は脚を進めていた。モノトーンのスポーツサンダル、相反するよう鮮やかな心。それもかなり、不謹慎な。この顔を持ってしてもそれは明らかに下品で、そしてこういった自己愛にまみれたジョークでさえ額面通りに人は受け取る。僕は思い上がった自惚れ野郎のナルキッソス。性的な視線とすけ透けな妬みはしばし僕を犯した。が、僕もそんなに馬鹿じゃあない。こう思えばいい。「やらせてやったんだ」。本人がそう感じてしまうのなら、それはレイプにはならないってなもんだ、と誰のものでもない口調で足元の硬い石を蹴った。


公園に痩せたシルエット、腰上までの長い髪。こんな時間にこんなところでこんな女性を一人にしておくんじゃあない、と金星に怒鳴られるような。あれはきっと怒りで燃えていたのだ。僕を見つけると彼女はばっと立ち上がった。風呂に入った後の強いシャンプーの香り。が、顔は夜にも構わずフルメイクだった――いつものようてからされた唇が街灯で光った。どういう事?という言葉に別に、と返した。名前を呼ばれる――が脳裏には、あのでかいレールの擦れる音の玄関を出、ひょいとオレンジ色の土だけしか入っていない植木鉢をまたごした瞬間から今の今まで、僕のスクリーン上にはあの黄色いブラジャーをめちゃくちゃにひっぱがすシーン――欲望に駆られたそれが上映されていた。支配されたと言っても正しい。『さや』というサブ・タイトル。音しか判らず、間抜けな平仮名だった。

僕の胸に、今はもう恋人じゃあない彼女が顔を押しつけた。泣いてるようだった。胸元のTシャツをぎゅっと掴み、怯えきった子供のようぶるぶると震えていた―――嫌。私はまだ。蛍と一緒にいたい。別れ際の際いつも、なぜ僕をそこまで想うのかが僕には本当に分からずにいた。僕の顔写真を貼り付けた別の若い男で事足りるんじゃあないか?狂った考えに気づけない事が、もう、狂っているのだと誰かに教えて貰えた事はなかった。急に首の後ろを掴まれ僕のぼけっとした顔に唇が押しあてられた。同時に手を取られ、張り出した乳の下へと持ってかれる。そのままいやらしく掴んでやると彼女は身体をくねらせ僕にしがみついた。吸いつく舌がただ「許さない」とだけ主張していた。痛みを感じるほどのそれに僕は芥子粒よりも小さいわずかな苛立ちを感じた。公園の樹に留まっている蛾が見えた後、彼女を植込みの方へ強引に引っぱっていく。蛍、と呼ぶ声を首筋に浴び、暗がりで今度は僕が舌を吸った。こんなシーンはそれこそあのシネプレックスを出て僕が人を変え何度も脚を運んだステーキ・ハウスや民家リストランテに行った後、夜風を浴びながらそれはいくつもあった――祖父の、僕の知らない話を足したとしても、濃密な時間で言えばはるかに僕のセックスは度を越していた。修羅場を予め阻止できる器用なところも、僕が僕に反吐を吐きたくなる理由のひとつだった。下着を下ろし、濡れたそこに中指を突っ込む。んん、と彼女がぴくりと胸を張りそして腰を反らせた。僕の技術がどうこうというよりか、僕のこの顔に抱かれる事に感じている、といったふうだった。遊ぶようわずかに曲げてやる。肩に顔をうずめていた彼女の右手がジャージのハーフパンツの下の僕を弄くりだした。じれったい手をどけ、中指を抜いた代わりに僕をそのまま突っ込んだ――虫の鳴き声よりもか弱く、色っぽいその声をBGMに、また瞳を閉じた。アルコール消毒液臭い入口のファミレス。での、友人の会話。蛍。速くなる心臓と、吐息。あぁ…け、い。僕達を見て当の本人より恥ずかしい思いをしてる見ず知らずの通行人。煙草を胸の内ポケットにしまう友。やめて――蛍。わたし、も…う。歌声のないロック・ウィズユー。ロックしたい。ロック、したいんだ。

 誰と?

「やだぁっ…!」と彼女は小さく叫んだ。腰から下がぶるぶると震えていた――がく、と力の抜けた身体を僕は片手で掴み、それから勢い良くあれを引っこ抜いた。側にあった針のような葉先の低く四角い茂みに、くそったれな気分の溶けたそれを出した。そしてなお何の脈絡もなく「別れよう」と言った僕に、彼女は小さくひっと息を吸い、それからきつい張り手を喰らわせた。顔が良かったら、何でもしていいと思わないで!叫んだ後、早歩きで去って行った。ぶたれた頬を親指で拭い、ジャージを元の位置に戻したあと僕は家路についた――たぶん笑えるほど無表情、そしてさっぱりとしていた――で、ばあちゃんを起こさないよう、家に入った。

この一週間の間まるでデトックスだとでも言いたげに僕は大人しくしていた――僕のこの下半身のこいつも――思ったよりパーマのすぐ取れた姿が気に入らなくまたヘアスタイルを変えてやった。わざとらしく濃くした黒髪の色を抜き、灰色をかぶせたベージュ。で、真ん中分けにしてストレート。パーマがうまくいかなかった事への無意識下での当てこすり。なんだかんだでまだ渋くなれないこの顔には坊っちゃんチックなショート・ヘアがベストだった。やたらと年上の女に声をかけられるのは失敗したと思ったが。本屋に来ていた。駅前通りやバーやスターバックスにいる時ほどあからさまな眼を向けられる事の無いこの空間は僕を包み込んでくれる母のような感じ――半分ジョーク、そして本当。伊坂幸太郎の『重力ピエロ』が目に入った。日本人にしては気取った彼の語り口調が好きだった。芸術家気質が垣間見える、小ネタをサンド・ウィッチしたよな文章も。隣のおやじが僕を見る。お前のような奴はクリスブラウンの曲がかかるクラブにでも行ってろというふうな横顔の中の瞳。金縁の眼鏡が蛍光灯でぎらりと光った。構わず本を捲り、読んだ後戻した。自宅の棚にも同じやつがある。「春が二階から落ちてきた」。

恋を春だと例えるなら今の僕に当てはまらなくもない。が、あのイエローにあれから会えた日は来ていないし、来ない。それもまた良い。『重力〜』の泉水よろしく真実の息の根を止めてもいいけど、わりと僕は今の僕のシチュエィションを気に入ってるみたいだった。飛んで火に入る夏の虫のごとく。休日だった――いつもなら彼女のマンションで下手くそに淹れられた珈琲、半分以上残すそれをを飲んでいる時間。で昼を外に食べに行くかベッド以外の場所でセックス。それか僕だけ気まぐれに友人に会いに行く。ふぅ、と口を閉じたまま鼻から溜め息。ポケットに手を突っ込んで、オールドスクールのつま先を見た後、店を出た。何の曲でもない口笛。どうするか。シネプレックスで特に観たくもない映画でも観る?彼女がいるかも、と瞬く間にそれは消え失せたが。死んだんだぞ蛍。あのベイビーの恋人は。

さや、という名前を空想でつけるほどいかれてない。あのファミレスの続き――煙を吸いたそうな友人と外に出た。灰皿もない無常感漂うこの街を象徴するよな空きビルの足元で、友人だけ煙草に火を点けた。ここにはついこないだまで、アジアン雑貨の胡散臭いテナントが入っていた。

「事故死だってよ」
 へぇ。

「葬儀に?」

「知り合いがね」と、彼は言った。

「あいつ、親の工務店の跡継ぎだったらしいよ。仲はどうだったか知らねぇけど、そいつ、複雑そうな顔が焼香より焼きついたね俺は、なぁんて言ってやがった」友人が鼻で笑う。「女も、いたんだろ。まぁ可哀想っちゃ可哀想か」

コンクリートの歩道で火を消し指で摘む。黄色いブラジャーの、と出かかる喉を堪え僕は言った。

「女って、顔と声が少し合ってない?」

彼の瞳が、なにわらっちゃってんのお前、と揺らめいた――が、口はそのまま続けた。「あぁ」白石・さや。

「同級だろ、確か」
 俺たちと。

友人はひとつ伸びをし、それから問いかけた。
「で―――紺野が、どぉしたって?」

「いや」

なんでもない、と僕は返した。そのまま彼に仕事へ戻ると告げ、別れた。特につっこまれる事もなく、んじゃあな――帰り道、襲われんなよという僕専用のジョークを飛ばし友人はその場を去っていった。


ばあちゃんに回転焼きでも買って帰るかと僕は考えていた。クリームと粒あんのを二つずつ――仏壇にひとつ供えるつもりだった。腫れぼったい瞼のお釈迦さまの手前でフレィムに納められた祖父の写真は、白い歯を見せばあちゃんの肩に手を回した60代頃のものだった。白いコットンシャツの下にちらと見える赤いインナー。金色の腕時計。色男特有の眼力。鏡にいつもそれはいた。隔世なんたらとか言うやつだ、まだ熱い茶色の竹皮プリントの包み紙をINしたビニール袋片手に家に帰った。まだ昼前だった。

「ばあちゃん」と玄関の石畳らへんから何度か呼び掛ける――台所でじゃがいもをめちゃくちゃな量、洗っているところだった。シンク内の白いボウルに泥水。饅頭を渡しじいちゃんの分もと仏壇へ置く。ダイニングテーブルにどかっと座ったところで、急に声がした。

「お前結婚しないのかい」
 ばあちゃんのいつも美容院まかせの肩までのオレンジ色の髪が揺れる。

「今、誰とも何ともないんだ」

僕はそう正直に言った。まさか二十歳になってまで赤裸々に言う気はないが、内向的過ぎる孫ではなかった。

「あたし達の時はね、もうあんたの年で二度目の結婚してるような人達もいたんだよ」

へぇ、と僕は笑った――頬杖を軽くつく。ばあちゃんの少しはみ出したきつい紫に近いピンク色の口紅を見た後、台所の目線の高さのすりガラスに瞳をやった。水道から緩い性欲のよう水が出っぱなしだった。

「あたしはあの人しか見えない不幸な娘だったけど」
 手を拭きながらそう言った。少しだけ笑ったような気がした。

「寂しいよな、ばあちゃん」

「寂しいよ。ろくでなしでも、いなくなると」

それからまた芋を洗い出して、黙った。居間に行く途中で祖父の顔を見、また歩き黒のソファに座った。片膝を立てそれから僕は知らぬ間に眠っていた、テレビをつけたまま。僕は夢の中で、僕が白石さやの白いキャミソールに手をかけ脱がし、めちゃくちゃにキスをするところを何処か遠くから見ていた。

夏が訪れようとしていた――祖父の一番好きな季節。マシュマロ級のウエイトで愛を語るにはうってつけのシーズン、それが嘘か真かは別として。シンプルな紺の水着になんてことないビーチサンダル、少し肌を焼くつもりで来たが友人の車を運転している途中でそんな思いは消え失せた。きつく、突き刺すような日の光だった。太陽までもが僕を恨めしく思うのかといった、針山を大量に投げられる時に近いそれに眉をしかめたが、波の音が聴けるのはよかった。目に見えない世界では音が心を洗うのだと僕は信じてもいた。そして、太陽は男だと思っていたが女かもしれない、どっちでも良いが。

マレン・モリスの『The bones』がかかっていた。僕が選曲したやつ。わざと窓を開け、人の吐息のような熱風と冷たい潮風、それにボリュームを上げた音楽を戦わせてみる。男だらけの車内。つんとするけどフルーティーなカーフレグランス。駐車場に車を停め、降りる。まぁまぁ人はいた。砂浜へおりていく途中で彼氏連れの女が僕を振り返る、ヴィクトリアズ・シークレットみたいなビキニの女。海が視界の端から端まで煌めいていた。苦しくさせるほど。二、三人で来ていた女の群れにさっそく声をかける別の友人。高い笑い声が波に混じって聴こえていた。

何となく気が削がれた僕はひとり別方向に砂浜を歩いた。奥の方に水色の建物。海の家みたいなスペースが右側の視界の隅に入る。蛍、と友人の呼ぶ声。さっきの女のうち、一人にかけていた肩の手じゃあない方を僕に向かって上げていた。とぼけた笑顔で。左から白いショートパンツ、ネイティブ柄の黒ビキニ、フリルのカーキ色。抜群にスタイルが良かった。もう20メートルは離れたそこへ向かって数秒見つめ返した後、僕は何も言わずに前を向いた。鎖骨の辺りをこする。欠けた貝殻。潮で傷んだ髪の男と女。頭の中で、車内で聴いていたBGM。水を差すよう誰かに話し掛けられた。女だった。

「あの――蛍くんですよね?」
 知らない奴だった。茶色い髪の毛先だけ巻いてある。返事もしないのに、また続きを話し始めた。

「あたし、――の友達の友達で。フォローしてるから、よく写真とか見てて――髪色が違うから一瞬あれって思ったけどすぐわかっちゃった」

いやにどぎまぎした瞳だった。じっと見つめると、彼女は自分から話し掛けてきたにもかかわらず恥ずかしそうにたじろいだ。確かめるよう「蛍くんですよね?」ともう一度言った。うんと答える。喋る合間あいま僕の唇や睫毛の端を熱い視線で見つめ続けていた。

「――と来たんですか?」 「いや。友達」 「そうなんだ」

彼女のSNSを見ておいてそれはないだろうと思ったが続けた。僕の友人が見てわかるのにしらを切る意図があまり理解出来なかった。センチメンタルな呟き、僕の顔の載らなくなったインスタ。自分を癒やそうと何やかんや奮闘する僕の元恋人。あからさまに会話を続けようとしない僕を見て見知らぬ女は黙った、が、「それじゃ」と動く気配もなかった――でかい大型バイクの音が通り過ぎ、鳥が鳴いた。水色の海の家に男二人、客が入るのが見えた。

「あの…」
 見知らぬ女が喋ったあと、店員が注文を取りに行くのが見える。…はい、分かりました。少々お待ちください。


髪型が違うがすぐに分かった――今の僕の事じゃあない――目の前の女の次の言葉も待たずに僕はすっとあっちへ向かって歩き出した。口がひとりでに僅かに横に伸びた。僕のビーチサンダル、足の裏との隙間に熱い肌色の砂が入る。


「さや」


僕の声に振り向く黒のエプロン姿。少し痩せたあの「僕の」彼女は口を開け、安っぽい伝票を持ち、とうとう僕の方を見た。

墓参りに来ていた。祖父が死んでから二回目の盆。ばあちゃんの妹達もいた、10人姉妹の3番目と6番目。ばあちゃんは2番目で、上の姉はもう随分前に他界していた。僕があのスーパーから歩いてった日よかも前に。

「大きくなったねぇ――蛍ちゃあん」

福の神みたいな白い顔が笑う。こぉんな立派になって、と6番目の妹。おじいちゃんに似てよぉ男前やわぁ、そう思わん、とばあちゃんに向かって話しかけていた――「段々だんだん似てきよるけね、蛍は」。墓の下段の方を一生懸命掃除していたばあちゃんの額に玉のような汗。僕は墓に2リットルのペットボトルで水をぶっかけた後、濡れた手を振りパンツの太腿で拭いた。

「はよ結婚すりゃいいそに」

すぐよぉ、姉ちゃん、と3番目のすぐ下の妹が言った。「こんな男前、女がほっとかんやろ」。にこにことこちらを嬉しそうに見ていた。ひ孫の顔もすぐ見れそうやなぁい、あははと声を上げ笑っていた祖母じゃあないばあちゃん達に僕は歯を見せずに微笑んだ。まだ死ぬほど暑かった。夏の中の夏。さやのあの冷たさが死ぬほど恋しかった。気温のせいだけじゃあないが。


僕の車で今度は4番目のばあちゃんのでかい妹の家――でかいのは家の方――に行って、それから昼飯を食べ祖父の兄の家。かなり耳が遠く、玄関先で手土産だけ渡してじゃあね、また来るけねとだけ言って僕達は家に帰った。4番目のばあちゃんちで貰った桃やら和菓子やら昼食の残りやらを居間の机にごそっと置いた。冷蔵庫の匂いの移った麦茶を飲む。いったん二階に冷房をつけにいき降りてくる。畳の部屋で寝ていたばあちゃんが「ありがとね、蛍」と声をかけてきた。僕は祖母にタオルケットを掛け、下で気持ち程度テレビを観、二階へと上がった。思い出したように戻り、冷房を弱風にして、でまた上がった、今度こそ。

部屋の古臭さとのギャップが笑いを誘うBluetoothのスピーカーから流れてくるこれまた古臭いミュージック。さや。僕のベイビー。弾けないくせにギターの真似事。レイパーカーJrがアース&ウィンドがベン・E・キングが僕の気持ちを代弁する。君は美しい、君が恋しい、君が欲しい。背中をベッドに預ける、クーラーの風の愛撫。瞳を開けて本棚を眺めた。「春が二階から落ちてきた」。んで、夏は僕の舌を拒み、それでいて心を離さない、おそらく秋も冬も。額に腕をあてそれから呟いた。


「さや」
 永遠に。


海の家を離れて元いた駐車場近くの砂浜へと僕は戻っていた。友人たちがいなくなっていた――もちろん車はあるし、別に一人でも帰れる。大体どこにいるのか相場はついていた。海にさっきの女の子、黒のネイティブ柄のビキニと潜っていた僕の友人が頭を出したのが見えた。知り合ったばかりだと言わなければ分からないくらいのいちゃつきように僕は目を細め、笑っていた。好奇心がふと湧いた。岩場の方へと近づく、人の多い波打ち際から離れて。案の定、そこから真っ昼間にふさわしくない音と声が、ざ・ざぁというBGMに混じって僕の耳をくすぐった―――なに、人のセックスを覗く趣味はないが後で友人をからかうのにうってつけの口実。ショートパンツかカーキのフリルのどちらかの猫のよな喘ぎ声。笑いを堪え、緑がかった黒のごつい岩に肩を凭れさす。

「蛍くん?」

後ろを振り返るとさっきの女だった、僕の元恋人の名前を口走ったあの見ず知らずの。なにやってんのと小声で笑顔のまま話しかけられる。気分が、最高によかった。しぃ、と口元に手をあて「来ないほうがいい」と教えてやった。「友達に頼まれちゃって」、と向いのセブンイレブンの袋を見せた。前に進んでくる身体の肩を引き、いいから、と向こうにやる。ようやく気づいたのか、はっとし、意味深な笑みを見せてきた。とたんに僕の顔をじっと見、潤ませた瞳でただぼぉっと僕の唇、それに睫毛の長い瞳を交互に行き来させた。一瞬ためらった―――が僕の二週間ぶりの欲求に身体を逆らわせたくはなかった。岩場の陰から離れてバイパスの下のでかいテトラポットが夥しい数見下ろせる暗いそこでキスをしてやった。胸板にあたる手が僕の乳首を擦った。で、クロシェのレースのビキニを一瞬で取る。鼻からこらえきれない荒く短い呼吸を繰り返す彼女の胸に舌を這わせ、挨拶程度に撫でてやった。ろくに前戯もせずただずらしただけの下着を手で押さえ挿入する。けど、めちゃくちゃに濡れていた。頭上のダンプカーに掻き消される声。コンクリート造りのそこに彼女を押し倒し、剥ぎ取ったビキニで手首を縛ってやった。自分を見下ろす逆光のコール・スプラウス若しくは『太陽がいっぱい』のアラン・ドロン。但しよくてMade in China。久しぶりのセックスにただ僕は酔いしれていたと同時に、やはりくそったれな気分にもなっていた、あのシンク内の泥水のよう。

 ごめんなさい。仕事中なの。

なぜ名前を、とも聴かなかった。それでいて絶対に僕の事を、あの、シネプレックスでの刹那の記憶を彼女も憶えていたという確信がそこにはあった。はっとしたあときゅっと結んだ唇。気づいた時には僕は囁いていた、たぶんこっちが最初、死ぬほど小さい声で。それも恐ろしく。

「さや」。

彼女が短く高い声を上げ、また僕は僕を引っこ抜いた――それから大きく膨らんだりへこんだりする腹に、くそったれな想いをぶちまけた。飛沫が、胸元にまで飛んでいた。ビキニを解き自由にしたあと頬に軽くキスされる。浮かれた視線を受け流し、自然に別れた。前髪を掻き上げはぁ…と岩場のとこを通り過ぎる。とっくに終わっていた僕の友人達は浜辺の方で何か飲みながら会話をしていた。こちらに気づいた友から今度は僕がにやにやとした眼を向けられ、知らんふりをしてやった。帰る間際、連絡先を別の女から聞かれたがはぐらかし、先に車に行ってる、とあの海の家を覗いた。が、そこには僕のベイビーはおろか、ネオンのopenの文字の灯りひとつだって、この僕にはなんにも残ってやしなかった。

信号待ちでご機嫌に口ずさむ僕を友人が見たら何と言うだろう、クソ暑い外。丁度いいを知らない冷凍庫ばりに冷える僕の車の馬鹿な空調、でたらめに明るい音楽。頭の中で5人のアフロが舞い踊る、ん…シャウト、そして余韻のようでもある短い「Yeah」。急に差し出される花束のようなキング・オブ・ポップの青い声。ユージャス・ガッタ……サプライズにもほどがある、とでも言いたげな。「僕のベイビーは踊りっぱなし」、肩を並べ歌い踊る相手はいない、がそれでもよかった。太腿をぱた、と音楽に合わせ片手で叩いてやる。信号が青に変わる0.5秒前に右足にぐっと力を込めた。サンシャイン…ムーンライト…グッタイム。悪いのはブギー……車を停め、ポケットに手を突っ込み降りる。キーケースをハムスターの車輪のごとく何度か回したあともう片方のポケットに入れた。そう、悪いのはブギーだ。悪いのは。


僕のこの心臓のちょっと後ろにある他の臓器との間に挟まったジューク・ボックス、そこから流れるメロディはここ最近の僕の脚やハンドルを切るこの手――そして唇を、彼女に向かって囁く言葉全てをラフにコントロールしていた。


「いらっしゃいませ」


あれから僕はさやの行方を追った、まるで変質者ばりに。が、何もあの海から足取りを辿りそれから今の今までストーカーまがいな行為をしてるわけじゃあない――期間限定の海の家だけで生計を立てるのには無理があるとにらんだ僕は、地球はおれの庭、だからこの街なんか家にある埃の薄く被さった醤油の蓋みたいなもんさと口角泡を飛ばすおちゃめで顔の広い友人をそれとなく頼り、で9時からだいたい15時――もっと早い時もあるが――地元の隣の外れにある、駐車場のやたら狭い珈琲ショップで働くさやを、知り合いを辿り、みごと名前だけで見つけてくれた。で、あの海からそう遠からず僕と彼女はおそろしく静かに再会を果たした、ってなわけだ。ちなみにここに来るのは3回目だ、「まだ」。

「ご注文をどうぞ」

彼女が注文を取りに来る。ぞくぞくした――会うたび心で呪文をとなえるくらい――さや。僕のベイビー。最初の一瞬だけは別だったが、何食わぬ顔でカウンターより離れたテーブル席に座るが視線を離さない僕の事をろくに見ようともしないくせに、僕が店に入る一番初めの2.8秒間だけは別だった。見つめ合う時間。その瞬間のみ、僕の胸の聴いたことのないラブソングのボリュームは上げられ、耳鳴りがし出すほどジャズの有線や流しでカップやソーサー、フォークなんかがぶつかる音、外の国道を走るでかい車のマフラーの音はそっと息を潜めた――僕たちのために。僕たちだけのために。まるで誰かがそれを防音布にでもくるんで物置に放り込み、わざときつい音を立て扉を閉めてくれたかのよう。

「珈琲を」

「ミルクはおつけしますか」

「いや、いい」

「かしこまりました」

来る者拒まず去る者追わず、まるで天秤座的なそのスタイルは店の空気中にも漂っているかのように思えた――彼女がそうさせたのか、それとも店が彼女を呼んだのか。焦げ茶色のセンスの良い内装、ピカピカに磨き上げられた透明な窓硝子。奥のカウンターに30代位の夫婦。女は黒のベリィ・ショート。二人で色違いのボーダー服をさり気なく身につけていた。背もたれの深緑色のクッション部に右腕をかけたあと僕は瞼を下ろし、顔を1ミリたりとも動かさずに手首の時計を見た。13時15分。会社へは45分までに戻ればいい――それでも足りないくらいだが――車を飛ばして帰るなら40分手前に出てもかまわないだろう。曲げられた膝のせいで脚に張りつくスラックス。腿に涼しい空調、僕の車のやつとは違うでたらめに優しいそれがあたった。店内のと同じく焦げ茶色の四角いテーブルに人差し指と中指で創った脚をすたすた歩かせてたところでさやが珈琲とともに僕の方へとやって来た―――一日め、注文を取りに来たのは彼女より年上のやたらとフランクな態度の女だった。で、珈琲を頼んだこの客に死ぬほどビジネスライクに愛想良く――なわけでもないが、かといってあからさまな態度を取るでもないさやがそれを運んで来た。

「覚えてるかい、僕の事」なぁんて声をかけるほど馬鹿じゃなかった。そして彼女も。何の用ですかなんて聴けないし聴きたいとも思っていない。ただ生まれた時からすかした顔が仕事の休憩時間の容量と自分のフィーリングってやつにぴったり合うこの場所を見つけただけの事。そして私はそこに偶然居合わせただけ、が、知らないふりも忘れたふりもしない彼女にキスしたくなっていた。言わなくても分かるだろうが、その先も。

ごゆっくり どうぞ。

あの心地良い声がそう言い、肩のすぐ下までに切られ綺麗な色の柔そうな髪をふわふわさせ自分の持ち場へと帰ってゆく。化粧をしてなきゃあ子どものような顔立ちだった、制服の下の小さくつんとしたバスト。滑らかな白い二の腕。信じられない位夢中だった。これは真夏の昼下がりにたまに見ていたえらくショートな悪夢じゃあなく、目に見えない世界からの僕へのとびきりの贈り物だ。彼女をなおも見つめていると別の店員が僕に気づいた。同い年くらいだろう、針金のよなストレート・ヘアの女。僕をきょとんと見たあと後ろへいたさやに何か話しかけていた――デジャヴも覚える、3回目ともなると。しかもきっかり同時刻。さやは困ったように薄く微笑んで流しの皿を手を止めず洗っていた。女が僕の方へ「頑張ってね」とでも言うような哀れみを含んだ笑みを向けてきた。僅かに口角と眉を上げ返事してやった。時間になったので会計を済ませ店を出る、ドアベルの慰めるような音色。マタ・キナヨ。鼻で笑い脚を車の運転席のドアの数歩前で止める。振り返った。僕がいた席のテーブルを片付ける彼女が少し経って僕に気づき、また元の方を向いた。ジューク・ボックスが震える音を確かに聴いた後僕は鍵を取り出し、それから車に乗り込んで会社へと淡い気持ちで帰っていった。

欠点こそが人の魅力を増幅させるのだと横にめいっぱい伸びた唇がジェスチュアを交え主張する。白スーツに赤とオレンジの混同した口紅、きっちりとセットされた肩下の巻き髪。手元のボタンを押したグレーのスーツ姿の心理学者の男が異論を唱える。それにしてはあんた・綺麗だし・性格も良さそうだけどね。スタジオの和やかな笑い声の後たじろぎ微笑む恋愛コンサルタントの女の表情が見えたところで切スイッチを押した。

アルコールが全身、僕の手足まで疾走し出すと途端に性欲がマックスになった――泥酔するとこうもいかないが――職場での上司や同僚との会話、朝たまたま入ったチェーンの喫茶店の窓際の匂い、前の車からこちらに笑いかけるディズニーキャラクターの凍りつくような瞳の光の無さ。ばあちゃんのサンダルと僕の真新しさを感じるほど手入れの行き届いたスニーカー。発展途上国の貧しい子供と一人でコンビニにも入れないハリウッド・セレブが仲良く肩を擦り合わせ着席しているかのような奇妙さ。そこには友情や愛情といった類ではない、もっと深い絆が確かに在った――遠い国の外国の子供あるいは遠い国で活躍する別世界の大人が自分と血縁関係にあると知らされた時のよな衝撃。それも笑えるほどさり気なく。拍子抜けするほどに。そういったその日一日の映像の一番最後に決まって現れるさやの全て。その間おもちゃのプラネタリウム、寝室の天井に映し出されたおとぎ話の主人公達のような僕の中の反芻映像は消え失せ、かわりに彼女の上半身や顎から耳にかけてのラインが映し出される。スポット・ライトを浴びたそれ。潤った瞳。なのによく冷えた湖の中に脚先を突っ込んだ時のような涼しい感覚が身体中を支配した。触れられた、訳もなしに。

こないだの海水浴の時のと同じ友人たちと街中で合流した。夕食を外で食べるのも悪くはないがばあちゃんの料理の方が心が調子がよかった。十分ほど皿を水に浸けた後洗って軽くシャワーを浴び着替える。8月終わりのわりには涼しかった。まるで獅子座から乙女座へと変わりましたよ、どう?気づいてますか、蛍くん?どこぞの女神が僕に口横に手をあて必死こいて呼びかけている、なんて。片手にでかい星のついたステッキ。店の硝子越しに外を歩いている僕を見る女。向かいのもう一人がそれに気づく。横目で見たあと前を向き、歯の隙間から忍び笑いを漏らす友人の隣で首を鳴らした。「誰か蛍の事守ってやれよ」。やるどころかやられちまう。こないだのは、と僕が問いかけると友人は「はん?」と阿呆な声を笑顔のまま出した。

「女」

数秒経ってあぁ、と納得しこう続けた。この通り。僕は勢いよく鼻から息を出し呆れたよう笑った。ひと夏の恋というよりかはまるでジャンクフードだとでも言いたげな態度だった――「よかったけどね」。くそったれの、勿論僕を含むこのコミュニティが死ぬほど心地よかった。部屋で一人音楽を聴く、ばあちゃんの飯、そしてあの小さな珈琲ショップ。とどめに忽ち沸き起こる――節度のない性欲のよな――インスピレーションにまかせた欲求。それはこの仲間内にでさえ打ち明ける気も起こさない、「書きたい」というものだった。絵は苦手だ――だから違う。文章の事、だ。過去も、さやとどうにも進展しない事も隠さない癖にジューク・ボックスの秘密のスペースに僕のこれはひっそりと守られていた、か弱い雛のよう。祖父が聴いたら何て言っただろう。ブルーノ・マーズが食堂で淡い花柄のエプロンを着け必死こいて配膳するくらい不似合いなものだった。

一軒目よか落ち着いた雰囲気の店に入ると知ってる女がいた、5つか6つ上、よくこの界隈で顔を合わせる事のあるあけっぴろげた性格の女。僕を見るなり声をかけてくる。

「蛍!死んだかと思ってた」

ショートの金に近い茶髪、TOM FORDの匂い。僕の友人とも一言二言会話をし僕だけお構いなく横に座った。セックスした事はなかった。既婚者だったし僕には何だか決してごつい見た目をしているわけじゃあないのに、まるで昔から知ってる男友達のよなクリーンな気さくさがある女だったのだ。左手の薬指にはきちんと金色のピカっとした証拠品が利口についてある。

「出る気分じゃなかったんだ」とグラスに口をつけたまま僕を見る彼女に言葉を返した。酔ったふうだが目の奥はまだ全くと言っていいほど素面のままだった。これまでの経験それに勘も入っているが、たぶん笑えるほど酒に強い。隣に見た事のない黒髪の外人ぽい女。ハーフだと何となく思った。瞳が合う。無視をし、会話を続けた。

「早く判子押してよ。役所に出すから」
 これも僕への耳慣れたジョークのひとつ。

「お前とは結婚できないな、僕は」
 きゃははぁと膝を上げ笑い彼女が答えた。

「こっちだって嫌よ!どんな目に合うやら」

ふっと微笑しテーブルに置いていた手を下ろす。女にしては骨ばったどこか安心する手。隣の黒髪の女が妖しく笑みを向けてきた。今度は彼女を見つめ返したままなおも会話をした。

「情けないくらい、まいってんだ。今」
 まいってもなんでもない顔をし言ってやる。

「何によ?ペットに、とかなしだからね」
 ふふ。

今時の電子音的なミュージックがうざったかった。駄目じゃないか、ギャップは良い方向に作用しなくちゃ?指を立てたくなりながら続けた――「女だよ」。黒髪の笑みがとまった。

「蛍が?」はぁ、と笑いながら飛び出す半信半疑。氷のグラスにぶつかる音がでかく聴こえた。僕は自分のグラスを取り、口に運ぶその間、そいつをずぅっと見ていた。半開きになった唇が舌なめずりするよう僅かに動き、戻ったのが分かった。

へぇ、とショートの女が興味深そうに言う――可愛い んだ。あぁ、と僕は言ってやった。間隔を置いたあと。

「殺されたいほどね」

驚き、薄笑いを浮かべる二人――うち一人はたぶん静かに昂ぶっていた――を置いて友人達のいるカウンターの方へ移動した。僕にも欠点はあった。酒が死ぬほど、なわけじゃあないが弱かった――心地良いめまいが記憶の中のさやの声と表情で加速する、快感に思えるほど。どう、なってんだ?触れてもないんだぞ―――こんなに、想ってるのに?酷くセンチメンタルになっていた。たぶん祖父の家で暮らし始めてから、僕にとってそれは、おそらく初めての経験だった。

さや。

僕を蝕んでいく、危ないイエロー。あの、全ての欲ひとまとめにしてもかなわないよな狂気めいた暴力的な僕の欲求。それと同時に癒えだす埋まりだす、僕の心のブラック・ホール。可笑しかった。帰る、とテーブルに突っ伏したまま呟いた、「悪酔いした」。


なぜ「気づいて」ながら何も出来ない?


バーのトイレで鏡に映った自分を見てると途端に倦怠感が押しよせてきた。やりたくてたまらない、といったふうな顔。睨み返し、ペーパータオルをクソな思いとまとめて捨てた。扉を出ると通路にさっきの黒髪の女がいた――「大丈夫?」顔色悪いね。目を細め、耳に髪をかけ微笑む。髪とオフ・ショルダァの黒が薄闇で見えづらく、デコルテから顔の輪郭だけ白く浮かんでいるようだった。あぁ、と呆けた声を出し、近づいてくるその身体を見ていた。どっとぶつかる細いウエストと張った胸。金を置きあとは出るだけだった僕はすぐ側の裏口から女と店の路地裏へ出た。

10

背後から黒の薄手のニットをめくり、ブラジャーのホックを外したあと下からめちゃくちゃに揉んでやる。で、次第にかたくなった乳首を両手の指で激しくしごいた――びくつく身体、突き出された尻がインディゴデニムの下の僕をこすった。外がゆえ控えめに発せられる甘い声。ショートパンツのボタンを外しジッパーを下ろす。滑らかなショーツの奥の熱いそこを僕の指が上下した。音がするほど濡れまくった入口から、入るだけ指を侵入させ刺激した。とまらなかった。あぁ、あぁ…と繰り返される涙声。スクリーンにあの珈琲ショップ、GUCCIのスニーカー、あのとき観た映画のキスシーン。ファミレス、じいちゃんの時計、ごゆっくり…どう…ぞ。バイパス下の女の腹、信号の黄、ランドセル・カヴァーの黄、道に咲く水仙のまんなかの黄、『児童横断中』の旗の黄。あの、黄。


 事故死 だってよ。


肩で息をする。興奮じゃない冷や汗が額から噴き出した。予感を馬鹿にしていたわけじゃないし、信じていないわけじゃない。ただあのシネプレックスの瞬間の方がはるかに軽い気持ちだった――はるかに。もう、戻れないんだ蛍。頭の中でさやを、それも真正面から犯した。掴んでいたあの白い二の腕には灰色のくすんだ痣のよなものが僕の目には見えていた。そしてそれは、現実のあの制服の下の肩あたりにも存在していた――白すぎる肌に顔をしかめたくなるほど悪目立ちするそれ。紺野のくそったれな顔を思い出しながら僕はいった。惨めが、飛び降り自殺してしまいたくなるほど惨めな気分そのものだった。僕が死んだ奴を殺したいと思ったのは、あとにも先にもこの時だけだった。ぶっ殺したいと思ったのは。

11

次の週僕はまた彼女の店に脚を運んでいた。二日酔いで使いものにならなくなった休日を恨みつつ(言うまでもなく羽のよな軽さ&言うまでもなく色は白だ)、口内炎を舌先で撫でながらいつものよう店に入った。さやが、いなかった。表情ひとつ変えずに店内をそのまま進みテーブル席の中央、左側に3つあるうちの真ん中目指して座る。針金ストレート・ヘアの女がにかっと僕に首だけを向け笑みを見せてくる――「少々お待ちください」。ジャズの心地良いBGM、決してごちゃごちゃに混むことのない客の程よい多さ。かつ静けさ。股を広げて背中を凭れさせぼぉっとした。さやがいないからじゃない。彼女がいても時々僕はこんなふうになった。脳内で再生される映像それにサブ・タイトルは実に様々だった――ときどき、5回にいっぺんくらいの頻度で真っ暗な画面が浮かんで波の音だけが聴こえる時がある。何となくだが確信に似た僕のアンサー。これは羊水。母の腹の中だ。

「すみませんでした」
 遅く なっちゃって。

さっきのチャーミング・スマイルの彼女が駆け寄ってきた。僕はいいよと薄く笑って返事をした。

「君だってそろそろ僕の顔が見たくなくなる頃だろ」

女は笑ったまま一瞬静止したあと、けらけら笑い出した。

「いいえ――そんな事。だって、お客さんでこんなに背景と人物がぴったしくる人ってなかなかいないですもん。いつもスーツだし――あなたが来だしてしばらく、美術館にいるよな気分よねって。働いてるのに」
 今日はどう されます?

いつものを、と言ったあと続ける――へぇ。

「絵に興味が?」 「いえ――全くなんですけど」

うふふっと笑う彼女に僕もわらった。そのあと聴くわけでもなしに彼女は教えてくれた。

「安心してね。さやちゃん、ただ休みなだけですから」

ここに通いだしてもうすぐ一ヶ月が経とうとしていた。当然にさやのシフトの空白にもぶち当たった事はある――「わかってるよ」という意味の微笑を向け、すぐ、持ってきますからという声のあと小さく「寂しいですよね」、と呟いた。さや以外にも楽しみはあった――むろん彼女がいるのといないのとじゃあ言うまでもないが――それでも、さやがいないのを店の前で確認した途端いま来た道を引き返すなんて救いようのない男になるのは来世あたりで良いなと思ってもいた。僕はすっと席から立ち上がり、ベルがうるさく鳴らなくてすむよう優しく扉を閉めた。車へ歩いていき運転席の方から助手席の上に放り投げてきたいくつかの本――『十五少年漂流記』、『容疑者Xの献身』、『ノルウェイの森』の下巻、そして『重力ピエロ』。

うち、一冊を取った。ヴェルヌでもケーゴでもハルキでもなくコータ・ロウ。たくさん服を持っていてもいつも同じやつを着てしまうタイプじゃないが僕は何度もこれを読みたがった、眠る前にいつも同じ話をせがむ子供のよう。

折り紙で簡単に創ったリスの尾のよな文庫本のスピン――栞でいい――を親指と人さし指でいじってやる。それから開き、頭から読み始めた。ジョーダンバッド。春が二階から落ちてきた。血がざわめき立つのなんて常日頃からあり過ぎて、本を読み初めて自分に落ち着きがなかったのだとわかる時がある。無言でページを捲り続け、珈琲がいつの間にかこのダークブラウンの台に乗っかっていた。残り時間を確かめたあとまた紙に眼線を戻す。大袈裟だと言われてもかまわない。まるで瞑想だ。首という首についていた全ての枷が外れるよな解放感。「ありがとうございました」と針金ヘアの女の声が遠くとおいところで聴こえた。

珈琲を飲むとちょうどいい温度になっていた――13時37分。本を閉じ伝票を手にして立ち上がる。レジでふとスラックスのポケットに手をやる。財布を車内に置いてきてしまったようだった。一言、とは言えないが説明をし、足早に駐車場へ出、足元に落ちこんでいたやつを取り、戻った。今度は白髪ののんびりとした男――たぶんマスターだろう――に代金を支払った。いつもありがとう、眼鏡の奥の皺だらけの瞳に「どうも」と笑顔で返事をし、ベルの音色をくぐった。


車に乗り込みなにかを忘れてる気分になった――普段から神経質だとどうもこんなシーンが多くなる――気のせいかと思い直す。少々遅れてもわけないが、大遅刻じゃあ誰でもまずい。顔の美醜にかかわらず会社とはそういう場所だ。僕はふぅ、と息を吐きハンドルに手をかけた。誰かが窓をこつこつと弱く叩いた。そこには私服のさやが、僕の『重力ピエロ』の文庫本の水色の背表紙とともにこちらを、近いのに遠い瞳で見ていた。

12

「どこに?」

咄嗟に僕は窓を開けそう声をかけていた。本を受け取ろうと右手を出しもせず、左手はハンドルにかけたまま顔は彼女の方へと斜めに、そして心はまっすぐに、さやの方へ向いていた。笑わなかったのは「ほんとうに」これがどこにあったのか、そして忘れた事すら気づいていなかった僕のそれは自然な反応だった―――それに、わかってもいた。めいっぱい微笑んだくらいでなびくまい。いや、なびいてくれちゃあ、困るんだ。そんな事でこれまでの僕の気持ちがほどかれる訳にはいかなかった。ばあちゃんという長年の知恵を持ってしてもこの結ばったあと絡まった僕の心の糸のこぶを誰もほどけやしない、情熱をいくつも重ね燃やした炎でなけりゃあ。やけどじゃすまないような温度でもってしても、それはだめだ。

「カウンターの上に」
 さや。

「どうして、僕のだと?」

彼女がいつ店に来たのかもわからなかった。バームでしっとりした桜色の唇が答え続けた。

「分からない」

本を、手首をひねり横にして僕の方に倒す。はい、と小さな声。置いていた右手を上げそれを掴んだ。震えなかった――が、心臓はこの突然の出来事にみっともない声を上げ、跳ねていた。踊ってると言った方が正しかった。ジューク・ボックスから足の浮きうきするよな馬鹿っぽいラブ・ソング。さやが笑った。僕はじぃっとその顔を見つめ続け、そしてさやも僕から瞳をけしてそらさなかった。

態度だけ見るとあり得ないってなくらいな差だがそれはもう、クリスマスの朝、欲しくてたまらない玩具を贈られ寝間着のまま狂ったよう喜んでる子供とほとんど僕は変わらなかった――さっき視界に入った斜め向かいの時刻は13:45ちょうど。一度本を受け取った指をぱっと離し下におろす。彼女を見つめたまま会社の番号を出した僕はそれを耳にあて、なおもさやを見つめ続けたままこう言った。

「すみません、早退します」

がちゃ、とドアを開け少し後ろにあとずさったさやの前に立った。

「――具合が悪そうには見えないけど」

胸が高鳴った。全てを忘れて。すべてを。

「悪いさ」
 頭が ね。

「返事に困るわ」

彼女が小さく声をあげ、笑った。僕の『重力ピエロ』の文庫本はまぁるい胸にぎゅっと押し付けられ、優しく抱かれていた。


「乗れよ、さや」


なめらかな、手を取った。何故か振り払われないと分かっていたし僕達がどうなろうとしているのかも分かっていた。紛れもなく予感だった。まぁるく、白い光で縁取られた、予感。終わりかけた夏が今まさに、始まったような気がした。

13

田舎の駅のホームが人で溢れていた。安っぽい香水の強い匂い、根元の黒くなったブリーチの髪の少年。平成元年かそこらで時が止まったかのよな柄の悪い老若男女、内緒話は絶対にできないほどでかい声。ヒステリックな身振り、手、口。祖父の生まれ故郷だった。伝説のやくざの親分と同じ場所で同じ時代に生きたんだと、今じゃあファンタジーとも取れるその想い出話のひとつの舞台がまさしくここ。「俺は女、あいつはコレよ」。日に焼けた、筋肉のまだついていた二の腕をぺちぺちと叩きそう言っていた祖父の妖しくにやけた面。遠くの景色の恐ろしく長く高い赤白煙突が、グレーの煙をもくもくと吐き出していた。


初めて来たのは確か中学の頃だった。祖父達の家に世話になりだして何ヶ月かそこらか、友人やその頃徐々にでき始めた彼女を家に連れ込むのに気が引けた僕は、ろくすっぽ話もせず休日もよく外へ出ていた。

「あいつ、ぐれるんやないか」

祖父の言う「ぐれる」は不良になるという意味ではない。心がぺしゃんこになりはしまいか、といったそっちの心配だった。ぐじゅっとした、内に閉じこもる頭のおかしな事をぶつぶつひとりごちるよな10代の事だ。会話をしようと思ったのだろう、心のひらけた。こうして僕の脳みそん中の好奇心の箱の中にはスイート&ビターなメモリアル&心に優しい&可笑しい(祖父に泣かされた歴代の彼女らには申し訳ないが)それらが貯まっていった――『すけこまし』伝説を祖父は駅前のうまい唐揚げ屋で、小さなスナックで、老舗の洋食屋で話して聴かせてくれた。もちろん二人で。男同士の話ぞ、なぁ蛍、とばあちゃんに僕の肩を叩くとこを見せながら出掛けたのだ。ばあちゃんは興味なさげに、けど僕には酒を飲ますなとだけきつく言ってきかせていた。家でも二人きりで外に出ても、祖父は頑なに僕の両親の話はせず、ただ世間一般的には非難の集中するよな自らの『おもひでびっくり箱の中身』をすこぶる面白おかしく話して聴かせた。

最初、口の端を吊り上げるだけだったそれがいつしか僕の整った線の歯が空気に触れるようになり、それはいつしか、尾を引く紛れもない笑顔となり、いつしか、僕は祖父と同じやり方で声を出し、笑うようになった。はっ・はっ・はっ・はっ・はっ。立てた片膝の上に置かれた腕の手首にぎらりと光る金の腕時計。その指先に灰が首をもたげている細い煙の出る煙草。二人の男の笑い声のせいで空中の白いもやは魔法をかける時に近いそれでふわふわと揺らめいていた。まるで、全てを打ち消す魔法のよう。

夜、じいちゃんと酔っ払ってご機嫌に帰ってきた僕の顔を見たばあちゃんのあの一瞬の表情を、僕は生涯忘れはしない――あんた!と数秒あとにじいちゃんに喝を入れる少し前のあの顔――そう、たとえこの先誰かにぶっ殺され、未練がましく想う間もなくこの世を去ろうとも、だ。


駅の側のアートな橋を渡る。で、土手を降り川沿いをしばらく歩いた、ひとりで。手入れの行き届いた場所のそこに僕は立ち、川の穏やかな水面を眺めていた。


「伊坂って覚えづらいの」


文庫本を、おろしたまぶたで愛おしそうに見つめさやはそう言った。車内に彼女のシトラスの香水が軽く充満し、密かに僕は得した気分になっていた。髪、それに服…細い手首、シルバーの華奢なチェーンのついた肌からの香りに混じるさやの匂い。DNAは突然変異を起こしたかのよに顔をうつむかせ、僕を純朴な少年みたく奥手にさせた。声を出す前にこんなに言葉を選んで意気込み会話をする事自体、生まれて初めてだった―――のわりに、甘えた子供のよう、彼女をどこへも行かせまいと隣に乗せるあたりが普段の身勝手な僕らしかった。心の中で笑ってやる。

「そうかな」
 前を向き、運転しながら僅かに笑みを漏らす僕に彼女は続けた。

「いつも飯坂とか、いささかって思い出しちゃうから」

思わず吹き出した僕にさやは顔を向け、なに?と平静に問いかけた。

「いささか幸太郎は、ちょっと笑えるね」

「そう?――知的さが増すと思うんだけど」

シートベルトのすぐ下、腿の隙間に両手を挟みそう答える。僕の本も。ダッシュボードに積み重ねられた残りの本達が、羨ましそうにそれを見ていた。「時間よ止まれ」と囁きたくなるよな瞬間が、あっという間に過ぎた。夕方、あの夏の間さやが働いていた海の家の海岸を通り過ぎ、煌めく九月の母なる浜辺を眺めたあと森の近くにある静かなレストランに入って食事をした――秘密の場所のうちのひとつだ――クラシック音楽が流れていたその最中、視線を、彼女は僕の、僕は彼女の視線を口に運ぶそれと一緒に、食べた。何にも聴かない。聴きたいのに。別のカップルが、僕よりさやの方を見ていた。ブラック・ホールは女神の木漏れ日のよな光で塞がりかけていた。点々の、しつこい黴のよな黒だけを残して。

「どこ行くの?」

「ん――どこに、行きたい?」
 シートベルトを装着してくださいという女のアナウンスに従う。

「何処でもいいの?」 「良いよ」

「なら真夜中のパリに」

ふざけた返事のわりに、さやは穏やかな顔をしていた。

「ふ…」

バックミラーの僕のたまらない、といったふうな自分の顔を見つめ返した。アクセルを踏む。多分もう、きっと、めちゃくちゃに好きだった。信号がいつかのよう、黄になった。早めに車を停め、僕はさやの方を向いた。

「ピカソにでも逢いたいか」

「そうよ…いささか、幸太郎さん」

優しい瞳のさやに顔を近づけ、彼女の柔らかく甘い唇を噛み、触れた。が、僅かな舌先すらも今の僕にはまだ許されなかった――長いながい間見つめ合って赤が終わり、僕の中の夜が終わり、さやとの時間が終わり、そして、始まった。なぜ捨てられたのかという堂々巡りの疑問が終わり、過去の反芻が終わり、欲望にまかせたあのくそったれのセックスの日々が終わり、かわりになにかが産声をあげた瞬間だった。それは悲しいのだという叫びではなく、嬉しくてたまらない、愛に満ちた歓声だということに少しの間違いもなかった。


僕は「じいちゃん」とひとり呟き、来た道をゆっくり歩き戻った。鳥の羽ばたきが聴こえ、それから美しいさえずりに瞳を閉じ、心の底でくすぶる想いに耳を傾けた―――書きたい。


「書きたいんだ」


誰かのでかい笑い声が、背中の向こうでいつまでも響いていた。

14

さやを店まで迎えに行った。昨日の昼も来た珈琲ショップ、変わらずに僕を見守り続ける入り口のベル。ヨカッタ…ネ。静かに開けたが「いらっしゃいませ」と全員が応えてくれ、少し申し訳なかった――あっ、という針金ストレート・ヘアの彼女。分かりやすさに心が和んだ。テーブルじゃあなくカウンターに座った。すぐ出る時にはこっちがよかったのだ、が、やはり珈琲をひとつ頼んだが。うんちく青年じゃあないが美味いもんは美味いと言える態度は持っている。

「いいんですよ、無理して頼まなくても」
 針金ヘアの彼女が皿を拭き僕に声を掛けた。

「無理してないさ」

カップを持ち上げ、静かに珈琲を啜った。カウンターの左端、ずらっと空いた僕の隣の席を見やる。突き当たりにヘップバーンのポスターがあった、モノクロの。それの右側の通路の先の焦げ茶のドアから、staff onlyと書かれたそこからさやが現れた。週末。午後15時を過ぎたところで曖昧な関係は変わらず僕達は一緒に過ごすのだ…さやの僕を見つめる瞳は着席したまま、だけど少女のよう可憐、ささやかに浮き足立っていた。僕のジューク・ボックスにはとうてい及ばない…が、それを問題にする事もない…罰あたりだ。二人過ごすだけでも道端の花にキスしたくなるほど、とにかく、傘があるのに雨に文句は言わない主義―――そういう事だ。


外交的でありながら内向的な僕達が惹かれ合ったのはほとんど運命だと思ってもいた――話せば話すほど予感の核へと続く扉は次々と開かれ、ときにさやは、沙矢は、僕の期待を大幅に良い意味で裏切ってくれた。つかめそうで、つかめない。触れられそうで触れられない。手に入れられそうで、手に、入れられなかった。抜きん出た知性。僕に合わせる素振りを見せずに合わす――何を?言葉を、視線を、フィーリングを、少し力を入れればめちゃくちゃに傷ついてしまう、その唇…を。帰り間際のその一瞬のそれが夢よりも心地の良い現実を、僕に繰り返し見させた。スクリーンの上で。

観たい映画があると彼女を誘った日だった。「私も好き」。僕の事じゃあなかった。主演のイギリス人俳優。冷めた瞳をしておきながらとてつもなく心を揺さぶる演技をするのだ――僕よりひとつ年が下のくせ――紫色したジェラシィが少しだけ耳元をかする。祖父が煙草を咥えたまま爆笑する画が頭の裏に浮かんだ。あの、紺野といた時の沙矢と出逢ったシネプレックスじゃあなく市外の方へ車を走らせていた。そっちの方がでかいし綺麗、いくらでも理由は付けられる。聴かれるような事はないと分かっていながら僕も用意をする。人より弱いがゆえ。何でもないって顔しながら身体の底は大惨事、目もあてられぬほど。けど、彼女ほどじゃないんだろう。後ろ姿のスカートがふわっと揺れ、瞳を細めた――お前ほどじゃない、僕なんか。沙矢。

シアター3に入り後ろの少し右寄りの席へと座る。公開からかなり過ぎていたから少なかった――前列の方に一人で座っている老人がいた。恐ろしく大きな、ラージサイズのポップコーン片手にまだ予告のうちからドリンクをずるずると飲み干していた。

「楽しみ」

誘ったのは僕だがうきうきしていたのは沙矢の方だった。何度となく不意に見せられる幼い笑顔。心地よく締めつけられる胸の痛みとともに僕は言っていた。

「沙矢」

「映画館ではお静かに」

小声で笑う沙矢の左手を取った。彼女が笑顔のまま僕の方を向く。


「付き合わないのか、僕達」


もう、こんな関係が何週間も過ぎていた。すこぶる真剣、本気そのものな表情の僕に沙矢も真顔になった。少し強めに握り返される手。しばらく見つめ合った。脳裏の、ではなく本物のスクリーンでは本編の映画がもう始まっていた。自信過剰で自惚れ屋の青年が恋をしたのはレズビアンの彼女で、そいつとの日々を中心に人生が美しく狂うさまを描いた原作――黄色い薔薇の花びらが散らばるシーン、さっき僕がソフトな嫉妬の矢を投げたあの少年俳優の名前。血で書いたような英字だった。波乱に満ちたオープニングだと思った。まさしく今の僕達のような。これからの僕達を予感させるような――そう、まさしく、それこそが「予感」。核の中心に僕は辿り着いたのだ。

「沙矢」

彼女がもう片方の手で僕の右手を包みこう言った。

「始まる」
 もう すでに遅いさ。

「何で、はぐらかす?」 「…」

「僕が嫌いか」

いいえ、というように沙矢は首を横に振った。

「違う。ただ、観ている途中に会話をするのが苦手なだけ。終わってからにしましょう。終わってからなら、どこでだって…たとえばあなたと、どこででもかまわない…二人きりでそう、同じ部屋にいる事になったって、構わないから」

そう言って両手を離し、スクリーンを向いて黙った。僕は小さい声で素直に「わかったよ」と言い、ありがとうと笑う沙矢の横顔を見つめてから画面に瞳をやった。先を急ぎすぎるこんな僕がいつも嫌になった。二人でいる事、それだけで幸せなのだと表面では思っていながら心では沙矢をがっちり捕らえたいとしか考えていないのだ――早く。早くしろ、蛍。双子の片割れのよな気の強く意地悪な僕がいつも本当の僕を急かす。いきなり外での濃厚なキスシーンから始まり、何だか少し前の自分を公開されてるような気分になった――沙矢は特に表情をつくらず、いつものあの穏やかな顔で僕の分身を見ていた。差し込まれる舌。出来ない事をこうも堂々とやられると、画面越しとはいえ腹が立った。が、可愛さの中にちらつく男臭さ、子供でも完全な大人でもない、それでいて瞳の奥にどこか自分を諦めているよな彼の哀しさが僕をなだめた。誰もいない空間でひとりでに沈む鍵盤あるいは戦場のピアニスト――愛に敗れた美しいそのさまに心が震えた。声を出さずにそいつが泣くシーンで僕達は指を絡ませ合い、そして強く握った。同情と不安の入り混じった気持ちを抱きかかえるよう。


「目が疲れちゃった」


彼女が笑いながら出口へと向かう通路で瞬きをする。グレーの絨毯をどたどた、と駆け、ママぁ――!おしっこ、出た!――と言う小さな男の子を瞳で追いかけながら。

「原作を読んでたけど、思ったより良かったな」

「そうなの?」
 あぁ。うちに、あるんだ。

「映画化されると大概期待外れなもんだけど」

「分かる気がするわ」
 ふふ。

屋上に停めた僕の車に乗り込み、沙矢は目薬を差した。デジタル時計の表示、中央の点滅する18:01。19時半に店を予約していた。まだ時間がある――無言で車を発進させると、沙矢が小さな声で話し始めた。

「本当はだめだったの、暗い所が」
 首を、伏せた瞳の沙矢に向ける。

「なぜ言わない?」

僕の質問に答えずに続ける――でも、大丈夫だった。

「あなたがいたから」

目薬のせいで潤んだわけじゃない瞳が僕を見、また戻った――言われるまでもなく僕は家までハンドルを切っていた。信号の合間でまたキスをした。彼女の唇が、死ぬほど熱かった。

「蛍」
 さっきの話の続きを。

僕は優しく「あぁ」とだけ返し、それから黙った。

15

Bluetoothからの音楽の代わりに部屋に響いていたのは熱っぽい、僕と沙矢の呼吸の音だけだった―――本棚の見上げられるベッド、そこに倒れ込んだ男と女の足元に彼女のコーラル色のバッグ。チェーンのショルダーがだらしなくフローリングのそこに横たわっていた。僕のキーケースは枕と枕の隙間に埋もれ、息を殺して僕達を見ていた。まるで、いけないなにかを観察するかのように。沙矢の唇を強引に――が、力は抜いていた――開かせ、撫で、そして僅かに音を立て、あの唇と柔い舌を何度も吸った。何度も、何度も。次第に彼女の甘いうめき声が聴こえ始め、僕は閉じていた瞳を薄く開け、ものすごく近い距離で沙矢を見つめていた。

「沙矢」

自分がひどく興奮しているのが分かった。服の上からあの、まるい胸をわざとゆっくり触った――で、許可も取らずに中に僕の止まらない手を忍び込ませ、吸い付くよな湿った肌に指先を這わせ、僕は鼻と口から同時に息を漏らし、硬くぴんと立った乳首をこすった…執拗なこれに沙矢はとろけ、僕の肩に置いていた両手の爪をぐっと僕に食い込ませた。

「やめて、蛍」

セックスにおけるノーはイエスだと思っていた僕は耳元の沙矢の言葉を無視し、そのまま服を上にずらして淡いピンクのブラジャーのホックをばつんと外し、腹をすかせた乳児のよう沙矢を直接口に含んだ。滑らかな表面に歯をあてないよう先端を舌でなぞる。沙矢の手が僕の髪を撫で、スカートを捲り、内側の腿に手を滑り込ませた瞬間だった。

「やめて、蛍!」

さっきよりも強めに、そして怒りを帯びた沙矢の声が聴こえ僕は情けないほどぼぉっとした顔で夢から覚めた。


彼女は赤い顔ではぁ…と息をひとつつき、素早く僕に取られた下着をつけ直し、服を元に戻した。

「こんな事しにきたんじゃない」
 弱々しく僕を睨んだあとまた言った。

「こんな事をしにきたんじゃないの」

「分かってる」。そう言いながら自分の下着と履いていたパンツの中で痛いほどつき立つそれを近くにあったでかいクッションで隠した。その気だっただろう、と少し沙矢を恨めしく思った、が、僕は気を取り直し、続けた。

「話だろ」 「そう…話」

「大事な」 「…」

前髪をかき上げ、彼女の返事を待った。友人や祖父ならここで煙草にかちり、と火を点けるんだろうが喫煙者じゃあない僕はBGMでも流そうとスイッチを入れボリュームをいつもより下げた。『versace on the floor』が和やかなメロディで始まり、流れた。沙矢はまだ何も話そうとせず、けど僕の本棚をまたいつものよう、穏やかな顔で眺めていた。

「――『聖女の救済』」

「あぁ―――読んだ?」
 もちろん。

「これで珈琲の淹れ方を覚えたの」

小さく笑い、沙矢の身体を背後から抱きしめた。うなじに自分の鼻をあて僕に凭れかかる沙矢の肩を抱いた。沙矢は僕の腕に両手で触れたあと、そっとほどいた。閉じた瞳を開け、彼女の俯く横顔を見つめる。


「もう、やめにしない?」
 こういう 事。


最初、それがどういう意味かがわからなかった――が、しばらく経ってようやくそれがある意味一種の宣告、暗い谷底に突き落とすかのようなそれに僕は気が付き、立ち上がる沙矢を瞳で追った。僕が沙矢を想うよう、沙矢も僕を想っている――一瞬、そう感じていた全てが途端に疑うべきものになり、そして自分がとんでもない自惚れ野郎なのだというような気になっていた――あのスクリーンの青年のよう。そして次の瞬間、今度は頭の監視室にあの僕の元恋人のいつかのフレィズがみるみる蘇ってきた―――嫌。

 私はまだ。蛍と一緒にいたい。


「何で、そうなる?」


みっともないくらい傷ついている僕をよそに、沙矢は窓の外を黙って笑顔で見つめていた。動揺し全速力で駆け出す心臓。こんなに人の気持ちが「分かりたくない」のは初めてだった。そして僕が他人にしてきた行為の酷さを初めて本気で好きになった人間から知らされる。世の中の皮肉という皮肉を集めても今の僕には到底敵いやしなかった。さや、と小さく呼んでいた。返事すらなかった。彼女はなおも諦めたような笑みを僕に向け、続けた。

「お店、キャンセル料かかっちゃうかな」
 払うね。

「僕をもてあそんで楽しいか」

「もてあそんでなんかない」

沙矢の笑顔が消え、また繰り返す。

「もてあそんでなんか、ないわ」

しばらく静止する沙矢を見つめ、僕も動かなかった。どれだけ本を読んでいたとしても、かけるべき言葉が見つからない場面ってのはあるもんだ、などと他人事のように僕は思っていた――「送ってくれなくて、良いから」。床に倒れていたバッグを手に取り、沙矢は呟いた。

「送るよ」

「いいわ」

「送るよ。取って食う訳じゃない」

少し前とうってかわって、僕は死ぬほど冷静だった―――黙ったまま、階段の前に続く扉に二人で近づく。ドアノブに手を掛け、お客さんにこんな事言いたくないけど、と少し微笑んで沙矢は続けた。

「店にももう、来ないで欲しいの」

どうかな、と言いかけ僕は黙った―――で、間を空け、答える。


「分かった」


ポケットの中でキーケースを掴み、静かに鼻息を出す。

「勝手で――ごめんなさい」

「いや」
 良いよ。

「…」


「けど」、と僕は続けた――さっきも言ったとおり、僕は死ぬほど冷静だった。ここに間違いはない。ためらわなかったのは、だから、だ。

「お前が僕の事を忘れられるはずない」

ためらわなかった。


「お前が…紺野を」
 べつの意味で 記憶から消せないよう。



その時、僕の胸に何かが突然当たった――沙矢の、固くかたく握りしめられた、拳だった。僅かに後ろに揺れた身体を僕は前に戻し、囁くよう言った。沙矢、と。


「なぜぶつかったの?」
 あの とき。


沙矢の声が、めちゃくちゃに震えていた。両頬に蛍光灯で光る涙が線をつくり、さっきの拳の代わりに今度は僕の心を殴った。

「なぜ、ぶつかったのよ?」
 あの シネプレックスの日。

「答えて、蛍」

「―――わからない」

沙矢の中の積み木の城は崩れ、僕の予感は的中し、裸になり、そして別の『何か』になり、それは僕を得体の知れない淵まで追い詰めた。

 私が。

俯く顔から、雫がいくつも溢れていた。


「私が殺したのよ、蛍」
 分かって るんでしょう。


そう泣きながら僕にしがみつく沙矢を、扉の前で強く抱き締めた。スピーカーからはさっきの、2周目の『versace on the floor』が前よりもっと、切ないメロディで流れ始めようとしていた。

16

 

17

 

危ないイエロー

危ないイエロー

あたりさわりのないけど決して不幸ではないナイト&デイ。古臭い音楽と気取った文章、物わかりの良い僕のベイビー。

  • 小説
  • 短編
  • 青春
  • 恋愛
  • 青年向け
更新日
登録日 2020-06-20

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