なき探偵(将倫)
※東大文芸部の他の作品はこちら→http://slib.net/a/5043/(web担当より)
この作品は、東大文芸部の部誌で掲載されているなきシリーズの第一作になります。初出は2009年9月発行のNoise34です。
≪問題編≫
「ねえねえ、郁太、ちょっといい?」
そう言って駆け寄ってきた淵戸日奈は、厚みのある紙の束を手にしていた。
「どうした、日奈?」
反射的に応えてしまってから、天谷郁太は、しまった、と心中で後悔した。こうしたことは以前にも何度かあり、既に先が見えている。
そうして発せられた日奈の言葉は、郁太の予想に違わず極力避けたい面倒なことであった。
「これ、読んでほしいんだけど」
日奈は嬉しそうに紙の束を指差している。ざっと見積もってもその束は百枚を越えているだろう。
「へえ、もう次のが出来上がったんだ」
郁太は顔では感心するように笑いながら、内心ではため息をついた。
文芸系の部活に所属しているわけでもないのに、日奈は月に一度以上のペースで何かを書き上げている。短編もあれば長編もあり、小説のときもあれば詩のときもある。日奈が作品を完成させる度に郁太はそれを半強制的に読まされるのだが、何せ日奈はあまり文章が上手くない。読む郁太からすれば、労力と時間を要するその作業は面倒以外の何物でもないのだ。だがそう思って以前断ろうとしたとき、思いがけずひどい目に遭ってしまった。なので、郁太は今や何の抵抗もせずに、内心の苦々しさを押し殺して日奈の作品を読むのだった。
「あ、実はまだ完成はしていないの」
「は?」
従順な下僕のように日奈の持つ紙束を受け取ろうとしていた郁太は、その言葉を聞いて伸ばしかけていた手を止めた。まさか日奈は未完成の作品を読ませようとしているのだろうか。
「うーん、何て言うのかな。未完は未完なんだけど、これはこれで完成というか。とにかく、郁太の反応を見て書き直そうと思っているの」
日奈の言うことは何とも要領を得ない。ただ、郁太の頭を巡る思考回路は、自分に降りかかるであろう面倒事のみを瞬時に弾き出していた。
つまり、未完成の作品を読み、その後完成した作品をもう一度読むという、二度手間だ。しかも今回はどちらかといえば長編に入る部類だ。郁太の頭は重くなる一方だった。
苦い顔をして片手で頭を抱える郁太をよそに、日奈はひどくご機嫌な様子で手に持つ紙束を郁太に押し付けた。
「あのね、でも全部読めって言っているわけじゃないの。途中からでいいから」
そう言って日奈はページをぺらぺらとめくり始めた。郁太は人形よろしく、ただ手の上に乗る紙の束がめくられていくのを無心に眺めている。
「あ、ここ、ここ」
そうして日奈が手を止めたのは、全体の半分ほどをめくり終えた時だった。郁太は正直、嘘だろ、と思った。全体の半分といえば確実に起承転結の起は過ぎているし、下手をすれば承すら過ぎているかもしれない。起を読まずして全体を理解するのはかなり難しい。だが次の日奈の一言は、さらに理解するのが難しいものだった。
「ちょうど登場人物の説明があるところからだから」
どう考えても起の部分だった。郁太は驚きのあまり文字通り目を丸くしてしまった。半分も使って起を書くなど、頭でっかち過ぎる。というか、登場人物の紹介もなしに半分も何を書いていたのだろうか。これだから日奈の作品はちぐはぐで読みにくいのだ。
だが郁太にそれを断ることは出来ない。あの時の出来事は思い出すのも憚られるようなものだった。郁太の中で完全なトラウマとなっていた。
「ああ、分かったよ」
郁太は一切合切の読みたくないという思いを捨て、日奈の小説を読み始めた。一応タイトルだけを確認すると、それは「不完全な殺人事件」となっている。どうやらミステリらしい。それにしても「不完全」とは、タイトルだけはひどく気が利いている。
***
最後に食堂に入ってきたその女性はその場にいる者の視線を集めて言った。
「全員が全員顔見知りというわけではないでしょうから、簡単に自己紹介から始めましょう」
そして長机に座した一同に向き直り、自らを名乗った。
「私は辻田沙代、この家の家主です。言うまでもないわね。では、圭志」
辻田沙代に言われておずおずと立ち上がったのは、見るからに気の弱そうな細身の青年だった。彼はその外見に反することなく、呟くような声で自信無さげに名前を言う。
「は、はじめまして。辻田圭志です」
それだけを言うと、圭志は椅子に座り下を向いて縮こまってしまった。その様子に、辻田沙代は呆れたように肩をすくめる。
「まったく、昔から人見知りな性格が直らないままで。父親に似たのかしらね。次は、杉島くん」
辻田沙代の息子である辻田圭志は、母親とは正反対な性格であることは一目見ただけでも窺えた。
次に辻田に促されて立ち上がった男性は、丁寧に頭を下げるとうやうやしく話し始めた。
「この家で手伝いをさせて頂いてる杉島章です。よろしくお願いします」
「杉島くんとは幼馴染みでね、昔からお世話になってるのよ」
杉島は再び頭を下げて席に着いた。次に辻田は視線を横へと滑らせた。辻田の視線が移った先に座る男性は、口元に軽い笑みを浮かべて立ち上がった。
「俺の名前は飯中健。辻田さんとは仕事の関係で知り合った。よろしく」
身のこなしや口調など、飯中は全体的に軽い印象を与える。がたりという音を立てて椅子に座った後、腕を組んだ飯中は隣に座る女性を見遣った。
飯中の視線に促されることもなく、その場の沈黙を我が物とするようにしばらく一同の視線をその身に集めると、その女性は立ちもせずにようやく自己紹介を始めた。だがそれは自己紹介と呼ぶにはあまりに短く、毒を含んでいた。
「私は辻野睦美。辻田さんにはいい加減、お金を返してほしいんだけど」
辻野の放った毒は一瞬でその場の空気を侵した。辻田の負う借金については全員の知るところであり、触れてはならないことが、ある種の不文律となっていた。だが、辻野はあえてそこに触れることで楽しんでいるようにも見えた。
重たくなった雰囲気を払拭するのもまた家主の務め、そう言わんばかりに辻田は気丈に振る舞ってみせた。
「直ぐにでもお返しするわ。――ではみなさん。夕食までもうしばらく時間のかかることでしょうから、あと一時間ほど、自由時間としましょう」
辻田の掛けた号令を受けて最初に席を立ったのは辻野だった。真っ直ぐに下ろした長髪を揺らしながら、辻田に一瞥をくれると靴音を高く響かせて食堂を後にした。
辻野が廊下に出た後も残る靴音がようやく聞こえなくなった頃、次に立ち上がったのは飯中だった。
「じゃあ俺も少し部屋にでも籠っていようかな」
飯中は小さくため息をつくと、肩をすくめて誰にともなく笑みを向けて食堂から出ていった。あるいは、その場の空気を和らげようという気遣いだったのかもしれない。
「さて、と。僕も夕食の準備を始めるとしますか」
飯中が去った後、杉島も直ぐに机に手をついて立ち上がった。これから一番忙しくなるのは、夕食を作らなければならない杉島だ。あまり時間を無駄にすることは出来ない。
「ぼ、僕も手伝います」
食堂を出ようとする杉島をひき止めるように、圭志は勢いよく立ち上がり杉島の後についていった。辻田と幼馴染みである杉島は、当然圭志とも付き合いが長い。二人は会話を弾ませて笑いながら食堂を後にした。その去り際、辻田に向けられた杉島の視線は決して明るいものではなかった。
最後に部屋に独り残された辻田も、これ以上食堂にいる必要もなく直ぐに部屋を出ていった。
「圭志くんは辻田さんが苦手なのかい?」
厨房で夕食の支度を始めた杉島は、隣で手伝いをしてくれている圭志に尋ねた。その内容は杉島が前々から気になっていたことだった。先程の挙動といい、普段杉島と接する時の圭志とは態度が大きく異なっている。
「苦手というか、嫌いです」
「へぇ、どうして?」
圭志は手を動かしながら答えた。料理が出来るわけでもない圭志は、杉島の指示に従って食器や食材を出したりすることしか出来ない。杉島もそのことは知っている。だから杉島にとっても圭志にとっても、その目的は会話にあった。
「昔から、母さんは一方的に物事を押し付けてくるから」
杉島は相槌を打ちながら、綺麗に整理された五本用の包丁立てから一本を取り出した。そしてまな板の上に並べられた食材を切り始める。
「でもそれは圭志くんのことを思ってのことじゃないのかな?」
圭志は杉島の巧みな包丁捌きを見るのと同時に、その艶やかさに魅せられていた。圭志の口は自然と本心を漏らしていた。
「違いますよ。母さんにとって僕は所詮操り人形でしかないんです」
圭志はそう言ってから自分の失言に気付き、慌てるような表情をした。だが今さらどう言い繕えるわけもないことを悟ると、わずかに俯いて無言を通した。杉島もこれ以上このことに触れるべきではないと思ったのか、それ以降の詮索はしなかった。
厨房には気まずい沈黙が流れ、ただ杉島の振るう包丁がまな板を叩く音だけが規則正しく響いていた。
食材を切り終えた杉島はそれらを火に付けた鍋に入れた。いい匂いを放ちながらことことと音を立てる鍋の中を覗いている圭志に対し、杉島は今しがた使った器具を片付けて既に次の料理を作り始めていた。
まな板や包丁、ざるを手際よく洗い、さっと水切りを行うと元にあった場所へと戻した。そして再び冷蔵庫から食材を取り出すと、先程使ったものとは違うまな板を敷きその上に乗せる。さらに、包丁立てにある、これも先程とは違う包丁を四本の内から一本取り出して、食材を刻み始めた。
「今日の食事会って何が目的なんですか?」
しばらくの沈黙に耐えられなくなったのか、それとも延々と続く包丁の音が耳に障ったのか、圭志は杉島に向けて意味の無い質問をした。意味が無いというのも、杉島がその答えを知るはずもないからだ。確かに食事会というには人数が少なすぎるし、そもそも今日は何もない平日なのだ。食事会を開く理由に疑問を持つのはもっともだ。ただ、それを単なるお手伝いでしかない杉島に尋ねるというのは、筋違いではある。
「さあ、僕は聞いていないな。それは辻田さんのみが知ることだよ。それか、誰かに頼まれたか」
何も知らない杉島はそう答える外なかった。
そうして二品目の料理が出来たところで、杉島は着けていた前掛けを外し始めた。
「ごめんね、圭志くん。ちょっとトイレに行ってくるから、この鍋を見ていてくれるかな?」
そう言うと、杉島は圭志が頷いたのも見ない内にそそくさと厨房から出ていった。料理を始める前には必ず用を足したり手洗いをする杉島にはあまりにらしくない行動だった。
厨房に残された圭志は、杉島の言い付けた通りに鍋が煮立ち過ぎないように鍋の中身と火加減とを見比べていた。ただただ沈黙の中で目を使う作業が、圭志は嫌いではなかった。
間もなく杉島が戻って来た頃になって、ようやく鍋はふつふつという音を立て始めた。
「じゃあ続きを作り始めようか」
前掛けを着け直して杉島は料理を再開しようとした。だが、冷蔵庫から食材を取り出そうとした杉島の手は、不意にかけられた圭志の声により止められた。
「あの、少し部屋に戻ってもいいですか?」
冷蔵庫の扉を閉じた杉島は圭志の方に振り返った。
「ん? どうかしたのかな?」
「今日見たいテレビ番組を録画予約し忘れていたんで」
今日の食事会は三日前には予定が決まっていたので、律儀な性格の圭志にはらしくない行動だった。杉島は顎に手をやり上方に視線を泳がせると、少し考える素振りをした。そして直ぐに視線を圭志へと戻した。
「ああ、それだったらしばらく部屋で休んでいるといいよ。こっちはもう僕一人でも何とかなるから。また料理を運ぶ時に手伝ってもらえるかな?」
圭志は杉島の言葉に頷くと、小さくおじぎをして厨房を出ていった。
圭志を見送った杉島は直ぐに圭志が階段を上がる足音を聞いた。それは包丁が軽やかにまな板を叩く音に似ていた。杉島は再び冷蔵庫の扉に手をかけると、食材を取り出して夕食の準備を再開した。
しばらくして圭志が厨房へと戻って来たとき、ちょうど杉島と出会い頭にぶつかりそうになった。どうやら杉島も厨房から出ようとしていたようだ。
「あ、圭志くん、ちょうど良かった。食事の準備が出来たからまた手伝ってもらおうと思っていたんだ」
圭志が厨房の時計を確認すると、先程厨房を後にしてからちょうど三十分が過ぎようとしていた。圭志は杉島の指示に従って、厨房に並べられた料理の品々を食堂へと運んでいった。匂いだけでも舌鼓が打てそうな程に、杉島の作った料理は香しかった。
二人がかりで行ったため、ナイフやフォークなどの食器も含めて全ての準備が整うまでに大した時間は掛からなかった。
「それじゃあみんなに声を掛けてこようか。圭志くんは辻田さんを呼んで来てくれるかい?」
圭志は、はい、と返事をして食堂から出ていった。辻田の部屋は二階にあり、客人である辻野と飯中の部屋は一階に割り当てられている。杉島も、圭志の後に続いて食堂を出た。
杉島が声を掛けた二人が食堂に入って来るのと、圭志が戻って来るのはほぼ同じだった。だが、圭志の後に辻田の姿はなく、圭志は困惑したような表情をしている。
「何度かノックして声を掛けても反応がありませんでした」
周りが辻田の様子を案じているのに対して、辻野は訝しげな表情で毒づいた。
「まったく、客人よりも遅く来る招待主なんて、呆れるわ」
「でも、時間に律儀な辻田さんが遅れるなんて、少し心配だな。様子を見に行こうか」
そう言って直ぐにでも足を動かそうとした飯中を遮ったのは杉島だった。辻野はそのやり取りに肩をすくめてみせるだけだった。
「いえ、飯中さんの手を煩わせるわけにはいきません。僕と圭志くんでもう一度様子を見に行きますので、少々お待ちください」
至極丁寧に言われては、飯中もそれ以上強く出ることは出来なかった。飯中が大人しく引き下がったのを確認すると、杉島と圭志は二人そろって食堂を出ていった。
辻田の部屋の外では、杉島と圭志が部屋の中の状況を知ろうとしていた。何度かノックをした後にガチャガチャとドアの取っ手を回そうとするが、鍵が掛かっているために普通にしただけではドアが開くことはなかった。
「中からの反応はないし、鍵も掛かっているね……」
杉島がそう言うと、今まで何かしらの音を立てていたドアが急に静かになった。ドア越しでも、それで杉島が考え事をするために手を止めたのだと分かる。そして、考え事をするときに下を向く癖のある杉島は、直ぐにそれに気が付いた。
「これは、――血?」
ドアの付近に血が点々と飛散している。それが何を意味しているのかを即座に察した杉島は大きな声を上げていた。
「圭志くん。ドアを破るのを手伝って!」
部屋の外の空気は一変し、緊迫感が張り詰めた。杉島の言葉の最後の方は、杉島が体をドアにぶつける音でかき消されてしまった。ドアを打ち破るための音は圭志のものと合わさって直ぐに二つになった。
二人掛かりともなれば、特段頑丈に作られているわけではないドアを破るのに大した時間は掛からなかった。二、三回体をぶつけるとドアは軋む音を立て始め、そして五回目に体をぶつけたとき、ドアは鍵の壊れる鈍い音を上げて強引に開かれた。
二人が見た部屋の中の光景は、凄惨と呼べるものだった。部屋に入った二人の足元には廊下と同じように血が点々と飛散している。二人が下に向けていた視線を上に――部屋の奥へと向けると、この家の主が変わり果てた姿で横たわっていた。
腹部の刺創から出た血液によって床には血溜まりができ、その上で仰向けにして倒れている辻田の胸には包丁が突き立っていた。その様子は、見ただけで辻田にもう息がないことが分かろうという程だった。
「母さん!」
弾けるように駆け出した圭志は、杉島の制止の言葉も聞かずに血まみれの辻田のもとへ向かった。距離にしてわずか数歩しかないのに、辻田は永遠に手の届かない所に行ってしまったのだ。辻田を間近に見た圭志は、その事実を目の当たりにした。
圭志に次いで部屋に踏み込んだ杉島は、辻田の脈拍を確認した後、携帯電話を取り出すと冷静に救急車と警察に電話をした。その間、圭志は辻田の亡骸にしがみついてただただ咽び泣くばかりであった。
ドアを破る音を聞いたのか、飯中と辻野も間もなく部屋までやって来たが、その光景に、部屋に入ることもせずに廊下で絶句していた。誰もが動けずに立ち尽くす中、部屋には圭志の啜り泣く声だけが聞こえていた。
その後十分と経たない内に警察と救急車が到着した。誰の予想を覆すわけもなく、救急車に乗せられた辻野は間もなく死亡した。そうなると後はもう警察の仕事で、直ぐに事件現場の検証に移った。その間、現場にいた四人は別室、食堂で待機ということになった。
重たく暗い雰囲気に満ちた食堂では、しばらくの間沈黙がその場を支配していた。だがやがてその空気に耐えられなくなったのか、飯中がまず口を開いた。
「どうして辻田さんがあんなことに……」
一度一人が話し出すと、言葉を発しないことが逆に不安になってしまう。そうして、ぽつりぽつりとだが三人は言葉を交わしていった。ただ一人、圭志だけを除いて。
「分かりません。今は警察の人に任せるしかありません」
「まったく、迷惑しちゃうわよね。ただ食事に招かれただけなのに、殺人事件に巻き込まれちゃうなんて」
あからさまに苛ついた様子で不謹慎なことを言う辻野に、飯中と杉島は白い目を向けた。だが、当の辻野はそれに気付く様子もなく、視線は別のところへ向けられていた。あまりに憎々しげな視線は、圭志に向けられていた。そして次に放たれた辻野の言葉は、圭志の琴線に触れた。
「あんたが殺ったんじゃないの?」
「どうして僕が!」
がたりと大きな音とともに立ち上がった圭志は、それまでの様子からは想像もつかない程の大声で叫んでいた。涙を浮かべた瞳は、敵意を持って辻野のことを睨み付けていた。だが、対する辻野はさして動じることもなく、そして一向に引く気も見せないままそれに応じた。
「最初に辻田さんを呼びに行ったときに刺したんじゃないの? だって、私は二階に上がったときに直ぐに気付いたわよ。部屋の前に落ちている血痕にね。それに、今くらい感情を剥き出しに出来るなら人を刺すことくらい造作もなさそうだしね」
辻野の言い分に反論しようとする圭志だったが、なかなか思うような言葉が見付けられないのか、口をもごもごとさせるだけでそれは声になっていなかった。確かに、階段を上って廊下を正面に置けば、辻田の部屋の前にある血痕は見える。辻野の主張はもっともだと言える。そのような圭志に助け船を出したのは杉島だった。
「口を挟みますが、僕も始めは部屋のドアにばかり気がいってしまい足元の血の跡には気付きませんでした」
「そういや俺も気付かなかったな」
飯中も杉島に同意を示した。こうなると、とても圭志だけがおかしいとは言えなくなる。それでも辻野は煮え切らない様子で悪態をついた。
「揃いも揃って男の人は鈍いのね」
悪意は悪意を生み、それは疑念へと変わる。辻野の生んだ悪意は、まるでその報いであるかのように辻野自身に疑惑の目を向けさせた。
「そういう辻野さんはどうなんですか? 殺人事件が起きていてそれだけ平静でいられるんだ。母さんを殺したのはあなたなんじゃないですか?」
「何を根拠にそんなこと」
言葉を重ねれば重ねる程に互いの言葉は鋭くなり、どんどん険悪となっていく。もしもここで四人を止める存在がなかったら、きっと言葉は暴力となり抑制は利かなくなっていただろう。
「それを捜査するのは私たち警察の仕事です。あなた達が啀み合っていても何の解決にもなりませんよ」
その言葉とともに、背広を着た一人の男性が食堂に入ってきた。第三者の思わぬ介入に四人は口を噤んだ。国家権力に逆らって得をすることなど万に一つもない。四人が大人しくなり、食堂から刺々しい空気が払拭されたのを確認すると、その警察官は四人に言い聞かせるように話し始めた。
「みなさんご存知のように、この家の家主である辻田沙代さんが死去されました。ただ今より、本件を殺人事件として以降捜査を進めていきますので、ご協力お願いします」
穏やかな口調ではあるが、有無を言わせぬ雰囲気を漂わせる警察官は、手帳を片手に開きそれを見ながら話を進めた。
「最初に確認しますが、みなさんが最後に辻田沙代さんを見たのはいつですか?」
その問いの答えは言うまでもない。およそ一時間前にこの食堂で解散を告げた、その時が皆で辻田を目撃した最後の瞬間だ。それ以降に辻田を見た者は誰もいない。
「なるほど、一時間前ですね。検死の結果はまだ出ていませんが、恐らく同じ結果になるでしょう」
警察官は胸ポケットに挿してあるペンを手に取ると、その事実をメモした。そして視線を手元から再び四人の方に向けると次の質問をしようとした。
「では、次の質問ですが」
「すみません、一ついいですか?」
飯中は片手を挙げると警察官の言葉を遮った。主導権を握る警察官はいくぶん訝しげな顔をしたが、どうぞ、と飯中に質問を許した。
「辻田さんの部屋のドアには鍵が掛かっていたんですよね? なら誰も入れないんじゃないですか?」
飯中が聞きたいことはつまり、警察がなぜこの事件を「殺人」だと断定したかだ。確かに人が包丁で刺殺されていればまず他殺を疑うだろう。だが、部屋に鍵が掛かっている状況、つまり密室であることを考えるならば自殺という可能性も出てくる。
警察官は取るに足らないとでも言いたげに、まるで子供に諭すかのように丁寧に答えた。
「密室であることは大した問題ではないのです。廊下に血痕がありましたでしょう? あれは犯行当時に部屋のドアが開いていた、というだけでなく、犯行がドアの付近で行われたことを意味しています」
警察官は最後まで説明はせずにそこで口を閉じた。四人とも、そこまでの説明で全て納得していたのが表情から見てとれたからだ。
要するに、部屋に来客が来てそれに応じようとドアを開けたところで刺された辻田は、追撃を免れようとドアを閉めて鍵を掛け、その後力尽きた、ということだ。これならば他殺であっても密室を拵えることは出来る。
「後々聞かれるかもしれませんので先に言っておきますが、外部から何者かがこの家に侵入したという痕跡はありませんでした。加えて、辻田沙代さんが部屋のドアを開けたことから考えても、犯人は辻田沙代さんと顔見知りであると考えられます。つまり、容疑者はこの家に招かれたあなた方四人ということになります」
補足を付け加えるようなその説明に、四人は納得せざるを得なかった。もしも誰かが家に侵入したのであれば、痕跡等を考えなくとも誰かしらが気付くだろうからだ。
「では質問に戻ります」
四人に他に言いたいことがないことを見ると、警察官は一つ咳払いをして中断されていた質問を再開した。
「凶器となった包丁が誰の物か分かりますか?」
あの現場を見て、誰も包丁の持ち主になど気を回した者はいなかっただろう。誰もが、辻田の状態を最も気にしたはずだ。だが、杉島だけはその質問に即答することが出来た。
「あ、あれはここの厨房にあったものです。そういえば一度食堂に集まる前に確認したときは五本あったのに、その後夕食の準備をするときには一本足りていませんでした」
ふむ、と納得するような相槌を打った警察官は、不意に疑い深い視線を杉島に向けた。
「そうすると、少し妙な点があります。何故か、包丁からはあなたの指紋ではなく、亡くなった辻田沙代さんの指紋しか検出されなかったんですよ」
試すような目で回答を迫られる杉島だったが、日頃の自分の調理器具の扱い方を思い返して、警察官の抱く疑問が無意味なことに気が付いた。
「それは、料理が終われば包丁は洗いますし、次に使うまでは触ることもないでしょうから、指紋が残らなくても別段おかしなことはないと思います」
杉島にそのことを指摘されても警察官は表情を変えることはなく、しばらく視線を杉島に向けたままだった。その視線に耐えられなくなり、杉島が口を開こうとしたところで警察官は杉島から視線を逸らした。杉島に向けられていた鋭い視線が嘘だったかのように、警察官のそれは今までと同じように感情を交えることなく四人を見つめていた。恐らくは鎌掛けだったのだろう。警察官はけろりとした態度で次の質問に進んだ。
「ではこれからは皆さんが犯行当時に何をしていたかを伺いたいと思います」
そう言って、警察官はまず最初に飯中に視線を向けた。その手には手帳とペンが握られており、誰の言葉も聞き逃すまいという意志がひしひしと伝わってくる。
「何してたって言われてもなあ。俺はずっと部屋で本を読んでいましたよ」
「つまりアリバイはないということですね?」
「……ああ、そうなるな」
「ちなみにあなたがいた部屋はどちらですか?」
警察官の質問に飯中は廊下の方を指差しながら簡潔に答えた。飯中の部屋は廊下を挟んだ食堂の向かい側で、辻野の部屋とトイレとに挟まれている。短い問答ながらも、警察官はペンを走らせてさらさらと手帳に何かを書き付けている。その手が止められるのと、視線が次の人物に移ったのは同時だった。
促された辻野は、相手が警察官であっても態度を崩さず、足を組んで椅子に座り長机に肘をついたまま答えた。
「私もアリバイなんてないわよ。部屋でテレビ見て友達と電話していただけよ」
「どれくらいの時間通話していましたか?」
「十分くらいかしらね」
面倒臭そうにため息をついて答える辻野に対して、警察官は飯中と同様に部屋の場所を尋ねた。辻野の部屋は、三部屋並ぶ一階で一番玄関寄りの一室だった。因みに、玄関の正面には二階へと続く階段があり、その横に厨房、食堂という順番で部屋が並んでいる。
警察官は今聞いたことを手帳に書き留めてページを一枚めくった。
「では、次の方」
警察官に問われて、杉島と圭志は前の二人と同様に自分の一時間の行動を話した。夕食の準備のために二人で厨房にいたこと、途中で杉島がトイレに立ったこと、圭志が一度部屋に戻ったことも。そしてこれも先程と同様に、各々の部屋の場所も警察官に教えた。杉島と圭志の部屋は辻田の部屋と同じ二階にあり、階段に近い側から杉島、圭志、辻田の順番に並んでいる。
それらのことも一通り手帳に書き付けた警察官は、ページを数回めくり今書いた事実を確認した。手帳に視線を落としたまま、警察官は独り言のように呟いた。
「なるほど。今の話を聞く限りでは、誰にも明確なアリバイは無いということになりますね」
辻田の部屋をノックして出てきたところを刺す。これだけをするのであれば、所要時間は五分と掛からない。つまり、少なからずアリバイに穴がある四人ならば、誰にでも辻田を殺害することは出来てしまうのだ。四人は固唾を呑んだ。これ程までに緊張感を孕んだ場面で尋問されることなどまずないだろう。だが、食堂に張り詰めた緊張感は未だ解かれず、警察官の尋問はなおも続いた。
「分かりました。では次の質問に移ります。みなさんの中で辻田沙代さんを殺害する動機がある人はいますか?」
実際に経験したことはなくとも、事情聴取で動機を聞かれるかもしれないということは四人とも考えていたことではある。だが、今の警察官の聞き方はあまりに卑怯だ。よもや自分から動機を言えるはずもなく、他人の動機を言えばたちまちに双方に疑心が満ち溢れる。直ぐにでも均衡を崩してしまうこの脆い天秤を保つには、沈黙を通すしかない。誰も何も言わなければ、事態が進展しない代わりに泥沼にはまりこむこともない。だが、その沈黙を破り、ある意味最も上手い形で均衡を破ったのは辻野だった。
「多分みんなそれなりの動機はあったでしょうよ」
誰しもに理由があるとなれば、それは全員が自分から言わざるを得なくなる。聴取を取っている以上いずれ語られることではあるのだから、それを促進させた辻野の言葉は警察官にとってはありがたかったはずだ。
「――だそうですので、お一人ずつお伺いしましょうか」
先程と同じ順番で、まず話したのは飯中だった。
「心当たりがあるとすれば、借金の件だろうな」
「借金?」
「ええ。辻田さんは事業に失敗して大量の借金を負っているんだ。そのせいで会社の経営もだいぶ危うい状態になっているらしい」
警察官はそのことをメモするために手を動かしつつ、同時に頭も高速で回転させた。借金、殺人、死亡。これらを結び付けるものは一つしかない。
「なるほど。つまり、辻田沙代さんに生命保険が掛けられていると?」
「そういうことです。まあ、俺からすればそれだけで殺したいとは到底思えないけどな」
保険金目当ての殺人は、言っては悪いが動機としてよくある話だ。ただ、今の話からして気に掛かるところは、保険金の受取人が飯中ではないということだ。これでは直接的な利益には繋がらない。
順番では、次に話すのは辻野だった。辻野もまた言葉少なに動機を語った。
「私の動機も、辻田さんにお金を貸しているからよ。飯中さんと少し違うのは、辻田さんの保険の契約を結んだのが私だということだけど」
借金をしている相手が保険に入らせたという事実は、保険金目当ての殺人ということをより色濃く表す助けとなる。警察官は保険に入らせた当人がいるので、気になるところをいくつか聞いてみた。
「契約を結んだのはいつ頃ですか?」
「二ヶ月前かしら」
「受取人は誰ですか?」
矢継ぎ早にされる質問に、辻野は小さく息をついた。間を空けて質問に答える辻野の表情は、先程までに比べればいくぶん困惑しているようだ。必死に契約内容を思い出そうとしているのだろう。それでも不機嫌そうな顔は見て明らかではあるのだが。
「確か息子の圭志くんだったはず」
少し自信なさげに言った辻野は、思い出すように宙に視線をさ迷わせた後、しかと頷いた。
その次は杉島の番だった。杉島は何やら苦渋の表情を浮かべていたが、やがてぽつりぽつりと話し始めた。
「辻田さんは昔、僕の父の会社を吸収合併したんです。父はそれで職を失い、両親は未だに苦しい生活を強いられています」
警察官はメモを取りながら頷いた。金銭絡みの怨恨というのは動機として一番しっくりくる。そしてこの時には、警察官は次に話す圭志の動機にも大方の予測がついていた。
「僕は……母さんのことが嫌いでした」
「その理由は?」
「母さんは、僕の意志を汲もうともせずに一方的に物事を押し付けてくるからです」
そう断言する圭志の口調は、今までのどこか頼りない様子とは違っていた。警察官は溢れそうになる笑みを隠しながら手帳に書き留めた。
金銭、金銭絡みの怨恨、怨恨。四人しかいない中でよくここまで動機が分かれたものだと、警察官は半ば感心した。四人の理由が本当に殺人を犯すに足るのかは、主観によるものなので何も言えないが、四人とも理由があるということは断言出来る。今はそれが分かれば充分だった。
「分かりました。では最後にお聞きしますが、犯行が行われたと思われる時間帯に、何か不審な物を見たとか聴いたということはありませんでしたか?」
警察官は一際眼光を鋭くさせて四人を見回した。恐らくはここで最も重要な証言が得られるだろう。たとえ些細なことであっても、いつもと違うことであるならば加味する必要がある。順番は変わらず、飯中が最初にこの質問に答えることになった。証言がある人にだけ答えさせないというのも、やり方として上手いかもしれない。威圧を込めて問われれば、何かしら答えなければならない、という気持ちになる。
「ずっと部屋にいたからなぁ」
頭を掻いて、事件当時の出来事を飯中は必死に思い出そうとしている。そして一つのことに思い至った。
「あ、そういえば部屋の前を横切る足音を、多分二回聞いた」
一つ目の証言、足音。
次に答えたのは、順番通りに辻野だった。辻野は警察官が口を開くよりも前に自分から話し始めた。
「私はテレビに夢中だったから覚えていないわ」
面倒臭そうにしながらも何かを思い出そうとしている辻野も、やがてあることに気付いた。
「でも、あれは階段を上がる音かしら――それを一度聞いたわ」
二つ目の証言、足音。
次に答える番である杉島は時間を遡って自分が見聞きしたことを思い出していた。基本的に厨房にいた杉島でも、聞くことは出来る。トイレに立ったときに見ることも出来る。杉島は証言を始めた。
「僕がトイレから戻って来るときに、階段を上る長髪の、多分女性を見ました」
三つ目の証言、人影。
杉島の発言により、みなの視線は一点へと向けられた。この家の中でそれに該当する人物は一人しかいないからだ。一度に視線を集めた辻野は虚を衝かれたような表情をした。その驚きは直ぐに怒りの感情へと変わり、矛先は杉島へと向けられた。
「冗談言わないで! 私はずっと部屋にいたわ。あなたが呼びに来るまで一歩も外へは出ていないわ!」
あまりの形相に一瞬杉島はたじろいだが、それでも頑として強い瞳で辻野を見据えた。二人の視線が交錯し、どちらも譲らないという意志が端から見てもはっきりと分かる。そのような一触即発の状況に助け船を出したのは警察官だった。
「二人とも落ち着いてください。その検証はまたあとで行います。今はまだ証言の途中ですので」
その言葉にやむなく引き下がる両者だったが、相変わらずに険悪な雰囲気が辺りに満ちていた。その空気の中、圭志は、声は小さいながらも間を空けずに口を開いた。恐らく他の三人が話している間に一通りのことは思い出していたのだろう。その言は滑らかだった。
「僕は厨房にいるときも部屋にいるときも、何も見聞きしませんでした」
四つ目の証言、無し。
警察官は、ふむ、と頷くと眺めていた手帳を閉じた。そして顎に手をやり、しばし宙を仰いで思考を凝らした後、四人に向けて謝辞を述べた。
「大体分かりました。ご協力感謝します」
それから、警察官はくるりと向きを変えて四人に背を見せると食堂から出ていこうとした。その去り際、警察官はもう一度四人の方に振り返ると、さも楽しそうな表情で指示を下した。
「もうしばらくこちらでお待ちください」
***
郁太はその後もぱらぱらとページをめくったが、めくれどめくれど真っ白な紙が続くばかりであった。この時点で日奈が郁太に見せたということは、この先は解答編が続くということであり、事件の手掛かりは全て見せたということなのだろう。推理ものだと思っていたので、郁太は読みながらも一応推理を組み立てていた。そうして感じることは、自然と口から漏れていた。
「ヴァン・ダインの二十則は守ろうぜ……」
完全に独り言のつもりで呟いていた郁太だったが、日奈の耳には届いていたらしく、しかもそれをどうやら読み終わった合図と受け取ったらしい。
「早かったね、もう読み終わったんだ。どうだった?」
人の気も知らずに日奈は無邪気な笑みを浮かべ、瞳は爛々と輝いている。この瞳に何度やりたくないことを強引に押し付けられたことか。郁太は思い出したくない過去を思い出しそうになり、顔を歪めた。出来ることなら、妥当な感想を言って何の厄介事もなく終わらせたいのだが、生憎と今回の作品にも突っ込み所がいくつもある。郁太はその中でも一番気になる所を言った。それは感想ではなく、むしろ質問だった。
「未完成だって言ってたから後半が白紙なのは目を瞑るとして、これには探偵役っていないの? とてもあの警察官が探偵役だとは思えないんだけど」
郁太は自分の質問が何を意味しているのか、言いながら理解した。いない探偵役、未完成、郁太。郁太の頭の中でジグソーパズルのピースがぱちぱちと音を立ててはまっていく。郁太が片手で頭を抱えるのと同時に、日奈は嬉しそうに答えた。
「そ! だから、郁太に探偵役をやってもらいたいの。それで、郁太をモデルにした人を探偵役としてこの小説に書き足そうと思っているの」
案の定、郁太の予想は最悪の形で当たってしまった。一度読み、推理をし、完成したものをまた読む。これでは三度手間だ。何より、日奈の小説に自分が出るということが郁太にとっては恥ずかしくてならなかった。だがそうかと言って断れば、さらに手酷い結果を招くことは既に経験済みだ。両者を天秤にかけたところで、郁太は前者の選択肢を選ぶ外なかった。
「まるで安楽椅子に座った気分だな……。分かったよ、分かってるよ。推理すればいいんだろ?」
まるで自分に言い聞かせるようにして、郁太は手をひらひらと振った。日奈は満面の笑みで頷いた。
≪解答編≫
「郁太は探偵役で、私は無能な警察官役をやるね」
はいはい、とやる気なく頷いた後で、郁太は日奈が警察官のことを無能と表現したことに違和感を覚えた。恐らくワトスン役として色々な疑問をぶつけてくるのだろうと推測は出来るが、それでもそれを無能と呼ぶのは郁太には理解出来なかった。
「じゃあ、いきなり率直に聞くね。犯人は誰?」
むしろ、自分の出した推理と抱き合わせた方がしっくりくる。郁太はそのようなことを考えながら、多分日奈にとって最も重要な質問には素っ気なく答えた。
「辻田沙代の自殺、だろ?」
「どうしてそう思ったの?」
日奈があまり表情を変えずに次の質問をしてきたのを見て、郁太は感心していた。普段の日奈ならば、少しオーバーに反応してもおかしくはないからだ。だからと言って郁太は自分の推理が間違っているとは露程にも思わなかった。
そしてこの時、郁太の胸の内では、仕返しをしてやろうという感情が沸々と沸き上がってきていた。これくらいの意地悪をしなければ、まったく割に合わない。
「その前に、日奈、普通の推理とつまらない推理、どっちを聞きたい?」
急に質問で返された日奈は、きょとんとした顔で郁太の質問の意味を考え始める。だが、到底考えて得られるようなものはなく、日奈は次のように答えるしかなかった。まさに郁太の予想通りに。
「えと、普通の推理で」
「じゃあつまらない推理から話すぞ。面白い方は最後に取っておかないとな」
嬉しそうな顔から一変して困ったような表情になるのを見て、郁太はしてやったりと満足感を得た。
先程の質問で、郁太は二択式に聞こえるような質問をした。だとしたら選択しなかった方は聞けない可能性がある。ならば当然、郁太の推理を楽しみにしている日奈はより良い方の選択肢を選ぶ。だが、郁太は端から両方話すつもりで、しかも良くない方から話すつもりだった。日奈がどちらを選んでも結果は変わらない。要するに、日奈を騙したということだ。
「まず、色々と描写が少ない。人物やら部屋の様子やら何やら、仮に証言からこの人が怪しいな、と思えてもこれじゃあ物証は上がりっこない」
日奈の作品に対して郁太は痛烈な批判をしているつもりなのに、日奈はどこか感心したように何度も頷いている。この時、郁太は嫌な予感がしていた。そしてそういう時の予感は、大抵当たる。日奈に関わる悪い予感は、九分九厘当たる。
「次に、さっき日奈が言っていた、無能な警察官という発言。日奈からすれば、俺の推理について重箱の隅をつつくような質問をする、不知な人を指しているつもりだったんだろうけどな、俺からすれば作品内の警察官を無能と言っているように聞こえてならなかったよ。作品内で、警察官は事件を他殺と断定して捜査を進めていた。その警察官が無能で、他殺と判断したことが間違いだとしたらどうだ? 他殺でないなら自殺と、そうなるのが自然だ」
事故死になるような可能性は見当たらないしな、と郁太は付け加えた。
無意識にした自分の失言に、驚くように口元に手をやる日奈を見て、郁太は自分の予感が間違っていないことを確信した。日奈は幾分も動じていない。これでは暖簾に腕押し、糠に釘もいいところだ。俄然やる気のなくなった郁太の口調は力無くすぼんでいった。
「最後、日奈の性格からして、金銭とか怨恨だとかいう理由で人を殺す作品を書けるとは思えない」
三つ目の推理を語ったところで、日奈の反応は大して変わらない。きょとん顔で郁太を見つめるだけだ。そこに、郁太の悪意を感じ取っている様子は微塵も見受けられない。
郁太は三つの推理を上げたが、どれも荒唐無稽でつまらないことこの上ない。郁太はもうどうでもよくなっていた。かくなる上は、さっさと推理を話して出来るだけ早く解放されることを願うばかりだ。
「じゃあ次、普通の推理な。まず、何故俺がこの事件を自殺だと思ったか」
ようやく本題に入ったと言わんばかりに、郁太は声調を変えて話を切り替えた。日奈もその気配を察したのか、その表情からはさっと間抜けさが消えた。
「この作品内で、辻田沙代の自殺だと断定出来る要素は一点しかなかった。遺体の位置と、刺創箇所だ」
「位置と箇所?」
日奈がそう聞き返すのも、郁太には下手な演技のようで白々しく聞こえる。始めから日奈の掌の上で踊らされていて、そこから抜け出せないことは郁太とて気付いている。日奈自身はそのようなことには気付いていないのだろうが。ならば、下手な抵抗はせずに無心で推理を捲し立てるのみだ。
「そう、辻田沙代の遺体は部屋の奥にあった。そして刺創箇所は二ヶ所あった」
郁太はそこで区切りを入れてみたが、日奈は質問を挟むこともなく無言で郁太の先を促していた。
「部屋の描写を見る限りでは、血溜まりは部屋の奥にだけあり、部屋の入り口付近には数点の血が飛散しているだけだった。刃物で人を刺す場合、刺した瞬間よりも抜いた瞬間の方が血は大量に出る。つまり、辻田沙代は部屋の入り口で刺されて、部屋の奥で包丁を抜いたということになる」
郁太は推理をしている間もずっと日奈のことを見ていたが、日奈の表情は少しも変わることはなく、聞いているのかどうかも分からなかった。
「ここまでならばまだいい。他殺と断定しても不思議はない。だが不思議なことに、辻田沙代の胸部には包丁が突き立っていた。状況から考えて、腹部の包丁を引き抜いた後で胸部に止めを刺したんだ。もしも他殺ならば、犯人は犯行後に部屋を密室にしなければならない。仮にその方法があったとしても、作品内では鍵の様子やドア付近の描写は皆無だった。充分な手掛かりが示されていない以上、その方法は取られなかったと判断出来る。つまり、他殺ではない」
だから自殺だ、と郁太は添えた。郁太の推理自体はこれで終わりだ。自殺と判断した理由は話し終えたので、あとは日奈のする質問に答えていくだけだ。
「何か疑問、質問は?」
日奈は左手を顎にやると、少し思考した後右手を小さく挙げた。
「じゃあ聞くね。四人がした証言はどう考えたの? まだ未消化だよね」
相変わらず日奈は無表情なので、そこから日奈が今何を考えているのかは分からない。ただ、少し頬が緩み、見ようによっては微かに笑っているようにも見える。だが、内心では怒っているのかもしれないし、悔しがっているのかもしれない。また痛い目を見ないようにするには日奈の表情には細心の注意を払わなければならないが、だからと言って郁太には中途半端に推理を止める気はない。
「まず包丁のことからだな。辻田沙代が自殺だと俺は推理したから、ここでは辻田沙代が包丁を持ち出せない可能性があるのかどうかを論じる。杉島の証言では、食堂に集まる前にはあった包丁が、夕食の準備を始めるときには無くなっていた。ここから、杉島が厨房を出てから戻るまでの僅かな間に包丁が持ち出されたことになる。だが、一番最初の描写で、最後に食堂に入ったのは辻田沙代だと書かれている。つまり、辻田沙代ならば包丁を厨房から持ち出すことは可能だ」
郁太が区切りを入れて一息ついたところで、日奈は次の質問をしてきた。正直、休まる暇がない。が、郁太にはそれを苦に思うことはなかった。
「飯中の証言は?」
「飯中と辻野の証言については同時に扱おう。飯中の言う部屋を横切る二つの足音は、恐らくトイレに行く杉島の足音だろう。次いで、辻野が聞いたという階段を上る一つの足音。これは部屋に戻る圭志の足音だと思う」
待ち構えていたかのように、日奈はここで初めて口を挟んだ。
「待って。辻野の証言では足音は一度だけだったはず。行って戻ってきた圭志の足音ならば、二度聞いてるはずよ」
ここで質問が入ることは郁太とて想定の範疇なので、当然それに対する答えも明確に用意してある。郁太はそれをただ読むだけだ。
「辻野はこうも言っていた。テレビに夢中で覚えていない、と。上りを聞いて下りを聞き逃したとしても不自然ではない。もちろん、他の足音を聞き逃している可能性も残るけどな」
日奈は何か言いたそうにしながらも、結局何も言えずに沈黙を通した。ただ、心做しか先程に比べて嬉しそうな表情をしている。この小説の謎については殆ど分かった郁太でも、その理由は皆目見当もつかなかった。
「じゃあ次の杉島の証言は?」
日奈の表情に腑に落ちない点はあるものの、郁太は問われるままに返答をする。
「あ、ああ。ここで重要なのは、杉島の証言だけでなく圭志の証言も非常に参考になることだ」
「どうして? 圭志は何も証言していないじゃない」
「そうじゃないんだ。圭志は、何も見聞きしていない、とはっきり証言している」
日奈は小首を傾げた。もしかしたら書いた当人ですら気付いていないのかもしれない。そこまで日奈を馬鹿にしているつもりはない郁太でも、日奈の丸くした目を見ているとそう思えてしまう。
「俺は、杉島が嘘の証言をしていると思う」
郁太は人差し指を立てて、日奈の目の前に持っていった。突然指が迫ってきたので、日奈は少しだけ身を引いてしまった。
「偽証をしていると疑った理由は主に二点。まず、圭志が何も聞いていないということ。杉島がトイレに立ったとき、圭志は間違いなく厨房にいた。階段に隣接している厨房からならば、階段を上る音は聞こえるはずだ。現に、圭志が部屋に戻るときには杉島がその足音を聞いているしな。だが、圭志は何も聞いていないと言い、そういう描写も無かった。証言だけならともかく、描写が無かったのだから足音はしなかったと判断してもいいはずだ」
郁太は指を引っ込めると、一息ついてから二つ目の理由を話し始めた。
「二点目。玄関の向かいにある階段を、廊下の端にあるトイレ付近から見たとしてもその距離なんて高が知れている。まして、人が階段を上るところを見ていると言っているんだから、当然横顔は見えていたはずだ。これだけの条件が揃っていれば、それが誰なのか特定出来ないはずがない。男性か女性か分かるだけで二択になるわけだしな。なのに、杉島の証言は曖昧も曖昧だった」
あれではまるで、はっきりとした嘘はつきたくないが辻野に罪を被せたいと言っているようなものだ。確かに、動機や態度から考えると辻野に罪を被せるのが一番成功率が高いだろう。そう考えて、郁太はあることに思い至った。今まで杉島が偽証をした必要性が理解出来なかった。だが、それも苦渋の選択の上だとしたら、日奈の作ったフィクションだとしても同情を寄せてしまう。
「郁太はどうして杉島の証言だけが偽りだと思うの? 他の三人の証言は正しくて、杉島だけが嘘をついていると」
日奈が次に聞いてくるのは、その質問か、嘘の必要性かだと思っていたので、郁太にとって答えることはそれ程難しいことではなかった。ただ、その次に聞かれるであろう嘘の必要性に確証が持てないのが癪だった。
「足音のことで嘘をついても信憑性がないからだよ。足音だけじゃあ、人物の特定はおろか、それが不審人物のものであるかすら分からない。外部の情報の八割を視覚から得ている人間だから、視覚による証言の方が大きな意味を持つんだよ。だから、他の三人は嘘をつく必然性がなく、ちゃんと聞いていたか聞きそびれていたかだと、俺は判断した」
「じゃあ杉島が偽証した理由は?」
予想通りの日奈の質問に、郁太は言い淀んだ。自分の考えに確証が持てないだけで、これ程までに口は固くなってしまう。郁太はどこからどう話そうかと考えて、直ぐに結論を出した。もう郁太に話せることなど殆ど無いのだ。あとは順番を組み替えるしかない。
「それを話す前に、辻田沙代の自殺の動機から語ろう」
郁太は深呼吸をすると、自分を落ち着かせるように静かに話し始めた。
「辻田沙代の動機については確証があるわけではない。ただこれしか考えられないというだけだ。杉島の動機については単一性すらもない。だからこれから俺が話すことは単なる憶測だ」
今までの勢いが嘘のように急に弱気になった郁太に対して、日奈はそれでも元気よく頷いた。こういう時は、逆に日奈の能天気振りに心が軽くなる。それと同時に、口も軽やかに動いていた。
「辻田沙代の動機は、保険金目当ての自殺だ。ただ、通例として保険の契約から三年以上が経たないと自殺では保険金を受け取れない。辻野の証言では契約から二ヶ月しか経っていないから、自殺では受け取ることが出来ない。だから、辻田は他殺に見せ掛ける必要があった。じゃあどうして自分を死に追いやってまで保険金を手に入れたかったかと言えば、受取人から分かるように息子の圭志のためだろう。借金を返済してもまだ余る程の保険額が掛けられていたんだろうな」
郁太は小さく呼吸をすると直ぐに次の言葉を続けた。途中で止めてしまったら、もう二度と話す気にはなれないと思ったからだ。
「多分、杉島もそのことを知っていたんだと思う。事前に示し合わせていたのかどうかは知らないが、辻田沙代が自殺するときにどうにかして他殺に見せ掛けるために偽証したんだ。そうでなければ辻田沙代が浮かばれないと思ったからなのか、圭志の今後を思ったからなのか、俺には知る由もないけどな」
郁太は一通り話し切って肩の力を抜いた。今まで散々ひどく思っていた日奈の作品でこのような気持ちになるなど、郁太は想像だにしていなかった。もちろんまだまだ文章は下手だし、詰めが甘い箇所も多いのだが、郁太は久し振りに楽しめたような気がした。
そうして日奈を見てみると、日奈は俯いたまま肩を小刻みに震わせている。郁太は瞬間的に、やってしまった、と思った。日奈の機嫌を何とか取り戻そうと郁太が声を掛けようとした瞬間、日奈はがばっと顔を上げた。その顔には弾けんばかりの笑顔が浮かんでいる。
「すごいすごい! 郁太、大正解!」
諸手を挙げてその場で跳び上がる日奈に、郁太は呆気に取られてしまった。てっきりあの時の悪夢を再び体験することになると思っていたからだ。
「郁太ならもしかして解いちゃうかなあ、とは思っていたけど、まさかここまで完璧に推理してみせるとは御見逸れ致しました! これでモデル役は完璧だなあ」
日奈はとても嬉しそうに、未だに辺りを飛び跳ねている。それを見る限りでは、郁太もこういうのは悪くないなと思ってしまう。
喜びを一頻り身体全体で表した後、日奈は郁太の方を向いて礼を言った。だが、礼の後に続くのは、現実を思い出させる魔の言葉だった。
「ありがとう、郁太。次もこの調子でよろしくね!」
郁太はその一言を聞いて顔面からさあっと血の気が引いていくのを感じた。確かに今回は楽しめたが、次があることを信じたくなかった。
意気揚々と去っていく日奈の背中に、郁太はただ一言声を掛けるのが精一杯だった。
「次からはせめて完成したのを持ってきてくれ……」
絞るようにして出したその言葉が、日奈に届いているとは郁太には到底思えなかった。
なき探偵(将倫)
ミステリを書くにあたり作中作形式にした一番の理由は、それが最もリアリティを出せると思ったからです。あと、自分の不手際を日奈に肩代わりしてもらうことも出来るので、逃げ道を作れるという本音もちらほら。