マカテュイの三女神(稗貫依)

※東大文芸部の他の作品はこちら→http://slib.net/a/5043/(web担当より)

・主要登場人物
アスュキグ:戦の女神。
アソイグ:美の女神。
アカトゥイグ:豊穣の女神。
ロマナーグ:アカトゥイグ神殿の花守り。
モトヴェーグ:アスュキグ神殿の巫女。

・主要地名
マカテュイ:この物語の舞台となる地域。地形は山がちで、南以外の三方を海に囲まれている。
ナッサグ:マカテュイ西部の諸盆地を分つ峻険な山。アスュキグ神殿の所在地。
エニタイアー:マカテュイ盆地を臨む高原地帯にあるなだらかな山。アカトゥイグ神殿の所在地。
イマカリス:マカテュイ北部の緑豊かな山地帯。アソイグ神殿の所在地。
リソミ:海を挟んでマカテュイの北方にある異域。マカテュイとは断続的な緊張状態にある。
イスコ:マカテュイの西方に接する異域。指導者をめぐり内紛状態にある。
タマイ:マカテュイの遥か西方に位置する新興国。勢力拡大が著しい。

一 軍神アスュキグ

   1

 神域の庭には季節を忘れたかのように色とりどりの花が咲き乱れ、ところどころ生える樹木には葡萄や蜜柑などの果実がたわわに実っていた。その蜜柑を一つ手にした軍神アスュキグが腰に差した短刀で器用に皮をむいていくと、中から太陽の色をした瑞々しい果肉が現れる。
「さすがは豊穣神の神殿だな。色が違う」
「余り言うのは貴女の神殿の奉献者にかわいそうだと思うけど」
 すぐ横でたしなめるように眉をひそめた豊穣神アカトゥイグに、アスュキグは些か口元を綻ばせて答える。
「本当の事は本当なんだから仕方ない」
 そのまま果肉が全く露わになるや、アスュキグはそれを房に取り分けることもせず、直接かじって口へと含んだ。汗の色よりも濃い果汁が唇の端からつと流れ落ちる。
「呆れた」
「色だけじゃないな、味も違う」
「はしたない。戦陣でもないのに」
「蜜柑はこう食べるのが一番うまいんだ。ナッサグの連中だってみんなそうしてる」
「ここはナッサグじゃなくてエニタイアーなんだから夷狄みたいな真似はやめなさい」
 目を細めてなじるアカトゥイグをものともせず、蜜柑を口に収め終わったアスュキグは右の親指で唇の上をさっと拭き取る。ふと溜息をこぼすアカトゥイグを見て、アスュキグの目が僅かに見開かれる。
「夷狄、夷狄というけれどそう馬鹿にするもんでもない。現に弓を使うのはリソミ人、馬に乗るのはウケヌ人、船を操るのはイスコ人の方がよっぽど巧みだ」
「私だって全部を下に見ているわけじゃないけど」
「それにお前のいう『夷狄』が北か南かは知らないけど、少なくとも南の奴らは一房ずつ分けて食べるな。私のこの目でしかと見たぞ」
「ならナッサグの民は夷狄以下というだけじゃない」
「このマカテュイで最も優れているということだ」
 続いて隣の葡萄にも手を伸ばそうとしたアスュキグの右肩を、アカトゥイグは指先で数度軽く叩いた。
「何だ、けちけちするもんでもないだろ」
「そうじゃなくて、これからアソイグが着いたら三人で一緒に宴会でしょ。お腹を膨らませてどうするの」
「でもそれが後何日になるか——―おっと、お出ましかな」
 神域の北方の空から微かな香気が漂ってくる、と見るや二人のすぐ横には服をしどけなく着崩した美神アソイグの姿があった。艶のある顔で悪びれた様子もなくうきうきとして立っているその姿に、アスュキグはやや顔をしかめた。
「ごめんなさい、ちょっと遅れてしまったわね」
「これをちょっとと言い張る時間感覚が知りたいな」
「高々三日じゃないの。これだからアスュキグは。ここは戦陣じゃないんだから細かいことは気にしちゃダメよ」
 そう言ってアソイグは横からアスュキグに抱き着こうとする。アスュキグがすんでのところでその腕をかわすと、続いてアソイグは顔を伸ばしてアスュキグの頬に口付けを落とそうとした。
「い、いきなり何だ、やめろよ」
「あらあら、こういう交流は嫌だったかしら」
「無理だ。頼むからやめてくれ」
 なおも肢体を絡めてくるアソイグを組み手で押さえつけながら、アスュキグは紅潮しつつあった頬を左右に素早く振って冷ました。そうしてアソイグを睨みつける。
「というか前にも言ったよな、私にはそういう趣味はないって。いい加減に聞く耳を持ってほしいんだが」
「ええ、だから私は前にも言ったはずよ。あなたは本当にうぶねえ、そんなに生娘ぶってるから恋人のひとりもできないのよって」
「ゆえに私も言ったはずだ。生娘も何も私は軍神として、父なる大神に誓って純潔を貫いているんだと。その事情について酌む気はないのかってな」
 アスュキグがそう言ってアソイグの腕を締め上げると、さすがに痛みが勝ってきたのかその表情にも次第に苦悶の色が混ざり始めた。アスュキグの顔に笑みがさす。アカトゥイグはうっすらと眉を顰める。
「そろそろ謝った方がいいんじゃないのか?」
「そうねえ。でもアスュキグ、今の貴女は最高にかわいいわ。その顔も、その声も——―ちょっと感じちゃうかも」
「よし分かった。背中だな」
 目の前にあったアソイグの背中にアスュキグは容赦なく手刀を叩き込んだ。次の瞬間、アソイグは激しく咳き込み始めて目尻にうすら涙を浮かべる。続いて二本目の狙いを定めようと振り上げられたアスュキグの手を、しかしアカトゥイグは後ろからやんわりと握り止めた。
「もう一発、それで終わりにするから」
「やめなさい。またそれで吐かれでもしたら誰の従者が片付けをすると思ってるの。それに貴女だって宴会の直前にそんなものなんか見たくもないでしょう」
 アスュキグは暫く逡巡した後に頷き、翳した腕もやおら下ろしてアソイグの体を解放した。アソイグは平衡を取り戻せないままに地面へと崩れ落ちる。アカトゥイグがその様子を見て手元に持っていた鈴を鳴らすと、庭の片隅から一人の男が飛んできてすぐさまその横に降り立った。
「ロマナーグ、今は暇でしょう」
「御意に」
「なら本殿に行って宴会の準備を始めるように言いつけてきて、ついでに薬水を持ってきなさい。それが終わったら今晩の宴会に出す果物を適当に見繕って厨房まで」
「了解いたしました、アカトゥイグ様」
 男が本殿の方に飛んでいくのを見送ってから、アカトゥイグは未だに呼吸が苦しそうなアソイグの横に悠々としゃがみこんでその瞳をじっと見つめた。無論アソイグは縋るような目になる。アカトゥイグは返して微笑んだ。
「さて、遅刻の罰はアスュキグが代わりにしてくれたようだし、後はどんな理由があったのかだけ聞かせてね。それとも話せない理由でも?」
 アソイグは小さく首を横に振ると、呼吸を深くして整えながら上体を起こした。そうして不意に相好を崩す。
「あのねえ、ちょっと用事があってリソミの方まで行ってきたんだけど、そこのアナテスっていう部族の王太子が、こう、かわいかったから——―遊んで来ちゃったの」
 微かに舌打ちの音が響く。それを聞いたアスュキグは反射的にアカトゥイグの方を振り返ったものの、そこにあったのはあくまで柔和な笑みを湛えたごく穏やかな顔だった。
「でも実際かわいいものはかわいいでしょう。仕方ないと思わない? ねえアスュキグ、貴女も」
「なぜそこで私が」
 アソイグは音もなく立ち上がって姿勢を正すと、左手で右腕をさすりながら端然とアスュキグの方に向き直った。その表情には既に余裕さえ垣間見られる。
「リソミ人達との付き合いは貴女が一番長いじゃないの。分かるでしょう、マカテュイの男共なんて色々な小技には長けていても体力はないし意気地もないし。リソミ人達は確かに必要な技だけを専心に磨いて、それで余計な事には煩わされない。だからこそ強いんでしょう」
「戦の話なら同意する。ただしその分、防衛戦になったら案外脆いんだけどな。もっとも今のマカテュイ軍じゃそこまで持ち込めること自体が滅多にないけど」
「私もそう思うわ。隙をついて攻めに行ったらたちまち腰砕けになってしまったもの。まあ戦は戦でも——―」
「閨での戦についての話だな」
 言うなりアスュキグはアソイグに足払いをかける。しかしアソイグの足はびくともせず、却ってアスュキグの方が大きく平衡を崩してしまった。驚いたアスュキグが即座に体勢を立て直しつつ改めて見直すと、アソイグの立っている石畳の隙間より二本の蔦がその両脚を絡め取るかのように伸び、既に先端は腰より上に至らんとしていた。
「ええと、アカトゥイグちゃん?」
「アソイグ、貴女はもう少しこのマカテュイ神族の一柱としての自覚を持つべきだと思う。勘違いしないでほしいんだけど、別に夷狄と寝るなと言っているわけじゃないの。自分の浮気をそこまで嬉々として語るんじゃないと言っているの。私たちの在り方は良きにつけ悪しきにつけ人間の鑑になる。貴女まで大神の真似をする必要はない」
 本殿から薬水の瓶を持ったロマナーグが戻ってきたのはまさにこの時だった。彼は自分の仕える女神とその客人の状態を一瞥するや、無言で瓶を自分の足下に置いた。
「アカトゥイグ様、失礼いたしますが」
「もう大丈夫。説教も終わったから」
「はい。では宴会の準備ですが、調理が終わるまで一時間半ということですので二時間後から開始させて頂きたいと思います。よろしかったでしょうか」
 アカトゥイグはロマナーグとアソイグを交互に見やり、次いでロマナーグの足下にある瓶に視線を落とした。
「結構。ご苦労様。それと薬水の瓶は今すぐ棚に戻しても大丈夫だから。一時間もあれば自然治癒するし」
「御意に」
「ねえ、これでも結構まだ痛いのよ!」
 絶叫するアソイグに哀悼の視線を送りながら、ロマナーグは薬水の瓶を持って再び神殿の方に飛び立っていった。蔦はいつしか肩口から腕の方へと向かっている。
「そうそうアスュキグ、この前キルデオの豪農から面白い奉献物があったんだけど、貴女にも見せてあげる。今から私の部屋まで来てもらえない?」
「ああ、私はいいけど―——」
 ちらとアスュキグが振り返ると、頭を残して蔦にしかと絡み付かれたアソイグが恨めしそうに二人の方を見つめていた。目尻にはうっすらと涙を浮かべている。
「蔦は半日と経たずに消えるから問題ないの。取りあえず行きましょう。浮気性のバカはほっといて」
 そう言ってアカトゥイグが脇目もふらず寝殿の方へ歩きだしたのを見て、アスュキグもためらいがちにその後ろに付いていった。アソイグは初めの内こそ頻りに嘆息などをしていたものの、やがて俯いて小声で独り言を呟き始め、後には宴会の果実を採るために再び庭へ来たロマナーグへ延々と愚痴をこぼして聞かせていた。

 宴もいよいよ佳境かという頃合いになって、一つの影がふらふらとした足取りで神殿脇の石段を降りてきた。軍神アスュキグである。アスュキグは庭を貫く小道を通り抜けて葡萄の絡まった大樹の陰まで来ると、そこにあったやや扁平な石の上へ大儀そうに腰を下ろした。
 アスュキグの視線は空に向いている。月光に照らされた頬には朱がさしていたものの、その表情は浮かれているというよりむしろ拗ねているという風情だった。手近な蔓に垂れ下がっていた房から紫色の粒をむしり、皮ごと口中に放り込む。そうして種だけ石の横へと吐きだした。
「どうしたって」
 芯の通った声で独りアスュキグは呟く。
「こんな宴会の時まで閨の話なんてしないといけないんだよ。アカトゥイグは止めると思ってたのに、逆に便乗してぺらぺら喋りだすし」
 続けてアスュキグは二つ目の葡萄を摘む。今度はそれを掌上で転がして弄びながら時間を潰していると、暫くして神殿の方から緩慢な速度で一つの影が歩いてきた。
「何しに来た、花守り」
「アカトゥイグ様の仰せで、様子を見てこいと」
 ロマナーグはアスュキグの座る石の前まで来ると地面にしゃがみ込み、そのまま無言でアスュキグの顔を窺った。アスュキグは自分の持つ葡萄に視線を落とし、やや決まり悪そうにそれを口元へと運んだ。
「私は酔いを覚ましに来ただけだ」
「戻られますか」
「例の話が終わったらな」
 アスュキグは先程と同じ場所に種を吐き捨てる。対してロマナーグはやや苦笑気味に口元を歪めた。
「先程はリソミ人とウネク人はどちらがいいかという話をされていましたが。アソイグ様がご自分の経験をお語りになって、アカトゥイグ様が判じるようです」
「そら見ろ、戻れやしない。そんな話に私が参加したって二言三言おきにからかわれるに決まってる。そういう話は二人だけの時にすればいいくせに」
 三粒目を毟り取るアスュキグの手つきは更に荒々しさを増していた。口に入れるにも勢いがよく、先だって見えたような躊躇は一切感じられない。ただその後には実を咀嚼しながら腕組みをして押し黙ってしまい、暫く思案気味に視線をさまよわせた後で軽く舌打ちをした。
「葡萄でしたらもっと良いものを宴席の方に用意してありますよ」
「ああ、そうだな。戻るよ。戻ることにする。どうせ一回出てきた以上は戻ったときにからかわれるだろうし、それなら早けりゃ早い方がいい。いい加減にさっきの与太話の判定も下った頃だろうし」
 アスュキグは忌々しげにそう言い捨てて立ち上がると、神殿の方へ歩き出そうとして、ふと自分の後ろにしゃがみ込んで控えている花守りの方を振り返った。ロマナーグは相変わらず俯いた姿勢を崩さない。
「そう言えばお前はどうなんだ?」
 アスュキグが尋ねるとロマナーグは僅かに頭を上げた。それを見てアスュキグはやや表情を曇らせたものの、特に何も言わずそちらへ一度頷いてみせた。
「どう、と仰ると」
「あいつらが閨の話をするのを聞いてどう思うか。女神の神殿に仕えてるってことは、お前だってもう男じゃないんだろ? その、懐かしく思ったりもするのかと」
 やや淀み気味に言い終わってからアスュキグは所在なさげに足下を見る。ロマナーグは暫く目を瞬かせていたが、やがて張り詰めていた表情を緩めると長い息を吐いた。
「どうでしょうね。ここにお仕えするようになってから、そういう話を伺って興味がないこともありませんが、世間話のようなものでは特に何とも思ったり致しません」
 飄々とそう言い切ってロマナーグが微笑むと、その軽い口調に救われたのかアスュキグの方でも緊張が解れて顔に生気が戻ったようだった。アスュキグは腰に手を当てて、堂々とした佇まいで改めてロマナーグへと向き直る。
「便利な精神だな」
「羨ましいのですか?」
「ああ、実に羨ましいよ」
 清々しく言い切ったアスュキグに対しロマナーグは再び深く頭を垂れる。アスュキグはそのまま神殿へ戻ったものの、本人が戻るなら問題なかろうからとロマナーグ自身は庭の手入れのためその場に残るということだった。それでアスュキグが鼻歌交じりに宴席まで戻ってくると、向かい合って杯を傾けていた二柱は待ちかねたように揃って首をそちらへ回したのだった。
「ああ、アスュキグ、やっと戻ってきてくれて」
「いい加減に酔いも醒めてきたからな」
「大いに有り難いわね。あの花守りから話は聞いているんでしょう。さ、こっちに座って」
 アスュキグは暫し小首を傾げる。
「話を聞いているって?」
「細かいことはいいからねえ、早くここに」
 既に随分出来上がっているらしく、アカトゥイグの声は上擦るような響きを多分に含んでいた。アスュキグが不承不承といった感じで二人の間に腰を落ち着けるや、後ろで待機していた神官が葡萄酒の入った瑠璃の杯を差し出す。アスュキグはそれを受け取ってその芳香を楽しみ、しかし飲み干すことはせずに手元の床へ置いた。
「それで、話というのは、リソミの男とウネクの男とではリソミの方に軍配を上げたでしょう」
「知らないな」
「ええ。それで次に問題なのは、ではリソミの男と、このマカテュイの神々では——―マカテュイの男は論外ですもの——―どちらがいいかということなの」
 アカトゥイグの喋りは一方的で、これにはアスュキグも額に汗を浮かべて閉口せざるを得なかった。その横でアソイグがくすくすと笑っている。
「アソイグが先だってまで寝てきた、アナテスの王太子、それとね、私の夫たる雨降らすアヴァツナーグ、このどちらがより男として優れているかを判じてもらおうと、貴女にね、万軍率いる清らかな乙女アスュキグ、その偏りなき目にお願いしたいって話なの」
「アカトゥイグ、お前さ、相当酔ってるだろ」
 冷ややかにそう告げてアスュキグが目の前の焼いた肉を一切れ口にすると、アカトゥイグは頬を膨らませて手元の葡萄酒を一息に呷った。
「そう、その通りよアスュキグ。どう考えてもあり得ないでしょう。豊穣神たる私が酔って前後不覚なんて」
「話が通じていないんだが、まさか―——」
「ええアスュキグ、貴女の想像通りよ」
 対するアソイグはまだほろ酔いといった様で、普段より品を作った声でアスュキグの耳元に息を吹きかけてくる。アスュキグは再び微かに顔を赤らめた。邪険にアソイグの体を押し退けて何度か息を深く出し入れする。
「酔ってってどうしても惚気たくなったこの子があの花守りを貴女の元まで寄越したんだから。聞いてあげないといけないわよねえ? 宴会の主宰なんだし」
「もし断った場合には」
「夕刻の私みたいになるんじゃないかしら?」
 アスュキグの口から諦念が洩れ出る。
「ロマナーグの奴、後で覚えてろ」
 その呪詛はしかし、結果として決してその日の内に実行されることはなかったのだった。



   2

 エニタイアーのアカトゥイグ神殿が実り豊かな高原に建つ富裕な領主の邸宅という趣を湛えているのに対し、ナッサグのアスュキグ神殿は峻厳な岸壁の頂に座する勇猛な武人の砦といった風格がある。神域はひどく荒涼として、目に見える緑と言えば所々に背の低い草が群生するばかり。そんな山地に建つ無骨な神殿の一室、今週分の祈願状と神託願いを持ってきた年若き巫女モトヴェーグを前に、この神殿の主であるアカトゥイグは酷く困り果てた表情でその書類の山へと目を落としていた。
「この束は担当の巫女に調べさせたところ偽証が混在していると判明した分です。こちらは確実でこそないものの怪しい分。いかが取り計らいましょうか」
「いつも通り捨てておけばいい」
「了解しました。次にこの山、決闘の勝利祈願です。先にこちらで目を通した中では二件ほど、決闘の相手が互いに勝利祈願をしているものがございました」
「後で私が判断する。分けて置いといてくれ」
「そしてこちらが武道上達や戦士錬成に関するものです。今週はクールタ市の執政官から市軍の志気高揚の祈願がございました。奉献の量には少々吝かなようですが……」
「あの市は戦士の待遇が悪いからな。平時にその体じゃ志気も落ちるだろ。一応それなりには考えておくよ」
「はい。では最後にこちらの束ですが」
 モトヴェーグの指さした束は武道上達の祈願と比べても半分弱、決闘の勝利祈願と比べれば五分の一ほどの量しかなかったものの、それを見たアスュキグの顔は一層苦々しげなものへと変わった。
「増えてるな」
「そのようですね」
 アスュキグはその束から一番上の紙を摘み上げ、素早く目を通す。そうして傍らで固唾を呑んで見守るモトヴェーグを顧みもせず、おもむろに口を開いた。
「『私はエアガスの村に住むしがない乙女でございます。先日ふとアタガマイの市街に参りまして、当地の計量学者コラトイーグという者に会ってからというもの彼の面影が夜も昼も脳裏に焼き付いて消えなくなってしまいました。これまでに何度か手紙も出したのですが、一向によい返事をもらうこともできません。どうか彼が私の事をほんの少しでも気にかけて下さいますよう、乙女の守護者にして万軍率いるアスュキグ様、ご神慮をお願いします』だと」
 放り投げられた祈願状が空中に緩やかな軌道を描く。慌ててそれを掴み取ったモトヴェーグが鬼の形相で投げ手を睨み付けると、それまで深く眉を顰めていたアスュキグは途端にそそくさと視線を逸らした。
「いや、だからな」
「存じておりますとも。しかしアスュキグ様、曲がりなりにも神慮を求められております以上、叶えるにせよ叶えないにせよ、何か反応を出しておかないといけないでしょう。嘘偽りも見当たらないのに捨ておくなど以ての外。違いますか?」
「それはそうなんだが」
「しかも! ここ十数年続く平和のせいで奉献の量もめっきり減って、ただでさえ神殿の会計は厳しいのですよ。この上にまた無垢な民の祈願を気にかけぬという評判まで立った暁には、最早どうなったものか分かりません」
 執務机に一歩詰め寄ってその紙を突きつけるモトヴェーグに折れて、アスュキグは灰汁でも飲んだような渋面になりつつアエガスの娘の祈願状を再び手に取った。木製の質素な椅子の上で体をそわそわと動かすのは明らかに落ち着きを欠いている。
「もっともだ。だから私も譲歩しただろう」
「祈願の数が多くなったら考えると。ですから今こうして伺っているのです。どうなさるのですか? このまま民の信仰が減少するのを、指をくわえて見ているとでも?」
「ならお前はどうすればいいって言うんだよ」
 アスュキグはそう言って手の中の紙を元の束の一番上に戻しておく。そのまま両腕を悠々と胸の前で組みこそしたものの、細められた目には苦慮の色が浮かんでいた。
「これは巫女一同の合意としてではなくて、あくまで私、モトヴェーグ個人の意見として申し上げるのですが」
 そこでモトヴェーグは軽く息を吸った。
「大神の姪にしてマカトゥイ諸神の中にも尊き万軍率いる清らかな乙女アスキュグは、純潔を守る乙女達の守護者としてその混じりなき思いを助け、妨げの数々を取り除き給うであろう、と。こう売り出すのはいかがでしょう」
「つまり」
「くだけて言えばまだ男を知らない乙女に限った上で恋愛相談に応じましょうと」
 部屋に沈黙が降りてきた。
 アスュキグは自分の左頬に拳を添わせて思索に没頭しているようで、モトヴェーグは返答を待って微動だにせずその指先を眺めている。
「なあ、モトヴェーグ」
「何でしょうか、アスュキグ様」
 答えたその声には喜色が見え隠れする。対するアスュキグの表情は浮かなかった。
「私だって無理にお前達をここに留めようってつもりじゃないんだ。好きな男でも出来たなら然るべき手続きの上で離れてもらっても構わないし、現に婚姻でここを出た奴だって遠くない昔にいる。だからお前がな、もし欲求不満ならそう言ってくれれば」
「ご冗談はおよし下さい!」
 突如としてモトヴェーグの叫び声が室内にこだました。アスュキグも反射的にやや身を引いてしまう。
「いったい何をおっしゃるのですか。この私が欲求不満だなんてとんでもない。後にも先にも私が恋い慕うのはあの縫製班副長のイトンキュグだけです!」
「……聞かなかったことにする」
 無論その呟きには言外の意味が込められていたに相違ないものの、モトヴェーグは全く意に介さず、却ってまごつくアスュキグの鼻先へと一息に肉薄してきた。
「先だっても二人で堅く誓い合ったばかりなのです。もし他の巫女達が男を見つけて一人また一人と神殿を去っていこうとも、私たちは末永く添い遂げてこの命のある限りアスュキグ様にお仕えしようと。何なら今すぐイトンキュグをこの場にお呼び寄せ下さいませ。疑われるのはいたく心外でございます!」
「分かった、分かったから取りあえず落ち着け」
 その両肩に手を添えてアスュキグが宥めると、頭に血が上りかけていたモトヴェーグの方も遅からず落ち着きを取り戻したようだった。そうして自分の行いを思い返したのか直後こそひどく恥じ入ったように言葉数も少なかったものの、数分も経たずその表情には元の生気が戻っていた。
「というわけで、私の提案ですが」
「そうなんだよなあ」
 アスュキグの声はなおも煮えきらない。
「そうすると言っても恐らくアスュキグ様はその類の事に関して全く無知でしょうから、どなたか別の方に相談してみるべきだと思いますよ。確か――イマカリスにまします穢れなき陶磁の肌持つアソイグ様とは」
 ふと従者から水を向けられ、アスュキグは口元を歪めて僅かに俯く。歯ぎしりの音まではモトヴェーグの耳に聞こえてこない。
「腐れ縁だな」
「数月前も杯越しに向かい合っていたくせに何をおっしゃるのですか。人の諺でも聞くは一時の恥と申します」
「個人的に苦手なんだよ」
「アスュキグ様ご自身の信仰の方が大切でしょう」
 そして暫くの沈黙。アスュキグとモトヴェーグの視線が執務机を跨いで何度か交錯する。時折アスュキグは簡素で数少ない室内の調度、或いは手元の書類などに目を向けたものの、モトヴェーグの瞳は揺るがない。
 根負けして口を開いたのはアスュキグの方だった。
「とにかく今日は下がれ。祈願の成否はいつも通り私が一人で決める。イトンキュグとの件については――そう、聞かなかったことにするからそのつもりで」
「黙認ということでしょうか」
「ただし万に一つそんな事があったとしても、決して言い触らすなよ。巫女の全員がそう現を抜かし始めたら神殿が回らなくなるんだから」
「承知致しました」
 晴れ晴れとした表情になったモトヴェーグとは対照的に、アスュキグの眉はこの数分で憂いの色を一層濃くしていくばかりだった。書類の束から先程の一枚を手に取り、文面を一瞥してからまた元あった場所へと戻す。
「やっぱり興味があるんですか?」
「ない、断じてだ」
 そう言ってアスュキグは腰元から短刀を抜き放ち、積み上がった偽証の束を一気呵成に両断してしまう。モトヴェーグはその様子を見て苦笑しつつも、やがて破棄を命じられた分の祈願状を持って小躍りしながら部屋を後にしたのだった。



 マカトゥイの地の西側を縁取る単調な海岸線、その遙か上空を一路北へと向かう高速の影があった。他ならぬ軍神アスュキグである。二重の整った円錐形をしたヤコークの火山を横目にしながら舟運栄えるオノモの川を越え、広々としたオリーカーの湖を過ぎると豊かな緑に覆われたイマカリスの山脈がアスュキグの目の前に現れた。
 やがて海側から山脈の裏側に回り込むと、最高峰の八合目といったところに緑が切れて小振りな白亜の建物が数棟立ち並んでいるのが見える。アスュキグは迷わずそこに接近していく。そうして中でも一等に繊細で壮麗な彫刻が施された殿舎の前へ澄んだ靴音を高らかに鳴らして降り立つと、居丈高な視線で周囲を見回す。
「貴女からこっちに出向いてくるなんて珍しいわね」
 殿舎の入り口には既にアソイグが立っている。太い柱にしな垂れかかるその姿を見てアスュキグは露骨に眉をしかめかけたものの、すぐさま顔を素早く左右に振ってから呼吸を整え、至って色を消した目つきでアソイグの方に向かって不適に微笑んだ。
「そうだな。普段は特に来る用事もないし」
「暗に用事がなければ来たくもない場所だって言いたいのかしら?」
「まさか。お前じゃないんだからそんな含みなんて入れるわけがないだろ」
 石造りの階段を挟んで対峙する二人の間に僅かの緊張が走る。尤もそれはごく短い時間の事で、やがてアソイグは柱から体を離すと背筋を伸ばしてアスュキグに向き直り、対峙する相手とは真逆のごく柔和な笑みを浮かべた。
「とにかく歓迎するわ。万軍率いる乙女アスュキグ、その白銀の大弓にかけて」
「有り難くお受けしよう。陶磁の肌持つアソイグ、今日もその美しきこと翳りなくて何より」
「さあ、どこまでが本心かしらね」
 その声には先だってのような刺々しさもない。ここに至ってようやくアスュキグも体の力を抜いて楽に構えた。
「ちょっとお仕事が残ってるの。だから、そうね――三十分くらい待ってくれるかしら。うちの子に何か出させておくから。問題なくて?」
「ああ、別に急ぎの用事でもないからな」
 やがてアソイグの拍手と呼び声に応じて薄い衣を纏った少女が二人現れ、アスュキグを南の別殿にある小さな客間へと先導していった。その際に通った廊下にはナッサグの神殿と比べるべくもない豪勢な献納品の数々が陳列されており、アスュキグは少女達に気取られないよう唇を噛みながら無言でそれらの品々を眺めていた。
 その一方で通された部屋には派手な装飾品もなく、簡素だが一見して名匠の作と分かる椅子が四つ、やはり趣味のいい机を囲んで並べてあった。室内に飾られているのも皿や杯などの実用的な小物が中心で、後から再び現れた少女達の持ってきた皿と同じ手になる物であることは一目瞭然であった。皿には少量の上質な餅菓子が並べてある。
 幾許もせずアソイグはやってきた。アカトゥイグから贈られたと思しき果汁の瓶を携えてアスュキグとは真向かいの席に座る。その際に軽く頭を撫でられたことでアスュキグは不服そうに相手を睨み付けたものの、アソイグはそれに取り合うこともなく瓶を封切り、手元の杯に注ぎながら嬉しそうに口を開いた。
「この部屋はどう?」
「存外に過ごしやすいな」
「当たり前じゃない。貴女とアカトゥイグ二人のためにわざわざ設えた部屋ですもの。快適じゃないはずがないわ」
「そんな気遣いが出来るんだったら最初からそうしてくれると大いに有り難いんだが」
 無視してアソイグは自分でも菓子を手に取る。アスュキグもそれで恨めしそうに手元の杯を掴み、中に入った果汁を一気に口の中へと流し込んだ。
「にしてもこの別殿を回してるのは全員娘っ子ばかりなんだな。お前にしては珍しい」
「ああ、そうね。基本的に女をもてなすための建物にしたから。替わりに古い方は男用ね。分けたのよ。だって待つ間に私たちの喘ぎ声が聞こえてきたら嫌でしょう」
「お元気そうで何より」
 途端にアスュキグの顔は既に心なし紅潮し始めている。見て取ったアソイグは面白そうにその様子を眺めていたものの、それ以上に何を言うでなかった。
「それで、本題なんだが」
 アスュキグは事のあらまし、つまり自分の神殿へ届くようになった新しい種類の祈願状とそれに対するモトヴェーグの提案について語って聞かせた。アソイグは最初こそ真剣な表情だったもののすぐに砕けた態度へと変わり、最後にアスュキグとモトヴェーグが言い合いをするくだりになると殆ど笑いを堪きれなくなっていた。
「いいんじゃないの」
「はあ?」
 聞き終わったアソイグの口から飛び出してきた言葉に、アスュキグは目を丸くして調子外れの声を上げる。
「よくないだろ。お前の持ち分と大分重複するぞ。結構な痛手じゃないのか」
「と言っても色恋は本分でもないもの。これでも一応、私は美の女神なのよ」
「本心か。仮にも神の一柱が」
「だってね、生娘って何かと面倒だから。貴女が対応してくれるなら万々歳だわ」
 そこで唖然として言葉が続かないアスュキグを見て取るや、アソイグは机の上に投げ出されていたその手に自分の手を添えて握った。
「大丈夫。最初は慣れないと思うけど生娘――いや、乙女がどんなことを空想しているのかは貴女の方が得手でしょう。何かの際は私も相談に乗ってあげるから、ね」
「いや、ちょっと待ってくれ」
「心配しなくていいのよ。実は私のところにもね、時たま家畜の繁殖や果樹の豊作についての祈願まで入ってくることがあるの。本当はアカトゥイグちゃんの担当だけど、確かに愛と美のなす業に違いないからこっそり引き受けてて」
「だからそうじゃなくて」
 不意に手を握るアソイグの力が強くなる。
「大丈夫。貴女なら出来るわ。ああ、でもどうやって男の気を引くかは分からないでしょう。だから後でそういう手練手管を纏めたメモでも送ってあげるから。何なら自分で使ったっていいのよ。乙女である分には構わないんでしょう?」
「違う、えっと……」
 アスュキグの声に滲み出る焦燥は却ってアソイグに宥められるごとに色濃くなり、最初こそ繕っていた余裕の態度も次第に薄くなっていく。さすがにアソイグもこの辺りで認めたのかその一瞬だけは気遣わしげな表情になり、続けて大きく口角を釣り上げた。
「あ、恥ずかしいの?」
「うるさい!」
「それはいけないわね。色恋なんて懸想が重なったときはまさに戦そのものよ。剣を使った決闘の勝利祈願は受けるのに、言葉を使った決闘の勝利祈願は受けないの?」
 反射的にアスュキグが口籠ってしまうと、アソイグはその手に絡めた指を一本ずつほどいていく。それで緊張の糸が切れたのか、アスュキグは力なく椅子に体重を預けた。
「まあ冗談はこのくらいにして」
「冗談って言ってもな」
「限度いっぱいのつもりだけど外したかしら? 真面目に話すと、余り祈願を無視し続けるのもよくないから容れるにせよ拒むにせよ、貴女のお気に入りの――モトヴェーグって人間の子だっけ、その子としっかり話し合って決めなさいな」
 今日初めて懇々とした口調でアソイグがそう諭すのを、アスュキグも珍しく深く目蓋を落として素直に頷きながら聞いていた。
「そう言えばそのモトヴェーグなんだが」
 アソイグの声が止んでから暫くして、アスュキグが不意にそう呟く。
「何かしら」
「私じゃ分からないから聞くんだぞ、それだけだ」
 途端にアスュキグの頬にきつい朱がさす。
「女同士の場合って、乙女のままになるのか?」
「……難しい質問ね」
 アソイグは解いた手を自分の口へと添えて首を傾げる。そうしてアスュキグの懇願するような視線を受けながら、いかにも厳かな様子を作って息を吸い込んだ。
「貴女も交じわってみれば分かるんじゃないかしら」
 その次の刹那、アソイグの右頬にアスュキグの拳が容赦なく叩き込まれたのは言うまでもない。



   3

 エニタイアーのアカトゥイグ神殿、その神域の庭園には南の外れに石造りのこぢんまりとした東屋が佇んでいる。そこに腰掛けている二つの影は他ならぬ軍神アスュキグと豊穣神アカトゥイグで、すぐ外には神殿の花守りロマナーグも僅かな距離を取って控えていた。
「この神殿にこんな場所があったとはな」
「そうね。普段は余り使わないから」
 二人の間に置かれた果物の盛り合わせから瑞々しい桃を取り上げながらアカトゥイグが微笑むと、同じく梨を手に持っていたアスュキグは逆に小さく唇を歪めた。
「わざわざ使うってことは何かあるんだろ」
「ご明察。ちょっと協力してほしいことが、ね」
 アカトゥイグは果物の横に置いてあった皮剥き器を桃にあてがい、撫でるようにその上を滑らせていく。
「ラヴィユファーグ家の当代から国力増強の祈願が来てるんだけど、今回はちょっと頂けなくて」
「何でだよ」
「貴女は知らないかもしれないけど、ここ数十年でラヴィユファーグ領内の農業技術は格段に進歩したの。けどね、それは大地の力を効率的に吸い上げることができるようになったって意味だから――そろそろ無理が来てる」
 アスュキグは梨の横っ腹にかじり付いた。それを窘める余力もアカトゥイグにはない。
「つまりだ。この上お前の力で収穫を増やしたら力を吸い尽くしてどうしようもなくなると」
「大体はそう。本当はもう少し複雑だけどね」
「だったらそう説明して断りゃいいじゃないか」
 一通り桃の皮を剥き終わったアカトゥイグは一旦それを取り皿に下ろすと、皮剥き器を小刀に持ち換えて皿の上で程良い大きさに切り分けていく。
「そうも行かないのが困ったところで」
 伏し目がちにアカトゥイグは小刀を置く。
「マカテュイ全土から腕に覚えのある女武者ばかりを選りすぐっている貴女の神殿と違って、うちの神官はラヴィユファーグ領の住民が半分以上を占めているの。だから当代でも随分強硬な手段が取れるってこと」
「……脅しか」
「ラヴィユファーグ領内の信仰禁止だけなら痛手には違いないけど何とかなる。神殿の規模は諦めるとしてね。でも神殿への交通を遮断されたら一巻の終わり」
 そう言ってアカトゥイグは桃を一切れ口に含んだ。豊穣神の神域に産する桃が甘くないはずがない。しかし無言で桃を咀嚼するアカトゥイグの顔は全く晴れなかった。
「だから万軍率いるアスュキグ、貴女に聞くんだけど」
 不意に居住まいを正したアカトゥイグに釣られて、梨をかじっていたアスュキグも自然と背筋を伸ばす。
「ラヴィユファーグ領の大きさは中途半端。でも軍は領不相応に巨大なの。方法は二つ。領土を増やすか、軍を削るか。どのみち貴女の協力が要る」
「報酬は」
「友誼に免じて――とは勿論言わない。クールタ市とミュカイ市の豊作を、大地の力を消耗させない方法で五十年間保証する。これでどうかしら」
 張りつめた顔は今にも曇りそうで、しかし決して最後の一線は崩さない。アスュキグは溜息をついて、暫く東屋の窓から神域の庭園を眺めた。かつは青々とした草が茂り、かつは黄金色の畑が広がっている。
「クールタ市は兵士の待遇が悪化してるから抜いてくれ。かわりにヒニース市を入れてほしい」
 アカトゥイグの顔に安堵の色が浮かぶ。
「いいけど、却って待遇が悪化するんじゃないの」
「なに、その事で軍神アスュキグの怒りを買ったって噂を流せばいいさ。そのくらいの利用はしてもいいだろ」
 一拍の間を置いてからアカトゥイグは頷く。にやりと笑うアスュキグに対して笑みを返す余裕まであった。
「でもいいのか、あいつの前でこんな話をして」
 それに小首を傾げるアカトゥイグに対し、アスュキグは視線で東屋の入り口を指して答えた。
「ああ、ロマナーグのこと」
 ぼそりとアカトゥイグが呟く。
「私がただの花守りをここまで重用すると思う?」
「……いや」
「それに彼は『海側』の出身なの。今はラヴィユファーグ家に膝を屈しているけど。ついでに彼の父親は先の戦争でラヴィユファーグ軍に殺された」
 東屋の外からは何の反応もない。
「そうか」
 アスュキグは再び手に持っていた梨をかじった。



「アスュキグ様!」
 半ば執務室の扉を蹴り飛ばすようにして入ってきたモトヴェーグは、その勢いに任せて一息にアスュキグの机まで詰め寄ると右手に持った紙を突き出した。
「ああ、神託の草稿だな。さっき渡したやつ」
「それはそうですが、なぜですか。ラヴィユファーグ家の祈願を容れれば、容易く質も量も申し分ない奉献品が手に入るんですよ。これでガジミーの連合軍を支援しても手間ばかりかかって、ろくな奉献品も期待できません」
「だろうな」
 素っ気なくいなしてモトヴェーグの眼前で手をひらつかせる。それでモトヴェーグの方もふと我に返ったらしく、神託の草稿を腕の中に戻して露骨に頬を膨らませた。
「とは言ってもだ、時には強きを挫き弱きを助けるという選択だって必要になる。実際ここ十数年のラヴィユファーグは拡大の速度が異例だ。楽だからってそっちの肩ばかり持ってみろ。『軍神アスュキグはラヴィユファーグに贔屓する』なんて変な噂も立ちかねない」
「……それもそうですが」
「或いはだ。もしマカテュイの全土がどっか一つの勢力に統一されでもしたら、反乱か侵略でもない限り戦争なんてなくなるんだぞ。それこそ私たちはお払い箱だ」
 モトヴェーグは口を噤む。それを見てアスュキグは体を椅子の背に預けた。微かに椅子の軋む音がする。部屋の中に吹き込むひんやりとした空気。
「後は個人的な事情もある」
「連合軍の中にアソイグ様の愛人でもいらっしゃるんですか。恋愛相談に付き合う対価として」
「あいつがそんな一人の男にくどくど拘るような性格だと思うか?」
 言い捨ててアスュキグは苦々しい顔付きになる。
「でも実際いそうだよな……。アソイグだし。それに最近あいつ気に入ったら見境ないし」
「武勇の加護でもしておくべきでしょうか」
「いや。どうせガジミー側にいるならラヴィユファーグ側にもいるだろ。気にすることはない。手出しが早い分だけ飽きるのも早いからな、あいつは」
 それから暫く室内は静寂に包まれた。アスュキグは目を瞑って何やら考え事に耽っているようだった。モトヴェーグは再び手元の紙を読み返してから、小声でアスュキグの言葉を何度か復唱して頷いた。
「今回は思慮が浅く申し訳ありませんでした」
「気にするなよ、別にお前を責めてた訳じゃない。判断としては実に真っ当だからな」
「有難いお言葉です。では急ぎ巫女たちに指示を出しますので、何かアスュキグ様の方から他に用命がなければ一度下がらせて頂きたいと」
 背筋を伸ばしたモトヴェーグに、アスュキグは机の上に置いてあった紙を摘んで見せた。紙には無骨な文字で十行程の走り書きが記してある。
「ならさっき書いた神託が一つあるから、ついでに持っていってくれ」
 アスュキグからその紙を受け取ったモトヴェーグは軽く内容に目を通し、自分の持ってきた紙と重ねて小脇に抱えた。その表情には大輪の笑みが花開いている。
「では失礼します。残りの分も『がんばって』下さいね、アスュキグ様?」
「……手伝う気は全くないんだな」
「何をおっしゃるんですか! アスュキグ様の言葉だからこそ『神託』なんですよ?」
 そこで会話に僅かな間が空く。
「モトヴェーグ。お前、私の反応見て楽しんでるだろ」
「まさか。そんな畏れ多いこと」
 言うが早いか踵を返してモトヴェーグが部屋を出ていくと、アスュキグは椅子に凭れたままで口元を歪める。そうして無造作に後ろを振り返ると、窓の外にある空へ向けて鋭い視線を突き刺した。
「で、お前は何しに来たんだ」
 室内に朗として響く声。途端に辺りの空気が歪む。次の瞬間、そこには幾重にも纏った薄絹を着崩して質素な太い窓枠に腰掛ける美神アソイグの姿があった。
「それは勿論、万軍率いる清らかな乙女が『がんばって』いるところを見物しによ」
「だったらどう映ったのさ」
「素晴らしい奮戦ぶり――とは言えないわね。メモは読まなかったの?」
 アソイグは婉然と床に降りてアスュキグの執務机に歩み寄ると、丁度その片隅に置かれていた一枚の紙を取り上げた。朴訥とした筆跡で数行の文が記されている。
「『隔てる川の深ければ広き橋を渡るなかれ。必ず敵兵の備えあり。寧ろ早瀬を駆けて側面を撃て』ってねえ、これじゃただの兵法指南じゃない!」
「いや、それはな。調べさせたら懸想の相手は町で名高い美男子だって言うんだ」
「分かるわよ! でも違うでしょう。確かに私は言ったかもしれない。恋は言葉の戦だと。でも恋愛指南は兵法指南と全く違うものよ!」
 苛立ちを隠せず大声で喝破するアソイグに、椅子に座ったままのアスュキグは小首を傾げて応える。
「やっぱりダメか」
 アソイグは暫く眉を釣り上げたままで草稿の紙を睨んでいた。続けて今度は紙をアスュキグに突き返すと、両腕を組んで口元を歪めながら部屋の片隅を逍遙する。そうして最後に眉を顰めて小さく頷くと、鷹揚にアスュキグの方へと振り返って静かに薄桃色の口を開いた。
「……いえ、あなたらしいと言えばあなたらしいわ。あの子がいいと思うなら大丈夫なんでしょう」
 屈託のない笑顔がアスュキグの顔に浮かぶ。
「なら良かった」
「ところで」
 間髪を置かずアソイグの声が続く。
「話があるの。人払いの出来る場所はある?」
 ふと開け放しになった窓から再び涼風が吹き込み、今はその側まで戻ってきているアソイグの髪を解していった。視線は微かにも動じない。やがて幾筋もの糸と靡いていた髪が元の通りに纏まるとき、アスュキグは既に頬を引き締めて無言で首肯していた。



 石造りの古びた小さな扉を開くと、僅かに間を置いて中から湿った空気が滲み出してくる。アスュキグが持っていた松明を掲げて足を踏み入れたのに続いて、見るからに不愉快そうなアソイグもその空間に体を滑り込また。
「人払いが好きだな、アカトゥイグもお前も」
 神殿では比較的狭い部屋だった。人間が十人も入れば幾分か窮屈になる。扉の対面に据え付けてある台座へと足をかけて、アスュキグは持っていた松明を壁の掛け具に吊り下げるや緩慢な所作で振り返る。
「いいのか、そんなに私を信用して」
「ええ。私の話は信用というより忠告ですもの。でも先に一つだけ確認していいかしら?」
「何だよ、白々しい」
 松明が壁の積み石を爛々と照らし出す中に、アカトゥイグのしなやかな筋肉とアソイグの妖しげな肢体がほの赤い光を孕んで浮かび上がる。二人の視線が交錯して、離れる間に短からぬ沈黙があった。
「そのアカトゥイグちゃんの件って、この前あなたが出した『天罰』の神託と何か関係があるのかしら?」
「……あるとも言えるし、ないとも言えるな。まあ殆どはないと思っていい。で、それがどうした?」
「私の思い過ごしだったら別に構わないの。では本題ね。何から話そうかしら。あなたの可愛い付き人さんのことが個人的には一番面白いのだけれど」
 松明の粗放な光もアソイグの頬に弾かれると、柔らかな乳白色の光沢を帯びているように見える。それが表情の僅かな変化にも応じて、ころころとその形を変えた。
「面白いとは不躾だな」
「真実じゃない。文武に秀でたる乙女しかお勤めを許されない峻険な岩山の神殿。そこで繰り広げられる禁断の恋。優秀な吟遊詩人にでも教えたら三日で立派な物語になって返って来そうだわ」
 滑りのよい口調で続けるアソイグを横目にして、アスュキグは軽く唇を噛んだ。その場で数歩足踏みをする。
「実際、私も悩んではいるんだ。あいつら二人――侍従長のモトヴェーグと縫製長のイトンキュグだな、ひょっとしたら私が感付かなかっただけで、他の奴らには知れ渡って
いるのかもしれない」
「確かにねえ」
「で、仮にあいつら二人がこの神殿に留まったとしても、他の奴らは婚姻なり何なりで去っていくわけだ。その時にいかがわしい噂が広まるのは、私としても嬉しくない」
 腕組みをして、アスュキグは冷たい石の壁に凭れかかった。厚手の質素な衣服がよれて、粗い皺ができる。
「噂が広まるかどうかはともかくとして」
 アソイグは薄衣の下で小さく体を震わせた。
「あなたは前に問うたわよね。女同士の場合はなおも乙女なのか否かと」
「この神殿の規則だからな、それが」
「一応、私が思うのは――」
 そこでアソイグは視線を松明の方へと遊ばせた。赤みの強い炎は煌々と光を放ち続け、石造りの部屋に侵略的な明るさを染み渡らせていく。
「それは乙女という言葉で何を指すかによるの。男を知らない娘ということかしら。まだ婚姻を結んでいないということかしら。それとも何か、『乙女らしさ』というものがあるとあなたは思っている?」
「考えたこともなかったな」
「なら考えなさい。でも少なくとも今回の件では、その侍従長と縫製長が乙女かどうかは関係ない。要は二人の恋路をあなたが許すかという問題よ」
 アスュキグは壁に体重を預けたままで大儀そうに目を閉じる。
「だけども乙女でなければこの神殿にはいられない。実際そういう規則なんだ。一朝一夕に変えてしまえるような、容易い代物じゃなくてな」
「あのねえ、それと乙女であればこの神殿に奉仕者として居座れるかは全く別の話でしょう。あなたは単に不品行でその二人を罰することも出来る」
「……それはそうなんだが」
 松明の火の粉が爆ぜる、小気味のいい音が室内にこだまする。
「泥臭い話になるが、神殿の運営としても余り長々と同じ人間に重職を務めさせたくはないんだ」
「真っ当ね」
「だからそのうち何かの名誉職に移したりとか、定年を設けたりという措置は取ろうかと思っていた」
 小さく溜め息。やがてアスュキグは目蓋を上げて狩人のような視線になり、壁から背を離して立つ。その拍子にやや平衡を崩して、小さく足踏みをした。
「少し、考えさせてくれ」
「しっかりなさい。『万軍率いる清らかな乙女』アスュキグ。その名に『乙女』を持つ神が乙女の有りように悩んでどうするの?」
 口元を歪めて皮肉ぎみに問うアソイグに、アスュキグは薄ら笑みを浮かべて答えない。籠ったような舌打ちの音がして、アソイグはかっと目を見開く。
「それにしてもこの部屋は湿っぽいわね! やけに暗くて気味が悪いし。確かに音は漏れないだろうけど。元々何に使っていたのよ」
「拷問室だ。もっとも最近は百年近く使ってないけどな」
 とっさにアソイグは顔面蒼白になる。松明の下にある石の台座に目をやると、陰になった所々にあたかも真っ黒な染みが浮かんでいるような感覚に囚われる。
「まあ、血で血を洗うような戦争も起こってないし」
「あなたのその無神経さは間違いなく乙女よ。それだけは私が保証するわ」
 何の悪びれた様子もないアスュキグに、アソイグは正面から詰る言葉を持たなかった。



 地上へと続く長い階段をゆく。輝く松明を掲げて進むアスュキグに従いながら、未だに虫唾の走ったような表情が抜けきらないアソイグがおもむろに口を開いた。
「私の個人的な意見としては」
 アスュキグは振り返らない。アソイグもそれを苦にした様子もなく後に続く。
「あからさまな『天罰』というやり方は望ましくないと思うの。反感を生むだけよ。都市ごと離反されでもしたら洒落にならないわ」
「離反ねえ。確かにラヴィユファーグに宗旨替えされると困るな。丁度酷い目に遭わせたばかりだし」
「いえ、例えばその西南に住まうイスコの民に」
 立ち止まりこそしなかったものの、アスュキグは僅かに首を傾げる。
「ないな。あれは船を操る民だ。クールタなんて内陸の都市を取っても旨みがない」
「彼らだけならね。ご存じ? 彼らはいま次の指導者を巡って水面下で争っている。そうして西側の勢力はタマイという民族と手を組んだ……」
 アソイグは滑らかな口調で語り続ける。
「厄介な連中よ。鉄の兵器を多量に保持している。東側は当然いずれ私たちを頼るでしょうね。さてその時にマカテュイとイスコを隔てる関門、管理しているのはどこの都市だったかしら?」
 階段の石を踏むアスュキグの足音が、微かに強くなった。
「どこから聞いた、そこまで具体的な話を」
「いやねえ、寝物語に決まってるでしょう? それとも清らかな乙女様は、内心そういう方面にも興味津々で?」
 おどけたように忍び笑いするアソイグをよそに、松明の光を受けたアスュキグの表情は硬かった。唇が横に強く引き結ばれる。
「取り敢えず感謝するよ。早速クールタに諜報を入れることにする」
「ありがとう。でも勘違いしないでね。あなたとアカトゥイグちゃんが仲良くするのは、私たちにとって凄くいいことなのよ。私たち三柱は協力しないといけないもの」
「今でも十分やっていると思うが」
「いいえ、まだよ」
 鋭さを持った声で素早く、アソイグは言い放つ。
「もっと根源的に、もっと根本的に……。これからのマカテュイには『私たち』が必要なの。『私たち』という一つの存在が」
 石造りの階段は長く、出口は遠く見えない。
 そこを一本の松明を頼りに、二柱の女神が無言で地上へと向かっている。
 やがてマカテュイの民が「大戦禍」と呼ぶ争いの、およそ十年前のことであった。

マカテュイの三女神(稗貫依)

お初にお目にかかります。稗貫です。
普段は節操なく色々なジャンルの短編を書いていますが、折角ウェブに掲載するのだからということで久々に長めの作品を書いてみようと思い立ちました。ついでに久々のファンタジーです。そこはかとなく大河風。
第一部こと日常編も完結して物語が動き出すところですが、諸事情により暫く休載(あるいは不定期連載)とさせて頂きます。大変申し訳ありません。

マカテュイの三女神(稗貫依)

マカテュイの地に信仰を受ける軍神アスュキグ、美神アソイグ、豊穣神アカトゥイグの三柱。彼女らの長閑な日常を描く第一部まで(休載中)。

  • 小説
  • 短編
  • ファンタジー
  • 全年齢対象
更新日
登録日
2012-11-09

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著作権法内での利用のみを許可します。

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